飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

なぜ今この日本でイスラエルが問題になるのか

2014-11-25 07:48:05 | 日本論と宗教論
ある方が、私のブログの読者であるアルトさんに向けてコメントを入れられました。私への直接のコメントではありませんが、私も若干のコメントを入れてみたくなりました。それを記事として挙げ、皆さんにも読んで頂きたいと思います。


以下引用。

コメント、ありがとうございます。私への直接のコメントではありませんが、私も若干のコメントを入れてみたいと思います。

>ルシファーって(笑)。まぁ私はルシファー好きですけどね。

キリスト教神学の用語を用いると、現代日本ではある特定の色が付いてしまいます。しかし、日本古代の隠された歴史を解明する際に、或いは、日本古代の隠された歴史を背景とした現代日本の正確な状況把握の際に、キリスト教神学の用語を用いることが、そうでない場合には決して得られないような成果を収められるのもまた、事実です。

アルトさん(ここでは何故か、Petero Banbancoというペンネームになっています)が「ルシファー」という言葉に込めた、桓武天皇に対する独特の感情が私にはまだ、完全には理解できません。これは認めます。また私自身は、現代日本の一般的な人々の思考に合った用語をできるだけ用いようと心掛けてもいます。それでも私は、自分に理解できないもの、自分のスタイルとは違うものを、ただそれだけの理由で非難する気にはなれない。何故なら、自分に理解しきれないだけかも知れないし、自分のスタイルとは異なるスタイルで表現されているその何かをある程度は把握し、自分のスタイルで表現し直せる時が、暫くすれば来るかも知れないと感じるからです。

実際、アルトさんが教えて下さったことの中には、十分な咀嚼ができた時に色んなことに気づかせてくれることが、多々含まれていました。

例えば、殷の文化の中に人間を供物として殺す慣習があったことをアルトさんが独特の表現で軽く揶揄されたことがありますが、私はそれをずっと覚えていて、そのことについて色々と調査しました。その私の調査でも、それは紛れもない事実であることが、しかも古代東洋史の隠された一面を抉り出すのに極めて重要な事実であることが、分かってきました。「古来より大陸では食人肉が意外な程頻繁に行われてきた。それが文献上でも極めて明確に確認できる」という内容の、桑原隲藏という学者の有名な論文にも突き当たりました。「古墳建造の文化が殷王朝の分国である奴国(那国)によって那覇を中心とする琉球経由で支那から列島に持ち込まれた」とか(「那」或いは「奴」の古代東洋史理解における重要性がここで示唆されていることに注目して下さい)、「殷王朝に縁のある奴国の人々が列島から南米に渡ってインカ帝国を造った」とか、「列島や半島、満州、台湾などで確認できる、戦の際の首刈り行為の本当の目的は、人間の脳を原料にした薬の製造であった。関西で『どタマかち割ってストロー挿して脳みそチュウチュウすーたろかあ』というフレーズが、現代でもギャグとしてではあるが、一般的なのも実は、強ち偶然ではない」(八切止夫)とかいった、幾つかの別書の一連の記述を読んだ時に、古墳建造にもインカの儀式にも人身御供の風習が確認できることが教科書にも普通に書かれてあったことを思い出して、何だか大いに合点がいき、この私達が暮らす日本の隠された一面にまた、生々しく触れられた気がしたものです。この他にも、例を挙げればキリがない程多くのヒントを、私はアルトさんから得させて貰っています。「桓武天皇はルシファーだった」からも、何か出てくるのではないかと期待しているところです。

>あの、それでは熊沢天皇と変わらないので、物証以外でお願いしたいのですが、血脈とかどうなっているのでしょうか…。

私のごく親しい人の中には、つい数十年前まである国の王だった方の直系の子孫で、普通の日本人として暮らしておられる方がいます。また、江戸時代まで大名や貴族として表に立っていた人々が、今ではすっかり消え去ったように見えるけれど、それは飽くまでも表向きの話に過ぎず、実際はこの現代日本の実質的な支配層として、決して無視できない影響力をもって厳然と存続しているという話も、私の中では、ほぼ確かな事実として固まってきています。そもそも、熊沢天皇も、当時のマスコミではやや嘲笑を伴った扱いになっていたようですが、強ち嘘とは言えないのだと私は思っています。

「通常の感覚」は、ある人達によって、想像を絶する遣り方で極めて巧妙に、大規模に、人為的に誘導された、私達を精神的に閉じ込めておく為の一種の見えない監獄なのです。「通常の感覚」から一旦離れて、これまでは見えなかった事実を見ようとすることの中には、私達庶民、平民が、この現代日本を人間らしく生き抜く為に欠かすことのできない重要な何かが明確に含まれていると、私は思います。

例えばつい最近、朝日新聞による従軍慰安婦関連の一連の捏造が数十年振りに明らかになりました。日本を代表する大新聞社が、明らかに意図的に、事実無根の話を事実として何十年も報道し続け、私達の一般的な感じ方、考え方を誘導していたのです。そのことでいかに多くの有能な人の貴重な人生が無駄になってしまったことか。この一点を見ても、今私が述べたことの重要性が、ある程度は納得して頂けるのではないでしょうか?

>それならあなたは、イスラエルに行けば良いじゃないですか。昔の言い伝えを信じてイスラエルに住んでいる日本人は、案外いるらしいですよ。

現在中東にあるイスラエル国は、本当のイスラエル国ではありません。20世紀中頃になって、ある人達がある目的をもって人為的に、本当のイスラエルも若干は巻き込み利用しながら、捏造したものです。この人達こそ、この500年間に渡って世界中を抑圧し続け、現在でも抑圧し続けている人達なのです。その人達の思惑を挫くことは、現代を生きる私達一人ひとりにとって極めて重要なテーマとなる筈です。その為には、彼等が偽物であることを広く明確に示す必要があります。そして、イスラエルの本当の意味や、本物のイスラエルの所在を解明することもまた、同様に必要となってきます。そして、私達が何にも知らずに普通に暮らしているこの日本こそ、その本当のイスラエルの所在地なのです。驚くべきことですが、どうやら紛れも無い事実のようです。私自身も、これを事実として受け入れざるを得ないことになって初めて、これまで全く認識できずにいた日本のことを奥深く理解できるようになったと感じます。インターネット論壇が生まれたお蔭で、私と同じような体験をし、それをきっかけに真相追及というものを自分の立場から自分なりに始める。こんな人が大勢出てきている。何十年も露呈することのなかった、かの朝日新聞による従軍慰安婦関連の一連の捏造が今ここに及んで突然露呈してきたのも、今ここで私が述べている世の中の動きと、全く無関係ではないのです。本当の日本への関心の広がりによって、日本と世界は今、確実に変化してきています。

>私自身イスラエルの王家だとか皇族だとか、もはやどーでも良いのです。別に価値を感じませんからね。実家はそこまで裕福ではありませんが、自由ですし、尚且つ、この国に対して無関心でいられるというのは、この上ない幸せを感じています。

毎年毎年の自殺者数の多さを見てください。大津の中学生によるイジメ偽装殺人事件も見てください。不正選挙や人工地震はどうですか?福島原発事故偽装は?人間場としての医療現場の現状は?これらのことを考慮に入れれば、あなたの仰っているような無関心が我々に幸福を、必ずしももたらしてくれている訳ではないことが、明確に分かると、私は思います。

>あなたがヤコブだろうがなんだろうが、生きていればそれで良いと思います。

「死人のことは死人に任せなさい。私達は本当に生きることの意味を人々に伝える重要な仕事を行っている最中なのだ。この重要な仕事をほんの一時でも放棄してはいけない。死人のことは死人に任せおきなさい」といった内容のイエスの言葉があります。クリスチャンになる必要など全くありませんが、この言葉は、クリスチャンでなくても決して、無視できない言葉だと思います。キリスト教に盗まれ独占されたイエスを、人類の元に取り戻すことが必要です。

引用以上。

隠された本当の世界文明史と桓武天皇家

2014-11-24 23:30:38 | 日本論と宗教論
「桓武天皇直系子孫」の方から次のようなコメントを戴きました。


以下引用。

父は晩年、桓武天皇の直系子孫としての自覚を抱きつつ、シルクロードについて何事かを探っていた気がします。その微かな痕跡が今でも残っているからです。どうやら韓国や中国に、盛んに入っていたようなのです。

あなたの説では、私達一族の始祖たる桓武天皇の一族とイスラエルとの間には、何らかの関係があるとのこと。とすれば、シルクロードについて何かを探っていたらしい父の関心も、ひょっとしたらその辺りにあったのかもしれない。強ち、そう言えないこともない。このように思い至る訳です。

しかし、反面、当の一族に属するこの私の個人的な感覚では、何だか釈然としない話でもあるのです。例えば、父は、確かに鷲鼻ではありましたが、飽くまでも東洋人風の平たい顔でした。それに、実家が寺だったのですが、父はその寺の住職として、飽くまでも仕事で中国に行っていただけで、上のようなことについて何かを探るためだったなどと考えるのはやはり、穿ち過ぎかも知れない。こんな感じがしない訳でもない。

秦氏とは何なのか。私は何者なのか。桓武天皇直系子孫ということを知りながら、個人的実感としてそれを咀嚼しきれないでいる私としては、これらの問いが頭から離れることがありません。父もそうだったのか?そうだったら何故、私に自分の知っていることの幾分かでも伝えようとしなかったのか?それに、桓武天皇の直系子孫は自分達以外にも、結構存在しているものなのか?父が亡くなった今となっては、これらの問いも、父にぶつけてみることすらできません。

何れにしろ私は、真相が知りたい。ですから、このブログにも時々、こうしてお邪魔してみたいと思います。

引用以上。


註:この引用文は原文を踏まえて、私が、大幅に加筆修正し、分かり易くしたものです。


以下はそれに対する私の回答。


以下引用。

列島で桓武朝となった百済王家は、白村江の敗戦迄は周知のごとく、半島南西部にその拠点を構えていました。問題は、それ以前は何処にいたのかということになると思うのです。

私の調査では、

半島南西部←北九州(一部は高句麗)←半島北東部←満州北部(扶余)←半島西北部(箕子朝鮮に合同し、保護されていた)←中原(秦に滅ぼされる迄、趙という王朝を運営していた。この趙王朝のことを「大扶余」と呼ぶ人もいる。趙王朝崩壊時に中原を脱出して半島北西部に入った)←陸のシルクロード或いは海の道(それぞれを経て中原に入った同族の二派が中原で邂逅し、合同した)←中央アジア或いはインドや東南アジア(インドでの王朝名は何処かに書いてあったが、今は失念してしまいました)←中東北西部(アララト山の周辺)←中東中心部(メソポタミア)←インド西部(インダス川流域。サカ族との密接な関係)←東南アジア(バンチェン)←スンダ陸塊(現在は海中)←ユーラシア全体にネットワークを広げる最古の宗教秘密結社

という経路を辿ったであろう、ということになっています。この経路は、実は、ある人類史の構想を前提して初めて、辿ることのできるものです。以下私は、極大まかにではありますが、この人類史を記述してみるつもりです。この記述でもって、コメントへの返信に代えさせて頂きます。

先ず、一般に人類は「5万年前に初めてアフリカを出た」と言われています。この「5万年前に初めてアフリカを出た人類」とは、古代アフリカのバントゥ文明社会の中で支配的地位にあった宗教秘密結社の分派以外、いかなる人達も考えられないということを、ここで指摘しておかなければなりません。従来の土地を離れて新天地に移住するという行為そのものが、そのような極めて高度な組織体によって、極めて高度な意図から行われるのを、必然的に要求してくると考えるからです。

註:それまでに何故アフリカの外に出なかったのか?それまでずっと出ていなかったのに何故、何がきっかけで5万年前のある時、初めてアフリカから外に出ることになったのか?これらの問いについては現在、調査中です。

彼等はアフリカを出て直ぐに適当な何処かを見つけて定着したのではありません。そうではなく、狩猟を行いながらユーラシア全体を、ただ好奇心と一種の使命感にのみ誘われて組織的に探索して周り、ユーラシア全体をあっという間に、その組織的なネットワークで覆い尽くしたに違いないのです。つまり、世界中に先ず集落が散在し、それらを後に道が結びつけるようになったということではないのです。そうではなく、集落の発生以前に道があり、その後に集落ができた。集落ができた後も太古から現在に至るまで一貫して、支配組織の人々がその道を隈なく移動して周り、世界を支配してきた。

時代とともに、そのネットワークの密度が増していく。それにつれて、そのネットワークの密度が十分なレベルを超えた幾つかの場所に、女や子供、それにその面倒を見る男を中心とする一団が計画的に順番に移住定着させられていく。そうやって、彼等のネットワークの下部組織としてのそれぞれの集落が次々と形成されるようになる。

暫くすると、そのネットワークの密度が更に上昇し、ある一定のレベルを超えるようになる。その瞬間、それらの村落が全て、かの宗教秘密結社の指導の元で、幾つかの文明圏を形成し始める。各文明圏の王はどの者達も、かの宗教秘密結社が派遣、承認した者達であり、世界規模の大きなネットワークの中に属して、互いに様々なレベルの交流を持ち続ける。各王朝には必ず、外交団とは別に常駐の商団も組織され、それらの交流の内の多くの部分を担うことになる。組織的なスパイ活動も当然、その中に含まれることになる。

かの宗教秘密結社の宗教は、それが我々の知っている宗教群内のどの宗教なのか、それとも、それらの何れとも異なる未知のものなのか、定かではないにしろ、各文明圏形成の際には必ず、各文明圏毎に、各文明圏に相応しい装いを施されて、見掛け上は他のいかなる宗教とも異なる宗教に化けて、王権と一体のものとして導入された。要するに、本質的には普遍性を帯びながらも見掛け上は独自に見える、そんな宗教の導入ということこそ、文明圏の形成には不可欠の要素ということになるという訳だ。が、これは、改めて考えてみたら余りにも当たり前のことである。改めて考えてみない限り決して思い至れないくらい当たり前のことと言ってすらいい。世界中の宗教がその根本のところで、必ずしも偶然とは言いきれないような共通点を持っているのも、上のような事実を踏まえて考えれば、十分に納得がいく話だろう。

さて、それら幾つかの文明圏の全てを統括する立場にあり、定住しないことをその本質としていたかの宗教秘密結社の中核組織もまた、ある時、自分専用の拠点を何処かに置かざるを得なくなる。それくらい大きく、重くなり、その本来の機動性を一部失っていく。そのような経緯もあってその拠点の置かれた最初の場所こそ、スンダ陸塊の文明圏の首都なのであった。

そこの王族は「シュメール」とか「スメル」「スメラ」などと敬われていたが、12000年前の大災害でスンダ陸塊が海底に沈み、タイのバンチェンに文明圏の中心が避難した以降には、王の子孫達の分国建設活動の流れが起こり、それぞれが海の道に沿う形で西と東に分かれ、広がって行った。

その内、東の方に広がった分国群の人々のことを後に列島では「天孫族」とか「海人族(あまぞく)」とか称するようになった。この「天孫族」の宗教は従って、かの根源的な宗教にかなり近いものだったことになる。そして、これこそが「神道」の最初期の形態を持っていたに違いない。

西に広がった分国群の内、血統が最も純粋で権威も最高だったのが中東史における最初期の「シュメール」や最末期の「ウラルトゥ」であった。「ウラルトゥ」は「アララト」とも言い、あのノアの箱船伝説で有名な、トルコのアララト山周辺がその領域であった。「ウラルトゥ」の宗教も、「天孫族」の宗教と同じく、かの最も根源的な宗教に他のどの宗教よりも近似した宗教であったに違いない。かの最も根源的な宗教に他のどの宗教よりも近似した、東西を代表する二大宗教が、後に東洋において、ある種の印を見せ合うことで互いに互いを認知しい、その上で合同し、王朝を新たに立ち上げることになる。その中にやまとも、この日本国も、含まれていた。

西方では、ある時期から、アーリア人という特殊な人類の北方からの南下があったために(何処に彼らの起源があるのか現時点では不明。恐らくは、現生人類以前にユーラシアに進出したものの、諸文明圏の形成という方向性を全く持たない点で現生人類とは全く異なる、別の現生人類としての「ネアンデルタール人」がその起源なのかも知れない)、彼らに駆逐される形で西から東へと、もと来た道を逆に辿るような、国家組織そのものの大規模移動が起こるようになった。「ウラルトゥ」も、ある特殊な事情から当初は他のどの民族からも敬われ、侵略されずに済んでいたのだが、最後には流石に、このアーリア人の侵略を受けざるを得ない状況になり、東方に逆移動したかの国家組織群内に、比較的後発組として、含まれることになった。

その国家組織移動の一部は、北方の陸上シルクロードを辿る移動となった。東西文明圏を結ぶこの北方の陸上シルクロードを維持管理する為に最高支配階層直属の下部組織として人為的に創造された特殊な部族こそ、中東史における「イスラエル」や「ユダヤ」であった。「イスラエル」や「ユダヤ」が「主」と呼ばれる何者かに指導されながら部族として次第に形作られていく様子が、かの聖書には克明に記録されている。この「イスラエル」や「ユダヤ」の宗教は、恐らくは、かの「ウラルトゥ」の宗教の管轄下に創出された幾つかの宗教内の最も重要な宗教であったのだろう。両部族間には明らかに、一種の主従関係があった。

この北方の陸上シルクロードを辿ってネットワーク全体が移動した、つまり、道が放棄された、ということではなかった。そうではなく、道の維持管理を継続しつつ、その維持管理の主体となる中核組織がその拠点を幾つか別の場所に移し、全体としての配置の調整を行ったということでしかなかった。但し、時代が下るとともに拠点が、定住民が通常は入ってこれず、認知もしにくい、遠隔地や高地の秘境に偏る傾向はあった。その秘境の一つに、バルハシやイルクーツク、チベットや列島も、間違いなく、算え上げられていた。

「イスラエル」や「ユダヤ」の維持管理する北方の陸上シルクロードを辿る国家組織移動は、この時の国家組織移動全体のほんの一部に過ぎなかった。大部分は、海の道沿いに維持されてきたネットワークを縁(よすが)とする、大規模船団での移動となった。彼等のことを東洋史では後に「倭人」と称するようになった。この倭人の中に、その中心的な部族として「ウラルトゥ」も含まれていた。つまり「倭人」の宗教もまた、最も根源的な宗教の内の何れかであった。それら最も根源的な宗教のひとつとしては、ミトラス教やゾロアスター教も挙げることができる筈である。後には仏教や密教も、その中に加えられた。従って「倭人」の宗教は、ミトラス教やゾロアスター教、仏教、密教に近似し、ミトラス教やゾロアスター教、仏教、密教と緊密な関係を持って運営されたということになる。

因みに、海の道は、中東から極東、オセアニア、南北アメリカばかりか、地中海や黒海、アフリカ東海岸、大西洋、等、地球規模の広がりを持つものだった。この海の道を維持管理するために組織された部族が、西洋史で「フェニキア」とか「エブス」、東洋史で「夷」と称される人々だった。同じ宗教秘密結社に管轄される一種の兄弟部族でもあったせいか、「イスラエル」や「ユダヤ」とこの「フェニキア」は、世界各地で緊密な協力関係を結ぶことにもなっていた。列島でも、「フェニキア」の導きによって最初に列島まで派を広げた「シュメール」あるいは「スメラ」(「天孫族」或いは「海人族」)と、中東からUターンして、同じく「フェニキア」の導きで列島に入った、「ウラルトゥ」(「徐」或いは「余」「倭(やまと)」「百済王(くだらのこにしき)」)や「イスラエル」(忌部或いは津守、三輪、等多数)を始めとする倭人、シルクロード経由で中原に対する影響力を維持管理し続けた後で、秦始皇の時代に及んでとうとう、中原に覇権を打ち立て、覇権崩壊後は半島経由で列島に入った「ユダヤ(秦)」等、これら複数の国が、先に述べた協力関係と同性質の協力関係の元で糾合し合い、国家を形成して、それに「やまと」と命名した。この「やまと」には「ユダヤ」を介して、ペルシャやヘレニズムの影響も色濃く入り込むことになった。

世界中の文化が日本に集まり、ひとつになったのは、元々ひとつだったもので、一旦は世界中に拡散し、多様性を獲得していたものが再び糾合して創った国が日本だったからに他ならない。

さて、中東からの移動の際に東ではなく西に向かい、地中海地域に移動する国家組織もあった。更には、地中海を抜け、大西洋も渡って中南米に移動する国家組織もあった。この人達はマヤと自称し、後には太平洋を渡って東南アジアや東洋にも広がってきた。東南アジアや東洋では、かの天孫族と邂逅し、同族であることを確認した上で共存した。

東洋で南から大陸に辿り着き、そこで、北方の陸上シルクロード経由で既に同様に辿り着いていた同族と逐一合同しながら北方に向かって発展し、中原から周縁に追い払われた後は半島経由で列島にも流れてきた倭人のことを、北倭と称する。対して、台湾や琉球から列島にかけて先住の天孫族と関わり合いながら、海の道沿いを北向きに広がっていった倭人のことを、南倭と称する。南倭と北倭、そして天孫族が合同して建設した国家に、後に殷由来の奴国と殷王朝が合同して北九州に建設した国家が、東表国(=豊国=伽耶=加羅)であった。これは紀元前1000年あたりの出来事だった。今は丹後にある籠神社の海部氏は、元はこの北九州で東表国の王族として活躍していた。後の4世紀に、第二の神武とも言うべき天孫族の崇神天皇が琉球から日向経由で現在奈良と呼ばれている地域にまで東征した際には、その水先案内役を買って出て、崇神天皇が当地を一大拠点に丹波を征服した後は丹波に、その地の新しい執政官として派遣された。

北倭であり、中原で殷王朝を経営していた部族の強い影響を、南倭が、江南や琉球経由で受けた時期がある(殷支配下の分国、周の国王の長男、太伯一派の、琉球移住と奴国建設)。その勢力の一部が後に列島から太平洋を渡って南米に至り、現地の先住部族を束ねて帝国を打ち立てたこともある。その時、先住のマヤに対して彼等は、インカと称された。インカの「イン」は殷の「イン」と同じだった。チチカカ湖も「父母湖」だった。

奴国にはその分国として狗奴国も含まれていた。かの「漢委奴国王」も、「漢倭奴国王」と書き直した上で漢音で「かんのわのなこくおう」と発音するのではなく、そのまま「かんのいなこくおう」と呉音で発音さるべきものである。この委奴国も、奴国の一部として新羅由来の秦氏が北九州に移住して建国したものであった。江南の呉や越も、奴国と同じ殷の分国が始まりであった。狗奴国は江南地方で奴国内に受容されたアーリア系の遊牧民の国であった。唐以降に強要された漢音では「くな」であるが、呉音では「ふんな」であり、かの匈奴の呉音もそれと全く同じ「ふんな」である。匈奴や後の蒙古は、奴国の勢力が北方で大陸に再上陸し、そこから西方に向かって広がっていったものである。

信長が匈奴の老上単于を真似て浅井長政の髑髏で盃を作り、それで酒を飲んだのは、信長が自分の家系と匈奴との繋がりを十分に自覚していたが故の行いだった可能性が高い。信長の家系は、忌部や海人族の一部と共に、新羅占領政府の律令体制から逃れ、サンカとして部族の新たな歩みを開始し、平安時代には契丹や新羅の亡命勢力も飲み込んで、藤原北家に対抗する勢力として大きく勢力を伸ばした、狗奴国由来の家系のひとつであったに違いない。

因みに、今述べたような分類上で言うと、「ウラルトゥ」とは明らかに、北倭であった。「やまと」は、天孫族と南倭に、ウラルトゥやイスラエルを含む北倭、それにイエス以前のユダヤ、更にはイエス以降のユダヤ等が集まり、イエス以降のユダヤが伝えた福音の元で大同団結して生まれた、神の民の国であった。半島南西部の百済も、飽く迄も「やまと」の一部として認知さるべきである。この「やまと」が、その後の激動の中、7世紀に「日本」に生まれ変わった。その際に、紆余曲折を経た結果、表の天皇家として裏天皇家によって担ぎ上げられたのが「ウラルトゥ」つまり「百済王家」の桓武王朝であった。「やまと」及び「日本」とユーラシア全体とは、当初からこれまでずっと、我々に知られていない次元において、緊密な連携を欠かすことなど一度もなかった。

引用以上。