飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

ある読者へのメッセージ

2014-06-27 09:39:43 | その他
過去の記事を丁寧に読んでいただき、コメントを入れて下さった方への返信を、記事としてアップいたします。

以下引用。

>飛鷹満さま、遅ればせながら初めまして。 最近こちらのサイトを知りました。 過去記事からゆっくり勉強させて頂いております。

ゆらりすさん、はじめまして。ご訪問いただき、ありがとうございます。

過去記事を最初から順に読んでくださっているとのこと。筆者として大変光栄に感じます。

インターネット上に多くの種類の情報発信サイトが存在している。それらがそれぞれの立場から等しく、ある特殊な世界について語っている。...このことに気付いて大いに驚愕し、それらの内の幾つかを自分なりに熟読しては、その筆者宛にコメントを入れるということを始めたのが、私の場合は3年程前でした。

それらのサイトがどれも等しく、活発に発信しつづけているのは、次のようなことでした。

「既知の表層世界の奥に『形而上学的な超越的叡知界』と云うのとはまた全く異なる色合いを持った、それ自体飽くまでも現実的な異世界がある。我々のこの狭小な表層世界をありとあらゆる点で遥かに凌駕しつつ恐ろしく巧妙に隠されてはいるが、実は厳然と存在し、この表層世界をその余りにも強力過ぎる影響力を持って、その隅々まで隈無く支配し続けている」

ゆらりすさんのコメントを拝見して私は、その時の自分自身のことを思い出しました。

>世の中の仕組みというか、いわゆるインボー論を超えた「この世の中は本当はどうなっているんだろう」ということに常々興味を持っております。

そのような興味は、人としても、日本人としても、至極当然のことでしょう。私もこの数年来、ゆらりすさんと同様の興味関心を抱き、それまでの自分をいろんな意味でひとつずつ脱ぎ捨てながら、調査に没頭して来ました。現在は、個人的な生活環境の激変に巻き込まれたせいで記事の更新そのものは随分長いことご無沙汰させて戴いてはおりますが、研究そのものは、全く変わりなく続いています。安本美典の邪馬壹国論や八切止夫の論、ミトラス教=密教論を中心とした東條真人のミトラ研究、『古事記』や『日本書紀』の偽書性の詳細とその取り扱い方をめぐる諸々の論説、『史記』や『三國志』、『韓非子』といった中国の古典等々、新しい文献を膨大に詳細に、気儘に読み漁っている最中です。自分の過去の記事を客観的に読み直す作業も続けています。何れにしても、この研究領域には間違いなく、非常に重要な何かが含まれていると確信しています。研究は、執筆するしない、発表するしないには関係なく、一生死ぬまで続いていくだろうと予想しています。

>ただ、飛鷹満さんや他の方々とは違い、学問に疎いので、四苦八苦している次第です (^_^;)。

上に挙げた研究領域内の諸々の文献は、誰であれ無視することの許されない非常に重要な情報を含んでいます。このことに間違いはありません。ですが、文章表現や概念に関しては、更には、立場の自己規定に関しては、何れも共通して、余りにも曖昧で、厳密性に欠けています。「四苦八苦」は、ゆらりすさんだけではなく私も、恐らくは同じような状況にありますが、その原因は従って、恐らくは大部分が、今述べたような書き手側の落ち度にあると思うのです。彼等の認識に、その重要性に相応しい正確な概念規定と表現形式を与えると共に、そのことによって更には、認識の空白地帯をも発見し、それらを悉く独自に埋めていく。これが、自分のやるべき仕事ではないかと自覚して、私は作業を進めています。私も「学問」とは無関係な場所にいますが、だからこそ得られる自由を強みに、「学問」には欠落しがちな本当の学問を実現したいと思っています。

>昨今、皇室を貶めるような記事のブログもありますが、 飛鷹満さんの公平で客観的な視点、そしてクリスチャンでいらっしゃるということで、信仰心を基にした考え方の方が、私には納得できます (^_^) 。なぜ大の大人と言えるような方々が、サヨク官僚みたいな方=◯◯先生とやらの情報を鵜呑みにしてしまうのか…謎です。その方がよっぽど彼らが嫌う「宗教」っぽ く思えてしまいます。

あの鬼塚氏のことですね。彼に限らず、この分野の情報発信には何れも、パイオニアだからこそ致し方なくそうなってしまう面もあるのだと私は理解していますが、情報発信者自身の、この情報に対する制御せられざる悪感情の表出が付随しています。体臭漂うかのごとき極めて個人的な存在次元でしか、このようなタイプの真相暴露はそもそも、発想も実現もできないものだからなのでしょうか。何れにしても、このようなタイプの真相暴露の受容の際には、情報の発信者に対して沸き上がってくる生理的な嫌悪感をある程度は覚悟しながら、その嫌悪感にまみれた真実そのものを丁寧に取り出して清めるという作業が必須になってくると思います。そして、自分の体臭が公に晒されることも厭わず、そのような情報発信に邁進してくれたパイオニア達の、尊い心意気に対する敬意も忘れてはなりません。

本当の宗教は本質的に、先ず、支配層の秘密結社内で「密教」として存続している筈です。その支配層の秘密結社から、土地土地の定着被支配民の為にそれぞれの定着被支配民に相応しい支配の道具としての「宗教」と組織が往古に与えられたのです。所謂「顕教」のことです。近代になってこの定着被支配民の間に、ある特定の者達の明確な意図と暗躍の元で、「宗教」への公然たる反発の機運が広められた。その際に、事の本質の理解できない大部分の自称「インテリ」層が養成され、彼等の主導の元で「宗教」と宗教の区別が曖昧にされ、「宗教」への反発が宗教そのものへの反発へと変質させられた。結果として、それまで以上の凄まじい人間阻害が、自由の名の元、あちこちで絶えず繰り広げられるようになった。

そんな定着被支配民の中からも当然、本当の宗教に目覚める人々が時々出てきます。そんな人々に対して支配層が常に、試練しか与えないということにはなっていないでしょう。彼等の厳しい試験に合格した者として、世に救いをもたらす貴重な聖者として、最高級の期待と敬意をもって待遇することも、少なからずあるに違いありません。

他方、本当の宗教を保持している支配層には、そうでない定着被支配民に対する態度の違いによって必ず、大まかに言って二つの派閥ができてきたことでしょう。「哀れみ啓蒙して差し上げよう。できない場合でも蔑むようなことはしてはならず、彼等の慰めにならなくてはならない」と考える者たちと、「啓蒙など無駄だ。試練を容赦なく与え、耐え抜いた一部を除いて全て、弱者として切り捨てざるを得ない」と考える者達です。この両派閥は、支配層として互いに互いを仲間と認め合いつつも、定着被支配民に対する以上のような態度の違いに基づいて対立し合うようになっていた筈です。また、支配層内での人口増加によって支配層内に、限られた権益を巡る争いも頻発していた。この際の敗者に対する勝者の処遇や、その処遇に対する敗者の対応の中にこそ、戦争というものの起源が、更には、歴史的実在としての悪の起源があると、私は最近、考えるようになっています。

>宗教という言葉は確かに怪しい気配を含む場合がありますが、「神さまと私」という経験としての信仰は、人を人たらしめる最もステキなことだと思っています(神道が好きです)。

私も全く同じ思いです。例えば、神々しい夕陽に照らされて何とも言えないような美しい、崇高な姿を現した巨大な雲と、それを眺めて何かに打たれ、うっとりした顔で思わず「神様雲だあ」とひとりごつ子供。この時の気持ちを大人になっても忘れず、日常生活に自ら反映させて生きていこうとする。そして実際に、そのように生き続けていられる。これこそ宗教なのではないでしょうか?

「宗教」に盲従することに慣れ、感情と認識の器官が根から腐ってしまっている者達。更には、そんな人々への憎悪や軽蔑の感情を無批判に、宗教そのものへの憎悪や軽蔑へと転化させてしまい、そのことによって、自覚のないまま、自分と周囲の人間の人間性を自ら著しく阻害してしまっている者達。この人達はどちらも、大きな間違いを犯しているのではないでしょうか?

>それでは、また寄らせて頂きます。

はい(笑)。ありがとうございました。

引用以上。

京大合格のための英語学習法

2014-06-01 06:18:02 | 教育
京大英語では英文和訳二題、和文英訳一題が出題される。英文和訳二題の内の一題は、時々多少の変動はあるものの概ね、比較的短めの下線部訳三題から成り、もう一題は比較的長めの下線部訳二題から成る。

比較的短めの下線部訳三題の方は、その読み取りに苦労する人など実際は殆どいないと思う。が、その読み取りに基づいて和訳を書く段になると、人によって出来上がり具合に大きな差が出るようになっている。この三題では、内容を一旦読み取り、具体的なイメージを掴んでしまった後には、英文の見かけ上の構造の方は完全に無視して、その具体的なイメージの方を比較的短時間で、精確で綺麗な和文として表現し切るというスタイルが身に付いていないといけない。そうでない限り、求められるレベルの合格答案を仕上げられるようにはならない。精確で綺麗な和文というものを日常学習の凡ゆる局面で強く意識し、自分なりの完成された文体を育て上げることこそ、合格答案の大前提となるという訳だ。

英文の構造を完全に無視する?いや、ここで私は決してそのようなことを言ってはいない。英文の見掛け上の構造をある段階に限定して無視すべきだと言っているのである。

抑も文というものは、英文であれ和文であれ、それぞれの基本構造の違いからくるそれぞれに異なった規則に従って、それぞれに異なる遣り方の省略が施されているものである。英文で省略されている語句を適宜復元して和文に訳すこと。英文で省略されずに表記されている語句も和訳では、場合によっては意外なほど大量に訳さないでおくこと。更に場合によっては、英文の見掛け上の全体をレトリック表現(修辞表現)として全て剥ぎ取り、その奥の方に丸々隠されている本体を表に引き出した上で、そちらの方を和訳する場合すらあること。...熟練した英文和訳では常にこれらの内の何かが実行される訳だが、その理由もここにある訳だ。

この過程とその根拠を説明することだったら、優れた一部の教師でないと、明瞭に余すところなくというところまではなかなかいけないものだ。しかし、a native Japanese として日本人なら誰もが持っている天才を英文和訳の際に自覚的に使いこなす技能さえ身に付けられれば、ただそれだけで、たとえ一介の学生でしかなくても、専門家に勝るとも劣らないレベルの秀訳が出てくるようになる。京大英文和訳二題の内、比較的短めの下線部訳三題から成る方ではまさに、このレベルの秀訳が求められている。

比較的長めの下線部訳二題から成る方は、これとは事情が異なる。一般的な学校英文法の呪縛から抜け出せていなくても、a native Japanese としての天才を使いこなす技能さえあれば合格答案が出てくる、という具合には、なかなかいかないようになっているのである。一般的な学校英文法の呪縛から今だに抜け出せていないレベルの一般的な受験生には六割すら得点することの難しい、基本構造すら正確には把握できず、往々にして虚しく彷徨してしまいがちな、そんな「難問」になっていることが多いのだ。

註:しかも、何とも皮肉なことに下線部⑵は、下線部⑴を本物の英文法で分析した結果発掘される下線部⑴の書き換え文となっていて、下線部⑴の一般的な分析とは異なる、本物の英文法によるより高い次元の分析に成功した人でないと読み込めないようになっていることが多い。従って、できる人はどこまでも多くを得るが、できない人はどこまでも何も手に入らないという事態が起こることにもなる。要するに、合格者と不合格者を分ける最後の重大な関門の機能がこの問題に託されているという訳だ。このように考えて、先ず、差し支えないだろう。

一般的な学校英文法とは根本から異なり、一部の階層の間での口承しかされていない、英文の本質が十分に把握されている本物の英文法や本物の英文和訳法。...比較的長めの下線部訳二題から成る方の京大英文和訳問題で鍵を握るのはまさに、これなのだ。

この習得は、期間が限られている以上、完璧なレベルまでとは、受験生の場合はなかなかいかないものだ。しかし、京大に入って曲がりなりにも学問というものに携わろうと心に決めている者として、たとえ習得のきっかけしか得られなくても、そのような本物がある以上は習得を目指して修練してみたいと考え、不完全ながらも高みを倦まず弛まず目指す。すると、そうこうしている内に、気付いたらそれほど見晴らしの悪くない、七合目くらいまで来ていた、などということなら、受験生にも割と頻繁に起こっている。そしてこれが、京大合格のための強力な橋頭堡、或いは、京大入学後の学力の飛躍的な深まりの原動力にも繋がっていくものなのだ。麓にある馴染みの居住地(学校文法)を捨て去る勇気が持てないでいたら、これが得られることなど絶対にない。

ところで、本物の英文法や本物の英文和訳法とはどんなものだろうか?幾つか例を示しておきたい。

例文1
The computer has enabled scientists and engineers to make in only a moment the complicated calculations which used to take several days.

一般的な訳例
昔は数日かかっていた複雑な計算を科学者やエンジニアは今、コンピュータのお蔭で、ほんの一瞬の内に行うことができるようになっている。

より正しい訳例
昔なら優に数日はかかり、科学者やエンジニアを酷く手こずらせていた複雑な計算も今では最早、そのコンピュータが開発されたお蔭で、悉く、極短時間しかかからないで済むようになっている。

ここで用いられている技法
①数字表現の厳密な意味規定
②省略された so ... that 構文の復元
③the 名詞s = all the 名詞s

例文2
Science can create nothing out of nothing. But scientific advances have made it possible for us to discover and invent things we have never dreamed of discovering or inventing.

一般的な訳例
科学は無からは何も生み出すことができない。しかしながら、科学的な進歩のお蔭で人類は、発見も発明も夢見ることがなかったものを発見したり発明したりすることができるようになった。

より正しい訳例
科学とは言っても、無から有を生み出せる訳ではない。しかし、発見も発明も夢にも思い描けないでいたものが、様々な分野の科学的進歩を総合することで発見できた、発明できたということなら、これまでも普通に見られてきたのである。

ここで用いられている技法
①事物主語の副文としての復元
②文否定と語否定の区別
③全称否定と部分否定の区別
④他動詞的前置詞 of
⑤無冠詞複数形事物主語構文の正確な訳出
⑥省略された〈時〉の副詞句或いは副詞節の復元と訳出による、現在完了形の厳密な意味規定
⑦for us の省略

例文3
The old conception of national character based on biological differences has long been exploded. But differences in national character arising out of different social and educational backgrounds are difficult to deny.

一般的な訳例
生物学的相違に基づく国の性格の古い概念は、随分前に廃れてしまった。しかし、様々な社会的・教育的な背景から生ずる国の性格における相違は、否定することが難しい。

より正しい訳例
性格が国によって異なる理由を諸国民の生物学的多様性に基づけて説明しようとする試みは、今となってはもう、廃れてしまって久しく、古臭い遣り方になっている。それに対して、同じ現象の理由を社会的教育によって培われる背景の多様性に基づけて説明しようとする試みの場合は、否定しようとしてもなかなかできるものでないと、私は考えている。

ここで用いられている技法
①対比の but と「第一法則」に従った省略語句の大量復元や、語句の大幅な変形
②抽象名詞 the conception と、「概念」と訳されることの多い名詞 the concept の区別
③「相違点」と「多様性」の区別
④名詞-al and 名詞-al 名詞s のより厳密な訳
⑤ I think that の復元
⑥語句の大量省略

...以上は、ある予備校で東大や京大を志望する中3生のために教材として用意されたものからの引用で、「京大英語」としては比較的易しいものが選ばれた。従って、本物の英文法や英文和訳法を導入しない一般的な答案でも、どこに穴があるのか自覚し難い、それほど悪くないのではと感じさせかねない、そんな問題の引用となっている。限られた時間的・空間的スペースで本物の英文法や英文和訳法の概要を伝えるためには致し方がないと考えてこのような選択を行ったが、聞く耳のある人には、私の伝えようとしていることが朧げながらも十分に伝わったのではないだろうか?ましてや、一般的なスタイルでは自覚的な答案など絶対に仕上げられるはずのない、比較的長めの下線部訳二題から成る京大英文和訳に取り組んで行こうとする場合に、本物の英文法や英文和訳法が帯びることになる重みについては、尚更そうなるということが理解できるのではないだろうか?この比較的長めの下線部訳二題から成る京大英文和訳の場合は、たとえ完璧ではなくても、この本物の英文法や英文和訳法の自覚的な鍛錬がないことには、取り組みが、盲目的で単に粘り強いだけの、従って「才能」任せの、或いは「運」任せのものに留まってしまうのである。この本物の英文法や英文和訳法のマスターを強く意識しながら学習を進めていけば、一般の受験生がせいぜい六割しか得点できない所で少なくとも七割は確実に得点できるようになる(これは大学側から得点公表が行われている中、何人かの学生の指導を通して私が直接確認している、紛れもない事実である)。また何よりも、日々の鍛錬が闇雲な苦行ではなくなることから、学習の能率や手応え、充実感、知的好奇心の向上も期待できる。更には、所謂「単なる合格」だけではなく、京大での学究生活の、展望の大規模な拡大すら期待できる。

本物の英文法や英文和訳法とは謂はば、書き手である natives の頭の中で執筆中に普遍的に機能していたロゴスそのものの客観化のことに他ならない。英文解釈とは、書き手である the native と、時空を超えてそのロゴスを共有することなのである。本物の英文法や英文和訳法のマスターを志向しながら英文和訳の鍛錬を行うということは即ち、その最奥ではまさに、このようなロゴスのレベルでの一流の natives との交流の実績をなし、その技能を身につけていくことに他ならなかったのである。

このことを考慮に入れると、本物の英文法や英文和訳法を志向した学習には、もうひとつ別の副産物が期待できることにもなる。即ち、和文英訳の基礎力養成のことである。

京大に限らず、国公立二次和文英訳の実態は、和文添削英訳である。提示された和文そのものを省略も誤記もない「精確」な和文に復元した上で英訳すると、本物の英文法が概要だけでも身に付いている者に限り、御し難き所の全くない、いかにも扱いやすい、素直な和文英訳問題が目の前に立ち現れてくるようになっているという訳だ。逆に、提示された和文を無頓着にそのまま英訳しようとした場合、幾つかの理由から必ず失敗してしまうようになっていて、京大和文英訳問題が、一般の受験生の実感の通りに、かなりの難問に見えてきてしまう。

この実態を念頭に置きつつ過去問を具に研究しておくこと。これがその最も能率のいい学習の指針となる。但し、その際に大前提として、本物の英文法や英文和訳法の習得を志向した、上述したような英文和訳の、息の長い自覚的な鍛錬が必要となってくる。





京大合格のための国語学習法

2014-06-01 06:07:26 | 教育
京大国語には周知の如く、現代日本語や「古代」日本語の読解問題だけではなく、明治大正期の日本語の読解問題が含まれている。現代語に近くても、飽く迄も「古代」日本語の枠内からは逸脱していない、そんな日本語の読解問題も含まれているということだ。これが京大国語の大きな特徴なのである。即ち、現代語よりも寧ろ「古代」語の方が正当な、習得すべき本来の日本語である、との主張が、京大には伝統的に維持されているということなのだろう。つまり、英語やら数学やらで只でさえ忙し過ぎる中での国語学習であるが故に能率的な、更にはまた同時に根本的な、そんな古典文法の習得というものが、京大国語の克服には大きな比重をもって不可欠になってくるのである。

端的に言って、学校で習う古典文法には不十分な点が多い。学校で習う古典文法には、完璧であるなどと勘違いして実際の古文に当たると、全く何も読み込めないことになりかねない面が多々あるのである。

例をひとつだけ挙げて説明しよう。例えば、助動詞「らむ」について。

「らむ」は一般には「けむ」との対比から、現在推量の助動詞として「~しているだろう」と訳す。このように説明されている。推量の助動詞「む」との対比では、それと殆ど違いはない、などと解説される場合すらある。そして、これ以上の説明がどこにもないのである。

このような表面的な説明で満足してしまい、もっと深い根底からの理解の追求を疎かにしてしまっていると、例えば、

「『ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん』には

『日の光がのどかに射しているこんな春の日に、桜の花が何故、落ち着かなげに散っているのだろうか』

などのような訳が付く。そして、『らん』は『らむ』の連体形『らむ』の撥音便形なのである」

などと誰かに教示されても、その本当の意味が理解できない。和歌中に一言も対応語のない「何故」がどうして、この解釈において訳出されているのか?この和歌がどうして、疑問文として解釈されるのか?「らん」がどうして、連体形と理解できるのか?...などの疑問について、その本当の理由が分からないまま遣り過すことになる。自力でこの和歌を根底から理解したいという自然な欲求を抑圧してしまうのである。学問を志して最高学府の門を叩こうとする以上、そのような欲求の躍動こそ必須になると直感すべきであるにも拘らず、それを理不尽に抑圧して「取り敢えず」などと呟きながら、盲目的に前進することしかできなくなってしまう。こんな調子で学習を続けている限り丸暗記事項がどんどん増えてしまうことになるというのは、赤ん坊でも分かるほどの明らかな理屈であろう。そうなると、数学やら英語やらと只でさえ時間の足りない中でも古典文法に驚異的な勤勉さをもって大量の時間を注ぎこめる人か、丸暗記に何の苦痛も感じないほどの特別に優れた暗記力を持った幸運な人にしか、古典文法の十分な習得は不可能ということにもなりかねない。そして実際に、そう言って悩む人が多いのである。

では、「らむ」をどう理解するのが正当だと言うのか?根底からの理解とは、どのような理解のことか?

抑も文法とは、ここでその詳細を詳述する余裕はないが、兎に角、省略語句の合理的な復元法のことに他ならない。この考え方を古典文法の理解にも導入すべきである。そうすれば、丸暗記だけが不可欠の手段に感じられた古典文法も只の暗記ではなくなる。文法という語の本来の意味の如く、極めて合理的な a perspective の元でマスターすることが可能になる。私はこのように考えている。

そこで「らむ」の場合である。「らむ」は、その属性を全て考慮に入れて判断すると実は、「といふことになりてあらむ」の「というふことになりてあ」の部分が省略されて「らむ」だけが取り残された表現であることが分かる。「らむ」は、本質的には謂はば「現在の推定(或いは伝聞)推量」なのである。そして、

「(ちゃんと確かめた訳ではないが、ちゃんと調べれば、)…するということになっている筈だ(かも知れない/に違いない/だろう)」

と訳すことこそ、最も正確な訳になるのである(「あり」などの所謂存在構文に用いられた場合、推量の助動詞「む」は「筈である」とか「かも知れない」と訳す必要が出てくる)。

このことから、

①「らむ」に終止形が接続すること

(引用の「と」の前には、従って「というふことになりてあらむ」の前には、終止形がくるから)

②「らむ」に「現在の原因推量」の意味があり、「からであろう」と訳せる場合があること

(「といふことになりてあらむ」→「(といふ)ことになりてあらむ」→「ことになりてあらむ」→「ものになりてあらむ」→「から(柄:理由の意)になりてあらむ」の変形が施せるから)

などの、通常の文法では理解不能な、にも拘らず文法書に、まるで暗記を要求するかのように書き込まれている事柄も、合理的に理解することが可能になる。

上に例として挙げた有名な和歌も、次のような精確な訳で理解することができる。

「光のどかな春の日なのに桜が、まるで狂ったように散っている。光のどかな春の日だから狂ったように散るということになるだろうか?いや、決してそんなことにはならない筈だ。きっと何か他の理由があってそうなっているに違いない。それは...」

どうだろうか?一般に流布している訳よりも遥かに納得のいく訳になっているのではないだろうか?

ここでは、

①「ひさかたの光のどけき春の日に(なりてあればや)しず心なく花の散るらむ」という、上の句と下の句の接合部分の復元

②反語をレトリック表現(修辞表現)と捉えた上での、その裏に隠されている本体の全面的な訳出

など、一般にはあまり知られていない技法も駆使されている。それらをここで詳しく説明する訳にはいかないが、何れにせよ、通常の生半可な理解を脱ぎ捨てて「らむ」を本質的に理解した時にこそ、この和歌が、根本的に理解できるようになるということについては、聞く耳のある人には十分に伝わっているのではないかと思う。

中には、「それでは、訳として詳し過ぎる。もっとシンプルなものにした方がいい」などと考える人がいるかも知れない。しかしそれでは抑も、「古文の逐語訳」と言われるものの、その本来の趣旨が崩壊してしまうことになる。

非常に複雑な内容を持った事柄を、その表現に関しては極限まで削り取る。その内容を全く損なうことなく、できるだけシンプルなものにする。そこに詠み手の腕の見せ所がある。受け取り手も、そのような表現から、隠蔽された内容の全てを読み取れるか否かに、その力量の有無がかかっている。...「古代」の文章表現では(と言うより寧ろ貴族社会特有の文章表現では)、このような内容のことが明確に意識されていた(いる)に違いない。そのような「古代」の文章表現の内容を現代語で具体的に説明するのが「古文の逐語訳」なのだ。そのような「古文の逐語訳」の時に「訳はもっとシンプルなものに」などと考えていたら、当然、「古文の逐語訳」が持つ趣旨そのもの崩壊を招いてしまうことになるだろう。従って、上記のような批判は、ここでは何の意味もないということになる。ましてや、「傍線部を具体的に説明せよ」などと明確に指示された入試問題の正解というものには、絶対に辿り着けないだろう。

今ここで挙げた例は、私のもっている沢山の裏情報の内の、ほんの一部に過ぎない。京大国語克服のためには学校文法の大半を、この例の如く全面的に分析し直した、本当の文法というものを習得する必要がある。そうした上で「古代の」文章を、正しく速く読み解くことに熟練しなければならない。

京大合格のための国語学習法として先ず第一に指摘しなければならないポイントは、以上である。

ここで、話を次に移そう。京大合格のための学習法として指摘しなければならない第二のポイントがある。

国語の論説文読解問題には、古文であれ現代文であれ(実際は英語でも)、記述タイプの問題に限定して言えば、大きく分けて、次の三つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②傍線部の理由説明
③傍線部のような認識或いは主張の理由説明

小説や物語の読解問題では、次の五つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②登場人物の言動の理由説明
③登場人物の願望の理由説明
④登場人物の心情の理由説明
⑤登場人物の認識の理由説明

論説文であれ物語文であれ、先ずは、これらそれぞれのタイプを厳密に区別できていなければならない。その上で、当該設問に相応しい解答形式を予め設定し、その形式に沿って本文中の記述を精査できなければならない。そうやって必要な素材を集め、それらを上の解答形式とも照らし合わせながら総合し、解答として仕上げる。

ここで述べていることは、こうして改めて言われて見れば、至極当たり前のことに感じるかも知れない。しかし、受験生の答案から赤本や黒本の「プロ」による答案まで、実に多くの答案をチェックしてきた経験から言うと、殆どの答案が、その至極当たり前のことが遵守できていないための誤答になっていると言わざるを得ないのである。この経験からも、京大国語の、受験者ではなく合格者の平均点が、多くの場合五割にも至らないという紛れもない事実の裏付けの一部が取れるのではないかと思う。

ほんの一例を挙げて説明しよう。

例えば、

「傍線部①『そうしないと狂言の本質に迫ることはできない』とあるが、それはどういう意味か。本文中の語句を用いて具体的に説明せよ」

という設問があったとする。

このような設問に当たった時、多く人が、この傍線部の周辺部に具体例を探してしまっている。「具体的に説明せよ」を「具体例を用いて説明せよ」と混同している訳である。両者は、不注意な人にはよく似たものに見えるかも知れないが、全く異なるものである。「傍線部を具体的に説明せよ」とは、「傍線部に省略されている語句を文脈から全て正確に復元し、その上で傍線部そのものを逐語訳しなさい」の意味で、具体例とは全く関係ないのである。

抑も答案に、特別な場合を除いて絶対に、具体例を入れてはいけない。具体例とは、文章の趣旨を読者の頭で納得し易くするための機能を果たすものでしかなく、飽く迄も文章の趣旨そのものには含められない。「文脈」に具体例は入らないのである。従って、具体例が設問の対象になることは殆どない。...このような鉄則も入試には、厳然として存在している。

具体例を引用しようとしてはいなくても、傍線部を説明しなければならない時に、傍線部以外の箇所を引用しようとするだけで、傍線部そのものを傍線部そのものの説明に入れてはいけないと思い込んでしまっている人も多く見受けられる。これも、上に述べたことを見て分かるように、明らかな間違いである。傍線部の説明は、特別な操作が補足的に施されてはいても、飽く迄も、傍線部の逐語訳でしかないのである。

実は、実際に見てもらったら誰にでも直ぐに分かると思うが、京大国語では、現代文でも古文でも、その設問のかなりの部分が、この傍線部の説明或いは訳出の問題となっているのだ。従って、誤答の多くが、このタイプの設問での、今説明したような仕組みの誤答になってしまっているだろうとの予想が付く。そして実際、私がこれまでにチェックしてきた誤答の多くがそうだった。ということは、この例示を通して説明した解答作成上の注意点ひとつが修正されるだけで、もう既に、得点率の大幅な上昇が見込めるということにもなる。ただ、その修正のためには、この注意点について熟知している指導者に自分の答案を、一定期間チェックして貰う必要があるだろうが。

解答作成上の注意点は、上記以外にも数多く、存在している。私はそれらを全て明確に分類し、合理的に説明することができる。ただ、それらをここで、これ以上詳しく説明する訳にはいかない。実際に私の授業を受講して貰って、その中でひとつひとつ具体的に説明するしかないからだ。しかし、上記の例示ひとつだけで、私が今ここでその存在を伝えようとしている解答作成上の秘訣というものの重要性だけは、聞く耳のある人にはもう既に、十分に伝わったものと考えたい。

最後に、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくことに含まれる効用で、設問の趣旨にそぐわない頓珍漢な答案の回避という本来的な効用以外の、副次的な効用についても、言及しておかなければならない。

頓珍漢な答案を捻り出そうとする時、その多くの場合が、その設問に予め想定されている制限時間を大幅に超えることになっている筈である。ということは、私が今説明しているような解答作成上の作法が未だに身につかず、答案の作成が頓珍漢な答案の作成の段階に留まっている人の場合、京大国語の全設問に制限時間内で解答することそのものすら不可能になっていると言って良い筈だ。かと言って、このように他の多くの設問に対する解答を放棄してまでも「丁寧に」纏め上げた答案が、その分だけ完璧になっているかと言うと、実際は全くその逆で、その殆どが、ほんの少しの得点にも繋がっていないというのが実情なのである。模試を受験する度に空欄を大量に作ってしまっている人は、このような仕組みの停滞状態に陥っている危険大である。

しかしながら、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくという、上述したような解法に熟練しておけば自ずから、そのような事態が避けられるようになる。即ち、正確性とともに十分な程度の能率性が、解答に宿ってくるのである。しかも、日々の演習と講義の中で、盲目的ではない確実な認識を着実に積み重ねていくことにもなる訳だから、大きな知的快感も得られ、勉強そのものが楽しくなる筈である。これは、いいことだらけなのだ。

君はどう思うだろうか?