飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

正しい国家観と間違った国家観

2013-05-04 12:53:03 | 日本論と宗教論
アルトさんがご自身のブログに、私の回答への更なる回答を記事として上げて下さいました。その内のほんの一部に対する私のコメントを記事として上げておきます。


以下引用。


丁寧な回答、ありがとうございます。取り急ぎ、次の二つに再回答を入れさせていただきます。

>すでに飛鷹さんは私が頭のおかしい人、カルト的偏執狂と思われているかもしれません。それでもかまいません<

いいえ、カルト的偏執狂などとはこれっぽっちも思っておりません。私も、あの世の生と人間存在の奥行きの深さについては、全く疑っておりません。

ただ方法として「普通の人達」が持っているものに素材を限定した上で、それらをどう組み合わせたらあの世の生と人間存在の奥行きの深さについてより効果的に、自分をも含む「普通の人達」を覚醒できるのか、これに関心があるだけなのです。

これはかの、インマヌエル=カントに学んだ態度です。彼が霊能者スウェーデンボルグを大いに尊敬し、知己を得ようと何度も熱心な手紙を書いていたことは有名です。彼にスウェーデンボルグへの激しい関心を抱かせたものと同じものが、かの有名な『純粋理性批判』を彼に書かせたのだと、私は理解しているのです。何らかの理由でスウェーデンボルグが彼の手紙を悉く無視した時に、カントはスウェーデンボルグの真意を邪推してしまう気持ちを抑えることができず、やや根深過ぎる恨みを抱いてしまったそうですが、この点を除けば、霊能者や超能力者、聖人、師匠、はたまたこの世で出会う全ての霊魂たちに接する時の私の姿勢は、このカントのものと同じものなのです。カントも、誰からも窺い知ることのできない場所で、主の祈りを唱えながら日々生きていたに違いないと思っています。

地上の人間に天的なことを理解させるのは、いくら天使であっても難しいことです。信仰と観察力、洞察力、認識と表現の道具としての言葉への習熟、決して諦めない忍耐力、道を正しく選び取っていこうとする気構えと判断力。これら飽くまでも地上的なものを使って、自分に許される範囲で表現していくしか方法のないことと、私は考えます。この方法は、私自身の選択による私自身のものです。アルトさんにも誰にも強制することはできません。

アルトさんが何か価値のあるものを持っていらっしゃること。こちらに湧いてくる疑問点を、ある程度は分を弁えながらも、素直に指摘して差し上げるだけの価値があること。指摘して差し上げることで何か積極的なものの生まれて来る可能性が非常に高いこと。これらのことを私は信じています。

>私にとってこの⑩は、なんにも矛盾しないのです。主なる神はヤコブを通して予言しました。レビを呪いました。そして、レビの族長モーゼに権威を授けました。授けた権威をモーセが自分の氏族にイスラエルの王権を齎すことに利用し、モーセに授けられた権威が条件として付帯していたユダとヨセフへの王権神授を蔑ろにしたことが遠因となって、最終的にイエスが十字架に架けられたのです。レビの既得権益を激しく脅かすイエスは、殺す必要があるということだったのでしょう。十字架という預言者たちの預言も、それによって成就しました。聖書的に何も矛盾はありません。主の目から見れば、何の矛盾もないのです<

なるほど、筋が通っています。主がモーセとモーセの一族に与えた権威は、出エジプトの際にその大事業をリーダーとして指導することに限定された権威であって、モーセとモーセの一族(レビの子孫の一部)がもし、その限定を踏み越えてユダとヨセフから王権を奪い取ろうとしたなら、それは主の目から見れば、主がイスラエルと定めたヤコブにユダとヨセフを王権所有者として祝福させたことへの重大な違反になります。そして、そのような違反が初めて明確に行われたのは、紀元前2~1世紀のハスモン朝において、セレウコス朝ペルシアからユダヤを独立させるのに大きな役割を果たしたレビが、実権の無い大祭司の地位に甘んじられずに、空位になっていた王位にも同時に就いた時でした。ということは、それまでのかなり長い期間においては、どんな政治情勢の中においてもレビが王権を簒奪しようとすることなどなかったとも言える訳ではありますが、それでも兎に角この時に、レビによる王権簒奪が行われたのは間違いない訳です。

それでもまだ、イエスの十字架を巡る物語の解釈には問題が残っています。ここでは一旦、アーロンの子孫たるパリサイ派とサドカイ派にモーセの子孫も何らかの形で加わっていたものと考えましょう。その場合、彼らのやったのは、ユダの王権を妨害し(つまりはイエスを「ユダヤ人の王」という罪状の元で処刑し)、ヘロデの王権を存続させることだったのを想起しなくてはなりません。自分たちのことをマムシの子と看破したイエスを殺害してヘロデの王権を維持すれば、自分たちが恩恵に浴している既得権益も乱されないで済むという内容の謀略だった訳です。つまりは、ユダの王権の妨害ではあっても、ユダの王権の奪取にはなっていなかったことになります。ヘロデは、レビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破ってヘロデ朝を創設したエドム人(エソウ族)で、ローマとの協調関係を構築した王でした。レビであるパリサイやサドカイが何故、ユダヤ化していたとは言え、エソウ族出身の王を支持して、ユダ族出身の王イエスを妨害したのか?遠い昔にエジプトで先祖が個人的に反目し合った恨みから、更には、将来自分達が王権を奪取するには現段階ではエドム人の王の方がユダ族の王よりマシだろうとの小聡い計算から、次善の策としてそうしたのか?それにしても、エドム人の王を支持するなど、レビとしては、あってはならないことだったように感じます。カナン人の悪魔崇拝邪教秘密結社が牛耳ってしまっていたローマによる過酷な支配を乗り越えなくてはならないことが、このような異常行動を彼等に許容させたのか?それとも、彼ら自身がもう既に、密かに、カナンやアマレクの悪魔崇拝邪教秘密結社の侵入を受けてしまっていたからなのか?

悪の根源がレビのユダへの私怨とユダの権威を簒奪しようとする願望にあったのか?それとも、ハムやエソウによるセムやイスラエルに対する根源的な恨みと、悪魔崇拝を基盤とした秘密結社としての、極めて洗練された謀略の技術体系を駆使した邪悪な暗躍にあったのか?この問題の解決を探る現場がこの場面にあるのは、どうやら間違いないことのようです。ここに目をつけたはぐれメタルファラオさんの直感は鋭い。

>(「日本人とか、一括りにして語られる集団などこの世に実在しないのは明らかなのに」という私の発言に対して)これはとても悲しいの一言です。日本とは、「太陽」の国、「十字架のイエス」の国と言う意味です。これを否定することは私に言わせれば反キリストです。はらわたが千切れそうです。なんたることか。

私の言う「国」とは、主の祈りにおける「御国が来ますように」でも分かるように(当ブログ内の拙記事『主の祈りについて』を参照のこと)、国境線で括られ、隣国との対立や分離を原理とした、領域としての国ではありません。主による支配とその支配の下で生きる人々の繋がりとしての国、ある一定の条件を備えた人間の社会的活動としての国のことです。この意味での「日本」あるいは「ヤマト」は、私のこのブログのテーマそのものです。このような意味での「日本」や「ヤマト」なら、「韓国」や「中国」「北朝鮮」など様々な名称で呼ばれている領域としての国家を溶融してひとつに纏める原理となりうる。歴史的経緯を見れば本来はひとつであったことの明らかなアジアに「韓国」や「中国」「北朝鮮」などの作為的な枠組みを無理に押し付けて、我々民衆を不当に支配している邪悪な秘密結社。そんな彼等を駆逐し、彼等からアジアを解放する原理となりうる。日本を無意識で感覚的ながら、そのような目で見ることで互いに連帯し、インターネットなどのテクノロジーの助けも借りつつ、本来の美しさや強さを取り戻そうとしているアジアの姿が、実際に今、色んな分野、色んな地域で観察できるようになってきている。近い将来に日本から出てくるであろう日本の正統なリーダーは、同時にまた、アジア全体から希望の星として仰ぎ見られる可能性が非常に高い。織田信長がアジア全体を舞台に構想し、豊臣秀吉が実際に実現しようとした理想、或いは、結果的に建前でしかなかったことが暴露されたと言う人がいるにせよ、戦前に日本帝国陸海軍が掲げ、アジア全体の人々に心から受け入れられた理想は、強ち間違いではなかった。それが今、武力侵攻なしで、この上なく理想的な形で実現しつつある。・・・私がこのブログで一貫して主張しているのは、このようなことなのです。これは日本という国家のこの上ない肯定、賛美であって、決して否定ではありません。否定されているのは、隣国との対立や分離を前提とした領域国家としての日本の概念でしかありません。どうか誤解がありませんように。

引用以上。

列島にやって来るまで秦氏は

2013-05-02 19:53:53 | 日本論と宗教論
アルトさんのコメントの後半部分への回答を記事として上げておきます。


以下引用。

>モーゼの直系子孫はアナトリアにとどまり、いつの時期かは不明ですが、シバの女王の家系と結びついているようです。司馬懿仲達のシバはそこからきていると碩学は指摘していました。ディアドゴイと一緒に中国侵入、皮肉なことにエルサレムのレビ族とは異なり強大な秦帝国をユダ族とともに樹立したのでしょう。結局列島に入ってきてから両者は対立した<

もう一度ここで、秦氏の東遷過程を纏めてみましょう。紀元前6世紀初頭の中東。南ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされた後、約半世紀ほど、南ユダ王国のユダ族、ベニヤミン族、シメオン族、エフライム族、マナセ族、狭義のレビ族(アーロン系)、広義のレビ族(モーセ系)がバビロンに捕囚された。このバビロンで、かの悪名高きタルムードを編纂するなど、ユダヤのアイデンティティを過剰に意識しながらイスラエル教をユダヤ教に先鋭化しようとするグループがユダヤ人の中に出てきた。対して、周辺諸部族とも融和しながら本来のイスラエル教に留めようとするグループもあり、この先鋭化して行くグループと対立するようになった。前者を陰で操っていたのは恐らくは、旧南ユダ王国のイスラエル社会に巧妙に同化し、侵入していたカナンやアマレクなどからなる悪魔崇拝の邪悪な秘密結社だった。それに対して後者を後援していたのは、恐らくは、イスラエルの形成そのものを企画・指導していたあの「主」と呼ばれる人々が主宰する人類発生以来の最も由緒正しき秘密結社で、世界中の全宗教の根元に当たる宗教を太古以来連綿と運営し続けている、そんな組織だった。どちらの組織も恐らくは、黒人種の秘密結社。最も善なるもの、美なるものは、最も悪なるもの、醜なるものの奥に隠れるものなのだ。

紀元前6世紀中盤に入った頃に、アケメネス朝ペルシャのキュロス王によるバビロン占領とユダヤ人解放が行われた。その際、上の二派の内の前者は、先鋭化したユダヤ教と共にエルサレムに戻って新しいユダ王国を建設しようとした。それに対して後者の中には、前者に付いてエルサレムに帰還しつつも、遥か後にユダ王国内でイスラエル復興運動としての反パリサイ活動を行ったあのイエスを輩出することになる、そんな穏健な人々もいたが、かの邪悪なる前者とそのまま袂を分かち、バビロンとその周辺地域に残って、アケメネス朝ペルシャの統治下、シルクロードを媒介とした東方交易に従事し続ける人たちもいた。彼らは、エルサレムに移った仲間達とも連絡を維持しながら、後にはエッセネ派とか東方の三博士(マギ)とかいった形でイエスの活動とも深い繋がりを持つことになる人々だった。

註:だからこそイエスの宗教には、反パリサイ色やイスラエル復興色だけではなく、東方ペルシャやインドの神秘主義の色合いもまた伴っているのでした。これら三つの一見相矛盾する要素がイエスの宗教の中で不可分のものとして見出されるのは、ひとつには、上のような歴史的背景もあったからなのです。

この最後の人々こそが東ユダヤ人と呼ばれる人々だった。紀元前4世紀。このアケメネス朝ペルシャがアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍の侵攻を受けて滅んだ後は、セレウコス朝(紀元前4~3世紀)からバクトリア王国(紀元前3~2世紀)へと変遷する過程で、この人たちは、ギリシア人達との関わりも深めて行くことになった。かの秘密結社の後援の元で諜報活動と交易に従事している限り彼等は、権力者のどんな入れ替わりがあっても常に、権力者側から変わらず重用される存在であり続けたのだった。この彼らが、バクトリアのディオドトス王の時に、彼等が交易を通じて東洋一帯にまで築いていた巨大なネットワークを大いに利用しながら、ディオドトスとその軍団を、中原の西方にあった秦に引き入れ、彼等に秦の王室を乗っ取らせたのだった。この秦がその直後に中原最初の統一王朝となり、ギリシア風のペルシャ文化を伴ったイスラエル文化を、東洋に定着させることになった。

ところで、彼等が中原に入る何百年も前から、北イスラエルの失われた10支族の者たちも、中原に入り、あちこちで国を運営していた。その内の魯は、実はガド族の国であり、あの孔子を排出したことで有名である。儒教はイスラエルの宗教の流れを汲むものだったのだ。この魯と儒家たちは、後の秦帝国成立時には秦始皇との軋轢に巻き込まれ、焚書坑儒として知られる激しい弾圧を受けることになった。この際、彼等の多くが九州北部の吉武に拠点を移した。彼等の国の列島内での呼称は伊勢国であった。

また、秦始皇の後援を受けたかの徐福の引率の元、前後二回に分かれる形で、最初は丹波に、二回目は九州北部に、中原の斉から大規模に移民し、後に物部氏と呼称される人達もいた。彼等は、秦始皇の一団と同じく、東ユダヤ人由来の人達だった。

秦帝国そのものを運営した人たちの中にはまず、秦帝国滅亡後に半島の馬韓に入ってその南東部に新たに辰韓(秦韓)と呼ばれる国家群を形成した後、100年程経った紀元前1世紀に、そこから九州北部に移動した人達がいた。その際、先述したガド族の伊勢国は、この人達の圧力によって九州北部から駆逐され、周防や島根に、更には大和盆地に、移って行った。移って行った大和盆地で移ってくるイスラエル起源の部族をいつも迎え入れるのは、紀元前7世紀に阿波に入って来ていたイザヤと仲間のレビ族達由来の部族を中心に纏まる人々だった。ガド族の伊勢国を九州北部から追い出した秦帝国由来の人達が列島内に創った国の呼称は、後漢から下賜されたことで有名なあの金印に刻まれている「委奴国(いどこく)」であった。この委奴国の人達も暫くしてから、3世紀初頭の頃に、何らかの理由で(調査中)近畿に東遷した。この際、大和盆地にいたガド族が再び、この委奴国の人達によって大和盆地からも駆逐され、この時になって初めて、現在の私達の頭の中で伊勢として定着している地方に移り、その後はその土地に定着して、二度とそこから他所に移ることはなかった。

委奴国の秦氏たちは、かつて辰韓(秦韓)に滞在した経緯から、列島に入った後も辰韓(秦韓)との深い交流を続け、後に列島各地に新羅人が断続的に移り住んで来る橋頭堡ともなった。この人たちが所謂新羅系秦氏なのである。

註:この新羅系秦氏の中にエドム系の秘密結社の組織的な侵入があったと、はぐれメタルファラオさんは想定し、それをエドム系秦氏と呼んでいるのである。このエドム系の秘密結社は、エルサレム陥落前にアンティオキアのキリスト教会の成立に深く関わてその中に潜入していたが、エルサレム陥落後には、中央アジアの遊牧民の中にも潜入し、北アジアのステップロードを通って沿海州に達し、日本海を渡って山陰地方に、更にはそこから新羅にも、入っていたらしい。

彼ら新羅系秦氏が近畿に移った時、大和盆地には、紀元前7世紀に南ユダ王国を脱出し、海のシルクロードを通って四国の阿波に辿り着いた後、大和盆地南西部の葛城氏と婚姻を結んで大和盆地にも勢力を広げていた、あのイザヤと仲間のレビ達由来の一族がいた。この人たちとの間に、新羅系秦氏もこの時、ある程度は協力関係にあったのかもしれない。

この委奴国の秦氏の首長のことを、後の歴史書の中では、大国主と呼んでいるらしい。委奴国の秦氏は、丹波出雲の物部氏の勢力とも同族として協力関係を結び、この勢力が辰韓に進出して新羅を建国する原動力ともなった。山城や亀岡盆地は、この人たちによってこの時代に大規模開発され、亀岡が丹波出雲の中心地となった。

秦帝国の人たちの中には、今述べたような、比較的早くに列島に入って定着していく新羅系秦氏の他に、魏、晋、前秦、西秦、後秦、北魏と変遷する過程でもずっと中原で生き残り続けていく人達もいた。紀元1世紀末のエルサレム陥落を契機に西方から移動し始め、中央アジアを経由して中原に入ってきた原始イエス=メシア教のユダヤ人達も、後に中原で彼等に合流した。この人達は、列島の秦氏とも連絡を取り合っていたが、最終的には北魏の初期の頃(4世紀末)に、「応神天皇」と後の歴史書で呼称されることになる百済王兼倭王の後援の元、百済経由で列島に大規模移住して来た。この人達のことを百済系秦氏と呼ぶ。百済系秦氏は、列島内では当初、新羅系秦氏と非常に緊密な協力関係を結んでいたと思われる。彼等が列島に入り込むことで初めて、山陰地方すら含む西日本全体を網羅する国家連合体ができた。この連合体は、ヤマト(邪馬臺)と呼ばれていた。ヤマトは九州から百済、長門、周防にかけてのプロトヤマトから、四国や近畿まで広がった小ヤマトへと発展した後、最後に山陰と尾張、吉備をも加えた、この大ヤマトにまで発展したのだった。因みに『魏志倭人伝』の邪馬臺国は、これら三つの内の二つ目、「崇神天皇」と「卑弥呼」による小ヤマトのことだった。

ところで、秦氏という呼称は、ある時に列島内で、ある条件に適った氏族の内の希望する氏族の全てに与えられた特殊な名称であった。つまり、イエス=メシア教に改宗することを受け入れたイスラエルやユダヤの部族を最も一般的に秦氏と呼んだのだった。「はた」という発音は「ヤハダ」から、「秦」という表記は秦帝国から来るものだった。従って「秦氏」と呼ばれる氏族には、上述した新羅系秦氏や百済系秦氏以外にも幾つか、別系統が認められはする。それに対して、上述したこれら二つの秦氏の場合、その内部に、ユダ、ベニヤミン、シメオン、エフライム、マナセ、アーロン系レビ、モーセ系レビ、ペルシャ人、マケドニア人が混在していたことは、上に詳述したような変遷過程からも十分に推察される。

・・・以上が秦氏の東遷過程の纏めになります。ここではある一定の構図が整理された訳ですが、その構図上で考えると、「モーセ系レビとユダの列島内における対立」とアルトさんが仰っているのは、私の言い方では、

東ユダヤ人で中原での王朝運営の体験を持ち、ツングース系遊牧民族に紛れ込んでいたエドム系邪教秘密結社の侵入を新羅経由で受けてしまった新羅系秦氏

と、

イエスが東ユダヤ人の影響の元で人類最古の秘教組織の唯一正統な継承者として直接組織した原始イエス=メシア教団をその中核とする百済系秦氏

とが列島内でも対立し、抗争し合うようになった、となるようです。それが最早「ユダとレビの対立」などと言えないことは、アルトさんの上のコメントでも既に受け入れられているようです。

因みに、山城賀茂氏を中核とする新羅系秦氏は、丹波出雲や島根、吉備、河内、新羅との結び付きの元で、後に北朝と称される勢力の中核になったのだと考えられます(藤原北家を含む)。それに対して後者は、新羅系秦氏との抗争で劣勢になった際に、四国の阿波を中心に、東南アジアや江南、琉球、南西諸島、百済、九州南部、紀伊、葛城、志摩、伊勢、尾張、相模、伊豆半島、房総半島、小笠原諸島と非常に広いネットワークを張っていた、遠くはシュメールとエブスに起源を持つ秘教組織で、紀元前7世紀のイザヤと仲間のレビ達の集団もその起源のひとつとして持っている秦氏や忌部氏、葛城賀茂氏の勢力と結び付いて、更には、ヨーロッパで異端とされ、東洋一帯に活動領域を移していたネストリウス派のキリスト教(景教)をも9世紀には唐から計画的に取り入れたりして、後に、南朝と称される勢力の中核になっていったと考えられる訳です(藤原式家を含む)。

この対立は、明治以降も現在までずっと継続しています。例えば、明治天皇として私達がよく知っている天皇は、北朝系の政権である江戸幕府の後援を受けた北朝系の孝明天皇を退けて本物の明治天皇と入れ替わりに天皇となった、南朝系の流れを汲む人物だった。百済王家の流れを汲む人々が拠点をおいてきた長州で代々保存されてきた家系の人物だった。しかし、日韓併合後の大正天皇の時代に李氏朝鮮王朝との朝廷合同が行われた際、北朝系の復権が実現してしまい、欧米の金融偽ユダヤ悪魔崇拝勢力との結託の元で、後には清朝との朝廷合同も行いながら、・・・。今はここまでしか、断言はできません。

>天武天皇と雄略天皇。

この辺の詳細は、今まさに、研究の真っ最中です。

>200-500年の空白の上古代は列島は統一していませんから、大和時代の政権構造を模して空白期間に重ねただけです。万世一系が建前ですから。清少納言の苦心の作です。

確かにそういう面があります。また、多くの人がそのように言及しています。しかし、よーく注意して吟味すると、どうやら、単純な空白の埋め合わせなどではないようなのです。

これを理解するには、何層かの存在のレベルを厳密に区別する必要があると思います。純客観的な実在の層と何回かの加工によって形成された何層かの投影の層の区別です。加工が行われた時点の直前の政治情勢が一部、過去の実在の倭王を中心とする実際の政治情勢の上に重ね合わせるかのように投影されて、その結果、例えば、ある歴史書の中で過去のある特定の「天皇」が持つとされる幾つかの要素の内の幾つかが、あるいは、時にはほとんど全てが、加工時点の直前に活動していたある別の天皇の事績を一部、譲り受けたものとなっているなどしているために、正確な史実の把握のためには、注意深い組み替えの作業が必要になる。・・・精確に表現するとこのように表現できる事柄が、現在あちこちの研究者の頭の中で「単なる空白領域の穴埋め」と劣化し続け、それ自体がまた、新たなタイプの混乱の種となりつつある。例えば、単なる空白領域なのだから、その時代のことは最早、詳しく検討する意味がないなどと言って思考停止してしまっている人が多い。これが私の観察です。思うに、投影が何層に渡ってなされているからと言って、元々の実在の層が完全に消えてしまうわけではないのです。表現を常に意識的に精密にしておかない限り、この種の概念の劣化が思わぬ所で、本当にいろんな形で紛れ込んで来るものなのです。

>(殷→箕子朝鮮→扶余→九州物部の一部→百済について)私はこれがわからなかったのです。これが本当なら私の推理は的中でした。カインこそが邪悪な一族だ。藤原氏の背後にあって、専横をほしいままにしてきた悪魔だ。といいたいところですが、実際はこんな単純なことではないでしょう。それぞれの氏族同士長い間のしがらみに巻かれて。

正確に言うと、殷王朝→箕子朝鮮王朝→扶余王朝→九州物部の一部→百済王朝→南朝天皇家となるのでした。

私は、カインと、レビや新羅系秦氏、藤原北家、源氏などとの関係を、もっと精密に見極めるつもりでいます。

>(「今の天皇家を滅ぼした後で、どこの誰が責任を担っていくのか?私が気にするのは、いつもこれなのです。王殺しは、どんな形であれ、国民の国民としての本質を著しく傷つけてしまうような性質のものなのです。ましてや、天皇陛下は、ただの王などではないのです。軽々しく滅ぼすなどとは、どんな立場からも決して、言えないはずです」という私の発言に対して)否、言えますよ。声を大にして。私が聖武天皇の直系子孫だとしたら。しかもユダヤの秘教組織のカッバーラが施されていた家系だとしたら。父方も母方も斉名太政天皇の血脈だとしたら、自力でカッバーラを解き明かしてわが家系の秘密を解読していたとしたら、こう言えるでしょう。「至急告知するぞ。知りて服し仕えよ。世の人の安堵せしめる泊り瀬の朝倉の高御座(たかみくら)に至急服し仕えよ。汝臣民らよく聞け。この大和の国に、ヤコブの遺言、イエスの遺言によって我はユダヤの王座にある。我こそは全イスラエルの天皇なり」と。

これが本当なら、「これが本当なら」などと表現することすら憚られるような事柄であることを重々承知申し上げた上で、敢えて申し上げると、その時は、我が身を投げ打って微力を御身にお寄せ申し上げたいと思います。

引用以上。

レビとは何だったのか? 02

2013-05-01 16:24:38 | 日本論と宗教論
アルトさんのコメントの前半部分への回答を記事としてあげておきます。


以下引用。

>レビは行き倒れになっていた奴隷の子で、ヤコブに拾われた。レアが育てた。ヤコブが養子にした。レビは侵入部族ではない<

旧約聖書とは異なる、何らかの秘密の伝承による情報なのだろうと理解しました。

そのような伝承の存在を私は今まで一度も聞いたことがないのですが、そんな私でも、レビが生粋のイスラエルではなかったということについて、実は、十分にありうる話だろうと考えてはいます。何故なら明らかに、イスラエルの形成そのものが、イスラエルの外部に存在し、時々近づいて来ては代表者とこっそり会談し、アドバイスする、そんな「主」の働きかけによって進められていく様子が見て取られるからです。この「主」からイスラエルの管理のために人員が派遣され、配置されるのは、ごく自然なことです。そして、実際に派遣されたのだとしたら、その役割は、後にレビ族が担当させられたような、イスラエルの内部で民たちに常に「主」の現存在を強く意識させる、所謂「祭祀」の役割にならざるを得なかったことだろうとも感じるからなのです。何れにしても、レビが実子ではなく養子だったという点については、理由の如何を問わず、大いにありうることだろうと思っていることに間違いはない訳です。

それでも、実子でないのにヤコブが実子と同じように大切に育てた子供はこの伝承の中で、「ヤコブ以外の何者かがかつて奴隷として所有していた行き倒れの黒人女性の子だった」とされている点については、イスラエル族にも奴隷のいたことがほぼ確実である以上、何とも不思議なことと言わざるを得ません。ヤコブは一体何故、この女性黒人奴隷の子供を奴隷とせず、自分の子として育てたのでしょうか?この子が特別に美しく、優秀で、気立ても良かったからなのでしょうか?

もしそうだったなら、たとえ実子ではなくとも、まるで実子であるかのような愛情をかけて育てたくなるということも、場合によってはあったかもしれません。ところが旧約聖書の中では、レビの性格について、これとは全く逆のことが記述されているのです。このレビはシメオンと共謀して、近隣のある部族全員を騙して惨殺したことがある、非常に残虐で暴力的な人間だったと書かれているのです。確かに、その部族の若者の内のひとりが彼等の妹の純血を汚したからという尤もらしい理由はありました。とは言えその若者は、レビとシメオンに求められるがままに自分を含む一族の男子全員に割礼を受けさせるなど、彼等の妹に対する自分の愛情の深さを十分に証明しつつ、彼等に赦しを懇願していたのでした。それなのにレビとシメオンは、彼の部族全員を騙して惨殺してしまったというのです。そのことによって近隣諸部族の非難をイスラエル族に集め、イスラエル族を窮地に追い込むことにもなったと言って、ヤコブに激しく呪われもします。つまりはレビ自身に、行き倒れの奴隷の子で誰の子だかも分からなかったのに、まるで自分の子であるかのような愛着を示してしまうほどの気立ての良さなどなかったということになる訳です。しかも、「兄弟達の僕の僕となれ」という内容の過酷な呪いの言葉をノアからかつて情け容赦なく浴びせかけられた、かの悪名高きハムの子孫たる黒人だった。このことも考え合わせると尚更、不思議な話と言わざるを得ないのではないでしょうか?

行き倒れの黒人奴隷女性が産んだ、誰の子だか分からないレビをヤコブが、特筆すべき美点もないのに自分の子として育てた。そればかりか、卑怯で残虐な、一族の安全への配慮にも欠けたとんでもない事件を彼とシメオンが引き起こした際に、彼等を自ら激しく罵り、呪っているにも拘わらず、その呪いの言葉ですら何と「兄弟達の間に散らされる」といった比較的寛容な内容に留めて、即座に追放などといったことも一切行なわなかった。その代わりに、その後も引き続きイスラエルの重要な一員として遇し続けた。これにはやはり何か、重要な理由があったと言わざるを得ないのではないでしょうか?

ひとつには、聖書の記述通り、レビがヤコブの実子だったからと考え直す途もあり得ます。しかしながら、レビが示した残虐性は、たとえ実子であっても追放の憂き目に遭わせられかねないような類のものであり、ノアがかつて実子であったハムを呪う際に一族からの除外という過酷な処置を行った事例も実際に存在することを考えると、その可能性は極めて少ないと判断する方が妥当かもしれません。

ところで、後の東洋の幾つかの文献には、主人から、その種を宿した愛妾を譲り受け、その子供を自分の子供として育てる、そんな習慣についての言及が比較的頻繁に見られるようです。ヤコブにとってのレビの存在の意味は、例えばこれと同じようなこととして理解するのが妥当なのではないか?そう言えばイエスもヨセフが、実子ではなかったのに、「主」の子だからという納得の仕方で、つまりは「主」への絶対的な忠誠心から、自分の子供として育てたということになっていました。つまりは、イスラエルにもこのような習慣が全くなかったわけではなかったことが、この有名なエピソードを通しても伺い知られる、ということにもなる訳です。東方に波状的に移動して来たイスラエルによって東洋がその文明と歴史を大きく開いて来たことを考慮に入れると、東洋独自の習慣かとも思えたかの習慣も、実はむしろ、イスラエル由来のものだったと考えるべきなのではないか?私にはどうも、そう思えてならないのです。

ご紹介の伝承でレビが行き倒れの奴隷の子となっているのは、レビが実はヤコブの主人に当たる存在者の子供で、ヤコブにとっては決して蔑ろにできない子供だったことを反映した、暗示的な記述であると解釈するのが妥当である。私は、上に述べた理由から、このように考えます。

>ヤコブがヨゼフの招きでエジプトに入って以後、エジプト王家とユダの婚姻をきっかけとして、ユダとレビに亀裂が入った。血が繋がった子でないレビは、エジプト王家との婚姻には邪魔な存在。しかも、奴隷の子であったためか、ユダに毛嫌いされた。これは逆に、レビがユダを呪うようになる十分な理由にもなる<

イスラエルはエジプトに入る以前は非常に小規模の部族で、後の我々の目から見た時にイスラエルの特徴として見えてくる要素のうちの多くをまだ、獲得してはいませんでした。エジプトで過ごす間に大規模な部族に変貌し、出エジプトによって部族としての本格的な態勢を整えたというのが事実であり、その意味で、イスラエルの本当の始まりは出エジプトだったと言っていいのかもしれません。出エジプトはイスラエルにとって、これくらい重要な、画期的な出来事だったのです。

アルトさんが紹介されている上のような聖書外の伝承は、出エジプト以前のエジプトでの支族間の軋轢を描いたものです。この軋轢が出エジプト後になって、出エジプトの際に規定されたイスラエルの秩序を破って再び支族同士が激しく抗争し合う遠因となったのだ。アルトさんはこう主張されていることになる訳です。

ところで、出エジプトの際に主がモーセを通して多くの規定を授けていく様子は『レビ記』を読むと詳しく分かります。今回改めて読んでみたのですが、主がモーセを通して命令を下している対象は、「イスラエルの民と長老達、そしてレビ族」とは、実はなっていませんでした。正確には、「イスラエルの民と長老達、そしてレビ族の中のアーロンの家系の者たち」となっているのです。即ち、レビ族という呼称には広義と狭義の意味が二種類あって、他の各支族に分配された祭祀専門の支族として後に盛んに話題となり、私達が今も話題としているのは、この内の狭義のレビ族、つまり、アーロンの家系の者たちに限定される訳なのです。この者たち以外は、その他のレビ族も、たとえあのモーセの子孫であっても、また、ユダ族であれ、エフライム族であれ、どんな有力な支族の者も、祭祀に携わることができない。このように言われるのは、この『レビ記』の厳密な規定がある故のことだったということが、はっきりと分かりました。

アルトさんによると、主による厳しい規定を受けたと聖書に明記されている、モーセに率いられた方の、かのイスラエルの一団は、それとは別にそのままエジプトに留まった、ユダ族出身のエジプト王族を中心とするイスラエルの本流によってエジプトから追放された、傍流の一団であったということになるようです。しかしながらそうなると、困った事態が次から次へと生じて来ることになってしまうのです。モーセがシオンの土地の近隣まで率いた後、モーセの後継者ヨシュアの指導の元でイスラエルは、ハムの子孫であるカナン人やエソウの子孫であるアマレク人など多くの周辺部族との闘争を続け、それらを通してシオン周辺の広大な土地を段階的に手に入れて行き、後にはサウルやダビデ、ソロモンを王として戴きつつ、そこに偉大な王国を築いたとされる訳ですが、この人々こそ、現代の我々がイスラエルとして承知している人々だったはずです。アルトさんは、この余りにも存在感の大き過ぎるイスラエルを、飽くまでも、エジプトに留まったイスラエルの本流によってエジプトから追放された傍流と仰る。しかも、アルトさんがエジプトに留まったと仰る「イスラエルの本流」の方は、かつてこの「傍流」と私怨から激しく対立し合った果てにエジプトから彼等を追放した過去があったのにも拘らず、何処かの時点で、この傍流の王国に外部から入って行き、赦されて合流した。更には、何と図々しいことに、その後で再び昔の軋轢に拘り始めて、王国内で激しい支族間抗争を繰り広げ、果ては、各支族に祭祀族として分配されることが『レビ記』に明確に規定されているはずの狭義のレビ族達がその規定を破り、各支族の祭祀を放棄して自ら一団となり、広義のレビ族達も呼び集めて大きな勢力を作ろという異常事態を招くことになった。祭司の資格のない者たちを祭司として立てざるを得ないことになった、ユダ族中心の「本流」から離れ、彼らと反目し合う事態にまで発展させた。その上、そんな重大なことが、聖書には一行も記述されていない。アルトさんがイスラエルの本流と仰っている方のイスラエルの存在感は、本流のはずなのに、あまりにも薄すぎる。というよりは、全くない。はたまた、これら全ての抗争の源は、レビに対するユダの個人的な差別意識と、それに対するレビのこれまた個人的な恨みでしかなかった。こういうことになるのです。こんな理解で本当に、何の問題も感じないのでしょうか?残念ながら、今の私には全く理解できない、信憑性の薄い内容になってしまっています。

>ヨゼフの死後レビは、ナルメル王家の一派と謀ってクーデターを起こす。その後、ナルメル家乗っ取り。エジプトの王になる。その後今度は、ナルメル家のリベンジが始まる。エジプト王家からレビを追い出す。こうして全イスラエルは、ナルメル王家によって奴隷とされる。モーゼは、一時はエジプト王家の一員となっていたレビの家系の子。そして、おなじみの物語<

ナルメル王家とレビによるエジプト王権奪取の際に、それ以前の王家と婚姻関係を結び、レビと反目し合っていたユダ族は、どうなったのでしょうか?後に全部まとめて奴隷階級となったイスラエルの中で、互いに反目し合う気力もないまま、レビ族と一緒に過ごしていたとでも言うのでしょうか?
 
>モーゼはレビ故に、ユダを差し置いて全イスラエルの族長として振舞いたかった。ここにヤコブの遺言に対する違反が生じた。律法違反としてもよいでしょう。モーセをはじめとするレビの権威はヤコブによって、最初から否定されているのです<

レビはヤコブによって「兄弟達の間に散らされる」と予言されただけです。性格が凶暴なのを咎められはしましたが、それをレビの権威のヤコブによる否定とまでは言えないのではないですか?そのレビ族出身のモーセが、苦境にあったイスラエルのヒーローとして尊敬されるようになったのは、彼自身が望んで、無理に陰謀を巡らせるなどして、ユダ族の人々を差し置いてそうなった訳ではないと思います。苦境にあるイスラエルの代表者に無理してなったところで彼に、どんなメリットが計算できたというのでしょうか?どんなメリットも計算できなかったのに、むしろ、純粋な使命感から、やや無気力になっているイスラエルの民たちの勇気も必死で奮い起こすなどして、大変な苦労を買って出て、信頼すべき指導者としての絶大な能力も示したからこそ、民によって指導者として受け入れられたのではないでしょうか?私には聖書は、そうとしか読めません。本当に仰るような内容の伝承があるのでしょうか?あるならそれは、何という書物で、誰によって書かれたものなのですか?

>モーセの権威は、モーセ自身が規定した律法への重大な違反に当たる。ヤコブ=イス(地位にある)ラー(王)エル(神)という規定を彼自身が行った訳で、このヤコブが一旦そのイスラエル内での権威を否定したレビに属するモーセ自身が権威を持つのは、この規定に対する罪に当たる<

「権威が認められない」はずのモーセによる律法の権威を認め、その権威によってモーセの権威を否定するという、一種の循環論法に陥っています。そもそも、聖書を読む限り、どこをどう読んでも、モーセの権威の否定なるものが出てくるはずはないのです。聖書を超える権威を帯びながら隠匿されている秘密の伝承に基づくモーセの権威の否定と言うなら分かりますが、それでも、そのような伝承とは一体、何なのでしょうか?

>石板は最初は、本物の主の刻んだ石板だったかもしれませんが、モーゼが山から下りてきて、金の子牛の一件で怒りのあまり叩き割ってしまった石板は、モーゼ本人が刻んだものではないでしょう。だからこそ、叩き割れたのです。聖書にはちゃんと書かれている。慎重に人目に触れないように刻んでいた様子が<

ということは、主が刻んだ本物の石板と、自ら偽造した石板を叩き割った後に再びモーセ自身が偽造した石板の二つが、実際はこの世には存在したということになります。これらはその後、それぞれ、どうなったと言うのでしょうか?その後イスラエルの至宝としてイスラエルの人々に崇敬された石板はどちらの石板なのですか?それがモーセによる再びの偽造の方なら、主による本物の方は、叩き割ることができないことを本物の徴表とした以上破損したとは考えられない訳ですが、その場合、一体どうなったというのですか?アルトさんのモーセについての言及には、語るべきでありながら未だ語られないことや、どんな推理によっても埋めることのできない隙間が多すぎるように感じます。これは、私の錯覚でしょうか?

>聖書が虚偽であるとは言っていません。モーゼの虚偽が分かるように記述されているのです<

私にはとても、そのようには解釈できません。そもそも、旧約の最初の五書は、モーセによるものとされてはいませんでしたか?モーセ自身が自分の虚偽の暴露につながるような目印を何のために聖書の中に入れたと言うのですか?また、モーセによるものではなかったとした場合でも、その人間は誰なのでしょうか?モーセやモーセの後継者から聖書の執筆を任せられるくらいにモーセやモーセの後継者に近しい存在者だったということになるはずです。その人間が何故、そのような暴露の意志を抱きうるのですか?また仮に、モーセやモーセの後継者の敵対者が、何らかの理由で彼等から執筆を任されることになったとした場合、「モーセやモーセの後継者に率いられてカナンまでやってきた人達はモーセを信奉したが故にエジプトから追放された人々だった」とアルトさん自身が仰った訳ですから、彼がモーセやモーセの後継者に敵意を抱くようになった経緯も説明できない限り、信憑性を感じることなどできるはずがありません。このような主張をなされること自体を批判するものではありませんが、このような主張を行いながらそれに相応しい十分な程度の説明がないことそのものについては、たとえ批判されても何も文句は言えないのではないですか?私は、ご発言から出来るだけ意味を汲み取ろうと誰よりも熱心に努力していると自覚していますが、そのような者として、どうしても、そう思わざるを得ません。ぜひ、ご自分のブログを立ち上げていただき、説明の努力を行っていただきたいと思います。

>旧約にはレビ族の悪逆がきちんと記されている<

レビのでしょうか?レビの子孫たちのでしょうか?それとも、アーロンの家系の祭司達のでしょうか?それぞれに全く異なった意味合いが出てきてしまうと思います。

>イエスが何のために十字架についたのか。私はキリスト信徒なのに、この意味がいまひとつ十分には分からないのです。ひとつだけ言えるのは、レビ族の横暴な律法政治の否定ということです。自ら十字架につけられ、その自己犠牲の高貴な姿をイスラエルの民に晒すことによって、十字架上のキリストという象徴が伝えるものへの帰依を誘い、そのことによって民衆の魂を、悪魔と化したレビの支配から切り離す。霊的に救済する。このような意味合いがあったのだとは思います<

このような意味合いもあったであろうことは、私も同意いたします。だからこそのイエスでしょう。ただ、もう一度聞かなければなりません。この「レビ」とは、祭司階級のレビで、アーロンの家系の者たちに当たるはずです。モーセの家系の者たちは含んでおりません。その者達が邪悪な者になったのは、始祖のレビが原因という説は私が先述したごとくあり得ないが故に除外することとして、アーロンか、アーロン以降にアーロンの家系に外から組織的に入り込んだ者たちでしかあり得ないはずです。パリサイ派やサドカイ派は、レビとは単純に同一視できないはずです。この辺のことをもっと詳しく論述していただかないといけないと思うのですが、どうでしょうか?

>別のキリスト系ブログでも議論になりました。モーゼの権威を否定する私に反論が来ました。出エジプトの栄光は否定出来ないはずだと。モーゼが旧約の救世主でしょと。私もうまく反論できなかったのですが、言葉で表現することは難しいですが、まず最初にヤコブの呪いがある。レビに対して。レビはユダを呪う。ユダヤの王イエスをレビが呪う。モーゼの権威は無効。これが聖書を貫いている主題だと思うわけです<

レビの概念規定が曖昧なこと。個人としてのレビに対するヤコブの呪いの言葉の具体的な確認と正しい評価ができていないこと。エジプトにおけるレビとユダの個人的な軋轢を重く捉えすぎていて、出エジプト時におけるイスラエルの自立した大規模部族としての形成過程の、非常にユニークな要素の全てを、聖書にあれほどはっきりと重要なものとして明記されているにも拘らず、その個人的な軋轢よりも軽かったものとして解釈してしまっていること。モーセの権威をモーセの権威を用いて否定するという循環論法に陥っている面もあること。これらのことが、今の私の目から見たら指摘できそうです。

>律法よりも愛。

イエスの「私が律法を排するために来たと勘違いしてはならない。むしろ成就するためにきたのだ」という言葉を思い出して下さい。彼の真意は、律法だけではなく愛も。愛だけではなく律法も。立法は愛があって初めて動くのでなければならない。愛は律法を動かすもので、律法を否定するものではない、だったはずです。

これは受験生によく指摘して聞かすことですが、「AよりもBが大切」という文があった時に、一般の日本人は「Aは不要。Bだけが重要」と読み間違えるようなのです。しかし、学問の世界ではこの文を、そのように読むことなど決して許されないとされています。そうではなく「Aもある程度は大切だ。しかし、それ以上に、Bの方が大切なのだ」と読むべきだとされているのです。所謂「限定表現と添加表現の混同」の危険性への警告です。世の中の問題のうち、実に多くの問題がこの混同を避けられないでいることから起こっていることを、私は文章読解のプロの教師として随分前から明確に認識し、このブログ内で記事にもしました。アルトさんの律法問題解釈にはどうやら、この種の誤謬が紛れ込んでいるようです。

>モーゼは律法で縛り、従わぬものを殺した。その子孫はイエスを殺した。

イエスを殺したレビあるいはパリサイがアーロンの子孫ではなく、モーセの子孫になることなど、一般的な思考ではあるはずのないことです。一般的な思考とは異なる内容のことを主張する場合、その詳しい経緯を説明する義務を背負うことになります。アルトさんの論述には概して、この説明が欠けています。

>人は律法に生きるのではない。律法は利権、腐敗、堕落。律法さえ護ればそれでよいような風潮は愛のある社会じゃない<

この部分は一転して、添加表現も含んでいます。その限りで、私の見解と全く同じ見解です。ただ、先ほどの部分が限定表現となっていることを考慮に入れると、やはり、限定表現と添加表現の混同がアルトさんの脚を引っ張っているのだなあと再確認する次第です。

>エリアとモーゼの復活体との会話ですか、僕には理解できません。わからないところはそのままにしています。

エポケーは正しい態度です。

>エサウ族がキリストを磔刑にしたわけではないですよね。

エソウ族とは、例えば、イスラエル王国建国直前にイスラエルが戦っていた周辺部族のひとつで、サウロがその部族との戦闘を主から命ぜられたにも拘らず、その命令を無視してその部族への攻撃を回避したという理由で主から見放され、王権をダビデに奪われた、あの有名なエピソード中に現れる部族のことです(仲哀天皇と神宮皇后の新羅征伐のエピソードとよく似た話です。新羅もアマレクの国ではないでしょうか?)。次第に曖昧な存在となってイスラエルに吸収されたと言われている、あのアマレク人のことです。例えば、こんなエピソードの中に、エソウ族のイスラエルとの一筋縄では捉えきれない関係や、エソウ族のイスラエルへの侵入という事象が、間接的ながら確認できる訳です。彼等は、イスラエルの祭司階級の中にも、婚姻や、陰謀によるライバル排斥、主人の無力化と傀儡化、情報操作、不安につけこんだ民衆扇動などといった手練手管を駆使しながら、侵入していったと考えられます。特にバビロン捕囚は、彼らにとっての主導権奪取の絶好の機会になったようです。パリサイ派とは、カナン人と共にエソウ族がレビに侵入して形成された派閥だったはずだと、はぐれメタルファラオさんは主張しているのです。イエスを磔刑に処したパリサイ人の中にも彼らがいたはずだということです。これもまた、まだまだ説明不足の部分はありますが、なかなか筋の通った、少なくとも無視することはできないくらいの信憑性を持った主張になっていると私は評価し、私の視点からあれこれとチェックしている最中という訳なのです。

>そしてわが国、ヤコブの直系、INRIの国を呪っているのはどこの国のどの民族ですか。

私は日韓中朝全ての指導層を現時点で一括して牛耳りつつ、ヤコブの直系、INRIの国の民に対する韓中朝の民の呪いを、何らかの目的で演出し、扇動している者たちがいて、彼らの出自がカナン人かあるいはエソウ族であることが問題の最も奥の淵源にあるのだという主張をしているのです。この場合に、悪の根源は韓国だとか、中国だ、朝鮮だとか主張するのは、何でも日本のせいにして韓中朝それぞれで騒ぎ立てている職業的反日扇動家達と全く同じレベルの、近代の国家観に思考を縛られて真実が全く見えなくなった人達による愚行だと断定しています。韓国人とか中国人とか、朝鮮人とか日本人とか、一括りにして語られる集団などこの世に実在しないのは明らかなのに、それには全く気づいていないが故の愚行なのでしょう。

引用以上。