goo blog サービス終了のお知らせ 

飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

拭いきれない或る考え その2

2018-09-29 13:57:45 | 日本論と宗教論
何億年か前のこと。大気中にそれ以前は全く含まれていなかった酸素を大量に吐き出す生物が生まれ、地球の大気はこの酸素によってあっという間に汚染された。

地球環境の破壊には厳密には三つの意味がある。

⑴余りにも環境が変化し過ぎていかなる生物も住めなくなること

と、

⑵余りにも環境が変化し過ぎて環境破壊の原因を生み出す生物種を含む一部の生物種が住めなくなること、

それに、

⑶余りにも環境が変化し過ぎて環境破壊の原因を生み出す生物種以外の一部の生物種が住めなくなること、

この3つである。

私が先の記事で問題にしているのは⑵の環境破壊である。

私の思考は⑴の環境破壊をイメージする程に大雑把ではないし、⑶の環境破壊をイメージする程に感傷的でもない。

⑵の環境破壊とは要するに、この地球が人類のせいで他の誰でもない人類そのものの健全な生存に相応しくないものとなりつつあるということを意味している。

この環境変化に適応する者と適応できない者に人類が大きく別れ、適応できないものが滅び、適応する者が次の人類となるのか?(自然淘汰)

この環境変化の要因となるものをそのメリットもろとも放棄して、これまでのような我々の知っているような人類として、今後も暫くの間は存続できるようにするのか?

適応できない者の認定とその駆除を自然に任せず、人類の代表者が秘密裏に行うのか?(人口的な淘汰)

この環境変化の要因の中に、問題を認識できない者や、認識しても解決策を理解できない者、解決策まで分かっているのに実行しない者、即ち、状況改善に役立たない者達をも含めて考え、人類の代表者が、その者たち自身には自然で日常的な死と誤解させる形で、秘密裏に、彼らの駆除に当たるのか?

このように考えていくと、所謂「悪魔崇拝者」達を「悪魔崇拝者」と称して蔑み、憎悪し、排除するという、現在あちこちのサイトで普通に見られる考え方では到底解決できない問題に、彼ら「悪魔崇拝者」が取り組んでいたことに気づかされる。私が考えているのはこのようなことである。

拭いきれない或る考え

2018-09-29 10:44:24 | 日本論と宗教論
初めは二十年くらい前に突然、春の頃に野山を散策すると激しく咳き込み、その咳が止まらなくなるということが始まった。聞くと、黄砂とPM2.5のせいだと言う。大好きだった早春の頃の野山散策は、それ以来一度もできていない。

そうこうするうちに、その他の夏以外の季節にも、時には夏にも、同じことが起こるようになってきた。

中国の経済発展のせいだと思い込んでいたけど、実はPM2.5の大半が、公害に苦しんだかつての苦い経験を克服して環境技術を高度に進めていたはずの日本国内由来のものであると分かってきた。

人間の活動が巨大になりすぎて、人間が処理しきれずに廃棄する、生物としての人間自身の存在に反した物質の量が、自然の力によって希釈できないほどのものになったのは明らかである。上記のような個人的体験が、私にはこのことを明確に示している。他の人も、それぞれの体験を通して、同様のことを実感できているのではないか?

「PM2.5と言われているものの実態は、ある特定の人々が悪意を持って撒いているものだ」との解釈の存在は勿論知っているが、それでも上記のような明らかな事実を拭い去ることはできない。

こうなった以上、人類が自らの存在様式を全体として自覚的に大変革するか、それができない場合には、人工的でありながら自然現象を装った大災害や大戦争によって人口の大半を削減するか、どちらかしか方法はない。この考えに誰が反論できるのか?

人口削減を狙ってる人達は悪魔崇拝で狂信的な考えに凝り固まった人達だからなどと、彼らのことを貶めても、彼らをパージできても、この考えそのものの正当性が消えることはないのである。いつか誰かが実行しなければ ならないことなのだ。

一神教と多神教

2018-09-22 05:41:44 | 日本論と宗教論
多神教と一神教の対立が頻繁に語られますが、論理的に考えて両者が controversial とは私には思えませんね。いや、多神教と一神教のどちらも自分のものとして生きるのは controversial で極めて正しいことだと思いますね。多神教と一神教の対立と気軽に発言する人は、多神教と一神教が思想として対立すると、本気で考えているのでしょうか?

どこまでも論理を貫いた哲学者らしい哲学者でありながら「論理無視」との揶揄を受けることの多い西田幾多郎の「一即多。多即一」も、上に述べたような私の感覚と同じ感覚を論理的に表現したものでしょう。一神教の神が万物ひとつひとつにそのまま現れるのでなければそれは神としての資格を失う。故に一即多。多神教の神々がそれぞれ一神の現れ、みたまわけでなければ、それらもまた神としての資格を失う。故に多即一。これは極めて論理的なことです。

古代のナイル流域王国(エジプトとは彼ら自身は称していなかった)の歴史でナイル東岸から夕陽を信仰対象とする一神教のアテン信仰が、大気を信仰対象とする多神教のアメン信仰で満たされたナイル流域王国に入り込み、王室にも入り込み、神官団と対立して遷都や宗教改革を行ったという事実を踏まえて、多神教と一神教の対立ということが語られているようですが、あれは明らかに、支配階級として腐敗していた多神教の神官階級を政治の世界から切り離し、社会全体の風通しを良くしようとする動きの中で、論理的にではなく政治的に現れた現象以外の何物でもなかったと言うべきでしょう。その証拠に、神官側からアメンラーという新しい一神教の神が提示される局面に至ったのです。一神教と多神教は、論理としては全く対立していない。

人間の腐敗がある時、それをその人間が信奉している宗教のせいにしてはいけません。人間の腐敗はあくまでもその人間自身の責任です。人を人として内面から輝かせるのは芸術と宗教性以外にはなく、宗教性そのものに腐敗のタネは全くないのです。

腐敗したら、腐敗した自分の責任以外の何物でもないはずなのに、自分の信奉する神や自分の愛する親族、同僚、友人にまで不名誉や損害を及ぼすのが人の世というもの。この人の世の現実を踏まえれば、自分の人生は自分一人の人生ではなく、自分の使命は何が何でも果たさなければならないのです。それが人というものです。

ここで私が人間の腐敗と言っているのは、自分の領分において自分より弱い人間を守りつつ、自分が属するより高次の秩序体への敬意も絶対に失わないことが重要であることを忘れて、自分の領分において自分より弱い人間を守るためだからと言って自分が属するより高次の秩序体を無視したり、自分の属するより高次の秩序体を重んじるあまりに、自分の領分に暮らす自分より弱い人間たちの苦しみに無感覚になり、冷淡に振る舞ったりすることを言います。


日本語能力を磨きロゴスを体現するための英語教育

2018-09-21 10:08:43 | 教育
例えば京都大学の「英語」の入試問題は、本当に英語の問題でしょうか?英文を日本語に訳すことも、日本語を英語に訳すことも、半分以上は日本語能力の試験になっているのではないでしょうか?

提示された英文の構造を私は完全に把握することができるし、実際に日々受験生にそれを解説して見せてもいますが、本当は、そんなものは所詮、形式的な儀式です。私の持っているのと同じようなスキルを完全に身につけるなんて、私が中学生の頃から長い時間をかけて育て上げた生徒達か、時々現れる特別に優れた生徒以外には、そもそもが無理な話なのです。

その形式的な儀式の奥の方で私が本当に意図しているのは、何らかの理由で抑圧されていることの多い日本の若者の日本語能力をその抑圧から解放して自由に成長させることです。彼らは a native Japanese であり、a native Japanese とは要するに日本語の天才のことです。その天才を解放してあげることで、たとえ英文の構造が完全に把握できていなくても、受験生がかなりいい訳を仕上げられるようになる。私の主催する予備校の授業は、英語も国語も、解法解説は勿論のこと、それ以上に、演習と即時採点、添削が重視されていて、そのような授業に毎日出席してたっぷりと訓練できるように工夫しているのですが、それも全て今述べたことのためなのです。

母国語の能力を高いレベルに高める以外に人間がロゴスを体現することはできません。ロゴスを体現した人間は、完全なる人間の理想像を常に感じ取りながら生活することができ、人間社会のあちこちで日々発生している問題の本質を即座に見抜き解決へと導くことができます。これが文系の力というものなのです。伝説の中で語られる空海さんや、釣りバカ日誌の浜ちゃんのイメージを思い浮かべるのが最も分かりやすい。文系の力とはまさにあれなのです。

この母国語能力の鍛錬に、現状では、英文和訳や和文英訳が最も有効な手段となっているというわけです。母国語能力の十全な発揮とは、母国語能力がロゴスそのものに統制されて動くということですが、母国語とは異なる外国語を母国語に翻訳しようとする現場に立ち続けない限り、母国語も人間言語そのものが派生してできたものに過ぎないこと、人間言語そのものとの結びつきがないと浅く歪んだものになること、が実感できない。母国語を相対化して、そうして自分の母国語能力を健全に育てるということがなかなかできない。このようになっているのです。外国語の勉強は母国語能力の鍛錬に不可欠なのです。

私には古文の教師として平安時代の貴族の文章や和歌を分析する機会も多いのですが、彼らの文章力が物凄いレベルになっている。外国との関係を絶って国風文化が栄えたとされ、その国風文化の一例が彼らの文章力である筈です。ところが実際に、彼らの文章を具に研究すると、彼らの外国語の知識がかなりの高みにあることが分かるのです。例えば「帝......とのたまひけり」という大和言葉の構文は「......」の部分にごく短い文しか入れられず、ユーラシア語の「S V that ......」という構文は「......」の部分の終わりの地点が明示しにくい訳ですが、彼らはこのことを踏まえて、その両者の弱点を補うかのように「帝のたまひけることには、.........とのたまひけり」という表現をしてあるのです。こうすれば「......」の部分に幾らでも長い文章を入れることができる。これは彼らが外国語の知識に基づいて意図的に開発した表現であること明らかです。国風文化と言いながら、彼らの外国との深い繋がりは水面下で途絶えることなくあったに違いないと私が考えるのは、このような事実を知っているからです。

プロテスタンティズムと西郷

2018-09-18 17:04:45 | 日本論と宗教論
西郷さんが明治に入ってから横浜でプロテスタントの洗礼を極秘に受けていたのが本当だったとしても、あの西郷さんまでもがキリスト教に支配されて...とは、私は実は全く考えていません。

プロテスタントとは、キリスト教に偽装してキリスト教社会の内部からの改革のためにキリスト教世界に入っていった実質神道なのです。清明心、即ち、清く明るい心こそ、神道の原理だと、こう言えば、キリストの言葉に慣れ親しんでいる人には、直感的にであれ十分に伝わる話ではないでしょうか?

そして実は、その神道の起源は、神道が始まった時にまだ存在してなどいない道教などではないのです。その起源は、エルサレムの原始キリスト教だったのです。景教ではありません。景教では、時代が合いません。イスラエルの宗教や原始キリスト教は、ペルシャやインド経由で、海の道を通って、定説よりも遥か以前に、この列島に入って来ていたのです。そしてイスラエルの宗教や原始キリスト教は、原理的に、ミトラス教やゾロアスター教との深い関係の中でミトラス教やゾロアスター教の「マギ」達によってその担い手である部族ごと作られ、指導されて来たに違いありません。

神道と原始キリスト教徒との上記のような結びつきがあったからこそ、15世紀になって、神道が逆にキリスト教を偽装してキリスト教社会に入って行く、などということも可能になったのだと思います。

西郷さんがプロテスタントに関わったのは、単純に聖書に記述されているイエスの言葉が優れていたからだと思います。自分の信念と同じだと感じて興味を持ったに違いありません。

西郷さんがプロテスタントの洗礼を極秘に受けていたということが本当だったとしても、だからと言って、西郷さんがキリスト教の覇権主義の手下になって操られていたということでは、全くないと考えるべきです。

西郷隆盛

2018-09-17 06:34:03 | 日本論と宗教論
西郷さんといえば「敬天愛人」。「人事を尽くして天命を待つ」。「西郷さんはクリスチャンだった。横浜で極秘に洗礼を受けていた。鹿児島隠棲時代には近所の村人を集めて聖書の講読をしていた」という証言を、西郷さんの子孫で陶芸家の人がテレビに出演して行なっていました。

西郷さんは東アジアに広く分布していて互いに連絡も取り合い、結社化もしていた真方衆(マガタンシ)のひとりだったそうです。真方衆とは、16世紀に東方で盛んに活動していたポルトガル船の鉄砲商人達とアジア各地の鍛冶屋の娘の間にできた子供達を起源とする集団のことです。西郷さんの身長は、大久保と同様、180cm以上あった。大久保も真方衆でした。奄美大島潜居時代には極秘でフィリピンに渡り、この真方衆ネットワークを利用して重要任務を遂行したそうです。現地には子孫もいたと言います。

西郷さんは、京都の皇統から血統ロンダリングによって島津分家に入り、その娘として世に披露された後、島津斉彬の養子となり、更には徳川将軍家に将軍の正室として嫁入りした、あの篤姫が首領を務めていた秘密結社の中心人物の一人でもあったと言われています。この秘密結社の流れが後に頭山満の玄洋社や黒龍会にも繋がり、更には北朝鮮の建国にも繋がっていきます。「薩摩といえば海軍、北朝鮮といえば陸軍」などと言われますが、陸軍と海軍の対立など、こうして考えると、深いところでは全くなかった、ということになります。

西郷さんは陥落の直前に城山を密かに抜け出し、私も子供の頃に住んでいたことのある、島津直轄領の甑島に渡り、そこに極秘に停泊して待機していたロシア船に搭乗。シベリア経由で渡欧。偽装死を実行した後ヨーロッパに渡り、京都裏皇統組織のエージャントとして任務遂行中だったかつての主君斉彬に再合流。その後はその側近として活動。長州の山県を籠絡した後は死ぬまで、彼を通して日本の政界を遠隔コントロールしていたと言います。西郷従道と大山巌は山県監視役だったそうです。この説からすると、明治天皇の後半生が実は西郷さんだったという風聞は虚偽だったということになります。

西郷さんの本名は西郷隆文。これは鹿児島では全小学生が授業で習う有名な話です。私も習いました。西郷隆盛は実は西郷さんの父の名前で、幕末の政界デビューの際に何かの手違いで西郷隆盛と紹介されたのを敢えてそのままに放置したのだそうです。生涯写真を撮影しなかったのも、秘密結社の重要人物に伝統的に課せられた義務の一貫だったそうです。これらのことだけ見ても、西郷さんの背後に大きな秘密が隠れていたのは真実であると、誰もが直感的に認めざるを得ないでしょう。


明治以降の日本は英米の植民地だった?

2018-09-15 09:09:38 | 日本論と宗教論
ヨーロッパの社会改革を通して近代を開き、それが時を経て世界中に広まって行く様子を具に観察していた列島の「秘密力」センターは、自分の開いた近代化の波が列島にまで及んだ時に、列島社会がその波に耐えられるように、多くの方策を綿密に組んでいた。維新後の帝国軍創設もその方策の中にあった。

表世界に於ける当時の覇権国イギリス(ロスチャイルド)と、次の覇権国として勃興しつつあったアメリカ(ロックフェラー)には三井三菱を介した海軍の創設と育成を、ドイツには〇〇を介した陸軍の創設と育成を、それぞれ委ねた。複数の外国勢力を互いに競わせながら同じ領域の異なる部門を委ねることで国の表層部全体がどこか一国の植民地になってしまうことを防いでいた。世界各国の根幹は秘密のうちに、列島に拠点を置く「秘密力」の影響下に完全に掌握されていたが、計画の下層部分しか知らされないまま本気で自分の使命を果たそうとする組織の中層に属する人々の努力の結果、計画の秘密の上層部分に反する結果が偶発的に出てくるかもしれない、こんなことまで念頭においての措置だったものと考えられます。戦後の列島に於ける駐留アメリカ軍と自衛隊の並存も似たような措置の結果でしょう。日中戦争に加えて日米開戦にまで敢えて及ぶという「愚行」も、陸海両軍の解消や、戦争の勝敗とは全く無関係な無差別絨毯爆撃による戦後の近代的開発に備えた主要都市の更地化、中国や東南アジア諸国の戦後における非植民地化などを巧妙に狙ったものだったと考えられます。

終戦の時点で「秘密力」のセンターが満州にあり、その存在に気づいたマッカーサーが満州に原爆を落とそうとしてトルーマンに制止されたという話も、列島にセンターを置く「秘密力」にとって満州は外国などではなく彼等自身の膝下みたいなところだったが故の出来事だったし、トルーマンは列島秘密力によって合衆国に配備されたエージェントだった可能性があると解すべきでしょう。

スーダンがイギリスの植民地になっていく過程を日本の明治維新の過程と比較対照することによって両者の酷似していることを示し、そうすることで明治以降の日本が紛れもない植民地であったことを論証しようとする文章を最近読みましたが、その論文は上に私が指摘したような列島勢力主導の所謂分断策のことについては全く目が及ばなかったようです。目が及んでいたらその人も、自説をさらに一歩深めて日本が植民地だったという主張とは全く逆のより真相に近い説に到達していたことでしょう。

超古代文明

2018-09-12 09:46:13 | 日本論と宗教論
『創世記』に「洪水後シナル(シュメール)に始めて住み着いた人々は東の海から来た」と書いてあります。

また、シュメールの遺跡に発掘された粘土板神話には、「オアンネス」と呼ばれる海からきた「半魚半人」の生物がシュメールに暮らす原住民に農業、都市や神殿の建設、文字、法律、数学、芸術、それに秩序などを、人間の言葉で伝授した。この生物は魚の身体を持ち、その頭の下には人間の頭があり、尾ひれとともに人間の足も持っていた。この生物は水陸両棲類で、昼間は人間とともに過ごし、太陽が沈むと、海へ帰った。...このように記述されています。

氷河期には、赤道直下の、現在では海の底に沈んでいる平原地帯が常夏ならぬ常春になっていて、そこに超古代文明が繁栄していたものと考えられます。現在は温帯になっていて文明が栄えている北緯30度以北の高緯度地帯ですが、そこは氷河期には寒冷地で、文明が栄えるような場所ではなく、せいぜい探検隊による組織的探索の場所しかなっていませんでした。

赤道直下の、現在では海の底に沈んでいる平原地帯は、グーグルアースで調べれば誰にでも直ぐに分かりますが、東南アジアのスンダ陸棚しかありません。一気に50メートルも海面上昇したことが分かっている大洪水を避けて、このスンダ陸棚から、タイのバンチェンに移った人々がいたのです。彼らは後に東は長江流域から雲南、タイ、インド東部にかけて分布していたことが一般の歴史学において認定され、シュメール語や日本語との言語学的な類同性が盛んに指摘されている(大野説)所謂「ドラビタ」の根源支配層のルーツでもあると考えられます。彼等は現在、天皇家として列島にその拠点を置いている。

そもそも、文明の最も不可欠な要素は、一般に言われているような大規模農業の広がりによる富の集約と階級分化なのではありません。そうではなく、海上交易ネットワークによる遥かに大規模な富の集約をベースとして、洪水前から既に存在していたハイテクの世界単一支配部族が各地に定住民を育て組織化し支配したことこそ、文明の最も不可欠な要素だったのです。階級は分化してできたのではなく、初めから厳然としてあったということです。上に引用したふたつの古い伝承はそのことをよく反映していると思います。

上記のシュメール粘土板神話に半人半魚の怪物が出てくることを訝しむ人がいると思いますが、これは所謂「讖緯説」として理解すべきでしょう。例えば、遙か後世の12世紀に纏め上げられた『百済本紀』や『新羅本紀』『高句麗本紀』にすら「大きなツノの生えた魚が東の海から現れ龍になった」などという讖緯説が頻出してくるのですが、これらの書物をまとめた人々はシュメールの粘土板神話を書いた人々をルーツとする人々だったのです。讖緯説とは古今東西の文献群の記述を全て踏まえた上で、直接的な表記をして多くの人々の理解するところとなっては何かと不都合だが、それでもある理由から記述しないわけにもいかず、上記のような前提を共有する極一部の人々には何としても伝わるようにしないといけないような事件の記述を行う際に、伝統的に用いられてきた歴史記述法のことです。

以上のように考えると、世界四大文明説どころか、シュメール最古文明説もまた、間違いだったことが明らかになります。

因みに、西方の地中海は、氷河期には、大きな湖をいくつか抱えた大きな平原地帯になっていました。比較的高緯度ながら偏西風の影響で寒冷度がある程度緩和されていたこともあり、ここにも、スンダ陸棚ほどの規模ではないにしろ、恐らくはネアンデルタール人による超古代文明が栄えていたものと考えられます。トルコのギョべクリテぺ遺跡やエジプトの大ピラミッドは、その文明圏の周縁部にある高台にその文明の担い手が建設したものでしょう。この文明のその後の行方も調べていかなければいけなりません。

英語力こそ学力である

2018-09-08 03:26:18 | 教育
外国語習得や文学、哲学、歴史をはじめとする文科系の学問の意義が見えないと「英語力は学力ではない」などという見解が出てきます。この発言の「英語力」は実際は英語力ではないし、「学力」も本当の学力ではないでしょう。

昔から受験界では「人気の関東。実力の関西」という言い方がありました。一般の人にとっては何のことかと思うでしょうが、英語や国語の入試問題を日々分析する立場からすれば、実は、この言い方は非常に正しいと言わざるを得ません。京大や阪大、同志社の英国の問題は、東大や慶応、早稲田の問題より明らかに高度です。東大の英文和訳問題は非常に優れていて、毎年どの予備校の模範解答例も零点になっているくらいですが、何せ配点が少な過ぎる。「東大は英語のできない奴が行くところ」という言い方がそう言えば一橋大学では昔からあったそうですが、その一橋の英語の問題も最近は幼稚なものになってきている。筑波大学の国語など笑えるくらいの程度の低さです。中央大学法学部の英語の問題は今でも優秀ですから、一部の例外はありますが、関東の大学は英国に関しては明らかに学力不足でしょう。私の大学時代の教官も「早稲田や慶応の人達は本当に勉強していないな」と明言していましたよ。「英語力は学力ではない」は関東の大学環境の中で育った人の発言ではないでしょうか?安倍の「文科系学部廃止」論もありましたね。

外国語力や文章読解力の究極目的は一言で言うと、ロゴスの体現です。効用は人と人、集団と集団の間に日々生じるトラブルの解決。序でに女性にも凄くもてるようになるし、喧嘩もかなり強くなという側面もありますが、これは完全に余談。世界の物理的側面の仕組みを詳しく分析した上で、試行錯誤を重ねながら人の力でそれを再現できるようにすること、これを本質とする理系も勿論大いに価値がありますが、文科系学部の価値はそれ以上でしょう。

文章読解の際に起こっているのは明らかに霊的な現象です。何千年も前の遠い外国のある偉大な人物の思想に触れるというレベルではなく、明らかにその人自身が今ここに現れて来るのです。このような意味での読書体験のある人から「英語力は学力ではない」などといった発言は決して出てこない。

因みに、このような文章読解も、確かに非常に高度ではありますが、ある事柄には遠く及ばない。このこともここで付け加えておく必要があるでしょう。それは、イエスや釈尊などといった偉大な霊魂との生前に於ける直接対話です。そのような体験ができる幸運な人は非常に非常に非常に限られている。ですから、読書の価値はその分だけさらに大きくなる。演劇や音楽もまた、上のような意味での読書に含まれる価値と同様の価値が、読書よりもっと分かりやすい形で含まれている。

使える英語とは(コメントへの返信を兼ねて)

2018-09-06 07:26:55 | 教育
英文を正しく理解できているか確かめる唯一の方法は、我々日本人の場合、英文中に込められた情報を洩れなく全て正確に取り出せていながらも、日本語として読んでいて抵抗の全くない美しい日本語になっているかどうかです。日本語として読んでいて変な感じがしたり、読んでいて何を言っているのか頭にすっと入ってこない英文和訳は、必ず、英文の構造把握に問題があるのです。

世間に出回っている翻訳本を読んでいて内容が何だかすっと入ってこない感じがする。こんな体験のある人は多いのではないでしょうか?その場合、哲学書などの場合は特に、その原因は自分の知的レベルの低さにあるものとの把握で済ませることが多いでしょう。が、実は問題は翻訳の質の方にあるのです。日本にはインチキ教養人がはびこっていて、それらの劣悪翻訳本を延々と生産し続けている。これが紛れもない実態です。

私は若い頃にカント研究をしていましたが、その過程で自然と、翻訳に頼る際には提示された誤訳に満ちた和文から、誤訳の一般的なパターンを考慮に入れつつ元の独文を復元し、その独文を更に正しい日本文に翻訳し直して理解するという技術が身につきました。

上に述べたような事情は実は、哲学書に限定されません。むしろ、小説の翻訳の方が、哲学書以上の酷い状況になってしまっています。現状の翻訳本を読んで「感動した」などと言って、原書に宿るその作品の精神を把握しきったつもりになり、全く苦悩しないで済ましてしまう人が多い。これこそ問題として把握されるべきなのです。

英文和訳は、ほぼ日本語だけが世界中の他の多くの言語と基本構造が全く異なるということもあって、例えば英文独訳や英文仏訳などとは比べ物にならないくらいに複雑な思考を必要とする、そんな高度な知的作業なのです。つまり、人間が本物の教養を培うのに最適な場所のひとつにも偶然なり得ている。この意味でも、英語教育の中心には英文和訳が来べきなのです。例えば京大入試から英文和訳が消えない理由はそこにあります。

使える英語と言えば、流暢な英会話のことを連想しがちですが、会話だけがコミュニケーションではないし、コミュニケーションの価値がコミュニケーションを行う双方の精神レベルの高さと内容の深さによって決まる面があること。更には、偉大な精神との邂逅の確率が古典読解による「コミュニケーション」の場合に遥かに高くなること。これらのことを考慮に入れると、使える英語とは巧みな英文和訳の能力のことと捉えることにも、十分な意義が認められるべきなのです。

本当の英文法

2018-09-05 06:09:49 | 教育
あるブログに英語教育についてコメントしたところ「本当の英文法を教えてほしい」と要望されました。以下はそれに対する私の返信です。

以下引用。

search を「探す」と覚えてはいけません。「調べる」です。search for と表記して表記して「探す」と訳せるから search は「探す」と訳すのだと無意識に簡略化してしまっているのです。search for が「探す」と訳されるのは実はsearch 故ではなく、他動詞的前置詞の for の故です。ですから、....for となっていたら、周囲の状況が許す限りにおいて「探す」と訳してよい。look for、investigate for 、explore for、.... これらは全部「探す」です。これらは英語の起源の一つであるアングロサクソン語(古いドイツ語)由来の捉え方です。この場合「動詞」は実は動詞として機能せず、程度の副詞或いは様態の副詞として機能している。探す気持ちの強さや探し方を表しているのです。他動詞で「探す」の意味を持つのはseek だけです。

for の基本的な機能は to 他動詞 の代用です。他動詞的前置詞の for を見たら常に、to 他動詞 に変換して理解する。他動詞は文脈とコロケーションによって容易に復元できるようになっている。for = to find と理解した時、「探す」の意味が出てきます。

全ての動詞について、上と似たような話を、私は展開することができます。私の英文法ではイディオムは覚えるものではなく、覚える必要がない、類推すべきものとなります。300の動詞を29の動詞型に関連させながら、コロケーションにも注目して勉強することで、中学生でも容易に東大京大レベルの英文和訳の世界に導き入れることができます。

他にも衝撃的な事実がいくつもあります。学校英文法のほとんど全てが嘘だと断言できます。

関係文は形容詞節ではないし、that 節は名詞節ではない。

「関係代名詞」that は実は関係詞ではない。

that dog は実は「あの犬」と訳せる場面はほとんどない。例えば「そんな汚い犬」と訳すことが必要な場合が多い。such a 形容詞 の代用物がその基本。

the concept は「その概念」と訳せるが、conception は絶対に「概念」とは訳せない。

and は全ての接続詞の意味を内包し、「しかし」と訳すべきことすら多い。and をbut の反意語と捉えるのは完全な間違い。

関係文の先行詞には必ず the をつけなければいけない。それが the の基本的な機能だから。a man who loves you は常に a man of the men who love you の略として理解すべき。the man who loves you とは意味が全く異なる。

He is a fool. と He is fool. とHe is foolish. の違いが学校文法では全く理解できていない。He is a fool. = He is a fool of the fools. や He is foolish. = He is like a fool. と理解すべきことが全く見えていない。

文章は全てargument と story に分類できる。それぞれに厳密な型が決まっている。argument pattern と story pattern を念頭において読めば、例えば助動詞 may の正確な意味把握が容易にできるようになる。これは全英文法の基本中の基本である。これの正確に説明された書籍は一冊もない。

some に「いくつか」という意味はない。

a man、the man、men、the men の訳し分けも学校文法は全く把握できていない。岩波文庫の一冊にもなっている東大での講演で「英語の冠詞が全く理解できない」と嘆いた夏目漱石から100年経ってもその悩みを解消できていないばかりか、夏目漱石が抱いた真面目な悩みすら抱かなくなっている。森鴎外が嘆き、京大の入試問題にその文章を採用することで京大教授が間接的に嘆いてみせたように、日本人の外国語習得は幕末から明治初期がピークで後は停滞の一途となってしまっている。

以上本当の英文法の一端を書いてみました。雰囲気は十分伝わるのではないでしょうか?この詳細を著作にまとめたことはありますが、書物としてはあまりにも面白くない。やはり授業の中で若者一人一人に教授するのが本質的と考えて封印しました。日本古典文法も学校文法はほとんど全部が偽物と見抜いてしまっていて、本当の日本古典文法としてまとめ上げたものを、生徒達には教えています。私は、英文法も日本古典文法も、中学生に、大学受験レベルのものを、一人の例外もなく、ごく短い時間で完全マスターさせることができます。

皆さんには、学校英文法がほとんど全て嘘で、日本人の大半が、学校英文法のせいで日本語の読み書きの能力すら低いものに留められている事実があり、それが「知識人」達の思想の浅さに繋がっていることが伝わればいいと思います。

ただし、深みのある本物の知識人がゼロとは言いません。例えば、鷲田清一さんの文章は、まるでイギリス人の学者の書く英文のように緻密な日本文になっていて、その内容の深みがよく伝わってきます。本物の哲学者は一般の人が気づかない深みを持っていますよ。その理由の一つが本物の文法ということになります。

引用以上。