飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について あとがき

2013-01-30 15:35:23 | 邪馬臺国
『「魏志倭人伝」里程記事について』を無事、書き終えることができました。飛鳥昭雄氏の著作を読んで大まかな把握をした後は、既知の情報として扱い、様々な場所で論の前提として利用すらしていましたが、いざこのように自分で記事としてまとめながら詳しい検討を加えてみると、飛鳥昭雄氏の結論にも若干の修正を加えなければならない点があることや、魏志倭人伝里程記事解釈を廻る九州説の論が論として驚くほど脆弱になってしまっていること、忌部氏の存在が予想を遥かに超えて重要であること、瀬戸内の古い地形の朧げながらの成り行き、蘇我氏や中臣氏の意味など、実に多くの発見もできました。貴重な体験だったと思います。それと共に、今後研究課題として詰めていけそうな幾つかの問題も新たに、幾つか手に入れることができました。

それにしても、飛鳥昭雄氏の説の基本的な部分は全く揺らぐことがなく、益々信憑性が増してきたようにすら感じます。できたら、飛鳥昭雄氏にもこの記事を読んでいただきたいと思うのですが、どうしたら可能でしょうか?

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 03(完)

2013-01-30 10:25:13 | 邪馬臺国
紀元前7世紀には、上に述べたような想像以上に発達した海上交通路を利用して、北イスラエル王国滅亡直後の南ユダ王国から預言者イザヤとレヴィ族の一団がユダヤの秘宝を伴って四国の阿波に上陸しました。その後はそこを起点に四国の南部から北東部、紀伊から大和盆地の葛城や三輪山周辺地域、大和川水域や淀川水域、そして吉野へと領域を広げて行きます。

この氏族は南ユダの祭祀族の集団で、通常の部族とは性格が大きく異なっていました。「神武天皇」の誕生年とされる年と同じ年に生まれたことが分かっているユダ王国の王子も同伴していたようです。預言者イザヤには『イザヤ書』を読めば分かるように、鷲の象徴との強い関連性があります。この氏族は後に「忌部」や「賀茂」と、或いは「蘇我」との結びつきが意識された場合は「殷部」の意味も込めて「斎部」などとも表記されるようですが、この忌部氏の信奉する祖先神の名も天日鷲となっています。この集団が移動の際にパートナーシップを結んだのが海のシルクロードの海人族和迩(わに)氏でした。和迩とは恐らくは倭人(わじん)のことです。元々は一般名称だったのに、中東やインドでこの部族を言い表す固有名称に固定され、その後に列島に逆輸入されて「和迩」の文字を当てられ、列島でも固有名詞として通用するようになったのでしょう。王族や祭祀族と、商人の連合体である海人族とのパートナーシップと言えば、シュメールとナーガのパートナーシップやハッティとエブスのパートナーシップがありました。両者は登場する文献も時代も違うために異なる名称で呼ばれていますが、実は一本の線で繋がるものだったようなのです。以来延々と続き、忌部氏と和迩氏のパートナーシップも恐らくは、これと全く同系統のものだった可能性が高い訳です。

ユダ王国の王族を伴った祭祀族忌部は、シュメールとの関連が濃厚です。例えば、シュメールの町であるウルの住人アブラムがウルを出た後カナンの地で「主」と出会い、それを契機にアブラハムと改名し、彼の子孫がヘブルとなったという話があります。当時は、シュメールとアーリアの連合体がアナトリアからカナン、ミタンニ、シュメールにかけて形成されていたのです。「主」のことをシュメールの言葉では「ニン」と言うようです。これは「イン」に通じます。シュメールが中東から駆逐されてシルクロードや海のシルクロード経由で東洋に広がった際の彼等の名称はサカインやシウインで、彼等が中原に打ち立てた国の名は殷でした。実はシュメールと一体化していたハッティがエブスと共同で運営していたタルシッシ船には途中から、ソロモン王も深く関わるようになっていたことが分かってもいます。バビロニアを中心とする王族連合に対抗するような形で、世界史の舞台裏で、シュメールを中心としてイスラエルも包括するもうひとつ別の王族連合が生き続けていたのだとしか思えません。それが列島でも現在に至るまで存続してきたという認識に立つのが当ブログの筆者を含む多くの人の共通のスタンスになっているのです。

シュメールの神話では女神ニンフルサグ=風神イムドゥグドゥフという神が登場します。ニンフルサグとはニン(主)フ(鳥)ウル(動物)サグ(頭)のことで「動物(ライオン或いは犬)の頭を持つ鳥(つまり鷲)の姿をした主」を意味するそうです。また、イムドゥグドゥフとはイム(風)ドゥグドゥ(旋風)フ(鳥)のことで、「旋風を巻き起こす鳥(鷲)」を意味するそうです。この神の使いが二頭の鹿となっている。鷲と鹿のパートナーシップがここに読み取れます。

鷲と鹿のパートナーシップと言えば、日本の『古事記』でも、岩戸開きの神事の描写の中で、忌部氏の祖である天日鷲と中臣氏の祖である天児屋のパートナーシップが出てきます。忌部氏のトーテムが鷲で、中臣氏のトーテムが鹿なのです。中臣氏には先述した通りもうひとつ龍蛇のトーテムもあります。鹿と龍蛇の関係性についてはまだ調査中ですが、きっと何か重要な関係性が見えてくるものとの予感があります。

阿波忌部氏との繋がりの強い紀伊和歌山の紀伊川流域に日前宮(にちぜんぐう)という神社があります。この神宮境内には日前神宮(ひのくまじんぐう)と国懸神宮(くにかかすじんぐう)というふたつの官幣大社が並んで建っています。ご神体は日前神宮が青銅鏡、国懸神宮が青銅矛となっています。この「ひのくま」は「くま」が入る前には「ひのまえ」と言っていたことが、『秀真伝』を読むと分かるそうです。この「ひのまえ」も「くにかかす」も、更には「神官」や「神使」の意味の「おしか」や「しか」や「か」も、「かすが」や「飛鳥」も、「鹿島」や「鹿児島」も、「伊吹」や「指宿(いぶすき)」も、シュメールの神インフルサグ=イムドゥグドゥフと言語学的に密接に関連し合ってていることが分かっているのだそうです(詳しくはこの記事の最後の所に付けた註をご覧下さい)。ここにも鷲と鹿のパートナーシップが把握できるわけです。

要するに、列島に最初に入ってきた文明の担い手であるハッティやエブスと、預言者イザヤを中心とする祭祀族の集団である忌部氏とは、後者が列島に入ってくる前から秘かながらも密接な関係を結んでいて、恐らくは後者が南ユダ王国を捨てて列島に直行してきたのもこの秘かながらも密接な関係の故だったし、後者を列島に運んだ和邇=倭人とはエブス=中臣だった可能性が極めて高いということなのです。忌部氏は大和盆地の葛城や琵琶湖北東から越にかけての息長とも関係を深めながら近畿に地盤を広げ、九州の中臣と蘇我をこれらの勢力と結びつけて邪馬壹国の基盤となる連合体の形成に大きな役割を果たしたのでした。魏志倭人伝の邪馬臺国勢力の基盤のひとつとなった、阿波を中心とした勢力の正体がこの忌部氏だったのです。魏志倭人伝の里程記事から判断すると、この勢力の存在が魏の使者に対して隠蔽されたということになります。

註:東国の相模や房総半島に忌部氏やその祭祀族賀茂氏の拠点に寄り添うように中臣氏や蘇我氏の拠点が見られる理由もこれでよく合点が行きます。鹿島神宮に大鯰伝説があって、卑弥呼の時代にそれが封印されたということになっているそうですが、ということは当時、大きな地震が頻発していたことにもなり、列島高速回転移動には激しい地震も伴ったであろうことを考慮に入れると、この伝承にはなかなか興味深い面があります。因みに、311の大地震の際の揺れは私達の多くが体験して実感としても鮮明に残っていますが、あの時東南東方向への 4.4m の列島移動と 75cm の地盤沈下が発生していたのだそうです。

列島の山陰から北陸にかけての地域は、紀元前16世紀の弥生集落形成以来発展を重ねていく中で常に、南シベリアのステップロードを辿って西方から移動してくる狩猟民族や遊牧民族の断続的な侵入を受け続けていました。全てツングース系部族でした。ツングースの諸族が沿海州から船に乗って断続的に山陰北陸に侵入していたのでした(ツングース系部族とは、チュルクや匈奴、蒙古、契丹、鮮卑、烏丸、靺鞨、オロチョン、粛慎、挹婁、沃沮、濊貊、などの諸部族を包括する一大部族のことです。恐らくはサカ=サカイ=スキタイとも北アジアで何らかの交わりがあったことでしょうが、詳細は今後の課題になります)。ここに、同じツングース系でありながらイスラエルとも極めて近い血縁関係がある、エソウ系ヘブルの流れを汲む牛崇拝のスサノオが侵入して来ます。スサノオの部族によってこれらツングース系諸部族が統括され(八岐大蛇退治)、そのことで丹波を中心とする出雲王国が形成されたのです。この出雲王国に紀元前3世紀、山東半島辺りから徐福の一族が秦始皇の後援の元移入してきます。徐福も秦始皇もアケメネス朝ペルシャ経由の東ユダヤ人でした。彼等が列島への進出を目論んだ動機は恐らく、預言者イザヤとレヴィ族の集団が列島を目指して船出した動機と深く結びつきあっている宗教的なものだったのでしょう。丹波出雲に入った徐福の一族は丹波物部氏として、その進んだ各分野の技能により出雲王国に積極的に迎え入れられました。族長の大国主はスサノオ王家に入り婿として迎え入れられます。後には出雲王国が、越、尾張、山背、近江、伊勢、志摩、熊野、相模、小笠原、房総などに勢力を広げていく原動力ともなりました(大国主の各地の姫達との結婚)。この分家は韓半島北部や満州のツングース系諸部族をも統括して高句麗を建国します。

註:後にこの高句麗に圧迫された扶余が東の東沃沮の地に移って東扶余(トンプヨ)となり、この東扶余から列島の北九州に陜父(ヒョッポ)=ニギハヤヒ=大物主や、更にその後には尉仇台(イキュウタイ)が、北西九州の各地に移住してきます。この尉仇台は更に、九州の邪馬臺国の後援の元で扶余仇台と名を改め、半島の馬韓を統合して旧多羅(くだら)を建国し、その王として君臨することになります。この旧多羅が高句麗から別れた百済(ペクチェ)を糾合した際に、中原向けには百済(ペクチェ)、倭国向けには百済(くだら)と国名を使い分けるようになったようです。

高句麗は白村江の戦いの直後に滅びますが、その後、現地に残って現地の諸部族と渤海(ボーハイ)を建国した遼東(ヨドン)系の人達を除いて全て、昔から深い繋がりのあった列島東部に移入し、奈良の政権の中心にいた時期もありました(「天武天皇」=大海人皇子=高武=イリカスミ=淵蓋蘇文)。阿弖流為(アテルイ)と大和朝廷の戦争とは、大和朝廷の中枢から高句麗系の勢力を駆逐した勢力と駆逐された高句麗系の勢力との戦争であって、大和朝廷とアイヌとの戦争などではありませんでした。また、インドから南九州に来ていた姶良=斯盧の昔氏(蘇我氏の別派。伝承の中では丹波との関係も示唆されている)や、伽耶金氏の分家などと共に辰韓を新羅へと発展させた朴氏(飄公)は、この丹波から半島に移ったツングース系の出雲氏族でした。そもそも瓢箪はアフリカから中央アジアの乾燥地帯原産の植物でした。

註:アイヌとは所謂「縄文」の諸部族の極一部で、イヌイット系の狩猟部族に過ぎません。阿弖流為は騎馬が巧みだったことで有名ですが、そもそもアイヌに騎馬の伝統はありませんでした。蝦夷とはアイヌではなかったのです。

魏志倭人伝の中で投馬国として登場してくる勢力の正体はこの丹波物部氏の出雲王朝のことでした。

徐福の一族である物部氏は実は、出雲物部氏との緊密な連携の元で筑紫平野や阿蘇、肥後にも入りました。九州物部氏です。後には東表国勢力近くの遠賀川流域にも一大拠点を設けることになります。陜父(ヒョンポ)という名前の将軍が建国間もない高句麗にいましたが、高句麗第2代瑠璃王との諍いから一旦は東沃沮(トウオクチョ)に引きこもった後、高句麗からの圧迫を避けて一族共々九州までやってきたそうです。九州では肥後や阿蘇に多羅国或いは多婆羅国を創ります。この陜父が九州物部氏に合同してきて、ある時に何らかの理由でこの九州物部氏の族長となったのでした。この族長名が大物主=ニギハヤヒです。

九州には日向にもう一つ、違う有力部族が定着していました。江南の呉で戦国時代に活躍した呪術集団の族長許氏が出自とも、呉から燕に移り燕の王族となった公孫氏が出自とも言われる、卑弥呼を中心とする部族で、安羅国の王族です。この王族の親衛隊部族が大伴氏でした。

この安羅国が、東隣の四国阿波勢力の後援の元で九州物部氏や、それまで倭国を代表して中原との外交交渉の担い手となってきていた奴国の中臣氏、それに「蘇我」氏などと連携し、近畿にも奴国(浪速)や對奴国(阿波)、弥奴国(吉備)、蘇奴国(伊勢)、烏奴国(近江坂田)、鬼奴国(不明)、華奴蘇奴国(不明)など、奴の文字を含む名を持つ国を次々と創っていったり、九州物部氏もそのまま地域全体の配置ごとそっくりそのまま遠賀川流域から河内に移動させたり、ニギハヤヒが葛城のナガ-スネ彦の元に入り婿したり、更には半島で馬韓諸国連合を「くだら」と発音する百済国へと発展させたりと、九州の倭国と近畿の○○国との、ひいては半島の百済との合同へと大きく発展していく中核となったのでした。江南の呉を起源とする卑弥呼の部族が列島においてどうしてこのような重要な扱いを受けたのかについては、現在調査中です。

九州の倭国が発展してヤマト盆地を中心に新しく立ち上がった新倭国。その女王の居住国たる邪馬臺国。この邪馬臺国に九州の倭国連合のエスコートの元で魏の使節が訪れた。魏の王族も丹波出雲の物部氏も、中原の秦の流れを汲む兄弟部族だった。魏と出雲丹波王国たる投馬国とは高句麗や新羅を通じてもう既に外交もあった。その上、投馬国と近畿に東遷した邪馬臺国との連合はまだこの時点では成し遂げられていなかった。それで、不弥国からの里程が邪馬臺国と並べて記載されるほど有力国扱いされながら、投馬国から直接陸行して邪馬臺国へと至る行程は選択肢に入れられなかった。また、四国沖廻りのより便利なコースは、倭国連合内部の秘密の連絡路として温存するために、更には何か重要なものを隠蔽するために、魏の使節団の目に入らないよう伏せておかれた。殷や漢と秦、蜀漢と魏、百済と新羅、南朝と北朝、景教と原始イエス教、葛城賀茂氏と山背賀茂氏、院庁と摂関家、等々のキーワードで知られる対立軸が、魏志倭人伝の時代列島にも、邪馬臺と投馬国の対立軸として存在していたということです。魏志倭人伝の里程記事の解釈を眺めながら、現時点では、私の頭の中にこのような物語が立ち上がって来ます。ここにもう暫くしたら秦氏と天皇家が参入して来ます。卑弥呼の後継者である臺与=壹与との関わりを通して投馬国と邪馬臺国を統合し、大和朝廷が建てられるのです。神武天皇と崇神天皇や応神天皇、神功皇后との関わりについても、今後の課題となります。


註:「ニンフルサグ」は世界各地で、

(1)ニンフルサグ→フルサグ→フサグ→アサグ→アスク(セム語の「旋風」)→アスクフ(セム語の「旋風の鳥」つまり「大鷲」)

(2)ニンフルサグ→フルサグ→ウルサグフ→アサグフ→アスクフ→アスカ(大和語の「飛鳥」)

(3)アスク→ウスク(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→ウシカ→オシカ(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→シカ(大和語の「鹿」)→カ(大和語の「鹿」) cf. 『秀真伝』では鹿が「サオシカ」や「オシカ」と記述され、神官も「オシカ」と記述されている。これはセム語と同じ。

(4)ウルウスク→ルスク→ユスク→ユク→ロク(漢語の「鹿」)

(5)スウルスク→スルスク→スルスム→サスム(朝鮮語の「鹿」)

(6)ウルスク→ウルスク→ウルスタグ→スタグ(英語の「雄鹿」)

などと変化していることが言語学的に判明しているそうです。またイムは、

(7)イム(ウル語の「風」)→アム→アマゥ→オマゥ(アイヌ語の「風」)→オモ(大和古語)

(8)イム(ウル語の「風」)→イブ(大和古語の「風」)→イブク→フク(日本語の「吹く」) cf. 指宿(いぶすき)は「風の邑」の意味になる。伊吹山の伊吹(いぶき)もこれに関連する。

と変化したそうです。従って、イムドゥグドゥフは、

(9)イムドゥグドゥフ(ウル語の「旋風を巻き起こす鳥」)→アマドゥグドゥフ→アマダグドゥフ→アマダハドゥフ→アマダル→オモダル(記紀における神代七代の第六代の神)

(10)イムドゥグドゥ(ウル語の「旋風」)→イルドゥグドゥ→イルズー(セム語の「旋風」。セム語でイルは「神」も表すことから「風神」の意味も持つようになった)→フイルズー(「旋風の鳥」「大鷲」)→フシルズー→フシリジ(『魏書』東夷伝韓之条の百済関連の記事では「濆臣離児」或いは『契丹古伝』でも「賁申釐児」)

と変化したと言われています。また、セム語の複数語尾ネスをつけたウルウスクネスは

(11)ウルウスクネス(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→アルウスクネス→アラハスクネ→アヤカスクネ→アヤカシコネ(記紀における神代七代の第六代オモダルの配偶神)

と変化したと言われています。

註:『秀真伝』より
きしいくに あひのまえみや
たまつみや つくればやすむ
あひみやお くにかけとなす
わかひめの こころおととむ
たまつみや かれたるいねの
わかがえる わかのうたより
わかのくに たまつのをしか
あちひこお みればこがるる
わかひめの わかのうたよみ
うたみそめ おもひかねてぞ
すすむるお ついとりみれば

紀志井国 阿日前宮 玉津宮
造れば休む
阿日宮を 国懸となす
和歌姫の心音留む玉津宮
枯れたる稲の若返る
和歌の歌より和歌の国
玉津のオシカ阿智彦を
見れば焦がるる和歌姫の
和歌の歌詠み歌冊(うたみ)染め
思い兼ねてぞ勧むるを
つい取り見れば

紀志井国では(これに感謝して)阿日前宮と玉津宮が造られた。造って差し上げたところ、向津(むかつ)姫と和歌姫はそれぞれにお入りになり、お休みになられた。阿日宮は、以前からそこにあった宮だが、これ以降は国懸宮と名を改められた。玉津宮には和歌姫の心の音を留め置いている。だから玉津宮と言うのだ。この玉津宮のある国で昔ある人が和歌を詠んだところ、枯れている稲が若返った。この出来事に因んでこの国のことを、和歌(若)の国と言うようになったのだ。ある時この玉津宮にオシカ(神官)として阿智彦という名前の人がやって来た。この阿智彦を見て以来、和歌姫が、阿智彦のことを恋い焦がれるようになった。阿智彦への想いのせいであまりに苦しくなった和歌姫は、その想いを込めた歌を詠み、それを歌冊にしたためて阿智彦の前に差し出した。阿智彦がついそれを受け取って見ると・・・

この「ひのまえ」は、

(12)フ(鳥)ウル(動物)マフ(イヌ)→フウルマフ→ヒウルマフ→ヒイヌマヒ→フヌマヒ→ヒノマエ

と変化したものと考えられるそうです。

国懸(くにかけ)或いは(くにかかす)も、

(13)ウル(動物)ウスク(大角鹿或いは神官)→フリウスク→フリハスク→フリハスカ→クリハスカ→クニカスガ→クニカゲ→クニカケ→クニカケス→クニカカス

(14)クニカスガ→カスガ

と変化したものだということが言語学的に確かめられるそうです。

註:以上二つの情報は、松重楊江氏の著作を参考にしました。

歴史は人に希望を与える宗教性の物語でなければならない

2013-01-29 02:02:58 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさんのブログでコメントした際に形となったことを記事として上げておきます。

以下引用

ユダヤ元号と聖書の年代記述の270年分のズレ。記紀神話の年代記述をアカデミズムが「客観的に」修正して纏めた年表と、記紀神話で語られる年代記述のズレ。しかも、前者と奇妙な形で一致しているズレ。これらのズレの意味を突き止めるのは、私も一応考察してみますが、はぐれメタルファラオさんの特権であり義務でしょうね。解明できたら、この上ない業績になるでしょう。

アカデミックな日本古代史研究家には聖書の十分な知識がないし、神や預言者に対する実存的な信頼感もない。そのため、聖書の知識や預言に従いながら種族として国を運営し続けてきた、所謂庶民的実存とは全く異なった特殊な実存の中にいる支配層のことが理解できない。従って、それが書き表して次から次へとこちらに送り出してくるさなざまな形態のメッセージの意味も十分には分からないのでしょう。ただ分かった後は、それを所謂庶民の理解の及ぶようなものに作り変える作業がくることも必然です。庶民にこの世の本当の仕組みを見通す力をもたらすこと。庶民を本当の信仰に導くこと。これこそ、今私たちが取り組んでいる研究の究極目的となるでしょう。「君の身体や霊魂はこのような歴史的背景の元で今ここにあり、このような価値と能力、使命を持っているのです。日々の生活にこんなに深い意義がこもっていたのです」と、今は何も見えなくなっている人々に押し付けがましくない自然な形で伝えられる、そんな優れた媒体としての真の歴史=物語を取り戻すということを意味しているのです。全ての人に生きる意味を与える、宗教性のこの世的な再構成こそが本当の歴史のなのだと思います。

明治天皇のすり替えについては、恐らくは本当なのだと思っています。しかし、アルトさんが言うような「馬の骨」へのすり替えではなく、南朝の天皇へのすり替えだったと思っています。南朝の中心に忌部氏がいるのです。今私達が取り組んでいる忌部研究は必ず、この明治維新の深い意味を解明するところにまで辿り着くと思います。はぐれメタルファラオさんが明治天皇を預言者と捉える理由は分かりませんし、それももっと詳しく聞いてみたい気もしますが、なぜと問いかけたからと言ってはぐれメタルファラオさんの発言を疑っている訳ではないのですよ。発言のその先こそが本番と信じているということです。本当の敵は一般的な歴史の欺瞞を暴く際に資格も使命感もないのに興味本位だけで「科学的に客観的に」と勘違いしたことを盛んに言いたてる輩なのかもしれません。歴史に科学的も客観的もないことを知るべきです。

何年か前に西南戦争の背景を描いたと思しき「ラストサムライ」というアメリカ映画がありました。その中で明治天皇が西郷と思しき人物に勇気を貰い、その魂を受け継いで真の帝王としての発言や行動を始めたという内容のことが描かれていました。私が聞いた話では、実際もこれに極めて近いことがあったのだそうです。長州の人間の影響で女遊びに耽りかかっていた明治天皇を西郷が強く諌めて正しい道に戻したというエピソードも伝わっています。薩摩の中枢には、西郷のような人物を生み出す何かがあったのです。我が故郷ながら、知れば知るほど驚愕しています。西郷が引退後に郷里の薩摩で地元の庶民を相手に聖書の講読を行っていた。彼の「人事を尽くして天命を待つ」とは実はキリスト教精神の表現だった。こんな話すらあるのです。ただし、長州と同じで、外国勢力に飼いならされてエージェントとなり、外力勢力の利益のために日本国に戦禍が降りかかってくるように動いていた売国奴がいたのも歴とした事実です。彼等からすると、国のために危ない橋を敢えて渡り、結果として夢敗れただけで悪意はなかったなどということになるのでしょうが。

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 02

2013-01-26 13:04:27 | 邪馬臺国
一般的に今より海面が高かったとされる縄文前期から弥生の末までの期間でさえ瀬戸内は、大きな汽水湖を湛えてはいても、飽くまでも陸だった。現在のような海らしい海になったのは紀元後3世紀以降のことだった。このようなことを今ここで私が科学的に明確に立証することはできませんが、ただ、『魏志倭人伝』里程記事の最も整合的な解釈という観点からすれば、瀬戸内のこの地域が当時もまだ陸地でその後比較的新しい時代に海中に沈降した可能性が高いということだけは断言できると思うのです。


ここでは仮に、瀬戸内のその海域が紀元後3世紀の時点で陸地だったものと仮定して話を進めることにします。すると実は、現在の九州北西岸に当たる地域から大和盆地南東部に比定される邪馬臺国まで移動しようとする場合に当時最も能率がよかったのは、安芸まで10日水行し、安芸で上陸した後必ずしも十分に整備されているわけでもなかった山陽道を1月かけて陸行するコースなどではなかった筈なのです。

註:そもそも瀬戸内が当時も海だったのなら、瀬戸内を安芸以降もそのまま船に乗って浪速まで行き、大和川水系を遡ればいいはずです。なのに、魏志倭人伝の記述ではそうなっていない。このことの意味にも注目して欲しいと思います。

不弥国から船に乗って豊後水道を抜け、四国沿岸を南に辿り、阿波の近くで現在の紀伊水道に当たる地域を流れていた古大阪川に入る。その支流になる現在の紀ノ川を遡って橋本辺りに到り、そこから残りの僅か27kmをのみ陸行する。このような、できるだけ陸行を回避したコースこそ最も能率がよかったはずだし、最も頻繁に使われていたはずです。投馬国まで20日水行し、投馬国で上陸した後は残りの約160kmを陸行するコースも悪くはないのですが、便利さの点では四国沖廻りのコースの方が遥かに優れていた。【図7-特j拡大版】


魏の使節団が北九州奴国の豪族たちにエスコートされながら安芸経由で、1月の陸行を必要とする必ずしも最適とは言い切れないような不便なコースを取って邪馬臺国まで移動する際に、四国沖廻りのコースや投馬国から直接陸行するコースは何故か、別のより便利な選択肢として存在を知らされることがなかったのです。考えてみれば、魏からの使節はそもそも九州になど上陸せずに直接邪馬臺国まで行けばよかったはずです。なのに、九州への一旦の上陸と暫くの滞在を強要され、自分たちが乗ってきた船も末盧国で放棄させられ、その上で恐らくは九州勢力が用意した舟に乗せられて、九州勢力の役人に伴われて、不弥国から邪馬臺国まで行ったのです。或いは最早邪馬臺国までは行かず、不弥国以降の里程については、九州勢力の役人の説明以外の何物にも基づくことなく記述されたのかもしれません。その場合でもわざわざ、非能率的な行程だけを伝えられたことになる訳です。九州より南(現在の地形では東)の地域を、投馬国のある山陰は別にして魏の使節にあまり詳しく知られたくないという強い意志が存在していたのでしょうか?また、大和盆地の邪馬臺国を中心とする国家連合の中でも相変わらず九州が、大陸や半島からの単なる入口に留まらない特別な地位を維持していたということなのでしょうか?上記の事実からはまさに、これらのことが読み取れます。九州奴国と近畿の邪馬臺国、丹波出雲の投馬国、四国の阿波、それに瀬戸内の安芸や吉備、播磨。これら5つの地域の連合の仕組みが、今読み取った二つのことから仄かながらある程度は類推できるように感ぜられます。魏志倭人伝里程記事の上記のような解釈を通じて得られた現代のものとは随分異なる当時の列島地形の詳しい様子や、魏の使節団に対する倭国側の情報管理の大まかな様子。これらとの擦り合わせの元で、私がこれまでに探っては組み立て大きく詳しくしてきた列島や半島を中心とする古代の東アジア諸国の成り行きを、最後にここでもう一度まとめてみたいと思います。

紀元前16世紀以前の列島は、極少数の雑多な部族がまとまることなく散在し、ほとんど無人状態と言ってもいいような状態でした。しかも何故か、その小規模な人口のほとんど全てが東日本に集まっていたので、西日本の無垢さと言ったらこの上ないような程度のものだったことにもなります。しかし紀元前16世紀になると、タルシッシ船による中東からの海路の発達延長によって列島にもエブスやハッティの製鉄及び通商基地ができます。それが今の国東半島北東部の重藤遺跡であり、西側の平野にある宇佐でした。

註:中東や地中海世界では紀元前13世紀~12世紀頃に謎の「海の民」による大規模な破壊活動があり、そのせいで青銅器文明が滅びました。青銅器制作を中心に組み立てられた大規模な国家が消滅し、多くの小規模国家群がまとまることなく繁栄していくようになったのでした。青銅器時代に製鉄技術を独占的に保有していたヒッタイト王国もその際に滅び、それを契機として製鉄技術が各地に拡散していくことになりました。こうやって次第に、鉄器の時代が始まっていったのでした。鉄器を帝国運営と他国侵略に大規模かつ組織的に利用し栄えた最初の帝国がアッシリア帝国で、あの北イスラエル王国もこのアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリア帝国の繁栄には、フェニキア商人連合体とアッシリア王家との密接な協力関係も重要な役割を果たしたと言います。紀元前17世紀の列島への製鉄文明の伝来は、この滅びる以前のヒッタイト(ハッティ)の植民活動の結果によるものでした。

エブスというのは、古来から日本では恵比寿とか蛭子と言われる部族のことで、聖書ではノアの三人息子セム、ハム、ヤペテの内、ハムの子孫とされています。ヘブルやイスラエル、ユダヤはセムの一族が段階的に選別されていくことで生まれた部族ですが、そのイスラエルやユダヤに巧みに侵入してバール崇拝(牛崇拝)の悪い影響を与えたなどと聖書で盛んに罵られているあのカナン人や、バビロニア帝国の王でバベルの塔のエピソードで有名なニムロド王も、このハムの末裔であるとされます。更には、エジプトに侵入してある時期エジプトを支配していたヒクソス=アマレクや後世ヨーロッパの黒い貴族など、世界中で悪の支配者として暗躍してきたとされる者たちの起源をここに求める人もいます。

註:イスラエルたるヤコブの兄エソウの一族エドムがその起源だという人もいます。何れにしろ、神によって部族の聖別が行われるたびにその聖別から漏れた者たち、或いはその際に神の呪いをかけられた者たちの秘教的部族組織が、現代にまで通じる悪の元凶となっているという説です。悪意の実体化した宗教的秘密結社のことです。これにはある意味大いに信憑性を感じ取る必要があるだろうと私は考えています。

対してハッティとは、英語ではヒッタイトと称される製鉄部族のことです。彼らは、別の文献上で後にフェニキアとも呼ばれることになるエブスと、アナトリア(現在のトルコ)南部にあった地中海岸の町タルシッシを拠点に大いに商取引を行い、世界中の想像以上に広い範囲を航海して回る所謂「タルシッシ船」を共同で運営していました。当時彼らの基地だった地域は現在、世界中どこでも、マカンとかバカンという名称で呼ばれているようです。例えば、古代インドのマガダ王国は彼等がガンジス川流域に進出して創った国だと言われています。列島の大分・福岡と山口の間の海峡の名称もまた馬関海峡となっています。当時はまだ島だった韓半島西南部にもそれができ、馬韓と呼ばれるようになりました。マカンやバカン以外には、マトゥラやマドウラ、マドラス、マルーワ、マトウラ、末盧、松輪もまた、彼等が各地に植民して作ったもうひとつの系統の国々なのだそうです。

註:シュメールは東南アジアからインドを経てメソポタミア南部に入り込み、東南アジアで既に獲得して持っていた青銅器制作技術を中心とする高度な文明を中東に初めてもたらしました。シュメールは中東の北部に位置していたミタンニ=フッリ=アッリ=アーリアとの交流を通じて地中海沿岸のアナトリアにいたハッティ=ヒッタイトとも一体化していきました。シュメール諸族はバビロニアやアッシリアによってメソポタミアから駆逐された後で中央アジアに移り、サカ=サカイ=スキタイ(シャカ=サンガ[僧侶]=昔=嵯峨=相模)の一部となりました。そしてその後で、様々な時代に様々な経路を辿って半島や列島にまでやって来たのです。このシュメール諸族も、列島最古の王族ハッティ=「蘇我」も、どちらも同族でした。「蘇我」とはサカや昔の意味も含み、シュメールの流れを汲むからこそ北部アジアで、更には列島でも、最も権威ある王統と重んじられたのかもしれません。ハム系の海人龍蛇族ナーガ=エブス=中臣とのパートナーシップは、インドからメソポタミアに入った頃、既に始まっていたようです。所謂王権と商人連合体との連携のことです。

当時はまだ西日本島が台湾島や沖縄諸島と共に江南の近くに位置していました。しかも、九州が南で近畿が北となっていたのです。紀元後57年とかなり時代は下りますが『後漢書東夷伝』の中で倭からの使者についての記事に「奴国は倭の極南界に位置する」という内容の記述が入っているのはそのためなのだと思います。東日本や北海道などはフィリピン諸島やパプアニューギニア島の近くにありました。パプアニューギニアから縄文土器が出土するそうですが、この時代に両島の間に密接な文化的交流があったからだとのことです。【図X】

江南地域で稲作を営んでいたミャオ族も、エブスやハッティの基地ができて開発され始めた西日本島の各地に入り込み、筑紫平野や福岡平野、日向、肥後、山陰、山陽、四国、近畿、尾張といった地域のあちこちに小規模の弥生集落を創っていきました。この中には犬戎という犬をトーテムとする、元々は遊牧民だった西方チュルク系の諸部族もいて「狗」の文字の入った名称の国の起源ともなりました。息長や葛城はその内のひとつではないかということです。息長が半島北部から満州に創った高句麗が牛や猪、馬だけではなく狛犬のトーテムとも深く関わるのはこのためです(牛加、猪加、馬加、狗加の諸加)。今述べた息長や葛城をも含むこれらの部族が全て、かつては江南にいたのであり、そこで一旦は南方化、稲作農耕化されていたのでした。彼らの支配者は勿論、九州を中心として、エブスやハッティだったはずです。

エブスは列島や半島では後に中臣とか金と呼ばれるようになった氏族で、福岡平野の奴国をはじめ「奴」の文字を含む国名を持ったその他多くの国々の、或いは半島の伽耶或いは加羅、狗邪の、後には新羅の王族として存続しました(「かや」や「から」の「や」や「ら」は「な」や「り」と共に、国を意味する言葉だったようです。「な」と「ら」は言語学的にも近接関係にある音声です。韓国語の「なら」はまさに「国」のことです)。伽耶の初代王金首露(キムスロ)=エブス王クルタシロスの妻は許黄玉(ホファンオク)と言い、インドのアユタ王国の姫でした。インドから東南アジア、江南、台湾、琉球から半島や列島へと到る、想像以上に活発な海の道によるネットワークの厳然たる存在を改めて示唆する事実です。この許は江南に拠点を置いた呪術集団の首領の姓として中国では伝わっていて、一説によると、呉の将軍で後に燕の王族となった公孫と同じように、卑弥呼一族の出自との関連を取り出すことができるようです。

ハッティは、現在ではその本当の氏族名(恐らくは昔)が隠蔽されてしまっているために平安時代にある人物によって象徴的に命名された「蘇我」という偽称しか伝わっていません。しかし、宇佐の京都(みやこ)を中心に東表国=豊国を運営し、中臣氏=金氏の弁韓諸国連合にも関わりました。安芸や伊予、周防によって囲まれた海域が地殻変動で形成された後は、この海域全体が彼らのホームとなっていきます。宇佐や宇部などといったこの海域内の地名の類似にも注目すべきです。「豊」や「宇」がこの氏族を表す文字だった可能性もあります。臺与と壹与、邪馬臺と邪馬壹が混同されることと、この海域に豊国と伊予国が共存していることとは、何らかの関係があるのかもしれません。

註:臺与=壹与とは、卑弥呼の死後暫くしてから卑弥呼の後継者として邪馬臺国の女王となったと史書に記されている人物のことです。

紀元前16世紀に山東半島辺りから中原に侵入して夏王朝を滅ぼし、インドから持ち込んだ甲骨文字(この文字が記された甲羅の亀はインドから東南アジアの海域にしか棲息していない)と、鉄器や青銅器を持って殷王朝或いは商王朝を運営したのもこの「蘇我」だったと言われています。殷王朝が周王朝によって滅ぼされた後は、中原の東部や半島に退いて東夷とか朝鮮(箕子朝鮮)と呼ばれることになります。朝鮮とはですから本当は、我々が直ぐに想起するあの朝鮮ではなく、我々が暮らすこの列島の最も古い王族に繋がる人達の呼称のひとつだったのです。箕子朝鮮が燕の衛満に滅ぼされた後は、この箕子朝鮮の王族はより北部の濊族の土地に退き、その土地で扶余を建国することになりました。この扶余が列島ではニギハヤヒ=大物主や百済王の扶余にも繋がっていきます。漢や蜀漢の王朝もこの殷王朝の流れであり、漢や蜀漢が滅びた後この流れは漢氏や高向氏、阿部氏として列島にも逆輸入されたようです。列島では東表国の王族としての地位を保ち続け、その上で中原から入ってきた殷王朝や漢王朝の流れも取り入れて、列島全体の王位の継承権を担う貴重な存在であり続けます。中央アジアの遊牧氏族であるエフタル系の「継体天皇」が列島に侵入して来て定着した際には、暫くの間は列島から駆逐され、半島の各国でのみ活動しました。その際に新羅に定着したインドのクシャトリア起源の「蘇我」氏が、新羅系秦氏と共に後の列島では、源氏と呼ばれるようにもなっていきます。源氏は新羅系であると同時に「蘇我」の一派でもあったのです。列島からエフタル系の「継体天皇」の勢力が駆逐された後暫くすると、当時の東西ユーラシア世界で有名な突厥王族であった「聖徳太子」ことタリシヒコが高句麗や百済経由で列島に入って新しい王朝を打ち立てます。その際には「蘇我」氏も共に列島に入り込み、列島での経済基盤を各地に新しく取り戻しつつ「聖徳太子」の一族とも婚姻関係を結び、「聖徳太子」の子である山背王の頃には列島で絶大な権勢を振るうようにまでなっていました。漢氏も「蘇我」の系統で、「蘇我」氏と漢氏やその子孫の高向氏、阿部氏との密接な関係が頻繁に指摘されるのは、そのせいでしょう。恐らくはこの劇的な列島復活もあって、後世「蘇我」と命名されたのではないでしょうか?「蘇我」や源氏のことを渡来系であると言う人がいると同時に、原住系だと言う人もいるのは、このような複雑な理由があったからでした。この「蘇我」という呼称について、秦氏と婚姻関係を結んで秦氏のいずれかの家系からイエス=メシア或いはイエス=キリストの血脈も受け継ぎ(応神天皇の頃の出来事と思われる)、その蘇りの奇跡に因んだから「蘇我」なのだと主張する人もいます。イエス=メシアではなく景教のイエス=キリストなら、突厥の王族として中央アジアで活躍した経験のあるタリシヒコこと「聖徳太子」や、その列島における経済基盤となった山城の秦氏との関連を想起すべきでしょう。

以上ふたつが魏志倭人伝に九州勢力として登場してくる人達の内の半分の正体です。

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 01

2013-01-23 19:31:56 | 邪馬臺国
魏志倭人伝の里程記事を整合的に読もうとしたら、列島移動説を受け容れなければならない。列島移動説を受け容れない限り、近畿説も九州説も妥当性を欠いてしまうことになる。特に九州説は、九州に邪馬臺国があったという生々しい実感に溢れているものの、そして私もそれには反対しないものの、魏志倭人伝の地理観の中で邪馬臺国はどこにあったのか?魏志倭人伝の里程記事をどう読むのが整合的か?という目で見た場合に、ほとんどこじつけと誤魔化し、強弁しか見えない極めてお粗末な説になってしまっている。

列島移動説を導入しているが故に余りにも革新的になり過ぎてしまっている感はあるが、整合性という点で群を抜いているのが飛鳥説である。その飛鳥説ですら、不弥国から投馬国や邪馬壹国に至る道程に関しては、若干のミスを犯している。不弥国から投馬国や邪馬臺国に至る道程を整合的に理解するためには、紀伊国から安芸国に至る瀬戸内海が当時はまだ陸地になっていて、四国沖周りのコースや、投馬国から山城を抜けて大和に至るコースは、何らかの理由で、中原王朝の使節の目に触れないように隠蔽されたということを想定せざるを得ない。これが私のここまでの論旨でした。【図7-特j】


瀬戸内海が太古において大河が流れナウマン象の闊歩する広大な森林地帯であったことは、ほとんど常識的なこととして広く知られています。瀬戸内海の漁師たちが昔から時々引き上げては龍の骨として寺社に納めてきたものが実は、ナウマン象の牙や骨であることが判明したなどという話を聞いたことがあります。次のような地図すら一般に流布している話です。【図7-特k】


この話は通常、縄文海進と呼ばれる現象に結びつけて語られます。19000年前に海水量の増大による海面上昇が始まり、6000年前の縄文前期には海面が当初よりもおよそ 100m 以上も高い海面上昇のピークの時を迎えた。その後増えた海水の重量が地球全体の海底をゆっくりと押し下げ、現在に至るまで海岸線はゆっくり後退し続けているというのです。つまり、瀬戸内海が陸地だったのは大体10000年くらい前までのことだったとされているわけです。これが本当なら縄文の貝塚をはじめとする世界中の凡ゆる「同時代」遺跡がある一定の海抜以上からしか出土しないことになります。しかし、海面がピークにあったとされる縄文前期(約7000年前から5500年前)においても、更には、そこからは幾らか低くなったものの今よりは遥かに高くなっていた弥生時代においても、四国側の讃岐から伊予東部、中国側の吉備から安芸までの地域が陸地であった可能性はないなどと、どうやって証明されたのでしょうか?


海面がピークにあった時も陸地だったが、海面がどんどん下がって行く過程の何処かで、何らかの理由で地盤も沈下を起こした。海面低下の時でもあり通常なら海中に沈降するはずもないのに、その海面低下の速度を超えて急速に地盤が沈下した。だから、他がどんどん陸地化して行く中でここだけが今のような海になってしまった。このような可能性もあるのではないでしょうか?このようなことがなかったと、どうして言えるのでしょうか?インターネットで検索すると、縄文前期直前の縄文早期(約12000年前から7000年前)の地形として次のような地図もありました。7000年前か12000年前かで解釈も大きく変わってくる地図ですが、それでも何かを感じさせる面があると思います。【図7-特l】


高松や松山、岡山、広島のある一定の海抜から下の方では、或いは沖合の海中では縄文や弥生の遺跡がひとつも見つからない。このように確定しているなら、権威筋による上記のような説明にも裏付けが取れることになります。しかし、本当にそうなのでしょうか?高松や松山、岡山、広島のある一定の海抜から下の方や、沖合の海中で縄文や弥生の遺跡は見つからないのでしょうか?もし見つかったら、この海域が弥生時代まで陸地であり、海中に沈降したのは3世紀以降ということにもなると思うのですが、どうでしょうか?

このことに関しては今は、今後の発掘情報に期待するしかありません。ただ試みにインターネットで、各地に散在する縄文遺跡のことを詳しく調べてみることにしました。縄文時代には遺跡は何故か東日本に集中し、西日本にはほとんど見られないようなのですが、それでも幾つか貝塚があるのが分かりました。瀬戸内の播磨灘や備後灘沿岸にもちゃんと縄文時代の貝塚がある。貝塚があるということはやはり海だったのか。こう思って、貝塚から出てくる貝や魚の種類を調べると、淡水と塩水が混じり合う汽水域の貝や魚になっています。この二つの海域は塩水が入り込む大きな湖だった訳です。海面が最高になったとされる縄文前期ではなくそれ以前の縄文早期のものと銘打たれてはいますが、先に挙げた地図の内容は決して間違いではなかったのです。問題なのは、海面が最高になったとされる縄文前期にもこの海域が汽水域に過ぎず、現在のような海域らしい海域ではなかった可能性があるということなのです。

そこで、この播磨灘や備後灘地域の貝塚について、その標高を調べてみました。GoogleEarth では何と、カーソルのある位置の標高が明確に表示されるようになっているのです。すると、ひとつが 10m となっている以外は全て 2~5m となっています。ところが、東日本の貝塚は全て標高 20m 前後となっているのです。海でとった魚介類を河川を遡って河川流域の高台にある集落まで運び、大量に消費しては集落傍の定まった区画に遺棄し続ける。これが東日本の縄文人の生活パタンだったのです。西日本の縄文人にはそれとは違って、海岸縁に集落を作る習慣があったのか?こう思って調べてみると、さにあらず。高知県西岸や愛媛県西岸の豊後水道沿いの縄文貝塚は標高が 12.3m や 8m となっていて、東日本の縄文人と同じような生活様式が見て取れるのです。ということは、瀬戸内の播磨灘や備後灘沿岸の縄文人にのみ何故か、この生活習慣が読み取れないということになるのです。これは大いに怪しい。

そもそも海面は今よりどれくらい高かったと見積もられているのでしょうか?調べてみると、誰がどうやって計測したのかは不明ですが、2~10m という情報があるかと思えば、4~ 4.5m というのもある。縄文海進が常識になっている割には不確定でいい加減だなとは思いつつ、縄文海進と言うからには 2m では少ない感じがするので、概ね 5m だったとします。すると、瀬戸内の貝塚の現在の標高がほとんど全て 2~5m の範囲に収まっていることが念頭に浮かんでくるわけです。つまり単純に考えると、海中だったことになってしまうのです。ということは、これは次のこと以外何も示唆していないことになります。即ち、この地域は縄文時代には、海面が一般的に最も高かった縄文前期においてすら、今よりも 3~10m だけ地域全体の標高が高く、播磨灘や備後灘は今程に海の性格の強い水域になってはいなかったということです。もしそうでなかったら、縄文海進とは言っても海面は今よりせいぜい 1m くらいしか高くなかったことにするしかなくなり、これだと縄文海進を考慮に入れて考えること自体がナンセンスになってしまいます。そもそも地図を眺めているだけでも、元々ひとつの陸地だった中国地方と四国が引き裂かれて、間の海域は地盤沈下した結果できたと直感させるような、そんな地形になってはいるのです。因みに、かの有名な『混一疆理歴代国都之図』では、その中の列島の位置にも勿論注目すべきですが、そこに描かれた瀬戸内海の地形が、今ここで私が述べてきたものと酷似している点も見逃してはならないものと感じます。


何れにしてもこの問題については、専門家による詳しい調査の結果を待つしかないでしょう。何処かの研究機関で瀬戸内の海底遺跡調査など執り行ってもらいたいものです。

列島移動は本当に邪馬臺国後だったのか

2013-01-21 19:13:20 | 邪馬臺国
列島の70度反時計高速回転は、謂はば「荒唐無稽」です。私もそれを否定はしません。しかし、魏志倭人伝の里程記事がこの主張を前提として初めて合理的に解釈できるのも事実なのです。しかも、この主張を行う飛鳥昭雄氏が著作の中で、微かではあっても証拠となりそうな事例を全く挙げていない訳ではないのです。これらの事例については、飛鳥昭雄氏の著作で実際に読んでいただくのが一番いいと考えて、これまでは言及せずにきました。しかし、あまり「荒唐無稽」のまま放置しておくのも良くない。こう考えるようにもなりましたので、ここではそれらを簡単にまとめておきたいと思います。

(1)言語をはじめとする文化の大半を、原始において日本と共有していたと思われる琉球では、東西南北は「あがり」「いり」「はえ」「にし」となっている。列島でも太古には、北(ほく)或いは north のことを「きた」ではなく「にし」と言っていた可能性があるのだ。現在「にし」は90度反時計回りに傾いて西(せい)或いは west を表す言葉となっている。

(2)松浦郡は、魏志倭人伝の末盧国に比定される地域である。現在の地形では九州の北西端に位置し、古代より半島や大陸からの入り口の役割を果たしてきた地域である。このことを考えると、この地域を構成する二つの半島が文献上で「東松浦半島」や「北松浦半島」のように漢字で表記されるようになったのは紀元前後からと言っても必ずしも不合理ではないと思われる。ところで、現在の地形では「東松浦半島」が松浦地域の北部をなし「北松浦半島」が松浦地域の西部をなしている。ここにも反時計回りに90度のズレが見られる。

(3)大分県国東半島もまた太古から重要な地域として機能してきていた地域である。ここでは昔、半島の北北東の比較的狭い部分を「東国東郡」と称し、半島の南南西の比較的狭い部分を「西国東郡」と称していた。ここには反時計回りに70度のズレが見られる。

(4)筑紫平野南東部にある岩戸山古墳は筑紫国造磐井の墳墓と言われる前方後円墳である。『筑後風土記』逸文には「南北60丈東西40丈」と書かれている。しかしながら現在の地形では、南北40丈東西60丈となっている。ここにも、方向は定かではないが、90度の回転が見られる。

(5)『日本書記』では、神功皇后に降りてきた神が「にしの方にある国を征服せよ」というご託宣を下された時に、筑紫の香椎宮にてそれを聞いた仲哀天皇が「にしに国なんかない。託宣は偽りだ」と言ってご託宣を無視した。すると、住吉大神の怒りに触れて死ななければならないことになった。その直後に神功皇后が、玄界灘を渡り、北の方向にある新羅を攻めて、新羅ばかりか百済、高句麗まで帰順せしめることになった。このような内容の物語が記載されている。「にし」という言葉を巡って、それを西と解釈する仲哀天皇の理解と、北と解釈する神功皇后の理解とが90度ズレている。また、住吉大神からすれば「にし」を現在の琉球と同じように北と解釈するのが正当となる。この物語ではこれらのことが、主題のひとつとして設定されていると解釈することができる。

(6)李氏朝鮮王朝が15世紀初頭に、古くから受け継いできた地図を参考に作成した『混一彊理歴代國都之図』では列島が、瀬戸内が陸地、九州が北、近畿が南といった具合に、端的に、半島の南東海上に横たわっているのが確認される。

(7)正倉院所蔵の羊皮紙に描かれた東アジアの地図では、列島が『混一彊理歴代國都之図』と全く同じような形や配置で描かれているのを見たことがあるという、重要人物による証言がある。

(8)東アジアで古代から伝わる地図の全てが『混一彊理歴代國都之図』と同じような捉え方で列島を描写しているのが確認できる。

(9)鳴き砂の浜は本来なら波の荒い日本海側にあるべきだが、北海道と東北の場合、日本海側だけでなく太平洋側にも、合計三つの鳴き砂浜が存在している。これは東日本と北海道が現在の位置で180度回転したことがあることの証拠である。列島が動いたことそのものは間違いない事実である。従って、西日本が反時計回りに90度回転したと言ったところで、それ自体は実は、それ程荒唐無稽な話ではないことになる。残る問題は、その移動の時期と速度だけである。

(10)フォッサマグナを挟んで東西文化の極端な違いが見られるのは有名な話である。長野では行政区画上は同じ村内であるにも拘らず、この極端な対照が全く薄まることなく維持されている事例すら報告されている。これは、西日本と東日本の衝突つまりフォッサマグナの形成の時期が、この極端な対照を維持できるくらい新しい時代に起こったことの証拠である。長野の山奥の、フォッサマグナ沿いの、海とは全く縁もゆかりも無いような地域に海人族であるはずの安曇氏の重要な拠点が存在しているが、このこともまた、この地域が比較的新しい時代に海峡であったことの証拠になるかもしれない。

(11)以上の全てが、アメリカ軍関係筋からのリーク情報と細部に到るまで一致している。アメリカ軍は GPS や電磁波ソナー、コンピュータシミュレーションを利用した精密な海底地形運動調査によってこれらのデータを得たと言われている。

以上が飛鳥昭雄氏によって挙げられている事例です。また、飛鳥昭雄氏の以上のような情報を受けた後で私が気付いた情報としては、次のようなものがあります。

(12)列島に棲息するニホンザルの遺伝子を調査したところ、西日本では遺伝子の多様性が見られるのに、東日本ではそれが見られない。東日本のニホンザルは比較的新しい時代になってから西日本由来の単一の群れが寒冷地に適応して広がったものであることが確認されている。


『魏志倭人伝』里程記事について 05

2013-01-17 00:01:25 | 邪馬臺国
言はんとしていることをどんなに我慢して注意深く聞こうとしても、注意深く検討すればするほどこじつけや誤魔化し、強弁しか見えなくなる九州説。・・・しかしながら、ここでもう一度だけ我慢することにします。

「帯方郡から不弥国までの総計が10500余里になり『帯方郡から邪馬壹国までの距離は12000余里』という記述もあるのだから、邪馬壹国は結局、不弥国から南1500余里(132km余)の範囲内にあることになる」

本来なら絶対にあり得ない程の譲歩になってしまいますが、この主張を一旦認めて、もう暫く九州説に付き合ってみましょう。

この説は、不弥国から邪馬壹国までの距離をかなりの無理をして短縮したことになる訳ですが、こうなると今度は

「邪馬壹国まで移動するのに必要な時間は水行10日と陸行1月(又は水行10日或いは陸行1月)」

というかなり大きな数字の記述とこれをどう辻褄合わせしたらいいのかという問題が立ち現れてきてしまうことになります。

(1)帯方郡から海岸沿いを南と東に狗邪韓国まで移動する際の距離は7000余里
(2)▽1000余里移動すると対馬国
(3)▽南に1000余里移動すると一大国
(4)▽1000余里移動すると末盧国
(5)▽東南に500里陸行すると伊都国
(6)▽奴国までの移動距離は100里
(7)▽不弥国までの移動距離も100里
(8)▽投馬国までの移動日数は水行20日
(9)▽邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と書いてあるのを見て、

(1)帯方郡から海岸沿いを南と東に狗邪韓国まで移動する際の距離は7000余里
(2)(狗邪韓国から)1000余里移動すると対馬国
(3)(対馬国から)南に1000余里移動すると一大国
(4)(一大国から)1000余里移動すると末盧国
(5)(末盧国から)東南に500里陸行すると伊都国
(6)(伊都国から)奴国までの移動距離は100里
(7)(奴国から)不弥国までの移動距離も100里
(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(不弥国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈するのが正しい解釈法になるということについては、もう既に述べました。【図7-特a】


九州説を唱える人の中には驚いたことに、これを、

(8)(帯方郡から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(帯方郡から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈する人がいます。加えて、「水行10日と陸行1月」は「帯方郡から邪馬壹国まで」の行程ではなく、逆の「邪馬壹国から帯方郡まで」の行程のことなのだと強弁するのです。そのことで上記の問題が解決できると信じ込んでいる。

ここまで来ると頭の中に反論が6つくらい一遍に浮かんできます。それらをひとつひとつ詳述していくのも悪くはないが、しかし、流石の私も何だか面倒くさい。そもそもこのような酷い説の真実味のなさについては、ほとんどすべての人が読んで一瞬で見抜けるに違いない。だから今は、その自然な感覚に全てを委ねるべきだ。今更わざわざこちらが詳述していくことではない。何だかこんなふうに思えて来るのです。どうやら九州説とは、流石にここらでお別れのようです。結局、爪先ほどの真実もない不思議な説でした。

さて上記の図式の(6)と(7)を、

(6)(伊都国から)奴国までの移動距離は100里
(7)(伊都国から)不弥国までの移動距離も100里

と放射状に捉えるのは原則違反を犯している。論理把握をしようとする時には、事前に全ての修辞を解除するのでないといけないのだ。念のため調べてみると、地図上の実態にも合っていない。このような趣旨のことを、既に詳述致しました。【図7-特a#】


しかしながらこれを受けて、それなら(8)と(9)も

(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(投馬国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈すべきではないか?このような疑問が出てくるはずです。実際あの飛鳥昭雄氏もそう解釈しています。【図7-特b】


もし(8)や(9)が

(8)投馬国までの水行での移動距離は○○余里
(9)邪馬壹国までの水行と陸行での移動距離は○○余里

となっているのでしたら、変形はされているものの飽くまでも同一構文なのですから、私も躊躇なく、そのように判断したことでしょう。投馬国を丹波の宮津に想定した上で、そこから南に邪馬壹国を目指し、そのまま能登半島北端にまで目を遣ることでしょう。そして、そこに上陸した後で南に1月陸行するなんて絶対に無理だと気づき、移動距離の調整に走ったり(飛鳥説ではこれが行われている)、或いは何かその他の方法はないかと思案に暮れたりしたことでしょう。【図7-特c】


しかし、注意して見てください。今度は移動距離ではなく、移動に必要な日数となっているのです。要するに、移動距離を表すそれ以前の表現とは論理的な意味で同一構文とはなっていないのです。この二つの表記だけがそれ以前の表記から分離されている。しかも、それ以前の表記群が3項以上の列記となっているのとは違って、列記が2項に留まっている。このような場合は、

(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(不弥国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈するのが解釈の原理原則に適っている。これが私の判断です。

因みに飛鳥昭雄氏は、投馬国を島根半島西部の「出雲」に想定しています。そこから南に10日水行すると丹波の宮津に来る。更に宮津から南にではなく何故か西に1月陸行して到着するのが大和盆地南東部。そこが邪馬壹国ということだったのだ。このように著作の中で明記しています。【図7-特d】


しかしながら、現在「出雲」と呼ばれている地域は、古代には殆ど陸地がなく、大規模な国が立地するには不向きな土地柄でした。遺跡も大規模だがいかにも不自然な感じの埋設がなされている極少数の遺跡を除いて、顕著なものが殆どないということになっているのです。「出雲大社」も何故か江戸時代までは「杵築大社」と称されて「出雲大社」などとは全く言われていなかったと言います。古事記に記述されているように、実際、8世紀にある者の強い意志によって「出雲」との僭称を強要され、何かがそこに封印されたのだと主張する人もいるくらいなのです。

また、不弥国から水行20日がこの島根半島西部なら、移動距離は約300kmですから、水行距離が一日当たり15kmとなって、かなり物足りない感じとなってしまいます。しかも、島根半島西部から丹波の宮津までもまた移動距離が307kmであり、不弥国から島根半島西部までの移動距離とほぼ等距離になっているのです。不弥国から島根半島西部までの300kmなら水行20日だが、島根半島西部から丹波の宮津までの307kmなら、ほぼ同じ距離でもほとんど倍のスピードで移動して10日となるなどという変な言い方をしてしまっていることになる訳です。【図7-特d】


この矛盾も、上陸地点を島根半島西部から約150km地点に当たる鳥取市辺りに持ってくるなら解消しますが、それでも一日当たりの水行が15kmしかないことには変わりはありません。更には、鳥取から大和盆地南部まで約220kmしかなく、それを1月で移動と言ったら一日当たりの陸行が7km強しかなかったことになり、極めて非現実的なのです。【図7-特g】


弥生時代より遥かに街道整備が進んでいたと思われる江戸時代の東海道の記録ではありますが、伊勢から江戸までの456kmを、速く見積もった場合15日、一日当たり30km移動していたという記録があるそうです。遅く見積もった場合は20日、一日当たり22.8kmということになります。【図7-特h】


これを基準とすると、魏志倭人伝の里程記事を巡って今算出した一日当たり7km強は、あまりにも非現実的な数字と言わなければなりません。使節団の陸行は荷物も多く、侍者を大勢伴った文官の貴族が主体となっていたであろうし、街道整備も江戸時代程進んではいなかったことでしょう。ですから、街道整備が遥かに進んだ江戸時代のしかも庶民の身軽な旅と比較する場合は、その一日当たりの移動距離である22.8kmからは上記の分を差し引いて考えなければならないでしょう。しかし、それでもせめて半分の、11.4kmにはなって欲しいものです。

街道整備がこの上なく進んだ江戸末期のこととはいえ、皇女和宮が降嫁の際に中山道を通って江戸に入った時は記録によると、移動距離532kmに対して移動日数は26日、一日当たりの移動距離は20kmになったようです。【図7-特i】


これに比べて、街道整備が遅れていた弥生時代の貴族のこととは言っても、移動距離が一日当たり11.4kmというのはやや少ないくらいで、これ以上少なくなると、それは最早非現実と言わなければならないでしょう。

これらの理由から、飛鳥昭雄氏の説も、この点では妥当性がないということになります。

そもそも、投馬国と邪馬壹国は不弥国から見て同じ南にあるのに、一方は水行20日、他方は水行10日に加えて陸行30日の行程と書かれています。どんな地形の時にこのようなことがあり得るのか?それは、【図7-特j】


のような地形の時で、投馬国と邪馬壹国の間の直接的な通行が何らかの事情で禁ぜられている時しかないのではないか?私にはそう思われてならないのです。そしてこう考えた上で調べてみると、不弥国から安芸まで水行10日約300km(一日当たり約30km)、安芸から邪馬壹国まで山陽道を陸行1月342km(一日当たり11.4km)という丁度いい感じの数字が割り出されてくることにもなる訳です。【図7】


註:江戸時代の皇女和宮一行が一日で 20km 進めたのに、いくら貴族で街道の整備されていなかった弥生時代のこととは言え、魏の使節の場合は一日当たり 11.4km というのは流石に少な過ぎるという感覚がまだ残ります。実は、魏志倭人伝里程記事における「日」は現在の「日」と同じだが、「月」は現在の「月」とは違い「半月」のことだったということが魏志倭人伝の別の箇所の記述で分かるという話があります。即ち「投馬国までは水行 20日。邪馬臺国までは水行 10日陸行1月」とは、現代語訳すると実は「投馬国までは水行 20日。邪馬壹国までは水行 10日陸行半月」になるというのです。これだと魏の使節は一日当たり 22.8km 進むことになります。この情報を加味すると、私の説に益々信憑性が増すことになります。またこの場合、魏の使節は不弥国以降は実際には足を延ばしておらず、倭人から倭人の月の数え方で換算された情報を得て記録しただけということにもなります。また、不弥国までは実際に足を運んだのですから、不弥国までの里程記事は飽くまでも魏の短里 88m を用い、倭里 55m を用いることはなかったということにもなります。

今アジアで何かが起こっている!

2013-01-14 15:11:18 | 日本論と宗教論
ウィスキーボンボンさんのコメントへの回答を、記事として上げておきます。

以下引用。

コメント、ありがとうございます。

>ちなみに私は32歳です(笑)。

そうでしたか。これは失礼しました。8年後に不惑ですね。使命が必ずあるはずです。自分を信じて、力を蓄えてください。

私の師匠は、力を付けるために論語を読めと言います。

はぐれメタルさんのように誰かの指導の元で聖書を読むのも必須のような気がします。彼の直感力も凄い。聖なるものは、単に聖なるものと呼ばれている訳ではないのです。読書は一種の霊現象です。必ず何かを手に入れたり取り戻すことができます。

>ドイツ北部の海岸沖に数年間で島が浮上したとのことです。この位のダイナミックな自然現象はありえるのですね。

飛鳥昭雄・三神たける共著『邪馬台国の謎と逆転日本列島』(ムーブックス)には興味深い情報が他にもたくさん記載されています。名著です。私は彼の説をなぞりながら、事柄の側面をできるだけ数多く調べて確認し、彼の説に若干の修正も加えはしているものの、大筋は彼の説に同意しているに過ぎません。凄い人がいたものです。

>ホントだとしたら、なんでニュースにならないんでしょう?

私はニュースを全く観ていません。露骨な洗脳の道具であるのは最早、明白なのですから。テレビはドキュメンタリー番組や歴史ドラマを中心に、録画して自由な時間に観ています。しかし、最近異変が起こっているのではと感じることもしばしばです。

大本教のドキュメンタリーや『アニメ貧困史』、中国や韓国の歴史ドラマ、全国の神社の会の代表者の古事記をめぐるトーク番組での重大な発言、クエーカーと内村鑑三、新渡戸稲造との関係の意味を示唆するドキュメンタリーなど、一昔前にはあり得ない番組編成が沢山出てきます。

今日は Perfume のアジアライブツアーのドキュメンタリーを観ましたが、アジアの若者達の Perfume への熱狂の奥に、意図的に加工され統制された価値観の元でこれまで長いこと抑圧されてきた、アジア古来の偉大なるエネルギーの勃興を激しく感じて、何故かひどく感動してしまいました。アジアはひとつであり、美しく強い。これが心底、実感できました。間違いなく何かが起こっていますね。

昔懐かしの芸能人が活躍の場を得て活き活きとした姿を見せているのも嬉しくてなりません。正平さんが自転車で全国を回りながら各地の風景を見せてくれるのも、面白いだけではなく、勉強にもなります。

>こういうことがあるのだとすれば、数百年間で列島が反時計回りに70度移動したというのも、地学的には十分あり得る気がしますね。

それをこれまで長いこと隠し続けてこられ、それを15年程前から計画的に開示しようと動いていられる、そんな人達の存在と、その力の凄さも感じます。この百年、多くの天才がどんなにもがいても結局は彼等が設定した枠内でのことでしかなかったことを考えると、恐るべきことと言わざるを得ません。

>なんか、いろいろな方向から、いろいろなことが急激に解明され、真理に近づきつつあるように思います。

それも時代の流れの一貫ではないでしょうか?間違いありません。何かが起こっています。こんな時代では、本当の意味での霊感(インスピレーション)と義への忠誠心がないと非常に危険です。逆にそれを持っている人がこれから、丁度今 Perfume が成し遂げつつあるのと同じような、意義深い、大きな仕事を成し遂げていくのでしょう。このことを考えると、ワクワクしてきます。

『魏志倭人伝』里程記事について 04

2013-01-14 14:56:03 | 邪馬臺国
九州説であろうが近畿説であろうが、列島の移動を受け容れない限り、壱岐を巡る方向や距離の問題を解決できる筈がありません。文字通り入り口で自己矛盾に陥ってしまうのです。従って、彼等のその後の細々とした論説に耳を傾ける必要など、本当はないのです。しかし、自説がより大きな公平性を獲得するためにも、また彼等によって捻り出された数々の「解決法」に誤謬の典型を見出だして収集し鑑賞する意図からも、代表的な論点を幾つか検討し、批判してみる意味は、なきにしもあらずと言ったところです。

ここでは先ず、壱岐問題には目を瞑ります。その上で次に、魏志倭人伝の里程記事における末盧国以降の里程を、飽くまでも現在の地形と方向に忠実に解釈してみます。すると、先述したような文献学上の鉄則に抵触する嫌いはあるものの、次のように解釈するのが比較的妥当になるようです。

「末盧国(呼子)の東南500里に伊都国(舟塚古墳周辺)があり、伊都国の東南100里に奴国(佐賀城周辺)がある。伊都国(舟塚古墳周辺)の東100里に不弥国(吉野ヶ里遺跡西部)がある」。【図5-b】


この解釈中に現れる三つの地点の選択は、古代における重要性も十分に想像できるようなものにしてあります。海岸線も当時はこれらの近くにまで迫ってきていたようです。筑紫平野は福岡平野南部にある奴国の丘陵地を分節点に福岡平野の後方に大きく広がる地域です。太宰府や水城(みずき)がこの地域の北の入口付近に建設された目的を考えた場合、この地域の福岡平野との連絡の機能や、博多湾から福岡平野に上陸してくる敵からのこの地域の防衛の機能が意識されていたのは明らかです。ということはつまり、筑紫平野は古代において、間違いなく重要な地域だったのです。【図5-特a】


だから、現在の地形と方向に拘って九州説を取ろうとする場合、末盧国からこの地域まで里程を記述通りに辿ることができて好都合にもなるのですから、私が上にやって見せたように、この地域に、伊都国や奴国、不弥国を配置しようとしてもいいはずです。しかし、そのような論者は、実際は稀です。即ち、

末盧国=松浦周辺
伊都国=糸島周辺
奴国=福岡市城南区から広がる丘陵地帯

という方程式については、どうやらあまり異論がないようなのです。となると、つまり、九州説を取る人の多くが壱岐方向問題に続いてここでもまた、自らの「鉄則」を破ってしまっていることになります。糸島や福岡は松浦からは飽くまでも東北東なのであって、南東などではないからです。こうなると最早九州説は、仮説としての価値すらなくしてしまっているようにも感じられます。こう感じるのは私だけでしょうか?「方向に厳格」どころか「距離に加えて方向にも全く無頓着」の域にまで行ってしまっている気すらします。要するに「兎に角、何が何でも邪馬壹は九州!」と言っているだけなのです。九州が古代の列島において極めて重要な役割を担ってきたことは周知の事実ですから、そのことを考えると、邪馬壹国が近畿にあって九州にはないと読み取れる文献が現れた時に、何らかの抵抗をしなければとなった気持ちは分かります(後で明らかになることですが、実は私自身も、邪馬壹国はある時期九州にあったと考えているのです)。だからと言って、魏志倭人伝の里程記事に対し、ここまで酷いこじつけや誤魔化し、強弁などする気になりません。九州説の人は論というものの大切さをどう考えているのでしょうか?自分の振る舞いが日本の学の世界に、更には日本の社会全体に、甚大な被害を齎している可能性に気づかないのでしょうか?このことに良心の痛みは感じないのでしょうか?

しかし、それでも我慢しましょう。我慢した上でもう少し九州説に付き合ってみましょう。

方向に「厳格な」筈の九州説ですから、不弥国を博多湾岸に置く場合、南の方向に水行して投馬国へ辿り着くのに必要な日数は20日などと書かれているのを見たら、この方向に比較的大きな海や、水行20日の可能な河川を探す筈です。そしてそれらが何処にもないことに気づいて当然、不弥国を福岡平野に想定することをある程度は、躊躇することになるはずです。

しかし多くの人が躊躇なく、その想定を行ってしまっています。ですからここでもまた彼ら自身の「鉄則」を破ってしまうことになるわけです(驚いたことに、ここまで一度も守っていない!)。例えば、九州の北東岸沿いをぐるっと回って日向や大隅方向へ向かう航路を考える。そもそも、韓半島南西岸沿いの移動について魏志倭人伝では「乍南乍東」と書いていますから、九州の北東岸を今ここで述べているように沿岸沿いに移動せよと言いたいのなら、同じように「乍東乍南」と書くはずです。しかし実際は、そんな記述にはなっていない。それなのに、九州の北東岸沿いをぐるっと回って日向や大隅方向へ向かう航路を考え、それで「南へ」の記述に十分に忠実になっているとこじつける。その上で水行20日で辿り着く地点を考える。ところが、1日で27kmという常識的な行程を導入して計算した場合には総移動距離が560kmとなってしまい、九州内に留まることができない。九州の遥か南方海上に出てしまう。不弥国を有明海沿岸に持ってくる場合も然り。【図5-特c】


註:ただし、1日の船での移動距離を20kmとやや抑え気味にして計算すると、総距離は400kmとなり、丁度西都原古墳群の辺りに来ます。この場合、この辺りを投馬国と見做せない訳ではない。また、総距離560kmの方も種子島の東岸に来ます。ここを投馬国と見做せない訳でもないのです。ただ、魏志倭人伝の中で里程が女王国の邪馬壹国までのものと併記されつつ戸数5万とも記述され、戸数7万の女王国にも迫るほどの規模を持った重要な国として書かれていることを想起した上で、その妥当性を吟味してみると、距離やら方向やら色んな無理を重ねてやっとの思いで捻り出した投馬国なのに、西都原古墳群の場合はまあまあ頷けるにしても、種子島の場合はやや頷ききれない面も否めない感じがします。

更にはどちらの場合も「邪馬壹国へは南の方向へ水行10日と陸行1月」と書かれていることに関して、どこかの場所まで行くのに「南に向かって水行10日と陸行1月」などという旅程を強いられる地形の配置があるかどうか検討してみた時に、それがどうしても見つからない。何処に邪馬壹国を持ってきたらいいのか分からない。水行10日と陸行1月が必要なら、海で隔てられたかなり大きな陸地の奥ということになるはずですが、【図5-特d】


九州北部から見て何処にもそんな土地など見つからない。列島内は現在の地形では何処も、スーッと水行してほんの少しだけ陸行しさえすればいい所だけである。

ならばと、「水行10日或いは陸行1月」と解釈し直すのは、再びのごり押しになってしまう。水行10日で行けるならわざわざ1月も掛かる陸行をもうひとつの選択肢として考慮に入れる必要がない。ただし、水軍と陸軍を両方共に率いて邪馬壹国へと攻め上ることが想定されている場合はそれも、なきにしもあらずです。しかし、魏志倭人伝の目的は決して軍事ではありません。軍事が目的なら必ず、もっと詳しい記述にして詳細な地図も作るのでないと危険で仕方がないからです。魏志倭人伝の目的は飽くまでも一般的な地理観の構築でしかない。使節の派遣に耐えられるような情報でありさえすればいい訳です。

結局、魏志倭人伝は、九州説を取る限り全く、解釈など受け付けはしないのです。壱岐から始まって投馬国や邪馬壹国に至るまで、それこそ文字通りたったのひとつも、どこにあったのか分からなくなってしまう。魏志倭人伝の地理観の中で邪馬壹国は絶対に、九州内にはなかったのです。

それなのに、九州説は何と、まだ諦めません。帯方郡から狗邪韓、対馬、壱岐、末盧、伊都、奴と辿って不弥まで来るまでに記載されている全ての距離を合計して、これが10500里となる上に「帯方郡から邪馬壹国までの距離は東南に12000余里」との記述もあるのだから、投馬国も邪馬壹国も残り1500里の範囲にあったことになる。だから少なくとも九州の外に出ることなどない。このように主張してくるのです。【図5-特e】


ところが、魏志倭人伝では不弥国までの里程は、一部の例外を除いてほとんど全て「余」の文字が付き、所謂概数になっているのです。

概数は決して総計するな!

これは小学校の算数で出てくる初歩的な鉄則です。概数もその部分だけなら、大まかな把握には役立ちます。誤差の影響が許容範囲に留まるからです。しかし総計した場合、その誤差の影響も総計され、許容範囲を超える可能性も出てきて、こちらのコントロールの効かない性質のものになってしまう。例えば、

4.2 + 4.5 + 4.3 + 4.4 + 4.2 + 4.5

を 4 × 6 = 24 と弾き出した時の、実際の正確な値(26.1)からのズレの大きさ(2.1)を確認してみたら、直ぐに分かることです。「小数点以下まで点数を出すテストを実施しました。6回受けて合計が25を超えたら入学を許可します。貴方の点数は・・・4余を6回取っています。合計は・・・24余です。残念ながら不合格ですね。もう一年頑張ってください」などと言われたりしたら、誰であれ慌てて抗議するでしょう?これと同じことです。

概数でも総計のズレの範囲が、例えば10500里から11200里の範囲などといった具合に、ちゃんと自覚できていたら、それ程神経質にならなくてもいいのではないか?このようなやや同情を求めた感じの反論も予想されます。しかし、原理原則に忠実になる文化にいて、概数は決して総計するなという原則も当然のように念頭においていたに違いない著者の頭の中で、読者がそんな原則破りをするなど思いもしないことだったでしょう。彼等の頭の中では読者も、自分と同じ中原王朝の官吏だった筈ですから。概数の総計などとんでもない話です。

それにしても、九州説の論者が次から次へと繰り出す誤謬の数々は見事に、学問の原理原則違反に関わる誤謬が多くなっているようです。何故なのでしょうか?学問を軽んじているのでしょうか?

ところで、魏志倭人伝の里程記事では確かに「帯方郡から邪馬壹国までの距離は東南に12000余里」と書いてあります。上のように主張する九州説はこの記述を見て、「帯方郡から邪馬壹国までの直線距離を当時の人が出せるはずがない。従ってこの数字は総計によって出したものに違いない」と、こんなふうに考えたようです(「消去法を真理判定の決定的な基準と誤認するな」の原則にも反す)。しかし、当時の中原王朝の官吏には、帯方郡から邪馬壹国までの直線距離を比較的容易に割り出す手段があったのです。中原内の凡ゆる位置関係の、詳細な地図に依拠した正確なデータ群と、北極星の角度測定を基礎にした普遍的で正確な緯度測定法です。当該2地点の緯度と大まかな方角さえ分かれば、中原内の既存のデータの中から類似のデータを取り出して、その対比から大まかな直線距離を割り出すことができたのです。魏志倭人伝のかの記述「帯方郡から邪馬壹国までの距離は東南に12000余里」は間違いなく直線距離の大まかな推定値です。しかも、かなり実態値に近い。従って、魏志倭人伝の地理観の中で邪馬壹国は決して九州国内になかったことが、ここでも確認されてしまいます。【図-9】


1日あたりの水行距離は、通常は27kmくらいになります。それを20kmとやや少な目に考えても「水行20日」は400kmに当たる訳ですから、例えば不弥国を筑紫平野に置いた時に「投馬国」の位置が有明海北端から230km地点に当たる薩摩南部を遥かに通り越した南方海上に来てしまうこと。不弥国をやや無理して福岡平野に置く場合は西都原古墳群の辺りが投馬国ということになり、問題は比較的小さくなるものの、そもそもこれらの場合「不弥国から南に向かって邪馬臺国まで行くのに必要な時間」というものを、「水行10日と陸行1月」であれ「水行10日あるいは陸行1月」であれ地形の特徴上、合わせて考えること自体が意味不明になってしまうこと。これらのことを踏まえて判断すると、現在の地形のまま方角だけには飽くまでも異常に拘る(実際は全く無頓着)ことなど、移動の起点や距離に比較的気楽な修正を加えてしまうことなどとも合わせて、全くありえざる方針と言うべきなのです。

魏志倭人伝の里程記事では短里88mが採用されていること。何らかの理由で方向に、対馬海峡内のどこかの地点を中心として反時計回りに70度といった飽くまでも規則的な修正を加えながら読む必要があること。移動の到着地点は「末盧から伊都国、伊都国から奴国、奴国から不弥国」といった具合に次の移動の出発地点と想定されているのであって「末盧国から伊都国、伊都国から奴国、伊都国から不弥国」といった具合に恣意的で変則的な想定がされている訳ではないこと。これらのことがここでは最早、確定したことになるのです。

『魏志倭人伝』里程記事について 03

2013-01-13 05:20:51 | 邪馬臺国
従来の説を広く見渡しても、大半が、列島移動説など思いも寄らないでいるようです。もし仮に思い至ったとしても「そもそも荒唐無稽だ」と考えるに違いありません。或いはそのように酷評されることを恐れて口をつぐむでしょう。こうなる気持ちは、私にもよく分かります。しかしこの列島移動説は、振り払おうとしても、そのために他のどの説を検討しても、その度に「やはり列島移動説の方が信憑性がある。常識はずれの筈なのに、何でだろう?」と思わせられる不思議な魅力を持った説なのです。他の説とは違って、いい加減さや誤魔化し、強弁が見られない。

例えば先ず、一般に九州説と言われる沢山の説についてですが、それらは全て共通して「方角は正しい。方角を正しいと見做した場合は一見、距離の記述に矛盾が生じるように感じるが、あるやり方で距離の換算法を正せば、ちゃんと合理的に説明できるのだ。そのやり方とは・・・」という形式を持っています。ここで、それぞれの距離の換算法の正し方をひとつひとつ検討することもできます。しかしその前に、それらがどれも方角の厳格さを大前提に置いて強調しているにも拘らず、一大国を壱岐とは認めない極一部の極めてユニークな説を除いて必ず、対馬国から一大国(壱岐)への方角が「南」と書かれていること。それなのに実際は東南になっていること。これらの点を不問に伏してしまっていることは、どうしても指摘しない訳にはいきません。「方角には厳格でないといけない」と強い口調でまくし立てる人がその舌の根も乾かない内に「南と東南は大体一緒だよ」などと言ったりしたら、どんな人でも思わず苦笑いしてしまうはずです。一般に九州説と言われる説を唱える人は、先ずこの壱岐方角問題に明確に答えない限り、どんなに多弁を弄しても無駄だと認めるべきです。そして誰も答えられないのです。地面が動いたと言わない限り。【図4-a】


かと言って、近畿説はどうでしょうか?近畿説の場合は共通して「距離が正しいのだ。方向は何かの都合で狂ってしまっているだけだ。その証拠に、狂い方が70度と一定になっている。その都合というのは・・・」という形式を持っています。ここで、それらの理由をひとつひとつ検討することもできます。しかしその前に、それらがどれも距離の厳格さを大前提において強調しているにも拘らず、一大国を壱岐とは認めない極一部の極めてユニークな説を除いて必ず、対馬国から一大国(壱岐)までの距離が「1000余里」と書かれていること。それなのに実際は約500里と半分しかないこと。これらの点を不問に伏してしまっていることはどうしても、指摘しない訳にはいきません。「距離には厳格でないといけない」と強い口調でまくし立てる人がその舌の根も乾かない内に「1000余里と約500里は同じですか?どう見ても酷く差があるようですけど」と問われて途端に黙り込んだりしたら、どんな人も思わず苦笑いしてしまうはずです。一般に近畿説と言われる説を唱える人は、先ずこの壱岐距離問題に明確に答えない限り、どんなに多弁を弄しても無駄だと認めるべきです。そして誰も答えられないのです。短里にしようが長里にしようが、対馬西岸から壱岐までの距離と壱岐から末盧国内のいずれかの港までの距離がどちらも「1000余里」と同じ書き方をされつつ、実際はどう計測しても倍近く異なっているという矛盾に答えられる筈がないからです。地面が動いたと認めない限り。【図4-b】


この一大国を巡る距離と方角の問題は、通常は無視されていますが、従来の論説ならどんな論説も、それが細かい議論に入ってしまう前に黙らせられる、極めてラジカルな、便利な道具になるのです。この試練に耐えられるのは、私の知っている限りはただひとつ、飛鳥昭雄氏による列島移動説だけです。こう考えると、そのあまりの非常識さに今でも思わず頭を抱えたくなってしまう、列島移動説などというかの「珍奇な」説も、その珍奇さは全く薄くならないにしろ、その信憑性を勢いよく漲らせてくるのが感じられるはずです。【図5-a#】【図5-a】



「太陽が西から上り、地面が大きく動くのでない限り、僕は君を愛し続ける」とは「どんなことがあっても必ず」の意味ですが、地面が大きく動くことなど、人間にとっては文字通り自らの全てが寄って立つ「基盤の変動」を意味する訳で、ほとんど生理的と言ってもいい程に受け入れ難いことの代表例とみなされます。魏志倭人伝の里程記事の解釈では、それに一番信憑性がある。この特異な事態をどう捉えればいいのか?

とは言え、特に九州説が出してくる実に多様なアイデアも、人間が行き詰まった時にどんな誤りを犯してしまうかの類型がよく分かって、その意味ではなかなか面白い。

>伊都国(吉武)の東南に(現在の地形では東北東に)向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。奴国の東に(現在の地形では北北東に)向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里。【図6】


例えば、この部分を巡る次のような説があります。この私の現代語訳で「奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)の東に向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里」を、「伊都国(吉武)の東に向かい不弥国に至る時の移動距離も100里」と解釈すべきだとする説です。【図6-特1】


その理由は、伊都国までの記述が全て

「Xに向かってY里移動するとZに着く」

という表現形式になっているのに、伊都国以降になると突然

「Xに向かってZまで行くのに必要な移動距離はY里である」

と表現形式が変化しているからとされています。

要するに、

(1)▽東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)▽東北東に向かって100里移動するとBに着く
(3)▽東に向かって100里移動するとCに着く(「▽」とはそこに語句省略が行われていることを示す記号です)

となっていたら、省略語句を復元しようとする場合に、直前の移動の到着地を当該移動の出発点として復元して、

(1)(Xから)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)(Aから)東北東に向かって100里移動するとBに着く
(3)(Bから)東に向かって100里移動するとCに着く

などと解釈していいが、【図6-特2】


(1)▽東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)▽東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)▽東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

などと、(2)から(3)の表現形式が(1)までの表現形式から変化している場合は、

(1)(Xから)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)(Aから)東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)(Aから)東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

などと、全く異なった解釈が要求されているのだと言うのです。【図6-特3】


しかし、同一構文の変形が省略語句の復元のやり方に影響を与えるなどというのは、聞いたことのない話です。同一構文の変形は、変形しても同一構文だと理解できるレベルの読者に知的な刺激を与えるために行われる、論理とは無関係の単なる修辞というのが文献学上の一般的なルールです。出発点を直前の移動の到着地ではなく、直前の移動と同じ出発点として読者に伝えるためには、論理的には、同一構文の変形などの単なる修辞とは無関係に、語句省略などせずにきちんと、次のように記述し、誤解を回避しなければならないのです。

(1)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)Aから東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

註:ただし、誤解して欲しくないのは、これは飽くまでも項目が三つ以上ある時の話で、項目が二つになっている例えば、

(4)▽南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)▽南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

のような表現の場合は、

(4)(Cから)南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)(Cから)南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

と解釈するのであって、

(4)(Cから)南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)(Dから)南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

ということを伝えたい時は、逆に、語句省略などしないで、ちゃんと次のように記述する必要があります。

(4)▽南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)Dから南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

古代中国の官吏と言えば、上に述べたような文章作成の論理や修辞の使い分けに他のどこの国のいつの時代の官吏よりも拘り習熟していた、文章作法の謂わば「専門家中の専門家」だったはずです。彼等を甘く見るのは禁物です。修辞は飽くまでも修辞であり、論理と混用してはならない。論理は、修辞を全て注意深く解除して初めて働かせることができる。これが鉄則なのです。私もこれは受験生相手にいつも、口を酸っぱくして言っています。

それはさておき、ここで言われているような解釈を、即ち「伊都国(吉武)の東北東に向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。伊都国(吉武)の北北東に向かい不弥国に至る時の移動距離も100里」という内容の解釈を一旦受け入れたとしても、それを地図上で確認すると、この場合不弥国の位置が今にも玄界灘の海中に入ってしまいそうなあり得ない位置に来ることになってしまいます。古代の海岸線がもっと内陸まで食い込んでいたことを考慮に入れると、この異常さは救い難いものです。実際この地域に古代の遺跡は発掘されていません。周囲に散在するかつては干潟内の小島だったであろう小高い岡の上に神社がひとつずつ配置されているに過ぎません(因みに、更に東に2km進み、城南区の丘陵地帯の北端の海沿いまで移動したところ、現在の大濠公園の辺りには平安時代に、鴻臚館という、外国使節を滞在させる施設があったようです。これは不弥国の東辺ではなく、飽くまでも筑紫丘一帯に広がっていた奴国の北西辺と捉えるべきです)。末盧国中の拠点と伊都国中の拠点の組み合わせを、私が私の解釈の中で採用した波多津と吉武の組み合わせ以外のありとあらゆる組み合わせ方に変えて試しても、どの場合もこれと同じ事態になります。この点を見ても、伊都国をふたつの異なる移動の共通の出発点と考えることはできないことが分かるのです。【図6-特1】



『魏志倭人伝』里程記事について 02

2013-01-12 16:08:29 | 邪馬臺国
>対馬西岸のA港から瀚海(カンカイ)という名前の海を南(実際は南東に)に1000余里移動すると一大国(一支国=壹岐国)のB港に着く。一大は、300里×300里(短里:26.4km×26.4km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図4】

>一大国のB港から海路を1000余里移動すると末盧国(松浦国)に着く。末盧国から陸路を東南に(実際は北東に)500里行くと伊都国(糸島)に着く。【図5】



魏志倭人伝は方向と距離に、何らかの理由で異常があるというのは有名な話ですが、私の知る限り、不弥国から投馬国や、不弥国から邪馬臺国への道程に話を絞り込む人が多いようです。その上で、邪馬臺国に実際に行って調査して報告した人や、それを受けて記録した人、或いは原本や書写本の書写を重ねてきた人々、更には東洋の地理観を継承していた当時の中原の知識層全体など、魏志倭人伝の編集に関わった人達の如何にも人間的なミスにその原因を仮託する人が大半になっているようです。

人間的なミスについては、それを認める場合、そのミスの仕組みを統一的に認識できない限り魏志倭人伝の解釈に手を染めることそのものが矛盾した行為になってしまいます。信用できないものに拘り信用するということになるからです。私の見るところ、距離と方位の異常はこの対馬国から一大国、一大国から末盧国への道程記事から始まっています。その後の各国の道程記事における方向異常が全て統一的に対馬海峡内のある点を中心にして反時計回りに約70度回転していると規定した上で、その点を修正しながら魏志倭人伝を解釈すると、他のポイントでは異常などほとんど見られなくなります。このことを踏まえて地図上で、一大国と末盧国の位置を記事に合わせて修正してみると、列島を対馬海峡内のある点を中心に現在の位置から時計回りに70度回転させた時に対馬と九州の間の海域が拡大するのですが、その海域内の丁度いい位置に、この修正後の一大国がまるで申し合わせたかのように収まるのです。末盧国の位置も記事の内容にぴったりです。【図5-a#】【図5-a】



ここで列島移動説について説明しなければなりません。西日本島はかなりの距離を移動した後、同じように長距離を移動してきた東日本島と接合してフォッサマグナを形成しつつ、観音扉を閉じるかのように現在の位置に収まった。衝突以前、西日本島は、台湾島や琉球諸島と共に江南から分離し、江南や台湾、琉球諸島から次第に遠ざかって現在の位置まで移動した。これが列島移動説ですが、この説は一般にはあまり知られていません。しかしながら実は、プレートテクトニクス理論に依拠した古地磁気学で既に正式に解明されたことなのだそうです。【図X】


この一連の移動が何百万年ものタイムスパンで起こったとされる訳です。ここで、そのタイムスパン設定の科学的根拠が脆弱であることを踏まえながら、魏志倭人伝解釈にこの列島移動説を導入した際のほぼ完璧な整合性をも考慮に入れてみるのです。こうした時に、この移動が紀元前4世紀頃から紀元後3世紀という、比較的短いタイムスパンで起こったのではないかという疑念が湧いてくる訳です。この疑念については、たとえそれがどれ程常識から遠くても、簡単に無視できる話ではないと私には思われるのです。逆に魏志倭人伝そのものが、この一見「常識はずれ」の説を裏付ける貴重な史料なのかも知れないのです。

今ここで私が「ほぼ完璧な整合性」と述べたことの具体的な内容については、この記事のこれ以降の論述で明らかになります。

なら自分は何をしたらいいのか?

2013-01-11 14:22:29 | 日本論と宗教論
ウィスキーボンボンさんのコメントに対する回答を記事として上げておきたいと思います。ウィスキーボンボンさんのコメントは『「時代精神」の正体』につきました。そちらも合わせてお読みください。

以下回答。


明けましておめでとうございます。

日本社会で生活しているのに外国籍しか持たない人達。この人達が選挙権や被選挙権を持つようになると、現代日本の「民主政治」において、日本国民をはじめ、関係するどの集団あるいはどの勢力が、どんな利益やどんな不利益を被るようになるのか?(地方自治体など既得権益のかなりの変動を被りそうです)

外国人参政権導入を主張するように、どこのどんな勢力が小沢氏に指令を出しているのか?(華僑はまず間違いなく入っているでしょう。華僑は日本の秦氏とどのような関係を結んできたのでしょう?因みに小沢さんの祖先の地済州島はやはり、秦氏の土地です)

それともその主張は、他の案件とは違い、小沢氏個人の意志から来るものなのか?(おそらくこれはないでしょう)

民主制は国民にとって幻想であり、選挙権や被選挙権を持ったところで国民に権力など振るえるはずがありません。従ってその意味では、外国籍の人々に、選挙権や被選挙権が与えられたところで、国民に甚大な影響などないでしょう。しかし、民主制を支配の手段として所有している勢力には、所有している分だけの影響はあるのでしょう。所有者は所有物によって所有され、自らも所有物として規定されてしまうものだからです。支配勢力の構図には、大きな変動が生じることだろうと思います。

これらの点については、熟慮した上で、機会があれば詳述してみたいと思います。少しだけ時間を下さい。

ところで、ウィスキーボンボンさんの一番の関心は、これまで現実と思っていたものの虚偽性に触れ、奥の方の真実が見えそうで見えない時に、個人として今何をすべきか。これではないかと、お見受けいたしました。これ程あからさまに不正が行われたのに自分には何もできなくて歯痒い。どうしたらいいの?

私は先ず、この世の支配の最奥すら遥かに超えた、この世も含めた極めて巨大な領域を支配している本来の「支配者」との結び付きを、則ち、この世の支配の最奥がそれとの関わり方を排他的に熟知し実践しているが故にこの世の支配の最奥に陣取り続けていられる、そんな本来の「支配者」との結びつきを、飽くまでも個人の責任で取り戻す必要があると思います。つまり、宗教性や道徳性を正しく理解した上で、この世での周囲の人々との関わり合いを、祈りや修行の機会として実践して行く必要があるということです。これは、家族や会社を、またこの世での生を失うかもしれないという恐怖(倫理性)が生活のベースに占めている限りできないことです。その恐怖を克服した上で、自分の生活は100パーセント、自分とかの本来の「支配者」との関係を軸に、他でもない自分自身がコントロールしていくという気構え(道徳性あるいは宗教性)を持って、家族や会社、またこの世での生の逐一全てに、自分なりの形で全身全霊で邁進して行く生き方です。決して人を蔑んだり憎んだり、騙したりしない生活です。

敢えて言えば、支配層のあからさまな暴挙に対して、自分と自分の仲間達の現時点での相対的な弱さと強さをきちんと弁えつつ、今すぐではないにしろ、10年後や、ひょっとしたら100年後にその報いを返すという強い信念の元で、そこに繋がる今としての今を生き続けるということです。実は支配層はそのような生き方を一族全体で何千年も継続し、何か事を起こす時は少なくとも20年くらいの長期展望に立って実行しているようです。それに対抗しようとする時は少なくとも同じレベルに立てるのでなくてはならないという、極めて簡単な理屈です。自らの日常にもちゃんとそのような深みがあるのか?厳しく見つめ直さなければなりません。

これまで現実と思っていたものの虚偽性に気づいてしまった以上、最早迷っていることはできません。陰謀論やオカルト、宗教、哲学との関わりが単なる好奇心からに過ぎず、現実逃避の意味合いを含むことになってしまうと、霊魂にとってはこの上なく危険な事態を招くことになってしまうからです。

ウィスキーボンボンさんの文章を読んでいると、何よりも先ず、ウィスキーボンボンさんの、普通の人にはない大きな可能性を感じます。ですから、ウィスキーボンボンさんがもし、お若い方で、大学生くらいの方でしたら(間違えていたらご免なさい)、今言ったような生活の実践者になられることをお勧めしたいと思います。そうすればきっと、普通の人にはとても成し遂げられないようなことが成し遂げられる。多くの人が寄り添う大きな樹となれる。そんな人生になるのではないかと、勝手ながら想像します。

将来は、RKなどよりずっと有意義で大きなことができるはずです。どうか自信を持ってください。創作活動も決して途切れさせないでください。創作の機が熟さない時は、誰にも気兼ねせず、時間を掛けて思う存分に調べ尽くし、構想し続けて下さい。

私も師匠の元、このような生活を送るよう運命付けられた人生です。これからどんな展開が待っていますことやら(笑)。

『魏志倭人伝』里程記事について 01

2013-01-11 04:12:49 | 邪馬臺国
>韓と呼ばれる地域は現在の京城(ケソン/ソウル)辺りを中心とした帯方郡の南に接し、4000里×4000里(短里:352km×352km)の範囲にすっぽりと収まるような地域である。【図1】


「列水=大同江(テドンガン)ではなく帯水=漢江(ハンガン)が帯方から西に向かって流れている」という内容の記述が実際にあるそうです。従って、帯方郡治が漢江沿いの京城辺りだったのはほぼ確実なのではないでしょうか?【図1-a】


楽浪郡が北緯38度線の北、現在の平壌市を中心とした地域にあったこともまた、文献学的にも考古学的にも確認されていて、異論がないと言われているようです。

楽浪郡や帯方郡をいくつかの文献学上の証拠に基づいて遥か北方に位置する渤海沿岸に配置する説があるのは承知していますが、現段階ではそれには信憑性がないと感じています。【図1-c】


この説では結局、この説を唱えている人自身が述懐しているように、魏志倭人伝を解釈することができないのです。また、狗邪韓国あるいは金官伽耶についての様々な記述も包括することができない。従ってこの説は魏志倭人伝を巡る今回の推理からは一旦除外します。機会があれば勿論、この説に基づいた推理を試みたいとは思います。また、何故楽浪郡や帯方郡をそのような北方に配置する文献があるのかについても、考察しなければならないのだろうと思っています。

>倭人は半島にも住んでいるが、半島だけではなく帯方郡から見て東南の海上に横たわる島にも住んでいる。帯方郡から倭の王都へ行くには先ず、半島の海岸沿いに海路を使い、韓の領域である4000里×4000里の正方形をなぞるような形で南あるいは東の方向に移動し、左手の北岸に狗邪韓国勢力圏内の対馬対岸港(忠武)が現れる所まで移動する必要がある。その際の距離は、韓の領域の縦横8000里の内ほぼ全部の7000余里(616km余)となる。【図2】


飛鳥説では、古代において列島の地形が今とは大きく違っていた可能性があるということになっています。対馬海峡の何処かの点を中心に現在の位置から時計回りに70度程回転した状態になっていたというのです。その真偽は一旦保留しておきましょう。しかしながら何にしろ、半島の地形と、狗邪韓国が現在の釜山を中心とする地域だったこと、帯方郡治が今の京城辺りだったことには、かなりの確率で変わりがないと思われます。実は、これらの点が確定した瞬間に、ここで何と、邪馬臺国を巡って多くの人の間で見解が激しく対立しあっている幾つかの問題の内、ある重要な問題がスッキリと解決することになるのです。それは、魏志倭人伝で用いられている「里」とは何mに当たるのかという問題です。

京城から狗邪韓国の対馬対岸港忠武までの海路は計測すると約616kmとなっています。魏志倭人伝ではそれが7000余里と表記されているのですから、魏志倭人伝における1里は、約88mと換算されるのです。つまり古代中国で用いられる二種類の単位、長里(435m)と短里(70~100m)の内、短里を使って表記されていることになる訳です。

仮に渤海沿岸に帯方郡を持ってきた場合、狗邪韓国の対馬対岸港までは約1000kmとなり、それを長里で換算していては、せいぜい2299里にしかなりません。これでは、7000余里には全然足りなくなります。長里に拘りつつ帯方郡治を現在の京城辺りに持ってくる場合などは、2299里を更に何倍も下回ることになるわけですから、尚更です。

では長里に拘らずに短里88mで換算するとどうなるでしょうか?勿論、11364里となって、7000余里と表現するには余りにも大きくなりすぎてしまいます。短里の最高値100mで計算しても10000里となって、事態に変わりはありません。帯方郡を渤海沿岸の遼東半島に持ってきた場合、長里を採用しても短里を採用しても、魏志倭人伝の表記からは完全にずれてしまうわけです。

以上のことからも、魏志倭人伝では短里88mが用いられていることと、帯方郡を遼東半島辺りに配置することが少なくとも魏志倭人伝では不適切であることとが、同時に確定するのです。これは大きな手掛かりです。この手掛かりに基づいてこれ以降の全てが整合的に解釈できるでしょうか?これが問題です。そして私の検討によれば、この上ない整合性によって解釈が組み立てられるのです。

>そこから初めて半島の海岸沿いを外れて海路を1000余里(実際は約773里しかない)移動すると対馬西岸のA港に着く。対馬は、400里×400里(35.2km×35.2km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図3】


対馬は実際は、南島北島合わせると方600里、即ち800里×400里(70.4km×35.2km)となっています。魏志倭人伝では何らかの理由で、南島の面積しか記さなかったようです。ひょっとしたら、南島と北島が地続きではなく分離していたのかもしれません。因みに少なくとも江戸時代以降は、対馬の北島と南島は地続きでした。当時地峡だったところが切り開かれて南北二つの島となったのは明治以降のことです。


『魏志倭人伝』里程記事の現代語訳

2013-01-09 21:33:24 | 邪馬臺国
邪馬臺国の位置を規定するのに欠かすことができない箇所を抜粋した上で『魏志東夷伝』倭人之条を現代日本語に訳してみました(倭人之条以外の箇所も若干は含みます)。文章中の各所に散在する、これまでに多くの人々が指摘してきた問題点をひとつひとつ検討して、最も合理的になると判断したラインを採用して練り上げた現代語訳にしています。各部をそのように訳する根拠については、この訳の後でひとつひとつ詳説していきます。まずは、訳の全体をお読みください。

「韓と呼ばれる地域は、現在の京城(ケソン/ソウル)辺りを中心とした帯方郡の南に接し、4000里×4000里(短里:352km×352km)の範囲にすっぽりと収まるような地域となっている。【図1】



倭人は半島にも住んでいるが、半島だけではなく帯方郡から見て東南の海上に横たわる島にも住んでいる。帯方郡から倭の王都へ行くには先ず、半島の海岸沿いに海路を使い、韓の領域である4000里×4000里の正方形をなぞるような形で南あるいは東の方向に移動し、左手の北岸に狗邪韓国勢力圏内の対馬対岸港(忠武)が現れる所まで移動する必要がある。その際の移動距離は、韓の領域の縦横8000里の内ほぼ全部の7000余里(616km余)となる。【図2】



そこから初めて半島の海岸沿いを外れて海路を1000余里移動する。すると対馬南西岸のA港に着く。対馬は、400里×400里(35.2km×35.2km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図3】



対馬西岸のA港から瀚海(カンカイ)という名前の海を南に(実際は南東に)1000余里移動すると一大国(一支国=壹岐国)のB港に着く。一大は、300里×300里(26.4km×26.4km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図4】



一大国のB港から海路を1000余里(実際は半分の500里程)移動すると末盧国(松浦国)の波多津港に着く。波多津から陸路を東南に(現在の地形では東北東に)500里(44km)行くと伊都国(吉武)に着く。【図5】



伊都国(吉武)の東南に(現在の地形では東北東に)向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。奴国の東に(現在の地形では北北東に)向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里。【図6】



不弥国から南に(現在の地形では東に)向かい投馬国に至る時の移動時間は水行で20日。不弥国から南に(現在の地形では東に)向かって倭国の王都である邪馬壹国(邪馬臺国)に至る時の移動時間は水行10日と陸行1月の合計40日。【図7】



この女王が居する邪馬臺国の北方(現在の地形では西方)の国々のことについては詳細を手に入れることはできなかったが、南方(現在の地形では東方)の周囲には、

01. 斯馬(しま)国
02. 已百支(いほき/いわき)國、
03. 伊邪(いや or いざ)國
04. 都支(とき or たき)國
05. 彌奴(みな or みの)國
06. 好古都(ほこと or ほかた)國
07. 不呼(ふこ or ふほ)國
08. 姐奴(つな or つの)國
09. 對蘇(つさ or つそ)國
10. 蘇奴(そな or その)國
11. 呼邑(ほを)國
12. 華奴蘇奴(はなそな)國
13. 鬼(き)國
14. 爲吾(いが or いご)國
15. 鬼奴(きな or きの)國
16. 邪馬(やま or じゃま)國
17. 躬臣(こし or くじ)國
18. 巴利(はり)國
19. 支惟(きび or しゆい)國
20. 烏奴(あな or おの)國
21. 奴(な or の)國

があることが分かった。女王の支配領域はここまでである。この支配領域の南には(現在の地形では東には)狗奴(くな or この)國があり、女王国と覇を競い合っている。【図8】



帯方郡からこの邪馬臺国までの総距離ではなく、直線距離を計測すると、12000余里(1056km余)となった。【図9】



昔夏の后である少康の子が会稽に封ぜられた時に、ある行為を会稽の地元の人々にアドバイスしたという有名な話がある。その行為がその土地の風習として定着したという話である。邪馬臺国の人々の風習の中には、その風習と同じ風習が見られるようだ。帯方郡から12000余里だけ東南という先ほどの計測結果から判断して、邪馬臺国は会稽の真東の方向の洋上にあることになるから、会稽の地元の人間たちとの間で古来より船での交流があり、それ故そのような風習の一致が残っているのではないかと考えられる」

RKに中丸さんから年賀状

2013-01-06 22:09:13 | 政治
RKに中丸さんから年賀状が来たと言って、RKがはしゃいでいる。写真の添付を最近覚えて濫用しているのに、この年賀状の文面は添付しませんね。多分「貴方はこれまでよく頑張りましたし、私もそれを好意を持って拝見してまいりました。しかし、そろそろ幕引きです。貴方からはもう何も起こりませんよ。どうかこのことをご自覚なさって、ご自分とご自分のお仲間のために、上手な幕引きをお考えください」とでも書いてあったのでしょう。でもこれをRKが嬉しそうに記事に上げているのは何故?彼の底の浅さが見えるようではありませんか?