話を元に戻しましょう。
知能指数検査が誰によって何のために行われてきたのかについても機会があればちゃんと調べてみる必要がある。まともな教師ならこう考えるはずです。しかし、知能指数検査が既に連綿と行われ続けてきている事実は、組織人としてはどうしても受け入れざるを得ないことなのでしょう。組織人である限り、そんなところで一々争っている余裕などないはずです。それでも教師としては、知能指数をデータとして突きつけられた時、知能指数検査の意味を正確に深く理解して、そのデータの取り扱いの際には飽くまでも、細心の注意を払おうとするのでなければならないはずです。知能指数が一旦は低く計測された子供でも、知能指数のそのような低さの原因を個別に探った上でそれを取り除き、知能指数を本来の位置に上げようとするのが教育だ。この子の場合どうやったら知能指数を上げられるのか?そもそも知能指数とは何なのか?まともな教育者たらんとする者なら誰もがこう問いかけては、自分なりに色々なことを試み、自分の個性と結びついた誰の猿真似でもない独自の方法論を組み立てるはずです。この意味でも教育者は、人間のことを正確に深く知っておく必要がある訳です。教育者は個人として、人間存在の奥行きにあらゆる面から通暁していなければならない。人間のことを決して一面的にパターン化してのみ捉えてはならず、絶えず個別の対象として、自分の存在のありとあらゆる次元を総動員して理解し、取り扱おうとするのでないといけない。知能指数と学校の成績に厳然とした相関関係が見られるのは実は、他でもない教師の怠慢や無能、或いは敗北の現れ以外の何ものでもないことを、ちゃんと理解しなければならない。
知能指数という現実を突きつけられた時に教師の心の中で知能指数が安易に絶対化されてしまうのは、科学至上主義に冒されて人間の本質を忘れ去ってしまっているからです。こうなると、本当の教師たらんとする今述べたような意欲が教師から奪われ、本当の意味での教育がそこから消えてしまうことになります。教育者とは名ばかりで、「教師として働いて生計を立てる者」以外の何物でもないものに堕してしまうのです。例えば「知能指数が高いのだからこの子は競争に勝ち抜き社会の中枢に入って活躍するだろう。しかし、競争だけが人生の全てではない。知能指数の低い子が大半なのだ。この子等のために普通の人生を平和に過ごして行く途を示し、その意味を教えてあげるのも教師の大切な役目だ。競争競争と煽り立てるのはやめた方がいい。そもそも教師そのものが知能指数が高いわけではないのだ」。このような論を組み立てる教師がいるはずです。所謂「人間味のある暖かい心の教師」です。
しかし、一見正しそうに見えるこの人達も、残念ながら、頽廃した教師の典型例にすぎません。この人達の上のような発言には、世の中で起こりがちな多くの誤謬の例に漏れず、同時的添加表現と継時的添加表現のすり替えの誤謬も見られます。
「教師はある時期に競争への意欲を促すだけではなく、競争の結果が十分に出た時、勝った者と負けた者の双方に対して、人生を送る上で競争よりも何よりも大切なこともまた、改めて説いて聞かせる必要がある」。
このように継時的添加表現で論じるべき時に、まさに競争の最中に、競争の結果がまだ十分には出ていない時に、一部の子が苦しそうな顔をしているからと言って安易な哀れみを抱いてしまい、その子達には本当は競争に勝ち抜く力があるかもしれないのだから諦めずに何とか工夫するよう導こうと考えるべきなのに、或いは、競争で負けることの深い意義を人間として今まさに実感して身につけようとしている大切な局面なのだから様子だけは見守りながらもそっとしておいてあげようと考えるべきなのに、
「競争なんて本当は無意味であり、そこからすぐに離脱しても、生きる上で何も困りはしないのだよ。競争なんて馬鹿なことを何でやるのか知らないが、やらなくてはいけないことになっているから兎に角やっているだけなのだ。気にするなよ」
と発言したり、挙句の果ては、
「競争なんてやめてしまおう。一番なんてならなくていい。誰もが特別なオンリーワンなのだから」
などと奇妙奇天烈な主張を出したりしてしまう訳です。
註:そもそも「特別な」は、論理的には最上級「最も重要な」の同義語で、これ自体が「一番」の意味なのです。また「オンリーワン」は「他のいかなるものでもない独自の」を意味し、まさに「社会からの孤立」のことを意味する場合もあるのです。多くの人がオンリーワンとして社会に加わることができたらより一層社会のためになる。そのために如何に基本となる共通の規範や能力を身につけさせるか。これが教育の意味なのであって、教育の場で安易にオンリーワンを強調することなどできないのです。そんなことは、教育とは関係のないところで SMAP や、麻薬常習の罪で逮捕された経験のあるあのシンガーソングライターに任せておくべきなのです。
知能指数が高いから競争に勝てるのではなく、競争への意欲があり、実際に競争し続けてきたから知能が高まるのです。小学入学時の知能指数の高さは、小学入学以前の幼児期に競争への意欲を育てることができていたかどうかを示す以上の何の意味もなかったのです。教育者としては、ある局面では厳然として、諦めずに最後まで競争し続けることを教えなければならないのです。
教師である以上、知能指数を巡る上のような誤謬に、やすやすと嵌ってはいけません。嵌っているのが理解できたら、今すぐ改めるべきです。そもそも、この程度の誤謬に嵌るような知能の低い人物が教師になるべきではありません。教師こそ意欲と知能の塊でなければならない。そうでないと教師である意味がない。思い遣りのある教師だと多くの人から思われるのには確かに、高い知能は必要ありません。しかし、教師として生徒に本当の深い思い遣りをかけてあげるには、最高級の知能が必要なのです。
知能指数とは何なのでしょうか?
知能指数の奥底には実は、問題に直面した時の問題解決への意欲の強さが潜んでいます。この意欲の強さが、たとえ解き方が分からない時でも「何となくこれが正解っぽい」という一種の閃きに繋がっていきます。たとえ間違えた時でもこの意欲がある場合は、その間違いの意味が新たに問題として立てられ、その後同じようなミスに陥らないような備えの設置へと繋げることもできます。これこそまさに知能指数の高さの正体なのです。知能指数の低い子には、検査の時点でその意欲がなかっただけだったのです。
解き方が分からない時に「何となく」が出てくるところまで粘ることができず、外的要求にのみ押されて「兎に角」と心の中で言いながら闇雲に発作的に回答してしまう。従って、結果として失敗を突きつけられても、その失敗から失敗のパタンを具体的に取り出すことができない。そもそも、次から次へと即座に忘却する習慣が身についているためか、反省や復習の方向に動きだす衝動すらない。そして更に闇雲な反応の繰り返しに終始してしまう。挙句の果ては、問題となったら全て回避しようとする以外に道がなくなってしまう。このようなことを日頃からずっと繰り返している。これが知能指数の低い子だったのです。
では、この競争への意欲の強さは何処から来るのか?
それは、自分の運命に対する存在の奥底から湧き上がってくる信頼感からです。問題のない日常に満足することなく、常に問題を探しては見つけ、それを解決していく。すぐには解決できないような大きな問題に出くわしても、時間を置けば必ず解決できるものと信じ、取り敢えずは他の小さな問題を解決していきながらそれを、心の何処かに平然と明確に置いておける。解決の機が熟するのを待っていられる。待つ間にやっておくべきことを精確に把握し、手間を惜しまずにやっておくことができる。すぐには解決できない問題を解決すべく抱えこんでいる時に目の前に立ち現れてくるその他の小さな問題の処理が全て、その大きな問題を解決するための準備を意味していることを、心の底から理解している。存在の本質は実際は外面的な規定を受けることがなく、主体的で内的な行動の連続こそが存在の本質なのだと、本能的に熟知している。このような何処までも未来志向の、オプティミスティックで素朴な心、清明心こそ、上に述べたような問題解決への意欲の強さを生み出す根源となっているのです。
直面する問題は全て有限で、どんな場合でも必ず解決できると信じていられるのは、存在の何処かで本当の無限と繋がり続け、使命感に溢れているからこそです。無限との繋がりは、無限との繋がりに基づく生活を実践し始めて久しい年長者と接触することによって、初めて獲得できます。そうでないとなかなか得られるものではない。ここに教育の意味が出てくる訳です。生徒のため、本当の教育のために教師が最初にやらなくてはならないこと。それは自らも師を持ち、師の元で自らの心を見つめ続け、師との関わりの中で霊魂の世話をして自らを磨き、知能を上げていくことだったのです。自らも師匠を戴く弟子でない限り、教師としては信用できないということだったのです。何よりも重要だったのは教師を教え導く教師の存在だった。こうまとめることができます。
知能指数検査が誰によって何のために行われてきたのかについても機会があればちゃんと調べてみる必要がある。まともな教師ならこう考えるはずです。しかし、知能指数検査が既に連綿と行われ続けてきている事実は、組織人としてはどうしても受け入れざるを得ないことなのでしょう。組織人である限り、そんなところで一々争っている余裕などないはずです。それでも教師としては、知能指数をデータとして突きつけられた時、知能指数検査の意味を正確に深く理解して、そのデータの取り扱いの際には飽くまでも、細心の注意を払おうとするのでなければならないはずです。知能指数が一旦は低く計測された子供でも、知能指数のそのような低さの原因を個別に探った上でそれを取り除き、知能指数を本来の位置に上げようとするのが教育だ。この子の場合どうやったら知能指数を上げられるのか?そもそも知能指数とは何なのか?まともな教育者たらんとする者なら誰もがこう問いかけては、自分なりに色々なことを試み、自分の個性と結びついた誰の猿真似でもない独自の方法論を組み立てるはずです。この意味でも教育者は、人間のことを正確に深く知っておく必要がある訳です。教育者は個人として、人間存在の奥行きにあらゆる面から通暁していなければならない。人間のことを決して一面的にパターン化してのみ捉えてはならず、絶えず個別の対象として、自分の存在のありとあらゆる次元を総動員して理解し、取り扱おうとするのでないといけない。知能指数と学校の成績に厳然とした相関関係が見られるのは実は、他でもない教師の怠慢や無能、或いは敗北の現れ以外の何ものでもないことを、ちゃんと理解しなければならない。
知能指数という現実を突きつけられた時に教師の心の中で知能指数が安易に絶対化されてしまうのは、科学至上主義に冒されて人間の本質を忘れ去ってしまっているからです。こうなると、本当の教師たらんとする今述べたような意欲が教師から奪われ、本当の意味での教育がそこから消えてしまうことになります。教育者とは名ばかりで、「教師として働いて生計を立てる者」以外の何物でもないものに堕してしまうのです。例えば「知能指数が高いのだからこの子は競争に勝ち抜き社会の中枢に入って活躍するだろう。しかし、競争だけが人生の全てではない。知能指数の低い子が大半なのだ。この子等のために普通の人生を平和に過ごして行く途を示し、その意味を教えてあげるのも教師の大切な役目だ。競争競争と煽り立てるのはやめた方がいい。そもそも教師そのものが知能指数が高いわけではないのだ」。このような論を組み立てる教師がいるはずです。所謂「人間味のある暖かい心の教師」です。
しかし、一見正しそうに見えるこの人達も、残念ながら、頽廃した教師の典型例にすぎません。この人達の上のような発言には、世の中で起こりがちな多くの誤謬の例に漏れず、同時的添加表現と継時的添加表現のすり替えの誤謬も見られます。
「教師はある時期に競争への意欲を促すだけではなく、競争の結果が十分に出た時、勝った者と負けた者の双方に対して、人生を送る上で競争よりも何よりも大切なこともまた、改めて説いて聞かせる必要がある」。
このように継時的添加表現で論じるべき時に、まさに競争の最中に、競争の結果がまだ十分には出ていない時に、一部の子が苦しそうな顔をしているからと言って安易な哀れみを抱いてしまい、その子達には本当は競争に勝ち抜く力があるかもしれないのだから諦めずに何とか工夫するよう導こうと考えるべきなのに、或いは、競争で負けることの深い意義を人間として今まさに実感して身につけようとしている大切な局面なのだから様子だけは見守りながらもそっとしておいてあげようと考えるべきなのに、
「競争なんて本当は無意味であり、そこからすぐに離脱しても、生きる上で何も困りはしないのだよ。競争なんて馬鹿なことを何でやるのか知らないが、やらなくてはいけないことになっているから兎に角やっているだけなのだ。気にするなよ」
と発言したり、挙句の果ては、
「競争なんてやめてしまおう。一番なんてならなくていい。誰もが特別なオンリーワンなのだから」
などと奇妙奇天烈な主張を出したりしてしまう訳です。
註:そもそも「特別な」は、論理的には最上級「最も重要な」の同義語で、これ自体が「一番」の意味なのです。また「オンリーワン」は「他のいかなるものでもない独自の」を意味し、まさに「社会からの孤立」のことを意味する場合もあるのです。多くの人がオンリーワンとして社会に加わることができたらより一層社会のためになる。そのために如何に基本となる共通の規範や能力を身につけさせるか。これが教育の意味なのであって、教育の場で安易にオンリーワンを強調することなどできないのです。そんなことは、教育とは関係のないところで SMAP や、麻薬常習の罪で逮捕された経験のあるあのシンガーソングライターに任せておくべきなのです。
知能指数が高いから競争に勝てるのではなく、競争への意欲があり、実際に競争し続けてきたから知能が高まるのです。小学入学時の知能指数の高さは、小学入学以前の幼児期に競争への意欲を育てることができていたかどうかを示す以上の何の意味もなかったのです。教育者としては、ある局面では厳然として、諦めずに最後まで競争し続けることを教えなければならないのです。
教師である以上、知能指数を巡る上のような誤謬に、やすやすと嵌ってはいけません。嵌っているのが理解できたら、今すぐ改めるべきです。そもそも、この程度の誤謬に嵌るような知能の低い人物が教師になるべきではありません。教師こそ意欲と知能の塊でなければならない。そうでないと教師である意味がない。思い遣りのある教師だと多くの人から思われるのには確かに、高い知能は必要ありません。しかし、教師として生徒に本当の深い思い遣りをかけてあげるには、最高級の知能が必要なのです。
知能指数とは何なのでしょうか?
知能指数の奥底には実は、問題に直面した時の問題解決への意欲の強さが潜んでいます。この意欲の強さが、たとえ解き方が分からない時でも「何となくこれが正解っぽい」という一種の閃きに繋がっていきます。たとえ間違えた時でもこの意欲がある場合は、その間違いの意味が新たに問題として立てられ、その後同じようなミスに陥らないような備えの設置へと繋げることもできます。これこそまさに知能指数の高さの正体なのです。知能指数の低い子には、検査の時点でその意欲がなかっただけだったのです。
解き方が分からない時に「何となく」が出てくるところまで粘ることができず、外的要求にのみ押されて「兎に角」と心の中で言いながら闇雲に発作的に回答してしまう。従って、結果として失敗を突きつけられても、その失敗から失敗のパタンを具体的に取り出すことができない。そもそも、次から次へと即座に忘却する習慣が身についているためか、反省や復習の方向に動きだす衝動すらない。そして更に闇雲な反応の繰り返しに終始してしまう。挙句の果ては、問題となったら全て回避しようとする以外に道がなくなってしまう。このようなことを日頃からずっと繰り返している。これが知能指数の低い子だったのです。
では、この競争への意欲の強さは何処から来るのか?
それは、自分の運命に対する存在の奥底から湧き上がってくる信頼感からです。問題のない日常に満足することなく、常に問題を探しては見つけ、それを解決していく。すぐには解決できないような大きな問題に出くわしても、時間を置けば必ず解決できるものと信じ、取り敢えずは他の小さな問題を解決していきながらそれを、心の何処かに平然と明確に置いておける。解決の機が熟するのを待っていられる。待つ間にやっておくべきことを精確に把握し、手間を惜しまずにやっておくことができる。すぐには解決できない問題を解決すべく抱えこんでいる時に目の前に立ち現れてくるその他の小さな問題の処理が全て、その大きな問題を解決するための準備を意味していることを、心の底から理解している。存在の本質は実際は外面的な規定を受けることがなく、主体的で内的な行動の連続こそが存在の本質なのだと、本能的に熟知している。このような何処までも未来志向の、オプティミスティックで素朴な心、清明心こそ、上に述べたような問題解決への意欲の強さを生み出す根源となっているのです。
直面する問題は全て有限で、どんな場合でも必ず解決できると信じていられるのは、存在の何処かで本当の無限と繋がり続け、使命感に溢れているからこそです。無限との繋がりは、無限との繋がりに基づく生活を実践し始めて久しい年長者と接触することによって、初めて獲得できます。そうでないとなかなか得られるものではない。ここに教育の意味が出てくる訳です。生徒のため、本当の教育のために教師が最初にやらなくてはならないこと。それは自らも師を持ち、師の元で自らの心を見つめ続け、師との関わりの中で霊魂の世話をして自らを磨き、知能を上げていくことだったのです。自らも師匠を戴く弟子でない限り、教師としては信用できないということだったのです。何よりも重要だったのは教師を教え導く教師の存在だった。こうまとめることができます。