飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について 05

2013-01-17 00:01:25 | 邪馬臺国
言はんとしていることをどんなに我慢して注意深く聞こうとしても、注意深く検討すればするほどこじつけや誤魔化し、強弁しか見えなくなる九州説。・・・しかしながら、ここでもう一度だけ我慢することにします。

「帯方郡から不弥国までの総計が10500余里になり『帯方郡から邪馬壹国までの距離は12000余里』という記述もあるのだから、邪馬壹国は結局、不弥国から南1500余里(132km余)の範囲内にあることになる」

本来なら絶対にあり得ない程の譲歩になってしまいますが、この主張を一旦認めて、もう暫く九州説に付き合ってみましょう。

この説は、不弥国から邪馬壹国までの距離をかなりの無理をして短縮したことになる訳ですが、こうなると今度は

「邪馬壹国まで移動するのに必要な時間は水行10日と陸行1月(又は水行10日或いは陸行1月)」

というかなり大きな数字の記述とこれをどう辻褄合わせしたらいいのかという問題が立ち現れてきてしまうことになります。

(1)帯方郡から海岸沿いを南と東に狗邪韓国まで移動する際の距離は7000余里
(2)▽1000余里移動すると対馬国
(3)▽南に1000余里移動すると一大国
(4)▽1000余里移動すると末盧国
(5)▽東南に500里陸行すると伊都国
(6)▽奴国までの移動距離は100里
(7)▽不弥国までの移動距離も100里
(8)▽投馬国までの移動日数は水行20日
(9)▽邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と書いてあるのを見て、

(1)帯方郡から海岸沿いを南と東に狗邪韓国まで移動する際の距離は7000余里
(2)(狗邪韓国から)1000余里移動すると対馬国
(3)(対馬国から)南に1000余里移動すると一大国
(4)(一大国から)1000余里移動すると末盧国
(5)(末盧国から)東南に500里陸行すると伊都国
(6)(伊都国から)奴国までの移動距離は100里
(7)(奴国から)不弥国までの移動距離も100里
(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(不弥国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈するのが正しい解釈法になるということについては、もう既に述べました。【図7-特a】


九州説を唱える人の中には驚いたことに、これを、

(8)(帯方郡から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(帯方郡から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈する人がいます。加えて、「水行10日と陸行1月」は「帯方郡から邪馬壹国まで」の行程ではなく、逆の「邪馬壹国から帯方郡まで」の行程のことなのだと強弁するのです。そのことで上記の問題が解決できると信じ込んでいる。

ここまで来ると頭の中に反論が6つくらい一遍に浮かんできます。それらをひとつひとつ詳述していくのも悪くはないが、しかし、流石の私も何だか面倒くさい。そもそもこのような酷い説の真実味のなさについては、ほとんどすべての人が読んで一瞬で見抜けるに違いない。だから今は、その自然な感覚に全てを委ねるべきだ。今更わざわざこちらが詳述していくことではない。何だかこんなふうに思えて来るのです。どうやら九州説とは、流石にここらでお別れのようです。結局、爪先ほどの真実もない不思議な説でした。

さて上記の図式の(6)と(7)を、

(6)(伊都国から)奴国までの移動距離は100里
(7)(伊都国から)不弥国までの移動距離も100里

と放射状に捉えるのは原則違反を犯している。論理把握をしようとする時には、事前に全ての修辞を解除するのでないといけないのだ。念のため調べてみると、地図上の実態にも合っていない。このような趣旨のことを、既に詳述致しました。【図7-特a#】


しかしながらこれを受けて、それなら(8)と(9)も

(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(投馬国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈すべきではないか?このような疑問が出てくるはずです。実際あの飛鳥昭雄氏もそう解釈しています。【図7-特b】


もし(8)や(9)が

(8)投馬国までの水行での移動距離は○○余里
(9)邪馬壹国までの水行と陸行での移動距離は○○余里

となっているのでしたら、変形はされているものの飽くまでも同一構文なのですから、私も躊躇なく、そのように判断したことでしょう。投馬国を丹波の宮津に想定した上で、そこから南に邪馬壹国を目指し、そのまま能登半島北端にまで目を遣ることでしょう。そして、そこに上陸した後で南に1月陸行するなんて絶対に無理だと気づき、移動距離の調整に走ったり(飛鳥説ではこれが行われている)、或いは何かその他の方法はないかと思案に暮れたりしたことでしょう。【図7-特c】


しかし、注意して見てください。今度は移動距離ではなく、移動に必要な日数となっているのです。要するに、移動距離を表すそれ以前の表現とは論理的な意味で同一構文とはなっていないのです。この二つの表記だけがそれ以前の表記から分離されている。しかも、それ以前の表記群が3項以上の列記となっているのとは違って、列記が2項に留まっている。このような場合は、

(8)(不弥国から)投馬国までの移動日数は水行20日
(9)(不弥国から)邪馬壹国までの移動日数は水行10日と陸行1月

と解釈するのが解釈の原理原則に適っている。これが私の判断です。

因みに飛鳥昭雄氏は、投馬国を島根半島西部の「出雲」に想定しています。そこから南に10日水行すると丹波の宮津に来る。更に宮津から南にではなく何故か西に1月陸行して到着するのが大和盆地南東部。そこが邪馬壹国ということだったのだ。このように著作の中で明記しています。【図7-特d】


しかしながら、現在「出雲」と呼ばれている地域は、古代には殆ど陸地がなく、大規模な国が立地するには不向きな土地柄でした。遺跡も大規模だがいかにも不自然な感じの埋設がなされている極少数の遺跡を除いて、顕著なものが殆どないということになっているのです。「出雲大社」も何故か江戸時代までは「杵築大社」と称されて「出雲大社」などとは全く言われていなかったと言います。古事記に記述されているように、実際、8世紀にある者の強い意志によって「出雲」との僭称を強要され、何かがそこに封印されたのだと主張する人もいるくらいなのです。

また、不弥国から水行20日がこの島根半島西部なら、移動距離は約300kmですから、水行距離が一日当たり15kmとなって、かなり物足りない感じとなってしまいます。しかも、島根半島西部から丹波の宮津までもまた移動距離が307kmであり、不弥国から島根半島西部までの移動距離とほぼ等距離になっているのです。不弥国から島根半島西部までの300kmなら水行20日だが、島根半島西部から丹波の宮津までの307kmなら、ほぼ同じ距離でもほとんど倍のスピードで移動して10日となるなどという変な言い方をしてしまっていることになる訳です。【図7-特d】


この矛盾も、上陸地点を島根半島西部から約150km地点に当たる鳥取市辺りに持ってくるなら解消しますが、それでも一日当たりの水行が15kmしかないことには変わりはありません。更には、鳥取から大和盆地南部まで約220kmしかなく、それを1月で移動と言ったら一日当たりの陸行が7km強しかなかったことになり、極めて非現実的なのです。【図7-特g】


弥生時代より遥かに街道整備が進んでいたと思われる江戸時代の東海道の記録ではありますが、伊勢から江戸までの456kmを、速く見積もった場合15日、一日当たり30km移動していたという記録があるそうです。遅く見積もった場合は20日、一日当たり22.8kmということになります。【図7-特h】


これを基準とすると、魏志倭人伝の里程記事を巡って今算出した一日当たり7km強は、あまりにも非現実的な数字と言わなければなりません。使節団の陸行は荷物も多く、侍者を大勢伴った文官の貴族が主体となっていたであろうし、街道整備も江戸時代程進んではいなかったことでしょう。ですから、街道整備が遥かに進んだ江戸時代のしかも庶民の身軽な旅と比較する場合は、その一日当たりの移動距離である22.8kmからは上記の分を差し引いて考えなければならないでしょう。しかし、それでもせめて半分の、11.4kmにはなって欲しいものです。

街道整備がこの上なく進んだ江戸末期のこととはいえ、皇女和宮が降嫁の際に中山道を通って江戸に入った時は記録によると、移動距離532kmに対して移動日数は26日、一日当たりの移動距離は20kmになったようです。【図7-特i】


これに比べて、街道整備が遅れていた弥生時代の貴族のこととは言っても、移動距離が一日当たり11.4kmというのはやや少ないくらいで、これ以上少なくなると、それは最早非現実と言わなければならないでしょう。

これらの理由から、飛鳥昭雄氏の説も、この点では妥当性がないということになります。

そもそも、投馬国と邪馬壹国は不弥国から見て同じ南にあるのに、一方は水行20日、他方は水行10日に加えて陸行30日の行程と書かれています。どんな地形の時にこのようなことがあり得るのか?それは、【図7-特j】


のような地形の時で、投馬国と邪馬壹国の間の直接的な通行が何らかの事情で禁ぜられている時しかないのではないか?私にはそう思われてならないのです。そしてこう考えた上で調べてみると、不弥国から安芸まで水行10日約300km(一日当たり約30km)、安芸から邪馬壹国まで山陽道を陸行1月342km(一日当たり11.4km)という丁度いい感じの数字が割り出されてくることにもなる訳です。【図7】


註:江戸時代の皇女和宮一行が一日で 20km 進めたのに、いくら貴族で街道の整備されていなかった弥生時代のこととは言え、魏の使節の場合は一日当たり 11.4km というのは流石に少な過ぎるという感覚がまだ残ります。実は、魏志倭人伝里程記事における「日」は現在の「日」と同じだが、「月」は現在の「月」とは違い「半月」のことだったということが魏志倭人伝の別の箇所の記述で分かるという話があります。即ち「投馬国までは水行 20日。邪馬臺国までは水行 10日陸行1月」とは、現代語訳すると実は「投馬国までは水行 20日。邪馬壹国までは水行 10日陸行半月」になるというのです。これだと魏の使節は一日当たり 22.8km 進むことになります。この情報を加味すると、私の説に益々信憑性が増すことになります。またこの場合、魏の使節は不弥国以降は実際には足を延ばしておらず、倭人から倭人の月の数え方で換算された情報を得て記録しただけということにもなります。また、不弥国までは実際に足を運んだのですから、不弥国までの里程記事は飽くまでも魏の短里 88m を用い、倭里 55m を用いることはなかったということにもなります。