飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

行基こそ鍵だった

2014-12-21 10:31:01 | 日本論と宗教論
ササーン朝ペルシャ王族との関係の深い、中央アジアの鉄勒の王族。そのひとりだった「達頭(タルドゥ)」。その一派が隋鮮卑との激しい抗争の中で陸路、極東に移動し、百済の「法王」や倭国の「聖徳太子」として対隋鮮卑のための新しい秩序を打ち立てました。太古から一貫して継承されてきた、ユーラシア全体を網羅する大規模諜報活動組織の指揮権の内、比較的最上階層に近いものを、最終的にはこの列島で受け継ぎ、それを反隋鮮卑の立場から振るうようになったという訳です。

その末子に当たるのが「イリカスミ」及び「淵蓋蘇文」「大海人皇子」「高仁武」こと「天武天皇」でした。「天武天皇」は、白村江の敗戦によって日本国が建国された直後の新羅占領政府の元で、唐鮮卑からの影響力排除を密かに志向した最初期の日本国運営を主導します。その「天武天皇」の息子であり、薨去偽装後に列島に入って「文武天皇」になったのが、新羅「文武王」。

註:彼らの政権が藤原仲麻呂の乱を始めとする一連の動きの中で旧百済王家に受け継がれ、桓武王朝が誕生する訳です。その際に、この桓武王朝と天武や文武の王朝とが、どのような意味で繋がったのか。桓武王朝成立以降の日本国で、天武や文武の王朝を運営していた勢力が、何処にどのような形で潜伏したのか、或いは、配置されたのか。三本足の八咫烏と言えば下鴨神社や熊野の裏天皇の、更にはゾロアスター教の最高階層祭祀組織の、シンボルマークですが、それがどうして「淵蓋蘇文」こと「天武天皇」のシンボルマークとしても認知されているのか?...これらは今後の課題となっていきます。

さて、その「文武王」の先代王である「武烈王」こと金春秋が、かの「淵蓋蘇文」との協力体制の元で開いたのが、統一新羅でした。その新羅の王族が何人か、奈良時代に、旧百済王家へと次第に政権が移っていく過程にある中でこの列島に、何らかの使命を帯びて、出向するということがあったようです。その代表格が「行基」。あの「役行者」も実は、そうだった。

註:行基と役行者の関係も、今後の課題となっていきます。聖武天皇という存在の意味と彼等ふたりとの関係も又、今後の課題となっていきます。

藤原家と旧百済王家中心のものに次第に移行していく律令制。その枠内から逃亡して集まってきた「民衆」。葛城山を拠点に定め、配下の私度僧集団を中心に配置した上で彼等を、農耕とは全く無縁の生活を送りながら諜報活動も行う、大規模諜報組織として纏め上げ始めたのがこの「行基」だったのだそうです。

律令制の枠内から逃亡して主に、列島東部の山岳地帯や河川敷で、ある特定の厳しい掟を定めた上で、部族としての将来の勃興と列島の支配権奪取を共通の目的とする、流浪生活を一斉に始めた部族。「狗奴」「奴」「委奴」と、その他幾つかの部族から成る海人族(「忌部氏」を含む。所謂「八の民」「紅の民」及び「旧平氏」即ち「平民」)の一部に加え、沿海州から日本海経由で流入し続けてきていた遊牧民(所謂「白の民」)の一部をも、その構成要素として成り立っていた部族。この部族のことを「山窩」と言うのだそうです。その「山窩」の巨大ネットワークを中央で統率しながら、明確な未来予測に基づいて編み出された、ある特殊な、驚くほど巧妙な策略を駆使して、本来は「山窩」ではない各地の地方有力部族をもひとつひとつ傘下に密かに加えて行くとともに、半島や大陸での政権崩壊後に列島に流れ込んだ、旧新羅勢力や旧契丹勢力などをもその傘下に加えていき、平安中期には早くも、極めて巨大な勢力にまで成長させたのがこの「行基」を起源とする諜報組織だったという訳です。

この隠された一大勢力が、天皇家を中心とした所謂「政体」をも自らの勢力下に置いて、自らの隠れ蓑として表に秩序付けると共に、天皇家の血筋を「裏天皇」として迎え入れて自らの中核に据えることで、ユーラシア全体との繋がりの中でのみ維持されるところの所謂「國體」の維持管理をもその役割として担うようになったのが14世紀のことでした。この隠された領域における一連の激動の表面的な現れこそ、南北朝合一だったとのことです。

註:八切止夫さんの著作の中で、八切止夫少年が山窩生活を送る中である時、深く関わるようになっていたある山窩の少女に「天皇様のようなお偉い方がうちらの背後にはいて、その方のためにはうちら、何でもやるのだよ」と教えられる場面が出てきますが、それはこの「國體」天皇のことだったということになります。

註:この際に、従来の「裏天皇」組織がどうなったのか。これが極めて重要な問いかけとなってきます。決して忘却することはできません。此の期に及んで生じたこれら両「裏天皇」の暗闘が表には南北朝対立として現れてきていたということのようです。鎌倉時代の社会の変化を研究することで、そのヒントが見つかる可能性もあると思います。

註:因みに、かの観応の擾乱で歴史の表舞台から消えた足利直義は足利高氏の実弟ではなく、実際は、國體の中枢に迫りつつあるこの新しい裏天皇組織が予め足利家に送り込んでいた所謂「草」であったとのことです。目をつけた新興勢力にこのような「草」を予めタイミングよく入れていったりすることで「裏天皇」組織は、世の中をコントロールし、支配していくのだそうです(明智光秀も、家康や秀吉も、松尾芭蕉も、井伊直弼や篤姫も、徳川慶喜も、徳川吉宗も、西郷隆盛も、陸奥宗光や坂本龍馬も、大室寅之助も、豪商三井も、ルクセンブルクやスイスの王族貴族も、実に多くの人達がその類の「草」或いは「歩み」だったのだそうです)。このような措置は、何千年も昔からの正確な歴史認識に基づいて、実に何百年にも及ぶ先々の未来を、正確かつ精緻に予測する能力というものが存在しない限り決して、有効にはならない筈です。落合莞爾さんの著作を読むとこのことが、極めて明確に認識できます。

落合莞爾さんが一連の著作で探求し続けているのは、14世紀に新たな次元に発展したこの裏天皇諜報組織の、一般には隠された領域からの、その後の世界全体の歴史に対する余りにも大き過ぎる影響力であり、その源泉としての未来予測能力、それに、その諜報組織によって施された余りにも巧妙過ぎる自己隠蔽能力ということになります。

その淵源があの「邪悪な」新羅にあった!行基が新羅の王族であり、新羅から出向していたという以上は、そう考える以外に途がありません。

南北朝合一は百済王家と新羅王家の合同という側面をも持っていた!新羅は一見、百済や高句麗と敵対していたように見えながら、もっと深いところでは、「淵蓋蘇文」とその背後の巨大秘密組織の主導の元で一貫して協力し合っていた。彼等の究極の、そして共通の敵は、隋及び唐王朝を中原に打ち立てた鮮卑族以外の何者でもなかった。とすると、この鮮卑族が、百済や高句麗の背後に敵として見ていた者とは何だったのか?そして逆に、この何者かにとって隋や唐の鮮卑族の何がそれ程、許容できないものだったのか?

悪名高きイルミナティやハザール偽ユダヤの近現代における暗躍も、その近辺に、日本のこの新しい「裏天皇」の影響が及んでいた!ひょっとしたら、イルミナティやハザール偽ユダヤを奥の方で操っていたのが日本のこの新しい「裏天皇」だったのかも知れない!カトリックに対してこのイルミナティは本当に、落合莞爾さんが述べているような憎悪を燃やしていたのか?それとも、他に何か隠れた事情があってこのイルミナティは、カトリックに対して敵対するような一連の活動を展開したのか?

「裏天皇」とは言ってもこれは、飛鳥昭雄さん言うところの下鴨神社の「裏天皇」とは全く違う系統のものだったらしい。つまり、忌部系加茂氏の「裏天皇」だったのではないか?

...これらの意味を、今から順に、考察していかなければなりません。

こんな人が出てきた!

2014-12-20 16:47:11 | 日本論と宗教論
今、落合莞爾さんの最新刊を読んでいます。

ブラボーの一言に尽きます。

小林恵子さんや松重楊江さん、八切止夫さん、飛鳥昭雄さん、他を、組み合わせて読みながら組み立ててきた私の認識に、更なる深みを与えてくれるものと感じます。

天皇家の巧妙な「支配」がこの列島内には限らず、太古以来一貫して世界中に及んでいた。影響力のやや薄くなった地域には比較的浅い時代にも、綿密な計画に基づいた天皇家からのテコ入れがあった。

...落合莞爾さんの今回の情報は、このような枠組みの内、天皇家によって14世紀のヨーロッパに施されたテコ入れの詳細と、そのことの明治維新や明治維新以降への少なからざる影響を伝えるものとなっています。落合莞爾さんによるこの情報は、私の感じ取っていたことを別角度から詳細に記述したものとなっています。

皆さんがどのようにお感じになられるか分かりませんが、私の観点からは兎に角、ブラボーの一言に尽きます。