すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ビミョーな人」にならないために

2015年03月11日 | 読書
 【2015読了】29冊目 ★★★
 『「ビミョーな人」とつきあう技術』(小倉 広  アスコムBOOKS)

 好きか嫌いか、またはどう思うなどと問われ、小学生でも「ビミョー」と返答するようになったのはいつ頃からだろうか。
 もう十数年経つと思う。また、今はそんな答え方はしないのだろうか。

 「細かい所に複雑な意味や味がある」(広辞苑)という意味をもとに、「こうと断定できない」「どちらとも言えない」を表す使い方になったと考えられる。

 これが「ビミョーな人」となった場合、どういう存在を表すか。
 一般的には、「いい・悪い」「力がある・ない」「美・醜」などといった判断を迫られる場合に形容されるのだろうか。
 はっきりはわからない。


 この著では、カバー表紙裏にきちんと定義づけしてある。親切だ。配慮が行き届いていると思った。少し長いが引用する。

 びみょーな・ひと【ビミョーな人】相手の期待にこたえようとしながらも、その期待とはズレた頑張りをしてしまう人のこと。一見エネルギーに満ちているが、ことごとくズレている場合が多く、そりズレは何がしかのエゴや身勝手な利己主義に端を発している。本人に自覚はなく、自分は「相手のために頑張っている、教えている」と信じている場合が多い。「あの人、―――だよね」

 なるほど。
 いわゆる「テンネン」とは違うようだ。また「ズレている人」に近い気もするが、そうも言いきれず、ポイントは「エゴや身勝手な利己主義」の部分なのかなと見当をつけながら、中身を読んでいくことにする。


 実に読みやすい。
 エピソードも豊富でわかりやすい。
 そして、「『ビミョーな人』とのつきあい方」について書かれてはいるが、仕事やコミュニケーションの本質を明確に描き出している本だと言っていい。
 第2章「一流のコピー取りと三流のコピー取りの違い」は、実に明快だ。
 ビジネスに限らず、職業に就いている者であれば、全てに通ずる言葉がこの一節だと思う。

 あらゆる作業の先に人の顔がある。お客様の感情がある。それをわかった時、初めて人は一人前の仕事ができるようになるのだ。


 学校という単一の業務の現場であったが、様々な環境、実状の仕事場を回り、たくさんの人と接してきた。
 その中で「仕事ができる」と思った方々の共通項は、小さな仕事であっても手抜きをせずに取り組む、パッと行う…ことである。
 それは直接相手があることの場合も、そうでない一見事務仕事のようなものであっても同じだったと思う。

 結局のところは、その向こうに、その周りに「人」はいる。「人の顔」がある。
 そこを想像できない人を「ビミョーな人」というのである。

 自分もひょっとしたらと考えながら、日々の暮らしでいい習慣付けをするしかないだろう。
 そのために、心に留めたい言葉を二つだけ記しておく。
 その境地には遠いつつと思いながら…

 神様は同じ宿題を出し続ける

 賢い人は「陰徳」を積む


彼女の命日

2015年03月10日 | 雑記帳
 今日3月10日は、かの童謡詩人金子みすゞの命日である。

 90年だったと思うが、全国へき地教育研究会大会があり山口県に行ったとき、売り出し?中の「金子みすゞ」に出合ったことがあった。

 もちろんその「出合い」とは当人ではなく、探り当てたと言っていいだろう矢崎節夫氏の講演を聴いたことだ。

 その数年後、教科書に掲載されることになる「わたしと小鳥とすずと」が示した見方や考え方は、当時の社会が求めていたことに合致していたのかもしれない。

 流行りもの好きの私は、山口から帰ったらすぐその詩を教材にしてPTA授業参観で取り上げたりもした。我ながら単純。
 ただ、いわゆる「個性化」という方向へまっしぐらに向かったつもりはない。本当に大事なことは何か、何を根本として身につけさせるべきか、将来的にどう結びつくのか…そんなことを一貫して考えてきたようにおもう。

 このブログにも2005年に、上條晴夫氏の言葉を取り上げて、振り返ったりしている。


 さて、それはともかく、金子みすゞの作品そのものには、やはり強い印象を持った。
 これが童謡なのか、という感覚だった。

 「わたしと小鳥とすずと」が有名になり、様々な作品が知られるようになったことで、一つのブームを作りだしたと思う。
 それはそれで悪いことではない。
 彼女の限られた人生の中で残された作品はけして多くはない。
 しかしブームと関わりなく「金子みすゞ」に共感できるという読者は、一定数は必ず存在すると思う。

 小さいもの、弱いものへの眼差し。

 見えていることだけにしばられず、見えないものをさぐり続けようとする意志


 こう書くと、昨今の世相やこの国の社会情勢で失われつつあることを見事なまでに指摘しているように感ずる。

 「大漁」「星とたんぽぽ」…好きな詩はいくつかあるが、この詩にある感覚は時々思い出すようにしているという意味で、マイベストはこれだろうか。


   つもった雪 

 上の雪
 さむかろな。
 つめたい月がさしていて。
 
 下の雪
 重かろな。
 何百人ものせていて。

 中の雪
 さみしかろな。
 空も地面(じべた)もみえないで。



 合掌。

生き続けたコトバのありがたさ

2015年03月09日 | 雑記帳
 昨年まで通勤時に聴いていた朝のFMで、時々「ありがとう、先生!」というコーナーを聴いていた。教員にお馴染み?J生命の提供である。冊子になって届けられたことがあり、机の隅に眠っていたままだったが、先日、誕生日記念(笑)に整理をしたら、三冊も出てきた。悪い癖で整理中断、開いて読みふける。


 「先生のコトバ集」と名づけられた小冊子のvol2からvol4まである。ざっと読んでみると、ユニークなコトバだけではなく、既に有名になっているコトバ、どこかで聞いたようなコトバ、ごく平凡なコトバが混在している。つまり、コトバが人に響くには、内容はもちろんだが「場」や「関係性」が決定的だとわかる。


 パターン別としては、何度も繰り返されたことによって沁みついたコトバ、もともと強い関係性があり、最後に残されたゆえに刻まれたコトバ、そして今までとは大きく異なるニュアンスを感じたので印象深いコトバ…となるだろうか。しかし肝心なのは、それらの短いコトバが投稿者の心に今も生き続けていること。


 教員ならばそんなことがあればいいなあとぼんやり思う時がないだろうか。ただし意識して言ったコトバなどは、その作為性によって軽さを持ってしまうだろうなあ。まあ、私などは軽さが持ち味なので「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の精神で、格好良さそうな弾をどんどん撃ちこむか…ふしだらなことを考えている。


 結構、笑えるというか、ツカエそうな、コトバを三つほど紹介する。

 「IQより愛嬌」

 「ため息よりも深呼吸」

 「腐ったミカンだって、腐っていないところは食える」


最後に溶け出すから心地よい

2015年03月08日 | 雑記帳
 『pen』の3月号が、「最後に聴きたい歌。」という特集をしていた。

 40人の選曲者がそれぞれ、何かの最後(一日の終わりや、仕事明けとか、本当の最期とか)で聴きたいと思う曲やアルバムを挙げている。
 ジャンルは様々で、クラッシックやジャズには疎い自分には???のものもあった。
 選曲者の人選がpenらしくアーティストと称される方々なので、当然かもしれないが洋楽が中心である。


 さて自分なら何だろう。
 今だと夜に音楽を聴いたりする習慣はないので、ここは一般人らしく「好きな1枚」ということになるだろう。

 ぽっと頭に浮かんだのは『酔醒』というアルバムだった。
 実際にLP!をまだ持っていて、1年に一回ぐらいはターンテーブルに乗せることがある。

 古井戸というデュオで、私ぐらいの年代であれば「さなえちゃん」という曲を知っている人も多いだろう。
 このアルバムは、いわゆるフォーク系と見られていた古井戸のブルース色を全面に出していて、山本剛トリオというジャズのメンバーを入れて録音されたものだ。

 それを聞いたとき(つまり40年前ということ!)に、素直にかっこいい!と思い、大学にジャズをやっている友達を誘って、3曲今でいうところの「完コピ」に挑戦してみた。

 コンサートは、まあジャズの方々が初ステージということもあり、ボロボロだったなあ、と思い出すことができる。
 「黄昏マリー」という曲は音程のとり方難しかったなあ…その繰り返しの時をまだ覚えている。
 それにしてもよくこんな詞を大学生が歌えたもんだね、と青くなる。
 一緒にやった4人とは遠く離れて、もう何の音も聞けなくなってしまったが…。

 改めて検索してみると、映像はないがいくつかのコンサート音源みたいなものがyoutubeにはあるんだね。凄い時代だ。


 「最後に聴きたい歌。」というのは、結局何度も繰り返し聴いていて、自分の中に仕舞い込まれている歌なんだろう。

 音と詞が声によって溶け出してくる感じが「最後」に心地よい。
 古井戸の加奈崎芳太郎の声は、しっくりくる。

何かを断念して時間を過ごす

2015年03月07日 | 読書
 【2015読了】28冊目 ★★★
 『路地裏の資本主義』(平川克美  角川SSC新書)


 本著から得る一つの結論、行動指針としての「ダウンサイジング」ということが挙げられると思う。

 この言葉は3年前、今の車を買うときに具体的に頭をよぎったことだ。
 そうしようと思っていたのに、直前までそんなふうに考えていたのに、結果的にダウンどころか、ややアップになってしまった自分とは、ナンダカナア…。
そんな心理を鋭く突き、ずばりと指摘された一文。
 
 自分が何を得たかということよりは、自分が何を断念できたかということの中に自分へのリスペクトは生まれます。


 先日のPTAの場で、教育目標である「ぜんしん」には「前進・善心・全身」と掲げてある三つの他に、四つ目として「漸進」があるというような話をした。
 「スピード化」と教育ということについても触れた。
 全否定はできないことにしろ、私たちは今の流れをもっと深刻に見つめるべきだ。
 医療や教育というビジネスになじまないものを、効率化という名のもとにそれに当てはめようとしているのではないか。
 とすれば、今一番大事にしていくべきは何か。
 友人たちと喫茶店をつくった著者の思いは、もうはっきりしている。

 この時代、というのは効率化が最優先する時代において、もっとも貴重なものとは何か。わたしなら、それは「時間」であると言いたい気がします。

 ここを読むと、実に様々なことが思い浮かぶ。
 「モモ」の時間どろぼうのこと、学校の日課表のこと、無為に過ごす日常のこと…
 「時間を大事にする」ことの内容を訊ねれば、それはまったく人生観、価値観なんだなとわかる。


 さて「資本主義」を題名に掲げている書なので、当然ながら「経済」「貨幣」のことが大きく取り上げられている。
 しかし「20億円をもらったら」という話も結局は「時間」の問題に集約されることを知ると、救われる気?にもなる。
 ちなみに、ビル・ゲイツと同い齢です。
 関係ないか。

深い懐のなかで読む

2015年03月06日 | 雑記帳
 学校に毎月会報(といってもりっぱな150ページ弱の雑誌)を届けてくれる法人団体がある。目を通して少し不思議だなと思ったことがあった。国家を大切にし、日本人の伝統を重んじ、「元朝式」なる催し元旦にあり、政府要人たちが列席し祝辞を述べるような…団体である。主宰の文章がいつも巻頭を飾っている。


 そういう思想?に満ち溢れているだが、冒頭の「時代を読む」の執筆者がなかなかである。ここ半年では中村征夫、倉本聰、そして先月からは高橋源一郎である。この人選はどこで決まるのかわからないが、とにかく「幅が広い」というか「懐が深い」というか…。当然三人の論考も貴重であった。メモしておこう。


 中村征夫氏のテーマは「海から見た地球」。今も現役の水中カメラマンとして、実際に海に潜りそこで見たこと、感じたことがベースなので説得力がある。データとして改善されているはずの東京湾の視界の悪さは37年前とほとんど変わらないという指摘は何を物語っているのか。関心を反らしてはいけない気がした。


 倉本聰氏のテーマは「震災で見えてきたもの」。これは「北の国から」フリークとしては必読の文章だった。本当に必要なもの、大事なことは何か、問い続けていない限り、現実に呑み込まれてしまう。「いつかではなく、すぐにと思うから僕らは身の丈を超える行動を取ろうとし~」という一節は、生き方指南と言える。


 高橋源一郎氏は「人口減少社会」というテーマで書いている。この文章をこの会報に載せるかと思ってしまうほど、興味深かった。「弱者と共に生きる幸せ」という発想は、この国の政治、個人の思考に変換を要求している。自分はけして強者ではないが、もうすぐ弱者に近づくことは確実なのでことさら切実に感じた。

カラフルな傘を見つめる日

2015年03月05日 | 雑記帳
 雨の朝、登校してくる子どもたちの傘を見て、つくづくカラフルになったものだと今さらながら思った。全国チェーンを持つ大型店Iが、24色のランドセルを出してから何年経ったのだろう。それよりは傘はずっと早く、様々な色、模様をもったはずである。高度成長期なのだろうか。自分が小中の時は、黒と赤、せいぜい紺とピンクぐらいだったように思う。


 「男は黒、女は赤」などという時代を懐かしんでいるわけではない。ただ、その変化ってなんだろうと考える。製造や物流の現場をまったく知らずに、こんなことを書くのもおこがましいが、つまりは材料の大量仕入れがあって大量の生産がなされるから、多種類の物品が提供できる。消費者のニーズといいながら、売上を伸ばすために差別化を仕組んでいく。


 用途は同じなのに、色や材質、そしてちょっとしたデザインによって「個性」のようなものが演出され、私達の物欲をくすぐる。また「○○世代」とか「アラ○○」などと名づけられて、そこで「提案」されるのは、生き方のようではあるが、実は購買への意欲づけだったりする。自分も含めて、おそらく40代以上の多くはそういう与えられ方に飼い馴らされた。


 その結果、求めた個性が実現できたかと言えば、甚だ心許ない。そんな不安を解消すべく、また様々な「提案」が今日も巷にあふれ、商品として、それはモノであれコトであれ、私達の目の前に姿を現してくる。目を閉じ、耳を塞いで、内なる声を探りあてよう。飼い馴らされた心を揉みほぐそう…『路地裏の資本主義』を読み始める、めでたくもないが誕生日。



カラフルとネーミングと

2015年03月04日 | 読書
 【2015読了】26冊目 ★★★
 『カラフル』(森 絵都  文春文庫)

 途中から予想した結末通りになったが、面白かった。中学生程度でも十分わかる読みやすさで、自分の程度にあっているか。題名に表されるシンプルな主題も、実は重いけれど暗さを吹き飛ばす面もあるので、読後感がいい。「あそこでみんなといっしょに色まみれになって生きていこう」…色欲とは少々違うが、齢をとっても色があることは一つの大きな救いだ。

 
 阿川佐和子が解説を書いている。映画化されていて出演者の一人だったそうな。なるほど、様々なことに興味を示す母親というのは適役かもしれない。調べたらアニメ映画もありかなり有名な作品であることがわかった。脚色しやすい部分が多いのではないか。表現がくどくないので想像が広がるよさがある。色づけと同時に、タッチという面の巧みさがあるのだ。



 【2015読了】27冊目 ★★
 『すべてはネーミング』(岩永嘉弘  光文社新書)

 「名づけ」は、自分にとって興味深い分野?の一つである。商品等のコピーライティングも含めているが、それ以上に例えば市町村合併時の名前のつけ方、また人はなぜ名前にこだわるのか、とか整理しないままではあるが、関心をもって考えていることが多かった。言霊を持ちだすまでもなく、人は名前に反応するし、名前はつけた時点で存在の一部となる。


 著者は第一人者であるそうな。ネーミングとは「商品」が主流だから、いかに売れるかが、様々な視点から検討される。ある程度は予想したことが多いが、一つなるほど世相だなと感じたのは次の記述。「あ!あれたべよ」や「ごめんね」という食品を例にこう書いている。「店員とは口を利かない前提でネーミングされているんですね。」確かに店頭では言いづらい。

 
 過日書いた「品位ある社会」にも共通することがあるかもしれないと思ったのは、国家の「ブランド作り」ということだ。ネーミングによってイメージ化を図る最大級の規模の一つは国家だ。著者は書く。「理念という、物ならざるものに名付けるのが何よりも難しい」それを行うのがリーダーの大きな役割だろう。政治に関わるネーミングはアイデアより信念だ。

「送る」にふさわしい日々

2015年03月03日 | 雑記帳
 本校ではあさって児童会主催で「六年生を送る会」が行われる。各地でもこれに類した集会が行われることだろう。児童集会の締めくくりと言っていいし、中心となる五年生が大きくステップアップする絶好の機会となるはずだ。先日、実行委員の子が「挨拶お願いします」とやってきた。笑顔で返事をしたはいいが…。


 期日が迫ってきたので、短時間だがどんな挨拶をしようかと、以前の原稿データを検索してみた。・・・・・一つもない。語句を変えてやってみても、ありそうなフォルダーを直接開いてみても、どこにも該当するファイルはない。そういえば、前任校でも、その前でも「挨拶」はなかった、ということを思い出した。


 その違いをあれこれ悩むより早速取りかからなくては…お決まりの部分はあるにしろ、何かネタはないか…「送」か。苦しい時の漢字ネタだ(ということはいつも苦しいのか)。まず「送る」を国語辞典で調べる。単純に「なぜ『送る』なのか」とふと浮かんだからだ。「見送る」という意味の使い方だろうと予想はつく。


 小学校用の辞典を二つ調べる。意味は4区分だ。「チャレンジ小学国語辞典」が面白い表現をしている。「①はなれた所まで物などを届ける ②去っていく人にあるところまでついて行く ③時間を過ごす ④送りがなをつける」。なるほど、②の意味から派生した「送る会」ということになる。ここは使えるかもしれない。


 物理的に「ついて行く」とある。実際について行くことはできないから、ではどうすることが「送る」なのか。「ついて行く」にふさわしい日々の過ごし方ということになろう。送られる六年生にとっても同様であり、残された期間をどんなふうに過ごすのか。卒業式までの日々のスタートが「送る」意味とつながる。

品位の物差しは自らを測りにくい

2015年03月02日 | 雑記帳
 先週の新聞にあった小さな囲み記事が、妙に気になった。

 ある会議で、佐々木毅氏が述べた「品位ある社会」という言葉に対して、緒方貞子氏が「品位」に関して批判的な意見を述べたというような内容だった。

 ネットで検索してみると、「アカデメイア・フォーラム」というところに行き着いた。

 記事に取り上げらけれた部分の詳細はないが、次のような概要が載っていた。

 中でも先出の総論でキーワードとなっていた「品位」については特に多く話題にのぼっていて、緒方貞子共同塾頭からは「(品位という言葉の)定義が曖昧。自分で決めるものなのか、他者から決められるものなのかはっきりしないのでは」といった辛辣な指摘も。


 品位の定義、自分で決めるか、他者から決められるのか…これはこの言葉に限った問いではないかもしれない。
 とりあえず、辞書を引いてみよう。

 ひんい【品位】
 広辞苑①人に自然にそなわっている人格的価値。ひん。品格。「-を欠く」「-の無い人」
 (②以下略)
 明鏡①その人や物にそなわっている品のよさ。品格。「-を保つ」「-を落とす」
 (②以下略)

 これを読む限りでは、他者からの評価的な意味合いが大きいと言える。しかし文例を考えると「-を保つ」などから自分で言って悪いわけでもない気がする。

 国語大辞典は、少し面白いことを書いている。
 ①品格と地位。また、人や事物にそなわる気高さやりっぱさ、品のよさ。

 「地位」だとすれば、それは大方他者からの評価である。
 ただ特殊ではあるが生まれながらの地位にある人も存在する。その部分を拡大解釈し「持って生れた」的な言い方もなかにはあるだろう。

 さて、緒方氏の指摘を、当事者意識をもって考えてみる。

 人は「品位ある自分になろう」とは、めったに口にしないだろう。
 ただ、心のなかではそうしたイメージを描いていることはある。
 つまり、その時に大切なことは具体性なのだと考える。
 品位があるとは、どんな行動や仕草を指しているものなのか。

 これは「社会」という言葉を形容するときには、かなり大きな問題だ。
 まず「品位」に関しての合意がなされているのか、という点である。
 従って、どのような基準を持って近づこうとするのか、根深い問題が横たわる。

 そう考えると「品位ある社会」とは、肌触りのいい言葉ではあるけれど、世界に発信するとすれば、非常に内実のわかりにくい表現ではないかと考える。
 そんなことを自分ごときが言うのも変だが、これはどんなレベルでも在り得るのかもしれない。

 品位の物差しは、自らを測りにくい。

 「品位ある学校」と言ってみたい気もする。しかし安易に言語化できない表現だろう。
 たかだか数年程度で目指せるものではなく、そこで長く培われたことによって、周囲の方々が口にするにふさわしい形容ではないか。