飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

この一致は偶然?

2012-11-30 10:06:56 | 日本論と宗教論
満州は遼河(ヨハ)によって東西に分割されます。高句麗はこの満州の遼河から東半分を、長期間領有していました。唐に滅ぼされる時点までずっとそうでした。遼東(ヨドン)という地域です。この国が滅びた後、この国の支配層が新羅の支配層と結託しつつ列島に、特に東日本に大量に入り込み、朝鮮語で「国」を意味する「奈良(ナラ)」の都で、6世紀中盤に滅びた北魏都と同名の「平城」京を大和盆地の北東部に建設したのでした。この京(みやこ)を拠点に列島を占拠し、土地を全て収奪して律令制を敷き、歴史を捏造したのです。このようにして、日本建国の一端を担った訳です。ヤマトをナラと呼び替えたのは彼等でした。尤も、古代に新羅や高句麗を、それに「くだら」と発音する限りの百済の場合も、建国したのは逆に、列島の勢力だったのですが。

ところで、高句麗の支配層にとって遼河よりも西の地域は、自らを潜在的に圧迫し続ける中原の勢力の最前線でした。「内(うち)」に対する「他所(よそ)」の意味を持ち続けている土地だったのです。「千里の長城」という名称の防壁を設けて遮断していたことからも、そのことがよく分かります。また、この国にとって遠く中原は、遥か西の土地で、これまた「内(うち)」に対する「外(そと)」の意味を持ち続けている土地でした。何とも驚いたことに、前者は朝鮮語で「遼西(ヨソ)」、後者は「西土(ソト)」と言っていたようなのです。「他所」や「外」の訓読みと我々が信じている「よそ」や「そと」と、発音だけではなく意味まで、よく似ているのです。

これは単なる偶然でしょうか?このような事例は「奈良」や「他所」や「外」以外にも、ひょっとしたら沢山あるのではないでしょうか?

そう言えば、もうひとつ、朝鮮では中国から入ってきた神話の月の女神のことを「ウルガンカンギャヒ」と言っていたと思います。「月宮妲娥姫」と書いて「月宮(ウルガン)妲娥(カンギャ)姫(ヒ)」です。この「カンギャ」はどこか「かぐや」に音が似ていないでしょうか?

隣の国々の歴史や文化を調べれば、自国の本当の姿が見えてくるということでしょう。

飛鳥昭雄氏をどう捉えるべきか

2012-11-30 01:59:05 | 日本論と宗教論
飛鳥昭雄氏の説にはまだ、咀嚼できないところが沢山あります。

私の直感は確かに「恐らくはすべてが事実」と言ってはいます。しかし、どんなに正しそうなことも、自分の実存と結びつかない限り決して、他人に真理として伝えることはできません。ましてや、自分の行動の基準にできるはずもありません。

彼の言説に関して私はただ、地上のこちら側から、こちら側の材料を使ってのみ、彼が伝えていることの次元まで辿り着くつもりでいます。例えば私がもし仮に理系の技術者だったとしたら、プラズマ理論やそれを用いた応用技術のことを聞き知ったら直ちに、自分でもそれを作れないか密かに試みることでしょう。そのようなものを作ることの実際的な意味を自分でも自分なりに体験しようとするでしょう。そうした場合、たとえ実際には同じものが作れなくとも、そのようなことを行っている立場からそれとは一見無関係な領域に、行っていない時には絶対に抱き得ないようなより根源的な発想を持って当たることができる。

私の場合は、それと似たことを、この社会の隠れた仕組みの解明、及び、その一般の人々ための咀嚼という一連の作業の中で行いたいと考えます。彼の情報に触れているが故に、たとえ彼の情報を前面に押し出さなくとも、通常のあらゆる関連分野を停滞させていた極めて多くの問題に全く新しい突破口が与えられる。彼が「ある特定機関からの極秘情報」として出してくるものには、確かに証拠などはないし、ある程度の懐疑的姿勢で臨む必要もあるとは思うけれども、私が日々執り行っている通常の領域のほとんど全てで、今上に述べたような類の驚異的な活性化を及ぼす何かが紛れもなく含まれている。私はこのように感じる訳です。

彼の出してくるような類の情報に関しては、証拠の有無を問題にして一々、真実だとか真実でないとか、そのような次元で騒ぐ必要はないものと感じます。世の言説の中には、真実の解明に今私が上に述べたような類の根本的な影響力を発揮する、彼の言説のような言説が幾つか存在するものなのです。そのような類の言説の取り扱いの際は、そのことで自分の精神の力量が試されることにもなるものです。従って、論者としては、細心の注意を払わなければならないものと私は考えます。

「会稽東冶」か「会稽東治」か

2012-11-29 10:52:55 | 邪馬臺国
『魏志倭人伝』として一般に知られている書物は実は3世紀の原本ではありません。12世紀に原本或いは写本を書き写したものに過ぎないのです。この写本に記載された「邪馬壹国(ヤマイコク)」について、4世紀から11世紀の間に3世紀原本を下敷きにして書かれたと思われる『魏志倭人伝』以外の倭人伝においては全て「邪馬臺国(ヤマトコク)」となっている。それ故12世紀写本における「邪馬壹国(ヤマイコク)」は、ある時に原本が失われて以来400年から600年の間に行われた多くの二次写本の過程で紛れ込んだ極めて稀な不幸な誤写の結果と判定できる。このような趣旨のことをこれまでの記事で書きました。我々日本人は12世紀写本の中でテーマとして取り扱われている「倭人」の末裔です。「邪馬壹(ヤマイ)」を「邪馬臺(ヤマト)」と訂正することは、その我々の自然な感覚からも十分に許されることなのです(確認できる最古の訂正は14世紀北畠親房の『神皇正統記』である)。しかも、そのような自然な感覚に基づくのでない限りどんな科学的処置もその意味を失ってしまうという一般的な事実を考えると、「邪馬壹(ヤマイ)」を「邪馬臺(ヤマト)」と訂正することは、科学的処置としても十分に許されることなのである。12世紀写本の「邪馬壹(ヤマイ)」に拘って解釈を続ける人がいるが、そのような処置より遥かに適切だ。例えば12世紀写本の「邪馬壹(ヤマイ)」に拘って解釈を続けた古田武彦氏の研究は、優秀な科学者でありながらひとりの人間としての実存を見失ってしまった場合に陥りやすい、原爆の製造ともその本質を一にするような典型な失敗例である。このような趣旨のことも述べました。

しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条12世紀写本にはもうひとつ、誤写である可能性が盛んに指摘されながらも今度は、日本人としての自然な感覚とは無関係であるために、よくなされる訂正に妥当性があるのかないのか判定することが困難な表記があるのです。誤写なのかどうなのか判定しにくいがヤマト国論争の行方には大きく作用してしまう、そんな表記です。「会稽東治(カイケイトウチ)之東」という表記がそれに当たります。これは、訂正される場合は一般的に「会稽東冶(カイケイトウヤ)之東」と訂正されます。これについては私も、訂正することに妥当性があるのかどうか、上に述べた理由と同じ理由では全く分からないと言わざるを得ないのです。ただし「会稽東治之東」のままで残す場合(Case A)と「会稽東冶之東」に訂正する場合(Case B)のそれぞれで、それらをどのように解釈すべきなのかについては明確に判定できます。

Case A の場合は直前に、遥か昔の夏王朝の時代に会稽で定着した風習について述べられていることに注目すべきです。この直前の記述からこの「会稽東治の東」が「会稽内の東治地区の東」と解釈されなければならないこと。あるいは「会稽を中心に西晋の東部を統治している行政区の東」と解釈しなければならないこと。これが分かるのです。この場合は何れにしても要するに、地点としての会稽の東の意味になるのです。即ちヤマト国は、現在の地形で言うとメルカトル図上の屋久島南方沖と、会稽を直線で結ぶ海上にあったということになるわけです。ですからこの場合は、列島高速回転移動説を受け入れなければならなくなります。玄界灘の何処かの点を軸とした反時計回りの高速回転以前に近畿がこのライン上にあったと判定する必要が出て来るのです。

古田武彦氏は因みに、Case A を採用しています。その際に列島高速回転移動を発想できなかったため、Case A では「邪馬壹国」が海上に位置してしまう矛盾を前にして、それを解消するために「会稽東治之東」のことを「都である洛陽(北緯35度)から会稽(北緯30度)に至る比較的広い東部地域の東」のことと解釈し、北緯35度から北緯30度の間に収まる九州の何処かに「邪馬壹国」があったとしてしまうのです。しかしながら実際は、通常は看過されていますが、中国には当時既に羅針盤があったのです。メルカトル図上の緯度線より南に緯度分だけずれたライン。これが古代の中国人にとっても、今の我々にとってもそうであるように東だったのです。古田武彦氏はどうやらそのことを認識できていないのでしょう。当時はまだ羅針盤がなく、北極星の角度で正確に判定できる同緯度が当時の人にとっての東だった。このように決めつけてしまっているのです。それ以上に大きな間違いとして更に、帯方郡から東南に12000里余の位置にあると直前に明記されているし、北極星の角度から北緯まで正確に分かっていた、そんな厳密な「地点」としての邪馬臺国であるにも拘らず、その方位に関して、北緯35度から北緯30度の間などという極めて広域に広がる領域をその基準として採用しつつ記述しているのがこの「会稽東治の東」なのだ。このように主張してしまっている点を挙げなければなりません。これは極めて不合理な解釈です。この間違いには恐らく、所謂「論理性の欠如」も関与しているのでしょう。比較されるふたつの項目はその存在形式においてあらゆる点で共通していなければならないという規則は思考の際には第一原理と言っていいくらいの極めて重要な規則になるのですが、まさにこの第一原則に違反してしまっている訳です。

同じ理由から、Case B を採用して「会稽東冶之東」を「会稽(北緯30度)から東冶(北緯26度)に至る地域の東」と解釈する解釈法もまた間違いということになります。即ち、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正する限り、その解釈は「会稽地区内の東冶の東」とする以外に途がなくなってしまうことになるのです。しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた当時、東冶という名の町は、会稽地区以外の別の行政地区に入れられていたことが分かっているのです。しかも直前にはわざわざ、遥か昔の夏の時代の会稽での出来事が記述されている。即ち、この場合の「会稽」とは明らかに地域としての会稽ではなく、地点としての会稽でなければならない。これらのことから、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正し「会稽地区内の東冶の東」と解釈するのもまた不合理ということになるのです。

以上の論証から、「会稽東治之東」を「会稽東冶之東」などと訂正するのを控えること。そして、列島高速回転移動を事実として受諾すること。これが最も妥当ということになる訳です。

因みに、列島高速回転移動説の提唱者である飛鳥昭雄氏は、如何なる論証もなしに Case B を採用しています。従ってこの問題については、彼の理論と言えども、修正を促す必要があります。

列島高速回転移動の遥か以前に西日本島が琉球列島を間に挟んで江南や台湾島と陸続きだった。彼の著作ではこのような情報も紹介されています。これについてはしかし、卑弥呼の邪馬臺国のことを研究している人なら誰でも、南方系の風俗記述など他の多くの要素を想起し、それらと照らし合わせた場合にこの情報の内容が不思議なほど整合的であることに思い至るのではないでしょうか?彼の著作ではまた東日本島と北海道島について、カムチャッカから分離した後で遥か南方にまで移動し、縄文時代にはパプアニューギニア沖にあったなどという、あまりにも刺激的過ぎる情報まで暴露されています。これら全てが、アメリカ軍によるGPSなどの最新機器を用いた海底調査の結論なのだそうです。

ずば抜けて優秀な科学的知性が歴史研究で大コケする理由

2012-11-26 13:40:25 | 邪馬臺国
古田武彦という人がいます。

「『魏志東夷伝』倭人之条の写本として最古のものに当たる12世紀写本を見ると、その中に邪馬臺国(ヤマト国)という記述などない。たった1箇所、邪馬壹国(ヤマイ国)と書かれているだけだ。これを何故か、専門家達は皆、邪馬臺国の書き間違いだろうと決めつけてしまっている。私の文献学者としての経験からするとこれは、依拠すべき文献に安易な訂正を加えてしまう誤謬の典型例に感じられる。実際に私が手に入る限りの古い手書きの文書を科学的に調査してみると、臺(ト or タイ、ダイ)と壹(イ or イチ)はどの時代の書体も、活字体とは違って、混同が起こりやすいと判定できるほど似ている訳ではなかった。また、『魏志東夷伝』倭人之条のこの12世紀写本を科学的に調査してみたところ、サンプルとして十分な数の臺と壹が採取されたが、臺と壹の混用と判定できるところはひとつもなかった。以上のことから、邪馬壹国を邪馬臺国と改めるのは、明らかな間違いと言うべきである」。このような内容の説を唱えた有名な人です。

この人の科学的な調査への自信と情熱は物凄いものがあります。普通の人なら手を出しにくい気が遠くなるような膨大な文献の地道な調査に果敢に取り掛かって行って、実際に、目を見張るような極めて精密な成果を出して来ています。そこには何の隙もないように感ぜられます。

しかし、それにも拘らずこの説は、次のような論駁によってあっけなく崩壊します。すなわち、「3世紀末の、今は失われた原本を下敷きにして書かれたと思われる4~11世紀までの倭人伝には全て、邪馬臺国と書いてある。古田氏が調査したこの12世紀写本は恐らく、何とも気の毒なことに、臺を壹と誤写した極めて珍しい事例のひとつだったと思われる」という論駁です。これには、たとえどんな人でも、どんなことを試みても抗うことはできないと、私は思います。

このエピソードを伝える時、多くの場合は、古田氏の文献学者としての能力の拙さや科学性の未熟さを示すエピソードとして伝えているようです。しかし、それは違います。

古田氏が科学的文献学者として優れているのは明らかです。説得力も凄い。にも拘らず崩壊したのです。古田氏の不幸の原因はどこにあったのでしょうか?思うに、それは全て、『魏志東夷伝』倭人之条が関与している事柄の重大性に対する日本人としての直感的な敬意や愛着が欠落していることから来ています。長年に渡って多くの研究者が、この書物に強い情熱を傾けてきた理由を理解・共有するところがないことから来ているのです。「依拠すべき文献に安易に訂正を加えている。経験上これには誤謬の匂いがする。それを証明してやろう」という、肯定的な内容を全く含まない、否定的でしかない、単なる科学的文献学者としての直感を、まるで絶対的な価値であるかの如く振り回してしまっていたが故のことだったのです。『魏志東夷伝』倭人之条が関与している事柄が帯びているような重大性に対しては決して取ってはならない類の、やや卑しい態度をもって、この重大事に関わってしまったことによるのです。ヤマトではなくヤマイと発音される国に、日本人として心底から愛着を持っていたはずがないのです。文献学者として興味を惹かれ、文献学者としての自分の価値を表現したかっただけに違いないのです。ここに間違いがあったのです。

そもそも、「ヤマイを勝手にヤマトと変更して気に病まないのは科学者としておかしい。この史書にはヤマトのことなど書かれていないと判定すべきだ」と言うのなら、『魏志東夷伝』倭人之条のことは少なくとも、謎の文献として、ヤマト国研究からは除外して考えるべきだったのです。ヤマイ国をヤマト国と変更してでも『魏志東夷伝』倭人之条を自分の国のルーツを伝える貴重な文献として扱おうとする多くの研究者の、日本人としては自然な感覚を攻撃することは決してできなかったはずです。理由が明確でないが兎に角感覚的に、ヤマト国に変更しておいて、その上で多くの調査をして、そうしている内にその調査に感覚として破綻が来ていると分かったら、理由も明らかにした上で正確に訂正するなど、責任をきちんと取ることができるし、そうでなく多くの貴重な事実が引き出されたなら、この可能性の方が遥かに高いことを予感するとともに、期待もし、願っている訳だが、その何と無くの判断の理由もそこから逆算して明確になって来るに違いないと考える方が、科学としても遥かに健全なのです。ヤマイ国なるものにそこまで拘る必要が全くなかったのです。それに拘った理由が高潔なものだったとは決して評価できません。日本人の人間としての存在価値と結びついた重大なテーマに資格のない人間が何故か、人並外れた異常な純科学的情熱をもって関わってしまったことから来る不幸だったのです。このような類のテーマに関わる資格があるのは、敢えて刺激的な言い方をすれば、神に選ばれた謙虚な人間だけなのです。そのテーマに対する強烈で自然な畏敬と愛着がその目印となります。彼にヤマイ国に対するそれ程の愛着があったとは思えません。「感覚として、たとえどれほど異常に感じても、文献学上そうなっていると言わざるを得ない以上、これからはヤマイ国と発音して恥じることなどない」という程度のことだったに違いありません。ヤマトを簡単に放棄して、ヤマイなどという奇妙な言い方を、自分のルーツに対する呼称として、科学的文献学者としての情熱が過ぎる余りに自分の日本人としての感覚を犠牲にしてまで、採用してしまったことひとつで、この人に我らが祖国ヤマトに対する人間としての愛着が欠けていたことが、従って人間一般に対する愛着が欠けていたことが、透けて見えてしまいます。

偉大な科学者ニュートンが、彼の科学者としての知性の高さや手法の適格性、成果の重要性などについて異議を唱える人などいないと思いますが、その偉大な科学者としての活動の背後に創造主と宇宙の原理に対するキリスト教徒としての強烈な畏敬の念があったことや、それを源泉として様々な科学的偉業を導き出していたことは、よく指摘されることです。科学的手法は、それだけでは、どんなに優れた能力と粘り強さで調査を繰り返しても、有限であることに変わりはないのです。そのような有限な手法が無限なものにも関わるような重大なテーマについて正確で有益な成果を生むのは、無限なものに結びついた特殊な心性の導きの元で、精妙な取捨選択と組み立てを実現できた時に限られるのです。カント的に言うと、統制的原理としての理性の統制の下で悟性(知性)を働かすのでないと、健全な判断力は働かないという言い方になるでしょうか。いくら科学的手法とは言っても、いや実は科学的手法だからこそ、それ以前の、何と無くとしか表現し様がないが、それでも簡単には捨てられない肯定的な根源的感覚がその命として宿っているのでない限り、成果をあげられないどころか、とんでもない間違いを惹き起こしてしまいかねないということなのです。古田武彦氏は著作の中で、自分をかのシュリーマンになぞらえながら、自分の研究態度を述懐しています。しかし、残念ながら結果的には、シュリーマンのあのトロイに対する情熱に匹敵するようなあるものに対するどこまでも肯定的な情熱が欠けているが故に、信奉しているはずのシュリーマンからは最も遠い、シュリーマンとは全く似て非なる代物にしかなれなかったのです。シュリーマンは「トロイなんて伝説だ。遺跡があるはずない」と世間一般が否定文で決めつけてしまっているのに対して、「いや、絶対にある」と肯定文で情熱を燃やしたわけですが、それに対して古田武彦氏は、世間が「この邪馬壹という記述はどうも邪馬臺に変えて理解した方が自然だ」と肯定文で判断し、その判断の元で地道に実績を積み上げているのに対して、「そんなことはしてはならない。私もヤマイ国なんて馴染みはないが」と否定文で異常な情熱を燃やしてしまったのです。その意味ではここでも、論理性の大切さが確認できます。否定文には拒絶する対象としての他説しか含まれていないことになるから、自分の主張は必ず肯定文にして、ちゃんと内容を込めなければいけないというのは、私が常日頃、受験生に対する受験指導の中でいつも、読解や論述の大原則として強調していることです。

山形明郷氏の漢文の教養の豊かさと漢籍調査への人並外れた情熱の強さを、いくらそうであってもそれはやはり有限でしかないのに絶対化して、邪馬臺国が半島にあったと言って熱狂しているマヨさんや飯山一郎氏の様子を見ていると、その知性の高さには目を見張るようなものがあるとは私でも感じ、称賛を惜しみませんが、それでも、上に述べたような古田武彦氏の間違いと同じような間違いを犯しているように思えてなりません。

そう言えば、古田武彦氏もそうですが、「自分の説が間違えていることが分かったら、その時は私は、いつでも潔く身を引き、撤回する用意があるし、自分の見解と違う見解に対する尊重の態度を崩さない」という言い方を、なぜこんな時にという時に、この人達は盛んに申し立てます。確かに、それ自体は間違いではないけれども、それだけを盛んに述べたてるのは、自分の説に骨がないことに対する本能的な怯えの徴表とみなしていいのかもしれません。

文献上は楽浪郡や帯方郡の位置を、通説より北の満州や遼東半島に持って来なければならないことになるという主張には、確かに、成る程と感じさせるものがあります。しかし、それを理由に三韓や倭を、単純に北に移動している時のそのやり方に、牽強付会の感がどうしても否めません。三韓の広がりの規模を比較的小規模なものと根拠なく決めつけていたり、「界を接す」を短絡的に「国境線が陸上で接している」と読み替えてしまっていたりしているからです。正しくは、前者の場合は、三韓がもっと大きいものだったのかもしれず、その場合北に移動ではなく北に延長の可能性もあると考えるべきです。また、後者の場合も、当時の「国」が近代国民国家のような明確な国境線を持った広がりではなく、拠点間のネットワークにすぎなかったことを踏まえた上で、この「界を接す」も、その枠内で正確にイメージすべきなのです。「界を接す」とは「三韓ネットワークを南に下ると、どの場合もそこには、倭のネットワークが現れる」という意味であり、通行ライン上の接触しか意味しないし、そこから航路上の接触が排除されている訳ではないからです。

「百済は元々高句麗と共に遼東にあったが、高句麗が遼西に侵略し遼西を領土として確保した時に、この百済も遼西に百済郡をおいた」という内容の文献を発掘し、紹介したことそのものには、これは凄いと感じさせる点があります。しかし、それを元に「百済は明らかに、通説とは違って遼西にあった」と主張するのを目にする時も、次のような幾つかの疑念が湧いてくるのを禁じ得ません。即ち、第一に、この「百済」をペクチェと発音せずにクダラと発音しているに違いないこと。第二に、馬韓が発展してペクチェとなりクダラとして日本の歴史書に登場するというのは実際は、馬韓がクダラとして統一された後で、その北辺にあった百済(ペクチェ)が中原に対して持っている東アジアにおける政治的ステータスの高さを糾合する意味で、中原向きには百済(ペクチェ)、内々では百済(クダラ)としていたということだった可能性が高いのに、それを計算に入れ切れていない可能性があること。第三に、「百済が遼西にも百済郡を置いた」としか書いていないのを「百済が遼西にあった」と自分が単純化してしまっているのを、意図的にか無意識的にか、全く自覚できていないように見えること。これらをはじめとする幾つかの疑念です。

何故そんなことになるのか?知的な面白みや常識を覆す快感以上のものが背景に全くないから。そうすることで手に入るであろうと直感しているものがその人の実存と、根っこのところでは本当の意味では結びついていないから。これが原因です。

今後機会があったら、この人達の説についても詳しく、論述してみたいと思います。


何を頼りに探るのか?

2012-11-24 05:20:02 | 日本論と宗教論
物証や参考文献に拘り過ぎて「学問的には何も分からない」としか言えない学者は可哀想です。人間の自由な想像力は意外と確かなのです。司法ではそれを、心証と言って重んじる伝統があったそうです。最初は想像でも力のある想像は、情報をどんどん引き寄せます。広大な範囲から膨大な量の情報が集まって来ても、全体の構成が崩れず、連携が深みを増してくる想像は、信憑性が高いのです。

私は一切、メモを取りません。初めの段階で形として固定してしまうと、想像の発展が妨げられ、リアリティが獲得できなくなるからです。そもそも、思いついても暫くしたら消えるアイデアなど最初からリアリティがなかったはずなのだし、メモなどせずとも何故かいつまでも消えない、誰の見解に触れてもそれを飲み込んでしまうような勢いがある、そんなアイデアにのみ意味があるのです。そのようなアイデアの蓄積がない人が書くこともないのに無理に書く必要はないし、書くように運命づけられているならそのようなアイデアにも沢山恵まれるという仕組みにどうやら、なっているようです。

そして何よりも現場の空気。行ってその場で考えたことには力が宿りやすくなっているように感じます。

思い返せば5年程前、「こんな世の中にもうこれ以上生きていたくありません。自殺は罪と定められていますから決してしませんが、願わくば今すぐ私をこの世から召し上げてください」などと、自分のことで気恥ずかしいのですが、いつも神に祈っていました。そんな時、比叡山の山頂にあるガーデンミュージアムで、その時は「延暦寺は散々行ったし、線香臭いのはもういいよ」などと感じながら初めてふらりと入ったのですが、その時に、言葉では説明などとてもできないような強い衝動を受けて、山を降りるとそこからすぐに書店に行き、今まで手に取ることすらなかったような種類の書物を貪るように読み始め、それ以来、色んなことが分かってきたのでした。それまでの自分とは別人のような感じです。その後も元気を貰いに何度か訪れていたのですが、ついこの間ふと気がつくと、誰にも気づかれない物陰に古いお墓があります。何だろうと思って調べると、最澄さんのお墓でした。延暦寺にもあるのでしょうが何故か、遊園地の片隅にあるのです。最澄さんも秦氏とゆかりが深い。

また、秦氏のことが段々深く見え始めてきた頃に何気無くふと気づくと、自分が終の住処と思って購入したマンションの隣に、いつも通りがかりに目にしていた用水の取水口こそ一の井堰という名前の、秦氏が遠い昔に造った施設であるということを伝える石碑が立っているのでした。署名は林田という名前の、いつの時代かの府知事のものでした。これもまた秦氏です。人々の豊かさのために知恵を絞り、協力しあって汗を流し、大掛かりな事業を成し遂げて行く人達の息吹がまざまざと感じられました。秦氏と呼ばれる人達が邪悪な人達だったはずがないと私が考えるのは、この体験があるからです。

生きている人の霊魂も含めて、善なる霊魂のネットワークは紛れもなくそこに大きく広がって存在していると思います。人間存在がかくも奥深いことが感じ取れるからこそ、恐れる必要など全くないとも思えるのでしょう。天が自分に定めて与えてくれた道をひたすら歩きさえすれば、それでいいのだ。最近はこんなことを感じています。

「会稽東治之東」が当時意味していたことを詳細に探る

2012-11-24 02:31:24 | 邪馬臺国
地球は大まかに言うと球体だし、我々が立っている地面はほぼ球面です。しかし我々の通常の感覚ではこの地面も、平面となってしまいます。赤道線に立った無数の人が抱くこのような通常の感覚に合わせて、地面を平面図として描写するのがメルカトル図法なのです。メルカトル図は、北に行くほど面積と方向、位置が大きくゆがんでいきます。

メルカトル図の中に方位磁石を片手に小さくなって、東向きに佇む自分を想像してみて下さい。それが赤道上の場合、メルカトル図上の緯度線が地球の円周と同じ長さの直線として表現されると共に、方位磁石の示す東の線はメルカトル図の中に落とした時に、この緯度線と完全に一致することになります。

北緯30度の場合には、メルカトル図上の緯度線が実際の円形の緯度線の約1.5倍の長さ」の直線として表現されると共に、方位磁石の示す東の線はメルカトル図の中にそれを落とした時に、この緯度線より30度だけ右にずれることにもなります。

このずれの検討を、例えば北緯50度より高緯度で行ってもナンセンスです。このことは、北緯90度地点の場合に実際は緯度線など存在しないはずなのに、メルカトル図上では北緯0度線と同じ長さの線でそれが表現されてしまうことからも明らかです。そのような大きなずれになると地図の使用上は、無視しようとしてもなかなか無視できるものではありません。

何れにしてもメルカトル図は、実際の航海で北緯30度地点から方位磁石を頼りに真東に向かう際には、30度分のずれを考慮に入れて用いない限り何の役にも立たない訳です。船乗りが実際にメルカトル図を頼りに航海するかどうかは分かりませんが、もしそうなら、このずれを考慮に入れた特定の方法で適切な修正を加えながら、旅程上の拠点毎に別々に作成された複数枚の比較的狭い地域しか網羅していない実測図を使って航海しているに違いありません。あるいは、何らかの理由からそれらの実測図を使わない場合は、方位磁石を片手に方位と距離あるいは方位と日程からなる旅程表を用いることになるはずです。

会稽東治つまり会稽はほぼ北緯30度です。この地点を中心とした極めて精確な実測図が紀元後3世紀末の西晋で『魏志東夷伝』倭人之条を書いた人の手元にもあったことでしょう。この実測図はまた、組み合わせて全体として俯瞰すると自ずからメルカトル図とほぼ同じようなものになっていたはずです。それが実測図である以上はしかし、そこに描写されている様々な部分の内で実測図として評価できるのは、どんなに大目に見ても地続きになっている三韓までだったはずです。大陸から海によって隔てられた陸地の場合、その陸地の内側ならまだ場合によっては実測図として評価できた可能性もありますが、その場合でも大陸との位置関係については、古代においてはそれを実測図(メルカトル図)として表現することは原理上不可能だったはずです。『魏志東夷伝』倭人之条を書いた人の手許にあった地図にヤマト国が書き込んであったとしても、その位置が実測図つまりメルカトル図上の位置になっていたはずがないのです。北極星の角度を計測して緯度関係だけは分かったでしょうが、経度関係については当時は地続きでない以上知る術がなかったはずだからです。

三韓までは正確に描写されていた実測図上で三韓の「北東」から「南西」にかけて広がる余白部分に『魏志東夷伝』倭人之条に書かれているような旅程表に従って上に詳述したようなずれを恐らくは意識ぜずに(そこに書かれた方位の殆どが偶々ずれの生じない南だったので、ずれをことさら意識する必要もなかったことにはなります)、素直に各地点の位置を書き込みながら最終的に図上で、会稽とほぼ同じ緯度線上にヤマト国が来るのを確認し、その場合本当は上に詳述したようなずれを意識しつつ「会稽東治のほぼ東北東」と表記すべきなのに、「会稽東治之東」と書いたのではないか。このように言う人がいるかもしれませんが、『魏志東夷伝』倭人之条に記された旅程は距離ではなく、「水行○○日」という記述法が一部に採用されているため、それもまた正確な方法としては不可能になります。そして官吏とは、洋の東西を問わず、正確さを強く求められるものなのです。古代の中国人だからと言って例外ではないどころか、まさにその典型だったのではないでしょうか?

ところで、北極星の角度が分かればその位置の北緯が分かり、北緯が分かればそれが例えば会稽と同じになることは分かります。とすると、古代人には上に詳述したようなずれを認識できていなかったと前提する限りにおいて、「『魏志東夷伝』倭人之条の記述者は会稽東治と同じ北緯の意味で会稽東治之東と書いた。従って、ヤマト国は南九州にあった(現時点の地形では屋久島がほぼ北緯30度となっている)」と主張することができることになります。しかしそれは、当時は専門家ですら私が上に詳述したようなずれに気づいていなかったと前提する場合に限られる話です。そして恐らくは、専門家だったら当時でもこの程度のことには気づいていたはずです。何故なら、中原の官吏には大陸内で幾らでも経験を積む機会があったはずだし、中原の官吏ならどんな矛盾も見逃さず、その矛盾が解消されるまで学の体系全体を何度でも練り直す意欲と能力くらい当たり前に持っていたはずだからです。もし万が一このずれに気づいていず、北極星の角度にまつわる事柄だけが正確に理解されていたとした場合は逆に、「会稽東治之東」は「会稽と正確に同じ緯度」の意味に厳しく極限されることにもなります。つまり、南九州以外の所はたとえ九州であっても、八女や日向、筑紫すら候補から完全に外れることになるのです。そして屋久島や南九州では、『魏志東夷伝』倭人之条に記載された「会稽東治之東」以外の条件の多くが満たされないことになってしまうのです(とは言え九州説の場合、南九州以外のどの地点をとっても距離に等しく問題が生じます。この点を乗り越えようとする説明は沢山ありますが、どの説明を取っても苦しい感じが否めません。それに対して距離に問題のない近畿説の場合は要するに「会稽東治之東」問題と旅程方向問題にしか難点がないため、これらが解決しさえすれば九州説とは違って、全てにすっきりと収まりが付くのです。そればかりか、ヤマト国遷移説を導入することで、九州説が拠り所とする地名などの九州全体に散在するヤマト国の痕跡までも無下に否定せず、自らの中に収納することができるということにすらなり、文句の付けようのない状況が生まれて来ます)。だからと言って、八女説などを生かそうとの意図の元に飛鳥説の列島高速回転移動説の逆手を取って、九州の高速移動なるものを想定しようとしても、玄界灘の一点を軸にした反時計回りの回転移動が(現時点では高速とまではなっていないにしろ)科学的に証明されているし、そのことによってそれ以外は全く否定されていることにもなるのですから、そんなことは決して許されないのです。現代科学の保証の元、動かせるのは飽くまでも近畿の方なのです。

それでは、『魏志東夷伝』倭人之条の記述者はどのようにして「会稽東治之東」との情報を得たのでしょうか?朝廷に官吏として上奏する重大な公文書であったことを考慮に入れて単なる適当ないい加減な情報だった可能性を除外した上で考えると、可能性としてはひとつ、実際に方位磁石を片手に会稽から船でヤマト国まで航海した経験を十分に積み重ねている複数の船乗りがいて、彼らから入手した情報を元に「会稽東治之東」と書いた。これしか考えられないことになるのです。

ところで、ここでは「会稽東治之東」と略して書いていますが、実際は「計其道里当在会稽東治之東(其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし)」となっているのです。「会稽の東に在る」と断定せずに「会稽の東に在るに違いない」と〈確信を持った推定〉の表現になっている訳です。このこともまた「会稽東治之東」という記述者の判断が、実際に何度もヤマト国に通航してきた複数の船乗りの証言に基づいた判断であったに違いないという私の説を強力に後押ししてくれていると感じます。因みに当該箇所の訳を試みると、次のようになります。「ある特殊な風習について、昔会稽の辺りでそれが定着した経緯が文献として手元に残されているが、それと同じような風習が実はこのヤマトで今も行われているようだ。このことは、ヤマト国が古来より会稽との通航の続く地域であるという情報の裏付けとなっている。従って、三韓からの道程を今ひとしきり記述してきたこのヤマト国の位置は、帯方郡から見た東南の海上12000里余(1里=88m の短里で 1056km余)の所にあるということになる訳だが、同時にまた会稽から見て丁度東の位置に当たると確信する。何故ならそうでないと、会稽とのこのような古来からの継続的通航が不可能になってしまい、これでは不合理になってしまうからだ」となります。

従って「会稽東治之東」とは、当時の事情を十分に考慮に入れて判断してもやはり「会稽の、方位磁石の指し示す真東、つまり東の方を向いた時に実測図上の緯度線から南に30度ずれた真東」にしかならないのです。それは、現在の地形ではどこまで行っても海になってしまっています。「会稽東治之東」に従う限り、九州を軸にした反時計回りの高速回転移動という仮説を受け入れ、その直前の紀元3世紀末の大和盆地がそのライン上にあったと考えるしかないのです。

しかしそれならなぜ、「ヤマト国に行きたい時は会稽から船で真東に向かってください。最短コースです。実際に多くの船乗りが用いているコースです」と書かなかったのでしょうか?なぜわざわざ半島経由の旅程が詳述されているのでしょうか?

実はこれも簡単です。この記述はあくまでも東夷伝として書かれている上に、想定された読者が恐らくは主に半島の帯方郡に拠点を構える漢人の役人達だったからなのです。高句麗や三韓を含む東夷の政治情勢をコントロールすることがテーマとなる中で、東夷における倭のその時点での位置づけが必要となっていたからであるに違いありません。最短距離のアクセス法は確かにあるけど、かの重要課題である東夷の中ではこのような位置づけになっているのですよということだったのです。

因みに、会稽の近くには寧波があり、高速回転移動後で距離が遠くなってしまっている比較的浅い時代においてすら列島は大陸と、この寧波を入口として半島を経由することなく、我々が想像するよりも遥かに頻繁に、というよりは極日常的に、通行し合っていたことが分かっています。それは、航海術が未発達だったに違いないと私達が根拠なしに決めつけている奈良時代以前においても実際は、それ以降とそれ程変わらなかった筈なのです。例えば、太古に大陸の江南辺りからミャオ族が大量に船で渡ってきて弥生人のベースのひとつとなったという言い方は意外と多くの人に何の抵抗もなく受け入れられていますが、それならば、今私が述べていることに実際はほぼ同意していることになるのです。

「遣唐船は実際、不安定な船の構造と稚拙な航海術の為にバンバン沈んだ。出航した遣唐船が一隻たりとも欠けることなく往復できることは稀だったようだ」などという捉え方が一般的なのは、私も承知しています。実際、才能を認められて遣唐使に選ばれ大いに名誉に感じつつも、その危険性を強く意識して家族や恋人との別れをまるで死別であるかのように嘆く遣唐使の姿や、自分が遣唐使に選ばれないよう、あるいは政敵が遣唐使に選ばれるよう、小狡く画策する貴族の話、実際に何隻中何隻しか戻って来なかったなどという空海・最澄の入唐時の伝説のような話が、文献上は少なからず確認できるのです。しかしそれは、そこに描かれているのも、それを描いているのも、大陸への航海を実際より何倍も深刻なものに捉える要因に事欠かない貴族だったからと考えるべきでしょう。そのような逸話が多数確認できるからと言って、それをあまり過大評価できない訳です。そもそも、冷静になって文献を調べると、たとえ貴族であっても無事に帰国した人間が実際は多数確認できるし、中には3回も4回も遣唐使になっている貴族すら確認できるのです(例えば吉備真備など)。何れにしても、少なくとも、先述のような記述が文献上数多く見つかるからと言って短絡的に、大陸との通航そのものが貴族のみならず社会のありとあらゆる階層で殆ど回避されていたに違いないなどと決めつけることだけは避けておいた方がいいようです。そうでないと列島には、少なからぬ比率を占めている南方系の氏族が実際ほどの規模では存在できいことにもなり、明らかな齟齬を生じてしまうことにもなるでしょう。

列島は大陸とこの会稽や寧波を入口として、半島を経由することなく、我々が想像するよりも遥かに頻繁に、というよりは極日常的に通行し合っていたのです。しかも、かなりの昔から。「会稽東治之東」はヤマト国の位置だけではなく、古代における東シナ海のこのような実態も伝えてくれていたのです。

ヤマト国論争の整理という意味でも、飛鳥昭雄氏の著作は、他には見たことのないような詳しさや的確さ、大胆さ、斬新さになっています。従って何より先ず、彼の著作を読んでもらうのがいいと思います。ここで書いたこと以外で非常に興味深いデータが、例えば全国に残る地名の方位異常など証拠として大量に引き合いに出されています。ここでは、彼の著作にも比較的論述が薄いと私が感じるところを中心に、彼の説を補うような形で書いてみました。

邪馬臺国

2012-11-22 13:42:33 | 邪馬臺国
饒速日は九州にあったヤマト国(邪馬臺[ヤマト]○/邪馬壹[ヤマイ]×)を阿波の「忌部氏」との協議の元で大和に東遷させた九州物部の首長でした。九州物部氏の長を「大物主(おおものぬし)」と言います。九州の物部氏と出雲の物部氏の同族性の強さから言葉としても似たものになっている上に、九州物部氏の東遷ばかりか九州物部氏と出雲物部氏との合同という歴史的事実も見えない奥に隠蔽されているため、この「大物主」は出雲物部氏の長の称号である「大国主(おおくにぬし)」としばしば混同されてしまいます。しかしこの二つは今後は、厳密に区別しておくのが妥当ということになることでしょう。また、あの『魏志東夷伝』倭人之条の中で「邪馬壹国」として記述されていたのはこの東遷した後の(南遷だった可能性あり)大和盆地を中核とするヤマト国だったということにもなっていくはずです。丹波国が「投馬国(とまこく)」だった訳です(「たんば」≒「とま」という音声の類似にも注目する必要があります。関東の多摩も関係がありそうです)。この東遷という考え方を採用すると、九州に散在するヤマト国の痕跡は全て東遷(南遷)前のヤマト国のものだったということにもなり、かの難解で有名な論争にもこの上ない治まりがつくと、私などには感じられます。飛鳥昭雄氏のこの説はかなり有力であると評価せざるを得ないでしょう。

そもそもヤマト国問題とは『魏志東夷伝』倭人之条に記述されたその時点でのヤマト国が何処にあったのかであったはずななのです。なのに多くの場合その規定が緩んで、ヤマト国は何処にあったのかと問いが一般的かつ曖昧になってしまいがちなのです。このこともまた混迷の大きな一因となっていると考えられます。飛鳥説の優れたところはひとつには、その点がきちんと押さえられているところだと思います。

ところで九州説は距離に、近畿説は方向に難があるとは有名な話です。しかしながら、会稽東治(カイケイトウチ)つまり会稽の真東はその地の緯度の分だけ北緯線より南にずれるのでなければならないはずなのに九州も近畿もこの基準には合致していないという点になると、皆あまり注意を向けることがないようです。この点に合致するのは屋久島だけですが(屋久島や種子島の少し南の海上が真東である。Google Earth で確かめられる。一昔前にはメルカトル図法の東洋図しかなかったが、今はこんなに便利なものが手元にある)、ヤマト国が屋久島や屋久島周辺の南九州にあったと想定した場合「会稽東治之東」以外の多くの重要な条件が無効になってしまいます。「当時は方向などに厳密ではなく、これは『東の方』くらいの意味なのだから、それが厳密には東北東になっているところで何の問題もない」などと主張しつつ、九州説や近畿説では実際は北東に近くなってしまい、たとえ大まかにでもそれを東と表記できるとはとても言い切れないことや、中国には当時既に羅針盤も、指南車(しなんしゃ)などの精密測定機器も存在し、極めて厳密に制作された方眼付きの全土図すら現存していたことなどには目もくれないまま、大抵は、方向と面積の正確さの犠牲の元に作られ緯度線が真東を指すかのように錯覚させやすいメルカトル図法の東洋全図に感覚的に誤魔化されて、変に納得してしまっていることが多いようです。何れにせよこの方向のズレだけは誰がどう対処しようと解決不能に思われます。

しかし飛鳥説では何と、私ですら受け容れるのを今だに躊躇してしまいがちなほど大胆で斬新なもうひとつの仮説を、とは言え非常に客観的で説得力のある詳細な論述を通して打ち出すことによって、この点すらクリアできているのです。その仮説とは「『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた3世紀当時には列島が対馬海峡の一点を軸に時計回りに現在の位置よりも70度ずれていて、瀬戸内海はまだ形成されていなかった。列島の回転移動は何万年単位などではなく何年単位で起こった」という仮説です。この仮説を導入すると近畿説に限っては、方向を巡る全ての問題が解決することになるわけです(この仮説を導入しても九州説の場合はまだ、会稽の北東にとどまる)。

従って、飛鳥昭雄氏による先述したようなヤマト国近畿遷移説の場合は、今はまだこの私ですら受け容れには慎重にならざるを得ないほど大胆で斬新なこの列島高速回転移動説にすら高い信憑性を感じさせてしまう程の収まりの良さがあると評価せざるを得ない訳です。あまりにも収まりが良すぎてかえってこちらの咀嚼が間に合わないくらいですが、取り敢えずここに記して皆さんに紹介しておく価値はあると判断します。

列島高速回転移動なんて本当にあったのか?そのような目で Google Earth の海底地形図を眺めると、フィリピン海プレートの割り込み具合いが如何にもこの説を裏付けているように見えてくるのは、私だけでしょうか?

それから、九州と中国、四国、淡路、紀伊半島が初めはひとつの陸隗で、その際には瀬戸内海がなかったところに何らかの力が働いて今の地形になったとした場合、現在の地形を見ると、九州と四国、紀伊半島によって構成されていた陸隗が、そして四国も吉野川を挟んで南北がやや分裂し、中国地方の陸隗の方は分裂しないで纏まっているように見えるのですが、それもまた、九州を軸とした反時計回りの力が働いていたことの証明になっているように見えます。

さらに、現在の瀬戸内海には昔、四国と紀伊半島に流れるふたつの川(吉野川と紀伊川)を支流とする大河が流れ、その流域にマンモスの生息する巨大な森が広がっていたという定説がありますが、これらふたつの川が海峡を挟んで分裂しているにも拘らず周囲の地名が同名になったりしていています(紀伊川の上流に吉野がある)。そのこと自体が、この陸隗分裂が比較的浅い時代に起こった、即ち、これらの地名が海峡で分断されたふたつの異なる地域で同様に忘却されることもなく現在にまで伝わるという事態が可能になるくらいの比較的浅い時代に起こったということを表していると私には思われます。即ち、その後次第に融合して行って私たち現代日本人という統一的な集団にまで発展してくることになる、当時既に互いにある程度までは統一的であった氏族群が列島の広い範囲を共通の活動領域として活動し始めていたとされる所謂「歴史時代」の原初期つまり紀元0年前後に起こったことを意味していると、私には感じられるのです。

実は、専門の科学界でも最近は、列島全体の岩盤の磁力線の方向を科学的に詳しく大規模に調べた結果、斉一説の影響から時間の尺度が今だに何万年となってしまっている点を除けば、列島の回転移動があったこととその軌跡や方向が飛鳥説におけるものと完全に一致していたことについては、動かし難い事実として認知されているようなのです。それが起こったのが何万年前にゆっくりとではなく、2000年前くらいにかなりの高速で一気にだったということだけが、斉一説という根拠のない偏見の影響から、発想もされずにいるようなのです。

自然界の変化はマクロなものの場合は必ず均一の速度でゆっくりと起こるものだという思い込みは、よく考えると確かに、この世の実態には合わないように感ぜられます。急激な地球環境の激変のことを科学自身も少なからず何度も語っていると思うのですが、だからと言って自分達の底流を見えないところから支配している大前提そのもののになると、それを批判の俎上に上げようと発想することすら原理的に不可能になっているようなのです。かくして、明らかな偏見がなかなか放棄されずにしつこく生き続け、真実追求の歩みを妨害し続けることになるわけです。

因みに放射性炭素14測定法などの科学的な年代測定法の場合も、それが一旦権威によって判定されてしまうと誰もそれを自分の目で実際に検証できない上に、検証しようともしない訳ですが、実際は、斉一説に負けずとも劣らない程の危うい代物になっているのだそうです。さらには、化石の年代判定法もそうらしい。ただし、科学的年代測定法の中でも年輪年代測定法だけは比較的有効な測定法だと、私は考えています。詳しくは、飛鳥昭雄氏の著作をお読みください。

ところで、山形という研究者が提示している説で、一部の人達に熱狂的に支持されている説があります。「『魏志東夷伝』倭人之条を文献として放棄して、一般にはこれまであまり取り上げられてこなかった他の多くの倭人伝を互いに緻密につき合わせて考えると、三韓は一般に考えられているより遥かに北にあったと記述しているようにも解釈できるし、『倭国はその南に接する』という記述もあって、これがその解釈を保証すると考えることもできる。この場合はしかも倭国そのものが、従ってヤマト国そのものが、半島にあったという事実もまた伝えられていることになる。ただし、私の理論ではまだ『倭国の北岸に狗邪韓国(クヤカンコク)あり』が十分に咀嚼できないことは認める」という説です(山形説)。

これについては、九州が半島と地続きだった時期があることや列島の高速回転移動の過程で半島からごく短期間に分離したことを把握した上で考察すれば、実は、三韓をそこまで北に想定する必然性など消えてしまう訳ですから、そのような把握ができていないために見かけ上生じた文献学上の矛盾を虚しく指摘している以上の何の意味もないと、切って捨てることができるのです。しかしながら、飛鳥説でも流石に、九州と半島が地続きだったことがあるとまでは言っていません。

もっとも、列島から半島に大きく広がっていた広い意味での倭の一部だった三韓が、時代の推移と共にそれぞれアイデンティティを確立するようになり、ある時期からそれらと区別される狭い意味での倭と共に、史書の中で併記される程の独立した地域になっていったという概念の変遷過程を考慮に入れつつ、当時の「国」とは必ずしも現代の国民国家のように国境線によって面として区切られたものではなく、王城をはじめとする幾つかの拠点が海陸を問はざる交通経路によって結ばれた、境界の曖昧なネットワークにすぎなかったという事実もきちんと踏まえた上で考察すれば、「倭国は三韓の南に接する」を山形説が無自覚的に決めつけているように「倭国の国境線は三韓の南の国境線と陸上で接触している」と解釈する必然性など消えてしまうことに思い至るはずだということについては、ここで指摘しておきたいと思います。「倭国は三韓の南に接する」とは「三韓ネットワークの内どのネットワークを辿っても、南に行くと次に現れてくるネットワーク、それが倭である」と言っているに過ぎないことになるからです。従って、従来の解釈のように狭い意味での倭と三韓が海峡で隔てられていたと考える場合であっても、その記述には必ずしも矛盾してはいないと言える訳です。この場合は、ネットワークとネットワークを結ぶ交通経路が海上航路であっても全く構わないことになる。しかも、狗邪韓国とは所謂東表国(とうびょうこく)のことで、半島南端部分よりも海峡を跨いだ北九州部分の方が本国だったと解釈しさえすれば、狗邪韓国から半島の方の拠点が失われた比較的浅い時代に「狗邪韓国は倭国の北岸にあり」という記述がなされたところで、その時点では全くおかしい話ではないということにもなる訳です。

何より山形説では『魏志東夷伝』倭人之条が十分に明確な理由もなく放棄されてしまっています。これは致命傷でしょう。何故なら、『魏志東夷伝』倭人之条も含めて全ての文献を網羅できる説が出てきた時には、自ずから潔く身を引かなければならなくなってしまうからです。三韓や倭国の概念としての変質や位置の変遷を計算にいれないまま理論を組み立てている嫌いもあります。そもそも、自分の説に理論に割り切れない重要な部分がたとえひとつでもある場合は、自分の理論構成の仕方に何か重大な欠陥があるはずだと考えて発表を控え、必死で再検討するのが本当なのに、この人は何故かその禁を破って嬉々として発表してしまっています。面白み以外の何も目的としていない単なる素人の理論であることが、このことから仄かに伝わってきます。

山形説の価値は「『魏志東夷伝』倭人之条以外にも倭国あるいはヤマト国の位置を記述した文献が思いの外沢山ある。『魏志東夷伝』倭人之条の書かれた時点とは時代にそれぞれ隔たりはあるものの、そのことをきちんと踏まえた上でそれらも考慮に入れて考察すべきなのに、これまではそれがちゃんと考慮に入れられていないのは怠慢だ。何故なのか?」という疑問を世間に周知させた点以外には全くないと言わざるを得ないようです。

秦氏研究以降の見通し

2012-11-21 21:34:52 | 日本論と宗教論
『下鴨神社の始まりに何があったのか』で描写されたのは、
(1)丹波を中心に山陰や北陸、山背、近江、伊勢、尾張、相模、関東、熊野、阿波、吉備などを開拓した丹波系の物部氏
(2)北九州に拠点を持ち、九州の倭人達を統率していたが、河内や大和盆地に東遷して、丹波系の物部氏と共に邪馬臺国を統率した九州系の物部氏
(3)後の時代に百済から播磨や山背などに入り込んで、物部氏の大半を糾合した秦氏や賀茂氏
(4)丹波系の物部氏以前に山陰から北陸にかけて蟠踞していたミャオ族とチュルク系の製鉄遊牧民
(5)新羅や高句麗の丹波系倭人で後の源氏を含む新羅系秦氏
でした。

日本国建国以前の列島にはこの他に、次のような部族がいたと思われます。
(6)全国の山岳を中心に東国方面に疎らではあるが広く広がっていた幾つかの雑多な部族
(7)近畿の大和川や淀川、木津川、宇治川、桂川、鴨川、琵琶湖などの水系を支配領域としていた葛城氏
(8)豊国を中心に半島南部から瀬戸内海のあちこちに拠点を持っていた蘇我氏(ヒッタイト)や中臣氏(エブス人)。蘇我氏や中臣氏は半島の拠点を失った後、東国に進出して力を蓄えた。
(9)南九州に蟠踞していた隼人や熊襲
(10)九州系の物部氏の元に糾合するとともに移住してきた扶余の王族に従って馬韓に勢力を伸ばしていた大伴氏をはじめとする九州の倭人達
(11)百済が列島に覇を広げていた時期に列島各地に定着した百済系の人達
(12)弁韓にあった東表国の拠点が百済や新羅に押されて失われた時に列島の各地に逃れて定着した東漢氏や西文氏などの伽耶系の人達
(13)高句麗が列島に覇を広げていた時期に列島各地に定着するとともに、比較的浅い時代には東国を中心に多くの人達が移住してきていた高句麗系の人達

さらには、山陰や北陸からはそれ以降も続々と、例の沿海州から日本海を経由してチュルク系の遊牧民が入ってくることになります。例えば、継体天皇は、そのようにして列島に侵入してきて、列島から半島の新羅に覇を広げたエフタルであり、聖徳太子は、経路こそ百済経由で異なっていますが、当時のユーラシア世界で名を知らぬ者のいない、鉄勒(テツロク)の英雄達頭(タルドゥ)だったと、小林恵子さんは緻密な文献学的論証を通して描き出しています。

今後はこの人達に順番に焦点を当てていくとともに、7~8世紀の日本国建国や平安王朝確立、藤原氏の正体、平氏や源氏の正体などが私の古代史研究のテーマとなって行きます。

この古代史研究はすべて、「『三人の天皇』を検証する」の下敷きとして行っています。

何のために捏造の歴史を暴くのか

2012-11-21 17:15:49 | 日本論と宗教論
悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。

欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。

このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。

このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。

しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。

善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。

論理は小癪だがやはりどうしても必要

2012-11-18 22:47:10 | 日本論と宗教論
「AではなくB(限定)」と「AだけではなくB(添加)」を区別できない、ましてや「AだけではなくBもまた同時に(同時的添加)」と「AだけではなくBもまたその次に(継時的添加)」は尚更区別できない「知識人」(論理的思考に実は意外と通暁できていない学生臭のする自称「知識人」)によって、世の中がどれほど混乱してしまっていることか。

ロックフェラーやロスチャイルドは間違いなくトカゲの尻尾です。しかし、「独立党の力は残念ながら、ロックフェラーやロスチャイルドを攻め落とす過程で、同時にまたそのさらに親玉もと言えるほど万全ではないようだ。だから、ロックフェラーやロスチャイルドを攻め落とした後で、同様にまたそのさらに奥の親玉もと便宜的な方策を考えるしかないのだろう」。このように正しく理解すべきでしょう。

「ロックフェラーやロスチャイルドさえ」となりがちだったり、ロックフェラーやロスチャイルドを毀損して行く過程でその刃を奥の方にも、何の見通しもないまま無闇矢鱈に向けてしまい、奥の方に潜む決して傷つけてはならないものまで傷つけがちになっている点なら、どんなに厳しく戒めても構わないとは思います。しかし、「奥の方の見通しがないのだから礼節にはちゃんと気を配ろう」と謙虚な姿を見せている限りにおいては、「今は取り敢えずロックフェラーやロスチャイルドにのみ的を絞って行こう」としていることそのものを誰も、批判することなどできないのですよ。

下鴨神社の始まりに何があったのか

2012-11-15 22:42:20 | 日本論と宗教論
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の元糾(もとただす)の森にある禊(みそぎ)の施設は、桂川支流の天神川から水を引いて造られたものです。この地域は宇多野(うたの)と言って、極めて水源の乏しい所です。嵐山の桂川に葛野大堰(かどのおおぜき)を設置してそこから用水路を引くとか、北部の山裾に広沢池(ひろさわのいけ)を造成してそこから用水路を引くとかいった、かなり大掛かりな工事を施さずには耕作地として利用することが全くできなかっただろうと思われるくらい、水源の乏しい地域なのです。今は、周囲の都市化が進むとともに、この天神川が天井川となってしまっています。元糾の森の禊の施設もまたその影響で、文字通り「涸れて」しまっています。

註:この地域のやや西にある有栖川の「有栖(ありす)」は、その川の流れている嵯峨野が平安初期に旧百済王家(=桓武朝)の拠点となった所縁で、百済最初の首都だった慰礼城(ウィレソ。後の南漢山城[ナムハンサンソン])傍を流れる阿利水(アリス。「禊の川」の意味で、現在は漢江と呼ばれている。有栖川も禊に使われていたと伝わっていて、その機能まで同じである)に因んで名付けられたもののようです。私はそのように睨んでいます。

対して、下鴨神社の糾の森にある禊の施設は、実際に行ってご覧になられたら分かるように、土地柄としては水源が極めて豊富で、「涸れて」しまう要素など全くありません。神社職員が日常的に入り込んで落ち葉などのゴミを取り除いていることや、特別な儀式の時には豊富に水が流れていることを考慮に入れると、おそらく、日頃は意図的に水を抜いているのだろうと推測されます。何らかの止むを得ない事情からどんなに不吉な見せかけに覆われていようと、下鴨神社の奥底で聖なる清水が涸れてしまうようなことなどないと、私は信じています。

さて、この糺の森ですが、秦氏の中の祭祀族と規定される賀茂氏がこの森のある河川合流地域に下鴨神社を創建する以前には物部氏が、さらにその物部氏以前には所謂「縄文」人が、この地域に拠点を持ち活動していたのは確実です(「縄文人」など、実際は勿論、実体のない概念ではあります。従って私としては、本当は「縄文人」だとか「列島原住民」という言葉の使用には慎重にならざるを得ないのです。この点については、既出の記事『「朝鮮」及び「日本国民」の厳密な意味規定の勧め』を、ご参照ください)。

そんなこの河川合流地点の聖なる森に秦氏と賀茂氏が後からやって来て、下鴨神社を創建したのです。ところで「賀茂氏は奈良盆地の南西部にある葛城(かつらぎ)から淀川や鴨川を遡ってこの地に移住した」という伝承と「秦氏が糺の森を宇多野の元糺の森からこの地に移設した」という伝承が、それぞれ別々に確認されています。これら二つの伝承が伝えている事実はおそらく、同一の事実なのでしょう。このことから、葛野の秦氏と葛城の賀茂氏との間には連絡や協議、合議があったことが分かります。賀茂氏は秦氏の祭祀族(レビ族)であり、秦氏は賀茂氏の元で様々の産業に従事する一般氏族だったという飛鳥昭雄氏の洞察を裏付ける事象と言っていいかと思います。

問題は、先住民である物部氏やその他の氏族と渡来人である秦氏や賀茂氏との関係が如何なるものだったのか?さらには物部氏とその他のさらなる先住氏族との関係が如何なるものだったのか?ということになるでしょう。征服だったのか?同化だったのか?あるいは、駆逐だったのか?

飛鳥昭雄氏によると、物部氏もまた、紀元前3世紀に山東半島辺りから丹波や北九州に移住してきた渡来人です。丹波に定着した方の祭祀階級が海部氏(あまべし)なのだそうです。この海部氏が定着し切り開いた地域が当時は「出雲(いずも)」と呼ばれていた。

註:驚いたことに、島根の「出雲大社」は通称でしかなく、正式名称は飽くまでも「出雲大社」ではないようです。そもそも島根に古代遺跡の広がりが比較的少ないのは有名な話です。反面、極端に大量の青銅器が、銅鐸も、また銅剣や銅矛も、それぞれ全く異なる文化圏を象徴する祭器であったはずなのにひとつに纏まって整然と埋設された遺跡なら数カ所、発掘されているのです(荒神谷[コウジンダニ]遺跡など)。だからこそ、強大な勢力の長期に渡る分布ではなく、ある画期的な大事件が、すなわちある勢力の他のある勢力による計画的な移設や封じ込めがあったであろうとの推測が立てられるのです。本当の出雲はどうやら丹波、特に亀岡辺りにあったようです。ある時、ある事件をきっかけに、現在の「出雲」に、大規模に移設され封じ込められた上で、現在の「出雲」を出雲として人々の心に定着させようとする一連の極めて入念な措置が、何者かによって行われたというのが実態のようなのです。今の「出雲」が「出雲」と称されるようになったのは飽くまでも、7世紀の日本建国以降の話でしかありません。

この物部氏(海部氏)は「大国主(おおくにぬし)」を指導者として、例えば保津峡を掘削することで亀岡盆地にあった湖を一面の耕作地に変え、その東部に出雲大社を立てるなど、秦氏以前にもう既に、丹波から山背にかけての非常に広い地域の大規模開拓に当たっていたと伝わっています。近江や伊勢、尾張~相模~武蔵、伊勢~熊野~阿波、さらには「出雲」、吉備、豊~筑紫、北陸~越といった具合に、紀元前16世紀から始まったと考えた場合の弥生時代の終盤において列島を多方面に大規模に開拓していったのも、この海部氏だったと考えられます。後に秦氏が播磨と共に重要な根拠地のひとつとすることになる葛野は、山裾に近いところは初めの内、物部氏によって開拓が始められたのです。

註:そもそも当時は、山背(やましろ)が山背とは呼ばれず、広い意味での丹波だったのではないでしょうか。あるいは、大和盆地から見て山の後ろの山背ではなく、丹波から見て山の後ろの山背だったのではないでしょうか?因みに山背は、最も古くは山代と表記していたそうです。漢字の伝来以前は「やましろ」という音のみ。「しろ」は、例えば八咫鏡(やたのかがみ)の入れ物である御船代[みふねしろ]や、自分の感覚の中に対象の感覚を入れて「知る」、自分の感覚の中に対象の感覚を継続的に入れ続けて「調ぶ」[「ふ」や「ぶ」は、例えば「住まふ」を見ても分かるように、瞬間相動詞の未然形に接続して「~し続ける」といった継続相の意味を加える接尾辞です]、民を自分の支配下に入れて「領る」などからも分かるように「囲い込む」「容れる」「入れる」「包む」の意味です。従って「やましろ」とは「山に囲われて入れ物のようになった地域」の意味であることが分かります。本物が持っているエッセンス(理[ことわり]) を自分の中に容れてそのものに変化し、そののもの代わりに現存在するの意味から「代理」という言葉が出来たのでしょう。社は八代で「神[ヘブル語で「ヤー」]の容れ物」のことです。

物部氏と先住部族との丹波や山背における関係はおそらく、駆逐や支配ではなく同化だっただろうと思われます。それは例えば、後の大和盆地における饒速日(にぎはやひ)と長髄彦(ながすねひこ)の関係に似た関係だったと言えば、若干は通りがいいかもしれません。物部氏は多くの研究者が指摘しているように遊牧民ですが、単なる遊牧民ではなく、土地を開拓して村落を造り、定着して農耕を行う文明生活の実績を既に、中原で積み上げてきていた人達でした。農耕民を自らの家畜と見做し支配する技術を伝統として所有している単なる遊牧民なら、先住氏族に対する関わり方も苛酷な支配となったことでしょうが、物部氏の場合はそうではなかったのです。

註:饒速日は九州にあったヤマト国(邪馬臺国 or 邪馬壹国)を海部氏との協議の元で大和に東遷させた九州物部氏の首長でした。九州物部氏の長を「大物主(おおものぬし)」と言います。九州の物部氏と出雲の物部氏の同族性の強さから言葉としても似たものになっている上に、九州の物部氏の東遷と九州の物部氏による出雲の物部氏への合同という歴史的事実が見えない奥に隠蔽されているため、この「大物主」は出雲の物部氏の長の称号である「大国主(おおくにぬし)」としばしば混同されてしまいます。しかし、この二つは今後は、厳密に区別しておくのが妥当ということになることでしょう。また、あの『魏志東夷伝』倭人之条の中で「邪馬壹国」として記述されていたのは、この東遷した後の(南遷だった可能性あり)大和盆地のヤマト国だったということにもなっていくはずです。丹波国が「投馬国(とまこく)」だった訳です(「たんば」≒「とま」という音声の類同性にも注目する必要があります。関東の多摩も関係がありそうです)。この考え方を採用すると、九州に散在するヤマト国の痕跡は全て東遷(南遷)前のヤマト国のものだったということにもなり、かの難解で有名な論争にもこの上ない治まりがつくと、私などには感じられます。飛鳥昭雄氏のこの説はかなり有力であると評価せざるを得ないでしょう。そもそもヤマト国問題とは、『魏志東夷伝』倭人之条に記述されたその時点でのヤマト国が何処にあったのかであったはずなのに、多くの場合その規定が緩んで、ヤマト国は何処にあったのかと問いが一般的かつ曖昧になってしまいがちになってしまっています。このこともまた、混迷の大きな一因となっていると考えられます。飛鳥説の優れたところは、ひとつには、その点がきちんと押さえられているところだと思います。

註:ところで、九州説は距離に、近畿説は方向に難があるとは有名な話です。しかしながら、会稽(かいけい)の真東はその地の緯度の分だけ北緯線より南にずれるのでなければならないはずなのに、九州も近畿もこの基準には合致していないという点になると、皆あまり注意を向けることがないようです。この点に合致するのは屋久島だけですが(実際は屋久島や種子島のやや南の辺りが真東である)、ヤマトが屋久島を中心とする南九州にあったとすると、その他多くの重要な条件が無効になってしまいます。「当時は方向などに厳密ではなく、これは『東の方』くらいの意味なのだから、それが厳密には東北東になっているところで何の問題もない」などと主張しつつ、九州説や近畿説では実際は北東に近くなってしまい、たとえ大まかにでもそれを東と表記できるとはとても言い切れないことや、中国には当時既に羅針盤も、指南車(しなんしゃ)などの精密測定機器も存在し、極めて厳密に制作された全土図すら現存していたことなどには目もくれないまま、大抵は、方向と面積の正確さの犠牲の元に作られ緯度線が真東を指すかのように錯覚させやすいメルカトル図法の東洋全図に感覚的に誤魔化されて、変に納得してしまっていることが多いようです。何れにせよこの方向のズレだけは、誰がどう対処しようと、解決不能にも思われます。しかし、飛鳥説では何と、私ですら受け容れるのを今だに躊躇してしまいがちなほど大胆で斬新なもうひとつの仮説を、とは言え非常に客観的で説得力のある詳細な論述を通して打ち出すことによって、この点すらクリアできているのです。その仮説とは、「『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた3世紀当時には列島が、九州を軸に時計回りに現在の位置よりも90度以上ズレていて、瀬戸内海はまだ形成されていなかった。列島の回転移動は何万年単位などではなく何年単位で起こった」という仮説です。この仮説を導入すると近畿説に限っては、方向を巡る全ての問題が解決することになるわけです(この仮説を導入しても九州説の場合はまだ、会稽の北東にとどまります)。従って、飛鳥昭雄氏による、先述したようなヤマト国近畿遷移説の場合は、今はまだこの私ですら受け容れには慎重にならざるを得ないほど大胆で斬新なこの列島高速回転移動説にすら高い信憑性を感じさせてしまう程、収まりが良くなっていると評価せざるを得ない訳です。あまりにも収まりが良すぎてかえってこちらの咀嚼が間に合わないくらいですが、取り敢えずここに記して皆さんに紹介しておく価値はあると判断します。

註:列島高速回転移動なんて本当にあったのか?そのような目で Google Earth の海底地形図を眺めると、フィリピン海プレートの割り込み具合いが如何にもこの説を裏付けているように見えてくるのは、私だけでしょうか?実は、専門の科学界でも最近は、岩盤の磁力線の方向を科学的に詳しく大規模に調べた結果、斉一説の影響から時間の尺度が今だに何万年となっている点を除けば、列島の回転移動があったことと、その軌跡や方向が飛鳥説におけるものと完全に一致していたことについては、動かし難い事実として認知されているようなのです。それが起こったのが、何万年前にゆっくりとではなく、2000年前くらいにかなりの高速で一気にだったということだけが、斉一説という根拠のない偏見の影響から、発想もされずにいるようなのです。自然界の変化はマクロなものの場合は必ず均一の速度でゆっくりと起こるものだという思い込みは、よく考えると確かに、この世の実態には合わないように感ぜられます。急激な地球環境の激変のことを科学自身も少なからず何度も語っていると思うのですが、だからと言って自分達の底流を見えないとことから支配している大前提そのもののになると、それを批判の俎上に上げようと発想することすら原理的に不可能になっているようなのです。かくして、明らかな偏見がなかなか放棄されずにしつこく生き続け、真実追求の歩みを妨害し続けることになるわけです。因みに放射性炭素14測定法などの科学的な年代測定法の場合も、それが一旦権威によって判定されてしまうと誰も、それを自分の目で実際に検証できない上に、検証しようともしない訳ですが、実際は、斉一説に負けずとも劣らない程の危うい代物になっているのだそうです。さらには、化石の年代判定法もそうらしい。詳しくは、飛鳥昭雄氏の著作をお読みください。

註:ところで、山形という研究者が提示している説で、一部の人達に熱狂的に支持されている説があります。「『魏志東夷伝』倭人之条を文献として放棄して、一般にはこれまであまり取り上げられてこなかった他の多くの倭人伝を互いに緻密につき合わせて考えると、三韓は一般に考えられているより遥かに北にあったと記述しているようにも解釈できるし、『倭国はその南に接する』という記述もあって、これがその解釈を保証すると考えることもできる。この場合はしかも倭国そのものが、従ってヤマト国そのものが、半島にあったという事実もまた伝えられていることになる。ただし、私の理論ではまだ『倭国の北岸に狗邪韓国(クヤカンコク)あり』が十分に咀嚼できないことは認める」という説です(山形説)。これについては、九州が半島と地続きだった時期があることや列島の高速回転移動の過程で半島からごく短期間に分離したことが把握できていないために見かけ上生じた、文献学上の矛盾を指摘した説にすぎないと、見定めることができるのです。しかしながら、飛鳥説でも流石に、九州と半島が地続きだったことがあるとまでは言っていません。もっとも、列島から半島に大きく広がっていた広い意味での倭の一部だった三韓が時代の推移と共にそれぞれアイデンティティを確立するようになり、ある時期から、それらとは区別される狭い意味での倭と史書の中で併記される程の独立した地域になった変遷過程を考慮に入れつつ、当時の「国」とは必ずしも、現代の国民国家のように国境線によって面として区切られたものではなく、王城をはじめとする幾つかの拠点が海陸を問はず交通経路によって結ばれた、境界の曖昧なネットワークにすぎなかったという事実もきちんと踏まえた上で考察すれば、「倭国は三韓の南に接する」を、山形説が無自覚的に決めつけているように「倭国の国境線は三韓の南の国境線と陸上で接触している」と解釈する必然性など必ずしもないことに思い至るはずだということは、ここで指摘しておきたいと思います。「三韓ネットワークの内どのネットワークを辿っても、南に行くと次に現れてくるネットワーク、それが倭である」と言っているに過ぎないからです。従って、従来の解釈のように狭い意味での倭と三韓が海峡で隔てられていたと考える場合であってもその記述には必ずしも、矛盾してはいない訳です。この場合は、ネットワークとネットワークを結ぶ交通経路が海上航路であっても全く構わないことになるからです。しかも、狗邪韓国とは所謂東表国(とうびょうこく)のことで、半島南端部分よりも海峡を跨いだ北九州部分の方が本国だったと解釈しさえすれば、狗邪韓国から半島の方の拠点が失われた比較的浅い時代に「狗邪韓国は倭国の北岸にあり」という記述がなされたところで、その時点では全くおかしくないということにもなる訳です。何より山形説では、『魏志東夷伝』倭人之条が、十分に明確な理由もなく放棄されてしまっています。これは致命傷でしょう。何故なら、『魏志東夷伝』倭人之条も含めて全ての文献を網羅できる説が出てきた時には、自ずから潔く身を引かなければならなくなってしまうからです。三韓や倭国の概念としての変質や位置の変遷を計算にいれないまま理論を組み立てている嫌いもあります。山形説の価値は、『魏志東夷伝』倭人之条以外にも倭国あるいはヤマト国の位置を記述した文献が思いの外沢山あり、『魏志東夷伝』倭人之条の書かれた時点とは時代にそれぞれ隔たりはあるものの、そのことをきちんと踏まえた上でそれらも考慮に入れて考察すべきなのに、これまではそれがちゃんと考慮に入れられていないという事実を周知させた点以外には全くないと言わざるを得ないようです。

スサノオによるヤマタノオロチ退治の伝説には、その意味はまだ私にとっては研究課題にとどまりますが、確かに、渡来人による先行部族の征服や駆逐のニュアンスが読み取れます(ただし、弱者救出のニュアンスもまた、そこにはちゃんと含めて伝えられている)。しかしこれは、物部氏や海部氏の列島移入よりも遥かに昔のことだったと考えるべきでしょう。

スサノオ以前の列島は恐らく、蘇我氏や中臣氏の東表国が広い地域に幾つかの拠点を置き、江南から移入してきたミャオ族などを中心とする弥生の集落がその周囲に展開していて、そこに大陸系の製鉄遊牧民が時々、沿海州から日本海ルートを通って侵入しては集落集落を襲って略奪し続けるという状況になっていたことでしょう。スサノオはその中でも比較的後発の製鉄遊牧民のひとつとして、この列島の歴史に登場してきたものと考えられます。これら製鉄遊牧民の中にヘブルやイスラエルが混ざっていた可能性があるのです。

物部氏が丹波に入ってきた時そこには、かつて他の製鉄遊牧民を武力で制圧して先住農耕民を解放し、先住農耕民に入り婿した後長い年月を経て先住農耕民に同化吸収されてしまった、そんなスサノオの子孫たちと、その子孫たちによって保護され緩やかに統合されたミャオ族の村落群があった。未だ手付かずのままで残された広大な土地もあった。即ち先住氏族にとっては手の施し様もないただの荒地だが物部氏にとってはまさに開拓にもってこいの広大な未開拓地があった。それら弥生人の中に支配層の一部として紛れて生活しているヘブルやイスラエルの同族たちの祭祀場も存在していた。山地の尾根伝いには鉱物を求めて山岳信仰のヘブルやイスラエルの民が全国津々浦々に連絡ネットワークを張っていたことでしょう(例えば愛宕山からは、山伝いに比叡山まで行く道があり、空海さんも通っていたことが分かっています。今は有名なハイキングコースとなっています)。

先住の民にとって物部氏は、自分達の生活圏を全く侵すことなく自分達の生活圏のすぐ外側を自分達にはできない高度なやり方で勢いよく開拓して行き、そのことによって隣人である自分たちにも豊かさと安全をもたらしてくれる存在に映ったことでしょう。しかも、よく調べてみると、自分達の支配層に加わっている一部の氏族の遠い、しかしながら決して無視することのできない重大な意味合いを持った同族だということが分かったのです。

註:何百年もの間交流のなかった同族同志が、たとえ互いにそのアイデンティティを失わないでいられたとしても、地の果ての新天地で何百年か振りに出会い、その際互いに同族同志であることを確認できるとしたら、それはただ、互いの神殿を調べて信奉する神を確認することができる場合以外には考えられないでしょう。古代の列島でヘブルやイスラエル、ユダヤの支族同志の間に起こっていたのはまさに、このようなことだったに違いありません。その証拠に、物部氏や秦氏、賀茂氏によって神社が創建された時も、先住氏族が聖なるものとして大切にしていた磐座などの施設は、その聖域内に神社建設がなされるにも拘らず、多くの場合は奥の宮などの形で同じように大切に扱われたのです。

そこに紛争の起こる余地はほとんどなかったと推測されます。物部氏と近隣の先住氏族達は、その内次第に、ひとつの運命共同体として纏まり、一緒に発展して行ったことでしょう。

さて、先述の問いをもう一度ここで、次のように規定し直しましょう。下鴨神社の辺りに聖域を設けていた所謂「縄文」の先住氏族は、最初は物部氏によって、次は秦氏や賀茂氏によって、どのように処遇されたのでしょうか?同化か?それとも、駆逐や征服か?飛鳥説という非常に有力な説が出たとは言え、この問題についてはやはりまだ、暫くは粘り強く調べていかなければならないと思います。

さて、飛鳥昭雄氏は、物部氏以前の先住部族も、物部氏も、秦氏や賀茂氏と同じくヘブルやイスラエル、ユダヤであり、そのことをお互いに確認しあった上で、協議の上で同化したのだと主張しています。

註:物部氏は元々は、アケメネス朝ペルシャに定着していたユダ族やベニヤミン族、レビ族からなる所謂「東ユダヤ人」だったのだそうです。アケメネス朝滅亡の後、紀元前3世紀の戦国時代には徐福の民として山東半島あたりに定着し、同族である秦始皇の手厚い支援に基づいて二度にも及ぶ列島への大規模な民族移動を行ったと言われています。

物部氏の大半は秦氏や賀茂氏と邂逅した時に、ユダヤ教徒として、秦氏や賀茂氏の説くユズメシャ(ウズマサ/イエス=メシヤ/イエス=キリスト)の「福音(良き知らせ)」即ち「アブラハムやイサク、ヤコブの時代からヘブルやイスラエル、ユダヤの民である我々が心待ちにしていたメシヤ。それがとうとうやってこられたのです。ナザレのイエスと仰います。どうですか?何とも嬉しいことではありませんか!」という内容の知らせを受け入れて秦氏に糾合し、ユダヤ人原始イエス教徒としての秦氏の一員となったのだ(我々が現在神道として理解している宗教の担い手としての秦氏。ヨーロッパのキリスト教徒とは、ある特殊な事情からイメージが全く異なっていますが、正当性ではそれを遥かに凌駕していると言えます。何しろイエスとイエスの家族や弟子たちの直系なのですから)と述べています。つまり、改宗した上に改姓まで行ったというのです。その中には、それ以前に物部氏に似たような形で糾合した「縄文」のヘブルやイスラエルも含まれていたことでしょう。勿論、物部氏のままで留まった人達もいました。

要するに秦氏はこの時点で、
(1)本来の賀茂氏(裏天皇と八咫烏[やたがらす]組織)
(2)本来の百済系秦氏(中原では秦や前秦に、最終的には後秦に参入していた)
(3)丹波物部系の賀茂氏(海部氏。改姓しなかった物部氏を含む)
(4)丹波物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(5)先住系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(6)先住系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(7)九州物部系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(8)九州物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
のような複雑な内部構成になったということになります。

これを部分的に裏付ける事実としては、松尾大社(まつのおたいしゃ)を創建したとされる秦忌寸都理(はたのいみきとり)についての『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の記述を挙げることができます。全秦氏の中でこの松尾大社の秦氏だけが「饒速日命之後也(にぎはやひのみことのこうなり)」と記述されているのです。これは、秦氏の中に九州物部系の秦氏が存在することの証拠と考えることができます。祭神も「賀茂の厳神、松尾の猛神」と昔から形容されてきた大山咋(おおやまくい)=大山祇(おおやまづみ)で、イエス=メシアの福音を知るまでのイスラエルやユダヤの崇拝する絶対神が山神(やまのかみ)や雷神(らいじん)、雲神(くもがみ cf. 出雲 )、祟神(たたりがみ)などとして旧約聖書中に記述されているのと特徴が完全に一致しています(そう言えば今年は、夏から現在に至るまでずっと、例年にないくらい激しく頻繁に、松尾山に雷鳴が轟いています。何かに怒っていらっしゃるのでしょうか?)。

では「新羅(シンラ)系の秦氏」についてはどうなるでしょうか?新羅系の秦氏とは、一旦は新羅に定着した後で何段階にも渡って列島支配層への移入を繰り返す一方、半島では百済(くだら)や高句麗(コウクリョ)を滅亡に導いて三韓を統一し、それ以来一貫して半島の支配階級の一角であり続けている氏族のことです。この氏族は日本では、藤原氏と並んで、現代に至るまでずっと日本国に不幸をもたらし続けてきた元凶と非難する声の喧しい、その意味で極めて注目度の高い氏族なのです(8世紀に創られた人工の氏族藤原氏の実体については今後のテーマです)。

ところで、チュルク系の遊牧諸部族(突厥[トッケツ]や鉄勒[テツロク]、エフタル、匈奴[キョウド]、烏丸[ウガン]、鮮卑[センピ]など)は、紀元前のかなり古い時代から半島を迂回しつつ沿海州から日本海を渡って列島まで通行し続けていて(現代の北朝鮮の拉致部隊や脱北者の侵入経路とよく似た経路です)、丹波(文献上では「多婆波[タバナ]国」や「投馬国」とも表記されている)を中心とする山陰から越に至る広い地域に分布する幾つかの「国」を拠点とし、そこから辰韓や弁韓に侵入して新羅を建国したと見られています。例えば、「中央アジアやペルシャ、ローマの文化の影響が色濃く残っているのは、中原の極少数の地点を除けば、東アジアでは奈良とこの新羅以外ひとつもないということになっているわけだが、それはまさに今ここで述べているような事情があったためである。新羅の『羅』は羅馬(ローマ)の『羅』なのかもしれない」。このように、小林恵子氏をはじめとする多くの研究者が主張しています。さらには、現在は「からすま」と発音が変わった上で通りの名前となってしまっていますが、その通りが平安京建設以前には烏丸川(からすまがわ/ウガン川)という河川だったことも分かっているのです。さらに、最初期の新羅には瓢公(ひょうこう)という倭人の大臣がいたという記録がありますが、この瓢公は多婆波国からやって来たということになっています。一方丹波には与謝宮(瓠宮[よさのみや]。籠神社[このじんじゃ]の奥宮たる真名井神社[まないじんじゃ]のこと)があり、この「瓠」も「瓢」も何れも瓢箪のことです。瓢箪は勿論アフリカ原産で、中央アジアでも早い時期に栽培されていました。また、第4代の王昔脱解(ソクタレ)の誕生説話にも多婆波国出身との記述が含まれます。さらには、初代王赫居世居西干(カクキョセイキョセイカン)の「赫」にも瓢箪の意味があるようです

註:赫居世居西干の「居西干」は「いせいかん(伊勢神)」に繋がるという説がありますが、それはしかし、間違いだと思います。漢民族以外の人名には漢字の音が当てられるのであって、漢字の意味を大和言葉で翻訳して漢字の読みとして当てた訓読み(くによみ)は、私の知る限り決して当てられるはずがないからです。この説では「居」に音読みではなく訓読みを当てようとしています。しかも「居」の正しい訓読みは、高校の古典文法でも習うように、「ゐ」であって「い」ではありません。「伊」の訓読みは間違いなく「い」です。両者は決して、混同されたりはしません。

また、列島においてスサノヲと呼称される牛神バールの神殿はすべて「出雲」系の神社仏閣となっていて、大国主や大物主と関係付けられることも多く、新羅系の秦氏のことをこのバール神崇拝の東洋における担い手として取り扱う研究者も少なからずいるようです(そう言えば、あの義経は、新羅系秦氏の一派清和源氏の一員としてその源氏の運命に大きく関与するよう使命づけられて、組織的な何者かに意識的に誕生させられ育てられたと思われるのですが、その義経の幼名が「牛若」でした)。

これらのことを勘案すると、後の源氏を含む所謂「新羅系の秦氏」の元祖はどうやら、物部氏が百済系の秦氏到来以前に何らかの関わりを持っていた列島先住部族の中に紛れ込んでいた可能性が高いと考えられます(勿論可能性としては、秦氏の中には全系統に例外なく、新羅系の秦氏の元祖と同じ系統の「邪悪」な氏族が密かに潜伏していた可能性もないわけではありません)。つまり、半島南部から列島にかけての地域に今見られるような隔絶がなく、列島と半島がひとつの大きな地域として歴史と支配層を共有していた時代の最初期には、半島から列島にではなく列島から半島に、新羅系秦氏の元祖が移って行ったというのが実態だったらしいということです。

「悪い韓国人や朝鮮人が日本に侵入してきて」という現代の地理観から組み立てられた構図は、その当時に限定して言えば完全に、実態からずれる可能性があるという訳です。すなわち、牛の姿をしたバール神を崇拝する「邪悪な」氏族は、賀茂氏が下鴨神社を創建した当時においては決して賀茂氏の方にではなく、現在は糺の森と呼ばれている領域で賀茂氏到来以前に祭祀を行っていた方にこそ潜んでいた可能性が高い。ユダヤ人原始イエス教徒としての賀茂氏の方は、実は同胞であるということが判明した現地の先住民達を説得して糾合し、その本来の信仰に立ち戻らせたのだ。スサノヲの黄泉の国への封じ込めの神話はこのことを象徴している。しかし、このようにして物部氏や秦氏、賀茂氏に一旦は糾合されたにも拘らず、バール崇拝の先住氏族の中にはバール崇拝をその後も密かに維持した者達がいて、秦氏や賀茂氏の「善なる」中枢を逆に、時代が下るにつれてゆっくりと自らの「邪悪」さで侵食して行った。それが現在の秦氏や賀茂氏の、そして官僚をはじめとする現在の支配層の実態となっている。このように結論づけられるのかもしれません。「糺の森から出土するあれらの遺跡で祭祀を行っていたのは誰なのでしょう」と問われて「分かりませんね」と微笑みながらとぼけて見せる下鴨神社の関係者こそ、ひょっとしたら遠い先祖の時代に、まさにその現場にいたのかもしれないのです。

悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。

欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。

このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。

このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。

しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。

善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。

註:イサクの息子でヤコブの兄でもあり「神の永遠の呪い」を受けたエソウの子孫でカナンに住んでいた種族が、ヤコブの子孫であるイスラエルにバール信仰を浸入させたと言われています(この種族はイスラエルではないがヘブルではあるということになります)。北イスラエルの特徴はこのバール信仰でした。聖書に馴れ親しんだ人でないとなかなかピンとこないでしょうが、このバール神に対する感情はどこまでも複雑なのです(この感情は謂わば悪を実体として捉えることに当たるわけです。また十戒の「姦淫するなかれ」をめぐる、セックスについての考え方の違いからくる解釈の分裂もその複雑さの淵源となっているなどといった非常に刺激的な議論が展開できるテーマでもあります。これは場所を改めて論じる方がいいでしょう。ここでは一旦、そのような「邪悪」な種族の実在を前提して話を進めていきます)。金星や六芒星、五芒星、十六花弁菊花、樹木、三本柱、ピラミッドなどをシンボルとして所有しつつユーラシア世界の宗教全般に普遍的に潜り込んできた統一的密教集団の存在を私は想定していますが、その暗黒面を何らかの意図で背負い込まされ、牛の象徴を(あるいは男△女▽和合の象徴六芒星を)与えられた種族がこの種族なのではないかと思います。古代のペルシャとインドで善神と悪神の逆転が見られることや、金星や龍についての価値観に東西で逆転が見られることは有名ですが、それら様々な価値逆転を何らかの理由で意図的に執り行ったのがこの密教集団だったようです(この価値逆転の意義も今後の重大な課題です)。

註:因みに「釈尊」とは、シッダールタという名前のシャカ族に属す有名な聖人を指して、「シッダールタさん」とではなく「シャカ族の聖人様」と呼びかけていることと同じになります。この釈尊の姓(家族名)がまた「ゴータマ/ガオタマ」なのですが、その意味が何と「偉大なる(タマ)聖牛(ゴー/ガオ cf. cow )」なのだそうです。シャカ族は、王家のトーテムがやはり、牛だったのです。シャカ族も新羅系秦氏の元祖と繋がるヘブルやイスラエルだったのかもしれないのです。しかも、新羅系秦氏の半島での姓のひとつである「昔」を「シャカ」の漢字表記と指摘してインドのシャカ族と半島の昔氏の繋がりを主張する研究者が少なくありません。この昔氏は、丹婆波から新羅に入って王となった昔脱解(ソクタレ)の子孫です。

しかしこの話は、新羅系の秦氏に留まりません。高句麗にもまた結びついてくるのです。例えば、高句麗兵の冑には「牛の角」が付いていました。また牛頭天王(ゴズテンノウ)を、従ってスサノヲを、祀っていることで有名な祇園の八坂(弥栄)神社(祇園神社)も、あの淵蓋蘇文(ヨンゲソムン、イリカスミ or 大海人皇子/後の天武天皇)が実効支配していた頃(平安京ができる以前の7世紀中盤で飛鳥時代)の高句麗から、イリシオミと称する人物が渡来して創建したものと伝えられています。さらには、高句麗における「早衣(チョイ)」という名称の武装密教組織(その長は「国仙(コクサン)」)と新羅における「花郎(ファラン)」という名称の武装密教組織(その長は「源花(ゲンファ)」。列島では後に源氏となった。元々はシャカ族も属していたインドのクシャトリアの流れであると指摘する人もいる。歌舞伎の隈取りと全く同じような化粧の伝統を持っていたことでも有名)の共通性を指摘する人もいます。また、賀茂氏の旗印である三本足の八咫烏は、遠い西方ではアレクサンダー大王のエジプトでの冒険の物語にも登場するシンボルですが、高句麗もその重要な旗印として持っていたことが分かっています。さらには、下鴨神社や松尾大社に伝わる丹塗り矢(にぬりや)の伝承は、高句麗の始祖である朱蒙(チュモン)の母親が朱蒙の父親と結婚する時の話と全く同じものです。これらのことを考慮に入れると、高句麗建国のベースにも一部、現在は一括りに「秦氏」の中に含められている、丹波を経由したこれら「邪悪な」密教集団の影響があったと考えた方がいいのかもしれません(小林恵子氏もその著作の中で、高句麗建国における列島勢力の影響の大きさについて、詳細に述べています)。

何れにしても、「半島から列島への流れ」という固定観念は、正しい歴史認識のために早急に破棄しておいた方がいいでしょう。半島の国は、倭の一部としての半島南部に形成された三韓も、付け根から満州にかけて形成された高句麗も、その形成には当時の列島勢力の下支えが少なからずあったにちがいないのです。悪は「最初」から列島にいたのです。

最後に、下鴨神社もこの八坂神社もそうですが、後発の渡来人が神社を建てる時は「縄文」以来の聖地に重ね合わせるかのように建てていることが多かったようです。これを征服という発想で見た場合は「被支配者に自分の神と同じ神を拝ませ、支配を比較的容易なものにするために支配者が、洋の東西を問わず用いてきた常套手段である」という言い方になるようですが、同化という発想から見た場合は「先行する氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーと、後発の氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーが、両者が元々は同族である限りにおいて同じになるから」ということになるでしょう。

このコスモロジーについては、下鴨神社の場合、比叡山頂や比叡山延暦寺と木嶋坐天照御魂神社、松尾大社を結ぶラインが夏至の日の見かけ上の日の出地点と冬至の日の見かけ上の日の入地点を結ぶ線に一致していることは、よく指摘されることです。またこれは私が Google Earth 上で計測し確認したことですが、山城における秦氏の代表的な神社である松尾大社と下鴨神社、伏見稲荷大社は、松尾大社を頂点とする正確に西向きに配置された一辺約5マイルの正三角形を形成していて、おまけに下鴨神社と伏見稲荷大社の中間地点にあり松尾大社から見て正確に東の方にある八坂神社と松尾大社の間の距離も約5マイルになっていて、松尾大社を中心とする半径約5マイルの円の円周上には、北から時計回りに、上賀茂神社と下鴨神社、八坂神社、伏見稲荷大社、藤森神社が、さらには巨椋池を跨いで長岡天満宮が、綺麗に配置されているのです。偶然かもしれませんがマイルは、ローマ時代から地中海世界を含む広い地域で呼び名は違っても普遍的に用いられた距離の単位で、人の2歩を1パッススとした場合に、1000パッススを1マイルとしていたそうです。passus は「歩み」を表し、mille は「千」を表します。ヘブルやイスラエル、ユダヤもこの単位を用いていたはずです。5にどんな意味があるのかは、今のところ見当もつきません。

さらには、古代人にとって何らかの装置の意味を持っていたらしいイワクラ(ヤクラ)の近くには決まって、そのイワクラ(ヤクラ)に何らかの関係づけをしているかのようにイヤサカ(ヤサカ)と呼ばれる環状列石(ストーンサークル)がひとつ設置されているそうですが、八坂(弥栄)神社の場合は、その北に岩倉という地名があり山吉神社(磐座神社の縮小した現在の神社)内にその地名の由来となった磐座があることや、八坂神社内の公園の名前が「円」山となっていることに私は気づいています。ただ、八坂神社内にかつて本当にストーンサークルがあったかどうかはまだ、未確認です。

古代のヘブルやイスラエルに太陽をはじめとする各天体への信仰や巨石信仰があったことは旧約聖書内の記述からもほぼ定説となっているそうですから、今述べたような二つの事実もまた、物部氏以前の先行氏族がヘブルやイスラエルと深く結びついていることの証拠となっていると言っていいのかもしれません。

註:日本イワクラ学会と呼ばれる学会の会長の地位にある何某氏の著作によれば、イワクラは地球規模にネットワークの広がる一種の光通信装置で、イヤサカはイワクラへの一種のエネルギー供給装置のようなものになっているのではないかということでした。