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品位の物差しは自らを測りにくい

2015年03月02日 | 雑記帳
 先週の新聞にあった小さな囲み記事が、妙に気になった。

 ある会議で、佐々木毅氏が述べた「品位ある社会」という言葉に対して、緒方貞子氏が「品位」に関して批判的な意見を述べたというような内容だった。

 ネットで検索してみると、「アカデメイア・フォーラム」というところに行き着いた。

 記事に取り上げらけれた部分の詳細はないが、次のような概要が載っていた。

 中でも先出の総論でキーワードとなっていた「品位」については特に多く話題にのぼっていて、緒方貞子共同塾頭からは「(品位という言葉の)定義が曖昧。自分で決めるものなのか、他者から決められるものなのかはっきりしないのでは」といった辛辣な指摘も。


 品位の定義、自分で決めるか、他者から決められるのか…これはこの言葉に限った問いではないかもしれない。
 とりあえず、辞書を引いてみよう。

 ひんい【品位】
 広辞苑①人に自然にそなわっている人格的価値。ひん。品格。「-を欠く」「-の無い人」
 (②以下略)
 明鏡①その人や物にそなわっている品のよさ。品格。「-を保つ」「-を落とす」
 (②以下略)

 これを読む限りでは、他者からの評価的な意味合いが大きいと言える。しかし文例を考えると「-を保つ」などから自分で言って悪いわけでもない気がする。

 国語大辞典は、少し面白いことを書いている。
 ①品格と地位。また、人や事物にそなわる気高さやりっぱさ、品のよさ。

 「地位」だとすれば、それは大方他者からの評価である。
 ただ特殊ではあるが生まれながらの地位にある人も存在する。その部分を拡大解釈し「持って生れた」的な言い方もなかにはあるだろう。

 さて、緒方氏の指摘を、当事者意識をもって考えてみる。

 人は「品位ある自分になろう」とは、めったに口にしないだろう。
 ただ、心のなかではそうしたイメージを描いていることはある。
 つまり、その時に大切なことは具体性なのだと考える。
 品位があるとは、どんな行動や仕草を指しているものなのか。

 これは「社会」という言葉を形容するときには、かなり大きな問題だ。
 まず「品位」に関しての合意がなされているのか、という点である。
 従って、どのような基準を持って近づこうとするのか、根深い問題が横たわる。

 そう考えると「品位ある社会」とは、肌触りのいい言葉ではあるけれど、世界に発信するとすれば、非常に内実のわかりにくい表現ではないかと考える。
 そんなことを自分ごときが言うのも変だが、これはどんなレベルでも在り得るのかもしれない。

 品位の物差しは、自らを測りにくい。

 「品位ある学校」と言ってみたい気もする。しかし安易に言語化できない表現だろう。
 たかだか数年程度で目指せるものではなく、そこで長く培われたことによって、周囲の方々が口にするにふさわしい形容ではないか。