縄文時代という名称の統一的な時代はこの列島には実は、存在しませんでした。農耕を中心とした弥生文化伝播以前の時代に東はオロッコ(オロチョン)とツングース(アイヌ)、イヌイット、西は海洋部族港川人とアエタ族がそれぞれ、何故かほとんど混合することもなく、極少数分布しているだけでした。「東では、例えば三内丸山遺跡(さんだいまるやまいせき)などを見れば分かるように『意外に』あるいは『比較的』大規模な人口だった」と言う人もいるようですが、それでも弥生時代以降の人口に比べたらほぼ、なきに等しい規模のものでしかなかった、と判断する方が妥当なようです(そもそも、三内丸山遺跡を大規模な集落と判断することすら、考古学上の単なるミスからくる誤解だという非常に有力な説を唱える人すらいます)。ましてや「縄文」遺跡や「縄文」土器のほとんど見つかっていない西に関しては尚更です(見つかっているものも、東日本のそれとはほとんど共通点がない)。要するに、一般に「縄文人」と呼ばれる人々は、列島では実際は、雑多で統一性のない、血統も文化も互いに異なる、幾つかの極少数の部族でしかなかったという訳です。
註:「縄文」土器はむしろ、遠くボルネオや南米エクアドルで見つかっています。これは一体何を意味するのでしょうか?「縄文」文化圏の中心は列島にではなく東南アジアのある場所にあって、列島東部はかつてその文化圏の周辺部にあった。列島西部はその中にはなかった。「縄文」文化圏は東南アジアのある場所を中心とする比較的広い範囲を網羅した、アフリカ外では最古の文明圏であり、シュメール文明も揚子江流域の古代文明も、インダス文明やエジプト文明、ミノス文明、黄河文明、マヤ文明も、世界中の古代文明圏は全て、この文明圏の分国として始まった。こういうことだったのではないのでしょうか?
註:インダス川上流にも、この「縄文」文明圏に並ぶ、遊牧民由来の「ナマヅカ」という名称の、世界最古の文明圏があり、上述したような東南アジアの「縄文」文化とも密接な連繋を持っていたようです。この辺りの古代史の統一的な記述は、今後の課題としてここでは保留しておきます。ただ、列島に何故、シュメールの痕跡があるのか?東洋に、更には半島や列島にイスラエルやユダヤが、何故にあれ程大規模に集まってきたのか?ヒッタイトやエブスが何故、列島から半島、中原にかけての最古の王朝(殷王朝)を打ち立てることになったのか?近代欧米列強は東洋の中で日本だけを何故、いい意味でも悪い意味でも特別扱いしてきたのか?...... 列島の歴史は、この辺りから理解しないことには絶対に正確な記述にはならない。今はこのような予想を示唆するに留めておきたいと思います。
そんな彼らをひとまとめにしてひとつの名称で呼び、それとは比べ物にならないくらいに統一的で大規模な後の別の時代の人々と概念として並立したりすれば当然そこに、ひとつの極めて深刻な誤解が生じてしまうはずです。
例えば、あの梅原猛氏が「狩猟採集民アイヌ」としてその重要性を盛んに強調している部族は、実際は、上に述べた幾つかの部族の内東にのみ分布していた部族のことであり、しかもそのほんの一部でしかなかったのです。そんな小さな部族の思想が何十億にも上る現代の人類の次代の中心的な思想にならなければならないなどと聞けば、いかにも梅原氏らしい斬新なアイデアと言いたくなってきますが、アイヌ的な農業だとか、アイヌ的な工業、アイヌ的な科学技術、などと具体的にイメージして行った時に、それらが本当にリアリティを含んでいるとは、私にはどうしても思えないのです。この梅原氏の論などは、縄文を概念上間違えて弥生に並立させて考えてしまったことから知らない内に紛れ込む概念変質の、典型的な所産のひとつと言えそうです。
列島には、一般に考えられているような意味での縄文人などいなかった。アイヌは弥生以前に列島東部にごく少数しか分布していない小規模な狩猟採集民に過ぎなかった。実体のない「縄文」にまるで実体があるかのように誤解した上で、必ずしも縄文全体を代表している訳ではないアイヌを持ってきて、これを「縄文」の代表であるかのように扱うなんて、そんなこと絶対にできない。...... これらの点を考慮に入れさえすれば「縄文(アイヌ)の思想に帰れ」という梅原氏の主張に無理があることは、誰の目にも明らかなはずです。
ただ、それでも敢えて、もし仮に「アイヌ的なものには、一見マイナーな文化には見えるが実は現代の文明の病気を癒すヒントが隠れているのだ」と主張することにある程度の意義があることを認めた場合はどうなるでしょうか?その場合でも、少なくとも「縄文の思想に」を「少数部族アイヌの思想に」に書き換えた上で論を展開する必要が出てくる。これは明らかです。
その際、「アイヌ的な思想」と梅原氏が称しているものは本当にアイヌ的なのか?他の地域に、他の時代に、同じ思想を持って生活していた人々が本当にいなかったのか?いや寧ろ、ほとんどの地域、ほとんどの時代で、それは普通に見られたものだったのではないか?...... これらの疑問を解決するための調査の必要性も、まずは強く意識されなければならなくなることでしょう。
ところで、ここで言う梅原氏の説とは、自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化を営んできた縄文人(アイヌ人)。彼らは偉大だった。自然を人間存在の資源としかみなさず、自然からの一方的な略奪の意志にのみ貫かれた近現代ヨーロッパ文明。その破綻が最早、覆い隠すことのできないようなレベルにまで至ってしまった今となっては、上のような縄文人(アイヌ人)の優れた知恵を原理としてその中心に据えた、全く新しいタイプの現代文明への移行を急ぐ必要がある。...... このような説です。
「自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化」はしかし、実は、アイヌの狩猟採集文化に限定することのできないものです。寧ろ、農耕文化一般との繋がりの方が遥かに緊密と言っていいような、そんな内容になっています。例えば、日本の伝統的な農耕文化はまさに、その典型と言えそうです。こう言うと「縄文と融合したから日本だけはそのような特殊な農耕文化になったのだ」などという反論が飛んできそうですが、それは違います。伝統的な農耕文化は、一部の異常な農耕文明を除いてほとんど全てが「自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化」となっているのが実際なのです。その例はそれこそ、枚挙に暇がないくらい沢山確認できます。
それにしても百歩譲って、この部族の現存在が十分に大規模なものであった。次代の弥生人と並立して語ることが許されるくらいのものだったと仮定してみてみましょう。その場合でも、それはそれでまた梅原の説には、別の盲点が明確に指摘できるのです。
梅原が大いに評価し、自らの思想を大きく依拠させているところのこの部族は、比較的恵まれた森林環境で狩猟採集生活を行うことができた部族でした。所謂「略奪」に走らずに済んだ部族だったのです。一方、同じ狩猟民でも、中央アジアの乾燥した草原地帯で狩猟採集生活を営んでいた部族は、血縁上もアイヌと同族のツングースと考えられるにも拘らず
註:狩猟採集民は農耕民とは違って本質的に、定着する部族ではなく、常に移動する部族だったので、ユーラシア北部のステップ地帯を通行経路にしてほぼ同一の部族が世界中に分散して行ったし、分散した後も移動をやめることなく、互いに盛んに連携しあっていたと考えた方がいいようです。
アイヌとは違って、アイヌが生活の場としていたかの森林地帯より遥かに資源の乏しい環境で狩猟採集生活を営まねばならなかったのです。そのせいか、ある地域で資源を取り尽くしては次の地域に移るという略奪的な生活に移行せざるを得なかった。あるいは、やはりその本質上どうしても略奪的にならざるを得ない遊牧生活に移行せざるを得なかった。「近代ヨーロッパ」と称する略奪的な文明の起源は、梅原によれば、農耕文明一般ということになり(弥生文化やそれを淵源とする日本の伝統的な農耕文化もそれに含まれる)、それを捨て去った上で縄文の思想を新しい文明の中心に据えるというのが彼の主張の骨子となるようですが、事は実はそれ程単純ではなかった訳です。そうではなくて、「近代ヨーロッパ」と称する略奪的な文明の起源は、実はこの、資源の乏しい草原地帯の狩猟採集文化にあったのです。
農耕文化はそもそも、収穫しては育てるという再生産システムが基本にあります。これに異を唱える人は流石に、一人もいないでしょう。ここで、このことを考慮に入れて考えれば誰にでも十分に理解できるように、本来は収奪的などとは言えないはずなのです。これが西方で収奪的になったのは、中央アジアの草原地帯由来の収奪的な狩猟採集民がその収奪の矛先をあちこちの農耕定着民に向け、農耕民を家畜として自らの支配下においた新しいタイプの収奪的な農耕文明を構築して以来のことになるでしょう。梅原にはこれが見えていない。そのため、農耕そのものを諸悪の根源とみなす重大な間違いを犯してしまっている。
自然と人間の調和においてモデルケースとしなければならないのは、豊かな森の狩猟採集民たるアイヌの文化ではないのです。なぜなら彼らも、豊かな森を奪われていたならば、中央アジアの同族と同じように収奪的にならざるを得なかったはずなのですから。また、自然環境の豊かさを背景とした文化を自然環境の豊かでない地域の人々が受け入れるなど、それこそ無理難題というものでしょう。それに対して、自然に改良の手を加え豊かなものに育て上げてからそこで調和した農耕生活を営む。それ故に、いかなる収奪も行わないで済む。そんな本来の農耕文化の方は、それこそがかのモデルケースとならなければならないはずでしょう。例えば「里山」というものを例として挙げれば日本人の誰もが的確に想起できるようなタイプの、そんな穏やかなイメージの農耕文化です。全くの無垢な自然よりも人の継続的な管理の行き届いた里山の自然の方が遥かに生物多様性が維持できていると主張する生態学者すら少なからず存在していることも同時に想起しなくてはならないでしょう。
梅原氏の縄文崇拝やアイヌ崇拝に含まれるトリックには絶対に、引っかかってはいけない。そうでないと、とんでもない間違いが起こってしまう。私はこのように考えています。
註:縄文崇拝は梅原氏以外でも、かなり多くの有名人が表明しています。例えばこの間、NHKで、中沢新一氏が、富士山と日本人との関わりを表す事象を「縄文」時代から順番に報告し、日本人にとって富士山がいかに重要な山であり続けてきたかを伝えるという内容のドキュメンタリー番組が放映されていました。その中で、富士山周辺に点在する13000年前や4000年前の縄文遺跡が富士山を基準に据えた構造を備えていることを紹介した上で、2300年前に創建されたと伝えられ、後の8世紀の社殿建築の試みを拒絶したという象徴的な伝承も持っている、富士山そのものをご神体として今だに社殿を全く持たないでいるある由緒正しい神社を、それら縄文以来の伝統を受け継ぎつつ、それらが共通して持っている信仰の形を最も典型的に保持しているものとして分析する場面が紹介されていました。私の目から見たら、余りにも大雑把な、許されざる同一視に感じられたのですが、このような同一視こそ、縄文時代に対する一般的な扱い方の典型例になっているのではないでしょうか?「縄文」時代のこのような扱い方から抜け出さない限り、広く一般にもたらされた思考停止を払拭して、洞察すべき事実の大規模な隠蔽を打ち壊す、などといったことは絶対にできない。私にはそう思われてなりません。
註:「縄文」土器はむしろ、遠くボルネオや南米エクアドルで見つかっています。これは一体何を意味するのでしょうか?「縄文」文化圏の中心は列島にではなく東南アジアのある場所にあって、列島東部はかつてその文化圏の周辺部にあった。列島西部はその中にはなかった。「縄文」文化圏は東南アジアのある場所を中心とする比較的広い範囲を網羅した、アフリカ外では最古の文明圏であり、シュメール文明も揚子江流域の古代文明も、インダス文明やエジプト文明、ミノス文明、黄河文明、マヤ文明も、世界中の古代文明圏は全て、この文明圏の分国として始まった。こういうことだったのではないのでしょうか?
註:インダス川上流にも、この「縄文」文明圏に並ぶ、遊牧民由来の「ナマヅカ」という名称の、世界最古の文明圏があり、上述したような東南アジアの「縄文」文化とも密接な連繋を持っていたようです。この辺りの古代史の統一的な記述は、今後の課題としてここでは保留しておきます。ただ、列島に何故、シュメールの痕跡があるのか?東洋に、更には半島や列島にイスラエルやユダヤが、何故にあれ程大規模に集まってきたのか?ヒッタイトやエブスが何故、列島から半島、中原にかけての最古の王朝(殷王朝)を打ち立てることになったのか?近代欧米列強は東洋の中で日本だけを何故、いい意味でも悪い意味でも特別扱いしてきたのか?...... 列島の歴史は、この辺りから理解しないことには絶対に正確な記述にはならない。今はこのような予想を示唆するに留めておきたいと思います。
そんな彼らをひとまとめにしてひとつの名称で呼び、それとは比べ物にならないくらいに統一的で大規模な後の別の時代の人々と概念として並立したりすれば当然そこに、ひとつの極めて深刻な誤解が生じてしまうはずです。
例えば、あの梅原猛氏が「狩猟採集民アイヌ」としてその重要性を盛んに強調している部族は、実際は、上に述べた幾つかの部族の内東にのみ分布していた部族のことであり、しかもそのほんの一部でしかなかったのです。そんな小さな部族の思想が何十億にも上る現代の人類の次代の中心的な思想にならなければならないなどと聞けば、いかにも梅原氏らしい斬新なアイデアと言いたくなってきますが、アイヌ的な農業だとか、アイヌ的な工業、アイヌ的な科学技術、などと具体的にイメージして行った時に、それらが本当にリアリティを含んでいるとは、私にはどうしても思えないのです。この梅原氏の論などは、縄文を概念上間違えて弥生に並立させて考えてしまったことから知らない内に紛れ込む概念変質の、典型的な所産のひとつと言えそうです。
列島には、一般に考えられているような意味での縄文人などいなかった。アイヌは弥生以前に列島東部にごく少数しか分布していない小規模な狩猟採集民に過ぎなかった。実体のない「縄文」にまるで実体があるかのように誤解した上で、必ずしも縄文全体を代表している訳ではないアイヌを持ってきて、これを「縄文」の代表であるかのように扱うなんて、そんなこと絶対にできない。...... これらの点を考慮に入れさえすれば「縄文(アイヌ)の思想に帰れ」という梅原氏の主張に無理があることは、誰の目にも明らかなはずです。
ただ、それでも敢えて、もし仮に「アイヌ的なものには、一見マイナーな文化には見えるが実は現代の文明の病気を癒すヒントが隠れているのだ」と主張することにある程度の意義があることを認めた場合はどうなるでしょうか?その場合でも、少なくとも「縄文の思想に」を「少数部族アイヌの思想に」に書き換えた上で論を展開する必要が出てくる。これは明らかです。
その際、「アイヌ的な思想」と梅原氏が称しているものは本当にアイヌ的なのか?他の地域に、他の時代に、同じ思想を持って生活していた人々が本当にいなかったのか?いや寧ろ、ほとんどの地域、ほとんどの時代で、それは普通に見られたものだったのではないか?...... これらの疑問を解決するための調査の必要性も、まずは強く意識されなければならなくなることでしょう。
ところで、ここで言う梅原氏の説とは、自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化を営んできた縄文人(アイヌ人)。彼らは偉大だった。自然を人間存在の資源としかみなさず、自然からの一方的な略奪の意志にのみ貫かれた近現代ヨーロッパ文明。その破綻が最早、覆い隠すことのできないようなレベルにまで至ってしまった今となっては、上のような縄文人(アイヌ人)の優れた知恵を原理としてその中心に据えた、全く新しいタイプの現代文明への移行を急ぐ必要がある。...... このような説です。
「自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化」はしかし、実は、アイヌの狩猟採集文化に限定することのできないものです。寧ろ、農耕文化一般との繋がりの方が遥かに緊密と言っていいような、そんな内容になっています。例えば、日本の伝統的な農耕文化はまさに、その典型と言えそうです。こう言うと「縄文と融合したから日本だけはそのような特殊な農耕文化になったのだ」などという反論が飛んできそうですが、それは違います。伝統的な農耕文化は、一部の異常な農耕文明を除いてほとんど全てが「自然を人間と同格の、再生がその本質となっている一種の他者として敬い、その自然との調和を人間本来の義務と捉える、そんな感覚に徹頭徹尾貫かれた文化」となっているのが実際なのです。その例はそれこそ、枚挙に暇がないくらい沢山確認できます。
それにしても百歩譲って、この部族の現存在が十分に大規模なものであった。次代の弥生人と並立して語ることが許されるくらいのものだったと仮定してみてみましょう。その場合でも、それはそれでまた梅原の説には、別の盲点が明確に指摘できるのです。
梅原が大いに評価し、自らの思想を大きく依拠させているところのこの部族は、比較的恵まれた森林環境で狩猟採集生活を行うことができた部族でした。所謂「略奪」に走らずに済んだ部族だったのです。一方、同じ狩猟民でも、中央アジアの乾燥した草原地帯で狩猟採集生活を営んでいた部族は、血縁上もアイヌと同族のツングースと考えられるにも拘らず
註:狩猟採集民は農耕民とは違って本質的に、定着する部族ではなく、常に移動する部族だったので、ユーラシア北部のステップ地帯を通行経路にしてほぼ同一の部族が世界中に分散して行ったし、分散した後も移動をやめることなく、互いに盛んに連携しあっていたと考えた方がいいようです。
アイヌとは違って、アイヌが生活の場としていたかの森林地帯より遥かに資源の乏しい環境で狩猟採集生活を営まねばならなかったのです。そのせいか、ある地域で資源を取り尽くしては次の地域に移るという略奪的な生活に移行せざるを得なかった。あるいは、やはりその本質上どうしても略奪的にならざるを得ない遊牧生活に移行せざるを得なかった。「近代ヨーロッパ」と称する略奪的な文明の起源は、梅原によれば、農耕文明一般ということになり(弥生文化やそれを淵源とする日本の伝統的な農耕文化もそれに含まれる)、それを捨て去った上で縄文の思想を新しい文明の中心に据えるというのが彼の主張の骨子となるようですが、事は実はそれ程単純ではなかった訳です。そうではなくて、「近代ヨーロッパ」と称する略奪的な文明の起源は、実はこの、資源の乏しい草原地帯の狩猟採集文化にあったのです。
農耕文化はそもそも、収穫しては育てるという再生産システムが基本にあります。これに異を唱える人は流石に、一人もいないでしょう。ここで、このことを考慮に入れて考えれば誰にでも十分に理解できるように、本来は収奪的などとは言えないはずなのです。これが西方で収奪的になったのは、中央アジアの草原地帯由来の収奪的な狩猟採集民がその収奪の矛先をあちこちの農耕定着民に向け、農耕民を家畜として自らの支配下においた新しいタイプの収奪的な農耕文明を構築して以来のことになるでしょう。梅原にはこれが見えていない。そのため、農耕そのものを諸悪の根源とみなす重大な間違いを犯してしまっている。
自然と人間の調和においてモデルケースとしなければならないのは、豊かな森の狩猟採集民たるアイヌの文化ではないのです。なぜなら彼らも、豊かな森を奪われていたならば、中央アジアの同族と同じように収奪的にならざるを得なかったはずなのですから。また、自然環境の豊かさを背景とした文化を自然環境の豊かでない地域の人々が受け入れるなど、それこそ無理難題というものでしょう。それに対して、自然に改良の手を加え豊かなものに育て上げてからそこで調和した農耕生活を営む。それ故に、いかなる収奪も行わないで済む。そんな本来の農耕文化の方は、それこそがかのモデルケースとならなければならないはずでしょう。例えば「里山」というものを例として挙げれば日本人の誰もが的確に想起できるようなタイプの、そんな穏やかなイメージの農耕文化です。全くの無垢な自然よりも人の継続的な管理の行き届いた里山の自然の方が遥かに生物多様性が維持できていると主張する生態学者すら少なからず存在していることも同時に想起しなくてはならないでしょう。
梅原氏の縄文崇拝やアイヌ崇拝に含まれるトリックには絶対に、引っかかってはいけない。そうでないと、とんでもない間違いが起こってしまう。私はこのように考えています。
註:縄文崇拝は梅原氏以外でも、かなり多くの有名人が表明しています。例えばこの間、NHKで、中沢新一氏が、富士山と日本人との関わりを表す事象を「縄文」時代から順番に報告し、日本人にとって富士山がいかに重要な山であり続けてきたかを伝えるという内容のドキュメンタリー番組が放映されていました。その中で、富士山周辺に点在する13000年前や4000年前の縄文遺跡が富士山を基準に据えた構造を備えていることを紹介した上で、2300年前に創建されたと伝えられ、後の8世紀の社殿建築の試みを拒絶したという象徴的な伝承も持っている、富士山そのものをご神体として今だに社殿を全く持たないでいるある由緒正しい神社を、それら縄文以来の伝統を受け継ぎつつ、それらが共通して持っている信仰の形を最も典型的に保持しているものとして分析する場面が紹介されていました。私の目から見たら、余りにも大雑把な、許されざる同一視に感じられたのですが、このような同一視こそ、縄文時代に対する一般的な扱い方の典型例になっているのではないでしょうか?「縄文」時代のこのような扱い方から抜け出さない限り、広く一般にもたらされた思考停止を払拭して、洞察すべき事実の大規模な隠蔽を打ち壊す、などといったことは絶対にできない。私にはそう思われてなりません。