飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

落合莞爾は結論ではなく新たな思考のきっかけに過ぎない

2017-01-16 01:41:08 | 日本論と宗教論
落合莞爾さんの業績は画期的で揺るぎないものに感じられます。

(1)ワンワールド勢力の実在を単に強弁するというのではなく、特に維新から明治期及び南北朝期の、詳細で具体的な歴史事象の再構成によって、マニ教ワンワールド勢力の実在性を十分明確に浮き彫りにしたこと。更には、(2)私も従来から直感的に把握し記述して来た、所謂「欠史八代」の実在性についても十分な説得力でもって主張できていること。また、(3)ヨーロッパから始まるところの近代というものに対する全く新しい、より本質的と思われる解釈を提示したこと。これらの点に於いて、落合莞爾さんの業績は画期的で揺るぎないものとなっていると感じるのです。

だからと言って、全く穴がないかというと、それは全く違います。これは、落合莞爾さん自身が頻りに絶えず自説の訂正を、時には読者にそれと気づかれないような形で行い続けていることからも明らかです。これらを詳細に記述しろ言われたら、時間的余裕と気力が揃いさえすれば、私には容易いことで、近い将来、記事として公表する時が来るはずとも感じるのです。

ここでは若干のことを概略のみ記述してみます。

先ずは、当の「縄文人」自身が自称として用いたことなど間違いなくなかったはずの「縄文時代」という用語を、弥生以前の茫漠とした長大な時代というその本来の意味を超えて無批判に自らの重要概念として頻用している点を挙げることができます。彼の「縄文海人」は私には「縄文」の文字を当てることが躊躇われるものなのです。「縄文」と彼が言い表しているものの実態は私の認識ではもっと複雑です。

上田アヤタチ伝承を、各ポイントで批判しているのは確かに素晴らしいのですが、そうすることで、彼ら以外にイスラエル十支族が多くいることや、イスラエル十支族の内の上田アヤタチに東国の「山窩」勢力が背乗りし乗っ取った可能性があり、彼等が自らを「ユダヤ」などと私からしたら全くあり得ない言い方で自称していることそのものがそれを強力に立証していることなどを、見過ごしている点も、次にあげることができます。

ミトラス(ミトラ、弥勒、マイトレーヤ)とアフラマズダ(アスラ)、アフラとダエーワ、スプンタマンユとアンラマンユ(アーリマン)、などといった、原始アーリア宗教やゾロアスター教、ミトラス教、マニ教の基本概念を巡って思弁すれば、「覇道一神教」との対決という単純な捉え方に終始することは躊躇われる筈なのに、その点の自覚が全く見えないこと。

イスラエル十支族と天孫天神勢力との共同によって後に日本国と称されるようになる國體政体が形成されたことや、天孫天神がイスラエル十支族による天孫天神への背乗りをある理由から必要としたこと、天孫天神自体もイスラエル十支族に背乗りしたこと、などを主張しておきながら、そのようなことの可能になることの意味をさらに探ろうともせず、イスラエル十支族による天孫天神への背乗りだけを一方的に蔑んでいるように見えること。

一万年前の氷河期末期にユーラシアの山岳地帯を生き延びたウバイドサエキというところまでは、現時点での最新作で遡れたことが確認できるものの、ネアンデルタール人や現生人類の出アフリカというより根源的な事実からの思考にまではまだ到達できていない点。

スンダ陸棚に一万二千年前に人類史上初めて勃興したシュメール文明という何人かの研究者が既に主張している事象との結びつきによってより生産的な思考ができる筈なのに、この事象は全く無視されていること。

天皇一族が朝鮮半島から渡来した一族であるという主張をワンワールド史観から批判することそのものは悪くないのですが、そのことによって天皇一族が列島由来の一族であるなどとも単純に言えるはずがないのに、そのことに気づかずに天皇一族は列島由来の一族であると強弁してしまっていること。天皇一族はこの列島には限定されない、太古のユーラシア全体を舞台に活動した勢力由来とすべきところなのにです。

葛城氏や尾張氏の由来を詳述する小林恵子さんのような研究者がいるのに、それに言及できていないこと。

阿波忌部氏を単純に欠史八代子孫と見做していて、それ以上の言及がないこと。

....兎に角、挙げて行ったらきりがないくらい盲点が数多く認められるのです。

これらをいつか詳述できないかと私は考えています。今は上記のような概略の説明で許していただきたいと思います。