銭湯の散歩道

神奈川、東京を中心とした銭湯めぐりについて、あれこれ書いていきます。

地下鉄博物館ー東京の地下鉄は不撓不屈の精神により掘削された

2022-09-29 06:26:00 | 博物館


東西線の葛西駅に隣接する地下鉄博物館に行ってきました。今回の特別展は地下鉄の父と呼ばれる早川徳次に関するものです。



チケットを購入すると、入り口は改札口になってます。このあたりからコダワッテますね。



最初に出迎えてくれるのは昔の車両。当時の地上にある鉄道は地味な色ばかりだったそうですが、地下鉄は黄色や赤などビビッドな色が使われました。今見ても大胆で斬新な色使いです。





すみっこにあるのは早川徳次の胸像。こちらが東京の地下鉄を最初に提案し、実行し、経営した人物です。





開業ごとの記念チケット。



最初の銀座線は10銭均一だったので、チケットがありませんでした。なので記念チケットも当然ありません。



こちらは舞台裏コーナー。どうやって地下鉄が作られるのか、どのように整備しているかなどを解説してあります



副都心線の高低差が分かる模型があって



池袋から雑司が谷で一気に下るのは歩いていて実感しておりました。



渋谷ももちろん。谷とつく地名は文字通り谷になっております。



地下鉄を掘る際に、実際に使われたシールドマシンの刃です。






シールドマシンの後ろは延々と機械が連なっており、動く工場といった様相です。





パンタグラフなんかもあり





シミュレーションコーナーが特に充実しています。





お子さんたちが夢中になって遊んでいました。







今回の特別展は早川徳次さん。東京に地下鉄を作った人物です。





山梨県に生まれ、最初は政治家を志して後藤新平の秘書になるのですが、そのうちに鉄道に関わるようになって鉄道の重要性に開眼します。



ロンドンの地下鉄を視察して、東京にも地下鉄を作るべきだと決意します。それがのちに日本初(しいてはアジア初)の地下鉄になりました。





なにごとも先立つものは金ですが、その資金を巡って当初は苦労します。外資導入を検討しますが、同意直前に関東大震災が起きて見送られます。それからはじめに計画していた浅草ー新橋間の運行をとりやめ、浅草ー上野間に絞ります。
工事も決して順風満帆だったわけではなく、豪雨による浸水や陥没、事故によって進退伺いを求められる時もありましたが、「大事を成し遂げるには、 心の平静を保つことこそが最も必要」と信念を貫き、批判をしりぞけました。



運営に際しては当時の最先端技術を多く取り入れ、安全面でもATS(自動列車停止装置)が導入されるなど画期的なものばかりでした。



内装は豪華です。間接照明を使ったりと、デザイン性も秀逸でした。



今までにないオシャレな制服も採用され、煌びやかさが随所にみられました。



経営もやはり苦労の連続です。世間は不景気で、早く借金を返せの要望により一時期は倒産寸前まで追い込まれますが、どうにか持ちこたえます。



こうした金の苦労もあってか、経営の多角化に乗り出します。阪神急行電鉄(いまの阪急電鉄)の手法にならい、雷門ビルを建設。さらには日本初の地下商店街「上野地下鉄ストア」を開業します。
当時の人々は地下に商店街があるなんてびっくり仰天したと思います。現在はその跡地に東京メトロ本社ビルが建っています。



さらには百貨店と提携します。
三越が本店前を通過することを知ると、駅の工事費を出す代わりに駅名を「三越前」にしてくれる?と提案します。お金を出してくれるならばお安いご用!と承諾します。
さらには、松屋(いまの松屋銀座)が身を乗り出してきて、金を出すから上野と末広町の間に駅作ってくれよと言われ、お金を出してくれるならばガッテン承知の助!と今度は上野広小路駅を作ります。とりあえずお金を出してくれればなんでもありだったようです。
日本橋駅は白木や高島屋、銀座駅は松屋が関わっています。のちにデパート巡り乗車券まで販売されます。
東京メトロってなんでこんなにデパートとつながってるんだろう?と思っていたのですが、こういう百貨店との蜜月は開業当初から始まっていたんですね。



こうした経営の才気煥発ぶりはほかでもみられました。
たとえば延伸によって浅草ー新橋間が開業した際には、3日間に限り運賃無料を計画。融通のきかない省庁から許可が下りないと、最高15銭だった運賃を3日間一律5銭にして、さらには福袋にお菓子とおもちゃを詰めて配り、記念乗車券を販売。くわえて流行歌のレコードを作成して、優待券と一緒に近くの喫茶店や食堂に配ったといいます。地域全体を巻き込んだイベントに発展して大いに盛り上がったようです。



デパート巡り乗車券は、いまはお得きっぷのハシりでした。




このように幾多の困難と試練に直面しましたが、創意工夫によって乗り越えて今に至ります。現在の様々なサービスも源流をたどれば、こうした早川徳次さんの始めたことが多いことに驚かされます。

「およそいかなる世にも仕事をするに大切なものはひとである。…殊に大切なのは人の和である」

「必要の事は何時か必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変へて行く」

こうした信念に基づき、反対や批判の声をはねのけて偉業を達成しました。
アイデアの創出とともに信念を貫く大切さはいつの時代も普遍なんだとあらためて思い知らされました。


植村冒険館ー限界に挑戦した男の物語

2022-05-05 07:21:00 | 博物館



2021年の春先まで東京板橋区の蓮根にあった植村冒険館が、昨年度の12月にリニューアルオープンしました。
移転した場所は植村が結婚してから住んでいた場所であり、当人ゆかりの地でもあります。
近年の博物館らしくプロジェクターマッピングを駆使するなど、かなりバージョンアップしていました



最寄り駅は板橋区役所前駅です



加賀スポーツセンターという中に入っています



駅から真っ直ぐ進んだ先にあるのが加賀スポーツセンター



3階にあります



さっそく壁一面に写真のパネル。これらは建物全体のいたるところに飾られてありました



3階に到着すると、ここが入り口です。
中に入ると検温、アルコール消毒をして記念スタンプの紙が渡されます。
写真を撮って大丈夫か尋ねると、動画や写真(植村直己が撮影したもの)、手紙などの接写はダメですが、全体の構図であれば問題ないとのことでした。
最初にあるのがプロジェクターマッピングの動画です。地球儀に手をかざすと始まるもので、三本の動画がありました。
植村の足跡を簡単に紹介したものだったのですが、よくできた内容でつい見入ってしまいました



植村はすごく物を大切にする人で、気に入ったものはいつまでも使い続けていたようです。飾ってあるセーターはいろんな写真で見ることができます。いまはセーターで登山することはありえないので、時代を感じさせます



本棚と右にあるのは各地で集めたお土産。終生の宝物だったようです



植村は23歳のときに船で片道切符を握りしめて単身アメリカに渡り、現地の農場で勤務して旅費を稼いでいました。
ただ就労ビザのない不法労働者だったので、途中で逮捕されてしまいます。
熱意の説得でどうにか強制送還は免れますが、アメリカからは出て行かないといけないのでフランスに渡ります。
そこで運良くオリンピック選手だった人のスキー場で働かせてもらえることになり、フランスを拠点に各地の山をのぼることができました。
とにかく人から好かれる才能の持ち主だったようで、どんな国でも現地の人から援助の手をさしのべてもらっています。彼の人徳なくして数々の成果はなかったでしょう



冒険家になるキッカケは明治大学の登山部に入ったことでした。当時は先輩のしごきに音をあげますが、見下す部員たちを見返したい一心で鍛錬を重ね、やがて山に魅了されるようになります。
4年生のときは実力が認められて副部長に任命されます



アマゾンのイカダ下りのときを再現したものです。60日間ものあいだ手作りのイカダだけでアマゾンを下ります。当然ながら食料は現地調達。魚を釣ったりしていました。ここでも初めて知り合った人たちにバナナなどを譲ってもらっていたようです



これはエベレストで使った道具。カメラはそのときに使用したもので、キャノン製です。植村は、日本人で初めてエベレストに登頂した人ですが、世界で初めて頂上からカラー写真を撮影した人物でもあります



エベレスト国際隊のときに使用したザックや手袋と目出帽。当時はこれで登ってたことが衝撃的でした。
いまだとユニクロやワークマンで売ってるものの方が遙かに優れています



イカダ下りをしたときのパネル。いまだとYouTubeとかで配信していたかもしれません。ただ現代で同じことをしたら相当なバッシングを受けただろうと思います。それぐらい命知らずの無謀な冒険でした



アマゾン川とイカダ下り。イカダは現地の人に作ってもらいました。見知らぬ土地に単身で乗り込んで、現地の知り合いになった村人たちから作ってもらえるなんてスゴいことです。
グリーンランドでは彼の切手が販売されましたし、エスキモーの地では彼の名にちなんだ山まであります



とくに植村を有名にしたのが犬ぞり北極点到達の冒険です。これは文字通り命がけの冒険でした。
というのも南極は大陸がありますが、北極にはありません。なので巨大な氷の上を走り続けるために、時には亀裂があったり、氷山があったり、シロクマにおそわれたり、氷が溶け始めて水浸しの中で走ったりと(犬がですが)、とてつもない旅路でした。
食べ物は凍った馬の足を削って食べるなどして、文字通り原始人と変わらない食生活でした。ただ、唯一文明らしかったのはmaximのインスタントコーヒーを持ち込んで飲んでいたことでしょうか



アザラシの毛皮で作った手袋と犬をコントロールするための鞭です



こちらはニコン製のウエムラスペシャルと呼ばれるもの。寒さに強く、リモコンを使ってシャッターを切ることができる優れ物です。今の時代でも遜色ない出来映えと思いました



最後は43歳の誕生日をむかえたばかりの厳冬期マッキンリー(現在はデナリと呼ばれています)を登頂した直後に行方不明となりました







マッキンリーはかなり危険な挑戦だったようで、伝説となる悲劇でした





足跡をたどった年表です



19歳で登山の世界に足を踏み入れて、ゴロゴロ転がっていたため、あだ名はドングリと呼ばれました


たった9年後には28歳で日本人としてはじめてエベレストに登頂



43歳でマッキンリーに消えました





数々の功績で国民栄誉賞に輝きました。ただし、行方不明になった後でもらったものです



最後は過去の映像を編集した番組が放映されてました。

命を掛けてまで挑戦することが正しいのかどうかはわかりませんが、挑戦なくして歴史に足跡は残せないことを体現した人物だったのではないかと思います

インターメディアテクー日本郵便と東京大学のコラボによる教育現場ヒストリー

2022-01-27 06:27:00 | 博物館






案内

開館・利用案内

開館時間:11:00-18:00(金・土は20時まで開館)
*上記時間は変更する場合があります。

休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休館)、年末年始、その他館が定める日

入館料:無料

問い合わせ: 050-5541-8600 国外からは +81-47-316-2772(ハローダイヤル)



インターメディアテクとは?

日本郵便と東京大学が共同で運営している博物館のことです。明治時代から東京大学が蒐集してきた学術品を社会に還元するという名目で一般公開しています。

ここは元々郵便局の建物で、kitte(「切手」と「来て」というタブルミーニングが言葉の由来。正式名称はJPタワー)と呼ばれ、その2、3階にインターメディアテクが入っています。



東京駅です





南口方面の改札口を抜けると





キッテが目の前にみえます



デカいです



入り口です



中に入るとこんな感じ。超一等地なのにひろく空間を使っており、日本郵便の資金力をまざまざと見せつけられる思いがします





入り口横にインターメディアテクの案内板をみることができます。
こちらは小室圭さんと結婚された眞子様(現在は小室眞子さん)がつとめられていた仕事場になります。訪れたときはまだ在籍していました



エスカレーターで2階にのぼると、すぐ目の前がインターメディアテクの入り口になります


中に入ると制服を着た女性が数人いて、笑顔で対応してくれます。アルコール消毒をお願いされて、自由に見学してくださいと言われます。
写真撮影に関して厳しく限定されており、入り口付近と教室の場所しか撮影は許されておりません。
スタッフも多くていて、常に目を光らせているという印象でした



とくに順路は決まっておらず、気ままに室内を散策することができます。最初に訪ねたのは、明治時代の気風を感じられる東京大学教室の風景です。
新しい時代のエリート層を育成するという気概に満ちていました


東京大学の功労者たちをたたえた油絵も各所に飾ってあります。
 




こちらはなんと映写機。
大がかりな造りで相当古いことが分かりますが、年代未詳のようです





蓄音機。1925~1928年の物だそうです。ということはちょうど100年前。こうして考えると、人類の進歩は凄まじいものがあります。今から100年後はどうなってるか想像もつきません





こちらは入り口に入ってすぐの空間



蒸気機関の模型です





ワニの骨格標本。めちゃくちゃデカいです



静電気の実験機。つい最近まで東大にあったそうです。いまとなっては歴史を伝える遺物でしかないでしょう




2階は、骨格標本がメインとなっており、蟹や魚、それになんとキリンまで!
ミンククジラの骨格もあり、さらには絶滅したダチョウの仲間であるエピオルニス(と思いました)まで。高さは2メートル以上あって、こんな大きな鳥がいたんだとビックリです。
奥に行くと、フランスの収集家が集めたコレクションが紹介されてありましたが、なぜかそこにも蓄音機。とにかく蓄音機が所々置かれてあります


二階の階段をのぼると最初は多くの剥製が出迎えてくれます。
さらに部屋の奥から見ていくと、明治時代の写真。一般女性や若い男性。明治天皇の写真もあります。じつは明治天皇は身長や寸法を計られるのが大っ嫌いなお方だったらしく、写真が残ってるのはすごく珍しいそうです。みるかぎりだと足が長くて長身にみえます。
ほかにも徳川慶喜の若い頃の写真があってかなりのイケメンです


真ん中付近にかけては仏像が並び、森羅万象を記録にとどめようとする知的好奇心に満ちています。
手前側には掛図。黒板のところで人体の絵図を指し示しながら説明する絵柄です。美術大学の学生もアルバイトで描いていたらしく、芸術性に富んだ絵もありました


全体的にみると蒐集された学術品というよりは、教育現場で使われたアイテムが紹介された感じの場所です。
楽しく知の現場を散策できる、そんな博物館でした



お札と切手の博物館ーお札の秘密を探る

2022-01-20 09:53:00 | 博物館






開館時間
9:30~17:00

入館料
無料

休館日
月曜日
(祝日の場合は開館、翌日休館)
年末年始 臨時休館日

住 所
〒114-0002
東京都北区王子1-6-1

アクセス
▼JR京浜東北線王子駅下車
徒歩3分(中央口)
▼地下鉄東京メトロ南北線王子駅下車
徒歩3分(1番出口)
▼都電都電荒川線王子駅前下車 徒歩3分

出典:お札と切手の博物館ホームページ引用


みなさんが大好きなお金にまつわる博物館に行ってまいりました。
この博物館で知ることができるのは、なんといってもお金の魅力!
ではありません。人類が築き上げてきた印刷技術の英知です。
国家が威信を掛けて作り上げるお札には、誰もまねできない最高水準の印刷技術が惜しみなく注ぎ込まれています。
お札に隠された秘密を知った時きっと取り出して眺めたくなること間違いなしです。
 

▲お札と切手の博物館は、最寄り駅が王子駅になります。王子製紙の由来はこの地になります


▲振り返ると大通りがみえますが、この奥右手の建物が博物館になります


▲歩いてすぐに到着


▲博物館の入り口です。ここは国立印刷局の一つで、みなさんのお手元にあるお札はここで作られているかもしれません(印刷局はほかにも各地にあります)


▲入場料は無料です


中に入ると、案内してくれる男性が立っており、検温、アルコール消毒をしたあとに代表者のみが用紙に人数やどこから来たのか(都道府県のみ)などを書いて、決まり事を守りますという欄にチェックして手渡します。
その後に男性が丁寧に博物館の概要を説明してくれます。写真撮影も可能で、一部撮影できない箇所もあるのですが、本当に一部だけでした。


▲最初は原板制作の解説になります


こういう道具を使って肖像画を作成しています。模様は機械で作ってるそうですが、歯車の組み合わせが分からないと作れないものらしく、お札にはあらゆる偽造防止策が張り巡らされています。
ちなみに世界中でなぜお札に人間の肖像画が使われるかはご存知でしょうか?
人間は人の表情に対してすごく敏感に反応できるようになっていて、些細な違いでも見分けることができるからです。
こうしたことも偽造防止の観点から採用されています


▲こちらは2024年からお披露目されるお札になります。
1000円札は北里柴三郎さん。ノーベル賞1号になってた可能性があるほど凄い業績をあげた人物です


▲津田塾大学を創設した津田梅子さん。
女性の社会進出を大きく飛躍させた役割を果たしました

ちなみにこちらの写真は実際の写真を反転させたもののようです




▲そして10000円札は、今注目されている渋沢栄一さん。作った会社は数知れず、しかも今の日本になくてはならないものばかりです。英雄色を好むで晩年まで相当な女好きだったようですが、実績を天秤にかけたらご愛嬌といったところでしょうか


▲新しいお札には当然新しい技術が導入されており、3Dホログラムとすかしの微細化が目玉だそうです



この方たちが選ばれた背景には、偽造防止を優先するために精密な写真が残っていたこと、政治家や軍人をのぞく明治以降の社会に貢献した人たちのようです。
ちなみに新しいお札は、ここの印刷局から最初に作られています。印刷所が肖像画の渋沢栄一さん(晩年は王子駅すぐ近くの飛鳥山に住んでいた)とご近所というのもなにかの縁でしょう


▲注目するのがこちら。偽造防止を学べるコーナーです


▲肉眼でみるとアラビア数字の中に模様があるのはわかりますが、こういう独特の模様になってるとは知りませんでした


▲これはペダルを踏むと、お札が傾いて潜像模様が浮き上がる仕掛けです


▲こちらは二千円札。関東では存在すら見かけないものです

▲この赤い枠の部分が傾けると潜像模様「NIPPON」がみえてきます。お手元にあれば試してみてください。
潜像パールは、「千円」と「1000」の文字が浮かび上がります





ほかにも数多くの技術が投入されており、驚く技術ばかりです。
たとえば「すかし」。
真ん中にあるのはみなさん知ってると思いますが、右端にバーのすかしがあるのはご存知だったでしょうか?
1万円は3本。5千円は2本。千円は1本です。実はここで知るまで気が付きませんでした。


▲右に3本の柱が透けているのが見えるでしょうか?



お札の右下には手触りでわかるように模様が深凹版印刷がされています。これらも金額に応じて変えられています。
光学的変化インキでは、お札を傾けると金額の数字が緑から紫に変化します。これらも特殊なインキを使わないと表現できない偽造防止策です。



▲二階は本格的な解説になります。全て紹介すると途方もなく長くなるので、簡単にかいつまみます


▲お札の歴史


▲お札は中国から始まってます。マルコポーロはお札のお金があることに衝撃を受けたそうです


▲初期のお札です。今みると精度は低いのですが、その当時の最先端の技術が投入されています。お札を知ることは、印刷技術の歴史を知ることに通じます


▲印刷局の創設。明治時代の頃は印刷技術を持ち合わせていなくて外国に製造を委託していました


▲ドイツやアメリカなどです




▲そこからどんどん技術を高めていきます。お金が偽造されると経済にダメージを受けるため、いかに偽造されないかが国家的命題でした




▲戦争や大震災のときは裏面印刷を端折るなんてこともしてたそうです






▲そして戦後のお札




▲現代のお札です




▲今回の特別企画展になります。印刷局が作られて150年。その足跡をたどります


▲本当に初期の頃のお札。こんな冊子みたいな形をしていました




▲印刷局で使われていた機械


▲ホログラムとかはありませんが、技術の確かさを感じ取れます




▲彫刻で作られている肖像。いまはヨーロッパ式とアメリカ式を混ぜて作っています




▲この道具だけで作られています。まさに職人技です




▲これが彫刻だなんて信じられません


▲そしてすかしの技術




▲巨大なすかしです




こんな風に偽造防止策は国をあげて取り組んでいるために、時代とともに着実に進化してきました。
日常的に何気なく使っているお札ですが、人類の英知いかんなく注がれていると思うと、その金銭的な価値だけではなく、一つの芸術品としても見ることができるのではないでしょうか。


(閲覧注意)目黒寄生虫館ー多様性生物のアイコン

2022-01-06 06:17:00 | 博物館







今回訪れたのは、東京の目黒にある目黒寄生虫館です。
入場料は無料で、篤志によって運営されている東京が誇る博物館です。

こちらは名前の通り寄生虫に関するもので、かなりグロテスクな写真があるので、苦手な人は見ないでくださいね♪

寄生生物の種類は自由生物(寄生しない生き物)よりも種類が豊富とされており、生命の多様性を知る手がかりにもなります。科学的観点では重要な役割を果たす寄生虫の世界を探検したいと思います!



最寄り駅は目黒駅です。西口から出発。



スターバックス日本法人本社の建物を通り過ぎて



桜で有名な目黒川を渡った先にあります(地図の一番右端にあります)。



橋を渡って



到着。歩いて12、3分といったところでしょうか。まあまあの距離です。



中に入るとさっそく標本がどーんと真ん中にあります。


 
こちらの寄生虫館は、もともと一介のお医者さんが一般の人たちにもよく知ってもらおうと私財を投じたもので、当初から入場料は無料で運営されているようです。



医学博士の亀谷了(1909-2002)が、1953年に創設。色々とリニューアルしながら、今に至ります。



こちらは寄生虫を網羅した系統図。寄生虫といってもすごく沢山の種類、形、動態があって多様性に満ちています。



ノミや蚊も寄生虫に分類される仲間なんですね。



寄生虫の定義などが書かれています。寄生虫は、パラサイト。ようするに寄宿する動物から栄養を奪う生き物です。
でもどんな生物だって、ほかの生き物から命(栄養)を奪ってる生きてるわけなので、本質は変わらないと思います。



似たような生き物と比較して、その特徴を示しています。
寄生虫になると自立した機能が退化して、寄生しやすいように体が小さくなったり機能が変化します。
どんな寄生虫ももともとは自由生物だったのですが、自由を捨てて寄生の道を選んだようです。



なんだかエイリアンみたいです。





ウミガメの瞼に寄生する寄生虫



人間に寄生する生き物





こんなのがお腹に入ると思うとゾッとしますが、一昔前までの日本人のお腹にはこのような寄生虫が住んでいました。



魚特有の寄生虫。宿主に応じて寄生虫は進化してきました。



寄生虫というと、気持ち悪い形態の生き物を想像しますが、こういう巻き貝も寄生生物になります。



二階は人体の寄生虫に関するもの。ここから刺激的な写真が多くなります。



ペットなどの寄生虫。これが人間に移ることがあります。



猫回虫。公園の砂場とかは要注意です。


エキノコックス。これはけっこうヤバいやつになります。



実験で寄生させられたネズミ。



人間の肝臓に寄生して末期になるとこうなります。



紹介されてるのはごく一部ですが、それでもよくこれだけあるなというぐらい寄生虫は多種多様の宝庫です。


 
バンクロフト糸状虫。西郷隆盛が感染していたので有名です。熱帯地方で蚊に刺されると感染します。





おちんちんがこうなります。
実は西郷隆盛は、写真を取られることを頑なに拒んできた人で、西南戦争の時に銃で撃たれて自害するのですが、官軍は誰が西郷隆盛なのか顔を見ただけでは分かりませんでした。しかし西郷隆盛の陰部が腫れ上がっていた(正確にはリンパ系フィラリア症により陰嚢が象皮症)なのは知られていたので、股ぐらをみて西郷の死を確証したというエピソードが残っています。



河川盲目症(もしくはトラコーマ。オンコセルカ症)。こうした感染症は現在ではコロナで有名になったイベルメクチンを使って退治します。


かつては日本でも土着のマラリアが生息しており、平清盛が熱病にうなされて死亡していますが、マラリアのせいではないかと言われています。
マラリアの特効薬として、キニーネというものがあります。キナの木から抽出されたもので、かつてはイエズス会の粉と呼ばれ、キリスト教の布教に一役買ったなんてこともありました。
現在では様々な薬が開発されていますが、人工的な抗生物質は時間の経過とともにことごとく耐性をもたれるのに対して、キニーネやペニシリン(青カビから抽出)などの自然から作られた薬は現在でも突破されずに健在です。
やはり自然に生み出されたものには、なにか人間の知恵では及ばない特別な法則が潜んでいるのかもしれません。



ギョウ虫。この手はなじみのある単語ですね。小学校の時にお尻の穴に粘着質の紙を当てて検査した記憶がある人は多いのではないかと思います。




一時期は国民の多くが感染してたそうですが、いまは1%以下ということで、2015年以降は検査を止めたようです。



そしてオーソドックスなのが回虫。江戸時代の頃は人糞を発酵させて畑に撒いていたので、そこから育った作物を食べることで多くの人に回虫がいました。いまは下水道が完備されてほぼいない状況になります。





そして今でもなにかと話題になるのが



アニサキス。これは体験者によると相当痛いらしいですね。



この兄貴です。



ちゃんと処理してない生魚に潜んでおり、うっかり口の中に入れてしまうと地獄の苦しみが待っています。



冷凍すると死んでしまうので、冷凍したものは確実に安全ですが



加熱は表面だけだと内部で生きている可能性があるようです。



寄生虫の模型。生々しいです。直視したくないものばかりでした。



よく聞くサナダ虫。なんでサナダ虫と呼ぶんだろうと思っていたら、もともとは真田紐というのがあって、それとソックリなことから名付けられたようです。たしかに似てます。
しかしこんな長いのが体内に入ってたらと思うと気持ち悪いです。ちなみに展示されてるのは、実際に40代の患者から取り出したもののようです。





こんな小さな幼虫からこれほどの長さになるわけですから驚異ですね。


こんな感じで一つひとつ見ていったら半日は掛かるんじゃないかと思うほど充実したところでした。

日本は清潔な環境のため寄生虫に取り付かれることなく生活を送ることができますが、これは先人たちが努力して作りあげてくれたインフラのおかげです。
また医療関係者や政治家の努力も見逃すことはできません。
ちなみになにかと批判される森喜朗さんですが、20年以上も前にエイズ・結核・マラリア対策の基金(グローバルファンド)の設立に奔走しています。
多くの人たちのおかげで今があることを感謝したいと思います。