飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

ユーラシア各国歴代王朝の帰還集住地としての列島

2017-04-18 14:04:09 | 日本論と宗教論
天皇一族と言えば、大臣や朝臣の称号を持つ家系は天皇の一族です。それに、東アジアの王族は勿論、世界中の王族が天皇一族です。

そもそも、天皇家の勢力は、一箇所に局在したのでもなく、移動したのでもありません。天皇家が天皇家たる所以は、他の一族には決して真似ることのできない、世界規模の諜報ネットワークを太古以来ずっと配下に置き運営し続けて来たことです。各国は表向きには、即ち、各国社会の下部構造構成員向きには、対立し合い、勢力争いして見せますが、上部構造の構成員同士は原初から情報も遺伝子も、世界構想や時代構想も共有し合い、緊密に連絡しあって来たのです。その中心にいたからこそのスメラミコトなのです。

かのローマでは属州総督を務めて実績を上げた将軍の中から一人が選び出されて皇帝になっていましたが、大王或いはスメラミコトもまた、イスラエルやペルシャ、エフタル、突厥、高句麗、新羅、百済、夫余、趙、燕、秦、漢、などの大陸の諸国に派遣され実績を上げた皇族家系組織体が丸ごと呼び戻されて、神武天皇家や崇神天皇家、応神天皇家、継体天皇家、欽明天皇家、聖徳太子家、天智天皇家、桓武天皇家など、その時代時代の天皇家を立てて来たのです。それらが天武天皇の時代に接合されて、その実態に相応しく、万世一系と称されたのです。

世界全体に広がる天皇家勢力の上のような意味での中枢拠点は、東南アジアから江南、琉球、九州へと北上して、ある時代以降にこの列島に入ったものと考えられます。ルーツが東南アジアにあったと分かるのは、例えば「スメラミコト」の「スメル」は、英語の「summer」の語幹にそれが使われていることからも分かる通り、「南」とか「夏」という意味を帯びつつ「至高」の意味を帯びる語であることが分かっているからです。西洋の歴史でその起源として扱われる西アジアの「シュメール」は「スメル」の西方における分家です。そして、それ自体も後に、この列島に移住して来ています。

本来の日向や出雲が現在「日向」とか「出雲」とか言われる地域とは違う地域だったことは確実です。本来の日向は福岡平野のことであり、本来の出雲は京都府の亀岡盆地です。天皇家勢力の中枢拠点がある時期「日向」にあったのは確実ですが、それは現在「日向」と呼ばれる地域とは違う場所だったと思われます。その時代も紀元前7世紀(ある事情から同時に紀元1世紀)であり、紀元前40世紀あたりの硫黄島海底火山噴火や、12000年前に急激に始まってそれ以来紀元前20世紀あたりまで緩やかに進行し続けた縄文海進とは、決して結びつけられるものではないと思います。

神武東征までの一定期間、天皇家勢力の中枢拠点となっていたのは、古い時代の馬韓や弁韓、即ち、もう少し時代が下った時の馬韓や辰韓、弁韓と、北九州や長州を含めた、玄界灘と対馬を中心にした一帯だったと解釈すべきです。天皇家勢力の中枢拠点を中心とする一帯が現在「日本」と呼称される我々現代日本人の母国であるとするなら、当時は半島南部と北九州、長州、東九州がその範囲だったということになる訳です。南九州が半島に移動して高句麗や新羅、百済になったというのは正確な表現ではなく、琉球と南九州、長州、島根、丹波(本来の出雲)、越州の諸族が、高句麗や新羅、百済の経営をそれぞれ担当し、後に高句麗や百済、新羅が滅びた時にはそれぞれの王族貴族の受け入れ先になった、という言い方が正確な言い方になるでしょう。帰還した王族貴族の内、上記の地域に入りきれなかった王族貴族は、琵琶湖沿岸を入り口とする当時は開発途上だった東国に、その移住先を割り当てられたと考えられます。

神武天皇についてもう少し詳しく

2017-04-15 22:41:37 | 日本論と宗教論
神武天皇の出自は、落合莞爾さんの言うように、九州豊国、海部の棟梁だったのでしょうか?私は、これは全然違うと考えます。神武とは、高句麗の歴史書で高句麗第三代王大武神(呉音はテムジン)として知られる人物が、海部氏をはじめとするいくつかの部族からなる列島勢力の招き(配置転換命令)に応じて半島北東部から丹波へと至る経路を通って列島に渡り、その後で北九州に移って、当地にて、新羅王脱解(呉音はダルへ)としての側面をも併せ持ちながら、委奴国王(呉音はイナコクオウ)として後漢の光武帝から金印を贈られるなど色々と活躍した人物の、その時以降の列島での事績の統合体に付けられた名前であった。これは小林恵子(やすこ)さんの説ですが、私はこちらの方に何か重要な閃きが潜んでいると感じ、それを密かに詳細に検討している最中なのです。因みに、ここに登場する「海部」は、落合莞爾さんの指摘した通り、丹波籠神社の現在のあの海部とは全く異なる、或る時に海部の名称と系図を放棄して現在の海部氏に海部の名称と系図を譲った後で、別の名称で呼ばれるようになった、古い時代の海部のことであったに違いありません。そして、この人達を中核の一部とする勢力こそ、この列島における裏天皇の最も古い現れなのだと考えます。この勢力が、国内で育て上げた後で、ある時、海外に派遣して一定期間修行させた、そんな家系の中から最も条件に適ったものを選んで再び列島に呼び戻し、新たな時代の天皇家(或いは政体指導家系)として立て、国内の政治課題の解決に当たらせて来たのです。

この裏天皇勢力については、琉球から九州、四国、紀伊半島を緩やかに統治していた奴国や、後の邪馬壹国(やまとこく)とはまた別の、魏志倭人伝中の狗奴国や中原の殷王朝との関わりの深い或る勢力こそ、この勢力なのだろうとも推測しています。

彼等は鉄器時代を遥かに遡る時代から鉄器の技術を密かに独占し、その儀式体系の中に生贄(セイシ/いけにえ)の儀式を持っていたと思われます。更には、どこの土地にも根付かずに移動し続けることを本分とすることに関して太古の狩猟生活を、そのまま時代に合わせて発展させる形で継続し、或る時代以降は国際商人としての姿をも帯びた(殷の別称は商)そんな部族でした。世界中のありとあらゆる定住都市文明を、その支配者階級にエージェントを人材として送り込んだり、資金援助を、太古から組織的に採集、保管、運用して来た金をファンドとして行ったり、実に多くの手段を駆使して、その背後から密かに自らのコントロール下に置く、そんな特殊な部族だったのです。

この勢力が後漢時代の燕王の配下に解(呉音はへ)を姓とする一族を燕王の有力な臣下として潜入せしめたのです。後に高氏の国(句麗)としての高句麗建国の際には、この解氏に命じて高句麗にも潜入せしめ、高句麗の始祖朱蒙を排除させます。その上で高句麗王の二代目を継承せしめ、高句麗の実態を解氏の国(句麗)即ち解句麗(呉音はヘグリ。即ち平群)に変えさせました。そうやって高句麗を自らのコントロール下に置いた。

この二代目を継いだ三代目の王は高句麗の領域を大きく広げ、後漢と激しく抗争します。この王は列島内のかの勢力をバックに置いていたわけですが、それに相応しく、かの列島勢力の半島における代理国家のひとつとしての新羅にも強い影響力を持っていました。

この高句麗王が或る時、かの列島勢力の世界戦略変更に伴って高句麗から列島に「亡命」し、その後は上に既に述べたような経緯を辿って、最終的に、神武の事績として一般に知られる事績をその生涯の中盤を通して積み上げたのです。

実は、神武の事績や神武に事績の一部を譲った元高句麗王だけではなく、事績を譲られた方の神武の本体も、この元高句麗王の時代をはるかに遡る紀元前七世紀に、阿波の忌部氏や大和の葛城氏の後ろ盾の元で、現在近畿と呼ばれている地方の何処かに、その拠点を設ける形でちゃんと存在していました。が、その本体の実際の事績は我々の知る歴史書の範囲内に記録されてはいない。

とは言え、かの解氏は、燕に潜入する前は列島で、この神武本体の継承者を中心とする勢力の一員として活動していたはずなのです。この例ひとつを見ても、神武の本体に活動実績が薄かったと考えるのは誤りだと分かります。記録にないだけで、実際は寧ろ大いに勢力的に活動していた筈なのです。

この神武の本体とは、イザヤが紀元前7世紀にユダ王国から多くの神官とともに密かに連れ出した、ユダ国王の弟のことであった可能性があります。ユダヤ(イェフダ)と、世界中にネットワークを張る列島起源の秘密勢力との関係が舞台を中近東から列島に移すことで、この列島内に当時の表の大王家が新しくできた。そして、我々の知っている後の歴史書の中では、その上に、より後代の「大武神」による列島亡命後の事績の前半が、その本来の事績を覆い隠すかのように装飾された。その上で初代天皇と規定された、ということだったのです。

小林恵子(やすこ)さんの研究書を通して私に見えて来た神武天皇の正体は、概ね以上のようなものになります。

神武天皇

2017-04-02 23:30:32 | 日本論と宗教論
ヤコブさんのコメントへの返信第四弾(の加筆修正版)です。


>「実は、国民が何者かの財産である」。この何者かとはいったい誰なのですか?「裏天皇」のことでしょう。そしてこの「裏天皇」の座に就くべきはダビデ王ということになるのじゃないのですか?あなたはこの最も肝心なこのとへの明言を避けている。卑怯だ。

歴史上のダビデ王には「裏天皇」に就任した事実はないだろうと思います。逆に、ダビデ王に、アブラハムにとってのメルキツェデクの例に喩えることのできるような意味合いの「主」即ち「裏天皇」との本質的で深い従属関係があったことは事実でしょう。

旧約の中でイスラエルが救い主と言う時、それは全人類の救い主のことを意味しません。厳密に、イスラエルの救い主です。洗礼者ヨハネもイエスも、立法の形骸化と共にそのことをも一部、批判の対象としたくらいです。それに対して「裏天皇」の場合は、その活動の領域は最早国家という枠組を超え、全世界に広がるネットワークとなっています。ダビデ王の存在が本質的に「裏天皇」の存在と合致することなどないと思います。ダビデの子孫に表の天皇位が回ってくる可能性はないわけでないとは思いますが、過去のどの天皇家がそれに当たるのか、私には今は、何の閃きもありません。


>イエス派ユダヤ人の末裔である新羅系秦氏を悪魔と断じた人だから。

新羅も、秦氏の内新羅に拠点を持っていた秦氏も、それだけで悪とは言えません。ある時から新羅に閉じ込められていたエドム或いはカナンが新羅系秦氏に潜入し、この秦氏を含む新羅勢力が後に列島の東日本に移って山窩勢力に糾合され、山窩勢力の勃興と山窩勢力による中央政権乗っ取りの原動力となった、とは思っています。落合莞爾さんの「裏天皇」も「上田アヤタチ」も、どこかの時点で、この山窩勢力による乗っ取りにあってしまっている可能性が高い。

神武天皇の出自は、落合莞爾さんの言うように、九州豊国、海部の棟梁だったのでしょうか?私は、これは全然違うと考えます。神武とは、高句麗の歴史書で高句麗第三代王大武神(テムジン)として知られる人物が、海部氏の招きに応じて半島北東部から丹波という経路を通って列島に渡った後で、新羅王脱解(ダルへ)としての側面をも併せ持ちつつ同時に、かの金印で有名な九州を拠点とする委奴国王としても活躍した時以降の、列島での事績の統合体に付けられた名前であったという小林恵子さんの説の方に、何か重要な閃きが隠れているのではないかと感じ、それを密かに検討している最中です。因みに、ここに登場する海部は、丹波籠神社のあの海部とは、落合莞爾さんの指摘した通り、全く異なる、現在では海部の名称を放棄して別の名称で呼ばれるようになった海部のことであったに違いありません。そして、この人達こそ、列島における裏天皇の起源だったと考えます。琉球から九州、四国、紀伊半島を緩やかに統治していた奴国や、後の邪馬壹国(やまとこく)とはまた別の、中原の殷王朝との関わりの深いある勢力のことだろうとも推測しています。

この勢力が当時の燕王の配下に解(カイ。呉音はへ)を姓とする一族を有力な臣下として潜入せしめました。後に高氏の国(句麗)である高句麗が建国された際には、この解氏に命じて始祖朱蒙を取り除かせた上で、高句麗王の二代目を継承せしめ、高句麗の実態を解氏の国(句麗)即ち解句麗(カイクリ。呉音はヘグリ。即ち平群)に変えさせました。そうやって高句麗をコントロール下に置いた訳です。

この二代目を継いだ三代目の王は高句麗の領域を大きく広げ、後漢と激しく抗争します。この王は列島内のかの勢力をバックに置いていたわけですが、それに相応しく、列島勢力の半島における代理国家のひとつとしての新羅にも強い影響力を持っていました。

この王が或る時、かの列島勢力の世界戦略変更に伴って「亡命」し、その後は上に既に述べたような経緯を辿って、そうやって最終的に、神武の事績として一般に知られる事績をこの列島でその生涯の中盤を通して積み上げたわけです。神武の事績だけではなく神武の本体も、阿波の忌部氏と大和の葛城氏の後ろ盾の元でちゃんと存在していましたが、その本体の実際の事績は我々の知る歴史書の範囲内には記録されていません。

神武に自らの事績の中盤を譲った「高句麗王大武神」改め「新羅王昔脱解」及び「委奴国王」ですが、その後半生の事績は、「崇神」として我々の知る歴史書に登場します。この大王の時代に卑弥呼も邪馬壹国(ヤマトコク)女王として存在していました。

小林恵子(やすこ)さんの研究書を通して私に見えて来た神武天皇の正体は、概ね以上のようなものになります。

新羅勢力の列島への移動

2017-04-01 13:48:12 | 日本論と宗教論
ヤコブさんのコメントへの返信第四弾です。


>「実は、国民が何者かの財産である」。この何者かとはいったい誰なのですか?「裏天皇」のことでしょう。そしてこの「裏天皇」の座に就くべきはダビデ王ということになるのじゃないのですか?あなたはこの最も肝心なこのとへの明言を避けている。卑怯だ。

歴史上のダビデ王には「裏天皇」に就任した事実はないだろうと思います。逆に、ダビデ王に、アブラハムにとってのメルキツェデクの例に喩えることのできるような意味合いの「主」即ち「裏天皇」との本質的で深い従属関係があったことは事実でしょう。

旧約の中でイスラエルが救い主と言う時、それは全人類の救い主のことを意味しません。厳密に、イスラエルの救い主です。洗礼者ヨハネもイエスも、立法の形骸化と共にそのことをも一部、批判の対象としたくらいです。それに対して「裏天皇」の場合は、その活動の領域は最早国家という枠組を超え、全世界に広がるネットワークとなっています。ダビデ王の存在が本質的に「裏天皇」の存在と合致することなどないと思います。ダビデの子孫に表の天皇位が回ってくる可能性はないわけでないとは思いますが、過去のどの天皇家がそれに当たるのか、私には今は、何の閃きもありません。


>イエス派ユダヤ人の末裔である新羅系秦氏を悪魔と断じた人だから。

新羅も、秦氏の内新羅に拠点を持っていた秦氏も、それだけで悪とは言えません。ある時から新羅に閉じ込められていたエドム或いはカナンが新羅系秦氏に潜入し、この秦氏を含む新羅勢力が後に列島の東日本に移って山窩勢力に糾合され、山窩勢力の勃興と山窩勢力による中央政権乗っ取りの原動力となった、とは思っています。落合莞爾さんの「裏天皇」も「上田アヤタチ」も、どこかの時点で、この山窩勢力による乗っ取りにあってしまっている可能性が高い。

神武天皇の出自は、落合莞爾さんの言うように、九州豊国、海部の棟梁だったのでしょうか?私は、これは全然違うと考えます。神武とは、高句麗の歴史書で高句麗第三代王大武神(テムジン)として知られる人物が、海部氏の招きに応じて半島北東部から丹波という経路を通って列島に渡った後で、新羅王脱解(ダルへ)としての側面をも併せ持ちつつ同時に、九州を拠点とする委奴国王としても活躍した時以降の、列島での事績の統合体に付けられた名前であったという小林恵子さんの説の方に、何か重要な閃きが隠れているのではないかと感じ、それを密かに検討している最中です。因みに、ここに登場する海部は、丹波籠神社のあの海部とは、落合莞爾さんの指摘した通り、全く異なる、現在では海部の名称を放棄して別の名称で呼ばれるようになった海部のことであったに違いありません。そして、この人達こそ、列島における裏天皇の起源だったと考えます。琉球から九州、四国、紀伊半島を緩やかに統治していた奴国や、後の邪馬壹国(やまとこく)とはまた別の、中原の殷王朝との関わりの深いある勢力のことだろうとも推測しています。

イスラエルと天皇

2017-04-01 05:24:26 | 日本論と宗教論
ヤコブさんのコメントへの返信第三弾です

>どうして123便に秦氏の最高幹部が搭乗してい居たのか?かの事件は、ひとつにはこのイエス派ユダヤ人の殺害を最高幹部殺害を狙ったものであることは私がすでに指摘した。

昭和天皇に、当時秦氏の棟梁であったある会社の社長が秦氏への皇位の譲渡を要求して昭和天皇の不興を買い、昭和天皇が、その他幾つかの理由と共にそのことを巡る秦氏への報復も意図して、その会社社長の乗り合わせた日航機123便を撃墜せしめた、とのこと。

先ず、皇位というものが、そんな個人の直談判でどうこうなるものでしょうか?幾ら有力者同士であったとしてもです。他の小さな問題で激しく対立し合ってはいても、次に誰を皇位につけるかといった組織全体の運命を左右するような重要事項の決定に至っては、この組織が普通の組織ではないだけに尚のこと、想定できる限りのありとあらゆるトラブルを防止すべく、何かもっと賢明で堅実な方法が伝統的に編み出され、厳然と維持されているものと考えるべきでしょう。何せ、世界最古最大規模の秘密組織の長としての、つまり世界皇帝としての天皇の、皇位継承者を決定する訳で、例えばもってせいぜい300年そこそこでしかなかった、今となってはもはやシステムそのものすら消滅してしまっている、そんな中華皇帝の、皇位継承者の決定とは異なる訳ですから。

「今度の皇位継承者決定会議で秦氏への皇位譲渡が提議された時にあなたがそれに賛同して譲渡の決定へと会議を強力に誘導して下さい。さもないと」と言って脅迫するということがあったと言うなら、その場合に限って、ある程度は納得できる話です。そうでない限り、それまでにいつでも殺害できる状況下でありながら殺害せずにいた相手を、しかも天皇に個人的に接触して皇位譲渡を要求できるほどの有力者を、その時になって初めて、非常に混みいった手を使って殺害したなどという、非常に不可解な事態となってしまいます。昭和天皇側は天皇でいることに関して秦氏にどんな負い目があったのか?ことに際して秦氏から昭和天皇に一体どんな強力な脅迫があったのか?

そもそも、秦氏とその他幾つかの部族とは、皇位を巡って、協力し合いながらも、同時に、激しく対立し合ってもいる。そういう話になっている。しかし、協力し合う関係ならここまで激しく憎悪し合う必要などない訳だし、逆に、激しく対立し合う関係なら一緒にいる必要などない。これは落合莞爾さんの上田アヤタチ嫌悪に対しても言えることですが、そんな類の嫌悪感の表明など、どちらの立場からのものであっても、皇位を巡る当事者に近い関係筋からのものとしては、リアリティが十分でないと言わざるを得ません。聴いている方にはひたすら?しか浮かんでこない話です。

>「支配層内部での力関係の再構築を動機として演出されようとしている」この表現は、イエス派ユダヤ人とレビ系カナン人結社とを混同している、極めて不正確な表現と言わざるを得ない。

私は、「レビ系カナン人結社」によって乗っ取られた当時のユダヤ社会を「レビ系カナン人結社」の手から解放するために「東方のマギ集団」がイエスと「イエス派ユダヤ人」を育て上げ、当時のユダヤ社会に潜入せしめたものと考えています。

日本の天皇にどの家系の者が就くのかは、ユーラシア全体にそのネットワークを広げている「イエス派ユダヤ人」をも含む秦氏全体の協力のもとで、皇統に繋がる貴人ながらもユーラシア各地に拠点を構えて当地の王朝運営を裏から演出している、そんな複数の「國體天皇」の総意が、ある時何らかの形で形成されることによって決定されるものと考えられます。これら「國體天皇」の内のひとつがある時列島に戻されて列島で表の天皇家を作るよう決定されることもあるらしい。渡来人が天皇になったり、天皇に近い有力者になったりしているように見えるのも、今述べた事象の表面しか見えていないが故のことであると考えるのが妥当でしょう。かのローマ帝国では、属州総督に就いていた将軍がその功績を認められてローマに帰還し皇帝に就任していた史実があります。例えばこの史実の中に今述べたような天皇を巡る事象の影響を確認すべきです。

従って「イエス派ユダヤ人」だから皇位につく権利はある程度はあるとは思いますが、「イエス派ユダヤ人」でない限りその権利はないとか、「イエス派ユダヤ人」でないのに皇位についているのは不当だとか、そんなことは全くないと思うのです。つまり、天皇=イスラエル王ではないし、天皇=ユダヤ王でもない。天皇=教皇でもなく、天皇=メシアでもないということです。

詩編の第110節で、ダビデがある者を「主」と呼び、その者がそれとは別の「主」の元でこの別の「主」とイスラエルの民との仲介役に就く。これはかのメルキツェデクと同じ役目である、といった内容のことを書いていますが、これら「主」の内の前者が当地における「國體天皇」だったのではないでしょうか?

これらふたりの「主」の内の前者は後に現れるイエスのことで、後者は「主」なる神のことであるなどと言って、クリスチャンは、旧約の中に理解できない表現がある度に、直ぐに、これは予言だとか、これはイエスの雛型だなどと言って思考停止してしまいます。本当にそれでいいのでしょうか?

アブラハムと「主」の間にイスラエルとは別の部族に属しつつ、別の「いと高き神」を崇拝するメルキツェデクという名の王が介在し、アブラハムから「主」と呼ばれていたように、ダビデと「主」の間にイスラエルとは別の部族に属しつつ、別の「いと高き神」を崇拝するダビデとは別の王が介在していたということを、この一節からは読み取るべきです。メルキツェデクについては、ウィキペディアでは更に、次のような記述にまで及んでいます。

「メルキゼデクは「いと高き神」 (אל עליון) 即ち「エルヨンエル」に仕えていたとされ、この神は『創世記』の記述ではアブラハムの神の異名であったという印象を受ける。ところが実際のところ、この神はカナンの宗教において祀られていた二柱の神、エル (אל) とエルヨン (עליון) のことを指しているのである。二柱の神の名前をわざわざ組み合わせてあたかも一柱の神ごとく装わせたのは、おそらく、周辺民族の都市が多神教崇拝であったのに対して、エルサレムにだけは一神教崇拝の伝統があったと強調したかったからだと思われる」

メルキツェデクを考えるのに、この指摘を無視することは決して許されません。