権力とは何なのでしょうか?
ある者が他のある者あるいは他の複数の者の行動に関して、その目的設定と手段構想のあり方を比較的長期間、顕在的であれ潜在的であれ、何らかの手段を用いて自由にコントロールしているのが確認された時、その者は「権力を持っている」と称されます。要するに、他人を自由に動かす能力のことなのです。
広義の権力は一般にその支配手段の種類によって狭義の権力や権威、武力、影響力などに分類されますが、ここでは、権力と言えばこれらのものをすべて包括した広義の権力のことを示すものとします。
さて、人が集まり運命を共有し始めたら、それがたとえふたりでも、それだけで必ず、特定の人に権力が生じます。「そんなことはない。人は誰もが平等だから」と言う人がいるでしょうが、これは平等という言葉を曖昧な把握のまま用いている嫌いがあります。これは正確には「観念として人は誰もが平等に扱われるべきだ」ということ以上の意味を帯びることはないのです。偏りが必ず生じてくるようなそんな無慈悲な現実を踏まえて、全員がある一定ライン以上の生活条件を享受できる方策をその現実の中で探り続けるために、誰かひとりに権力が託されなければならないのです。人生のあらゆる場面で、大規模な集団から小規模の集団に至るまで常に、このようなことが自から繰り広げられているわけです。
「運命を共有しさえすれば直ちに意志も全て一致するのだから」などという主張は、視野も状況認識も人によって必ず異なってくることを考えると、現実に合わない主張と言っていいでしょう。運命を共有してはいても、意志は現実的には往々にして人ごとに異なってくるものなのです。従って、運命共同体では多くの場合、運命共同体の存亡に関わる事象について多くの人が初めに抱いた意志は、好むと好まざるとに拘らず、あるひとりの人が初めに抱いた意志の下で抑制され、改められざるを得ないことになるわけです。この意味で権力者の責任は、極めて重いものとなります。
「意志が分かれていても運命共同体としては何の問題もない」などという主張も、運命共同体の存亡に関わらぬ瑣末な事象を巡る意志に限られる話です。運命共同体の存亡に関わるような重大な事象に関しては、共同作業が十全な形で継続している限り必ず、その他の大多数が特定の人の意志に長期間に渡って従っていることになります。異なる意志を持った者の間で権力関係が頻繁に変遷している時は、運命共同体の存亡に関わる事象について共同作業が、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続することはないのです。そうなると、関係者の主観的満足感とは関係なく、運命共同体として十全に機能しているとは最早、言えなくなってしまっているわけです。
「権力関係が異なる意志を持った者の間で頻繁に変遷しているにも拘らず、運命共同体の存亡に関わる事象でも共同作業が実際、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続している例もあるのだから(現在の日本のように)」と訴える人もいるでしょうが、それは、権力関係が頻繁に動いているように見えるその「権力者」達が実際は権力者などではなく、その奥に本当の権力者が潜在していることを表しているのです(ということは例えば、民主制は全て近代になってから何らかの理由で頻繁に採用されるようになった見せかけの体制であり、どこでも実際は王族や貴族による支配でないところはないということになるわけです)。
要するに、運命共同体が運命共同体として十全な形で持続するためには先ず、権力の持続が必要となるというわけです。権力が持続するためには、支配を受ける側の不審感や不快感がある一定の限界内に抑制される必要があります。意志を曲げる時の不審感や不快感が常に、ある程度は解消されなければならないのです。というのも、解消されず鬱屈した不審感や不快感が限度を超えてしまうと、被支配者の多数の離脱や消耗などに繋がりかねず、そうなると共同体そのものの存続が危うくなってしまいかねないからです。権力者は、事象に関する判断を誤ることができないばかりか、自分に繋がる全ての人に自分の意志を常に速やかに納得尽くで通すことができるほどの信頼関係も築けなければならないのです。
被支配者の支配者に対する不審感や不快感を抑えるには、道はふたつしかありません。共同体の運営を余すところなく完全に遂行し続けるか、それが無理な場合は被支配者に被支配の実感をできるだけ与えないように工夫するか、どちらかです。
前者の道の実現が常に正当な方策となるのは、勿論です。そのため支配者は、必ず、運命共同体の運営に大きな障害がもたらされないように、あるいはもたらされてもその意味を正確に掴んで的確に速やかに対処できるように、運命共同体を取り囲む無限の時空全体の仕組みを根底から理解してコントロールしようとするわけです。歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、農学、医学、薬学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団が結集されるのは、このためです。現代の操作された科学至上主義の唯物論的合理精神からこれを迷信などと切って捨てる向きがあると思いますが、決してそんなことはできません。
この前者の道の実現は、常に正統な方策と見なされ、そのための努力も決して疎かにされることはないにしろ、通常はどうしても行き詰ってしまいがちになるものです。ここで、後者の目的を果たすための次善の策をあれこれと講じる必要が出てきます。被支配者が自らに降り注ぐ不幸の原因を権力者の支配に結びつけてしまうことがないように被支配者を誘導する必要が、あるいは結びつけてしまった場合にそれをできるだけ早く抑制する必要が、出てくるわけです。それには次のようないくつかの方策が含まれます。
1.不審感や不快感が権力者の失策によるものではなく、外部の存在者の影響によるものだというふうに偽装し、不満の矛先を逸らす。戦争は多くの場合、どうにも施し様のない国内問題の抜本的な解決策として行われる。
2.支配構造を予め多層化しておいて、不審感や不快感がそのうちの比較的下層の影響によるものだというふうに被支配者に錯覚させ、その下層を切り捨てて見せることで、被支配の不審感や不快感を緩和する。
3.被支配層を分断し、互いへの憎悪を煽ってある程度まで争わせることで、不満の矛先を逸らす。市民階級に対する奴隷階級の設置もこの一種と考えられる。
4.不審感や不快感が大きく広がり集約されて、それ自体が権力として成長してくる状況そのものを具に観察し、暗殺や懐柔、情報操作、兵糧攻め、工作員の潜入などの様々な手法を体系的に専門的に行う、権力者直属の秘密組織を設置する。
5.被支配者に批判精神が芽生えないよう、情報を遮断して架空の情報空間の中に被支配者の多くを閉じ込め、被支配者の知的レベルを下げておく。あるいは、麻薬やアルコールなどの薬物や様々な娯楽、人々から感情と認識を奪う宗教、政治制度としては欠陥だらけで混乱と政治的無関心しかもたらさない架空の政治制度である民主主義、認識主体としての人間の能力を貶め封じ込める科学至上主義や進化論などの唯物論的人間観を、被支配者層に普及させる。こうすることでそもそも、被支配の事実すら実感できないようにしておく。あるいは、不審感や不快感の表明や反抗の気力を予め削いでおく。最近では、電磁気装置やサブリミナル法などの最先端のテクノロジーを用いてそれが行われているという情報もある。
6.被支配者への武器の普及を制限し、武力を予め組織的に独占しておくことで、不審感や不快感が武力蜂起につながらないようにする、あるいはつながっても即座に的確に対処できるようにする。また同時に、これらの武力が権力者そのものに向かわないように、あるいは向かっても即座に的確に対処できるように、特殊な軍隊を設ける。最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持も行われる。
7.以上の活動全ての維持に必要な莫大な資本を確保するために、税金の徴収だけに留まらず、自ら農場や工場などの生産手段を所有し、生産活動団体や商業活動団体を組織して運営する。古代においては奴隷売買が、運搬に伴うコストが少なくて済むなど、最も効率の良い経済活動として行われていたようである。貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占もこの一環と考えることができる。日本では、中古宋銭を大量に輸入した上で、それを媒介として用いた本格的貨幣経済の普及を主導し、権力の奪取と維持の主な手段として最初に利用したのが平家であり、平家滅亡後鎌倉末までには貨幣経済が、経済活動全体の大きな部分を占めるようになっていたと言われている。エネルギー資源やエネルギー技術も独占を目指して特設の研究所などで盛んに研究開発される。
8.王后や太子、その他の王族、神官や僧侶、貴族、官僚、武官などからなる各支配階層を統制する手段としての軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などを確保し、行使していく。自分自身が権力闘争に巻き込まれにくくなるように、この仕組みを多層化して、自分は奥に隠れ、主な有力者数人に対する権力行使に専念するということを、平安末以来天皇や裏天皇は征夷大将軍の任命という形で行ってきたようである。また、貴族達が王の地位を横取りしようとしてもできない、あるいは、希望すら抱けない、そんな事態を生み出すのに決定的に重要な要素として機能する血統の差別化と維持管理も行う。
9.各国の権力者がそれぞれの支配体制を安定させる目的で、そのあらゆる階層において横に繋がり、協議を定期的に行い、継続的に協力し合う。あるいは、さらに進んで、各国の権力者そのものを統治する究極の権力者と権力機構を設置する。
これらは全て、権力者の権力の重要な要素となるわけです。まとめると、以下のようになります。
0.歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、医学、薬学、農学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団の結集
1.外敵の宣伝と戦争の意図的遂行
2.支配階級の細分化とスケープゴートの意図的な創作
3.被支配階級の分断策(市民階級に対する奴隷階級の設置)
4.諜報工作機関による危険分子排除
5-a.教育機関やマスコミによる情報操作
b.薬物や娯楽、宗教、民主主義、科学至上主義、唯物論的人間観の普及による愚民化
c.最先端のテクノロジー利用による愚民化
6-a.武器統制と軍隊や警察、近衛軍の常設
b.最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持
7-a.生産手段の所有と経済活動の継続
b.奴隷売買
c.貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占
d.エネルギー資源や技術の研究開発と独占
8-a.軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などの確保と行使
b.血統の差別化と維持管理
9-a.世界王族会議をはじめとする国際機関への関与
b.世界政府の設置
社会が複雑になって国家にまでなると、権力にも以上のような多様な機能が加わるのです。それに合わせて支配も、多様な人々の共同作業のひとつとなるわけです。つまり、王や王族だけで行われるのではなく、神官や僧侶、貴族、官僚、武官もまた、王の統治に重要な要素として組み入れられるようになるということです。これらの人々全員による御前会議が、権力中枢の基本的な形態となってくるわけです。この世に存在する政治体制は全て、この基本形の変化形となっていると考えられます。
例えば、この御前会議においては王が議長の役割を務めるのが本来ですが、会議のメンバーの中に議員の意見を調整・集約するのに長けた者が出てきて、王の権限を実質的に奪うこともあるでしょう(王権の傀儡化)。逆に王が議会を自分の親派で固めて、自らの権限をより強力に行使することもあるでしょう(親政/絶対王政)。さらには、王の独裁に必然的に伴う様々な弊害に懲りて、議会における王の発言を慣習として制限したり(イギリス風の議会政治)、あるいは王そのものを廃止することもあるでしょう(共和政治)。さらにまた、王の権力とその権力機構の存在をより奥の方に隠して、議会を有名無実化することまで考えられます(院政)。またさらに進んで、貴族の参加する議会そのものを廃止した上で国を細かく分割し、それぞれに諸侯を置いて統治させ、その中のひとりを諸侯の中でも特別な地位に任命して諸侯の統制に当たらせ、その権限を世襲させつつ、自分はそのさらに上の権力者として君臨するなどといったこともあります(諸侯をまとめる大候の上に「世界」政府が君臨する、比較的小規模な「世界」内での封建政治あるいは幕藩政治)。
以上において、権力というものについての一般的な考察が完了しました。ここで、ふたつの問いを規定し、それに答える前提が整ったことになります。
疑問1
今上天皇や昭和天皇、大正天皇、明治天皇、孝明天皇はそれぞれ、上の内、どのような政治体制における君主だったのでしょうか?
「日本には古来より3人の天皇が存在する。今も例外ではない」という発言があります。私がこの発言を聞いて真っ先に考えたのが、この発言においてそれぞれの天皇が具体的にどのような意味で「天皇」と称されているのか検証するまでは、この発言に何の評価も与えられないということでした。
疑問2
この発言における残りの二人の天皇は、孝明期や明治期、大正期、昭和期、平成期において、具体的にどのような意味で「天皇」だったのでしょうか?天皇家の分裂と言えば南朝と北朝の分裂ですが、この内の南朝とこれら二人の天皇はどう関わってくるのでしょうか?また、飛鳥昭雄の裏天皇論とこの発言の天皇論とはどのように関連しあっているのでしょうか?
以下において、これらふたつの疑問を解明してみたいと思います。因みに今回は、江戸期以前の各時代の天皇については保留しますが、上に詳述した権力一般の構図は、その考察においても大きな効果を示すはずです。それについては、また別の機会に逐次試行していくことにします。
ある者が他のある者あるいは他の複数の者の行動に関して、その目的設定と手段構想のあり方を比較的長期間、顕在的であれ潜在的であれ、何らかの手段を用いて自由にコントロールしているのが確認された時、その者は「権力を持っている」と称されます。要するに、他人を自由に動かす能力のことなのです。
広義の権力は一般にその支配手段の種類によって狭義の権力や権威、武力、影響力などに分類されますが、ここでは、権力と言えばこれらのものをすべて包括した広義の権力のことを示すものとします。
さて、人が集まり運命を共有し始めたら、それがたとえふたりでも、それだけで必ず、特定の人に権力が生じます。「そんなことはない。人は誰もが平等だから」と言う人がいるでしょうが、これは平等という言葉を曖昧な把握のまま用いている嫌いがあります。これは正確には「観念として人は誰もが平等に扱われるべきだ」ということ以上の意味を帯びることはないのです。偏りが必ず生じてくるようなそんな無慈悲な現実を踏まえて、全員がある一定ライン以上の生活条件を享受できる方策をその現実の中で探り続けるために、誰かひとりに権力が託されなければならないのです。人生のあらゆる場面で、大規模な集団から小規模の集団に至るまで常に、このようなことが自から繰り広げられているわけです。
「運命を共有しさえすれば直ちに意志も全て一致するのだから」などという主張は、視野も状況認識も人によって必ず異なってくることを考えると、現実に合わない主張と言っていいでしょう。運命を共有してはいても、意志は現実的には往々にして人ごとに異なってくるものなのです。従って、運命共同体では多くの場合、運命共同体の存亡に関わる事象について多くの人が初めに抱いた意志は、好むと好まざるとに拘らず、あるひとりの人が初めに抱いた意志の下で抑制され、改められざるを得ないことになるわけです。この意味で権力者の責任は、極めて重いものとなります。
「意志が分かれていても運命共同体としては何の問題もない」などという主張も、運命共同体の存亡に関わらぬ瑣末な事象を巡る意志に限られる話です。運命共同体の存亡に関わるような重大な事象に関しては、共同作業が十全な形で継続している限り必ず、その他の大多数が特定の人の意志に長期間に渡って従っていることになります。異なる意志を持った者の間で権力関係が頻繁に変遷している時は、運命共同体の存亡に関わる事象について共同作業が、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続することはないのです。そうなると、関係者の主観的満足感とは関係なく、運命共同体として十全に機能しているとは最早、言えなくなってしまっているわけです。
「権力関係が異なる意志を持った者の間で頻繁に変遷しているにも拘らず、運命共同体の存亡に関わる事象でも共同作業が実際、運命共同体全体を巻き込むような十全な形で持続している例もあるのだから(現在の日本のように)」と訴える人もいるでしょうが、それは、権力関係が頻繁に動いているように見えるその「権力者」達が実際は権力者などではなく、その奥に本当の権力者が潜在していることを表しているのです(ということは例えば、民主制は全て近代になってから何らかの理由で頻繁に採用されるようになった見せかけの体制であり、どこでも実際は王族や貴族による支配でないところはないということになるわけです)。
要するに、運命共同体が運命共同体として十全な形で持続するためには先ず、権力の持続が必要となるというわけです。権力が持続するためには、支配を受ける側の不審感や不快感がある一定の限界内に抑制される必要があります。意志を曲げる時の不審感や不快感が常に、ある程度は解消されなければならないのです。というのも、解消されず鬱屈した不審感や不快感が限度を超えてしまうと、被支配者の多数の離脱や消耗などに繋がりかねず、そうなると共同体そのものの存続が危うくなってしまいかねないからです。権力者は、事象に関する判断を誤ることができないばかりか、自分に繋がる全ての人に自分の意志を常に速やかに納得尽くで通すことができるほどの信頼関係も築けなければならないのです。
被支配者の支配者に対する不審感や不快感を抑えるには、道はふたつしかありません。共同体の運営を余すところなく完全に遂行し続けるか、それが無理な場合は被支配者に被支配の実感をできるだけ与えないように工夫するか、どちらかです。
前者の道の実現が常に正当な方策となるのは、勿論です。そのため支配者は、必ず、運命共同体の運営に大きな障害がもたらされないように、あるいはもたらされてもその意味を正確に掴んで的確に速やかに対処できるように、運命共同体を取り囲む無限の時空全体の仕組みを根底から理解してコントロールしようとするわけです。歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、農学、医学、薬学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団が結集されるのは、このためです。現代の操作された科学至上主義の唯物論的合理精神からこれを迷信などと切って捨てる向きがあると思いますが、決してそんなことはできません。
この前者の道の実現は、常に正統な方策と見なされ、そのための努力も決して疎かにされることはないにしろ、通常はどうしても行き詰ってしまいがちになるものです。ここで、後者の目的を果たすための次善の策をあれこれと講じる必要が出てきます。被支配者が自らに降り注ぐ不幸の原因を権力者の支配に結びつけてしまうことがないように被支配者を誘導する必要が、あるいは結びつけてしまった場合にそれをできるだけ早く抑制する必要が、出てくるわけです。それには次のようないくつかの方策が含まれます。
1.不審感や不快感が権力者の失策によるものではなく、外部の存在者の影響によるものだというふうに偽装し、不満の矛先を逸らす。戦争は多くの場合、どうにも施し様のない国内問題の抜本的な解決策として行われる。
2.支配構造を予め多層化しておいて、不審感や不快感がそのうちの比較的下層の影響によるものだというふうに被支配者に錯覚させ、その下層を切り捨てて見せることで、被支配の不審感や不快感を緩和する。
3.被支配層を分断し、互いへの憎悪を煽ってある程度まで争わせることで、不満の矛先を逸らす。市民階級に対する奴隷階級の設置もこの一種と考えられる。
4.不審感や不快感が大きく広がり集約されて、それ自体が権力として成長してくる状況そのものを具に観察し、暗殺や懐柔、情報操作、兵糧攻め、工作員の潜入などの様々な手法を体系的に専門的に行う、権力者直属の秘密組織を設置する。
5.被支配者に批判精神が芽生えないよう、情報を遮断して架空の情報空間の中に被支配者の多くを閉じ込め、被支配者の知的レベルを下げておく。あるいは、麻薬やアルコールなどの薬物や様々な娯楽、人々から感情と認識を奪う宗教、政治制度としては欠陥だらけで混乱と政治的無関心しかもたらさない架空の政治制度である民主主義、認識主体としての人間の能力を貶め封じ込める科学至上主義や進化論などの唯物論的人間観を、被支配者層に普及させる。こうすることでそもそも、被支配の事実すら実感できないようにしておく。あるいは、不審感や不快感の表明や反抗の気力を予め削いでおく。最近では、電磁気装置やサブリミナル法などの最先端のテクノロジーを用いてそれが行われているという情報もある。
6.被支配者への武器の普及を制限し、武力を予め組織的に独占しておくことで、不審感や不快感が武力蜂起につながらないようにする、あるいはつながっても即座に的確に対処できるようにする。また同時に、これらの武力が権力者そのものに向かわないように、あるいは向かっても即座に的確に対処できるように、特殊な軍隊を設ける。最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持も行われる。
7.以上の活動全ての維持に必要な莫大な資本を確保するために、税金の徴収だけに留まらず、自ら農場や工場などの生産手段を所有し、生産活動団体や商業活動団体を組織して運営する。古代においては奴隷売買が、運搬に伴うコストが少なくて済むなど、最も効率の良い経済活動として行われていたようである。貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占もこの一環と考えることができる。日本では、中古宋銭を大量に輸入した上で、それを媒介として用いた本格的貨幣経済の普及を主導し、権力の奪取と維持の主な手段として最初に利用したのが平家であり、平家滅亡後鎌倉末までには貨幣経済が、経済活動全体の大きな部分を占めるようになっていたと言われている。エネルギー資源やエネルギー技術も独占を目指して特設の研究所などで盛んに研究開発される。
8.王后や太子、その他の王族、神官や僧侶、貴族、官僚、武官などからなる各支配階層を統制する手段としての軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などを確保し、行使していく。自分自身が権力闘争に巻き込まれにくくなるように、この仕組みを多層化して、自分は奥に隠れ、主な有力者数人に対する権力行使に専念するということを、平安末以来天皇や裏天皇は征夷大将軍の任命という形で行ってきたようである。また、貴族達が王の地位を横取りしようとしてもできない、あるいは、希望すら抱けない、そんな事態を生み出すのに決定的に重要な要素として機能する血統の差別化と維持管理も行う。
9.各国の権力者がそれぞれの支配体制を安定させる目的で、そのあらゆる階層において横に繋がり、協議を定期的に行い、継続的に協力し合う。あるいは、さらに進んで、各国の権力者そのものを統治する究極の権力者と権力機構を設置する。
これらは全て、権力者の権力の重要な要素となるわけです。まとめると、以下のようになります。
0.歴史や形而上学、神学、倫理学、幾何学、数学、天文学、医学、薬学、農学、経済学、政治学、土木学、建築学などの諸学を研究する学術集団と呪術や儀式を執り行う呪術集団の結集
1.外敵の宣伝と戦争の意図的遂行
2.支配階級の細分化とスケープゴートの意図的な創作
3.被支配階級の分断策(市民階級に対する奴隷階級の設置)
4.諜報工作機関による危険分子排除
5-a.教育機関やマスコミによる情報操作
b.薬物や娯楽、宗教、民主主義、科学至上主義、唯物論的人間観の普及による愚民化
c.最先端のテクノロジー利用による愚民化
6-a.武器統制と軍隊や警察、近衛軍の常設
b.最新テクノロジー兵器の独占的な開発や所持
7-a.生産手段の所有と経済活動の継続
b.奴隷売買
c.貨幣鋳造権や紙幣発行権の独占
d.エネルギー資源や技術の研究開発と独占
8-a.軍事権や立法権、人事権、裁判権、褒賞権などの確保と行使
b.血統の差別化と維持管理
9-a.世界王族会議をはじめとする国際機関への関与
b.世界政府の設置
社会が複雑になって国家にまでなると、権力にも以上のような多様な機能が加わるのです。それに合わせて支配も、多様な人々の共同作業のひとつとなるわけです。つまり、王や王族だけで行われるのではなく、神官や僧侶、貴族、官僚、武官もまた、王の統治に重要な要素として組み入れられるようになるということです。これらの人々全員による御前会議が、権力中枢の基本的な形態となってくるわけです。この世に存在する政治体制は全て、この基本形の変化形となっていると考えられます。
例えば、この御前会議においては王が議長の役割を務めるのが本来ですが、会議のメンバーの中に議員の意見を調整・集約するのに長けた者が出てきて、王の権限を実質的に奪うこともあるでしょう(王権の傀儡化)。逆に王が議会を自分の親派で固めて、自らの権限をより強力に行使することもあるでしょう(親政/絶対王政)。さらには、王の独裁に必然的に伴う様々な弊害に懲りて、議会における王の発言を慣習として制限したり(イギリス風の議会政治)、あるいは王そのものを廃止することもあるでしょう(共和政治)。さらにまた、王の権力とその権力機構の存在をより奥の方に隠して、議会を有名無実化することまで考えられます(院政)。またさらに進んで、貴族の参加する議会そのものを廃止した上で国を細かく分割し、それぞれに諸侯を置いて統治させ、その中のひとりを諸侯の中でも特別な地位に任命して諸侯の統制に当たらせ、その権限を世襲させつつ、自分はそのさらに上の権力者として君臨するなどといったこともあります(諸侯をまとめる大候の上に「世界」政府が君臨する、比較的小規模な「世界」内での封建政治あるいは幕藩政治)。
以上において、権力というものについての一般的な考察が完了しました。ここで、ふたつの問いを規定し、それに答える前提が整ったことになります。
疑問1
今上天皇や昭和天皇、大正天皇、明治天皇、孝明天皇はそれぞれ、上の内、どのような政治体制における君主だったのでしょうか?
「日本には古来より3人の天皇が存在する。今も例外ではない」という発言があります。私がこの発言を聞いて真っ先に考えたのが、この発言においてそれぞれの天皇が具体的にどのような意味で「天皇」と称されているのか検証するまでは、この発言に何の評価も与えられないということでした。
疑問2
この発言における残りの二人の天皇は、孝明期や明治期、大正期、昭和期、平成期において、具体的にどのような意味で「天皇」だったのでしょうか?天皇家の分裂と言えば南朝と北朝の分裂ですが、この内の南朝とこれら二人の天皇はどう関わってくるのでしょうか?また、飛鳥昭雄の裏天皇論とこの発言の天皇論とはどのように関連しあっているのでしょうか?
以下において、これらふたつの疑問を解明してみたいと思います。因みに今回は、江戸期以前の各時代の天皇については保留しますが、上に詳述した権力一般の構図は、その考察においても大きな効果を示すはずです。それについては、また別の機会に逐次試行していくことにします。