すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「教える」を位置づける

2009年05月13日 | 読書
 市川伸一氏の『学ぶ意欲とスキルを育てる』(小学館)は印象深い本だった。このブログにも2回ほど引用している。

 その1

 その2

 昨年発刊した『「教えて考えさせる授業」を創る』(図書文化)も、実に明快。納得しながら読むことができた。

 いわゆる学力低下論争の中での著者のスタンスは前著でわかっていたが、それを授業づくりという視点で具体化したのが本著ということになるだろう。
 「習得型」授業のあり方として、「教える」段階をきっちりと位置付けるという主張は現場にいる者としては、大いに共感できる。
 それは授業への全員参加を保障する枠組みであり、機能させるために必要な教師の力量もまた見えてくる。

 教えることに尻ごみしてきた教育界の流れのツケが感じられる。
 実際の授業例の細かい点を見ていけば、教える段階での学習内容の細分化とテンポアップが重要な要素になることは見てとれた。ここは授業者としての訓練も必要になるだろうなと思う。

 個人的に今の自分の課題意識と合致する文章表現もあり、いい収穫となった。
 
 特に小学生の場合、視覚、運動、発話という全体的な活動を通して理解させる

 心理学が専門である著者ならではの分析だが、私にはその区分が新鮮な切り口に見えた。

覚束ない書きぶりで

2009年05月12日 | 雑記帳
 職場に送られてきたある文書。学習塾で有名なK式からの送り状なのだが、「九九が覚束ない」という表現があった。
 こんな漢字はあまり目にしないなあと思いながらああ「おぼつかない、ね」と簡単に読み方は出た。

 「覚えることが束にならない」と訳してみる。つまり「習得や理解をきちんとひとまとめにすることが出来ない」。
 見事な解釈ではないか、と思いつつ愛用の電子辞書で調べてみた。

 なんと。これはまた、全く違う語源ではないか。

 まず「おぼつかない」はあっても、「おぼつく」という動詞はないということ。つまり「ない」は「無い」ではなく、程度を表す接尾語だ。
 従って「おぼつきません」「おぼつかぬ」「おぼつくまい」などという使い方は誤用である。「覚束無い」は全くの当て字ということだ。

 「おぼ」は「おぼろ」のようなぼんやりした状態を指している。「つか」は「ふつつか」のようにある状態を表わすものだったということである。
 従って「おぼ+つか+ない」は、あやふやな、はっきりしない様子の強調ということができる。

 おぼつかない知識
 おぼつかない足取り
 おぼつかない将来

 これも、どうもあまり明るい言葉ではないなあ。
 どうしてこんな言葉ばかりがが目に入ってしまうこの頃か、我ながら疑問を感ずる。
 おぼつかない書きぶりになってしまった。

屈託があったわけではないけれど

2009年05月11日 | 雑記帳
 何気ない言葉でも、きちんとわかっていないものは結構多い。
 テレビ番組で「くったくない」という言葉が出てきたとき、ふと「くったく」って何だと思ってしまった。
 漢字で「屈託」であることはすぐ浮かんだのだが、そのものの意味がはっきりつかめていない。
 「屈」は想像できるが、「託」って何だろう。

屈託 ①一つの事ばかり気にかかって心配すること。くよくよすること。
    ②退屈や疲労などで精気を失っていること


 改めて、そうかと思う。
 「屈する」ことに「託する」のか。
 つまり、折れ曲がったことに身を任せるということになる。

 念のため、「屈」と「託」を調べると、広辞苑は熟語例がなかったが、明鏡には「屈」に「くじける、従う」があり、「託」には「かこつける、ことよせる」があって、その例として「屈託」が載っていた。

 それにしても、屈託に類する言葉はずいぶんとあるものだなと、辞書を見ながら感心してしまう。

 懸念、杞憂、顧慮、心痛、危惧、憂患、鬱屈…

 ほとんど一発で出てくるものばかりだし、使用頻度が高いのだろうか。
 あまりご厄介になりたくないものばかりだ。
 
 やはり、くったくないのが一番です。
 

カギャクでした

2009年05月10日 | 雑記帳
 「生まれてこのかた一度も発音したことのない語句」が今日もあるものかと、新聞のコラムを読む。

 あった、あった。

 「産生」

 サンセイですな。サンショウではないだろう。
 「生産」は目にし口にする頻度の高い言葉だが、語を入れ替えて似たような意味を表している。
 こういう形で反対にしても意味が通ずるのをなんというんだっけ…

 と探してみたら「可逆語」であることが判明。

 こういうサイトもありました。

 これは熟語学習のネタとしては使えるかもしれないなあ、と少し余裕のある休日の午後でした。

発音してこそ初めて自分のことば

2009年05月07日 | 読書
 NHKで「先生のためのことばセミナー」という研修会があり、一度は参加したい思っていたのだが、残念ながらその機会はなかった。その講師をしている方が本を発刊したので、読んでみた。

『先生にこそ磨いてほしい「ことばの伝達力」』(加藤昌男著 NHK出版)

 「教室で役立つ30のヒント」と副題が添えられているように言葉遣いや話し方についてのアイデアや提言がまとめられていた。目新しいポイントはさほど多かったわけではないが、さすがアナウンサー経験者ならではの切り口ということもいくつかあり、はっとさせられた部分もあった。

 生まれてこのかた一度も発音したことのない語句

 ことばのウォーミングアップの章で「朝刊のコラムを声に出して読む」という項があった。私自身、毎日、新聞のコラムを目にはしているがもちろん声に出しているわけではない。難語句も確かに目に刷ることはあるのだが、それに対しては文脈で想像できる範囲だったし、取り立てて考えたり驚いたりすることはなかった。

 しかし、それを声に出して読むことは違うとらえであると今さらながらに考えた。著者は毎日三つ程度はあるのではないかという。
 例えば、今朝の新聞コラムには「蔭位(おんい)」という今まで知らなかった言葉があった。もちろんそれを声に出したことはない。
 この場合はそれが何か深い意味を持つわけではないが、読むことによって少し立ち上がってくる気配も確かにある。

 物語や詩に限らず、様々な論考であっても「音のことば」にすることによってより強く、深く感じられる…そのことは何度も言ったり書いたりしているのだが、自分が実践できていない、つまり磨いていないということを今さらながらに反省させられる。

仮想賢治に語りかけられて

2009年05月06日 | 雑記帳
 この連休中に出かけた隣県の小さなミュージアムで、こんな企画のコーナーがあった。

 ようこそケンジ!コンピュータがつむぐ賢治の世界

 「仮想賢治と童話で話そう」と添えられている。
 大学のロボット研究なのだろうか、等身大の賢治のロボットが(といっても顔だけの表情と声)童話を語り、対面している人間の表情を読み取りながら、少し反応してみせる、というものらしい。

 家族が呼び止められて説明を受けたが、結局私が最初の実験台になることに…。
 ケンジが語り始めたのは「注文の多い料理店」。
 なじみの話なので内容よりは、その声や表情に目がいってしまうわけだが、正直こんな声なのかなとか、ちょっと気持ち悪いなあと思ってしまう。それでもちょっと身構えて口元をゆるめてみると、「好感を持っている」というサインが出ているらしい。
 その表情などに慣れてきた頃には、「あっ、今不快が認識されました」などと係りの学生?さんが言う。するとケンジは目を閉じたり、少し声が弱まったりするようだ。

 なんだ、ロボットの機嫌とりかよ、と思ったりするわけだが、それもまた機械相手に大人気ない。デジカメの顔認識などを発展させていくと当然こうした技術に結びつくのだろう。声、言葉による認識はほぼ完成していて、次の段階がこれなのかなと想像する。

 ケンジが「人の気持ち」を様々な反応によって読み取れるようになるのが究極の目標だろうが、そこまでいくのはまだまだ遠い道だ。肝心の人間の受けとめ方だって弱まっているしね。

 それにしても、どこまでも隣県岩手の主役はケンジだなと思う

苦しみを添える言葉

2009年05月04日 | 教育ノート
 ある本で「添削」という言葉がでてきて、ふと考えさせられた。作文指導で使われる用語であるが、「推敲」や「批正」より、よりシンプルな言葉だと思う。つまり「添える」と「削る」ということ。

 削ることはどちらかと言えば簡単だろう。間違っていたり無駄だったり、的確でなかったりする表現を指摘することでいい。
 しかし、添えることは少しやっかいだ。この作文を書いてきた子がどんなことを添えられるだろうか、あれこれと仕掛けてみる必要がある。

 表現上の言葉の選択や的確な形容詞であれば、その子の知っている語彙とのかかわりであるが、もっと文章の芯になるものを付け加えてほしいとき、その多くは「文章を書くきっかけ」まで遡る必要が出てくる。

 教室で取材や集材の指導をしたとすれば、そこは想像がつく。しかしそうでない場合は、文章をどう読みとるべきか、またいい文章とはどうあるべきかをしっかり把握していないと、なかなか難しいことだろう。
 あえてそこを棚上げにして、どんな言葉を投げかければ、添える言葉を湧きあがらせることができるのだろうか。原則などあるのだろうか。今、まったく思いつくままに並べてみれば…
 ○題名のことをもっと詳しく聞きたい
 ○「~~」のあとにきっと何か思ったはずだね
 ○その終わり方で、言いたいことが伝わったのか
 ○周りの人がどうだったか思い出してみようよ
 ○この時、何を見てたの。色まで覚えているかな。
 ○この部分がすてきだ。2倍にふやしてみることできる。

 結局は、言葉を湧き上がらせるために苦しみを「添える」ことになるか。それもまた作文の学習ということか。

清志郎、逝く

2009年05月03日 | 雑記帳
 ある情報番組での形容は「ロックの神様」だった。そこまで持ち上げなくてもとは思うが、間違いなく日本音楽界の一つの高峰であったことは確かだ。

 いくつかの名曲のうち、個人的に忘れられないのは「ぼくの好きな先生」だ。

♪たばこを吸いながら いつでもつまらなそうに
 たばこを吸いながら いつでも部屋に一人
 ぼくの好きな先生
 ぼくの好きなおじさん♪

 「先生らしくない先生」の一つのパターンを歌ったものだが、そうした憧れめいたものを大人に感じていた時代の香りがする。
 私もまた、何人かのそうした大人に感化されながら、たくさんの矛盾とぶつかって学生期を過ごしたような気がする。
 そしてそこからの道は多様に分かれ、何かを得るために何かを捨てたということになるのだと思う。しかし清志郎のようにどこまでも自分のスタイルを貫いた人は稀ではなかったか。
 それは仕事であろうが趣味であろうが、また音楽であろうが研究であろうが、あまり違わないだろう。
 
 まだ三人グループだったRCサクセションを一度だけ見たことがある。
 井上陽水の前座で古びた校舎の体育館ステージで唄ったのを聴いた。
 何の曲だったのか、もう三十数年前で覚えているわけもないのだが、バックライトに照らされてシルエットだけが妙に躍動していた姿が目に焼きついている。

 トレードマークのメイクや派手な衣装のそれではなく、ただ黒く全身でシャウトする清志郎の姿。

 合掌。

信頼の勉強

2009年05月02日 | 雑記帳
 バーナード・バーバーは「信頼」を次のように定義しているという。

 自然的秩序および道徳的社会秩序の存在に対する期待

 明日も陽は昇るし、季節は順序を間違えることはない、こういったことが自然的秩序だが、あまりに広義となるので後者が広く使われているのが一般的である。

 しかし、この道徳的社会秩序の存在に対する期待も、質的に異なる内容が含まれる。それは「能力に対する期待としての信頼」と「意図に対する期待としての信頼」であるそうだ。例として医者やパイロットへの信頼と配偶者への信頼の違いが挙げられている。
 従って、一般に私たちが用いているのは、能力に対する期待も含まれてはいるが、強いのは明らかに意図に対する期待だろう。

 このように限定していっても、まだ信頼は、「安心」と「信頼」と区別されるという。
 相手の人格や行動傾向を基づく相手の意図に対する期待が信頼として、相手にとっての損得勘定に基づく相手の行動に対する期待を安心と、定義づけることができるというのである。確かに相手が自身の損失につながると予測できるので搾取的な行動には出ないと判断できる場合がある。

 通常の意味で「安心」と使う場合も細かく吟味していけばそこには危険な要素を孕んでいることがわかる。こんな形容を厳密に探ることはないかもしれないが、「安心できる学校」と「信頼できる学校」は違うわけである。

 後者を目指して私たちは働いていると思うのだが、そのために何をなすべきかははっきりしている。
 かつて相手の信頼を得たときのことを思い起こすまでもなく、それはきっと「自分」という存在を明確に出す、むろん出し方には気を遣うが、そこから始まる。 

4月数的振り返り

2009年05月01日 | 雑記帳
 4月は何度か落ち着かないことを書いてきたが、数的な振り返りではどうだろうか。

 読書は7冊か。まあまあではないか。スタートの時期、教育書も読んだし及第点だろう。
 学校における仕事として数で表せるものがいくつかあるが、学校報は№5まで発行した(週1ペースは前任校から守れている)。職員向けの校内報は№4。これは今までワンテーマで書いていた形とは違い、短信的にネタを三つほど並べる形式としたので結構新鮮だ。タイトルバックの写真に子どもの動きや顔を載せているところが、我ながらなかなかと思う。
 もう一つのチェックはオフレコだが、ある意味自分のことがわかってきて面白い。

 花粉に悩まされた月、どうにか治まりつつある。その不安で外へ出るのは極力控えていたが、今月からは大丈夫だろう。子どもたちの登校の様子を傍で見ることは、ぼちぼち実行していこうと思う。

 さて数的なことと言えば、職場が自宅の近くになり通勤時間の大幅な短縮にまだ戸惑っている。11年間で4校に勤めたが近いところで20分、遠くて35分という範囲でかなり適当な通勤距離だった。それがわずか6分ほどになってしまったからこの差は大きい。

 まず、落ち着いて音楽が聴けない。落語のCDなんてとてもである。ラジオなどはつけていても聴くでもないままに着いてしまうので、どうにも物足りない。子どもたちの登校の様子を見るために、様々なルートで回ってみたりして時間をかけるときもあるが、これはまた違う話である。だから音楽に触れる量が圧倒的に減った一か月だったと言える。総推定時間20時間減か。

 転勤で大幅減額となった給与だけでなく、ゆとりの時間も失われたというのか。ちょっと変でないかい。要は時間の使い方が下手だということ…どこをいじればいいのだろう。