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子どもを家畜と言う覚悟

2007年10月06日 | 読書
 『子ども家畜論』(小川義男著 祥伝社)

 なんとも強烈な書名である。

 著者でさえ、前書きにこう記す。

 我ながらおぞましいタイトルである。

 なぜ「家畜」という言葉を使うかは、表紙裏にも載っているしネット上の紹介文にもある。しかしどんな思いであるかは、私には次の文章の方がより伝わってきた。

 愛し、かわいがることはたやすい。しかし、妥協することなく怒り、叱るのは難しい。それこそ、子どもを「家畜」だとあえて思わなければ、厳しい「躾」はなかなかできないであろう。

 そうした覚悟や決意の滲む書名と言っていいだろう。
 小川氏は現在私立高校校長職にあるが、それ以前に小学校教諭、校長の経験を持っている。
 その当時の自らの体験も織り交ぜながら展開するいわゆる硬派の教育論は、明快な文章で筋もぴしっとしている。
 体罰のこと、茶髪等の校則のことといった実際の教育営為から、義務教育制度の問題そして民営化、評価という政治や世相のことまで、幅広く取り上げられているが主張は一貫している。


 「やるべきことをやりたいと感じ、やるべからざることをやりたいと思わない人間に育て上げる」ことこそ、教育本来の使命なのである。

 この言葉一つとっても、「児童中心主義の教育」とはっきり対峙していることがわかる。現在の弱腰の教育について堂々と警告している。しかし、それは具体的な場面ではけして冷たいものではなく、しっかりとした指導理念に基づいて為されるべきと考えていることは明らかだ。だからこんな一言もある。

 小学校の教師は、かまってあげる専門家でなければならない。

 小川氏が取り上げた言葉の中に「発達段階に応じた教育」がある。教育書にある文言としてはごく普通であろうが、考えれば考えるほど重い意味を持つように思う。
 私にとっても「発達段階」は、教育を考えるうえでのこだわりの一つであった。ある先生の講義で印象づけられ、それを取り掛かりにしながら「教育相談」の講座を初級・中級・上級まで数年間かけて受講したときもある。
 しかし、そのことが自分の実践にどのように生かされてきたか、甚だ自信がない。断片的にそれらの知識を現実場面と結びつけようとしたことが確かにあったが、散らばったままである。もう一度掬いあげる必要を強く感じた。

 それにしても「子どもは家畜のように育てる」と言い切れるためには、半端な知識では駄目であり、知識を現実と重ね合わせ明確に作り上げた信念が必要だ。
 小川氏の言う「服従する心」と、「盲目的な追従心」や「スパルタ教育」との違いについてはっきりと自分の言葉で語ることができなければ、そして実際の場面に照らして行動化できなければ、安易にその強い主張に依るべきではない。自分に問いかける厳しさを持てなくては、この実践は汲み取れない。

 「伝わるのはエネルギー」…数年前から自分の中で確信めいた響きを持つ言葉である。今回の本もまさしくそうだ。。
 担任した子どもの首が曲がるほどのビンタや校長室での子どもへの五、六発の蹴り飛ばし…小川氏がそうしたエピソードで伝えたいのは、懲戒の効果や仕方ではなく、その行動を支えるエネルギーなのだと思う。