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信頼の勉強

2009年05月02日 | 雑記帳
 バーナード・バーバーは「信頼」を次のように定義しているという。

 自然的秩序および道徳的社会秩序の存在に対する期待

 明日も陽は昇るし、季節は順序を間違えることはない、こういったことが自然的秩序だが、あまりに広義となるので後者が広く使われているのが一般的である。

 しかし、この道徳的社会秩序の存在に対する期待も、質的に異なる内容が含まれる。それは「能力に対する期待としての信頼」と「意図に対する期待としての信頼」であるそうだ。例として医者やパイロットへの信頼と配偶者への信頼の違いが挙げられている。
 従って、一般に私たちが用いているのは、能力に対する期待も含まれてはいるが、強いのは明らかに意図に対する期待だろう。

 このように限定していっても、まだ信頼は、「安心」と「信頼」と区別されるという。
 相手の人格や行動傾向を基づく相手の意図に対する期待が信頼として、相手にとっての損得勘定に基づく相手の行動に対する期待を安心と、定義づけることができるというのである。確かに相手が自身の損失につながると予測できるので搾取的な行動には出ないと判断できる場合がある。

 通常の意味で「安心」と使う場合も細かく吟味していけばそこには危険な要素を孕んでいることがわかる。こんな形容を厳密に探ることはないかもしれないが、「安心できる学校」と「信頼できる学校」は違うわけである。

 後者を目指して私たちは働いていると思うのだが、そのために何をなすべきかははっきりしている。
 かつて相手の信頼を得たときのことを思い起こすまでもなく、それはきっと「自分」という存在を明確に出す、むろん出し方には気を遣うが、そこから始まる。