銭湯の散歩道

神奈川、東京を中心とした銭湯めぐりについて、あれこれ書いていきます。

江戸文化を今に伝えるー飛田新地

2022-08-18 06:40:00 | 歴史

独自の風習が息づき、おおくの分野で異彩を放つ大阪。そんな大阪にあってひときわ特異な場所が飛田新地です。





“新地”をご存知ない方もいらっしゃると思うので簡単に説明しますと、遊郭の看板を掲げながら本番行為ができるお店の集まった地域のことをいいます。
名目上は飲食店でありながら、客と女の子が恋愛関係になって店のあずかり知らぬところでエッチをしているというありえないシチュエーションで運営されています。

大阪にはいくつか新地ー五大新地と呼ばれる場所ーがありますが、とくに美形ぞろいとして有名なのが飛田新地(とびたしんち)になります。
本番の性サービスをする場所ならどこでもあるのではないか? と思われるかもしれませんが、ここはそうしたところと一線を画しています。
決定的に違うのは、軒先で若い女性が姿をさらして客を誘惑しているところです。


▲160店舗が軒を連ね、単純に考えて同時に160人の女の子から選ぶことができます。5~15分ほどで控えの女の子と交代するようなので、何人の女の子が在籍しているのか想像もつきません


▲青春通りが一番若い女の子のいるホットスポットで、愛嬌で定評があるのがメイン通り、年上のお姉さんたちがんばっているところは妖怪通り(年金通り)と呼ばれています


ソープランドはお店の中に入ると写真から相手を選ぶシステムなのですが、写真には必ず“修正”が施されており、実際に対面するとアレ?と思うことは少なくありません。
いわゆるパネマジ(パネルマジックの略)と呼ばれるものなのですが、風俗業界の由々しき商習慣になっています。
客もそのあたりは重々承知しているのですが(もちろん納得してないとは思いますが)、実際に会ってみないとわからないという不安は常につきまといます。

その点で飛田新地は“本物”の女性が目の前に座っているので、騙される心配はなく、しかも美形ぞろいとなれば男性たちが色めき立つのも無理はありません。
こうした仕組みは江戸時代の性風俗文化を引き継ぐものであり、現代に生きた伝説と呼べるのかもしれません。


▲最寄り駅のひとつが天王寺駅になります


▲天王寺駅からあべのハルカスを背にして西南方向へと歩きます。写真は来た道を振り返ったところ。右奥にあべのハルカスがみえます


▲歩いて10分ほどで新開筋商店街にたどり着くことができます。写真から見て左側に進むと時計台があり、それが飛田新地への一番の近道になります。
ただ今回は正面方面に向かいます


▲時計台と嘆きの壁です。むかしは身売りされた女郎たちが逃げられないように高い壁で覆われていました。悲しい歴史を今に伝える建造物です


▲商店街の中へと入り


▲ちょっと歩けば飛田新地の入り口がみえてきます


▲飛田新地料理組合の目の前にきました。敷地ではおじいちゃんたちが水まきをしていますが、これが飛田新地を牛耳る人たちです。
ここから雰囲気がガラリと変わり、ネオンが色っぽく輝いています


建物はそれぞれ若干の違いはあるものの原則的にほぼ同じ作りになっており、女性がスポットライトをあびながら正面に座り、その横にはかならず客引きのための仲居さんが佇んでいます。
仲居さんはほとんどが年配女性のために「やり手ババァ」などの愛称で呼ばれています。
基本的に女の子が客に直接声を掛けるのは御法度になっていて、(自分のときは女の子から「そこのメガネ君!」と呼ばれましたが…)、仲居さんがかわりに男性客に声かけます。
「お兄ちゃん!」「ちょっと見て!」「いい子やで!」などが常套文句です。

観察していると、男性たちはそんな声に反応しつつも、チラッとだけ女の子をみます。気恥ずかしさや照れがあるのかもしれません。
通りを歩く男性のほとんどは若者で、2~3人の友人たちと(多いときには7~8人)連れて歩く姿が見られます
決める際にはいきなり見初めるのではなく、良さげな女の子を心に留めながら一巡してこの子と決めるようです。やはり一番いい女の子を選びたいという心理は誰もがもちますよね。
ただあまり時間をかけてしまうと、せっかく決めたのにすでに違う男性客に取られてしまっていたなんてこともあるようなので、なかなか悩ましいところです。
通常の風俗店だと客と女の子の組み合わせは厳重に秘匿されますが、ここではすべてがつまびらかにされます。
印象深かったのは、選ばれた女の子がなんともいえない表情を見せることです。まんざらでもないアヤを含ませた微笑は色っぽかったです。

性サービスに関してもソープランドと新地は異なっていて、ソープランドはたいていのサービスがおこなわれるのに対し、新地は接吻や胸に触ることが禁止されています(女の子によっては一部可のようです)。
できるのは本番のみ。
このあたりで不満に思う男性は少なくないようです。人間ダッチワイフなんて揶揄(やゆ)されることもあります。
ただ逆にいうと、制限をもうけた回転効率の高い仕組みだからこそ全国から粒ぞろいの美形が集まるといえるでしょう。

もう一点興味を引いたのは、値段が一律おなじだということです。
料金は以下のとおり

15分=1万1000円
20分=1万6000円
30分=2万1000円
45分=3万1000円
60分=4万1000円

配分率は50%が女の子、お店は40%、残りの10%が仲居さんだそうです。

一般的に、現代で物価統制例が施されているのは銭湯業界のみと言われていますが、表だって存在を指摘されない新地が事実上の物価統制を敷いているのは興味深い点です。
おなじ風俗という言葉で表現される双方の業界ですが、そこに通底するのは競争よりも共存共栄、言い換えれば組合がきわめて強い力を発揮している組織だからかもしれません。











ヴェルニー記念館ー富国強兵の原点

2022-06-30 04:18:00 | 歴史






JR横須賀駅から歩いて20秒ほどのところにあるのがヴェルニー記念館です。建物の敷地にある公園からは護衛艦や潜水艦を眺めることができます。
記念館の名前であるフランソワ・レオンス・ヴェルニーとは、幕末の頃に幕府が横須賀製鉄所を建造するにあたって嘱託したフランス人設計者。いわゆるお雇い外国人です。
28歳の時に来日し、政権が幕府から明治政府へと移行する時でも、仕事を投げ出すことなく最後まで完成させました。



最寄り駅はJR横須賀駅。京急の逸見(へみ)駅からだと、歩いて10分ほどで来ることができます



改札口をでて左に曲がれば、ヴェルニー記念館をみつけることができます



この日は護衛艦が停泊していました



調べてみると海自護衛艦いずものようです。ちょうど環太平洋合同演習(リムパック=2年おきに開催される世界最大規模の多国間訓練)へ出港する直前にお目にかかることができました



後ろにも護衛艦があります




帰りはゲリラ豪雨に見舞われました



さっそくヴェルニー記念館に入ってみましょう



最初に目に飛び込んでくるのは、スチームハンマーです。こちらは0.5tタイプになります



上から見るとこんな感じ



通路の右パネルには、ここの主人公であるヴェルニーさんが紹介されてあります



横須賀製鉄所(のちの造船所)を作るにあたって滞在先の中国から招聘されたヴェルニーは、最初の試作として横浜(いまのJR京浜東北線の石川町駅裏側)に小規模な製鉄所を作るよう指示し、その後は横須賀で本格的な製鉄所建造に乗り出します




こちらは戦艦陸奥の模型です




陸奥は横須賀で建造されたもので、建設当時は世界で珍しい40cm砲を搭載していました。世界7大戦艦の一つにも称され、いかに日本が目覚ましい発展を遂げたか分かります



建物がある公園に陸奥の主砲があります



今みてもかなり大きいです



入り口の右奥に見えるのが、ここの目玉である3トンのスチームハンマーです。
これは1996年まで現役だったというから驚きです



なぜこれが重要かといいますと、スチームハンマーがあることではじめて戦艦を建造することが可能だったからです。それまで日本の技術では大きな鉄を加工することはできませんでした。工場の機械もスチームハンマーがなければ作ることはできなかったので、スチームハンマーこそ近代産業のマザーマシンなのです。



これらのスチームハンマーは1865年に製造されたもので、オランダから購入しました。造船所の部品もこのスチームハンマーから作られています



圧倒される巨大さです



スチームハンマーの仕組みが解説されてあります



動画でも紹介されてありますが、鉄を押しつぶす動きは迫力があります



むかしの横須賀製鉄所の写真です







実は今でも現役で、



横須賀米軍基地内で使われています


日本のモノ作りは世界中から高く評価されていますが、その近代産業の原点を探ると横須賀にたどり着くことができます。
ヴェルニーは単に工場としての製鉄所を作っただけでなく、学校も建設して人材育成に尽力しました。
ソニー創業者の盛田昭夫もこの横須賀で航空技術を学んでいます。横須賀を端に発した近代産業の系譜は、現在でも様々な組織に引き継がれているのです。









近代産業のはじまりー横須賀製鉄所

2022-06-29 08:17:00 | 歴史

日本の近代産業のはじまりはどこから起きたのかご存知でしょうか?

一般的には貿易がはじまる日米修好通商条約あたりから横浜を起点に西洋の技術導入が広がったというイメージがあるかもしれませんが、実はその胚芽とよぶべき場所が横須賀にありました。
かつてバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎は、ロシアに勝利できたのは小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただのぶ)のおかげと述べています。
その小栗忠順がつくったのが横須賀製鉄所でした。






横須賀製鉄所は、明治政府が樹立される以前の幕末のころに遣米使節(日米修好通商条約の批准を目的とした旅)でアメリカの産業をつぶさに見学した小栗忠順が世界と互すためにも日本におなじような施設が必要だと考え、幕府に具申して実現したものです。
当時の幕府は慢性的な金欠状態で製鉄所をつくる余裕など無かったのですが、小栗が話を強引にすすめると後戻りできない状態にしてしまい、反対派の声をふうじ込めました。
それがのちに日本における近代国家の礎となったのです。


▲日本近代産業の父である小栗上野介忠順の肖像画。別名は又一。ご先祖様が戦国時代にいつも一番に駆けつけて、大将から「又お前が一番か!」と言われ、子孫も又一と名乗るように言われたからです


この横須賀製鉄所がいかに革新的だったのかは、その運営方法を知れば理解していただけると思います。
当初、横須賀製鉄所をつくるにあたってアメリカ人にたのむ予定でしたが、この時のアメリカは南北戦争の真っ最中で外国に技術者を派遣する余裕などありませんでした。
そこで白羽の矢が立ったのがフランスでした。あるいはフランスの方から歩み寄ってきたと言うべきかもしれません。というのも当時のフランスはカイコの伝染病により自国生産の生糸が壊滅的状況におちいり、伝染病に強いカイコや生糸を輸入する必要に迫られていました。当時の日本の主力貿生品は生糸だったので、双方にとって願ったりかなったりでした。
そこで駐日フランス公使や小栗らが会談して、中国にいたフランス人技術者ヴェルニーを呼び寄せ、彼に任せることになりました。
この横須賀製鉄所が現代に与えた影響はとても大きく、特によくとりあげられるのはメートル法の採用です。今では当たり前に使っている長さの基準ですが、このメートルは横須賀製鉄所から導入されました。
もしもアメリカ人に製鉄所の設計を頼んでいたなら、現代で使われている尺度はインチになっていたかもしれません。
労働管理において時間単位が導入されたのもここが初めてです。それまでは1日の仕事は日の出から日没までという季節によって時間が異なるアバウトなものでした。
そこで西洋式の時計台を作り、時間単位で労働を管理することにしました。日曜日を休日にしたのもここがはじめて。さらには給与の支払いを月給にしたのもここがはじめて。
ようするに、今では当たり前と思っている労働管理のすべてがここから始まったのです。