飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「狗奴国」と中臣氏

2013-11-04 14:30:54 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさん改め、アメノマヒトツさんのブログの記事に入れたコメントを元に、記事を仕上げました。


以下引用。

日本最古の王朝は、中原の歴史で「殷王朝」と称され、九州北東部一帯を拠点に伽耶や琉球、南九州、根の国(島根)、長門、周防、阿波、山代や難波、紀伊、葛城、三輪、飛鳥、伊勢、尾張、扶桑(関東)など、多くの分国を次々と建設していった「蘇我氏」や「中臣氏」の東表国(豊国)でした。以下、この東表国と各時代の様々な移入氏族との関わり合いを中心に、この列島と半島の古代の成り行きを記述してみようと思います。

註:彼らにとって分国建設とは、鉄を元手にした商売の販路創造を意味するのであって、帝国主義などとは全く違うものでした。彼らの活動を阻害する者への予防や反撃もある程度は行ったことでしょうが、単純に武力を持って自らへの服従を要求するようなことは、全く行いませんでした。このことは、最初にきちんと踏まえておかなければならないでしょう。

先ずは、山陰地方。山陰地方もまた上述のリストの中の根の国を中心に、他の各分国と同様、この東表国からの移民団によって開拓されました。しかし、他の分国とはまたかなり異なる状況に晒されてもいたのでした。山陰地方の日本海対岸に当たる沿海州は、ユーラシア大陸の北部を東西に真っ直ぐ貫く草原の道の終着点です。この草原の道を通じてユーラシア全体の遊牧民と濃厚に繋がっていたわけです。この沿海州から靺鞨やオロッコなどチュルク系の狩猟採集民や遊牧民が海路移動してきて、定期的に各地の農村に侵入しては略奪行為を繰り返す。そんな地域が山陰地方だったのです。これら遊牧民の支配領域は山陰の海岸地帯は勿論、島根から内陸路を通って吉備国にまで及んでいました。そんな状況の中、根の国(島根)に、半島北東部からスサノオの一族が導き入れられて、山陰地方の定着民達を上記のチュルク系諸族の略奪から解放することになります。この根の国が、南九州にあった始羅(姶良)国の人々や、根の国に逃れて来ていた九州北西部旧伊勢国のガド族の一部と共に、半島南東部における辰韓連合体の成立にも深く関わっていたらしい(朴氏や昔氏)。

註:この地域には、後述するように、中原の秦から徐福の一団が入って来ます。この一団は、スサノオの一族との様々な葛藤の末に、最後はスサノオの一族にも受け入れられて、この地域の東部に位置する丹波地方(本来の出雲)を割り当てられることになりました。この一族が物部氏であり、この物部氏の首長が『古事記』では「大国主」と称されている訳です。『古事記』には「出雲にいた大国主が国譲りして根の国に逼塞させられた」と書かれているのですから、このことからも、現在「出雲」と呼ばれている地域は本来の出雲ではなく、「根の国」こそがその本当の呼称となっていたことが分かる訳です。実際、現在「出雲大社」と称されている神社は江戸時代まで杵築神社(きつきじんじゃ)と称されていたらしく、出雲大社という呼称は明治以降になってやっと用いられ始めたに過ぎないのだそうです。また、京都府丹波の亀岡盆地北部には「元出雲」と称する神社が紛れもなく存在し、大国主がこの地域を大規模開拓し、拠点としたという内容の伝説まで歴として伝わっています。

註:物部氏には九州の物部氏と丹波出雲の物部氏に加えて、丹波出雲の物部氏の分派としての物部氏、即ち、高句麗から東扶余(トンプヨ)を経て九州熊本に至り、最後は百済の有力貴族となった百済系物部氏がありました。全部で三つの物部氏。何れも後に、新羅系秦氏の招きで百済系秦氏が現在近畿と呼ばれている地域に入った際、彼らを中心に結集することになります。大邪馬臺国は、要するに、中臣氏と蘇我氏を土、忌部氏と賀茂氏、丹波物部氏を根、秦氏とガド族を幹、丹波物部氏以外の物部氏を枝、百済王家を葉にして成り立つ、大きな樹木のような国家でした。

註:遊牧民の中には農耕定着民を自分達が飼育している家畜と同じものと見做し、家畜の飼育を通じて編み上げた方法論を何の躊躇いもなく、自分達の当然の権利として、農耕定着民に適用する部族がいました。これこそ支配ということの起源そのものだったとさえ言っていいくらいです。農耕定着民、即ち庶民そのものも、ユーラシアでは、この遊牧民の存在より後のものであり、遊牧民によって各地に意図的に育て上げられたものだったはずです。国と支配よりも個人が先に存在したと認識の浅い大部分の人達は考えがちですが、実際は国と支配の方が個人よりも先にあった。これは事実です。民主主義を語る時はどんな場合でも、この事実を前提に語るべきです。そうでないと、いかなる支配も否定してしまう極めて底の浅い民主主義となってしまい(日本語の民主主義からは読み取りにくくなっていますが、democracyとは飽くまでも、庶民による支配のこと。支配であることに変わりはないのです)、支配すべき支配者の支配権そのものを傷つけてしまうと共に、そのことでかえって、支配する資格のない悪意に満ちた利己的な支配者の邪悪で巧妙な支配を自ら引き寄せることにもなってしまうのです。残念ながら「民主主義」は、現在までのところ、ひとつの例外もなく、このような邪悪な者たちによって民衆の間に普及させられ、今述べたような悪巧みの道具として用いられたことしかないと言うべきです。

次は阿波。聖書では、イザヤをはじめとするレビの一団が紀元前711年生まれのユダ王国王子を連れてユダ王国を捨て、ユダ王国から大挙して脱出したということが暗示されています。彼等はその後、海人族和爾氏の導きで海のシルクロードを経由して列島に招き入れられたようです。東表国の「中臣氏」がその招き入れの主であり、その際は彼らに、分国阿波を割り当てたらしい。この地域のことは、考古学上の遺跡の圧倒的な規模から古代列島におけるそのずば抜けた重要性が確実であるにも拘らず、魏志倭人伝や記紀など、どの歴史書にも、また、私が参考の中心にしている小林恵子さんや松重楊江さんなど、現代の歴史家の書物にも、詳しい描写が欠落している。こういう点に意図的で大規模な隠蔽の痕跡を感じざるを得ない。この地域は、そんな特別な地域となっていたのです。そのくらい、このレビ族(忌部氏)の存在は重かったということなのでしょう。

東表国の中臣氏は、更に、秦から徐福の一団が二波に分かれて移動して来た時にも、先着組には丹波亀岡の出雲を、後着組には北九州の行橋辺りを割り当て、前者が後に北陸、東北勢力と共に半島北部に高句麗を建国した際には、その手助けをしました。これら徐福の一団こそ物部氏であり、それらの首長が大国主なのです。大国主は丹波出雲の大国主だけではなく、北九州の大国主もいたということになります。

註:因みに、大物主ことニギハヤヒは、山陰から半島北部に移動し、後には半島北部から更に九州の熊本にまで移動してきて、ウラルトゥ王家による邪馬臺国建国にも重要な役割を果たした物部氏の別派の首長のことです。

さて、秦時代の中原で秦始皇に儒家(ガド族)が駆逐された時、この儒家達は高度な青銅器文明を伴って、当時半島北部に拠点を構えていた公孫氏(イッサカル族)やゼブルン族と共に、半島経由で、対馬の茅生湾岸に流れ着き、当地を中東での彼等の故地タッガーマのハランに因んで「高天原」と名付けました。その際には、東表国の中臣氏は彼等に、博多湾岸の糸島から吉武の辺りをその拠点として提供しました。また、辰韓(秦韓)から秦始皇の末裔が移動して来た際には、奴国として一般に知られている博多湾岸の丘陵地帯を与えました。この秦始皇の末裔達は、この丘陵地帯から、当時は大きな遠浅の湾となっていた現在の佐賀平野へと領域を広げました。吉野ヶ里はその代表的な遺跡と考えた方がいいのだそうです。

註:ずっと後の応神天皇の時代になって、融通王(=弓月王=ユズ王=イエス)を始祖とするかの有名な秦氏を百済経由で、五胡十六国時代の秦から列島内に招き入れたのは、この新羅系秦氏でした。秦氏の活動ネットワークは要するに、新羅系秦氏の列島移入後もずっと、東洋全体やユーラシア全体を網羅し続けていたわけです。考えてみたら、それこそユダヤ人ということなのですから、当たり前といえば当たり前です。

ガド族とイッサカル族、ゼブルン族の一団はある時、この新羅系秦氏に圧迫されて、糸島から吉武にかけての地域に留まっていられなくなりました。この時も東表国の中臣氏は彼等に、根の国や周防、葛城、三輪、伊勢などの逃げ場を次々と与えます。

最初博多湾岸から佐賀平野にかけての一体に定着していた新羅系秦氏も、更にその後に、糸島に侵入してきた邪馬臺国の勢力に追われて当地にいられなくなりました。その時にも、中臣氏は彼等に、ガド族の時と同じように、周防や三輪、山代などの逃げ場を与えました。

これら一連の動きの最終的な結果は、次のようなもの。即ち、現在「近畿」と呼ばれている地域に秦氏の秦王国、三輪に三輪氏(イッサカル族)、伊勢や紀伊にはガド族がそれぞれの拠点を確保する(秦氏に「近畿」進出で再度駆逐された)というものでした。これが、崇神天皇=百済近尚古王及び卑弥呼の時代における九州の邪馬臺国勢力の「近畿」進出と大邪馬臺建国へと至る直前の状況となっていたのでした。

因みに「神武天皇」(実際は崇神天皇=百済近尚古王)を九州から「近畿」へと道案内した海部氏とは、この中臣氏の王族の一派に与えられた別称です。中臣氏は、圧迫される以前は邪馬臺国勢力すら、列島内に歓迎する動きを見せていたということになる訳です。

註:海部氏と尾張氏は同族で、崇神天皇による丹波と尾張の侵略が成った際、崇神天皇によって現地統治者としてそれぞれ丹波と尾張に派遣されたのがその由来のようです。海部氏の起源は最も奥まで探れば丹波の籠神社となるというわけではないのです。九州北東部の東表国王家が列島内におけるその起源だからです。彼等が列島最古の家系であるというのはまさに、この意味において以外の何物でもありません。

註:今述べた秦王国の首長も大国主です(要するに「大国主」とは中原の秦に由来する部族の長に着けられる呼称だったのです)。北九州物部氏の大国主は、この秦王国が博多湾岸に入って来た時にそれに糾合され、丹波出雲物部氏の大国主は、この秦王国が山代に移動してきた際にそれに糾合されたということなのでしょう。九州熊本物部氏のニギハヤヒ(=大物主)によるウラルトゥ王家(=百済王家)への恭順や、山代物部氏及び秦氏が戴く大国主による「神武」こと崇神への恭順が、まるでひとつの出来事のように後者に一方的に纏められ、古事記に採録されたというのが、所謂「国譲り」の実態なのでしょう。ということは、国譲りとは結局は即ち、ウラルトゥ王家にバクトリア王家が、或いは趙王家に秦王家が、この列島内で国譲りしたことを意味することになります。それを象徴するのが、山陰出雲大社のスサノオ及び大国主と、伊勢内宮の天照大神の対比構造です。内宮天照大神(ウラルトゥ王家=百済王家の神)の側に、その食事の世話をするよう義務付けられていると言う外宮豊受大神(東表国=豊国の神)と、伊雑宮(=イザヤの宮)が配置されていることもまた、大邪馬臺建国の構図に対応していて非常に興味深い感じがします。


註:天照大神=アマテル大神。ウラルトゥ王国の初代王のことで、本来は男神。このアマテルを女神に変えたのは、新羅占領政府によって編纂された最初の日本書紀が、新羅占領政府の駆逐に成功した百済王家によって再編纂された時のこと。この再編纂に携わったのは百済王家=ウラルトゥ王家出身の道鏡。天照をアマテルではなくアマテラスと読むようになったことに至っては、何と、江戸時代のことで、本居宣長の読み間違いがその起源とのことです。ということは、神社を統括している側は、そのような間違いが何らかの理由で民衆の間から出て来た時に、それを間違いだと言って咎めるのではなく、寧ろ積極的に許容していることにもなります。何だかそら恐ろしい人達と感じるのですが、皆さんはどうでしょうか?

註:「近畿」は、従って、次のような順番で推移したことになります。(1)阿波忌部氏と、現地に古くから定着していた葛城氏や沖永氏の協力による、大和川や淀川、小椋池、桂川、木津川、宇治川、琵琶湖、紀ノ川など、「近畿」一帯の水系開拓。(2)丹波亀岡への物部氏の入植、開拓と、そこを拠点とした山代や「大和」盆地の山沿いの地域の大規模開拓。(3)ガド族の一派による「大和」盆地南東部への入植。(4)九州北西部を逐われた新羅系秦氏による山代や「大和」盆地への移入。ガド族の伊勢や紀伊への移動。(5)九州邪馬臺国の「近畿」への拡張と秦王国の縮小及び邪馬臺国への恭順。列島西部の丹波と吉備、北陸、尾張を九州と四国南部、近畿に加えた広い地域の連合体構築。(6)百済系秦氏の「近畿」移入と山代盆地の低湿地帯における大規模開拓。この氏族を中心とした大邪馬臺国の大規模な宗教改革。(7)邪馬臺国の「近畿」からの一時撤退。大邪馬臺国の崩壊。遊牧民族エフタルが北陸方面から侵入したことが原因か(継体朝)。(8)シメオン秦氏による継体朝の駆逐。秦王国の復興。(9)ペルシャ系凶奴=鉄勒の王族(漢氏)による高句麗、百済、邪馬臺国、秦王国連合結成。彼等は秦王国に新王統として招き入れられた。シメオン秦氏の旧王統は中臣氏の保護の元、関東の扶桑国に移動。(10)白村江の敗戦。新羅占領軍の進駐と大津京、難波京、藤原京、平城京の建設。ペルシャ系凶奴の王統の存続(後にシメオン秦氏改め藤原氏と百済王家の合体した桓武王朝に入れ替わる)。日本国の成立。...以上です。まだまだ煮詰めていかなければいけない細部の多い、非常に荒削りな概観として理解してください。

次は半島。伽耶或いは加羅(狗邪韓国)は、金氏の王国という意味で中原の歴史書には金官伽耶として出てくる王国です。この地域を最初に統一した王として韓国の歴史書に登場してくる金首露(キムスロ)はまさに、東表国王海部知男命(あまべしるおのみこと)のことなのだそうです(首露と知男の音韻の共通性に注目)。この王の妃は、インドのアユダ国から商売で極東にまで出向いてきていた、江南に定着している一族として中原の歴史書にも記述がある、許氏の王女許黄玉(ホファンオク)でした(日本最古の王朝東表国が中東やインド、東南アジアに渡る非常に広い領域で活動していた海人勢力の東洋部門だったことをよく示すエピソードです)。この伽耶の金氏の分派が辰韓に移動して新羅王家となり、伽耶が滅びた後は旧伽耶王家の金氏は新羅の一貴族となります。この一族から後に、あの花郎軍団を統率して三韓統一を成し遂げた金庾信(キムユシン)が輩出されることになる訳です。

註:花郎(ファラン)軍団とは、7世紀にインドから流れてきたクシャトリアの傭兵軍団をグループ分けして新羅貴族の花郎達の元に郎徒(ナンド)として配置した軍団のこと。この花郎軍団の内、新羅占領政府の軍団として列島に進駐してきていた軍団は、新羅占領政府が近畿から駆逐された際には東北各地に逃れ、平安時代には衰退期の統一新羅から逃れてきた同族軍団を大規模に吸収して勢力を拡大することになります。この拡大した軍団が所謂「源氏」なのです。例えば、源氏の祖のひとりとして知られる源満仲は衰退期の統一新羅から流れてきた花郎軍団の長でした。

中原の戦国時代に趙国として栄えていた王朝は、秦によって中原を追われた後、半島の奇子朝鮮国(韓氏)と合併します。両者共にフェニキア人が東洋に建設した国だったからです。その後は更に、共に満州に移って扶余国を、次に、遠い同族であり、当時は丁度当地に拠点を構えていた、丹波出雲の徐福の一団の末裔=物部軍団とも合併し、九州熊本や半島南西部の馬韓に移動して百済(旧多羅)国を、最後は、北九州で南九州公孫氏(イッサカル族)の安羅国と婚姻関係を結んで、百済国をもその一部とする邪馬臺国を、それぞれ建国したウラルトゥ人の王国でした。この王国は列島最古の王朝である東表国建国と同時代に中東に覇権を打ち立てていた、東表国と同族の王国でした。にも拘らず、中東を追われ、東洋に移動し、この列島に至った際には、この東表国にそれ程の敬意を示さず、北九州の拠点から彼らを駆逐してしまいます。結果、蘇我や中臣は半島では伽耶で、或いは後には新羅で、金氏として歴史書に現れることになり、列島に残った者達は、分国から分国へと移動して各地に拠点を持つと共に、最後には関東の扶桑国にも大きな拠点を持つようになったという訳です。この列島に残された中臣の王国が、魏志倭人伝では、邪馬臺国と常に対立し合う「狗奴国」として登場することになるのです。この「狗奴国」は、列島内では邪馬臺国に圧迫されているとは言え、中東やインド、東南アジア、江南、琉球などの所謂海のシルクロードを管理する大きな海人勢力の極東での拠点管轄者の王国に当たる訳ですから、列島内でどんなに邪馬臺国に圧迫されようと、その活力そのものを失うことはなかったのです。

従って、「狗奴国」の中臣氏は、当初は列島西部一帯と半島南部や南東部、琉球、東海から関東までの極めて広い領域を支配し、邪馬臺国が現在「近畿」と呼ばれている地域にまで支配領域を広げた時には琉球と南九州、四国、紀伊半島南部、東海から関東までの地域をのみ支配していたということになります。

現在「近畿」と呼ばれている地域にあった秦氏の秦王国に隋唐の時代、漢氏(聖徳太子や天武天皇のペルシャ系匈奴の一族)が、反鮮卑、反隋唐の求心力として、新王統として迎え入れられた時には、シメオン秦氏の嫡流は、この関東の中臣氏の保護の元で鹿島神宮に移り住みました。

註:鹿島神宮を創建したのは、紀元1世紀に中東からインド経由で東北の十三湊に入り、伊勢で暫く活動した後で鹿島に入ったゼブルン族の一団だったそうです。その際にも中臣氏の援助があったと思われます。従って、鹿島にも中臣氏の痕跡が残るわけです。これは乗っ取りなどではありません。因みに、このゼブルン族の一団を、イエスの弟子のうちインド宣教を担当したことで有名なトマ或いはトマス=達磨(日本ではタツマと読むはずが何故か韓国語読みでダルマと読まれています)の一団のことだと主張する人達がいるし、トマとイエスの十字架刑直前のすり替えを信じている人達の中には、イエス自身が列島に来て余生を過ごし、列島で亡くなって、鹿島神宮や香取神宮に、列島での妻や弟子たちと共に、祭神として祀られているのだと主張する人達すらいます。

このシメオン秦氏系統からは後にあの不比等が出て、新羅日本府たる奈良王朝の中央政界で出世し、密かな反新羅運動、邪馬臺国復興運動を遂行することになります。その過程で、この不比等が、まずはガド族と婚姻して藤原氏を、次にこの藤原氏出身の光明子が百済王家の敬福と婚姻して生まれた4人の姫達がそれぞれ敬福の別の妻との間の4人の男子(あの道鏡もそのひとり。道鏡が弓削道鏡とも呼ばれ、弓削=物部の一派の血筋として理解されるのは、百済王家の中に物部氏の血が重要な要素として入っているからに違いありません)と婚姻して、その中から桓武平安王朝が創設されることになる訳です。

註:新羅の王族金氏は、列島内の中臣氏の同族でした。この中臣氏の保護を受けた旧秦王国の王族たる不比等は、新羅の占領政策上、新羅の占領政府側からは非常に都合のいい存在と考えられていました。持統天皇=鵜野皇女は河内地方に拠点を構えていた新羅系一族出身の女性ですが、この持統天皇の引き立てで不比等が突然重職に抜擢された背景には、そのような新羅占領政府側の思惑があったわけです。

註:善徳女王の時、新羅で、ヒッタイト系の金氏(蘇我氏の同族)とエブス系の金氏(中臣氏の同族)間の権力闘争が起こり、前者金比曇(キムピダム)が後者金庾信(キムユシン)に誅伐されるということがありました(比曇の乱)。この金庾信は列島占領初期に列島で司令官を務めていた人です。この金庾信の後を受けて二代目の司令官になったのは郭務悰(カクムソウ)という名前の百済人でした。百済復興政府が唐軍に投降した後、旧百済地方の安定統治のために唐によって抜擢された、レビ族出身の百済の将軍でした。不比等は中央政界に進出する際にこの郭務悰の養子となり、郭務悰と讃岐のレビ族の娘の間にできた子を自分の子として下賜されています(藤原北家の起源)。「中臣鎌足」とは、不比等の父親として文献上で創作された架空の人物で、その事績として知られているものは全て、これら二人の占領司令官の事績を総合し、仮託したものでしかなかったようです。金庾信は列島の中臣氏の同族ですから、例えば、善徳女王統治下における金庾信による金比曇の誅伐は当然、斉明天皇の御前における中臣鎌足による蘇我入鹿誅伐ということになってしまうし、蹴鞠の会をきっかけに金庾信が金春秋(キムチュンチュ)と懇意になり、妹を金春秋に嫁がせたも、蹴鞠の会をきっかけに中臣鎌足が中大兄皇子と懇意になったということになる訳です。新羅占領政府による邪馬臺国や秦王国、安羅国、東表国の歴史抹殺の際に行われた日本国の歴史捏造は、今述べた二つの例を見て分かるように、新羅の歴史を登場人物の名を日本にいる同族の倭名に変えた上でそのまま移入するといった遣り方で行われた訳です。

唐と新羅によって百済が滅ぼされ、列島の諸王朝も一括して日本国という名称の新羅の属国になった時、その支配下でうまく立ち回りつつ、かつては敵対していた百済王家とも密かに合併することによって、更には、新羅や唐の勧める仏教とも習合させる形で日本建国以前の列島の古い信仰の全てを統合し、八幡信仰という新しい宗教をも創り出すことによって、新羅占領統治下における倭国人の密かな大同団結を画策し、新羅占領政府からの邪馬臺国独立の足固めを密かに進めていったのは、上に述べたような背景を持つ中臣氏に保護された、シメオン秦氏の復興勢力だったのです。この独立が実質的に完成したのは、日本国政府から藤原南家の仲麻呂(恵美押勝)によって新羅親派の貴族達が処刑或いは流刑という形で一掃された(大伴氏や賀茂氏、多治比氏、小野氏の名がその中に見られます)橘奈良麻呂の乱の時だったそうです。

註:残っているのは、琉球と北陸、東北、関東扶桑国です。平氏や平家、平将門、藤原純友の正体も、その過程で認識されなければいけません。

引用以上。