すぷりんぐぶろぐ

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話すために話してみればいい

2007年10月23日 | 雑記帳
 今月号の『児童心理』(金子書房)を読んでいたら、こんなフレーズが目に留まった。

 子どもが大人になることを厭うようになるのはどうしてか?その答えの一つは「生きていくことの楽しさが感じられないから」である。
 
 筆者である薮添隆一氏(香川大学教授)は、そのあとに続けて「雑談」の効用を説いている。
 カウンセリングとしての効用はともかく、私たちは確かに雑談を失いつつあるように思う。

 例えば、三十年近く前私は地域の文集審査会の一番の若手であったが、その仕事はヤカンに酒を入れて沸かすことだった。もちろん審査をした後ではあるが、午後三時にはその役目につかなければならなかったと記憶している。そこから反省会という名の大雑談になるわけだが、作文の読み方について語り、子どもの変化について語り、社会情勢について語りあった。
 同じく二十数年前から始めた研究サークルをおよそ十年ちょっと続けたが、レポートを書きそれについても大いに語ったが、例会後の飲み会や年間の粗末な集約作成などは、凡そ雑談だったのだと思う。

 その懐かしさは「生きていくことの楽しさ」のように思える。

 そんなふうに感じていた自分が教室にいるということ自体、ある面で子どもに伝わる楽しさがあったのかもしれないと想像してみる。
 会が終わった後に次の日の教室が待ち遠しいと思う楽しさがあったとすれば、それが子どもに伝わらないわけがないと考える。

 では今は…。「生きていくことの楽しさ」がないとは言わないが、それがきわめて独善的になったり閉鎖的になったりしていることに気づく。これは私個人に関してももちろんだか、周囲を見渡してもその傾向が強くなっているのだろう。

 雑談の持っている大らかさ、いい加減さなどが薄くなり、そこから楽しさを見いだすことも希少になってきた。それじゃあ、子どもでなくても生きていくことを厭うよなあ。

 能率と生産性を求められる世間からの目、雑談を無駄話と捉えらがちになっている自分たちの意識…そんな窮屈さをネタにして、一つ延々と雑談をしてみてもよくないか、などと独りごちてみる今夜。