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あの眼差しへの畏れ

2007年10月28日 | 雑記帳
 「うそつき!」
 子どもの頃、その一言は非難として最高ランクだったような気がする。その言葉を浴びせられたとき心はぐんっと沈み、ずっと引きずっていただろう。
 それほど重い言葉だった。

 しかし、成長するにつれそれほど響かない言葉となっていく。それが大人になることだろう…建前と本音を使い分け、その中のどこかにいつも「嘘」を滑り込ませていくことが…そんなふうに納得させたりして。

 結局それは個人としての思いには違いないが、同時に社会全体との関わりの中で育てられたとも言える。
 最近、食品に関わる告発も目立つが、そこに一歩目の「嘘」が雪だるま式に膨らんでいった有様を多くの人が感じていることだろう。

 高村薫が著した『作家的時評集 2000-2007』(朝日文庫)を読んでいたら、こんな文章に目が留まった。

 違和感を懐きつつも、わたくしたちはいつしか、日々の生活に支障のない限り嘘を放置し、見てみぬふりをすることに慣れきったのである。

 政治、行政、経済…そうしたレベルのことはもちろん、日常の仕事の中にも、家庭生活の中にさえ、そんな状況がある。結局のところ、それは誰かが嘘をつき、そしてその嘘を放置したことによって、認められたことになり、「真実」や「常識」となっていたことではないか。

 耐えられなかったのか、許せなかったのか、ある人間が匿名のような形で告発したのが、最近の一連の騒動だ。
 しかし、絶え間のないほど続く情報の中で、じっくりと考えることもできないでいることも事実ではないか。
 高村はこうも書いている。

 わたくしたちはいわば自動的にファイルを処理するだけで、そこには基本的に価値観としての「嘘」も「真実」もない。

 不信や怒りの声さえ、自己の経験や問いかけと重なる前に情報として伝えられ、定着させられてしまう。
 そんな精神構造になってはいまいか。

 「うそつき!」と投げかけられた眼差しへの畏れは、取り戻せないものなのか。