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時間の分け方に意識的になる

2015年03月13日 | 雑記帳
 講談社の月刊誌『本』に、作家小池真理子が「時の途上」という小文を寄せている。

 家族の病気、逝去、自宅の火事、新築等々、様々な事情により9年ほど小説を世に出していなかった作家が、「時間」について語っている。心に留まる表現があった。

 自分の外側を流れていった時間は、「時代」を作る。「歴史」はその堆積だと考えていいだろう。(中略)一方、自分の中を通り過ぎた時間は、いつまでたっても同じ場所にとどまっている。振り返ればすぐそこに、まるで昨日のことのように、同じ顔をしたまま鎮座している。


 「時間」とは流れるものである。
 時間が過ぎ去ることによって、万物はかわっていく。
 しかし同時に「時間」は積み重なっていく。
 記憶と呼ぶべきか、痕跡というべきか、現在の全てはそれまでの時間によって成立している。

 格好つけて哲学的な事柄に仕立てようとしているわけではない。
 女性作家の発した、二種類の時間を自分は意識してきたかどうか、問い直している。

 たとえば、震災のことはどうだ。
 私の住んでいる県は直接的な被害はなかったにしろ、この震災については多かれ少なかれ、自分の中を通りすぎた時間としてとらえた者は多かったのではないか。
 だからどんな小さなことであっても(停電、断水、ガソリン不足…)、明確に覚えていて、備えという面は常に顔を出す。

 しかしその一方で、直接的とは言えない津波災害や原発関連については、もしかしたら「外側」にあって、時代になっていくのではないかという危惧がある。
 現実に「福島はかわいそう」「三陸の復興は進んでいるのか」とどこか傍観者意識が出始めている。

 「時間」は体験するものであり、その強度により分化されていくのは仕方ないだろう。
 しかし、時間が一斉に流れているとすれば、外側に押しやらず留めておくべき時間を人は持っていなければならない。
 もちろん無限大でできるわけではなく、それを取捨選択する力や姿勢こそが肝要である。

 いわば、時間の分け方に意識的になることが、「時代」を生きているということになるのではないか。