すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

できそこないは語ることなかれ

2008年11月15日 | 雑記帳
 昨日は、助産師さんを講師に迎えた授業があった。
 毎年続けているのだが、いろいろな工夫が目につくし、子どもたちの興味ぶかけな眼差しも印象に残る。
 受精にかかわる神秘さについての説明は、やはり心をとらえると思う。
 一応の知識はあるにしても、生命に対する不思議さが解消されることはない。

 さて、こうした学習のときに中心になるのはどうしても女性だなと、ごく当然のことが思い浮かぶ。
 三人いらした助産師はもちろんだし、ゲストの妊婦の方…市の関係者は半々だったが、子どもたちにすれば圧倒的に女性に取り囲まれた学習となる。
 なぜかをたどっていけば、諸々の理由付けができるだろう。
 男性が中心になって教える日がくるのだろうか。いや、それも不自然かなどと考えていると、ふと浮かんだある書名。

 『できそこないの男たち』(福岡伸一著 光文社新書)

 雑誌の書評を読んだだけで、まだ目にしていないが、ずいぶんと売れているらしい。
 書評中の引用を読んだだけでも衝撃的である。

 ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ『使い走り』。

 遺伝子上の女性の優位?は知るには知っていたが、突き詰めるとそこまで徹底しているとは。
 はてに、男性の平均寿命の短さの原因は男性ホルモンにありそれが免疫システムに関わるというから、どうしようもない。

 そんな「できそこない」は、やはり子どもたちに生命の起源を語る者としてはふさわしくないだろう。
 うまく出来ている。(この逃げ腰の文章が物語っている)

時の征者に憧れ

2008年11月14日 | 雑記帳
 通勤の車の中で、珍しく洋楽(死語ですか)を聴き込んでいる。

 ジャクソン・ブラウン

 自分にとっては三十年以上前のヒーローだ。
 買い集めたレコードをほとんど処理してからも、時折CDなどを手にとり、また少しずつ集めている。
 しかし、今回ほど続けて聴いている時期はなかったなあ。
 新アルバムのタイトルに惹かれた。

 時の征者

 「征者」という言葉は、辞典には載っていないようだが、征服者ということらしい。
 めったに歌詞カードも見ないのだが、少し気になって開いてみた。
 中川五郎の訳で、標題曲は次のような言葉を語っていた。

 ぼくの心の中の揺るぎないひとつの思い
 それは揺るぎないものはまだ何もないということ
 ・・・・・・
 時は運命の車 時は征服者

 ジャクソンも60歳。こんな青いこと言っているようじゃ、と思ってしまうが、それが魅力なんだろう。
 雑誌のレビューに寄れば、「その歌声は今が絶頂期」とすら言われている。
 確かに、変わらないように聴こえるその声だが、艶が増しているようにも思う。
そのあたりに、聴きこませる何かがあるのか。

 「いよいよ自らが進むべき方向を見定めた」とも言われるジャクソン。
 来日公演があると聞いたがネットであたったら、もう既に売り切れ。
 地味ではあるが、やはり結構憧れた人はいたんだね。

役立ち感の幻想をはらう

2008年11月13日 | 読書
 給食時間に隣の1年生の子が、こう尋ねてくる。

 「なんで、長い針はカチッと動くのかな」

 最初は意味がわからなかったが、1分ごとに時計の長針がひと目盛り動くことに疑問を覚えたらしい。
 機械の仕組みについてどう説明したらいいか言葉も浮かばず、思わず焼きそばを食べようとした箸も止まってしまった。
 
 このようにおよそ低学年の子たちは、「どうして」「なぜ」と疑問を発するものだが、最近少しその頻度が落ちているのかもしれない。科学離れなどという言葉も思い浮かぶ。

 家に帰ってから、岩波書店のPR誌『図書』11月号をめくっていたら、冒頭の座談会が実に興味深かった。

 「役に立たない科学」の愉しみ方

 宇宙物理学、分子生物学を専門とする二人の男性科学者と科学技術コミュニケ-ターという肩書きを持つ女性による鼎談である。
 最初は、新書で発行されているという「疑似科学」についてのあれこれが話される。自称健康オタクである私にとっても耳が痛い話ばかりだ。
 子どもの「なぜ?」を育てる、という点についても話題になる。結局、子どもの理科系離れの理由は大人の理科系離れであるということに意見の一致をみているようだ。
 それは確かに思い当たる節がある。

 そういう危惧は持っているが、では具体的にどうすればというところで止まっている、以前、日食があった日に、全国のいくつの学校がそのことを取り上げ実際に見ようとしただろうか、などと書いたことがあったが、その一点だけを取り上げても学校の疲弊が読み取れるのではないか。

 この座談会の中での印象深い言葉

 科学に対する役立ち感の幻想
 
 これは、実は科学だけの問題とは言えない気がする。社会的な事象であっても言語に関わることでも、確かに役立つことは大切に違いないが、そればかりが強調されては結局何かに取り込まれるだけ…という未来が待っているのではないか。

 子どもの「なぜ」につきあうことの意味は、リテラシーがどうのこうのというより大きい気がする。

 それにしても「長い針がカチッと動く」ことは考え始めると、結構哲学的なことなんだね。

「自在」であったかと問うライフ

2008年11月11日 | 雑記帳
 筑紫哲也が亡くなった。
 TBS系列の放送局がない地域にいるので、そんなに思い入れがあるわけではないが、メディアに登場する人物のなかではなんとなく良心的なイメージで見ていたと思う。
 一昨年に「スローライフ」という新書を出していたはずと、どんなことメモしていたんだろと自分のブログを検索してみた。
 あれっ、ない。もうネット上にない以前のブログの方かなと思いインポートしたデータにもあたったが見当たらない。ホームページの「読書記録」には確かに載っていたが、そうかあ書いていなかったんだあ、星印4をつけてあることは結構いい本だったのになあ、と惜しい気になった。

 改めて、書棚からその新書を引き出してみる。

 『スローライフ 緩急自在のすすめ』(岩波新書)
 
 あれっと思う。
 一昨年の発刊であり、確かに「スローフード」なの「ロハス」なのそういう類の言葉が目につきだした頃だから、「スローライフ」もかなり象徴的なことばだが、肝心なのはもしかしたらこの副題「緩急自在のすすめ」ではないか。

 つまり、緩であっても急であっても、自在に生きるということではないか。
 仕事でもプライベートでも、能率よくスマートもあり、効率だけを追い求めずのんびりもあり、という考えで、つまりどちらかに固まらずやってみようよ、ということではないのか。

 確かに社会全体を見ればファストな世の中であり、バランスをとるためにはスローを意識して実行したい。
 ただ現実にはいつもスローでいられるわけがないし、そこまで徹底できないことなどわかりきっているはず…。
 そんな軽い感覚でいいんじゃないかと思う。肝心なのは「自在」であること。
 改めて本文にあたったら、筑紫はこんなことを書いている。

 自(おの)れが在る~自分が緩急のペースを選び取るということでしょう。

 それは「自在」であったか。

 立ち止まり、そのことを考えられるのはスローという感覚が必要になるだろう。
 この本ももう一度、読み直してみようと思う。
 合掌。

名前を大切にするという病

2008年11月10日 | 読書
 『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎著 講談社現代新書)の第四章「名前は個人のものではない」もまた興味深い。

 落語家の襲名についての話題から始まっている。歌舞伎役者やヤクザなどの場合もそうだが「○代目~~」という言い方についてあまり考えたことはなかった。襲名とは何かなどと深く考えることなど、まず一般的にはない。
 筆者は「役割を継ぐ」ことだと言う。
 納得である。
 社会的役割がある氏名というふうに考えると、それを継ぐことは役割を背負うことになる。役割の歴史を重ねてきた稼業にしかないものだろう。芸事であれ、商家であれ、人に影響を与える存在になることが襲名の持つ意味なのである。

 そうした事に比べれば、個人の名前などいかほどのものか…
 という発想にたつこともできる。

 誕生日を祝うことと同様に、子どもたちにも「名前を大切に」といったことをずいぶんと言ってきた、それに関わることしてきた。
 これもまた間違ったことをしてきたとは思わないが、逆にたかが一庶民の名前などどう変えてもたいしたことはないという気持ちも芽生えてくる。
 こんな文章がある。

 自己同一性やら、自分探し、という近代ならではの病は、やはり「人から勝手につけられた名前を自由に変えることはできない」という不愉快な強制から発していると思う。みんな、何かにならないといけないとおもっているのだ。

 平気で3回ぐらいは名前を変える世の中の方が生きやすいかもしれない、と勝手に思う。

 そういえば、とここでかつて同職したある女の先生のことを思い出した。
 あるとき、氏名に読み仮名をつける必要が出てきて、その先生に念のために問うたことがあった。

「先生の名前って、○エコですか、○イコですか?」
(この質問は、イとエの発音が微妙に混じる東北地方独特のことですね)

 その先生は、真顔でこう答えたものである。
「あらあ、どっちだろ。」

「どっちだろうって、先生、自分の名前ですよ!」

「んだな。私は、○エコの方が好きだな」

「・・・・」

 実に大らかな仕事をする人であった。
 もう退職なされたが、相変わらず人生を謳歌している様子である。

誕生日を祝うという病

2008年11月09日 | 読書
 誕生日が嬉しいとは言えなくなってからかなり経っているが、時々「何歳だっけ」とほんの少し時間が必要になってきたことも確かだ。痴呆に近づいている…そんなことではなくて、誕生日にあまり意味を見い出せなくなっているのかもしれない。それよりは年を越すときに、しみじみと寄る年波を感じたりするわけで…。

『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎著 講談社現代新書)を読んだ。

 この新書は講談社のPR誌『本』に連載されている文章をまとめたもので、時々に目にしていた。半分ぐらいはすでに目を通していた。しかし改めて読んでもなかなか考えさせられることが多い。

 第一章の「数え年のほうがわかりやすい」は実に面白い。
 「数え年」という感覚は実際あまり馴染まないが、学齢をもとにした全体的な数え方には慣れてきている。自分が何歳になったかというより、何歳になる年という考え方をしているようだ。もっとも3月生まれなので、同い年の友人には「俺はまだ若い」などと軽口をきくことはあるのだが。

 少し想像力を発揮すればわかることだが、昔の日本には庶民の誕生日の祝いなどなかったという。1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」ができてから、お誕生祝いなるものが広まったのではないかと記している。まさに高度成長期を間近に控えた時代、様々な動きと符合してくるように思う。

 学級担任をしていた頃、受け持っている子どもの誕生日は気にしていたし、イベント風のことをやった経験がある。全校で毎月「誕生集会」なる実施していた学校に勤めたこともある。誕生日を祝うことは子どもを大事にする印であることを疑いもしなかった。現に昨年だって月ごとの簡単な誕生日カレンダーを作って掲示していたほどだ。
 しかしそのこと自体は間違いとは言えないにしろ、一方では単なる風潮に染まっている、経済に踊らされているという見方もできるだろう。
 満年齢重視、ハッピーバースディ思考(こんな造語はないだろうが)は、実は大きな影も抱えているようなことに今さらながら納得させられる文章がある。

 満年齢思考の背後には「まず個人が存在する」という思想がある。それは“キャラクターを持たなければいけないという病”と連動してしまっている。

 その「病」のことをつくづく考えさせられる内容は、まだ他にもあった。

心の奥でしか響かないから

2008年11月07日 | 雑記帳
 週初めの夕食後に何気なく回したチャンネルで、「日本賞」を受賞した番組の再放送をやっていて、引き込まれるように見てしまった。

 「課外授業 ようこそ先輩  みんな生きていればいい」

 全盲ろう者として日本で初めて大学進学を果たした福島智さん(現在は東京大学准教授という肩書だった)の、母校6年生に対して行った授業である。
 恥ずかしながら「指点字」の存在を初めて知ったし、福島さんの隣にいる助手の方のその指点字による通訳?の速さにも驚いてしまった。

 視覚も聴覚もなくしてしまった自分がどんなことを考え、どんな道を歩んだのか、子どもたちを相手にした福島さんの熱っぽい話には、やはり障害という現実の持つ重みがひしひしと感じられた。
 指文字から指点字へ、アイマスク・ヘッドホンで盲ろう者の体験、そして無言給食、盲ろう者になったつもりで一週間の日記を書くという内容の組立てもしっかりしていた。30分の放映での判断は難しいとはいえ、この授業は多くの児童の心に残る、そんなふうに思われた。

 クライマックスは、福島さんの言葉。

 「生きることは、コミュニケーションをすることだ」

 そのための手段に大きすぎるハンディを抱えている福島さんだからこそ見出せた。
 残ったかすかな手段に頼り、それをどこまでも広げようとする、深めようとする姿勢があるから見出せた。
 言葉の深さを思わずにはいられない。
 その声は自分の耳には聞こえずに、心の奥でしか響かないのだから。

不安定さを振り払おうとする

2008年11月06日 | 読書
 『虹色にランドスケープ』(熊谷達也著 文春文庫)
 今年になって読みこんできた熊谷達也であるが、個人的にはマタギもの以外は少し面白みに欠けると感じていた。
 しかしこの文庫はなかなか良かった。
 登場人物がつながっている短編の連作であり、題名が表すように7つの物語となっている。バイクが全編を貫くものであり、妙にそのあたりの描写が細かいのは作者がライダーであることの証明でもあるし、ああ書きたかったんだなあと強く感じさせる部分でもある。

 作者自身がそうであるように現在の40代後半から50代にかけての世代で、バイクに興味を持つ人は案外多いのかもしれない。私の周囲にそうした人はいないと思っていたのだが、数年前勤務地が変わったときに職場の中に複数そういう同年代がいて、少しびっくりした記憶がある。
 そういえば、高校生の頃に盛んにバイク通学の問題が取り沙汰されていたことをふいに思い出した。それは私にとっても苦い思い出の一つではあるが…。

 都会の書店ではこの本が平積みされていたところもあるというから、読者対象ともなるライダー人口はあるのだろうか。それはきっと昔ライダーだった人ということかもしれない。この頃は都市部のホテルに泊まってもあまり暴走族系の騒音に悩まされないことも思い浮かぶ。
 また地方でツーリングをしている人を見かけても、どこか中年っぽい方々だったりして…。

 今の若者があまり興味を示さないとすれば、それはどんな意味を持つのかなとふと考える。
 バイクの持つスピードや音、振動など疾走感とでも呼ぶのだろうか、実に魅力的な感覚であることは違いないはずで、十代の目には輝いてみえるはずだし、何か「救い」のような存在であると考えるのだか…
 そう思ってるのはやはり中年世代だけで、不安定さを前へ突き進むことで振り払おうとしていく姿に憧れる、そんな成熟しきれない何かをずっと抱えているのかもしれない。
 それはこの本に登場する複数のライダーたちに共通しているように思えた。
 その先どこへ向かうか不透明なまま終わっているようだが、女性の方が強く描かれているのは、やはりご時勢ですかな。

基地のなかの投票行動

2008年11月04日 | 雑記帳
 アメリカ大統領関連のニュースが喧しいが、今朝のNHKニュース内の小特集は興味深く思えた。
 日本にある米軍基地内にある中高一貫スクールでも投票が行われたという。18歳以上の選挙権なので不思議ではないが、学習内容の一部として「模擬投票」が行われていることに目を惹かれた。

 オバマ、マケインそれぞれを支持する学生、どちらも女子学生だったが、その二人が応援演説を行い、それを聞いた生徒たちが判断して、自分ならばどちらに入れるかを決定し投票する仕組みである。

 制度の違いといってしまえばそれまでだが、当然日本では考えられないことである。現実的な政策そのものを扱うこと自体がタブー視されているようにも思うし、まして議員や首長への投票など取り上げたら特定の政治勢力に与しているという見方をされることに違いない。

 むろん社会科やディベートなどで、そうした事柄を扱うことはあるだろうが、結果が曖昧なままで終わっている場合も多いのではないか。子どもたちの力を高めるという目標ばかりが大きくて、話し合いや活動が現実課題と必ずしも直面しなくてもよいという判断が働いているかもしれない。

 それで政治的関心は高まるのか。選挙に行こうという人は増えるのか。
 中高の政経や公民の授業の実態を知らないままに勝手を書いているが、少なくても若い世代の投票率が上がらない理由の一つに教育があることを、学校現場にいる者として考えねばならない。
 憲法や政治の仕組みを教えることと同時に、現実の問題と重ね合わせて投票行動に向う意識を持たせるために何ができるか…その実現のためには工夫もいるし決断もいる。

 そうは書きながら、Aさんの政策とOさんの政策のどちらを支持するか、と問われて答を出せるまでになるにはかなり長い道のりが必要なんだろうなこの国は、と思ってしまう。

100年続くかあ

2008年11月01日 | 雑記帳
 勤務校のブログを始めたのが9月下旬。それから一か月が経過した。

 この期間は終日出張等がなかったので学校に行かない日はなかった。そして、なんとブログを毎日更新することができた。
 途中に学習発表会があったので、それにまつわる様々なことがあったこともあるが、正直ネタ切れにならなかったものだとちょっぴり感心してしまう。
 学校という場所は、知らせる気になれば知らせることはあるものだなあとつくづく思う。

 自分の仕事として、月1回の地域全戸配布の学校報、週1回の保護者向け学校報、そしてこの日刊ウェブを続けていることになる。頻度と反対に対象となる発行(閲覧)部数が少なくなるわけだ。
 全戸版は400部超、保護者向けは職員や関係団体もあるので60部程度か、そしてウェブの閲覧訪問者は…現在通算330強なので平均して一日10名というところか。
 それでも先日集約した保護者アンケートに書いてくれた方もいて、少しは拡がる可能性はあるかもしれない。
 ネットの普及率が高いわけではないので、1割か2割程度の保護者に見てもらえばかなりいい方だと考えている。

 またそれとは別に一番保存性が高いのはウェブ版だろうなと思う。そういう意味での記録的な価値を頭の隅に置いているので、10年後やその先ずっと未来を想像してみることも意外と楽しい。
 現在、サイトの使用率はまだ0.12%。このペースだと100年は続けられるかも…。って誰が。