飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「三人の天皇」を検証する

2012-06-18 03:32:42 | 日本論と宗教論
権力とは何なのでしょうか?

ある者が他のある者あるいは他の複数の者の行動に関して、その目的設定と手段構想のあり方を比較的長期間、顕在的であれ潜在的であれ、何らかの手段を用いて自由にコントロールしているのが確認された時、その者は「権力を持っている」と称されます。要するに、他人を自由に動かす能力のことなのです。

広義の権力は一般にその支配手段の種類によって狭義の権力や権威、武力、影響力などに分類されますが、ここでは、権力と言えばこれらのものをすべて包括した広義の権力のことを示すものとします。

さて、人が集まり運命を共有し始めたら、それがたとえふたりでも、それだけで必ず、特定の人に権力が生じます。「そんなことはない。人は誰もが平等だから」と言う人がいるでしょうが、これは平等という言葉を曖昧な把握のまま用いている嫌いがあります。これは正確には「観念として人は誰もが平等に扱われるべきだ」ということ以上の意味を帯びることはないのです。偏りが必ず生じてくるようなそんな無慈悲な現実を踏まえて、全員がある一定ライン以上の生活条件を享受できる方策をその現実の中で探り続けるために、誰かひとりに権力が託されなければならないのです。人生のあらゆる場面で、大規模な集団から小規模の集団に至るまで常に、このようなことが自から繰り広げられているわけです。

「運命を共有しさえすれば直ちに意志も全て一致するのだから」などという主張は、視野も状況認識も人によって必ず異なってくることを考えると、現実に合わない主張と言っていいでしょう。運命を共有してはいても、意志は現実的には往々にして人ごとに異なってくるものなのです。従って、運命共同体では多くの場合、運命共同体の存亡に関わる事象について多くの人が初めに抱いた意志は、好むと好まざるとに拘らず、あるひとりの人が初めに抱いた意志の下で抑制され、改められざるを得ないことになるわけです。この意味で権力者の責任は、極めて重いものとなります。

「意志が分かれていても運命共同体としては何の問題もない」などという主張も、運命共同体の存亡に関わらぬ瑣末な事象を巡る意志に限られる話です。運命共同体の存亡に関わるような重大な事象に関しては、共同作業が十全な形で継続している限り必ず、その他の大多数が特定の人の意志に長期間に渡って従っていることになります。異なる意志を持った者の間で権力関係が頻繁に変遷している時は、運命共同体の存亡に関わる事象について共同作業が、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続することはないのです。そうなると、関係者の主観的満足感とは関係なく、運命共同体として十全に機能しているとは最早、言えなくなってしまっているわけです。

「権力関係が異なる意志を持った者の間で頻繁に変遷しているにも拘らず、運命共同体の存亡に関わる事象でも共同作業が実際、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続している例もあるのだから(現在の日本のように)」と訴える人もいるでしょうが、それは、権力関係が頻繁に動いているように見えるその「権力者」達が実際は権力者などではなく、その奥に本当の権力者が潜在していることを表しているのです(ということは例えば、民主制は全て近代になってから何らかの理由で頻繁に採用されるようになった見せかけの体制であり、どこでも実際は王族や貴族による支配でないところはないということになるわけです)。

要するに、運命共同体が運命共同体として十全な形で持続するためには先ず、権力の持続が必要となるというわけです。権力が持続するためには、支配を受ける側の不審感や不快感がある一定の限界内に抑制される必要があります。意志を曲げる時の不審感や不快感が常に、ある程度は解消されなければならないのです。というのも、解消されず鬱屈した不審感や不快感が限度を超えてしまうと、被支配者の多数の離脱や消耗などに繋がりかねず、そうなると共同体そのものの存続が危うくなってしまいかねないからです。権力者は、事象に関する判断を誤ることができないばかりか、自分に繋がる全ての人に自分の意志を常に速やかに納得尽くで通すことができるほどの信頼関係も築けなければならないのです。

被支配者の支配者に対する不審感や不快感を抑えるには、道はふたつしかありません。共同体の運営を余すところなく完全に遂行し続けるか、それが無理な場合は被支配者に被支配の実感をできるだけ与えないように工夫するか、どちらかです。

前者の道の実現が常に正当な方策となるのは、勿論です。そのため支配者は、必ず、運命共同体の運営に大きな障害がもたらされないように、あるいはもたらされてもその意味を正確に掴んで的確に速やかに対処できるように、運命共同体を取り囲む無限の時空全体の仕組みを根底から理解してコントロールしようとするわけです。歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、農学、医学、薬学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団が結集されるのは、このためです。現代の操作された科学至上主義の唯物論的合理精神からこれを迷信などと切って捨てる向きがあると思いますが、決してそんなことはできません。

この前者の道の実現は、常に正統な方策と見なされ、そのための努力も決して疎かにされることはないにしろ、通常はどうしても行き詰ってしまいがちになるものです。ここで、後者の目的を果たすための次善の策をあれこれと講じる必要が出てきます。被支配者が自らに降り注ぐ不幸の原因を権力者の支配に結びつけてしまうことがないように被支配者を誘導する必要が、あるいは結びつけてしまった場合にそれをできるだけ早く抑制する必要が、出てくるわけです。それには次のようないくつかの方策が含まれます。

1.不審感や不快感が権力者の失策によるものではなく、外部の存在者の影響によるものだというふうに偽装し、不満の矛先を逸らす。戦争は多くの場合、どうにも施し様のない国内問題の抜本的な解決策として行われる。

2.支配構造を予め多層化しておいて、不審感や不快感がそのうちの比較的下層の影響によるものだというふうに被支配者に錯覚させ、その下層を切り捨てて見せることで、被支配の不審感や不快感を緩和する。

3.被支配層を分断し、互いへの憎悪を煽ってある程度まで争わせることで、不満の矛先を逸らす。市民階級に対する奴隷階級の設置もこの一種と考えられる。

4.不審感や不快感が大きく広がり集約されて、それ自体が権力として成長してくる状況そのものを具に観察し、暗殺や懐柔、情報操作、兵糧攻め、工作員の潜入などの様々な手法を体系的に専門的に行う、権力者直属の秘密組織を設置する。

5.被支配者に批判精神が芽生えないよう、情報を遮断して架空の情報空間の中に被支配者の多くを閉じ込め、被支配者の知的レベルを下げておく。あるいは、麻薬やアルコールなどの薬物や様々な娯楽、人々から感情と認識を奪う宗教、政治制度としては欠陥だらけで混乱と政治的無関心しかもたらさない架空の政治制度である民主主義、認識主体としての人間の能力を貶め封じ込める科学至上主義や進化論などの唯物論的人間観を、被支配者層に普及させる。こうすることでそもそも、被支配の事実すら実感できないようにしておく。あるいは、不審感や不快感の表明や反抗の気力を予め削いでおく。最近では、電磁気装置やサブリミナル法などの最先端のテクノロジーを用いてそれが行われているという情報もある。

6.被支配者への武器の普及を制限し、武力を予め組織的に独占しておくことで、不審感や不快感が武力蜂起につながらないようにする、あるいはつながっても即座に的確に対処できるようにする。また同時に、これらの武力が権力者そのものに向かわないように、あるいは向かっても即座に的確に対処できるように、特殊な軍隊を設ける。最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持も行われる。

7.以上の活動全ての維持に必要な莫大な資本を確保するために、税金の徴収だけに留まらず、自ら農場や工場などの生産手段を所有し、生産活動団体や商業活動団体を組織して運営する。古代においては奴隷売買が、運搬に伴うコストが少なくて済むなど、最も効率の良い経済活動として行われていたようである。貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占もこの一環と考えることができる。日本では、中古宋銭を大量に輸入した上で、それを媒介として用いた本格的貨幣経済の普及を主導し、権力の奪取と維持の主な手段として最初に利用したのが平家であり、平家滅亡後鎌倉末までには貨幣経済が、経済活動全体の大きな部分を占めるようになっていたと言われている。エネルギー資源やエネルギー技術も独占を目指して特設の研究所などで盛んに研究開発される。

8.王后や太子、その他の王族、神官や僧侶、貴族、官僚、武官などからなる各支配階層を統制する手段としての軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などを確保し、行使していく。自分自身が権力闘争に巻き込まれにくくなるように、この仕組みを多層化して、自分は奥に隠れ、主な有力者数人に対する権力行使に専念するということを、平安末以来天皇や裏天皇は征夷大将軍の任命という形で行ってきたようである。また、貴族達が王の地位を横取りしようとしてもできない、あるいは、希望すら抱けない、そんな事態を生み出すのに決定的に重要な要素として機能する血統の差別化と維持管理も行う。

9.各国の権力者がそれぞれの支配体制を安定させる目的で、そのあらゆる階層において横に繋がり、協議を定期的に行い、継続的に協力し合う。あるいは、さらに進んで、各国の権力者そのものを統治する究極の権力者と権力機構を設置する。

これらは全て、権力者の権力の重要な要素となるわけです。まとめると、以下のようになります。

0.歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、医学、薬学、農学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団の結集
1.外敵の宣伝と戦争の意図的遂行
2.支配階級の細分化とスケープゴートの意図的な創作
3.被支配階級の分断策(市民階級に対する奴隷階級の設置)
4.諜報工作機関による危険分子排除
5-a.教育機関やマスコミによる情報操作
b.薬物や娯楽、宗教、民主主義、科学至上主義、唯物論的人間観の普及による愚民化
c.最先端のテクノロジー利用による愚民化
6-a.武器統制と軍隊や警察、近衛軍の常設
b.最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持
7-a.生産手段の所有と経済活動の継続
b.奴隷売買
c.貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占
d.エネルギー資源や技術の研究開発と独占
8-a.軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などの確保と行使
b.血統の差別化と維持管理
9-a.世界王族会議をはじめとする国際機関への関与
b.世界政府の設置

社会が複雑になって国家にまでなると、権力にも以上のような多様な機能が加わるのです。それに合わせて支配も、多様な人々の共同作業のひとつとなるわけです。つまり、王や王族だけで行われるのではなく、神官や僧侶、貴族、官僚、武官もまた、王の統治に重要な要素として組み入れられるようになるということです。これらの人々全員による御前会議が、権力中枢の基本的な形態となってくるわけです。この世に存在する政治体制は全て、この基本形の変化形となっていると考えられます。

例えば、この御前会議においては王が議長の役割を務めるのが本来ですが、会議のメンバーの中に議員の意見を調整・集約するのに長けた者が出てきて、王の権限を実質的に奪うこともあるでしょう(王権の傀儡化)。逆に王が議会を自分の親派で固めて、自らの権限をより強力に行使することもあるでしょう(親政/絶対王政)。さらには、王の独裁に必然的に伴う様々な弊害に懲りて、議会における王の発言を慣習として制限したり(イギリス風の議会政治)、あるいは王そのものを廃止することもあるでしょう(共和政治)。さらにまた、王の権力とその権力機構の存在をより奥の方に隠して、議会を有名無実化することまで考えられます(院政)。またさらに進んで、貴族の参加する議会そのものを廃止した上で国を細かく分割し、それぞれに諸侯を置いて統治させ、その中のひとりを諸侯の中でも特別な地位に任命して諸侯の統制に当たらせ、その権限を世襲させつつ、自分はそのさらに上の権力者として君臨するなどといったこともあります(諸侯をまとめる大候の上に「世界」政府が君臨する、比較的小規模な「世界」内での封建政治あるいは幕藩政治)。

以上において、権力というものについての一般的な考察が完了しました。ここで、ふたつの問いを規定し、それに答える前提が整ったことになります。

疑問1
今上天皇や昭和天皇、大正天皇、明治天皇、孝明天皇はそれぞれ、上の内、どのような政治体制における君主だったのでしょうか?

「日本には古来より3人の天皇が存在する。今も例外ではない」という発言があります。私がこの発言を聞いて真っ先に考えたのが、この発言においてそれぞれの天皇が具体的にどのような意味で「天皇」と称されているのか検証するまでは、この発言に何の評価も与えられないということでした。

疑問2
この発言における残りの二人の天皇は、孝明期や明治期、大正期、昭和期、平成期において、具体的にどのような意味で「天皇」だったのでしょうか?天皇家の分裂と言えば南朝と北朝の分裂ですが、この内の南朝とこれら二人の天皇はどう関わってくるのでしょうか?また、飛鳥昭雄の裏天皇論とこの発言の天皇論とはどのように関連しあっているのでしょうか?

以下において、これらふたつの疑問を解明してみたいと思います。因みに今回は、江戸期以前の各時代の天皇については保留しますが、上に詳述した権力一般の構図は、その考察においても大きな効果を示すはずです。それについては、また別の機会に逐次試行していくことにします。

飛鳥昭雄概説と主要著作分類リスト

2012-06-13 03:16:26 | 日本論と宗教論
コスモさんのリクエストにお応えして、飛鳥昭雄著作分類リストを上げておきます。

書名だけ見ると何でこんなトンデモ本なんかと思ってしまうような、非常に下手な書名の付け方になっています。私も長いこと、専門の哲学書を書店で漁る際にも横目で眺めながら、馬鹿にして手に取ることすらしていなかったものです。しかしある時ふと、全ての偏見を取り払って「怪しい」ものも敢えて学者として読んでみたらどうなるだろうと思い立って読んでみたのです。実際の中身は、予想を遥かに超える面白さと、情報の圧倒的な質と量、読ませて納得させる技術の満載になっていて、手に入るものは全てあっという間に読んでしまったのでした。

どの書も概して、世の中に蔓延している偽情報をその偽りの主と目的あるいは原因をきちんと解明しつつ緻密に批判した上で、その奥に隠された衝撃の真実をあぶり出す、という形式になっています。参考文献の質量に手抜きがないばかりか、秘密結社八咫烏からのリークと元NSA職員M氏提供による極秘ファイル群、海部光彦宮司の証言といった独自の情報源を持っていることもあって、他にはとても真似できないような論述が実現していると、私は評価しています。

初めから全部を丸ごと信じ込むのは当然論外ですが、読み進めることで少なくとも、思考を巡らすイメージ空間が飛躍的に拡大し、様々な研究テーマに対する新視角と推進力を獲得できるでしょう。しかも私から見たらどの論述も、非常に信憑性が高いように感じられるのです。

私が注目する主な内容を列挙すると、以下のようになります。

A.ユダヤと聖書についての極めて緻密な知識によって佐伯説を正当に発展させた独自の秦氏論と日本古代史をめぐる詳細で大胆な仮説の提示

B.邪馬台国論争史の優れた概説と『魏志倭人伝』における「会稽東冶の東」記述や南方風俗描写に唯一矛盾しない、プレートテクトニクス理論とも結び付けられた斬新な邪馬台国論の提示

C.徐福と物部氏の謎についての詳細な新情報と仮説

D.NASAとNSAが秘匿する太陽系と地球、月についての衝撃情報

E.NSAが秘匿する最新科学技術やUFOにつての衝撃情報

F.プルームテクトニクス理論やプレートテクトニクス理論と結びつけられた大洪水伝説の新解釈

G.恐竜についての非常に説得力のある新仮説

H.斉一論と科学的年代測定法に対する根本的で説得力のある批判

I.説得力のある斬新な化石論

J.カッバーリズム

K.カッバーリズムを駆使した斬新な神道論及び宗教論

L.アメリカと日本の秘密結社についての独自の情報

M.エジプトの三大ピラミッドやスフィンクスの建設者がエジプト人などではなく、建造時期も一般の想像を遥かに超えた古さであるとか、ピラミッドの「石棺」のサイズが日本の畳のサイズと同じで、大嘗祭の際にはこの畳を何枚か重ねたものを使って死と再生の秘儀という、墓とは最早考えられなくなっているピラミッドの本来の用途のひとつと考えられている秘儀と同じ内容の秘儀が行われるとか、超古代のエジプトと日本の天皇家との密接な繋がりを示す、いくつかの新しい情報の提供


飛鳥昭雄著作リスト
〈太陽系論/大洪水論〉
01.火星の謎と巨大彗星メノラー 1995/04
02.太陽系第12番惑星ヤハウェ 1995/10
03.恐竜大絶滅の謎と木星ネメシス 1996/06
04.月の謎とノアの大洪水 1997/04/04
05.地球膨張の謎と超大陸パンゲア 1997/04
06.氷河期の謎とポールシフト 1997/10
07.大ピラミッドの謎とスフィンクス 1999/12/24
08.失われた火星人面岩メサイアの謎 2002/11/12
09.木星大赤斑の謎とベツレヘムの星 2003/01
10.亜空間の謎と地球空洞論 2004/07/30
11.アポロ計画の謎と月空洞論 2005/11/04
12.失われた太陽系第10番惑星「NOX」の謎 2007/04/06
13.太陽の謎とフォトンベルト 2008/09/05
14.失われた火星人の謎とサンドワーム 2009/05/15

〈古代史〉
15.失われた原始キリスト教徒奏氏の謎 1997/04/04
16.失われたイスラエル10支族神武天皇の謎 1997/04/21
17.失われたイエス・キリスト天照大神の謎 1998/04/04
18.失われたカッバーラ陰陽道の謎 1998/11/27
19.失われたアークは伊勢神宮にあった 1999/03
20.失われた契約の聖櫃アークの謎 1999/07/02
21.失われたイエスの12使徒八咫烏の謎 2001/11/30
22.邪馬台国の謎と逆転日本列島 2002/07/12
23.失われた古代ユダヤ王朝「大和」の謎 2006/11/10
24.失われた極東エルサレム「平安京」の謎 2008/02/08
25.失われた徐福のユダヤ人物部氏の謎 2011/05/13

〈その他〉
26.最終UFO兵器プラズナーの真相 1993/03
27.人類最終兵器プラズナー 1999/09
28.エイリアンの謎とデルタUFO 2003/5/27
29.失われた異星人グレイ「河童」の謎 2003/12
30.失われた地底王国「シャンバラ」の謎 2005/02/25
31.UMAの謎と全地球水没 2005/06
32.失われたムー大陸の謎とノアの箱舟 2006/05
33.失われたドラゴン「怪獣UMA」の謎 2007/07
34.預言石板の謎と日本ムー文明 2008/07
35.恐竜は哺乳類だった! 2008/7/8
36.ドラゴンUMAの謎と恐竜オーパーツ  2008/12

科学技術とは何か?(改訂)

2012-06-12 01:40:00 | 日本論と宗教論
マヨさんが以前に紹介して下さった『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』という書物の中で木村愛二という研究者が、次のような興味深い提言を行っています。

〈暗黒アフリカを脱出した後、高緯度寒冷地のステップ地帯に適応して進化した種族のひとつが、最初の文明をそして後の全ての文明の核をオリエントに産み出し、その流れが近代になってヨーロッパから科学技術文明として世界中に広まり始め、今はグローバル時代の幕開けが来ている・・・このような通説は、近代になってヨーロッパがある目的と偏見の下で捏造したものである。アフリカを廻る歴史学や考古学、言語学、神話学などが進み詳細になって行くにつれて、その捏造の破綻が近年どんどん明らかになって来ている。間違いなく文明は、その原型が全てアフリカで生まれたのだ。その後で世界中に広まった。ヨーロッパに繋がる流れが文明として目立っているが、それだけが文明ではないし、ましてや文明の本流でもないのだ。世界各地に分散し自らの内的ルーツを見失って、「欧米的なもの(文明)と固有の伝統(文化)」などとという間違った二元対立論の下、あらゆる分野で葛藤あるいは閉塞状態に陥っている国々も、このことの理解が深まりさえすれば、それぞれに、この葛藤あるいは閉塞状況を打ち破り、新しい地平を創出できるようになるはずだ。文明の流れはオリエントからヨーロッパ、アメリカと一方向だけに流れたのではなかったし、文明と文化は現在一般になされているような把握とは異なる把握が本来のあるべき把握なのだ〉

アフリカの忘れ去られた古代文明がバントゥです。バントゥの帝国が世界最初の帝国だったのです。エジプトですらその影響の下で成立した黒人種の王朝であって、バントゥに対しては一貫して頭の上がらない状態だったのです。我々人類(庶民)はある時に、人間としての本来の根源的な世界観を何らかの理由で見失い、現在はそれを取り戻す必要に迫られている、あるいは元々そんなものなど持っていなかったが、今になってやっとその必要性に気づき手に入れようと身を乗り出しつつあると考えられるわけですが、上で一般的に述べられたことが事実であるとすれば、この世界観についても、バントゥの文化・文明を根底で支えていた世界観こそが、その本来の根源的な世界観に一致していると考えていいことになるはずです。そのような意識の下で『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』を読み進めていくと、最終章に、次のような極めて興味深い世界観が概説されていました。

〈バントゥ語で「ントゥ」とは力のことだが、存在するものはすべてこのントゥであり、必ず次のような四つのカテゴリーのいずれかに属する。1.ム・ントゥ。知性を与えられた力というべきもので、神々や人間がこれに属する。2.キ・ントゥ。いわゆる《物》であり、動植物や鉱物がこれに属する。《眠れる力》あるいは《凍れる力》とでも言うべきもので、それ自体では活動を開始することができず、ム・ントゥの働きかけがあるときにのみ目覚めた力として活動する。3.ク・ントゥ。いわゆる様式や観念の有する力であり、言葉やリズムはその代表的なものである。ム・ントゥのみがこの力を操作することができる。ム・ントゥはこの力を用いて凍れる力、キ・ントゥに働きかける。4.ハ・ントゥ。時間と空間。これも一種の力であり、事物を生起させ、配列する。〉

ム・ントゥたる人間がク・ントゥやハ・ントゥを操り、物の中に眠っているキ・ントゥを引き出す・・・ここで表現されているのは要するに、魔術のことでしょう。ということは即ち、魔術が人類の最も根源的な世界観だったのです。

魔術というものに対する捏造された偏見は捨て去るべきです。一部の人が独占できるように一般の人たちに対してイメージ操作が行われ、その真の価値が隠蔽されてしまっているのです。日本語では名称そのものにも「魔」が付けられ、人間の通常の価値ある活動の範疇には入れられない非現実的で子供染みた幼稚なものとの、実態とは正反対のイメージが定着してしまっているのです。現実感の薄い、あらゆる繋がりから遊離した、こじんまりとしたバーチャル空間として一人一人の現実空間が孤立してしまうところにまで、人間が極端に追い詰められていると私は見ていますが、それも実は、今述べたことが原因なのではないかと思うのです。しかし、人間の創造的な活動は本来、大から小まで徹頭徹尾、魔術以外の何物でもないのです。畑を耕し作物を育てることも、日々書物を読んで自分の心を教養していくことも、受験勉強や会社でのプロジェクト推進も、全てが実は、〈観念の現実化〉あるいは〈物の中に眠れる力の呼び起こし〉としての魔術以外の何物でもなかったのです。魔術に付加されたマイナスイメージのせいで我々一般の人間は、良かれ悪しかれ、自由な創造的活動の機会の大半を奪われ、それぞれある特定の領域にその活動を制限され、そのことによって何者かに都合よくコントロールされているのです。魔法学校への入学許可証が突然郵送されてきてはじめて、自分の本来の力に目覚める、11歳までのハリーポッターと同じ抑圧状態に、我々全員があるということなのです。

例えば、近現代のほとんど全ての戦争が兵器製造業者の計画の下で人為的に推進されてきたものであるということに、さらには現在もある特定の場所でそのような類の邪悪な計画が着々と推進されているということに気づいても、魔術の本来の意味が分かっていない場合、「そんなこと分かったところで、だから何?どうしようも無いよ。残念だけど」となってしまうわけです。そうなってしまうように、マスコミや普通教育、貨幣経済を通して入念に、これ自体もある人たちに独占的に仕掛けられた魔術の一環として、長期に渡る情報統制が行われてきたのです。歪められた科学観や極端に奥行きの浅い人間観の蔓延には、そのような裏事情があったのです。

ところが、個人が抱く感情には特別な力があって、それを全人類に共通のイメージ空間の中でひとつに大きくまとめて具体化していくことができるし、そうした上で多くの人間が同時に、日常空間におけるそれぞれの行為ひとつひとつをその都度、そのイメージを強く反映したものとして念を込めておこなっていきさえすれば、それら行為のひとつひとつが互いに、次から次へと自動的に結びつき合い、波及し合って、結果として一大ネットワークを形成して行き、大きな機運となって、どんな陰謀でも最早推進不能な状況へと追い込み、挫いていけるということが、つまり魔術というものの意味が分かっている場合には、正確な情報拡散自体にそもそも大きな意義が含まれているのだということを疑うことなどなくなるし、上述したような諦めが蔓延することも最早なくなるというわけです。

「魔術とは、人間の意志を宇宙の事象に適用させ、そうすることによって宇宙のうちに何らかの変化を生じさせる、といったことを意図して行われる行為、手段、技術と知識の体系、およびそれをめぐる文化である」(Wikipediaより)

さて、文明と文化は、この魔術の結果としてアフリカで生まれました。文化は、天文や気象、作物を対象領域とする、農耕を中心とする行動様式の体系です(culture とはcult 「耕し」た結果のこと)。文明は、鉱物や火力、動物を対象領域とする、金属器生産と牧畜を中心とする行動様式の体系です(civilization とは武力や情報統制をはじめとするいくつかの手段を使って人々を civil「市民」に -ize 「変え」て統治した結果のこと。civil は slave との関係においてではなく、ruler との関係で把握すべき概念です。slave はそのことから目を逸らすために仕掛けられた装置のひとつでもまたあるわけです)。

金属器生産や牧畜に従事する集団が長い時の経過の中で、王の血統を産出・管理して行くことになります。バントゥの場合、背の高さが王族の表徴のひとつとして尊ばれたせいで、王族と一般庶民との身長差が著しくなったそうです。アフリカにとんでもなく背の高い部族が実在するのはテレビでも頻繁に紹介されているので、皆さんもどこかで観てご存知でしょう。要するに、人種の差も一部はアフリカで人工的に作られたものだったということです。

アフリカの産み出した全てが世界中に広まりました。王の血統を管理する、高度な魔術体系を持った遊牧支配階級も、オリエントから中央アジア、北アジア、ヨーロッパのステップ地帯にその活動範囲を広げ、そこを往来しながら自らの血統を王族として送り込むなどして農耕民の国を各地に意図的に育て上げ、後には世界各地の帝国の興亡を創出・管理しながら、自分達は情報統制の一環として終始陰に隠れつつ、陰のメタ支配を継続してきたようです。

何のためにか?それこそ彼らが宇宙全体の変動を敏感に読み取りつつ人類発生の太古の昔から人類存在の裏側で一貫して行ってきたことであり、従ってその目的も「彼ら自身であるために」としか表現できないわけでしょう。

移動に伴う生活環境の変化や各地の諸民族との結婚などによって身体形質上の変化も生じ、彼らの外見は黒人種の特徴の多くを失ったことでしょう。それでも黒人種の特徴もある程度は残っていることでしょう(例えば、直毛が基本の北欧人の中に巻き毛が存在するなどの)。身長の高さは恐らく、支配層一般の特徴として、共通して維持されていることでしょう(例えばカエサルも秦始皇も、広開土王も、アッチラも、聖徳太子も、かなりの高身長だったと言われているように)。しかし、その人たちが陰に隠れ表に出て来たことが一度もない以上、それは想像の枠内にとどまると言わざるをえません。

バントゥの魔術は同時に、近現代の科学技術の淵源ともなっていると言っていいでしょう。時間と空間をントゥ=力のひとつにカテゴライズしていることひとつを見ただけで、それは明白なものと感じ取れます。

科学技術は数式化のベースとしての幾何学から始まります。幾何学によって設定された計測可能な時空の中で自然現象の観察と解釈が行われ、そこから取り出された法則を元にある実用的な目的が発想されます。その目的に向けて設計・製作された装置による実験、観察、計測、改良、調整などを繰り返し試行錯誤することで、自然現象の自由なコントロール法を確立し、生活に役立てて行くわけです。これはまさにバントゥが世界観として持っていた魔術を一定方向に自覚的に延長したものでしょう。科学も魔術の特殊な形態に過ぎなかったのです。

科学も魔術のひとつなのだということについては、不意に聞くと異常に感ぜられる向きもまだあるかもしれませんが、リーマン幾何学やロバチェフスキー幾何学をベースに構想された相対性理論や量子力学、プラズマ理論などの登場による、一般人からすると魔術としか思えないような現代テクノロジーの発達のお陰で、科学者ではない一般の人々にも感覚として十分に納得できる状況が整いつつあると言ってもいいのではないでしょうか?

科学技術は確かに、歴史的にはイスラムから中世ヨーロッパへの流れの中で、最終的にはイングランドで生まれたものですが、全人類がバントゥの末裔であるということは、科学技術も全人類が自らの存在の原理として元々普遍的に持っている魔術のある側面を一方向に拡大したものに過ぎないということを意味する訳ですから、その産物を見て理解し模倣することはどの民族にも潜在的に可能だったわけだし、実際にそうなったわけです。そもそもヨーロッパ以外の文明が科学技術の方に向かわなかったのは、能力がなく向かえなかったということだけではなく、向かう必要がなく自ら敢えて向かわなかったということでもあったに違いありません。

特に我が日本で、ヨーロッパの科学技術文明との本格的接触以前に和算としてヨーロッパ数学の微分積分にも相当するような極めて高度な数学が独自に発展し、それが庶民の極めて盛んな流行にすらなっていたとか(算額の神社への奉納。恐らくは、支配者層の深謀遠慮による意図的で密やかな誘導・扇動があったのでしょう)、大規模な実用にはほとんど結びつかなかったものの「からくり」や鉄砲鍛冶としてある程度の機械工学の伝統を既に持っていたとか、鍋島藩や薩摩藩でヨーロッパ人が持ち込んだ蒸気機関を見ただけで直ちに、教わることなく独自に同じものを作り始めたとか(薩摩の阿多の刀鍛冶と島津斉彬による試行錯誤の伝承。私の父方の先祖はまさにこの阿多の刀鍛冶のひとつだったそうです)、20世紀前半当時の科学技術の最先端であった戦艦や戦闘機の生産も開国から60年余りしか経っていない開戦時点で早くも列強を遥かに上回る水準に到達していたとか(それだからこそ大東亜戦争はエネルギー資源争奪戦争として展開した)、理化学研究所では原爆や無線通信技術、テレビジョン技術など当時の最先端技術の開発に莫大な資金が当然のように惜しげもなく投入されていたとか(原爆も無線通信技術も、テレビジョン技術も全て、アメリカのスパイ活動によって日本から盗み出されたものと言われている。若手科学者、湯川秀樹はスパイだった!)、現在も日本がなかったら世界中のテクノロジー産業の多くが成り立たなくなるだろうと言われる程の世界最高水準の科学技術を日本が継承し続けているとか(隠されたところでは、純粋水爆やプラズマ兵器、ステルス技術、反重力推進技術、気象操作技術などの次世代技術のほとんどすべてを実現し、所持していると言われている)、数え上げたらきりがないくらいの事例が示すように、特に我が日本で、上に述べたようなことが世界中のどの国よりも明確に典型的に現れたことは、日本という国の本質を打ち消し難く暗示していると感ぜられます。その本質とは、バントゥを淵源とする、王の血統を管理する、高度な魔術体系を持った遊牧支配階級の最も本源的な流れがこの日本という国に、密かにではあるがあくまでも大規模な国仕掛として保存されているということです。遠い昔にオリエントの地で、近代ヨーロッパへとつながって行く邪悪な秘密結社支配が何らかの理由で生まれた時に、それに対抗する形で存在のあらゆる次元でさらなる奥に潜伏し、東方へと移動して列島に入り、それ以前に列島に入り込んで王朝を形成していた同族と協力し合って日本国を建国した特別な魔術師集団が、日本の目に見える姿を多方面に向けて敢えて意図的に、極めて高度に洗練された技術を用いて、曖昧で非主体的なものに偽装しながら、実在しているということなのです。

このような意味で特別だったからこそ、即ち絶対的に優位を保持しているかに思えた欧米勢力を相対化できる存在であったからこそ、日本は、欧米列強の植民地化の動きを容易に跳ね返し、大東亜戦争敗戦後も急速な経済発展を実現して、欧米の金融偽ユダヤ人勢力との従属的とばかりは言い切れない複雑な共存関係を繰り広げて来れたのでしょう。

金融偽ユダヤ人が一種の魔術師軍団であるということや金融システムも支配のための巧妙な魔術装置として理解され運営されていることは、そのことの意義の重さは多くの場合見損なわれてはいるものの、ある程度周知の事実となってきているようです。であるなら、このような存在と互角以上に渡り合える存在もまた、同じような世界観を持った同じような性格の集団であると規定したところで、何の強弁にもならないはずです。実際、大東亜戦争中にフランクリン=ルーズベルト合衆国大統領が急死したのは、彼を呪詛する目的で高野山においてある種の秘儀が組織的に執り行われたからだということを、信頼できる筋に聞いたことがあります。そんなことしたところで現実の戦況に何の影響もなかっただろう。合衆国のシステムと合衆国大統領が持っている意味に対する無知の表れだなどと、通常の合理精神では判定してしまうことになるでしょうが、実際はそういうことではなく、戦況は客観的に受け入れつつも、戦況とは別に、あちらの魔術師集団へのメッセージとして、こちらの魔術師集団の魔術師としての存在と実力を改めて思い知らせ、終戦後の占領政策方針にある種の多大な影響を与える意図で、そういうことが行われたらしいのです。また、どこかの勢力がいつもどこかで行っているであろうと目される日本と日本人に対する呪詛を、日々の密儀の実践を通して強力に防御して来たのが天皇陛下とその周囲の密儀集団であり、日本は古来よりそのような強力な結界が張り巡らされてきた、世界にも類稀な、特別な国なのだと主張する人も大勢いるわけです。

いずれにしても、近現代における日本という国の上記のような他に全く類を見ないような有様が非欧米諸国に、欧米諸国による植民地支配からの独立の勇気と気運をもたらしてきたのも事実なのです。また、現代の国境なき医師団の活動においても、ヨーロッパ系の医者が単なる一定期間の医療行為の施しに終わってしまいがちなところを、日本人の医師の場合はそれに加えて、現地スタッフへの医療技術の惜しげもない伝授まで、誰かから強制さているわけでもないのに自発的に、熱心に細やかに行うケースが多いという報告もあります。これらのことには、日本人なら誰であれ誇りを感じ、特別な感情を抱かざるを得ないでしょう。これらの事実はしっかりと、次の世代に伝えていかなければなりません。

日本から今述べたような日本的なものを何とか奪い取ろうと巧妙に画策している有力な魔術勢力があると伝わってきている今、日本から日本的なものがなくなってしまわないよう、我々一人ひとりが自分自身の領域で責任を持って大いに〈日本的〉に振る舞って行く必要があります。我々一人ひとりが日々の生活の中で清く明るい心を抱き続けて活動していくことこそが、たとえどんなに小さな規模の活動であっても、最強の魔術返しの秘儀となるからです。また、裏社会の様相を暴いて行く時も、裏社会だからとか支配だからというだけで何でも悪と決めつけず、裏で日本を支えている大切な構造に対してはそれを邪悪な裏社会構造からきちんと区別して、自分の言動で万が一にもその尊厳を毀損してしまうことがないように心掛ける必要があるでしょう。

例えば、日本国憲法や現代日本の議会民主制は壮大な偽装であって、裏では陰の政府と取り決めが別にあり、核兵器やプラズマ兵器なども我々のすぐ傍で普通に製造・保持されているなどという衝撃的な情報を伝える際も、それらの行為の主体を一般人の一般的で浅薄な価値観で短絡的に邪悪と決めつけ、情報の受け手の恐怖心を無闇に煽ることに終始する向きが多く見受けられますが、それではせっかくの貴重な情報も正しく活かし切れていないと言っていいのかもしれません。陰の政府の今述べたような行為がどんな善なる意志の下で行われているかもしれないし、そのお陰で現在、他ならぬ私たち自身が比較的大きな災厄を免れている、あるいは大きな恩恵を受けている、のかもしれないのですから。どんなことも、もっと奥行きを持って見る必要があるのです。

それにしても、ユダヤといい、バントゥといい、メソポタミアといい、隠蔽された歴史は何故か全てが、日本に結びついてくるようです。

飛鳥昭雄の太陽系論の一部紹介(コメントへの回答から抜粋)

2012-06-07 16:46:50 | 日本論と宗教論
カント=ラプラス説は完全に間違いです。

1)木星が太陽に対する輝かざる「伴星」で惑星より内側の惑星は全て木星の「大赤斑」火山から順番に吐き出され、フィボナッチ数列に従って配列された(火星と木星の間にあった惑星はある大激変の影響で破壊され、小惑星帯や各惑星の衛星になった)ことや、

2)太陽や木星、土星は実はガス天体などではなく、強力な地磁気線を無数に放つ巨大な地殻天体で、太陽系内の全天体の地図が強力な電波望遠鏡のお陰でもう既にできていること、

3)太陽の発光現象の仕組みは核融合などではない特別なプラズマ発光で、太陽の地表は超高温などではなく、海も山脈も確認されていることなど、

常識はずれで信憑性の高い報告を飛鳥昭雄氏が著作の中で行っています。誰かの信奉者になることなどそうそうないのですが、情報の幅広さや奥行きの深さの点で彼の著作ほどのものには、滅多に出会えないような気がしています。書店ではまるで「買えるものなら買ってみろ」と言わんばかりの真っ赤な背表紙で威嚇していますが。

様々なテーマを巡る素描(コメントへの回答を兼ねて)

2012-06-04 14:10:24 | 日本論と宗教論
(1)シュタイナーについて
シュタイナーにはとにかく驚かされました。幼いイエスが福音書の中では実はふたり確認できること(『マタイ』のソロモン系イエスと『ルカ』のナタン系イエス)。ひとりがソロモン系の肉体とエーテル体にツァラトゥストラの個性を受け継ぎ、もうひとりが釈尊の応身の下でナタン系の肉体とエーテル体にアダムの個性を受け継いでいたこと。ある時にツァラトゥストラの個性を受け継いでいるイエスの方が死んで、アダムの個性を受け継いでいた方にその個性が移動したこと。そうすることで後にキリストの入れ物となる存在が準備されたこと。シュタイナーによる一連の講演の記録を読んで上のようなイエス論に出会った時は、それまで多くのイエス論を学んできた者として、その新奇さと精緻さ、説得力、解放感、重要性の予感に圧倒されました。消化が進んで納得と整理がついたら、いつか解説文を書いてみたいと思っています。

(2)裏社会論の究極のゴール
闇の支配勢力は庶民の「幸福」のために存在しているのではなく、天地神明の支配の一部としての人類の使命を果たしていくために存在していると言えるかもしれませんね。そのために闇に紛れなければならない。その闇の勢力に、ある計画の下で時々、庶民から見た「善悪の分裂」がある。庶民の目に「善悪の分裂」としてその片鱗が明かされる頃にはもう次の仕組みが闇の奥の方で仕上がりつつあるということなのでしょう。庶民として埒外に置かれること(多くの人を庶民として埒外に置くこと)や、庶民でありながら隠された全体の仕組みを認識して人々にそれを伝えること(庶民に隠された全体の仕組みをある時期にある程度までリークして語らせること)、これらのことの意味や目的の認識こそが、私達の認識の究極のゴールなのかもしれません。

(3)地の塩と海の塩について
「塩」とは NaCl の単体といったものではなく、海や山から伝統的なやり方で採取される、様々な物質の複合体のことです。塩分を比較的摂らない京都にあって私は、塩分摂取の重要性を信じ、周囲の人達にも勧めていますが、名古屋の料理の予想を遥かに超えた塩分の濃さには、本当に辟易した記憶があります。

デービッド=アイク氏は、その極限まで拡大された世界観から、塩について非常に過激な説を唱えています。彼によれば、物理法則を初めとする自然法則も、神によってではなく、隠れてはいるが有限なある存在によって人為的に管理されたマトリックスの一部なのだそうです(神とその支配はさらに深い次元の存在と捉えられている)。その管理は、この地球上では、太古からの〈人工衛星〉たる空洞の月を発信基地として、ある時期地表全体に人為的にばら撒かれた塩を媒介にして、実行されているのだそうです。彼の見解からすればつまり、現在のような存在様式からの人間存在の解脱が、したがって脱塩分こそが、究極の真理ということになります。ということは同時に、現在のような存在様式のためには塩分が必要ということも含蓄していることになるわけです。とにかく彼は、東洋についての認識が極端に薄い割には、その世界観や人間観のスケールがとんでもなく大きいのが特徴です。

(4)真理追求の手段について
普遍性は「いつどこでも、誰に訊いても」が原義ですが、そこからある時に「誰に訊いても」が脱落して「いつどこでも」に意味が限定されざるを得ない状況が生じ、真理のメルクマールとして機能しなくなったという事情があるのだと思います。そこで、真理追求のために自分自身の存在を高める必要が生じるのだと思われます。この真理観からすると普遍性とは、「いつどこでも、どの義人に訊いても」ということに変更しなければなりません。

親鸞上人は「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と説いたそうです。この親鸞上人の法然上人に対する関わり方こそ、義人の義人に対する態度と言えるでしょう。

一般に「他人に頼らず自分で考える」ということが言われますが、人間と真理の本質をよく考えると、真理追求において道は他人にある意味で頼ることしかない訳で、自分で考えるのは飽くまでも他人とのある種の関わりから得られた様々な体験を後に自分の中で咀嚼吟味し整理する時だけです。それに、他人に頼ったところで義人を見出すのは自分だし、頼った結果を受けてその責任を取るのも自分な訳です。

真理において人には世俗的なものとは異なる優劣が厳然とあり、そこに公平の原理は適用できない。また、目と目を合わせ、言葉と言葉を交わす一瞬一瞬が貴重な自己覚醒の場所になる。これが実際でしょう。

(5)六芒星について
占星術と魔術がイスラエルとユダヤに関わってくる時、どうやらそこに、象徴としてのメノラーや六芒星、五芒星が機能し出すようですね。六芒星は、密教では胸のあたりにある第4のチャクラの象徴となっているようです。意味付けも精神的なものと物質的なものとの融合となっているようです。また、興味深いことに、菊ではなく蓮となっていますが、12花弁がその象徴となっているようです。因みに、第3のチャクラの象徴の花弁は10で、第5のチャクラの花弁は16。どうやら、密教とイスラエルやユダヤとの関係も探る必要があるようです。

世界は何と、広くて深くて、精妙なのでしょうか!

(6)マヨさんについて
マヨさんのブログで最近、量子力学やテスラコイルのことが話題として取り上げられ、それらに関連するテクノロジーの発展が闇の支配組織間の力関係にも影響を与え続けているということが、比較的具体的に報告されていました。しかし、プラズマ技術の発展についての報告は、これまた飛鳥昭雄が既に詳細に行っているのです。マヨさんはぜひ、飛鳥昭雄を全て読んで下さい。また、テクノロジーの発展によって影響を受けるのは闇の支配組織間の力関係だけではなく、闇の支配者達の意識の中における庶民の位置づけも大いに影響を受けているはずで、我々がより大きく問題にすべきは後者であることも付記しておきます。「こんなすごいことになっている。庶民の想像力や力を遥かに凌駕している。恐ろしいことです」で終わりがちになっているようですが、毎度述べるように、それでは何の意味もありません。

六芒星

2012-06-02 18:23:28 | 日本論と宗教論
「ユダヤ」の象徴として知られるダビデ紋ですが、実際はメノラー(七支の燭台)が「ユダヤ」本来の象徴であるらしいし、オリエントの王族の紋章として知られる十六花弁菊花紋(あるいは八花弁や十花弁も。十二花弁菊花紋は南朝系のものとして、日本では見つかっている)も「ユダヤ」と強く結びついているそうです。また、イスラエル13支族もそれぞれの紋章を持っています。また、ソロモン王の紋章である五芒星(ペンタゴン)も「ユダヤ」と関係の深い紋章であることが知られています。従ってダビデ紋は、「ユダヤ」を象徴する唯一絶対の紋章として扱われていたわけでもないし、むしろ比較的遅い時期に「ユダヤ」を象徴するもうひとつの紋章として追加されたものとの情報すらあります。

(1)ダビデ紋は「ユダヤ」の何を象徴しているのか?

(2)「ユダヤ」の中のどのような人達によってどのような状況、目的で使用されていたのか?

(3)メノラーや十六花弁菊花紋、五芒星とどのような関係があるのか?

これらの問いが十分な検討を要する課題として残されていると言ってよいでしょう。

しかしながら、何れにしてもダビデ紋は、ある時期からずっと「ユダヤ」のある部分を象徴し続けていることが確認されている訳ではあるのです。では、

(4)「ユダヤ」以外でダビデ紋の使用は確認されないのか?

この問いに対する答えこそが、私の調べた限りでは、〈「ユダヤ」を除けば、日本以外には確認されない〉なのです。

〈「ユダヤ」以外では日本でのみ、メノラーも、十六花弁菊花紋も、イスラエル13支族の各紋章も、五芒星も、そして六芒星も、使用されているのが確認される〉

というのが、現段階での私の認識です。

ところで「ユダヤ」は、世界中に離散し、それぞれの場所である程度異質なものとして、他の多くの民族に混ざりこんで存在しています。この場合は飽くまでも、「ユダヤ」の延長と見做しておく必要があるでしょう。また、ある国に「ユダヤ」が溶け込んで、「ユダヤ」的な要素を全て失って「ユダヤ」でなくなっている場合もあるでしょう。ところが、「ユダヤ」とは異なる統一的なある国にその国の重要な要素として「ユダヤ」的要素が確認されるというのは、これらふたつとは当然意味合いが違ってくるわけです。従って(4)の問いは、厳密には、

(5)「ユダヤ」以外で六芒星がその国の根幹のひとつを象徴する紋章として使用されている事例はないのか?

と書き改めなければなりません。従ってこの問いに対する現段階での私の認識も、

〈「ユダヤ」以外では日本でのみ、メノラーも、十六花弁菊花紋も、イスラエル13支族の各紋章も、五芒星も、そして六芒星も、国の根幹のひとつを象徴する紋章として使用されているのが確認される〉

と書き改める必要があります。

ただし、

(6)本当に、「ユダヤ」と日本以外(インドやアフリカ、古代ヨーロッパ、中央アジア、東南アジア、北東アジア、古代南北アメリカ、オーストラリア)でダビデ紋は、国の根幹のひとつを象徴する紋章として使用されてはいないのか?

もまた、重要なアンテナのひとつとして、今後も張り続けていくべきだということは、念頭に置いておくべきでしょう。

ところで、伊勢神宮や籠神社のダビデ紋あるいは六芒星(ヘキサゴン)を「巧妙なフェイク」と断言する人達がいます。その人達によれば、アフリカやインド、東南アジア、中国、南北アメリカを植民地として露骨に支配したヨーロッパが、日本に対しては何故かそれができずにいた中で大東亜戦争へと日本を巧妙に誘導し、敗戦と原爆に追い込んでとうとう占領することになった。その際、何故か、前時代のような露骨な植民地支配ではなく、民主化を隠れ蓑にした情報操作や工作員配置による経済的で政治的な、より巧妙なステルス支配に切り替えた。その際に、悪魔的と言ってもいいような巧妙さと広視野の計画性をもって日本文化の根幹と目される伊勢神宮にこの六芒星を配置し、日本と「ユダヤ」の本源的な結びつきをでっち上げたのだ。実際は日本と「ユダヤ」の古代からの本源的な結びつきなどではなく、日本支配層と「ユダヤ」の謎の結託が明治維新以来続いてきた上での、それを隠蔽するための演出でしかない。こういうことなのだそうです。この視点からすると、六芒星問題は、次のように設定し直さなくてはならなくなります。

(7)戦後「ユダヤ」が世界中でただ日本の神社だけを特別視して、六芒星を伊勢神宮に配置するなど、日「愈」同祖論をでっち上げざるをえなかったのは何故か?日本の支配層は何故にこれほど金融偽ユダヤに特別視され、ある程度尊重されたのか?

私からすると、開国の際に日本だけが植民地とならず(不平等条約は存在していたが後に努力の末に廃止された)、イギリスやアメリカの援護を受けながら列強の一角にまで食い込んで、最後はその英米との戦争を行えるほどの富国強兵をごく短期間で果たし、敗戦後も日本の支配層と「ユダヤ」の結託が成り立って驚異的な経済成長を果たした、などという一連の流れが可能になっているのは、日本の支配層と「ユダヤ」の古代からの本源的な結びつきを当事者自身が強く自覚していたからだと言う方が、自然に感じます。ということは、六芒星は戦後になってでっち上げられたフェイクではなく、これまで隠していたもののリークということになるわけです。

日本が近現代の金融偽ユダヤにとってかくも特別だったのは、日本が金融偽ユダヤと本源を同じくしていたからなのか?それとも、例外的に優秀だったとか、運が良かったとか、上記以外の何らかの理由があったのか?私は、前者を支持するのが自然だと考え、前者だからこそ結果的に後者も現象として出てくると考える訳です。

以上のことを踏まえつつ、日本における六芒星を巡る事実をいくつか記録しておきたいと思います。

事例1
まず、伊勢神宮の境内には六芒星はひとつもありません。神宮外の伊雑の宮にまで至る参道に立ち並ぶ、終戦直後に進駐軍によって設置された全ての灯籠に入っているのです。このことを捉えてフェイク説を唱える人がいますが、進駐軍が伊勢神宮を崇敬して伊勢神宮の本質に相応しい紋章を付けて寄進したとも考えられなくもないわけですし、進駐軍がそれ程の多額な費用をかけてまで日「愈」同祖論をでっち上げるメリットが自然なものとしては思いつきにくいのは、先ほど述べた通りです。

また、次のような情報もあります。

⇨マヨの本音
http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/cmt/68c5dc0eb62af8ae956be20adcd395bb

〈トモメルさんのコメント〉
神宮外歩道の燈籠(六芒星入り)は、小泉太志命さんという人が地元に働き掛けて造られたそうです。六芒星を入れた理由は、神宮を護り魔を払うなど神霊的な意味合いで入れさせたようです。故藤波代議士の縁者の方に伺いました。因みに、美智子皇后様がご成婚に反対された香淳皇后様初めとする多くの方々を「美智子様はアマテラスオオヒルメムチの御魂である」と納得出来るよう申し上げて説得したのも小泉太志命さんだそうです。
(引用以上)

事例2
籠神社の海部光彦宮司が「籠神社の封印された本当の神紋は六芒星である」と証言し、それをアピールする一連の長期に渡る活動を行い、ある時下鴨神社からの圧力で一部それを撤去したという話が事実として伝えられている。そこに感じられる具体性と信憑性を巧妙な罠とは考えにくい。

事例3
日本における六芒星の最も古い使用例は、安倍晴明の表陰陽道の五芒星に対する芦屋道満の裏陰陽道の六芒星でしょう。これは、時系列から見てイエズス会とは無関係のはず。当時日本に密かに潜入していたかもと言われるテンプル騎士団の影響とは、ひょっとしたら言えるかもしれないが、これも何らかの私利私欲にまみれた世俗的な取引の結果とは考えにくい。テンプル騎士団がその時代に日本においてそこまで世俗的影響力があったはずがないからである。外国勢力の影響と考えるより、元々文化として持っていたと考える方が自然である。

事例4
長篠合戦図屏風には信長のすぐ傍に控える陰陽師達の背中に五芒星ではなく六芒星が入っています。彼らは、漢波羅と呼ばれる密儀集団のメンバーであることがわかっています。

他にも沢山ありますが、今回はこれまで。上の例だけ見ても、日本における六芒星が日本古来の文化であり、戦後になってでっち上げられたものである可能性は極めて低いことが分かります。

最後に、この記事で用いられている「ユダヤ」は、最も曖昧に用いられた場合の「ユダヤ」です。「ユダヤ」の厳密な定義については、当ブログの記事『飛鳥昭雄のユダヤ論/秦氏論要約(マヨさんへの手紙)』を参照して下さい。

義人の批判の際は君も義人たれ!

2012-06-01 01:44:43 | 日本論と宗教論
真善美に触れた後、その時の認識や感情を天からの贈り物として敬う。ひと時も忘れず疑わず理想として敬い続けながら、自分の今を規定し続ける。次から次へと襲ってくる障害を前にしても怯むことなく、利害や生死にも余り拘り過ぎることなく立ち向かい続ける。そうでないと生きているという実感すら持てない。これが義です。

世間の「真善美」と義人の真善美が一致すれば何の問題もないでしょう。しかしながら、世間の「真善美」と義人の真善美が一致することなどほとんどない。それが現実です。同じ「何となく」でも、義人の「何となく」と俗人の「何となく」は、その淵源が、それこそ文字通り「天と地」程も違っているのです。それでほとんどの場合、角が立ってしまう。

「いい人ね」とか「面白いね」と俗人に言われると大抵の場合、「私にとって都合がいい人だと思うのよ。利用させてもらうわ」などと言われているような気がして、不快感しか得られないものです。世間と調和しながら悠々と生きているように見える人に出会うことも多々ありますが、そんな時はその人の横顔を見つめつつ心の底から驚き、敬服するしかなくなってしまうくらいです。

人間には淵源がふたつある。従って、真善美の認識と感情を天の贈り物として敬いつつ奮闘努力したいと思っている人間もやはり、外的には自分も何処かでこの世の産物なのだと思い知らされる。天の贈り物としての真善美によって批判されるのは他人ではなく、何よりも先ず過去から現在に至る自分自身の何処かの部分でしかないのです。

私の場合もふとした時に、例えば自分の幼い時の本当に些細な言動が、その瞬間そこにいた全ての人たちの表情と共に生々しく蘇ってきて、今更ながら大いに恥じ入るということが、よくあるのです。人を裁く余裕などないのが実感だし、人を裁くなど義人の心性の中に元々ないのではと想像すらしています。だから、世間が「真善美」と言って強要してくることにはほとんど心が動かないし、それに対して批判も率直にするけど、だからと言って世間の人々を無下に裁いているわけでもないのです。

ちゃんと確認したことはないし、今更向きになって証明する気も全くないが、論争の際に裁いているのはほとんどの場合私の方ではなく相手の方なのではと感じるのです。私が行っているのは飽くまでも批判であり(大抵は「裁いてる」と決めつけられてしまいますが)、疑義の(時には卑劣さに対する怒りの)率直な表明でしかなかったと思うのです。しかもかなり遠慮がちなです。おまけに、相手方の裁きには常に(萎縮あるいは承認しているとの誤解を与えかねないことも承知の上で)敢えてあるところまでは沈黙しておくし、無駄と分かったらできる限りの礼節を尽くし静かに立ち去る習慣すら、最近では身についてきたのです。私が尊重し、表に引き出したいと思っているのは相手の善意、創意であって、悪意や落胆、劣等感ではないからです。

その時も最後まで沈黙で通しましたが、つい最近ある人から受けた不当な裁きの言葉があります。

「美を求めると醜に遭います。善を求めると悪に遭います。愛のために異教徒を殺すんです。勉強ができたり、頭がよかったり、真面目で努力が苦にならない上にロマンチストだったりすると最低ですわ(爆)」

⇨マヨの本音
http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/cmt/d6b8e6427a7c63d934b8bb941290712d?st=0

正直言って、逆説的な表現を明確な肯定的主張なしに、単に否定的主張のためだけに、気分として、自己陶酔気味に用いるという、よくあるタイプの無意味な言葉遊びになっている。論理的にも筋が通っていない。私のことを微妙なところで大きく誤解している。(できたらちゃんと読み取って欲しいなあ。無理解と個人的な心理的トラウマの無恥な吐露にしかなっていないのに、爆笑までして可哀想に)とは思いますが、私にはこの出来事を自分の記憶の中に留めておく以外に今は術がないのです。自分の感情と論の趣旨が今すぐこのようなタイプの人の心の中に入っていくなどと期待する方がおこがましいのであって、(この人の心の中にもこの出来事そのものが記憶として留まっている。従っていつか遠い将来にでもこの人の心の奥底に静かに入っていける)と信じるしかないわけです。

「義人として生きるなんて無駄なばかりか有害で傍迷惑なこと。そんなこと初めから放棄して楽になりましょう。そうすれば争いごとなくみんな平和でいられるのですから」ということなのでしょうが(全て否定的ですよね?)、ならどうして「裏社会の悪」を暴露しようとするのでしょうか?こんな人に限って権力者の秘密暴きが大好きで、自分自身のことを脇においたまま自分の置かれた現状には不満を抱き、それを自分以外の誰かのせいにするものです。批判とは、何か積極的な価値あるものを求める中で出てくる、もっと知的で高潔なものであって、このような気儘な不平不満とは似て非なるものです。相手を批判する時は、まるで自分のことであるかのように親身になって批判するのでないといけないということを知らないのでしょう。マヨさんは「とにかく疑っていくのだ」と仰っているが、誰に対しても何の根拠もなくというニュアンスが入っている嫌いがあるわけで、それなら何の正義も忠誠も、目的もない、単なる観念操作でしかなくなるでしょう。そこにマヨさんの弱点があるのです。恐らくは、方法的懐疑の「方法的」の意味が全く分からないのでしょう。

聖別という言葉があります。今の私にはこの意味がよく分かるような気がします。いくら天に忠実だからと言って、この世にも由来を持つひとりの人間がおこがましくもこの世を天国に改革しようとするのです。そのため、捨て身になることで自己主張にならないよう気をつけてはいても、多くの人の悪意を刺激してしまうことになるのでしょう。だからと言ってしかし、今の自分の認識と感情を誤魔化して脱力し、争いごとを避けてこの世の「平和」に満たされた振りをするなどということはできないのです。勿論、叩けばいくらでも「埃」の出てくる身です。それに、危険だし面倒臭いことも重々承知です。でも、世の中の隠れた巨悪を確認した以上、力の及ぶ範囲でも構わないからと自己弁護しつつ何とか尽力しようとせざるを得ないではないですか?確認しているのに人任せ、成り行き任せは、大の男としては非常に居た堪れない訳です。ですから、自分の過去や現在は隠すこともしないが、世の改革のために義人として生きようとする時は、それを一旦聖別して置いておく必要が出てくるのです。

何で「聖」別なのか?何故ならこんなことは人間には、本人は勿論周囲の誰にもできることではないのに、それでも何者かがその者だけの権能を持って必ず行わなければならないことだし、そんなことができるのは聖なる存在だけだからです。つまり、義人たるべく努力させていただくという感覚です。何者にか?それは、今は敢えて言いますまい。

インターネットや一連のある新しいジャンルの書籍出版のお陰で、これまでなら埋れてしまい一般の目に触れることなどなかったであろう多くの義人達に、比較的容易に接触することができるようになりました。私にとっては、私の師匠である戸田省二郎先生は勿論、中丸薫女史や飛鳥昭雄氏、三神たける氏、リチャード=コシミズ氏、ベンジャミン=フルフォード氏、「マヨさん」、「コスモさん」、伯壬旭氏、久保有政氏、小林恵子女史、鹿島昇氏、松重楊江氏、船井幸雄氏、中矢伸一氏、八切止夫氏、梅原猛氏、太田龍氏、デービッド=アイク氏、ゼカリア=シッチン氏、ルドルフ=シュタイナー氏など、多数の方々のことです。

この人たちを含む多くの義人の存在は、この世の恐ろしい欺瞞と抑圧に気づき、現状を根本的に改革したいと願う人たちにとっては、初めは光だったでしょう。この義人たちがいなかったら今だにどの人も暗中模索の中に漂っていたはずだからです。この義人たちの情報や言説に触れて驚きと共に覚醒し、義憤に心を燃やした瞬間があったはずです。

この感覚は、自分も義人として後に続いていく気持ちを捨ててしまっているのでない限り、決して消えたりはしていないはずです。その人達も人間ですから、そのうち欠点もいくつか目に突いてくることでしょう。若干の変節もあるでしょう。しかしその時にも、この人たちを聖別された義人として待遇し、批判はしても裁いたりしはしないはずです。またもし、彼らのうちの誰かを義人としたかつての自分の判断に間違いがあったと言うのなら、なおのこと先ずは自分自身をのみ批判するはずです。さらには、一度も彼らの言説に触れたことがなく、ちゃんとした評価を与えたこともないのに有名だからとか目立っているからとかいう理由だけで内容もよく知らないまま批判するのも、あり得ないことだと分かるはずです(マヨさんの飛鳥昭雄批判は恐らくはこの類です。キリスト教の知識が必要な段階でページを閉じてしまったにも拘らず、評価を公表してしまったに違いないのです)。ところが、自ら義人であり続ける心の気高さ強さがなく、陰謀暴露も単なる惰性や面白半分に堕してしまっているせいか、多くの人がこれら義人に対して無自覚に安易な裁きに走ってしまい、せっかくの義人達の努力を阻害して世に損害を与える結果となってしまっているのです。要するに、自分の気分をその人達にぶつけてしまっているだけなのです。裁きと批判とはちゃんと区別して欲しいものです。できないなら沈黙して欲しい。

例えば、次の記事を読んでみてください。

⇨イランカラプティ
http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/funai.html

A:9月11日の直前、9月8日と9月9日に、船井幸雄氏が『フナイ・オープン・ワールド』と題された講演会の中で「アメリカはここ2カ月以内に正当な理由をつけて戦争をします」と二度程言ってました。 月刊『ムー』は、911は陰謀だと事件後直ぐに特集を組んでいました。 私は昨年の12月6日に名古屋でのきくちゆみ女史主宰の「911真相究明国際会議」にも行ってきました。マスコミの参加はなかったようですが、個人的に参加した人は多勢いました。 マスコミ連中は、真実は隠そうとするのですね。遅ればせながら週刊朝日が記事にしているのを見て少しは見直しましたが、取り扱いはおっかなびっくりといった感じでした。

B:船井はかなり怪しいと睨んでいるが、やはりね。911の首謀者筋から情報をもらっていたんだろう。つまり船井は闇の勢力のフロントだってこと。私は船井さんは飛鳥昭雄さんともつながっていると思います。 飛鳥さんはムーによく執筆しています。 ちなみに飛鳥さんは大阪府出身、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者。 モルモン教の総本山はソルトレイクシティーにあります。 船井さんも大阪府出身です。船井さんと仲良しのお一人に近藤洋一さんという方がいらっしゃいます。この方はTHDの社長さんでした(現在は違う方になっています)。このお二人、このお店のパンフ等でよく対談とかなさってまして、アセンション系やトンデモ宇宙系、癒し系、神道系、トンデモ科学系の講演会とかツアーとかも頻繁に開催されています。自然食品店をやっていた経験上多少取引もあり、気になる方々ではあったのです。 最初は私もウブなことにあまり疑っていませんでしたが。いつまでもウブというわけにはいきません。 どうやら、このお二人、3次元界の支配者側に深くかかわってきた魂であることが分かってきました。そして今は、ヤタガラス組織の本体もしくは非常に本体に近い所に位置していると推測しています。 そう、昨日書いた秦氏の後裔ではないかと。THDという会社の本社は京都府木津川市にあります。合併前は京都府加茂町 。昨日の記事で書いた石原産業はフェロシルトをこの加茂町にも投棄しています。そしてお気づきになった方もいると思いますが、 三重県にはかの有名な伊勢神宮があります。鳩山さんが仕事始めに伊勢神宮にお参りしてましたね。 いよいよ大団円と向かいそうです。 
(引用以上)

義人といえども、あるいは有力な義人だからこそ、この世においても多くの繋がりを持って生きている、あるいは生きていけるのです。繋がりの気儘な指摘だけでは全く批判になりません。それこそ気分的な裁きになってしまっています。義人たちも人間なのに、一度こちらから特別な義人として注目したのです。義人として目の前にあるからこそ、このような気儘な断罪の対象にもなってしまうのでしょう。しかし、義人として自ら注目した以上は、この義人たちは私達自身によって既に聖別されているのです。批判するなら、繋がりの指摘だけではなく、その目的や受領した不当な利益、支払っているコスト、世間にもたらした恩恵と実害や悪影響などを公平に詳細に論じ、義人として敬いながら、もっと真摯に行うべきでしょう。どんな地位にあるかではなく、どこに彼らの卑屈さや傲慢さ、自己欺瞞が見えるかが、問題なのです。それに、自分の身分と目的の明確な表明も必要でしょう。何故ならどんな場合でも、目的はこの世の改革であるべきで、面白半分の気分任せの揚げ足取りであってはならないのですから。批判者もちゃんと自分の論に責任を取るべきです。義人を批判できるのは義人だけなのです。

上の記事の主には、それらが全く感じられません。そして、この二人の事例は残念ながら、インターネット上での典型的な事例となってしまっているようです。何故かどれも、文体までよく似ている。目立つのはほぼどれも、知識の幅広さと目新しさの自慢以上の何物にもなっていないことです。このような人々は、はっきり言って、金融偽ユダヤ人達程にも意味のない、有害な人達です。凄く恥ずかしいことなのですよ。自覚して下さい。

因みに、船井氏の発言で注目すべきは、「金融偽ユダヤも、滅ぼそうといきり立つのではなく、説得して懐柔し、その力を活かそうとすべきです。『日月神示』の趣旨もそこのところにあるようです」という発言でしょう。全く怪しむべき発言ではありません。堂々としています。

飛鳥昭雄氏が他の誰にもできないようなユダヤ論や秦氏論を世に打ち出すことができたのも、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者として聖書を恐らくはどなたか心ある有能な方の下で深く読み込んでいたからだし(一般の日本古代史研究家の限界を遥かに超えて)、同時にヤタガラス組織の本体もしくは非常に本体に近い所に位置しているからでしょう。しかも彼は、それを全く隠匿していません。恥じることなく正直に、自分からそう明確に述べているではないですか?「私のこの世での位置はここですが、この位置から私もあなた方と同じように義人たらんと自分なりに努力させてもらっています。どうかお役立て下さい」と言っているのだと、聞き取ればいいだけでしょう。どこに批判すべき難点がありますか?

このような理不尽な気分任せの断罪を義人に対して行う人に出会う度に、それがまた無自覚で無責任な衆人に気分で支持されるのを目撃する度に、怒りがこみ上げてくるのです。