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頭を巡る身体の問題

2007年10月09日 | 読書
 『私の身体は頭がいい』(内田樹著 文春文庫)を読む。

 どちらかというと私は「余暇に武道を稽古している大学教師」というよりは「生活のために大学教師をしている武道家」なのである。

と自らを称し、しかも
 私は武道家としてはたいへん凡庸な人間である。「三流の武道家」と言ってもまだ詐称に近いであろう。

という。しかし
 何が「ほんもの」であるかを見きわめる批評性は備わっていると信じている。

と書いたその「批評性」を私自身どの程度読みとれたかあまり自信はない。

 この文庫は当然「武道」そのものが対象となっている記述が大半であり、正直意味を捉えきれない言葉が多く出てくる。しかし、学術的論文ばかりではなくエッセイ風の文章もあるので繰り返されていることが多く、氏の言いたいことの輪郭はぼんやり見えた気もする。

 一番興味深く読んだのは、「身体の感受性を育む体育」という章。『こどもと体育』誌への寄稿らしい。仕事柄どうしてもそこに目が向く。
 ここでは、学校体育が歩んだ歴史が内田氏の眼によって記述されている。

 敗戦後の「強兵」的要素を排除するために、関係者はどう意味づけをしようとしたのか。
 こうある。

 「金銭」と「成績」という現実的利益を介在させることで、学校体育は学校の中に踏みとどまることができた。
 身体能力を高めると、自己利益を増加させることができる。
 
 この達見には深く考えさせられる。
 自分が実践してきた「体育」を振り返ったとき、いくつかのポイントがあるが、それがどのような位置づけなのか、少し見えてくる気もする。

 ここ三十年近く、体育の学習ではいわゆる「めあて」という言葉がかなり重要視されている。その「めあて」の言葉を歴史的な背景と照らし合わせてみるとき何が浮かび上がってくるか、真摯に振り返ればいかに現実に埋没してきたかがわかると言えよう。自分は、どんなめあてを作らせ、何を教え、どう評価してきたのか…。

 つまり、体育における学力観の問題か。
 深いところへきてしまった気もするが、要は書名にそっていうと「頭のいい身体をつくる」ということに尽きるか。
 ではそれはどんなものだ、と問いかけは続く。
 もう一度ページをめくってみなくては、という気になっている。