飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「科学的」は言うほど偉くない!

2012-05-29 13:58:52 | 日本論と宗教論
根拠には2種類あります。

ひとつは事実。見えた物の信憑性を通常は誰も問題にしないものです。これが問題になるのは、その人が疲れているとか、狂っているとか、思想が偏っているとか、特別な場合に限られます。人間存在の奥行きが信じられていない現代日本のような社会において物事の信憑性の根拠がこの事実すなわち見えるものだけに限られると、人間の人間らしさが反映さるべき領域つまり学が、全て滅びてしまうことになります。薄っぺらな現代日本風の「個人」の体験の中に全てが閉じ込められ、人と人との時空をも超えた本当の意味での関わりが、例えば歴史が、生きたものとしては完全に消失してしまうことになるわけです。

もうひとつは、様々な証言の分析、比較対照、取捨選択、結合における、広さや深さ、整合性です。これを学と言う訳ですが、その中には、広さと深さを一旦犠牲にして対象を限定し、日常言語による表現を極力抑制しながら実験観察空間における計測と数式(内容を犠牲にして形式的な厳密さを極限まで追求した結果生まれた記号体系)による表現を前面に出して整合性の判定の客観化つまり間化を推し進めた分野があります。それが通常自然科学あるいは科学と呼ばれるもので、これ自体はある文脈においては注目すべき側面を持つものではありますが、近現代に入ると他のどの様式の学よりも権威あるものと見做されてしまい、他の様式の学の審査を行うべき学の中の学として扱われるようになってきてしまう訳です。

この流れを一言で表現すると、真理判定における人間不信ということになるでしょう。すなわち、人間の退化というものが背景にあって初めて生じて来た流れなのです。要するに、人間の「何となく」は全て信じられないということです。

あるいは逆に、各国に必ず何人かは存在し、各国を天に繋がる国として支えて行くことを自らの使命と自覚する真人あるいは超人、義人の権威を意図的に貶め、各国を天に繋がらない普通の人間の群れに変えて乗っ取りやすくするには便利な思想となる訳です。従って、市民革命や民主化の過程においてはいつも、この流れが意図的に宣伝推進される訳です。日本の明治期には福沢諭吉を初めとする人々がそのプロパガンダの役割を担っていたようです。

歴史というのは本来、真人あるいは超人、義人が悪人と戦いながら国を治めてきたことの真人あるいは超人、義人による証言の記録でなければならないのです。国を統治する資格がないのに、どこかの国を乗っ取り、その国の人間を家畜化しようとする時、その者達が必ず暗殺や歴史の捏造に奔走するというのは、その目的からして十分に頷ける話でしょう。優れた人間や優れた人間を生み出す仕組みを消さないといけないからです。例えば大国主の国譲りの意味はその辺にあるのです。慕うべき大国主像があっては第二の大国主が出て来かねないという訳です。このような歴史の本来の意味から考えると、歴史は本質的にちゃんとした学問ではありえても、科学的たりえはしないことになります。歴史事象はどれも個別的であり、事柄そのものの整合性だけではなく、それ以上に、それを誰がどのような目的でどのような場を設定してどれ程の真剣さで述べているか、それを聞き手がどんな感情と共に聞いているか、の方に重点があるはずだからです。つまり、人間には本来どんな人にも、聞いている話の信憑性を瞬時に判定して「それはよく分かる」とか「それはちょっと」などと色分けしていく能力が備わっているということです。人間存在の、現代人がもう忘却してしまった何処かの部分(エーテル体やアストラル体)に、時空全体との繋がりが許される部分が含まれているということです。

以上のことを念頭において次のエピソードの意味を考えてみてください。

ある陰謀論をテーマにするテレビ番組に、珍しくベンジャミン=フルフォード氏が出演していました。その番組ではベンジャミン=フルフォード氏が、インターネットや著作上で展開していて多くの支持者を獲得している、よく知られた自説を一般向けに説明するということが行われていました。それを聴衆のやや軽めな黄色い驚き声でひとしきり遇した後、番組のまとめの時になって青山という腐れきったくだらない「ジャーナリスト」が出て来て、ベンジャミン=フルフォード氏に向かって「科学的じゃない。ジャーナリストじゃない!立ち去れ!」と絶叫するのです。それに対してベンジャミン=フルフォード氏が顔色ひとつ変えず無言を貫いていたのが印象的でした。

この番組が何のために制作放送されたのか、ベンジャミン=フルフォード氏がどんな出演条件に縛られていたのか、透けて見えるようですが、それはさておき、この青山の絶叫の内容を見てください。

陰謀論を含むジャーナリズムは本来一種の歴史ですが、それに対する「科学的」の典型的な意図的誤用が見て取れるではないですか。

ある説に触れた時にジャーナリストとして長年培ってきた勘と人脈に依拠して裏付けを取るというのがその意味として解説されていましたが、それは本来「科学的」とは言わないのです。「科学的」は歴史の価値判断の基準とはなりません。プロのジャーナリストであっても、あるいは逆にプロのジャーナリストであるが故に、受け取り手の判定の前には常に真摯でなければならないはずです。こいつは嘘をついていると思われたらお終いだということです。この場合の論拠はそこにあるのです。

彼には常に裏社会の飼い犬ジャーナリストとの評価が消えません。思い起こせば、「911自作自演説について私は、ジャーナリストとしてあり得ないと、きっぱり言い切れます」とテレビで公言して多くの心ある人間の苦笑を誘ったのが、その最初でした。心ある人間なら誰も彼のことを信頼できる人間とは思っていないのです。彼自身もそう思ってないこと、生きるために開き直ってタレントに成り下がっていること、これらは顔にちゃんと書いてあります。そんな彼が「科学的」の名の下に逃げ込むのは、納得できることではありますが。

情報をコントロールしようとしている人達は現在もこの日本で、まさに我々の目の前で、意図的に変質させた「科学的」の僭称の下に、本来の歴史の正統性を必死に排除しようとしているのです。

こんなものに皆さんは最早、飛びつきはしないですよね?

これは余談ですが、奇兵隊さんの言う通り、初心者君、表現をちゃんと選び給え。

⇨マヨの本音 「生兵法、けがの元?」のコメント欄
http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/cmt/0ab34cfec96b92ceda66143016c34124/?st=0&p=1




暴いたところで何がどうなる?

2012-05-28 07:29:39 | 日本論と宗教論
妄想と静観。時代の観察者になる。期待はしない。極力冷めた目で極力深く今を理解する。ただ、可能性の領域を無制限に運動して惓むことなく建設と破壊を繰り返して行く。そんな貪欲な想像力さえあればいい。

インターネットのお陰で、個人として、世界全体のより深くより広い、より詳細で正確なイメージを所有し、マスコミの邪な情報操作を遠ざけることができるようになった。インターネットにも確かに意見の対立や意図的情報撹乱が見受けられる。しかし、個人的な期待など持ち込まず極力冷めた目で吟味してさえいたら、そんなもの取り除くのにそれ程の苦労はない。真実とは本来そういうものだったのだ。情報操作のエキスパートによるあまりにも巧妙すぎる遮断さえなければ、自ずから立ち現れてくるものだった。インターネット空間で嘘などそう簡単につき通せはしない。

しかし問題は、その後だ。真実を知ってしまった以上、現実の拘束に伴う苦痛を覆い隠せなくなってしまった。観念の世界ではとっくの昔に壊してしまったはずの虚構と、現実の世界ではまだ付き合っていかざるをえない。偽物と分かっていながら、しかも決して安くはない代償を支払いつつ飲み続けるなんて、それに勝る苦痛はそう滅多にあるものではない。自然な嘔吐感は致し方がないからだ。何とかこっそり吐き出そうとするが、そうなるとそれ以外の物がなくなり、孤立して生きていけなくなってしまう気がする。だから、不味くても、吐き気がしても、無理矢理押し込む。邪悪な虚構だがもうそこに暮らしてしまっているし、これまでもそれでまあまあ何とかやって来られたのだ。それを壊して別の虚構なき生活をもう一度みんなで一からなんて、立派だけど、何となく危険で面倒臭そうだ。誰かがやり始めて流れがそっちに動いて行ったら、自分もそうするかもしれないけど。それまでは我慢我慢。卑怯者でごめんなさい。

多くの人のメンタリティは今、こうなっていないでしょうか?

私は、知った以上は、自分の生き方を昨日までと同じにしておくのは嫌です。即変更します。でないと、今だけでなく未来もなくなってしまう。

死んだら死んだ時。死んだからと言って自分の本質が死ぬわけではないし、死なないよう卑屈になったりしても死ぬ時は死ぬ。霊魂とは、あんなおどろおどろしいものではなく要するに、こんな簡単なことだったのだ。肉体の死は確かに怖いが、怖がろうと怖がるまいと死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きるのだ。

何れにしても卑屈になりたくはない。大切なポイントさえちゃんと押さえていたら、後はなるようにしかならないさあ。そんな感じで開き直ったら、清々しいし、何だか分からないけどかえって上手く行ったりするものだよ。

孤立してさみしいし、恥をかくかもしれない?それも実は、自分次第。面倒臭がらずちゃんとまともに動いて行きさえすれば、豊かさを失って恥ずかしい思いをするなんて、本当は滅多なことでは起こらないことなのだ。

人による?その通り。だから、強い人は弱い人を慈しみ、弱い人はその慈しみ深い強い人を敬うということだけは必要になる。義人を敬う心さえあれば、ちゃんとその人が慈しんでくれますよ。他人から助けてもらっても恥ではありませんよ。

人間はそこまで信用できない?悲惨な歴史がある?またそこに行くんですか?そんなもの、みんなを恐怖で縛っておくための虚構だったって、あれ程しっかり理解したやん!

ある特殊な信仰が必要ですよ。そして、私たちが「種」になるのです。

新しい認識と感情を天からいただいたものとして敬い、自分の領域内に、特に自分の子供に、きちんと反映させましょう。現実の行動を、認識や感情とできるだけ矛盾させないようにしましょう。自分の周囲に自分の言動を通して「よい」影響を与え続けるよう心掛けましょう。認識と感情、行動を共有する横の繋がりや縦の繋がりを、たとえ底辺であっても、微弱であっても、自然な形で広げて行きましょう。あなたの場所ではあなたにしかそれはできないのです。小沢氏や橋本氏に今すぐ自然な形で影響を与えられる人だったら、今この瞬間にそうなっていないのを恥じましょう。やってみて自然じゃなく無理が生じるなら、その認識や感情に間違いがあると自覚し、ちゃんと責任を取りましょう。その上で、その認識、感情、行動を、全部やめるのではなく変更して、惓むことなくまた動き続けましょう。

そのような生き方を社会の片隅で同じように行っている、そんな無数の人を、そしてその数がどんどん増えて行っている今を、期待と共に強くイメージしましょう。幸運にもそんな人に実際に出会えたら、大喜びして一生の友となり、天に感謝して、絶対に裏切らないよう誓いましょう。会社の上司ではなく、そのような友人への忠誠心をこそ、最優先させましょう。会社の上司がそのような友人のひとりとして目の前に現れたら、絶対的な忠誠心を持って敬い待遇して差し上げましょう。

個人には、奥の院の秘密結社が何千年にも渡って世界に反映し続けて来た力と比べても全く遜色のない、途轍もない力が秘められていて、それを活かすやり方も厳然と存在している。人間は努力して初めて人間になる。逆に人間の力を信じず、努力を放棄したら、人間でなくなり、単なる無駄なゴミみたいな存在に落ちてしまい、腐臭を発し始める。これが人間なのだ。こんな認識をちゃんと持ちましょう。

以上のような条件を満たし続ければ必ず、ある瞬間に社会が一気に変わる。新しい認識や感情がひとつの勢力になって勃興する時が必ず来る。場合によっては今すぐ、テレビの中の小沢氏にすら、その変化が反映される。

・・・こんな信仰ですよ。これすら「宗教」として敬遠しますか?

宗教性に照らして、既存の「宗教」は多くの場合堕落して見えると言わざるを得ないでしょう。だからと言って、人間と天との繋がり、つまり宗教性そのものまで否定するのは、理屈に合わない以上、やめて置いた方がいいですよ。

「君がいくらそう感じてあの人達を救おうとした所で、これは会社の規約だし、上層部の意向だから、どうしようもないよ。確かに君の言うことはもっともだし、僕もできればそうして上げたい。でも仕方がないだろ?そんなことに拘って上司に楯突いていると、会社を辞めなくちゃいけなくなるよ。お子さんも今度大学だろ?家族が路頭に迷うよ。大変だぞ」

この中には現代日本風の「宗教」がありますよね?こんな時にあなたと天との繋がりの証である認識と感情を捨てずにどう立ち回れるのか?ここが大切なところなのです。

人々に様々な不幸をもたらしてきた事実がある、あるいはそう刷り込まれた「宗教」を否定している内に、人間に不可欠な宗教性=人間性まで無意識で否定するよう誘導されてしまう。その結果、「宗教」に見えない「宗教」に拘束され、嫌な思いをして生きていかなくてはならなくなるのです。

例えば、無罪判決後にも必死の形相で小沢批判をゴリ押しする辛坊治郎の顔には、このような類の「宗教」が透けて見えますよね?

組織にあっても、個人の天との繋がりの証たる善意は阻害すべきでなく、規約適用を云々する以前の現場では何とかできるだけそれを活かそうとする。これが、我々の知っている「日本人」だったはずなのに。

我々が今すぐ「種」になるべきです。

ヘブルやイスラエル、ユダヤの背後にいる何者かの痕跡を探る

2012-05-27 03:12:09 | 日本論と宗教論
世界中の多くの人が(中東や地中海世界、ヨーロッパ、南北アメリカの人々だけではなく、中央アジアやインド、チベット、華北、満州、半島、列島の人々も、さらにはアフリカの人々も)この3000年あるいは2000年に渡って聖なる書物として読んできた旧約聖書と新約聖書。この両聖書の中で、天の父なる主によって選ばれた特別な民として描かれているヘブルやイスラエル、ユダヤ。

近現代ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の植民地化や非ヨーロッパ世界へのキリスト教の伝播を待つまでもなく、古代より一貫して「全世界」という意識を民族として例外的に保持し、世界の隅々にまでその活動の領域を及ぼし続けていたことが段々と明らかになりつつあるヘブルやイスラエル、ユダヤ。

註:例えば、シルクロードでは、中継オアシス都市間の距離が共通して隊商による6日間の旅程の距離になっていて、明らかに安息日の規定を厳密に守るユダヤの影響大であると言える(「シルクロードは原初から一貫してユダヤ人の道だった」と断言する有名なユダヤ人もいます)ことや、タルシッシ船など海のシルクロードについての世界各地の伝承にユダヤの足跡がくっきりと残っていること、ユダヤ人だったのではないかと認知されつつある秦始皇の諸制度改革に、ユダヤ人が重職を占めていたことが分かっているペルシャ帝国の影響が大いに見受けられること、仏教の開祖シッダールタの出身部族シャカ族は従来言われてきたようなアーリア人ではなくセム系であり、失われたイスラエル十支族の内のガド族として韓や倭にも渡って来ていた可能性がある(例えば韓国の昔氏は、シャカ族のことだと明言している書物もあります)こと、朝鮮や日本の古代史にヘブルやイスラエル、ユダヤの痕跡が拭いきれない深さと広さで確認できる(秦氏だけではない)こと、シュメールやバビロニアからアッシリアへの覇権移動の物語を踏まえつつその物語を、舞台を中原に移した上で殷から周への易姓革命の物語として捏造したらしいことが論証されつつある司馬遷もどうやらユダヤ人で、そもそも歴史の捏造そのものが元来、各国語の組織的研究(必ず研究所が置かれたらしい)や各国文字の創出(漢字や平仮名、片仮名も例外ではない)などと共に、ユダヤ人の専売特許だったらしいことなどなど・・・数え上げたらきりがないくらい沢山の事例があります。調べれば調べる程に、明白で膨大な事実が出てくるのです。「これ自体が陰謀だ」などと言って切って捨てる人がいますが、そんな可能性など簡単に木っ端微塵に消えて行ってしまうのを感じざるを得ないくらいの明瞭さや膨大さです。従来の歴史は明らかに、全くの捏造だったのであり、今こそ文字通り根底からの組み立て直しを余儀なくされているのです。

この400年間においても全く同じです。悪魔的な視界の広さと系統的な狡猾さをもって我々を計画的に、天の本来的な支配から離れ家畜化するよう誘導し、見えないところから一貫して抑圧的に支配し続けてきたばかりか、NWO(New World Order)の掛け声の下で今現在も更なる悲惨な状況に陥れようと企んでいるとされる巨大で邪悪な秘密組織。その存在と構造を徹底的に暴き出し撲滅することが最重要課題であるとの認識が今、世界中に急速に広まり続けているハザール金融偽ユダヤ(あるいは300人委員会)。この人達に隠れ蓑として利用され続けてきたヘブルやイスラエル、ユダヤ。

ヘブルやイスラエル、ユダヤは何故、かくも一貫して特別だったのか?彼らをこのように特別な地位に置いて来た根源は何だったのか?

これが問題だと私は考えるのです。

ある単一の実体による活動が辛うじて表に現れてきた〈現象〉だったからというのが、どうやらその最も蓋然性の高い解答になるのではないかと思うのです。

300人委員会はその単一の実体の活動からある時期にはみ出してしまったもので、そのような単一の実体が例外的に露呈してしまった唯一の明瞭な馬脚なのではないか?各国におけるユダヤ痕跡の背後に何かひとつのものの存在が見えないか?

このような切り込み方に私は、大いに信憑性を感じるのです。

それらしき痕跡も断片ながらいくつか挙げることができます。

例えば、アブラムがウルを出て今のエルサレム辺りに落ち着く前に滞在しアブラハムと改名した場所で、イサクが結婚前にしばらく滞在し、ヤコブが天使と格闘して勝ちイスラエルの称号を得た場所(タッガーマ地方の都市ハラン。つまりタッガーマのハラン=高天の原)は、ヘブルやイスラエルとは異なるチュルク系の人々の住んでいた都市として知られています。彼らはそこで彼らの主に出会って、そのことでヘブルやイスラエルになったと伝えられているのです。しかもその都市の名前が日本の『古事記』や『日本書紀』にも見られるわけです。即ち、それまでに何千年にも渡ってアフリカから中央アジアの広い範囲を舞台に遊牧と魔術を営み、それらを高度な方法論として体系化していたチュルク系の人達が、紀元前1800年頃にその方法論を初めて人間の群れに適用し、土地ではなく民族と結びついている点で極めて異例の、ただひと柱の人格神を信奉するヘブルやイスラエルが出現したということなのではないか?

また、アブラハムがカナーンの地で出会い、10分の1の捧げ物という極めて特別な待遇をもって接し、祝福まで受けたと伝えられるサレムの王メルキツェデクは、父も母もいなければ初めも終わりもない正義の王、平和の王で、アブラハムの神と同一の「いと高き神」と称される神に仕える永遠の祭司であったという伝承がありますが、ここにもヘブルやイスラエルを背後で操る者たちの存在が感じ取れる訳です。

この類の事例は、まだまだ沢山あります。今後折を見て、ひとつずつ詳述して行くつもりでいます。

世界中の古今東西の国々が、北部あるいは中央アジアの草原地帯を活動範囲とするある特別な組織に、何らかの目的の下、何らかの特別な手段で、まるで家畜であるかのようにコントロールされながら何千年も見かけ上の栄枯盛衰を繰り返して来た。その見かけ上の栄枯盛衰の中で、その隠れたコントロール主の辛うじて目に見えるエージェント、隠れ蓑として動いて来た特殊な民族集団がいくつかある。その内、西洋史の中で結果として最も目立っているのが、所謂「ユダヤ」ということになるのでしょうか?

東アジアにはまだ各国史しかなく、西洋史のような統一的な文明史が語られ切っていない。それが語られつつある今、やはりそこに「ユダヤ」が、したがって例のあの隠れたコントロール主の影が、西洋史と同じように仄かに浮かんで来つつあるということなのでしょう。中央アジアから東アジア、南アジア、東南アジア、北アジアの各国史を比較対照しながら統一的に研究することには、そういった重大な意味合いも含まれているわけです。

世界中の古今東西の年代記や伝説、神話を読んでいくと「実在しない北辺の地下理想郷」との交流が描かれていることが多いそうです。例えば、アルザルやシャンバラ、シャングリラなどです。

日本とテンプル騎士団やイエズス会との意外と古くからの水面下での深い交流も指摘されつつあります。

このような通常では合理化できない種類の交流も、事実として存在している以上、またそれについて論じようとする限り、その背後には、民族国家の枠を超えた国際的な結社勢力の存在を前提せざるを得ないと言えます。それだけの大規模な移動を伴った偶然とは言い切れない連携を突き動かす単一の、特殊で巨大なエネルギー源の存在を感じ取らざるを得ません。それをマヨさんは「お種」理論としてこの3年間(?)ブログ活動の中で鮮やかに展開されてきました。

⇨マヨの本音
http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/

何故ユーラシアの王朝が悉く「お種」に拘ったのか?例えば日本史でも、常盤御前と義経、頼朝、清盛、頼盛、池禅尼などの人々が繰り広げる物語ひとつをとってもそれは明々白々です。この集団の力の根源は謎に覆われていて非常に興味深い。ひょっとして・・・と想像力が刺激されるのです。麻薬と魔術?それとも超古代のハイテクによる操作?それとも本当に宇宙人アヌンナキがいるのか?「神々」とは太古に地球人を創造したハイテクの宇宙人だったのか?・・・などなどです。ただここは、ぐっと堪えてそこに踏み込まず、その何かを巡る事実を冷徹に集め、常識にも空想にも嵌らないようにしなければならない。

既存の歴史はどれも、語りであるが故の本質的な事実隠蔽だけでなく、語り手の都合に合わせたその場しのぎの意図的な事実隠蔽まで掛かっていると言われます。そして実際は、スペシャリストによって組織的に意図的に、何らかの統一的な技能をもって、捏造し尽くされてきたものだったのです。言わば、知識の伝達とは全く異なることを目的とした、途轍もない複雑さと奥行きを持った一種の迷宮だったのです。

飛鳥昭雄のユダヤ論/秦氏論要約(マヨさんへの手紙)

2012-05-25 09:00:33 | 日本論と宗教論
はじめまして。京都嵐山の飛鷹満と申します。

2週間ほど前に、きっかけは忘れましたが、このサイトの存在を知り、それ以来、一番最初の記事から順に読みつづけて、とうとうこの記事まで辿り着きました。日本史をユーラシア規模の大きな文脈で読み解く作業自体は私も、4年ほど前から自分の仕事の重要な一部として行っています。

自分とよく似た、しかし遥かに先を行く偉大なる先人。世の中は、上には上がある。素直に尊敬できる自立した知性と精神の持ち主。この人の仕事も自分の将来の仕事に重要な方向性を与えてくれるに違いない。これがマヨさんに対する私の印象です。

名古屋では何年か前にある予備校の英語講師として教壇に立っていました。ですから、マヨさんの住んでおられる町は私にとって、全く無縁な町とは言えないかもしれません。これから、少しではありますが、私の気づいたこともコメントさせていただけたら幸いです。

さて今回は、ヘブルとイスラエル、ユダヤ、原始キリスト教、偽ユダヤの概念をどう整理したら良いのかという話題になっているようですので、私も一言、簡単なコメントを入れてみます。

マヨさんは何年か前のコメントで、飛鳥昭雄氏について、「本当の日本の裏側を知らされた極少数の人のうちの一人」「若干の意図的なフェイクを入れているはずで、だからこそ面白い」と評価された上で、「秦氏のことを景教徒と結論づけている」と書いておられました。飛鳥昭雄氏の著作も手に入るものはほとんど全て読みましたが、この最後の規定には誤りがあります。ジェネラリストとして鋭い閃きの下、多くの貴重な文献を発掘して読破されておられることを十分に評価した上で、ある種の私なりの援護として、この点を指摘しなければと感じました。

飛鳥昭雄氏は、そのような通説を紹介した上で、その後推理を何段階も深めて、次のように明確に結論づけています。

「秦氏は、時系列上、景教徒ではあり得ない。イスラエル教の異端としてのパリサイ派ユダヤ教を、イスラエル教原理主義者や神秘主義者、カッバーリスト、預言者などの立場から痛烈に批判し、正統な霊性をこの世に刻み込むための秘教儀式の意味合いをも含ませつつ自ら十字架に掛けられたイエス。この聖人を中心に形成され、このような意味でのイエスの精神を継承した原始イエス教団。この教団がエルサレム陥落後に中央アジアや華北、満州、半島を経て、最後に秦氏として、あるいは忌部氏、賀茂氏(八咫烏。裏天皇。陰陽師。漢波羅)として、列島に入って来た。そして、それ以前の様々な時代に列島に入り込み、住みついていたヘブル人やイスラエル十支族、東方ユダヤ人(徐福の一族=物部氏)などの既存の神殿を統合し、全国に今あるような神社の初期形態を作った。一口にユダヤ人と称し、20世紀になって人工的に作り上げられた国家に過ぎないイスラエルの漠然としたイメージで事柄を分かったつもりになっているのが、全ての間違いの元凶となっている。(1)ヘブル(アブラハムに始まる)、(2)イスラエル(ヤコブに始まる)、(3)北イスラエルの失われた十支族、(4)東方のユダヤ人(マギを中心とする)、(5)バビロン捕囚後のユダ王国人、(6)原始イエス教団ユダヤ人、(7)エルサレム陥落後に中東やヨーロッパに離散したユダヤ人(スファラディやパレスチナ人など)、(8)ハザールの偽ユダヤ人(アシュケナジ)、(9)パリサイ派偽ユダヤ人サウロ=パウロによってアンティオキアに形成された、ギリシア語を喋る人達のキリスト教徒、(10)そのローマにおける発展形態としてのカトリック。これらは全て、厳密に区別すべきだ。そもそも、『ユダヤ』という発音自体、日本の習慣として採用はするが、大きな間違いである。正確には、『八幡』の訓読み(やはた)に近い発音がアラム語では行われていた。『寝ねず(いねず)』を『寝ず(ねず)』と縮合するのと同じ原理で、そこから接頭音の『や』を省いてできたのが、『幡』『波多』『秦』『畑』『羽田』『旗』などである。また、ギリシア語のイエス=キリストは、アラム語では『太秦』の訓読み(うずまさ)に近い発音になる」と。

ここで私は極めて大まかにしか紹介できませんが、飛鳥昭雄氏と三神たける氏による何冊かの古代史連作(ムーブックス)を読むと、遥かに詳しい筋の通った解説を目にすることができます。ここでの皆さんの論争を読んでいると、飛鳥昭雄氏による今述べたような概念規定が役に立つのではと思われ、そのことを伝えたいと思い立った次第です。参考にされてはどうでしょうか?

「朝鮮」及び「日本国民」の厳密な意味規定の勧め(RK氏への手紙 06)

2012-05-23 20:57:24 | 日本論と宗教論
日本は渡来人や帰化人から構成されている国です。列島原住民と辛うじて言える人たちの血液もごく一部は入っているでしょうが、それはあくまでもごく一部です。

「縄文時代の後は弥生時代。縄文人と弥生人は・・・」というよく見受けられる比較対称は、存在次元の全く違うものを比較するという間違いを犯してしまっています。「縄文人」とは実際は、弥生人渡来以前に列島に散在していた、今だ実態の確認されていない雑多な部族人のことで、弥生人ほど均質的な存在ではなかったはずです。また、沖積平野の低湿地帯の土木整備などしなかったはずで、住んでいる場所は弥生人が故郷と感じていたであろう領域とはやや異なる山間部や海岸部、河川上流部のごく一部に限られ(例えば京都盆地は湿地帯で、秦氏による大規模土壌改善事業以前に人は全く住んでいなかった。列島各地の各河川には橋も架っていなかった)、人口も列島全体で例えば100万以下などといった桁違いの少なさだった(現在の京都市ひとつよりも少なかった)に違いありません。しかしながら、ドイツ人モース博士の単なる土器形質の特徴に基づいた命名後「縄文人は弥生人とは違い」などと反復する内に、知らず知らずの内に概念の重大な変質を起こし、ある時期から現代日本人の古代への洞察に甚大な悪影響を与え続けるようになってしまったのです。従って「縄文」人という概念には極めて懐疑的にならざるを得ません。

ただし、このように指摘しても「弥生人渡来以前のアラハバキの神には極めて清澄で高貴なものを宗教家として感じる」とか、「火焔土器には日本的でない原初の力強い生命力を芸術家として感じる」という発言の重要性を否定するものではありません。それらを無自覚に「縄文人のもの」と規定するのが間違いだと言っているだけです。それらは、「縄文」人のものではなく、弥生時代以前に列島に散在していた沢山の雑多な部族の内いずれかの部族が持っていたものとしか言えないはずだということです。

従って、日本はほぼ99パーセント、渡来人や帰化人から構成されている国と言っていいと思います。それは現代でも、一般には見えないところで変わることなくずっとそうなっているに違いありません。

「これは飽くまでも支配者層の話で支配を受けている庶民の方は列島原住民なのではないか」と考える人もいるかもしれませんが、それも違います。渡来や帰化とは個人の渡来や帰化ではなく、支配者(王族や貴族、傭兵軍団、神宮)と民の渡来や帰化とならざるを得ない訳で、我々庶民のルーツは、これら支配層と共に渡来あるいは帰化した、当初からすでに情報統制を受けていた民だったにちがいないからです。

その民が支配層内の関係の様々な変動を受けて部族としての記憶を失い、村民としての意識を持つようになったと言っても、それ程受け容れにくい話ではないでしょう。

因みに、民衆の意識における「村民」(あるいは町民)が「日本国民」になったのはいつか?私はそれは、明治から大正・昭和期の近代化政策(特に憲法制定と学校教育、国家神道などの創始。何しろ明治以前は一部の例外を除いてほとんどすべての民に姓すらなかった)や諸外国との一連の戦争(特に朝鮮併合や日露戦争)の影響によってであり、そんなに古い話ではなかったのだから、それ以前は支配者の意識の中にしか「日本国民」という概念はなかったと考えるのが妥当だと考えています。

今我々が「日本国民」として日本の裏社会についてあれこれと論じる時、まずは、前者の明治以降の民衆の「日本国民」を意識しているのか、それとも後者の平安以来の支配者の「日本国民」を意識しているのか、明確に規定すべきであり、その規定の如何によっては「日本解放」の意味も、市民革命や日本共和国建国から日本王国復興、あるいは幕藩体制(つまり連邦国家制)復興やアジア連邦創設まで、本当に様々な色合いを帯びてしまうことになる・・・こう考えています。

それはそうと、具体的には、どんな渡来や帰化があったのでしょうか?

1)日本建国(7世紀)以前に半島・大陸や海のシルクロード経由で列島にやって来ていた葛城氏や秦氏、物部氏、蘇我氏、東漢氏、西漢氏を中心とする人々(紀元前1500年前後に東洋で最初の文明を打ち立てたのは、中国大陸ではなく九州北東部の豊国で、それが大陸に拠点を築いたのが一般に歴史に見られる殷王朝であるとか、九州という呼称は周王朝における全国の意味であり、九州が周王朝にとって何らかの重要な意味を持っていたのは確かだとか述べて、一般の縄文観とは全く異なる縄文観を詳細に展開している人すらいるのです)。紀元後は北魏や燕、高句麗、百済、新羅の王族が入れ替わり立ち替わり列島での勢力争いを繰り返していたという有力で興味深い説(小林恵子)もある。

2)日本建国時(7世紀)に列島征服という形で半島から列島に侵入して来て日本国を建国し、日本以前を何らかの形で隠蔽あるいは吸収した、元高句麗の支配層(淵蓋蘇文=天武天皇など)や統一新羅の支配層(金春秋や金庾信、文武王など)、その傭兵軍団としての源氏(新羅の花郎を率いる源花がその起源か)などの人々

3)7世紀に半島から列島にやってきて、奈良時代(8世紀)に勢力拡大と2)からの政権奪取に成功し、1)の協力の下で平安朝を作った元百済王族(百済王氏/クダラノコニシキシ。「コニシキ」とは新羅語で「古い王族」を表す「古尼師今」のことか?)を中心とする人々。この人達の傭兵軍団が平氏の起源か?藤原氏はこの流れの中で何らかの意図を持って形成された氏族か?

4)平安時代に半島・大陸や東アジア海上交易路経由で日本にやって来て律令制の枠の内あるいは外におかれた平氏(平安京には外国人を逗留させ日本語教育を行う寺院があり、教育を終えそこから出る際にはどの人にも「平」の姓を与えていたらしい)や蜂屋衆(山家衆に吸収され、後に明治維新の中心となった)などの人々。

5)鎌倉時代に半島・大陸経由で日本にやって来て律令制の枠外におかれた高麗の人々

6)桃山時代に秀吉の朝鮮出兵をきっかけとして日本各地に定住させられた李氏朝鮮の人々

7)明治・大正・昭和期に半島経由で日本にやって来て裏社会におかれた人々

8)戦後に韓国政府の弾圧を受け済州島から日本にやって来て裏社会におかれた共産主義を信奉する人々

特に一番最後とそれ以前とは異質です。

リチャードさん達はどうやら、これらを明確に区別することなく、極めて漠然とした外延をもって「朝鮮」と称しているようです。

金融偽ユダヤ人の手下となって日本社会を現在蚕食しつつある半島人は、最後の8)だけ、あるいは笹川良一や児玉誉士夫が戦前からの在日朝鮮人であるという説も考慮に入れれば7)と8)の二つだけ、しかもその全員ではなく、アメリカCIAから「スパイたれ」との誘惑を受けた時にそれを退けるだけの気概のなかった一部の者達だけ、となるのではないですか?

そもそも1)~5)の支配者層が明治以降に金融偽ユダヤ人達との連携を隷属とは必ずしも言えないような形で受け容れたり、戦後在日朝鮮人スパイ達との共存をやはり同じような形で受け容れたり出来た背景も詳細に考察しなければならないでしょう。

例えば、彼ら支配層はひょっとしたら、私たちほど強くは自分たちのことを日本人と思っていず、他の隠された別次元の世界規模の集団で金融偽ユダヤやユーラシアの諸王朝とも淵源を同じくするある未知の集団への帰属意識の方を強く維持しながら、日本と日本人のことはただ単に自らの既得権益として統治してきたに過ぎず、事実を知らないのは我々庶民だけである・・・などという切り込み方です。

また、半島は実際は文献学上は飽くまでも倭や韓であって、それを現在「朝鮮」と呼んでいるのは意図的錯誤であるという有力な説もあります。

朝鮮=チュシン=女真=満州=高句麗=日本=寺社勢力=清=清和源氏=清和会=etc.

といった等式を示唆する人すらいるのです。すなわち、明王朝成立以降にその影響下で成立した李氏朝鮮は厳密には本来の朝鮮でなく、朝鮮の古代神話で語られるようなバイカル湖畔をルーツとする本来の朝鮮の流れは、実は列島に入り込み、列島で維持されて来た。従って『朱蒙』や『淵蓋蘇文』『大王四神記』『広開土王』『善徳女王』『金尚古王』などの日本でもポピュラーになった韓流の歴史ドラマは、実際は日本の支配層が半島にいた時の歴史である可能性が極めて高いということです。この意味もきちんと検証していくべきです。私も今、このテーマを念頭におきながら猛勉強中と言ったところでしょうか?

「ややっこしいから、大まかに言うと」などと言って済ませないで、捏造の歴史を詳しく調べつつ裏社会観を深化させて下さい。そうでないと独立党も、大きな影響力を持つようになった今、思いがけないとんでもない間違いをしてしまう可能性があると思うのです。

例えば、戦後に出て来た創価や統一と平安の昔からずっと維持されて来た高野山とを、同一地平で切るような失礼な真似をしないで下さい。

真我への回帰

2012-05-18 16:38:42 | 日本論と宗教論
コスモさんが次のような非常に重要なインド思想あるいはタロット思想の存在を教えて下さいました。

〈Dominus=主人(生命の本来の調和と秩序を保つ力のことで個人の中にもある)が何処かで入れ替わったこと又は否定されてきたことが支配というもののイメージの変化にもつながったのではないかと私は思います。例えばヨガ(ヨガとは元々宗教用語ではなく「道を外さず人生の目的地へ行く」ことを意味する普通の言葉)の聖典『カタ・ウパニシャッド』では「真我(アートマン、無)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちは諸々の感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼んでいる」と述べられています。タロットの「戦車」でも同様のことが確認できます。ただこのタロットの「戦車」の場合は最古のものと現在のものには違いがあって、最古の「戦車」で描かれているオーナー(車主=真我)が現在の「戦車」には描かれていないのです。これはすなわち、御者がオーナー(すなわち本来の支配者たる真我)から離れてしまっていることを暗示しています。理性である御者が暴走し道に迷ったせいで私たちが現在イメージするような支配が生まれてしまったのだということを暗示していると思うのです〉

ここには極めて重大なことが的確に伝えられていると、私も思います。本来の至高の支配に戻ることが何より大切だというメッセージです。どうしたらそこに戻れるのでしょうか?

ここで私は、福音書のイエスの言葉に次のようなものがあることを想起しました。

「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと、自分の身體のことで思い煩うなんてことはやめなさい。命は食物にまさり、身體は着物にまさるのだから。空の鳥を見るがよい。播くことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それでも天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも遥かにすぐれた者のはずだ。それに、思い煩ったからといって誰に自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか?なぜ着物のことで思い煩うのか?野の花がどうして育っているか考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしないだろう?それなのに、栄華をきわめた時のあのソロモンよりこの花ひとつの方が、装いの美しさでは優っている。今日生えていても明日になると炉に投げ入れられるような、そんな儚い野の草でさえ神はこのように装って下さる。とすれば、あなたがたへのはからいがそれ以上にならないはずがないだろう?ああ、信仰の薄い者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと、思い煩うな。これらのものはみな異邦人が切に求めているものだ。天の父はあなたがたにこれらのものが悉く必要であることをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、添えて与えられるのだから。明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩う。一日の苦労はその日一日だけで十分だ」

この言葉を初めて耳にしたのは、様々な問題を抱え悩みながら浪人として大学受験の準備をしている時でした。日曜早朝、つけっ放しで寝てしまったラジオから流れてくるこの言葉で目を覚まし、何故だかひどく感動してしまったのが、私が神について考えるようになった最初のきっかけでした。九州の片田舎にいて、ラジオのリクエスト葉書なんてことは知っていたけど、自分には何だか縁遠いことでそんなことするなんて考えられないと感じていたくらいの私が何故か、ラジオから伝えられる住所に、東京なのかどこなのか分別などないまま葉書を送り、小型の福音書を送ってもらったのでした。読み込んだりするはずもなかったのに。・・・その15年後、京都のカトリック教会で洗礼を受ける私がいました。その時、世話役をお願いしたご夫婦にこの話をしたところ、嬉しそうな驚いた顔で「それは、京都のカトリック教会が行っていた活動で、ハヤット神父の下で私達もお手伝いしていたのですよ」とおっしゃるのです。その時の私の気持ちは皆さんにも十分に、ご理解いただけるものと思います。

それはそうと、この言葉では、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、明日のことをひたすら思い煩う自我と、そういったことに思い煩わず、まず神の国と神の義を求め、野に咲く花のように今日一日を精一杯に生きる自我とが、極めて素朴な印象的な対比によって描き出されています。後者の方が本来の自我だ。そこにある支配は思っているよりずっと穏やかで優しいものだよ。だからそこに回帰しなさい。お手本は野に咲く花だよ。こう言っているわけです。

この言葉には、19歳の右も左も分からない、キリスト教なんて信じている人は周りにひとりも存在していなくて「以後よく広まる」くらいしか知らず、弱々しい雰囲気をややバカにしてすらいた、そんな田舎の悩める若者の心にも、その奥底に届いたのです。この言葉にはそれ程の力がある。これは紛れもない事実です。

宗教嫌いの意外に単純な理由のひとつ

2012-05-17 02:04:04 | 日本論と宗教論
言葉に対する誤解や無知が余計な混乱をもたらすこと、特に外国語の翻訳の際に紛れ込む誤解や無知においてはそれが激しくなること、これらについては誰もが、そう言われればそうだと当然のように感じることでしょう。ところがこれは、実際には、その感覚を遥かに上回る程度にまで侵食してしまっている、意外に深刻な事態なのです。言霊とはよく言ったものです。

例えば、I have a pen. の日本語翻訳について。こんなの中学校で一番最初に習ったよ。Iが主語で「私は」、haveが他動詞で「持っている」、a penが目的語で「ペンをひとつ(一本のペンを)」、全体として「私はペンを一本持っている」と訳すのだろ?何を今更?・・・大半の人はこうおっしゃることでしょう。しかし、これは文法的に完全な間違いなのです。実際は「ここにペンが一本ある」と訳すのでなければならない。have は他動詞じゃないから受動態にも進行形にもならないのです(詳細は私の最初の著作になる予定の『あなたの知らない英語の世界』を、もし出版されることがあったら、お読みになって下さい)。

「象は鼻が長い」の主語はどの部分でしょうか?天下の『広辞苑』の「は」の項目には、主語は「象は」であると堂々と書き込まれています。また『象は鼻が長い』という書名の書物では(筆者名は忘れた)、「このように主語がふたつもある言語は珍しい。この点でも日本語は他のどの言語よりも優れている」とすら書かれています。しかし残念ながら、それは違います。この文は「象(について言え)ば鼻が長い(と言える)」の略で、主語はただひとつ「鼻が」だけというのが正しい解釈になります。副助詞と称される「は」の実態は、接続助詞「ば」の変形でしかなかったのです。

「神」という翻訳語も、それを使う時に、カトリックの神父も学者仲間も、やや苦笑気味に使うのは事実です。「主」「父」「ありてあるもの(ヤハウェ)」「エル」「ヤー」など、呼称に相当な気を使うのは、ある特定の本来の場所に行けば当たり前のことなのです。

神道では、「御霊」と「御霊分け」、「霊と魂」の違いが理解出来なければならないのですよね?

因みに、史上最低の誤訳は、福沢諭吉君の「人民の人民による人民のための政治」でしょう。民主主義を根本から誤解させる翻訳になってしまっています。諭吉君はなぜ「統治システム」と訳さなかったのでしょう?「統治」がそんなに嫌いだったのでしょうか?

ある人が紹介してくださった『Zeit Geist』という名前のビデオの1~3(YouTubeで見ることができる反キリスト教プロパガンダのビデオです)でも、『黙示録』の「この世が終わる」は「この時代が終わる」の誤訳といったことが取り上げられていました。

因みに、「世」とか「世界」のことを空間的に捉えて「この世が終わる」とはこの地球や宇宙がなくなってしまうことを表すのだなどと考えること自体が実は、間違いなのです。「世」とか「世界」の根本概念は、「結び付き」「ネットワーク」です。従って「この世が終わる」とは、「今存在している万物間の、ひいては人と人の(社会の)結びつきのあり方が一旦解ける」という意味でしかないのです。だから間違っているのは、間違いを指摘しているつもりのこのビデオの方だったわけです。要するに、こんな基本的なことにすら、誤解がベッタリと張り付いているのです。

「宗教は嫌い」の「宗教」も、その典型でしょう。人は自分の狭い体験でしか物事を見れなくなってしまっているのです。嫌いにならざるを得ないような「宗教」しか知らないのでしょう。それにしては、嫌い方が激しくなりすぎるようです。何故でしょう?

しかし、これらは、粘り強く訂正しながら進んで行くしか対処方法のない、この世の日常茶飯事です。そんなことでいちいち、目くじらは立てないでおきましょう。

ところで私は、主の祈りを知っている以上自分の人生が奇跡の連続以外の何物でもありませんから、目の前で「奇跡的」な自然現象が起きたところで、心は全く動きません。

ウエサク祭に参加した時、確かにそのようなことが起き、群衆が一斉にどよめくということがありましたが、あの日本人に集団でこのような反応をする部分が残っているんだなあという強い感慨を抱いただけで、自分はその只中で、いつものように、主の祈りを唱えただけでした。

ウエサク祭に出て「確信した」と言ったのは、その発言の際はやや説明不足でしたが、寺の建物の地下の奥の方に行って、膨大な数の信者達の「遺髪」を見た時でした。説明によるとある種の宗教的信念からそのようなことが行われるということでしたが、それらを詳しく見てみると、その他のいくつかの姓に並んで膨大な数の秦姓が並んでいるのです。「奇跡」に一斉に反応する群衆の姿と鞍馬の信仰に一心に打ち込む無数の秦さん達の痕跡。これが私に、日本の隠れた生きた何かを確信させてくれたのでした。

彼らは、魂を捨て私利私欲に走っただけの、外国勢力の単なる傀儡に堕してしまった所謂ゾンビなのでしょうか?私には、脈々と生き続ける日本の根幹のひとつに感じられました。いつかはきっと、立ち上がって出てくるはずです。あの群衆と共に。

ところで宗教課税は、宗教団体のある種のランク付けを行った上で、課税率を0.1パーセントあたりに定めて、実施さるべきものと私は考えます。「坊主金払え」は、あまり好ましい表現ではないですよ。謙虚に、謙虚に。

インターネットの意義(コメントへの回答を兼ねて)

2012-05-16 12:07:28 | 日本論と宗教論
家畜を野生に戻すことは、事柄の本質上十分に予想できることではありますが、実際もやはり相当に難しいことだそうです。野生の群れがやって来て敬遠したり殺したりせずに静かに受け入れてくれない以上、なかなか難しい。家畜を群ごと全部野生に戻すことに至っては、言わずもがなです。多くの個体が適応し切れずに死んでしまう。ただし、家畜が野生化して繁殖している話を全く聞かないわけではありません。

インターネットの普及とインターネット上のコミュニケーションの興隆、裏社会関連のいくつかの情報収集センターの発生は、自分達が家畜であること、この世界のすぐ裏側に支配のための邪悪な裏社会が自分達と全く同じように有限な存在構造を持って存在していること、自分達にはそれを理解し撲滅する力があること・・・このような自覚が大衆の間に広がっていることを意味しているように思われます。

インターネットの普及とインターネット上のコミュニケーションの興隆、裏社会関連のいくつかの情報収集センターの発生。・・・これらが偶然の産物であるはずがありません。大衆への上のような自覚の広がりは、コスモさんが極めて広範な教養を背景に示唆してくださったような、

〈egoを超え、本来のオーナーの下に所属した人々から成り、正しい生命観と生々しい生命感に基づいて人類の自発的行為をも含めた宇宙周期を既に十全に理解し尽くした、遥か歴史の彼方から現在に受け継がれている何らかの存在〉

によって導かれているに違いありません。それらによって仕掛けられ、現在に展開されている宇宙規模の壮大な魔術の一貫であるに違いないのです。新しい時代を作るのは誰なのか?生き残るのは誰か?そう問いかけられている。

野生の人間に戻るよう促されている家畜たる我々の運命は、仰るように、この新しい状況への適応力の発揮によって峻別されるのでしょう。今ここに至って人間だけが、自然の掟の埒外に置かれているはずがないからです。

自然を見さえすればいいじゃないか!そこには至高の支配の形跡が明確に刻まれている。君達が忌み嫌っている支配は、ある意図の下である時から巧妙にすり替えられた偽物の支配でしかないのだよ。本来の支配の下に戻るんだ!そうでないと、否応なく淘汰されてしまう。裏社会の構造の深く精確な理解も、その撲滅も、その撲滅後の新しい社会の躊躇なき力強き建設も、全て、それに掛かっているのだ。

こんな声が聞こえて来るようです(あのデービッド=アイクもこのように要約できます。ただし、さらに過激な意味で)。従って、コスモさんの質問への私の回答は、Yesです。

「宗教」と「支配」への無条件の拒絶反応、宗教性への無感覚、世界観や人間観の矮小さと奥行きのなさ、仲間内での賛同に伴う快適さへの偏重、動機と目的意識を規定しようとする意識の欠落、論議への過小評価、異分子への感情的な攻撃傾向、自分達が「宗教」的で「支配」的に(しかも最も危険な形で)なっている事実への自覚の欠落、などなど。そのような人達が大勢いることは、明らかです。この人達に新しい世界を作ることはできないだろう。仮にできたとしても、自分だけはそこには暮らしたくない。NWOが大規模な人口削減などという悍ましいことを企んでいるらしいが、そういう発想にも残念ながらある程度は言い分があるかもしれない。・・・実は、いつもそう感じてしまっています。決してそのように開き直ることはありませんが。

それに対して、「これは凄いな。本物だ。よくここまで」と素直に感じせる人も間違いなく複数います。こんな人達に比較的容易にアクセスできるなんて、本当にすごいことになっているものです。ここには微かな希望の光が見えますね(ただし、その周りには必ず、大勢の俗人がいる)。

今回のコスモさんのコメントには他にも検討して咀嚼し、お返事を差し上げるべき項目が満載ですが、取り敢えず、ご質問への回答のみということで、今回はご容赦下さい。





鞍馬

2012-05-15 00:46:31 | 日本論と宗教論
鞍馬が明治以前から持ってきた第六天魔王=観音=毘沙門天の信仰体系は、インドから中央アジア、中国を経て、平安時代に列島に入ってきたものです。

信長が「我は第六天魔王なるぞ」と言って京都の勢力をその勢力自身のターミノロジーを用いて恫喝したことは、信長が鞍馬の意味をよく分かった上でその覇権業を進めていたことを、よく表します。

マヨさんいわゆる「高お種度」の義経が鞍馬で十年間保護され、修行したというのは、鞍馬が「お種」センターの日本出張所だったことを表しているはずですよね?

第六天魔王=観音=毘沙門天の思想は日本の生きた伝統のひとつだったのです。

明治になって、これを鞍馬で継承していた人が、世界中の宗教思想を俯瞰しつつ、「インドにはやはり、我々のルーツがあるなあ。神智学協会という現代になって立ち上がったものも、我々とルーツを同じくしているなあ。閉じ籠らずに積極的に交流して行こう」と考えて色々な新しい試みをして行ったら、それだけで即、統一協会やオウム真理教と同じレベルの「オカルト新興宗教」になるのでしょうか?かなり乱暴な決めつけに感じますよ。

そもそも、秘教的だとそれだけで即、「オカルト」のレッテルを貼り、邪悪なものと決めつけるのは、宗教を知らないからでしょう。「宗教的価値の最大の危機はそれの分からない人に誤って理解されることだ。従って、ある段階までは秘匿(オカルト)されなければならない」と、昔から宗教界では周知されてきたのです。例えばイエスは、「聞く耳のある人だけ聞きなさい」とか「子供のような心を持った人でないと天国のことは分かりません」と言っています。宗教には全身全霊で向き合うべきで、どんなに広くて詳細でも、知識だけではかえって、理解が退歩してしまうのです。

金星や龍も、邪悪な悪魔崇拝者達の存在している西洋の文脈では邪悪なものですが、彼らのいない東洋では全く逆の評価になっている。これも、今さら言うまでもないほどの常識です。この辺のズレを鞍馬は、邪悪な世界統一宗教に対して、隠れ蓑としてうまく利用しているというのが実際でしょう。そもそも、金星を信仰しているから悪魔崇拝のオカルトだというのは、求聞持法を成し遂げて金星が口から体内に入り、虚空蔵界の無限の知恵を手に入れたと言い伝えられる空海をオカルト新興宗教と言うくらい、陳腐なことですよ。

神智学協会は、ヨーロッパから出てきた流れですが、ヨーロッパ的なものを否定して、ある段階である邪悪な者達にある邪悪な意図の下で捏造されたイエス像の最奥に東洋的なものを発見し、その本来の姿を復元しようとしたものでしょう。神智学協会だから良くないという言い方そのものがそもそも、「あちら側」の価値観に基づいたものだと私は感じますが、百歩譲ってそうでないとしたら、その論拠は何でしょうか?

唯一無二の絶対的な霊性が私は少なくとも世界の何処かに大切に保存されていると信じていますが、「唯一無二の」とか「絶対的な」とか「霊性」とかいった用語法がある種の良くあるタイプの現代日本人にどんな受け取られ方をするかよく分かった上で使ったのです。その方々は、それが何処かに保存されているという事柄どころか、そんなものの存在すら拒絶反応してしまうように「あちら側」の人達に「プログラミング」(デービッド=アイク)されてしまっているのですよ。

「キリストが目の前に現れてもキリストと気づかないキリスト研究者」(トルストイ)ではないですが、宗教のことが全く分かっていない、宗教音痴の宗教研究者というのも、大学ではよく目撃したなあ。

主の祈りについて

2012-05-13 21:33:59 | 日本論と宗教論
「主」とは、支配する者の意味です。「主」という言葉は、私の知っている主の祈りの中には出てきませんが、補おうと思ったら、「主の御旨が」と補えないこともありません。しかしその場合でもこの「主」は、イエスでも、文鮮明でも、麻原彰晃でもなく、唯一無二の正義の人格神である「父」のことです(「主の祈り」という表題の「主」はイエスのことですが)。

「御国」とは、この神による支配のことです。神以外の邪な者達のお金や武力、情報操作などによる、人間性に対して抑圧的な支配が蔓延る中、この世にこの唯一正当な神の支配が実現して神以外の邪な者たちの支配が終わり、正しい心の人達が抑圧されなくなりますように、と祈っているのです。

2000年に、日本のカトリック教会は、この「主の祈り」の翻訳を変更しましたが、私は元の文語調のものを好ましく思っています。

「天にまします我らの父よ、願はくは、御名の尊ばれんことを。御国の来らんことを。御旨の天に行はるる如く、地にも行はれんことを。我らの日用の糧を今日我らに与え給へ。我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給へ。我らを試みに引き給はざれ。我らを悪より救い給へ」

地上的な支配によって痛い目にあってきた人達がそれらから解放されて、正しい支配の下に移れますようにというのが、主旨なのです。

解釈によっては、「地上ではどんな支配も正当な支配ではないと主張している」と解釈できるくらい、過激な内容なのですよ。特に当時は、パリサイ派(今で言うとオウム真理教や統一協会、創価学会に当たる)による間違った宗教支配からの解放の祈りと、受け取られたことでしょう。

イエスのこの説教が後の中世ヨーロッパの何処かで行われているものだったとしたら間違いなく、当時のキリスト教会による間違った宗教支配からの解放の祈りと断言したことでしょう。そもそもイエスは、クリスチャンではありませんから。

にも拘らず、これは飽くまでも、支配そのものの否定とはなっていないのです。ジョン=レノンが金融偽ユダヤの意向に沿って『Imagine』で露骨に洗脳しようとしているようなアナーキズムでは、決してありません。また、「我ら」と言っている以上、無責任な現代日本風の個人主義でもありません。

この世の邪な支配に耐えながらも理想の支配の行われる時代の到来を諦めないこと、さらには現時点においても、少なくとも自分と自分の周囲の人々との関係の中ではそれを常に実践し、如何なる抑圧関係も生まないよう心掛けること、こういったことの決意表明にもなっているのです。また、日々の食べ物すら、勿論弛まず労働はするのでしょうが、それでも結局は神から与えられるのでないと手に入らない貴重な物で、自分の所有物として我儘勝手に出来るような代物ではないという、大いに注目すべき反共産主義的かつ反資本主義的思想まで入っていますよ!

私はこれを、多くの人が毛嫌いしているところの「宗教」ではなく、理想的な宗教性の明確な定義と認識して尊重しているのです。

魔術の実在性を理性的に考察してみると

2012-05-13 02:47:14 | 日本論と宗教論
イエスが我々に教えて下さった「主の祈り」は、宗教性の端的な定義になっていて、天的あるいは霊的なもの(理想)の現実化がこの世における人間の使命であることを明確に悟らせてくれます。

「天的あるいは霊的なもの(理想)の現実化」と言えばやや仰々しい感じがするかもしれませんが、日常生活でも比較的頻繁に体験されていることのように、私には感じられます。

例えば、受験生が志望校合格を目指して勉強して行く際には先ず、志望校合格という目標を信頼できる教師の助けを借りながらできるだけ具体的にイメージしなければなりません。次に、そのイメージの下で今を冷徹に観察しつつ弛まず運動する。そして、そのような単純反復運動を通して見えてくる理想と現実の差を踏まえた上で、再び教師の助けを借りながら目標をより具体的なものに育て上げるのである。そうした上でさらにもう一度、そのイメージの下で今を観察しつつ弛まず運動する。・・・こういうことを繰り返して行くのでなければなりません。するとある瞬間に、イメージの具体性が一種の飽和状態に達するわけで、その瞬間に一気に理想が何らかの形で現実化して来る。

これはまさに、理想の現実化つまり宗教性そのものであり、

1)祈り(希望)
2)構想力
3)弛まぬ単純作業
4)自己批判力
5)折れずに進んで行く、子供のような単純なプラス思考
6)教師への信頼
7)生活の規則的な自己管理

などが、その必要な要素となっていることも示しています。この方法論の体系をある領域では「魔術」と呼ぶ場合もある訳です。

このように私達も、個人のレベルで、それぞれの場所で、「天的あるいは霊的なものの現実化」を行うことがあります。人間が人間として価値ある人生を送れるかどうかは、このような意味での自分の仕事をどれだけ忠実に果たせているかにかかっていると言っても過言はありません。

ところで、ここで、ある最も根源的な理想を何千年も何世代も途切れることなく継承しながら圧倒的な体系として編み上げた技能をもってこの魔術を、組織的に秘儀として行っているグループを想像して見てください。

私は、そのようなグループが現在でも世界中に実際にいくつかあって、その中で最も有力で、世界をもう随分前から(不幸なことに邪悪な意図に侵されつつ)支配し続けているグループが、皆さんもよくご存知の悪魔崇拝者グループなのだろう(金融偽ユダヤ)。敵は途轍もなく優秀な魔術師軍団なのだろう。従ってそれに対抗するには、彼ら以上に習熟した魔術を持ってこちらも秘密結社化しないといけない。どうしたらそれが我々のものになるのか?このように考えるに至ったのです。

今のこの論述の中で用いられている用語には、現代人の心に激しい抵抗感や恐怖心が起こるよう、極めて巧妙な魔術が仕掛けられているとも考えます。「宗教は政治の道具で、過去の紛争は全て宗教対立が原因である。宗教団体は、どんなものも必ず腐敗するものだ」という説を私達はよく耳にします。少し詳しく調べれば必ずしもそうなってはいないと確認できるのに、何となくのイメージで何の抵抗もなくそれを、事実として受け入れているのです。魔術は人々の知性にではなくイメージに掛かってくるものだからです。例えばジョンレノンの 『Imagine』 が、それを露骨に行っていると私には感じられます。

でも、今私が皆さんを誘導したように、その束縛を意識的に取り除きつつ冷静に考えてみると、そんな一見突拍子もない発言も極めて現実的に感じられてきますよね?

善なる意志をもった唯一無二の絶対的な霊性の、長大な計画の下での極めて巧妙な潜伏も、上記のような悪魔崇拝者グループの存在がある程度認知されるようになった以上、そんなに唐突な話ではなくなっていると言って良いだろうと、私は考えるのです。

しかも、いろいろと調べていると、驚いたことにそれが、我が日本国に我が日本国の根幹として潜伏しているにちがいないということになるではないですか!

私の信念

2012-05-12 01:53:28 | 日本論と宗教論
信念は何かという問いに対する私の答えは、次のようになります。時間と能力の限界上、必ずしも明瞭にはなっていないかもしれませんが、可能な限りの明瞭さ、精密さで答えるべきなのは今をおいてないと決断し、心を込めてまとめてみました。質問には必ずお答えしますので、丁寧に読んでいただけたらと思います。

(1)列島に住み日本語を用いて生きている人々が、個人として自分の資質と能力を十分に活かし、充実した人生を送る機会を、現時点において完全に奪われているということを、信じています。

(2)従って、列島に住み日本語を用いて生きている人々が、家族としても、民族集団としても、国家としても、自立して生きていけなくなっている、あるいはその意味や必要性すら感じられず、邪悪な者どもによる屈辱的な支配は全く嫌悪しないのに、支配と聞くとどんな形態の支配であれ無意識の内に嫌悪感を抱き、その結果、個人の中に閉じこもってしまい、かえって邪悪な者どもの巧妙な支配を許容してしまう、そんな酷い状況にまで追い込まれているということ、つまり一種の精神的・文化的な「亡国・亡郷の流民」になってしまっているということを、信じています。

(3)この状況に気づき戦慄して、懸命に情報を集め、それをできるだけ広く流布しようとする人達や、その情報を受けて納得し、時代に向ける眼差しのあり方を変える人達の数が、かつてない程の規模や速度で増えているということを、信じています。

(4)しかし、それらの情報発信源が、互いに連絡を取り合い情報の確度や精密度を上げるという、当然行われるべき作業に入らず、互いに傍観しあっていることや、ある程度ちゃんと生活できている以上現状をそれ程問題とは感じず、真実の暴露に触れると激しい拒絶反応を起こす、そんな人の数が今だに巨大であること、暴露も単なる面白半分の暴露に留まり、明確な解放運動として表明されることが稀なことなどから、ほぼどの運動も、「だから何」という問いに答えられず、崩壊寸前に陥りつつあるということを、信じています。

(5)「だから何」に答える為には、それら新勢力が結集することで互いの欠損を補いながら、邪悪な裏社会支配構造をより深くより精確に解明していくしかないということ、つまり裏社会学会や日本解放同盟の(十分な対スパイ防御線を巡らせた上での)設立が急務であるということ、その際にマヨさんを含む数人の人達が重要な責務を帯びる可能性があるということを、信じています。(手始めにマヨさんが、福島原発事故の状況の深刻さについて、リチャード=コシミズ氏と公開討論すべきであるということを、信じています)。

(6)莫大な量の金塊を手元に置いて巨大な財力を密かに発揮し続けているとの伝説がある今上天皇の力の源泉となっているに違いないとマヨさんが看破した「お種」の意味を、マヨさん自身が形而上学的に問い詰めるべき時に(何故なら、お種理論が歴史事象の説明に極めて有効であるということは、それが真実であり、そこには形而上学的な根拠があるということを表しているに違いないから)、宗教アレルギーからそれを避けてしまっていることが、近現代日本についてのABCDE理論が登場した時にマヨさんが、これまでの自説を修正補足ではなく保留撤回しなければならないかもとやや絶望してしまっていることの原因となっているということを、信じています。

(7)「妄想」を「だから何」の試練に耐えられるようにするには、宗教は権力者に利用されやすいからという原則の適用範囲を明確に限定するなど、宗教についての正しい理解が必要不可欠であるということを信じています(マヨさんが世界支配民族のルーツと洞察しているバンツーの世界観は、マヨさん推奨のアフリカ文献の『終章-2』によると、私が魔術として説明している事柄と全く同じになっていますよ。注目してください)。

(8)お種センターの影響下にある国には必ず、その価値観を受け入れるのを可能にする形而上学的根拠を宗教として信じ切っている集団が、二重三重の入念で熟練した霊的かつ社会的仕掛け(カッバーラ)の下に潜伏しているはずだということを、従って日本国においても、近現代のC勢力が(いくらBDEの外国勢力やAの売国奴勢力と結託し宗教団体として腐敗しているように見えようとも)かつてY勢力だった時に持っていた宗教的な中身を、必ず何らかの方法で保存しているはずだということを、信じています。また、その発掘あるいは推定が日本復興には急務であるということを、それはギリシア語でイエス=キリスト(アラム語でウュズ=メァシャ/うずまさ/太秦)や弥勒(マイトレーヤ)、観音、シャンバラ、密教、第六天魔王(サナートクマラ)などと何らかの関係があるはずだということを、信じています。

(9)天皇が傀儡だとしたらそれは、外国勢力の傀儡ではなく、この隠れた密儀集団(裏天皇/八咫烏)の傀儡であるに違いないということを、信じています。(飛鳥昭雄はもっと多くの人に、この角度からもっと徹底的に、読まれるべきであるということを信じています)。

(10)神道が形式的で中身のないものに見え、ほとんど全ての日本人が仏教やキリスト教などと違って大まかな説明すらできないのに、それにも拘らず、極めて大規模な生きた宗教として現存しているのは、その中身が密儀の本質上何重もの仕掛けの奥に隠されているからであるということを、信じています。

(11)日本復興の主体となるのは、天皇とC勢力の仮面を脱いで復古したY勢力、XーA=Zの新武士軍団、日本の魂と仕組み、現在の屈辱的な状況などを完全に理解し切った国民となるだろうということを、信じています。

(12)近現代の欧米悪魔崇拝者グループと金銭が排除すべき敵であるということ、日月神示の解釈者のうちの何人かが主張しているように、お金のない社会(金銭を媒介とした蓄財の為の就労ではなく純粋な社会貢献の為の就労がベースとなっている社会)の構築が来るべき未来社会像として周知さるべきであるということ、人間と宗教の意義が真の意味で全ての人間に理解さるべきであるということを、信じています。

(13)その時その時の精神的活動の前提となる仮説を、それが間違いと判明した時に、(撤回ではなく)修正補足すべきであるということ、それを可能にする為にも無限のパースペクティブを持ってその中で手元から奥に向かってあれこれと読み解いて行くという超越論的 transcendental な(すなわち宗教的 religious な)態度は決して放棄すべきでないということを、信じています。

(解説:超越している transcendent = transcending ものを記述するのは矛盾である。超越しているものを記述することはできない。だからと言って、超越しているものとの関係性 transcendental(-al は「~に関わる」を意味する接尾辞) まで否定すると、人間の人間としての価値を全て根こそぎ排除してしまうことになる。これが超越論的哲学で、私の研究によると、インマヌエル=カントがこれを提唱した時、イエスの「主の祈り」が示す宗教性の定義を下敷きにしていたに違いないということになる。)

今の日本の何が駄目? 02

2012-05-11 01:57:11 | 日本論と宗教論
マヨさんがA勢力と言っているのは要するに、瀬島隆三、笹川良一、岸伸介、児玉誉士夫、中曽根康弘、小泉純一郎、朴正煕、李明博、自民党清和会、理研、電通、丸紅、読売、正力松太郎、渡辺恒雄、北朝鮮、朝鮮総連、統一協会、創価学会、公明党、民主党凌雲会、みんなの党、etc. のことですよね?

この人達は、旧日本陸軍や満州国、頭山満、玄洋社、戦前の右翼、戦前の日蓮宗、石原莞爾、寺内元帥、長州閥、蜂屋衆、大江山霊媒衆、源氏、平氏、大本教、清国、元王朝などの流れが敗戦によって途切れた時(日本から武士が消えた時)、生き残ってアメリカCIAと取引し、戦後の日本をアメリカ植民地として動かしてきた人達でしょう。

日本人の魂と言った時に、戦前の陸軍を中心とする系譜の人達が受け継いできた武士道精神のことを、ひとつは思い浮かべます(廃刀令や散切り頭、西南戦争、五稜郭の戦い、民権運動でも、武士は消えなかったと考えます)。この系譜を仮にXとした時に、私が問題にしているのは、ひとつは、本当にXーA=0なのかということです。XーA=Zが、例えば自衛隊の何処かに潜伏しているのではないかということです。欧米の世界統一政府に迎合していない、あるいは侵食されていない、武士道精神の生き残りの人達です。

C勢力と言っているのは、旧華族、下上賀茂神社や伊勢神宮、八幡神社、稲荷神社などの神社ネットワーク、浄土真宗、浄土宗、比叡山、鞍馬、などの各寺院、修験道の行者達のことですよね?

この勢力も戦後、アメリカCIAとの関わりを余儀なくされたでしょう。宗教法人の制度などによって保護されると同時に、自由を奪われていることでしょう。戦前の、このような変質を被る以前のこの勢力を仮にY勢力とします。C勢力がかつてY勢力だった時に持っていた精神が、戦後C勢力とならざるを得なくなった時に、本当に全て消えてしまったのでしょうか?アメリカCIAや、戦後教育の中で形成された宗教アレルギーの知性には想像もできないような、何か特殊な方法で密かに保存されているのではないか?私はこのように問いかけているのです。

上に述べたような私の直感が正しければ、日本復興を行うのは、天皇とXーA=Z勢力、C勢力の仮面を脱ぎ捨てたY勢力、それに日本の魂を正しく理解し切った日本国民でしょう。逆に、私の直感が外れていて、旧体制を根こそぎ抜いてしまうが如き市民革命しかないということになったら、それこそ外国勢力の餌食ですよ。日本壊滅でしょう。日本に未来はありません。

日本を「しゃぶりつくそうとしている」のは、A勢力やC勢力、それにB、D、Eの外国勢力でしょう。

X勢力やY勢力、天皇家は、日本を創り、1100年間支配し、日本的なものを支え、この100年間は、近現代の荒波を避けるかのように、いろんな形で潜伏しているはずです。その中核に、カトリックや偽ユダヤ、悪魔崇拝教などとは別格の、隠された(つまりオカルトの。オカルトという言葉についた色は捨てるべきです)本当のキリスト教や本当のイスラエル教などがある。宗教対立などという政治的な意図的でっち上げの下で、欧米の怪しげな勢力によって目指されている世界統一宗教とは全く異質なのに、宗教アレルギーの現代日本的知性からはそれと混同されがちな、本源的な霊性の系譜が日本にあるはずだということです。西洋ではカトリックやハザールの偽ユダヤ、悪魔崇拝の秘密結社などの系譜があったが故に、宗教が露骨な人間阻害の道具となってきたでしょうが、この本源的な霊性の系譜は、人類の将来の為に西洋世界や帝国興亡の渦から脱出し、自己防衛しながら、東へ東へと進み、目指していたかのように列島に辿り着き、巧妙な霊的仕掛けの下、何処かに潜伏したに違いありません。

私が述べようとしているのは、こういうことなのです。

今の日本の何が駄目?

2012-05-11 01:11:09 | 日本論と宗教論
我々日本人が受けてきた抑圧の内容を明確に自覚して初めて、敵の正確な見定めも、反撃の動機の強化も、方策を的確かつ精妙に組み立てる構想力の獲得も、目標実現の為の意志や団結力の強化も、兎に角全てが可能になるものと、私は考えます。不完全かもしれませんが、私が私の視点から嚆矢として、次のようなリストアップを提示してみます。皆さんの補足、批判、改訂を求めます。

(1)原爆や無差別絨毯爆撃、徴兵枠の方針なき拡張、戦争集結プランの欠如と不必要な戦争継続などにより、多くの一般市民が、理由も分からないまま、殺害された。

(2)戦争中から現在に至るまで、複数回に渡って、人工地震・津波、オウムテロなどが仕掛けられ、多くの一般市民が、これまた理由も分からないまま、殺された。今後もそうなる可能性がある。

(3)適正な率の税金の徴収を受けて適正な規模の支配体制を支えることには、ある程度の必然性があると考えるにしろ、米国債の過剰購入や官僚の裏金工作の蔓延、宗教非課税によるヤミ経済の跋扈、財政投融資の過剰規模、株の政府ぐるみの大規模な、組織的インサイダー取引の反復による企業資産の外資買収の拡大、紙幣発行権の私物化、などの様々な手練手管によって、国民の富が過剰に搾取され、本来なら可能であったはずのより創造的でより充実感のある、より大規模な活動の機会が奪われてしまい、特に高貴な魂を持った人間達が人生に激しい違和感を感じざるを得ない惨めな状況におかれている。ただ、多くの人が生活苦に追い込まれる程度にまでは、至っていない。

(4)各企業団体の大半で、指導層の隠れ在日スパイによる密かな蚕食が進み、有能で実績も十分に積み上げたのに、日本人であるが故に指導層に参入できないなどという悲哀を、理由も分からず味わされたり、参入できても日本人としての誇りを捨て卑屈になることを強要されたりすることで、激しい虚無感に追い込まれる人が多くいる。また、真のリーダーたらんとした憂国の多くの貴重な人材が、政界や財界、官界など各分野で、何度も暗殺されている。

(5)本当の歴史を学び、本当の情報を手に入れて、日本人としての本当の教養を積む、そんな機会が組織的かつ計画的に奪われ、魂の高貴さをこの世に十分に反映させる手段を奪われている。

(6)これらの結果、異常に多くの自殺者の出続ける現状がある。

(7)にも拘らず驚異的な粘り強さや創造性で成し遂げられた折角の画期的な発明発見も、その多くが組織的隠蔽工作を受け、有効活用できないようになってしまっていて、結果として社会の進化を大幅に阻害されている。

(8)日本人同士で以前のような自然で濃密な人間関係を築き、子孫に高貴な日本人としての魂を注ぐ、そんな機会を奪われている。

(9)つまり、国民全体が知らない内に家畜として、極めて大規模で巧妙な飼育を受けてしまっていて、人間性を大いに阻害され続けている。

以上です。

ところで、このような大規模で巧妙な、極めて長大な展望に立つ操作を、ここまで効果的に行える組織が、単なる私利私欲だけで動いているとは、私には思えない。何か深遠な目的を持った組織なのではないか?

ひょっとして、こんな極めて制限された条件の中でも立ち上がってくる真の超人達の出現を待っているが故の所業なのか?

それとも、何らかの理由からやむなく悪辣な外国勢力の介入を受け入れてはいるが、それをいつかは振り払う腹づもりで全てを敢えて抑制しているのか?

マヨさんの説では、外国の諸勢力による、日本陸軍・海軍の解体、農地解放や財閥解体、天皇家へのクエーカー教徒の浅からぬ侵入、などなどによって、日本の根幹をなして来たA勢力やC勢力、天皇家、の腐敗や弱体化が想像以上に進んでしまい、最早彼らに日本再興の希望を託せるような状況になっていない。こうなった以上は、日本始まって以来の根幹的な改革になってしまうが故にその困難さたるや気も呆然となってしまいそうではあるが、一部の心ある官僚達をリーダーとした真正の市民革命しか手段はない(勿論、これまでの「市民革命」が全て金融偽ユダヤによる国家乗っ取りの陰謀だったことを承知の上で)ということですよね?天皇まで全て排除するということ?

私は、裏天皇や八咫烏などといった、世界最高峰の「お種」は勿論、ツァラトゥストラやシッダールタ、イエス、孔子などの名立たる聖人達に連なる唯一無二の絶対的な霊性を保存した、想像を絶するレベルの秘密組織が日本の奥の奥に潜在しており、上に述べたような近代の激しい荒波に揉まれながらも、その霊性を厳然と守り、想像もできないような遠大かつ深遠な構想の下、着実に日本再興を進めていると考えたいのです(鞍馬寺で毎年行われる「ウエサク祭」にも直接参加して、その確信を深めたことがあります)。人間の神秘的な潜在能力を基礎に置く霊的な革命とでも言いましょうか。また、自衛隊内部にA勢力の根幹が今だに潜在し、上記の勢力の影響下において密かに力を蓄えているとも期待しています。対米追従の卑屈外交は飽くまでも、高度な煙幕に過ぎないのだろうと。

皆さんはどう感じるでしょうか?