飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

もうひとつの賀茂氏

2013-01-02 14:40:39 | 日本論と宗教論
初めにロゴスありき。

これは『ヨハネの福音書』の冒頭に書かれた、非常に有名な言葉です。イエス=キリストの福音をヨーロッパ世界に伝えるために、ストア派の用語である「ロゴス(理法あるいは理性、言葉)」を用いてイエス=キリストのことを言い表したのだろうと言われています。このロゴスという言葉はギリシア語であり、従って、ヨーロッパのキリスト教会のものなのです。ユダヤ人である原始イエス教団のものではなかったはずです。

イエスの死の直後、エルサレムで「イスラエルの家の失われた羊への宣教」を使命として、イスラエル人として、また模範的なユダヤ人として活動していたのが、原始イエス教団です。対して、復活したイエスによる所謂「大宣教命令」を使命として「パリサイ人サウロ」改め「使徒パウロ」を中心に、アンティオキアというシリアの町で、後には西方の地中海世界で広く活動したのが、ヨーロッパのキリスト教会です。「キリスト教」と聞いて現代の普通の日本人が頭に思い描くのはこのヨーロッパのキリスト教のことですが、イエスの教えは実は「イスラエルの家の失われた羊」ーー「ヘブルの家の」とも「ユダヤの家の」ともなっていないことに注意ーーを最優先対象に想定するよう義務付けられたものでした。「ヘブルやイスラエル、ユダヤによる秦氏と天皇家を中心としたヤマト建国および日本建国」が問題となる時、この区別がまず念頭になければならないのです。ユダヤ人原始イエス教徒の集団が列島に招き入れられることでヤマト国中のヘブルやイスラエルが原始イエス教徒となり、ヤマト国が原始イエス教徒の国に生まれ変わり、後の日本国の基礎ができたからです。このことを理解しようとする時にユダヤ人だとか原始イエス教と聞いて現在の所謂「ユダヤ人」(偽物が「ユダヤ」と偽り利用しているにすぎない)やヨーロッパのキリスト教を思い浮かべてしまうと、それらをヤマト国や日本国の建国に結びつけることなど陳腐に感じられて先に進めなくなるからです。

ユダヤもイスラエルも「キリスト教」も、実は、本物はこの日本に保存されています。本物を保存するために、あるいは「日本国民」を能率よく自らの新しい食い物に加えるために、日本建国時あるいは明治、戦前、戦後期に、其々に内外から幾つかの隠れた集団が巧妙な仕掛けを施したことから、私達には分からなくなっているだけというのが実情だったのです。その封印が何かの理由で、これまた恐らくは新しい仕掛けを伴いながら、解かれようとしている。今はそういう特別な時代なのだ。このように多くの人が、騒ぎ始めている訳です。

参考:わたしが遣わされるのはイスラエルの家の失われた羊の所であって、それ以外のだれの所でもないというのが、天の父の言葉でした(『マタイによる福音書』第15章24節)

参考:イエスはこの十二人を遣わすに当り、彼らに命じて言われた。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊の所に行け」と(『マタイによる福音書』第10章5~6節)

註:「ロゴス」に対応するヘブル語はなかったようです。小アジアのエフェソスで「主の愛し給ふ弟子のひとり」が 紀元後90年頃までにコイネーギリシア語で纏めた特殊な福音書。これが所謂『ヨハネの福音書』でした。他の三つの福音書は特殊でなく、互に「共観」し合っているように感じられるために「共観福音書」と呼ばれ、この『ヨハネの福音書』からわざわざ区別されるくらいです。

註:「ヨーロッパ」と「アジア」の語源はアラム語の「エレブ(入る)」と「アス(出る)」です。「ヨーロッパ」も「アジア」も、日の入りと日の出の方向を言い表すための手段としたものが起源だったのです。この枠組みを行い世界中に流布させた、アラム語を喋る人達とは何者かもまた、調べなくてはなりません。さらには、興味深いことに、これが列島にも伝わり、「西表(いりおもて)」や「東(吾妻[あずま])」などの言葉の中に残っているようです。

ロゴスはこのようにヨーロッパのキリスト教会の言葉ですから、あの一言主の神話も、もしこの一言主がロゴスのことを表しているなら、原始イエス教と秦氏の神話などではなく、景教と忌部氏の神話となっていなければならないことになります。

参考:一言主の神話:雄略天皇4年(西暦460年)雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行った時、紅紐付きの青摺の衣を着るなど、天皇一行と全く同じ恰好をした一行が、向かいの尾根を歩いていた。雄略天皇がその人に名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢の他、官吏たちの着ている衣服を脱がせて一言主に差し上げた。一言主はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。(『古事記』)

ロゴスのことを意味する一言主の神話が景教と忌部氏の神話でなければならないはずだと私が言う理由は、そもそも、北イスラエル滅亡直後の紀元前7世紀に預言者イザヤに率いられて南ユダヤを脱出し、海路インド洋や南シナ海を抜けて四国の阿波に入ったレビ人の集団が阿波忌部氏であり、その阿波忌部氏が、紀元後8世紀末にあの空海を唐に派遣して、彼によって景教を、密教と共に唐から高野山に導き入れ、それを、秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、即ち、自らの祭祀族としての地位をヤマト建国以来(日本建国以降は特に)圧迫し続けてきた秦氏や中臣氏、藤原氏の原始イエス教団に対抗するための、思想的基盤としたと推定されるからです。この時の忌部氏の思惑は例えば、次のように表現できるのかもしれません。

「秦氏や中臣氏、藤原氏がイエス=メシアに対する祭祀から我々忌部氏をジワジワと追い出してきたことに我慢ならない。我々も偉大なる預言者イザヤとそれを中核とする祭祀集団の流れを直接受け継ぐ由緒正しき氏族なのだ。こんな扱いは絶対に不当だ。こうなった以上は、ヨーロッパから伝わったもうひとつのイエス教、景教を列島での我々独自のものとして受け入れ、彼等のものとよく似てはいるがあくまでも別枠として機能する国家秩序を、我々の祭祀を中核に確立してしまおう。そうやって彼等に対抗しよう」。

註:景教とは、5世紀に出てきて異端宣告を受け、ヨーロッパから追放されて東方に拠点を移した、ネストリウス派のキリスト教会の8世紀以降の極東での呼び名です。

秦氏と原始イエス教団が忌部氏を圧迫したことは、例えば『古事記』の「国譲り」神話の中にも見て取ることができます。「国譲り」神話とは、要約すると、次のようになります。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)などの高天原(たかまのはら)の神々(天津神[あまつかみ])は「葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫なのだ」と主張し、何人かの神を出雲に遣わし交渉するが、当然ながら事がすんなりと収まるはずもなかった。ところが、最後に建御雷(たけみかづち)を派遣すると、大國主の子である事代主(ことしろぬし)と建御名方(たけみなかた)は屈服し、大国主も自身の宮殿建設を条件にして国を譲ることになった。

これが『古事記』の所謂「国譲り」のあらすじですが、この有名な逸話において私は、実は、

(1)事代主=一言主=葛城の賀茂氏(阿波忌部氏の裏天皇組織)が信奉

(2)建御名方=東表国の海人族である宗像氏と何らかの関係がある=諏訪大社のその時以来の主祭神

(3)建御雷=建角身あるいは別雷=山背の賀茂氏(秦氏の裏天皇組織)が信奉

という等式を想定し、そこから山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏、あるいは山背の秦氏と阿波の忌部氏の関係が読み取れるのではないかと予想しているのです。詳細はこの記事の、これ以降の論述で明らかにしていきます。

話を元に戻しましょう。上述の如く一言主の神話は景教や忌部氏のものでないといけないはずです。なのに、この一言主は実際は高鴨とも称され、葛城の賀茂氏の祀る神となってしまっているのです。賀茂氏と言えば、山背の下上賀茂神社の賀茂氏が直ぐに念頭に浮かんできます。この賀茂氏は、私のこれまでの説ではまさに、原始イエス教団としての秦氏や中臣氏、藤原氏の中核に位置する氏族だったはずです。熊野の山中での神武先導直後に葛城の賀茂氏が移住し定住したのがこの山背の賀茂氏であるとの伝承がありますが(『山城国風土記』逸文)、この伝承に従う限り葛城の賀茂氏も、賀茂氏である以上、山背の賀茂氏と同様に、ユダヤ人原始イエス教徒である秦氏や中臣氏、藤原氏の中核氏族となるはずです。しかしこれでは、彼等を列島における改宗景教徒とする上記の、恐らくは正しい推定に対して、真っ向から対立してしまうことになってしまいます。この矛盾はどう考えたらいいのでしょうか?

実は、この伝承に真っ向から対立しているように見える伝承があるのです。「山背の賀茂氏は天神系で、地祇系の賀茂氏とは異なる氏族である。賀茂というのはある特殊な理由から特定の氏族に限らずに付けられる氏姓でしかないのだ」という山背賀茂氏側の伝承です(『鴨始祖伝』)。『山城国風土記』逸文の伝承は、この『鴨始祖伝』の記述と矛盾しないように解釈し直すと、実は、阿波の忌部氏の中核氏族たる葛城のレビ族集団の元に一旦は身を寄せていた別の新来のレビ族集団が、神武先導直後に、葛城のレビ族集団の元を離れ、山背に移動して現在の山背の賀茂氏のルーツとなったことを伝えるものだったことが分かるのです。

註:年代も計算に入れると、このことから、後に「神武天皇」と称されることになる人物が、実在しなかったわけではないにしろ、実は「応神天皇」だったことが分かります。「神武天皇」が阿波忌部氏のレビ族集団に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国を建国した話と「応神天皇」が山背秦氏に伴われて列島にやって来て、プロトヤマト国をヤマト国に発展させたことを合成したのが「神武東遷」だったわけです。

山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏は、それぞれが同じレビ族であるだけではなく、彼らだけが裏天皇の秘教組織も同様に持つという共通の理由から、どちらも排他的に賀茂と名乗り、互いに「同族」としてある程度の協力関係にはあるものの、意識の中心的な部分では決して「同族」などでなく、むしろ対立し合ってすらいる、極めて微妙な間柄にあったのです。

これを証明するかのように、下上賀茂神社は、祭神も一言主とはなっていません。建角身(たけつぬみ)あるいは別雷(わけいかづち)という名の雷神となっています。この健角身あるいは別雷を『古事記』の「国譲り」神話で事代主(一言主)と対抗し、事代主(一言主)を海中への潜伏へと追い詰めた、あの建御雷(たけみかづち)と同じ神と見なすことができます。だとしたら、この「国譲り」神話もまた、山背の賀茂氏と葛城の賀茂氏の関係を巡る上記のような説を裏付ける証拠と見なすことができるでしょう。

一言主の記紀の中での登場は、しかしながら、応神天皇から数代下った5世紀の、あの列島古来の大氏族葛城氏を攻め滅ぼした雄略の時代となっていて、景教が唐に伝わるよりも遥かに古く、ヨーロッパでのネストリウス派(景教)そのものの成立の時と同じくらい古い。ということは、葛城のレビ族集団もこの時はまだ、ロゴスたるイエス=キリストのことは知らなかったことになる訳です。ですから、この神話の中での「一言主」とは「葛城の賀茂氏が賀茂氏と自称し始める以前から祭祀してきた神で後に賀茂氏と自称し始めた時以来『一言主』と呼ばれることになる神」を意味していたことになります。この神話は暴虐な大王(おおきみ)として有名なあの雄略ですら、葛城の賀茂氏に対しては、山背の賀茂氏の存在を背景に大王として君臨できていたにも拘らず当時から、大いに敬意を示さなくてはならなくなっていた。葛城のレビ族集団の権威は賀茂氏と自称する前から、元々これくらい重大なものだった。このようなことを伝えるものだったのです。

以上の推論の過程で出て来た日本国の平安時代以降の大まかな体制を、若干の補足事項を付け加えながら纏めると、次のようになります。

秦氏がヤマト国に迎え入れられてヤマト国全体を、それまでの単なるヘブル・イスラエル・ユダヤ教の国からイエス=メシア教の国へと大きく作り替え発展させた際に、列島最古で由緒正しい、葛城氏との結びつきのもと葛城にも拠点を築いていたレビ族集団もまた、他のヘブル・イスラエル・ユダヤ諸族のレビ族集団と一括りに「忌部」と称されるようになった。にも拘らず、彼等はその後も、山背のレビ族集団が山背秦氏のレビ族集団として特権的に賀茂氏と称し、忌部連合の中でも特別な役割を担っていく中ですら、列島での古さなど幾つかの理由を背景に、山背の賀茂氏に並ぶ程の敬意を集めて祭祀の重要な部分を取り扱っていた。しかしそれも、その後の時代の変遷の中で次第に、秦氏や中臣氏、藤原氏によって圧迫され、後退していくことになる。ある時、この状況を憂えた者達が空海を奈良や四国で十分に訓練した後で遣唐使と共に唐に送り込み、当時の長安で隆盛を極めていたヨーロッパ由来のネストリウス派キリスト教(景教)を密教と共に高野山に導入させた。その空海を表に立てることで、利害関係の一致した桓武朝の保護を取り付けることに成功した。イエス=キリスト(メシア)を祭祀する点で山背の賀茂氏と同じような特権的な地位を持つが故に賀茂氏と称しつつ、山背の賀茂氏とはあくまでも別枠の新しい国家秩序を南九州から四国、安芸、吉備、紀伊、葛城、吉野、高野山、熊野、近江、岐阜、伊勢、志摩、信州、相模、房総と広く創設して、中華との継続的な交流をバックに山背の賀茂氏と日本国内での協調かつ対抗の関係に入ることができた訳である。因みに、山背の賀茂氏は、山背、播磨、丹波、北陸、山陰、山城、近江、尾張、旧高句麗勢力が分布する東国、長門、周防、北九州、統一新羅の治める半島に広く国家秩序を及ぼしている。

レビ族集団が賀茂氏になるのは、1+3+9+58=1+70という組織構成を特徴とする秘教集団を裏天皇組織として構成した時に限られる。西洋でもサンヘドリンという名称で知られる秘密結社などがやはり、これと同じ組織構成となっていると言われている。イエスの弟子達の、従って原始イエス教団もこのような組織構成になっていたことが聖書に記されている。勿論、山背の賀茂氏も葛城の賀茂氏もそうなっているのである。両者ともに八咫烏と称される。前者の裏天皇が天神、後者の裏天皇が地祇。これにそれらのバックアップの元で表において天皇が日本国を統治する。一般に「三人の天皇」と称されているのは、この天神、地祇、天皇のことであるらしい。天神と地祇の対立関係は、天智と天武、天台密教と真言密教、源氏と平氏、摂関家と院庁(いんのちょう)、足利氏と北条氏、北朝と南朝、大内と細川、足利将軍家と信長・秀吉・家康、旧帝国陸軍と海軍、北朝鮮人脈と農協・郵便局組織など、その後の歴史上のありとあらゆる場面に様々な形態をとって登場してきているものと考えられる。

それぞれを精密に分析する過程で今後若干の変更を加えることになるかもしれませんが、大まかには以上で実態を十分に表現できているものと推定されます。また、戦後はここに、アメリカの金融偽ユダヤ勢力も関与してきて、より複雑になっているものとも推定できます。例えば、現在の東京の天皇家とは別に、京都にも、江戸時代以来の天皇家が密かに存続しているというのは、上に述べたような構図と関わりつつも、それだけでは割り切れない何事かをも含み込んでいると考えておいた方がいいと思われます。今後も何か新しい要素に気づいたら、上に述べたような大まかな構図をベースにそれをより発展させ、より具体的な現象までもより正確に包括できるような構造認識にすることを目指さなくてはなりません。