goo blog サービス終了のお知らせ 

東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

一乗谷 越前朝倉氏の滅亡

2021-10-20 | 歴史散歩




一乗谷は越前朝倉氏の居城というか屋敷があった
朝倉義景は織田軍に攻められ天正元年(1573年)に滅亡した
一乗谷の朝倉義景の屋敷とその周辺はかつては京都より京都らしいと権勢を誇ったという

一乗谷は両側面が山で川沿いは細長い平らな土地である
谷の前後を固めれば防御は容易
ただし軍が劣勢になれば陣地の優位性を失うのは仕方がない





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北ノ庄城趾 柴田神社

2021-10-18 | 歴史散歩






北ノ庄は名前は有名で聞いたことがあるが、
現在の福井市内にあるとは知らなかった。
福井城と北ノ庄城跡は500mも離れていない。
近接していて目と鼻の先だ。

北ノ庄城跡には柴田神社がある
柴田勝家はここで自害した
お市の方も共に果てた
しかし茶々、初、お江の三姉妹は逃れた

驚いたことに北ノ庄城趾に柴田勝家の第六男、六之助の名前があった。

私事で恐縮だが、小生のカミさんは柴田勝家の第六男の系統で
北ノ庄で敗走したのち、上杉に助けられ
米沢に行った後、仙台に来たという。
上杉は米沢に移封され、伊達は米沢から岩出山経由で仙台に定着している。
仙台には柴田の家系図もあるらしい。

柴田神社の資料館の担当者によると肖像画は名古屋の子孫が所持していたとのこと。
画家の平山郁夫さんも柴田の家系であることを名乗り出て、絵画を寄贈されたという。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城と兼六園

2021-10-08 | 歴史散歩


金沢は加賀前田百万石の城下町

入社後間もないころ、金沢で開催された日本伝熱シンポジウムという伝熱流動を主体とするシンポジウムに参加したことがある。機械、化学、電気、原子力、物性など学会横断型のシンポジウムで、自由な雰囲気があり若い頃にはよく参加し発表もした。

そのころ金沢大学は金沢城趾の中にあったような気がする。現在、同学は郊外に移転したようだ。

金沢には香林坊という繁華街がある。仙台でいえば国分町、札幌ではすすき野にあたる。記憶に残っているのはシンポジウムの懇親会あとの流れの2次会ということで、同シンポジウムで重鎮といわれた著名な先生方のあとに誘われてついて行き、その談笑の中にかしこまって参加していたことだ。機知に富み自由な会話のやりとりに心地よい酔いが加わった。その中に後に同学の学長になられた先生も参加していたような記憶がある。

金沢城と兼六園は、当時も行ったはずだが鮮明な記憶が無い。近年は財源を投入したようで見違えるように立派になっていた。

仙台ももう少し史跡を充実させた方がいいですね。
頑張れ伊達62万石!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穂高から皇居まで

2021-09-14 | 歴史散歩


前穂北尾根残照


前線通過後の夕刻 穂高岳山荘にて


皇居外苑 楠木正成像

「日本のいちばん長い日 」はポツダム宣言受諾決定1945年8月14日から8月15日正午の天皇陛下の玉音放送に至る皇居内のクーデター未遂事件である。
最近、尊敬するA先生の岡本喜八監督「日本のいちばん長い日 」1967年東宝版に関する映画評を拝見し、ボクは当時の封切りを映画館で見たことを思い出した。それ以来鑑賞していないが、三船敏郎、 笠智衆、中丸忠雄、黑沢年男などオールスターキャストだった。

昨日は奥穂高岳の穂高岳山荘から上高地まで標高差1,500m片道2万8千歩、今日は有楽町から楠木正成像、桜田門外、二重橋を回って仙台に帰る予定だった。皇居の桔梗門まで歩いてきたところ少し人がいて、警備の方に尋ねてみると今日は皇居内の一般公開であることを偶然に知った。なんたる幸運か!

そこで皇居内1時間の見学コースを堪能した。見学の後、皇居東御苑の江戸城天守台跡、北の丸公園の旧近衛師団司令部あとを早足で回った。

3日間の上高地穂高と今日の皇居見学の合計4日間で、自分のこと、家族のこと、日本の過去と将来のことなどを考えるいい機会だった。


皇居内の富士見櫓


宮内庁庁舎

長和殿と宮殿東庭
20年程前に新年の一般参賀で拝見したことを思い出した

二重橋と東京駅方面を望む


伏見櫓

皇居東御苑の江戸城天守台あと


北の丸公園の旧近衛師団司令部

旧近衛師団司令部庁舎


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普天間から辺野古へ

2021-09-06 | 歴史散歩


対岸より辺野古基地建設現場を望む


基地周辺には年輩の反対者はいなかった
(昨年のGOTO沖縄キャンペーン)


沖縄決戦が終了したのは76年前
1945年昭和20年
広島長崎の原爆も76年前
南方玉砕や東京大空襲など空爆も1945年に終了
日本は敗戦国になった
300万人以上が亡くなった
沖縄奄美樺太千島は占領された

奄美沖縄は米国から日本に返還された
千島列島の択捉国後などの北方四島は未だロシアに占領されたままだ
敗戦とは全てを失うこと

沖縄が返還されたことは奇跡に近い
現在はチベット・ウイグル・香港の悲惨さがある
台湾は必死になって防衛している

国を守ることを真剣に考え実行すること
日本も危ない



辺野古漁港から辺野古基地建設現場を望む



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖国復帰後49年

2021-05-16 | 歴史散歩


沖縄本島北端 辺戸岬
鹿児島県与論島は北東約23km
見通しの良い晴れた日には与論島が見えるという 
日本祖国復帰は悲願だった

沖縄が日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日
昨日5月15日は復帰後49年になる
敗戦が1945年なので沖縄の占領が27年間続いたことになる

正確に言えば沖縄中西部に米軍上陸が1945年4月1日
米軍は沖縄本島北端の辺戸岬に4月13日到達
南端の喜屋武岬に6月21日に到達
6月23日沖縄守備軍の指揮系統喪失
8月15日 日本が敗戦受諾
沖縄でのゲリラ的反抗は9月7日に終結

その後に米軍の占領が続き日本に復帰したのが27年後
その間は日本に復帰することが悲願だった







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解散命令

2021-05-02 | 歴史散歩


沖縄中西部の読谷村と嘉手納、北谷付近に米軍が上陸したのは1945年4月1日。
そこを拠点に米軍は南北に侵攻し、那覇付近に迫り南部に追い詰められた日本軍がさらに南端へ撤退を開始したのが5月25日。
ひめゆり学徒に解散命令が出たのが6月18日。(訂正)
牛島中将らが自決し指揮系統喪失したのが6月23日。

現在、沖縄平和祈念公園には沖縄ほか各都道府県、台湾、参加部隊等の慰霊碑がある。全国からおびただしい兵士らが沖縄戦に参加し落命し負傷している。もちろん自分が住んだ県の慰霊碑もある。

深く鎮魂の祈りを捧げる。

次に必要なのは現在置かれている状況で自分たちの国土を守り、次の時代の世代を守る行動をとることだ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝の散歩 捕虜収容所

2021-04-26 | 歴史散歩
朝の散歩で日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑に遭遇した。

1945年昭和20年4月1日に沖縄中西部の読谷村付近に米軍が上陸した。
そこを拠点に米軍は南北に侵攻し日本軍を追い詰めた。
6月23日に日本の沖縄守備軍牛島中将と参謀長の中将が自決し指揮系統が喪失した。
その後も日本軍の兵士はゲリラ的に反抗した。
最終的には終戦の8月15日から3週間あまり後の9月7日に終結した。





沖縄県外出身の正規兵の死者は約65,000人、沖縄出身者の兵士と軍属が約28,000人、沖縄民間人94,000人が死亡している。
日本軍の捕虜は約16,000人で金武町の屋嘉(やか)捕虜収容所ほか計8か所に収容され、その後一部の人はハワイやサンフランシスコに移送された。
 
沖縄県の人口は当時45万人ほどで、沖縄戦で生き残った民間人35万人のうち約20万人は米軍が上陸した4月1日以降に徐々に収容され、本島12か所、本島以外5か所の計17か所に収容された。 

(Wikipediaより)

現在、近くには沖縄電力の火力発電所がある。
総出力35.3万kW
1号機(長期停止中)重油炊き12.5万kW
2号機 重油炊き12.5万kW
1号ガスタービン 灯油炊き10.3万kW

また、宜野座にはタイガースのキャンプ地がある。 
戦争と平和は同じ大地にある。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米軍沖縄上陸4月1日

2021-04-10 | 歴史散歩
 沖縄本島に米軍が上陸したのは4月1日1945年(昭和20年)のことだ。その時期には日本軍は制空権と制海権ともに既に失っており、艦砲射撃による膨大な砲撃を受けた。
 
 4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部読谷村付近に、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の大口径の砲弾4万4千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発が撃ち込まれた。(Wikipedia)

 4月1日に上陸後は中部を起点にして北方と南方に進撃し、北方は辺戸岬に4月13日、南方は6月21日にひめゆりの塔がある喜屋武岬の地域に到達している。この間3ヶ月近くわたり凄惨な戦闘があった。
戦死者は軍民あわせて20万人を超した。沖縄住民の死者は9万4千人になった。沖縄県の人口は当時45万人ほどなので4から5人に1人が亡くなったことになる。

 戦後の教育では近代の日本史にはほとんど触れられず、広島、長崎は知っているものの沖縄戦や東京大空襲、地方都市や軍事施設の空襲についての認識は高くない。母親は大阪大空襲で亡くなった自身の祖父のことを、忘れたころに沈んだように遠くを見て語ったことを記憶している。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧石器時代と岩宿遺跡

2021-03-08 | 歴史散歩
岩宿遺跡と岩宿博物館は群馬県みどり市 にある。最寄りは両毛線JR岩宿駅。日本で最初に旧石器時代の石器が1946年に岩宿で発見された。

日本に旧石器時代の遺跡が確認されたのは75年前、つい最近のことなのだ。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする