飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「普通の子」の知能開発こそが教育 02

2013-03-30 10:28:47 | 教育
話を元に戻しましょう。

知能指数検査が誰によって何のために行われてきたのかについても機会があればちゃんと調べてみる必要がある。まともな教師ならこう考えるはずです。しかし、知能指数検査が既に連綿と行われ続けてきている事実は、組織人としてはどうしても受け入れざるを得ないことなのでしょう。組織人である限り、そんなところで一々争っている余裕などないはずです。それでも教師としては、知能指数をデータとして突きつけられた時、知能指数検査の意味を正確に深く理解して、そのデータの取り扱いの際には飽くまでも、細心の注意を払おうとするのでなければならないはずです。知能指数が一旦は低く計測された子供でも、知能指数のそのような低さの原因を個別に探った上でそれを取り除き、知能指数を本来の位置に上げようとするのが教育だ。この子の場合どうやったら知能指数を上げられるのか?そもそも知能指数とは何なのか?まともな教育者たらんとする者なら誰もがこう問いかけては、自分なりに色々なことを試み、自分の個性と結びついた誰の猿真似でもない独自の方法論を組み立てるはずです。この意味でも教育者は、人間のことを正確に深く知っておく必要がある訳です。教育者は個人として、人間存在の奥行きにあらゆる面から通暁していなければならない。人間のことを決して一面的にパターン化してのみ捉えてはならず、絶えず個別の対象として、自分の存在のありとあらゆる次元を総動員して理解し、取り扱おうとするのでないといけない。知能指数と学校の成績に厳然とした相関関係が見られるのは実は、他でもない教師の怠慢や無能、或いは敗北の現れ以外の何ものでもないことを、ちゃんと理解しなければならない。

知能指数という現実を突きつけられた時に教師の心の中で知能指数が安易に絶対化されてしまうのは、科学至上主義に冒されて人間の本質を忘れ去ってしまっているからです。こうなると、本当の教師たらんとする今述べたような意欲が教師から奪われ、本当の意味での教育がそこから消えてしまうことになります。教育者とは名ばかりで、「教師として働いて生計を立てる者」以外の何物でもないものに堕してしまうのです。例えば「知能指数が高いのだからこの子は競争に勝ち抜き社会の中枢に入って活躍するだろう。しかし、競争だけが人生の全てではない。知能指数の低い子が大半なのだ。この子等のために普通の人生を平和に過ごして行く途を示し、その意味を教えてあげるのも教師の大切な役目だ。競争競争と煽り立てるのはやめた方がいい。そもそも教師そのものが知能指数が高いわけではないのだ」。このような論を組み立てる教師がいるはずです。所謂「人間味のある暖かい心の教師」です。

しかし、一見正しそうに見えるこの人達も、残念ながら、頽廃した教師の典型例にすぎません。この人達の上のような発言には、世の中で起こりがちな多くの誤謬の例に漏れず、同時的添加表現と継時的添加表現のすり替えの誤謬も見られます。

「教師はある時期に競争への意欲を促すだけではなく、競争の結果が十分に出た時、勝った者と負けた者の双方に対して、人生を送る上で競争よりも何よりも大切なこともまた、改めて説いて聞かせる必要がある」。

このように継時的添加表現で論じるべき時に、まさに競争の最中に、競争の結果がまだ十分には出ていない時に、一部の子が苦しそうな顔をしているからと言って安易な哀れみを抱いてしまい、その子達には本当は競争に勝ち抜く力があるかもしれないのだから諦めずに何とか工夫するよう導こうと考えるべきなのに、或いは、競争で負けることの深い意義を人間として今まさに実感して身につけようとしている大切な局面なのだから様子だけは見守りながらもそっとしておいてあげようと考えるべきなのに、

「競争なんて本当は無意味であり、そこからすぐに離脱しても、生きる上で何も困りはしないのだよ。競争なんて馬鹿なことを何でやるのか知らないが、やらなくてはいけないことになっているから兎に角やっているだけなのだ。気にするなよ」

と発言したり、挙句の果ては、

「競争なんてやめてしまおう。一番なんてならなくていい。誰もが特別なオンリーワンなのだから」

などと奇妙奇天烈な主張を出したりしてしまう訳です。

註:そもそも「特別な」は、論理的には最上級「最も重要な」の同義語で、これ自体が「一番」の意味なのです。また「オンリーワン」は「他のいかなるものでもない独自の」を意味し、まさに「社会からの孤立」のことを意味する場合もあるのです。多くの人がオンリーワンとして社会に加わることができたらより一層社会のためになる。そのために如何に基本となる共通の規範や能力を身につけさせるか。これが教育の意味なのであって、教育の場で安易にオンリーワンを強調することなどできないのです。そんなことは、教育とは関係のないところで SMAP や、麻薬常習の罪で逮捕された経験のあるあのシンガーソングライターに任せておくべきなのです。

知能指数が高いから競争に勝てるのではなく、競争への意欲があり、実際に競争し続けてきたから知能が高まるのです。小学入学時の知能指数の高さは、小学入学以前の幼児期に競争への意欲を育てることができていたかどうかを示す以上の何の意味もなかったのです。教育者としては、ある局面では厳然として、諦めずに最後まで競争し続けることを教えなければならないのです。

教師である以上、知能指数を巡る上のような誤謬に、やすやすと嵌ってはいけません。嵌っているのが理解できたら、今すぐ改めるべきです。そもそも、この程度の誤謬に嵌るような知能の低い人物が教師になるべきではありません。教師こそ意欲と知能の塊でなければならない。そうでないと教師である意味がない。思い遣りのある教師だと多くの人から思われるのには確かに、高い知能は必要ありません。しかし、教師として生徒に本当の深い思い遣りをかけてあげるには、最高級の知能が必要なのです。

知能指数とは何なのでしょうか?

知能指数の奥底には実は、問題に直面した時の問題解決への意欲の強さが潜んでいます。この意欲の強さが、たとえ解き方が分からない時でも「何となくこれが正解っぽい」という一種の閃きに繋がっていきます。たとえ間違えた時でもこの意欲がある場合は、その間違いの意味が新たに問題として立てられ、その後同じようなミスに陥らないような備えの設置へと繋げることもできます。これこそまさに知能指数の高さの正体なのです。知能指数の低い子には、検査の時点でその意欲がなかっただけだったのです。

解き方が分からない時に「何となく」が出てくるところまで粘ることができず、外的要求にのみ押されて「兎に角」と心の中で言いながら闇雲に発作的に回答してしまう。従って、結果として失敗を突きつけられても、その失敗から失敗のパタンを具体的に取り出すことができない。そもそも、次から次へと即座に忘却する習慣が身についているためか、反省や復習の方向に動きだす衝動すらない。そして更に闇雲な反応の繰り返しに終始してしまう。挙句の果ては、問題となったら全て回避しようとする以外に道がなくなってしまう。このようなことを日頃からずっと繰り返している。これが知能指数の低い子だったのです。

では、この競争への意欲の強さは何処から来るのか?

それは、自分の運命に対する存在の奥底から湧き上がってくる信頼感からです。問題のない日常に満足することなく、常に問題を探しては見つけ、それを解決していく。すぐには解決できないような大きな問題に出くわしても、時間を置けば必ず解決できるものと信じ、取り敢えずは他の小さな問題を解決していきながらそれを、心の何処かに平然と明確に置いておける。解決の機が熟するのを待っていられる。待つ間にやっておくべきことを精確に把握し、手間を惜しまずにやっておくことができる。すぐには解決できない問題を解決すべく抱えこんでいる時に目の前に立ち現れてくるその他の小さな問題の処理が全て、その大きな問題を解決するための準備を意味していることを、心の底から理解している。存在の本質は実際は外面的な規定を受けることがなく、主体的で内的な行動の連続こそが存在の本質なのだと、本能的に熟知している。このような何処までも未来志向の、オプティミスティックで素朴な心、清明心こそ、上に述べたような問題解決への意欲の強さを生み出す根源となっているのです。

直面する問題は全て有限で、どんな場合でも必ず解決できると信じていられるのは、存在の何処かで本当の無限と繋がり続け、使命感に溢れているからこそです。無限との繋がりは、無限との繋がりに基づく生活を実践し始めて久しい年長者と接触することによって、初めて獲得できます。そうでないとなかなか得られるものではない。ここに教育の意味が出てくる訳です。生徒のため、本当の教育のために教師が最初にやらなくてはならないこと。それは自らも師を持ち、師の元で自らの心を見つめ続け、師との関わりの中で霊魂の世話をして自らを磨き、知能を上げていくことだったのです。自らも師匠を戴く弟子でない限り、教師としては信用できないということだったのです。何よりも重要だったのは教師を教え導く教師の存在だった。こうまとめることができます。

『論語』現代語訳 学而第一 02

2013-03-29 23:13:42 | 『論語』現代語訳
有子曰「其爲人也孝弟而、好犯上者鮮矣。不好犯上而、好作亂者未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者、其爲仁之本與。

有子曰く、「其の人と為りや孝弟にして、上を犯すを好む者は鮮し。上を犯すを好まずして、乱を作すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なるは、其れ仁の本為るか」と。

(孔先生の主要なお弟子のひとりである)有先生が仰った。「一族内での日頃の生活振りが、親に対しても兄に対しても自然と、あるべき振る舞いになっていて壊れていない人なら、これまでにも何人も見てきたが、そんな人が世に出てきて組織の人となった場合に、何かというと上意に逆らいたがるような、そんな人になるのを見たことはほとんどない。上意に異議を差し挟みたがると言ったところでそれは、世の秩序の乱れを好むというのとは異なる訳だから、そう問題視する必要もないのではなどと考える人も中にはいるかもしれないが、しかし、組織内にいて上意に逆きたくなるような場面に遭遇してもその感情を自然と制御できる、そんな人の中には、少なくとも、世の秩序の乱れを好むような輩がいたことなど、私の知る限り一度もないのだ。従って、世の秩序の乱れを好むような輩が世に出てきて酷いことになってしまうのを確実に防止しようと思うなら、上意に逆らいたくなるような場面でも気持ちを自然と制御できるような人以外は、君子として採用するのはやめておいた方がいいと思うのだ。ということは、一族内での日頃の生活振りが、親に対しても兄に対しても自然と、あるべき振る舞いになっていて壊れていないかどうかもまた、ある程度は採用の基準となる訳だ。そもそも君子とは、進むべき正道を常に全身全霊で探求し続ける者のことを言う訳だが、根本が崩れていたら、いくら全身全霊と言ったところで、正道の開かれることなどあるはずがない。だから、君子たる者は先ず、自分の根本の管理に務めるものなのだ。君子の正道とは、弱き者を慈しむこと。つまりは、仁のこと。世の秩序を乱してしまうと、いくら仁の道を開きたいと願って努力したところで、開けるはずもない。ということは、世の秩序の乱れを嫌う心の基盤になっていることの多い、上述したような孝や悌の心こそが仁の本ということにもなる訳だ。従って、親や兄に対する自然な敬愛、即ち、自分より優れた人に対する自然な敬愛が壊れてしまわないよう、親も子も、兄も弟も、努力しておかなければならないということになるのだ。壊れてしまったらもう元には戻せない。その時は、君子になって世に出て行こう、出て行かそうなどと儚い望みを持つことは許されないことになる」と。

秦氏も藤原氏も単純化は間違い

2013-03-26 20:35:54 | 日本論と宗教論
ねねというペンネームの方からコメントをいただきました。以下はそのコメントに対する私の回答です。


以下引用。

コメントありがとうございます。

>百済勢力が善とされるのはまさにそうで、白村江の戦いがあったからだと思います。

白村江の戦いで倭は百済と共に、唐鮮卑と新羅に打ち負かされた。この時以来、新羅は、倭改め日本にとって憎き外国勢力として日本の従来の支配層と民衆を抑圧するようになった。つまり新羅は、日本にとっての悪となった。

このように仰っていると拝見いたしました。私の主張にもそのような観察を否定する要素はありません。ただし、これではまだ、歴史的現存在としての悪の認識にはならず、相対的な意味での観念的な悪に留まってしまっていることになります。そうならないためにはここで、例えば、唐鮮卑による東夷諸国への圧力に対して高句麗と百済、倭が懸命な抵抗をする中で新羅(金春秋/キムチュンチュ)だけが何故、東夷同盟に加わらずに唐と結託したのかについてもまた、考察を及ぼす必要があるのです。

新羅は、白村江の戦いの遥か以前から既に、三国によって警戒され、監視されていた。同時にまた新羅も、三国を敵視するようになっていた。三国と同じ価値観を共有する側面がちゃんとあったにも拘らず、三国と対立しあっていたのだ。だから、唐鮮卑による東夷諸国への巨大過ぎる圧迫を前にして、他の三国のように一致団結して立ち向かおうとはせずに、これを機会に百済や高句麗を滅ぼし、自分が漁夫の利を得て、唐には戦後に、高句麗や百済の残党勢力を利用しながら武力抵抗を密かに継続しつつ、表面では絶対服従の構えも見せることで、その半島への侵入を防ぐという極めて高度な戦略を瞬時に組み立てて、三国を後ろから攻める決断に踏み切った。背後に実は、このような事情があったのです。

では何故、東夷諸国の中で新羅だけが、他の三国から警戒され、監視されていたのでしょうか?それは、列島の裏側の勢力による列島全体の統一の際に、歴史的な現存在としてのある邪悪な氏族を新羅に閉じ込めるといったことがあったからなのです。

この統一は、その時までには既に北魏経由で百済に入っきていた百済系の秦氏(波多=八幡=ヤハダ=ユダヤ)によって、百済近尚古王=応神天皇の協力の元で列島に持ち込まれた原始イエス=メシア教主導による、イスラエルの、即ち神の民やまと(ヤウマトゥ)の大連合でした。それまで列島各地にバラバラに分かれて活動していたイスラエルやユダヤの諸部族は、丹波出雲の物部氏(島根の「出雲」ではない)も、九州及び大和盆地の物部氏も、九州物部氏を大和盆地に導き入れた阿波及び葛城のイザヤ=レヴィ氏族も、それぞれが一部は、秦(一般階級)及び忌部(祭祀階級)、賀茂(祭祀指導層階級)と、この時に改姓したのでした。その際に、それまでずっと丹波出雲の物部氏と連合していたツングース系のイスラエルの中に、紛れ込んで隠れていた邪悪なエソウ族も当然、同じように秦及び忌部、賀茂に紛れ込むことになった訳です。丹波出雲の韓半島における分国としての新羅にも当然、このエソウ族が紛れ込んでいましたが、この新羅もこの時、倭国と百済、高句麗にとっては、結果的に、同じ東夷の国ではあるにせよ、エソウ族を閉じ込めておくための特殊な国となったのでした。更には、この後も、この新羅から列島に、イスラエルやユダヤを偽装しつつ移入して来ては、秦や源を名乗る者達もいました。

秦氏には、
(1)百済系の秦氏
(2)丹波出雲物部系の秦氏
(3)九州物部系の秦氏
(4)阿波及び葛城イザヤ=レヴィ氏族系の秦氏
(5)新羅系の秦氏
という、5種類の秦氏がいる。秦氏だけではなく、忌部氏や賀茂氏にも、同じような理屈で生じた同じくらいに複雑な系統がある。邪悪な氏族たる新羅系秦氏=エソウ族は、列島の中にも紛れ込んではいることだろうが、何処よりも新羅をその巣窟としているはずだ。だから新羅は、同族である我々に対しても、行いがこれまで頻繁に、卑劣なものになってきたのだ。・・・このような共通認識が当時の他の三国の人々の間に共通して普及していた訳です。そしてそれは、前段落に述べたような背景があったからだと推定できます。

以上が、私が新羅のことを歴史的実在としての実体化した悪であると断言する際に念頭においていることの詳細となります。この悪を絶対に「~にとって」が付けられる相対的で観念的な悪と誤解してはいけないのです。

>また、善は仏教的思想で、盗人の少なかったとされる倭国と通じるところがある(性善説)。

大和人(日本人)とイスラエルやユダヤ、原始イエス=メシア教徒が実は同じものであったと言うのと同じレベルで、仏教は、その淵源において、イエス=メシア教や神道と同じものだったことが、その内明らかになってくるに違いない。私は密かに、このように予想しています。神仏習合は、日本人の宗教の見境のなさ、曖昧さ、底の浅さを表わす歴史的事象などでは全くなかったのです。

>ところが、一方で策略や智略に富んで一般の民を苦しめ悪政をもたらしたのが百済系の藤原氏という説は根強いですね。

今後の記事で詳述しますが、「藤原氏」は実は、百済系ではありません。それどころか、秦氏と同様、ある特定の目的の元で様々な氏族を合同して何者かによって人工的に形成された、極めて複雑な内部構成を持った氏族だったのです。その上、奈良時代と平安時代、鎌倉時代では、藤原氏も、その内実は大きく異なっているのだと思います。こんな藤原氏を単純化して捉えてしまったら、それだけでもう既に、巧妙に仕掛けられた罠に、何者が仕掛けたのかは今はまだ正確には分かりませんが、嵌ってしまったことになるのです。ご存知の根強い通説は、この事実を知らないために誘導された間違いです。これは断言できます。

>渡来人の秦氏が養蚕や鋳造や酒造などを日本に広めたのは事実のようですし。秦氏は専門技術を持った集団、豪族であって、悪どく国政に積極的に関与していたかは疑問があります。

私の主張と全く同じです。秦氏は、新羅系秦氏の侵入を受け全体的に堕落しているような印象を受けてしまいますが、本来は聖なる神の民であり、日本人を日本人たらしめてくれる物心両面に渡る支柱でした。新羅系秦氏の侵入を受け堕落しているように見えるために、多くの論者によって激しく批判される秦氏について私は、これまで一貫して、その本体がこの日本の何処かに巧妙な仕掛けの元で今でも潜伏しているはずだと主張し続けて来ました。それが最近、「百済系秦氏」と命名されつつある段階です。新羅系秦氏が邪悪な氏族であることを今私が盛んに論証しているのは、秦氏一般への無分別な非難を抑制するため以外の何物でもありません。

>それに、源氏を否定することは、鎌倉や室町時代以降の日本の歴史を否定することに繋がる恐れがあるのです。

まず鎌倉幕府は、源氏ではなく、北条氏をはじめとする平氏の政権でした。かの源平合戦の実態は、源氏と平氏の戦争などではなかったのです。鎌倉時代に源氏は、一部は信州を中心とした東日本の内陸部に閉じ込められ、他の一部は、海人族の導きで琉球に入り、琉球王朝を興しました。更には、奥州藤原氏の強力な後援の元で海を渡って沿海州に入り、女真族や、後には蒙古族を統一して世界帝国を打ち立てた者たちもいました(後の清王朝も源氏の末裔であることを強く意識する王朝でした)。

足利幕府は源氏の将軍を中心とする政権でしたが、朱印状取得権の各守護大名への移譲をきっかけに、元々弱かった求心力を更に弱めてしまい、室町時代もその後半は、有名無実の存在に落ちていました。

源氏が本格的な政権を握ったのは、甲斐武田信玄の息子で当初は上野国(こうずけのくに)の世良田に拠点を与えられ、後には賀茂氏の支援の元で三河松平家の嫡男にすり替わって松平元信と名乗った世良田次郎三郎が、徳川家康と改名した後に打ち立てた江戸幕府です。江戸幕府には源氏の本流とも言うべき甲斐武田の家臣団が丸ごと抱え込まれ、幕府の中枢を担って行くことになります。

源氏は、蘇我氏を起源に持ちながら、統一新羅による日本占領を契機に新羅系秦氏も大規模に含み込んだ複合氏族です。こう捉えた場合、鎌倉以降の歴史として従来語られていることの内、江戸幕府が特に、大きく変わって見えてくるはずです。以前の記事の中でも例として上げましたが、宝永年間の大災害の際に被災民救済のために全国の大名から集められた災害義援金のほぼ全額と言ってもいいような規模の着服を幕閣が行い、災害復興を担当の下級役人ひとりに丸投げして平気な顔をしていたというエピソードが伝わっていますが、例えばこの悪行など、私には、いかにも新羅系秦氏らしいと感ぜられるのです。大政奉還の約30年前に、幕府の悪政を糾すために大阪の町で武力放棄し、直ちに鎮圧はされたものの人々の心に強烈な印象を残し、倒幕機運のきっかけとなった大阪町奉行与力、大塩「平」八郎が平氏だったことは、何とも意味深ではありませんか?

>源頼朝、足利尊氏、織田信長、徳川家康は源氏ですので。信長は「平氏が好き」だと言っていたみたいですが。まぁ武士の時代ですので争いごとは多かったかもしれません。

信長が源氏だという説は存じておりますが、私は、信憑性が極めて薄いと考えています。

>バール信仰については、ユダヤ教史観では悪であると語られがちですが、牛を崇拝せずとも牛や家畜を大切にすることはミトラ教やヒンドゥー教において見られることであって、悪と言えるかは疑問がある。無論、一神教であるユダヤ教ではユダヤ教の教義に反することや偶像崇拝は悪になりますが。

私が悪としてここで取り上げているのは、観念としての悪ではありません。歴史的現存在としての悪です。この悪の起源は、イスラエルとは異なる、その何段階もの背後に隠れて人類誕生以来ずっと人類の影の支配者として活動し続けている、ある特定の遊牧氏族の、文字通り形而上学的な意図です。この意図の存在そのものは、それでも、例えばヨブ記の、神がサタンに義人ヨブへの過酷な試練の適用を承認する場面にも、端的に窺い知ることができます。ユダヤ教史観のことを非常に偏った一氏族の特殊な史観なのだから、あまり重視しすぎるのはよくないとのご指摘と見ましたが、太古から一貫してひとつだった世界の隠された仕組みの存在に気づいた上でよく考えてみる時、ユダヤ教史観のことを、そのように軽いものと考えることなど決して許されないないことに気づかされるのです。しかも、日本の本質がユダヤやイスラエルであるという、恐らくは真実であろう事柄をも考慮に入れると、日本の歴史を分析する際に、上に述べたような形而上学的な意図と歴史的現存在としての悪を前提に置くのは当然であるとすら言うことができます。スサノオは間違いなく、バール神なのです。

地中海世界からインドへと渡る極めて広い地域に牛を崇拝する部族が分布していた。人類をその原初から最も奥で支配し続けているある特定の遊牧氏族が、神の意図を受けて人類に、歴史的現存在としての悪の氏族を設けようと決めた時に選んだのが、インドではなく地中海世界において神の民イスラエルの兄として生まれ、牛をバール神として崇拝する部族に同化した氏族だった。・・・実際は、こういうことだったのではないでしょうか?即ち、牛を崇拝したり大切にしていたら100パーセント、直ちに、この邪悪な氏族と断定していいなどと言っているのではなく、牛を崇拝したり大切にしている部族を見つけた場合、この邪悪な氏族である可能性を念頭において更に観察を続けなさい。他の幾つかの条件も備えていないかチェックしてみなさい。それらが全て満たされていたら、それはまず間違いなく、かの邪悪な氏族と言っていいでしょう。こう言っているだけなのです。因みに、歴史的現存在としての悪には、二股の尻尾を持った黒山羊の象徴で表現されるハム族の氏族、カナン人も知られています。

>皮肉にも六芒星を国旗に掲げるイスラエルが安定しているとは言いがたいですが。

確かにそうです。以前の記事にも書きましたが、六芒星をユダヤに単純に結びつけることはできません。現代イスラエル国の国旗についた六芒星は、現代イスラエル国が本当のユダヤ人の国家ではないことを表わしているのかもしれないのです。実際、そのように主張しているスファラディ系のユダヤ人は大勢存在しているようです。

>改宗ユダヤであるハザールは悪だといって間違いないです。が、その理論ですと、ロスチャイルド、ロックフェラーははるかに上を行きます。

その通りです。そして、そのロスチャイルドやロックフェラーですら、単なる末端でしかないことは最早、明々白々なのです。一番奥は、今後も絶対に姿を表わすことはないでしょう。「最奥」が姿を表す時は、入念に企画し、長い年月をかけて準備された新たな枠組みの奥に本物が密かに隠れてしまった時であるに違いありません。

引用以上。

百済は善で新羅は悪と言い切る理由を素描する

2013-03-24 03:35:07 | 日本論と宗教論
ten というペンネームの読者からコメントをいただきました。以下は、それに対する私の回答です。皆さんにもぜひ、読んでいただきたいと思います。


以下引用。

コメント、ありがとうございます。ご紹介の記事、読ませていただきました。

「藤原鎌足や藤原不比等は実は、列島とは縁もゆかりも無い百済の王族で、半島での王朝崩壊後に列島の王朝に客人として保護されながら、狡猾な陰謀を巡らせて段階的に日本の王朝を乗っ取り、その後の日本の不幸の元凶となった。桓武天皇の生母高野新笠が百済王族を始祖に持つ氏族出身であるのも、そのためなのだ。藤原氏は現在の官僚層も牛耳り、自らの利益のためには日本国民にとって不利益になるようなことも平気で行っている。日本の元凶が彼等なのだということを皆、ちゃんと認識しておくべきだ」

このような論が一部に普及しているのは、存じております。私も6年ほど前に、関裕二さんの著作を中心に、そのような主張をする人々の著作を読み漁ることからこの世界に入ってきました。ですから、ご紹介の記事を読んだ時に抱いた感想は、「一つひとつの事実把握は、一部には間違いがあるけれど、ほぼ間違えてはいない。しかし、実はそこから何段階も先の話があり、それを踏まえて考えると、これらの事実がまた、全く異なる風景の中に浮かび上がってくるのだ。これはぜひ、アドバイスして差し上げなければならない」というものでした。以下に、概略にはなりますが、その論説を試みてみたいと思います。

まず、日本では「新羅」のことを「新羅城」の意味で「しらぎ」と発音するのが最も一般的です。茨木や栃木、水城、宮城、岩木などといったお馴染みの地名と同じタイプの地名として理解できる読み方となっています。しかし「しんら」や「しら」「しろ」「さろ」という発音もちゃんと、普及しています。コンピュータの日本語ワードでも「しんら」と打った場合に、ちゃんと「新羅」と出てくる程です。これは日韓共通の発音なのです。「しんら」や「しら」「しろ」「さろ」という発音が最初に、列島と半島に共通に分布していて、後に中原向けに漢字を用いて表記する際、「姶良」とか「斯盧」とか「新羅」という当て字が行われたもののようです。

註:鹿児島の姶良(あいら)は、今は「あいら」と呼ばれていますが、古くは「しら」で、新羅のルーツのひとつがここにあったのだと言われています。

註:教養ある上級貴族が行っていた正式の外交において、新羅は「鶏林」と表記され、「けいりん」あるいは「ケイリム」と発音されていました。これは統一新羅以降においても同じでした。因みに、鶏が林の木の枝にとまって高らかに鳴く姿は、伊勢神宮や石上神宮で目にしたことがあります。

それに対して「百済」は、漢語や韓語では「ひゃくさい」や「ぺくちぇ」であって、絶対に「くだら」とは発音しません。「百済」を「くだら」と発音しているのは日本語だけです。また、最も古い韓語では「百済」と我々が称している国のことを「ありま」と呼び、そこを貫く川の名は「ありす」でした。

註:「ありま」は、日本の有馬と大いに関係があります。「ま」とは「場所」のことで「間」にも繋がる語です。「ありす」もまた、日本の有栖川と関係があります。「す」とは「水」で、川のことを表わします。「あり」のことを「禊」の意味と解説する文献を読んだことがあります。

「百済」を巡る以上のような混乱は、実は、次のような経緯で生じたものと考えられます。

半島南部と列島には最初、海の民である倭人が広く分布していた。この倭人の中に、中東やインド、東南アジアをはじめとする世界中のあちこちに築いた拠点のことを共通して「マガン」とか「バカン」などと名付ける、かつては中原にも拠点を持っていた(この時も「韓」と表記されていた)有力部族がいて、当時の中原王朝に対してこの地域の代表として振る舞ったために、半島南部から九州北部や長門(穴戸)、周防に及ぶ広い地域を、後には半島南部だけを、中原の文献上は「馬韓(バカン)」あるいは音声縮合して「韓(カン)」と表記するようになった。

註:東南アジアや河南から大陸に上陸して北上し、一旦中原に定着した後で再び、満州や沿海州、半島に移動した倭人を北倭、大陸に上陸せずに半島や琉球、列島に直接入った倭人を南倭と呼んでいるようです(例えば『契丹北倭記』という書物が存在する)。北倭には、中東を出て北に向かい、中央アジアで一旦ツングース系の遊牧民に合流した後で、シルクロードやステップロードを通って東洋世界にまでやってきて、北倭のことを遠い昔に分かれた同族と認知した上で北倭に合流した倭人も含まれます。

註:中原王朝は楽浪郡や帯方郡を半島西北部に置いて、この馬韓地域に大きな影響を与えていました。

この「馬韓」に北方の沿海州から日本海や列島の山陰、北陸経由で、「しろ」と称される部族をはじめとするツングース系の諸部族が侵入してくるようになった。その結果、馬韓の秩序がやや不安定になってきた。そのため、馬韓の代表者が、馬韓との軋轢の中でその時既に緩やかに連合するようにすらなっていたツングース系諸部族の代表者との協議を行い、彼らの新しい代表者として馬韓人を立てることを条件に、馬韓の東の地を分割して彼らに与えた。その土地が新しく、当時の中原王朝によって文献上は「辰韓」あるいは「秦韓」、その代表者が「辰王」と表記されるようになった。

註:「ろ」や「ら」「な」は恐らくは「国」の意味でしたから、「しろ」とは「し」或いは「しん」の国という意味だったはずです。秦韓という命名は偶然ではない可能性が高いと思います。山陰は、斉の徐福の一族である物部氏の一派が北九州に並んで入植し、ツングース系の部族に合流した土地でした。

註:どうやら、西方の遊牧部族がステップロードを通って東アジアにも盛んに往来する状況が太古から常に存在していたようです。この辰韓には、遠いローマの文化的影響すら色濃く見られます。ある文献では「馬韓の諸部族とは風俗や言語が異なっていた」と記述されています。

辰韓分割後の馬韓には、伽耶(かや)や大伽耶(てがや)をはじめとする後の弁韓諸国や、安羅(あら)、多羅(たら)、旧多羅(くたら)、月支(がっし)などの諸国が多数分布していた。帯方郡由来の漢人の拠点も幾つかあった。この内、弁韓諸国を除く馬韓諸国が、旧多羅を中心にまとまり始め、旧多羅の部族長を自分達の王として戴くようになる。旧多羅の部族長は、九州国東半島の東表(豊)、中原の殷、あるいは半島北西部の朝鮮(箕子朝鮮)、満州北東部の扶余と変遷し、扶余滅亡後は九州の肥後へ、更にはそこから、恐らくは日向の安羅国と共に、列島の倭人勢力の後援の元で馬韓へと移入して、そこで勢力を盛り上げていたのだった。そんな統一馬韓=旧多羅には、北方の高句麗から分かれて南下してきた十済(じゅっさい)あるいは後には百済(ひゃくさい/ペクチェ)と称される有力な氏族も合流してきた。当時の中原王朝向けにはこちらの方が何かと都合が良かったせいか、旧多羅の部族長だった扶余を王として戴く「くだら」だったにも拘らず、中原王朝の文献上は「百済」と表記され、「ひゃくさい」あるいは「ぺくちぇ」と発音されるようになった。

註:安羅国の「あら」は「馬韓」地域の別の古い呼び名である「ありま」の「あり」と同じものかもしれません。九州の西都原古墳群のある地域に栄えた安羅国が半島に進出して創った国と考えられます。

註:月支国は、西方ではカッシートと呼ばれている部族のようです。カッシートは最も古くはメソポタミアで活動していたことが文献で確認されている部族です。このカッシートが東方世界に移動した時に、月支とか月氏と表記された訳です。この月氏は中央アジアで、大月氏と小月氏の2部族に別れます。秦が中原を統一しようとしていた時にその西方に国境を接していた国も月氏国でした。この月氏国は後に、匈奴の勢力に押されて再び西へと移動し、インド北西部にクシャーナ帝国やキダーラ国を興したと言われています。

註:多羅は多婆羅と同じ国で、九州肥後には田原(たばる)という地名が今だに残っています。『新羅本紀』で「倭国の東北1千里にある」脱解王の出身地として出てくる多婆那=丹波と、この肥後の多婆羅との繋がりも視野に入れておく必要があります。肥後の多婆羅の近くには阿蘇山があり、丹波の天橋立によって形成されている内海も阿蘇海という名前になっています。この「阿蘇」にはどんな意味があるのでしょうか?また、小林恵子さんによると、その昔、中央アジアに「多婆那」と称する国があったそうです。

・・・「百済」を巡る上述のような混乱は、以上のような経緯で生じたものだったのです。

ここまで百済や新羅の形成過程の概略を記述してきましたが、これを見ても分かる通り、大まかにいうと百済は、列島の裏側(太平洋側)の勢力の延長によって、新羅は列島の表側(日本海側)の勢力の延長によって、それぞれ形成されたものでした。つまり、半島から列島にかけて分布していた倭人あるいは東夷の人々の意識では、百済も新羅も、飽くまでも倭の一部だった訳です。中華思想を持った中原王朝の視点から見れば、高句麗の南に百済と新羅が位置し、その更に南東には倭が位置している。それぞれに高句麗王や百済王、新羅王、倭王がいて、中華秩序の元でその歴史を刻んでいるということになったことでしょうが、それとは別の裏側の次元では、百済や新羅は、更には高句麗も、列島に広がる裏表二つの大きな勢力の延長であり、所謂「国譲り」という形で列島が裏側の勢力によって統一され、大倭国(大邪馬臺国)となった後には、新羅と大倭が高句麗王や百済王の庶子を新羅王元子や倭王元子として迎え入れたり、高句麗王や百済王が王位を嫡子や元子に譲った後で倭王や新羅王になったりするという大きな枠組みを、時々色んな理由で幾分かは乱れることもあったけれど、基本的には一貫して備えるようになっていたのでした。つまり、高句麗も百済も、それに新羅も、支配層レベルでは最初から、倭と同族同士だった訳です。物部氏や大伴氏、蘇我氏など学校の歴史でお馴染みの列島の豪族たちが新羅や百済、高句麗の有力貴族として活躍していたことが文献上で明確に確認できるのですが、倭と百済や新羅、高句麗は、まさにそれ程に一体だったという訳なのです。

註:従って、百済の王子達が倭国に滞在していたことが文献上確認できるからと言って、それを「人質」と言うことはできないわけです。正確には「客人として」と理解しなければならないのです。

ただし、その中でも新羅にだけは、列島の表側のツングース系の部族勢力に紛れ込んでいたエソウ族=新羅系秦氏が、本流によって、

(1)バール信仰(所謂「悪魔崇拝」や「牛崇拝」)

(2)西洋ではマキャベリズムとして知られる反道徳的な他氏族家畜化術の継承(西洋では『タルムード』、東洋では『六韜三略(りくとうさんりゃく)』が有名)

(3)同じヘブルでもイスラエルではなく、神に呪われた氏族であるという、自他ともに認知している出自の邪悪さ

などの理由から、警戒、排斥され(ここで滅ぼし尽くしてしまわない道徳性が本流にはあった)、列島内の「出雲」と同様、閉じ込めて置かれました。まさにこのせいで新羅は、他の三国から異端視されるようにもなっていたのでした。

それにも拘らず7~8世紀には、詳細は省きますが、白村江の戦いや壬申の乱から、天武天皇(高句麗莫利支淵蓋蘇文)やその息子文武天皇(新羅文武王)の唐鮮卑による誅伐と続いた後は、倭国は暫くの間、唐鮮卑と統一新羅によって完全にコントロールされる立場に落ちていました。そもそも「日本」という国号や「奈良」という地名自体がこの時付けられたもので、「奈良」などは完全に、「国」を表す韓語なのです。百済王の末裔である和(やまと)氏や百済王(くだらのこにしき)氏は、唐鮮卑と統一新羅が互いに対立し始めた奈良時代中盤から次第に、その状況を覆して、皇位継承権を実力で確保するようになっていきました。あの「悪名高き好色漢」道鏡も実は、百済王氏の出でした。平城京も、できてからたった70年しか経たない、まだできたてと言ってもいいような新しい立派な都であったにも拘らず、その皇位継承権奪取の流れの中で放棄して、長岡京に遷都したのでした。

註:平安京への再度の遷都の際には、それでもやはり、藤原氏と婚姻関係を結んだ山城の新羅系秦氏の関与を許してしまってはいます。

註:そもそも、百済王の末裔が「和氏」と名付けられていることや、この「和」が「やまと」と発音されていること自体、諸勢力合同による大倭の成立が、神の民=やまと=ヤウマトゥ(アラム語)の列島でのイスラエル的合同だったこと。それを主導した勢力の中枢に百済もちゃんと入っていたこと。これらのことをよく表わしていて、非常に興味深いと思います。また、秦氏と言えば一般的には新羅系秦氏のことを想起する向きが多いようですが、列島に応神天皇=百済近尚古王と共にイエス=メシア教を持ち込み、それまでの邪馬臺国をより大きな大邪馬臺国へと再統合した百済系の秦氏こそが本流の秦氏なのであって、新羅系秦氏は、この百済系の秦氏に紛れ込み、寄生して存在していたに過ぎません。

藤原鎌足は実は、百済王族の扶余豊璋ではなく、百済大佐平の智積(ちしゃく)に新羅の将軍金庾信(キムユシン)と唐の政治家郭務悰(カクムソウ)の事績を合成して出現させられた文献上の人物だったということが、小林恵子さんの精緻な研究によって既に明らかになっています。しかし、何れにしても百済人であったことには違いがありません。また、光仁天皇や桓武天皇から始まる何人かの天皇も百済王朝の流れに属する人物でした。しかしながら、この人たちによる主導権の奪取は、外国の王朝による日本国の「乗っ取り」などとは、実は、決して言うことができないのです。そうではなく、むしろ、唐と新羅の外国勢力に乗っ取られた皇統を、彼らが倭国の代表として「奪還」してくれたと言って然るべきものだったのです。

註:百済近尚古王は後半生に列島に到来して後世「応神天皇」と称される倭王となり、高句麗広開土王(好太王/スキタイ王)も同じような経緯で列島に到来して後世「仁徳天皇」と称される倭王となりました。西突厥の可汗であったタルドゥ=多利思比孤は、高句麗王や百済王になった後で、それぞれに自分の息子や親しい配下を後継者として残しながら列島にも入り、列島では後世「聖徳太子」と称される倭王となりました。以上のような例は、枚挙に暇がありません。

註:関裕二氏をはじめとする多くの論者による鎌足=扶余豊璋説には、詳細に検討された方になら直ぐに分かると思いますが、小林恵子さんの精緻な論証とは違って、何の学問的な根拠も見えません。

註:新羅は、統一新羅となり、日本を謂はば「占領」したことで初めて、日本にとっての外国としての存在意義を帯びるようになったと言えます。

平安時代の藤原氏のことを百済系と明確に言い切ることはできません。「藤原氏」はかなり複雑な要素をもった氏族なのです。藤原不比等すら私は、鎌足の子供ではなかっただろうと疑い始めているくらいです。ただ、藤原道長の背後には「白(しろ)」狐を母に持つとの伝承があるばかりか山城賀茂氏の後援を受けて陰陽道の土御門家を興したともされる安倍晴明が、そのアドバイザーとして付いていたことからも分かるように、新羅系秦氏の存在が明確に感じられはします。

註:五芒星は新羅系で悪魔崇拝、六芒星は百済系で反悪魔崇拝という図式も、ここではその内容を詳述しませんが、私は実は最近、確認しつつあります。

平安末期の保元・平治の乱は実は、百済系が新羅系から皇統を再び奪還して行く過程として読み解くことができます。また、鎌倉初期の北条氏による源氏三代の暗殺と源氏系有力豪族の排斥もそうです。平氏は百済系の武士集団であり、北条氏は実は、平将門にも繋がる平氏の嫡流でした。それに対して源氏は、新羅系です。

その後の、南朝の北朝への対抗や、細川や大内による朱印状取得権の足利将軍家からの奪取。織田信長による足利将軍家や京都寺社公家勢力への圧迫。薩長による孝明天皇暗殺と明治天皇すり替え。これらも全て、百済系が新羅系から主導権を奪還して行く過程として読み解くべきです。日本の歴史は常に、このような構図で読み解くことができるのです。

註:新羅系秦氏の特徴は、主流が内部分裂に陥るよう画策した上で、分裂した両派にエージェントを送り込み、戦いへと誘導して、その結果がどちらに転んでも自分達にだけは利益が生じるようにコントロールする。しかも、そのどさくさに紛れて勝ち残った主流派の中に深く入り込む。機会が許せば、その主流派の首領を自らの縁故の傀儡に密かにすり替え、主流派の本来の実力者達は、陰謀を駆使してゆっくりと着実に没落させる。自分達に戦いを挑み敗れた相手のことは、徹底的に略奪した上で情け容赦なく皆殺しするか、奴隷として売り飛ばす。このような乗っ取りと陰謀、殲滅の手法を用いる点にあります。対して、百済系秦氏の特徴は、歴史上の事件を幾つか詳しく検討してみたら誰もが分かるように、正攻法で囲い込んでは無力化し、恭順を表明すれば敢えて滅ぼすこともせず、辺境などに一区画を設けて移設幽閉し、大いに警戒しつつも生き長らえさせるといった形の手法を採るようです。

近代日本は、日韓併合をきっかけに新羅系に乗っ取られ、彼らと彼らの欧米における遠い親族である悪魔崇拝の金融偽ユダヤハザール人との連携によって牛耳られてしまっていて、多くの悲惨な目に次から次へと遭わされてきました。現在はその状況をあらゆる分野で、百済系と言っても過言ではないある組織が、恐らくは中国や東南アジアの漢人秘密結社の後援を受けながら、次々とひっくり返していく革命の初期過程にあるのだと、私は見ています。

註:ハザールも元は、バイカル湖周辺に淵源を持つ北方遊牧狩猟部族で、ツングース系です。

はぐれメタルファラオさんのブログの内容と、主語を全て百済系から新羅系に置き換えさえすれば、全く同じような内容になる、ten さんが今回ご紹介くださったようなブログと同じようなブログが他にも幾つか存在しているのは、実は私もよく存じています。しかし、それらのどれも、今私が上に概説したような構図を全く認知できないまま、極めて狭い視野の中でその論を展開しているにすぎないのです。「百済も新羅も所詮は同じような外国勢力だから」などという頭ごなしの平準化も、この構図を踏まえて考察する限り実は、決して許されないことになるのです。悪の把握が人類一般に普遍的に見られる悪の観念的な把握に留まってしまっていて、邪悪な氏族の歴史的現存在という極めて重要な事実認識を欠いているために、歴史上に現象として次々と現れる大規模な悪徳の隠された理由を十分に説明できていない点については、最早、致命的と言ってもいいのかもしれません。何れも、私がまだ所謂「初学者」で、視野が十分に広くなかった時代に考えていたことと全く同じ内容になっていることもあって、今は明確に、間違いだと断言することができます。

ところで、悪と言えば、それは飽くまでも、人類一般に備わる本質のひとつでしかないはずだ。そんなものをある特定の氏族に実体化して語るのは、幼稚であるばかりか差別的でもあるのではないか。邪悪な氏族の歴史的な現存在なんて受け入れられない。このように感じられる人がいるかもしれません。

確かにその通りなのですが、人類がこの世に現在のような姿で現れた時から、他部族による差別的な認識としてだけではなく、自意識としても、神から呪われた邪悪な氏族として存続している部族が現に存在しているとしたら、そのような自覚の元で活動し続け、子孫を教育し続けている部族が現に存在しているとしたら、それは最早、悪の実体化と呼んで然るべきものとなるはずです。そして聖書には、そのような部族のことが幾つか、はっきりと記録されているのです。その邪悪な氏族がイスラエルやユダヤの中に、更にはツングース系の遊牧民の中に、邪悪な氏族としてのアイデンティティを全く崩すことなく、密かに紛れ込んで、彼らと共にこの列島までやってきた。この列島だけではなく、世界中のあらゆる所にも、特に欧米社会にも、広がって行った。彼らは今でも全く、衰えたり、薄くなったりすることなく、文字通り悪魔的な知能を働かしては、普通の人には見えない暗がりで世界中の同族と協力し合いながら暗躍し、この世の不幸の元凶となり続けている。こう認識しない限り、本当の歴史認識には決して到達できない。これが私の基本的理解となっているわけです。

ただし、出自が邪悪な氏族であっても個人としては、何らかの理由で、その邪悪さに侵されていない人もいると思います。今述べたような歴史的事実の把握は、飽くまでもより正確な歴史認識のための道具に過ぎない訳です。これが個人の生活の中で新たな差別の道具として用いられることがないように注意する必要はあります。

とは言え、氏族としての邪悪さを何のためらいもなく、個人としても大いに継承している人間に対しては、この便利な道具をもって対抗することに、何のためらいも要らないでしょう。更には、邪悪な氏族の出でもないのに、邪悪な氏族出身の人間達との関わりの中で理由も分からず苦しめられて潜在的な恐怖を抱かされ、自分でも知らない内に彼等の邪悪さに感化されてしまったせいか、自らが体験した数々の理不尽な苦しみを言い訳にしては自らの良心に敢えて逆らい続け、隣人を蔑み、意識的に陥れるような邪悪な人間になってしまった人達に対しても、同様の接し方をためらうべきではない。私はそう思います。

引用以上。

『論語』現代語訳 学而第一 01

2013-03-22 19:05:04 | 『論語』現代語訳
子曰「學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。

子日く、「学びて時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋の遠方より来たる有る、亦た楽しからずや。人知らずして慍らず、亦た君子ならずや」と。

ある時、孔先生が仰いました。「読書であれ、対話であれ、師と呼べる方と霊的に交流して大いに影響を受けては、自らの生活の中で、自分の血と肉にまでその影響が染み込んでくるよう、継続的に努力していく。これは本当に、やり甲斐のある生活だと思う。それから、自分と同じような学究生活を日々重ねておられる方が遠方からわざわざ自分の許を訪ねて来られた時に、その方を自宅でもてなしながら互いに語り合っては、日々重ねてきた学究生活の成果を互いに確かめ合う。これもまた本当に楽しい。学究生活を送る者は、往々にして世間に、自分のことを見出だして重用して欲しいと切に願うものだし、そうならない時には、僻んでしまうものだ。でもやはり、それは何か違うような気がするのだ。上に述べたようなやり甲斐や楽しみさえあれば、それだけで十分、満ち足りるものなのだから。恐らくは、これこそが、君子というものなのではないだろうか?」と。

精神的で静かだが大規模で容赦のない抜本的革命

2013-03-21 13:43:13 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさんのコメントへの回答を再び、記事として上げておきます。皆さんもぜひ、お読みください。


以下引用。

どの「日本人」が所謂「新羅系秦氏」なのかは、その行いを見れば分かるでしょう。その人とその人の身内以外の誰も利益を受けず、その人とその人の身内以外は皆不利益を受ける。公の観念が感じられず、強い者には媚び諂い、弱い者にはどこまでも高慢。誇張や虚偽が矢鱈と多い。そんな行いになっているはずです。

その行いを見ていさえすれば、一人ひとりが周囲の誰かに関して「これがひょっとしてあの新羅系秦氏かな?この人には愛や仁とは対極の特殊な性格の匂いがする。私が受けているこの嫌悪感は人生そのものの嫌悪感というよりは、特殊な種族の存在による特殊な嫌悪感なのだ。確かに、何とも迷惑なことではあるが、これで自分の人生そのものが駄目になるという訳ではないのだ」と悟り切ることができるはずです。そうすれば、それだけで、たとえその人から酷い扱いを受けたとしても、必要以上に苦しまなくて済むことでしょう。被害を予想して予防したり、予め補填しておくことすらできるでしょう。これが「知は力なり」ということなのです。

政治家や芸能人で言動が酷く能力もないのに、組織から優遇されているような人を見つけたら、一人ひとりがそれぞれの場所で、自分の人生から密かに、その人達とその人達を重用している組織をシャットアウトしてしまえばいいでしょう。

以上のようにしておいた上で、私たち自身は、所謂「新羅系秦氏」ではない良識的な人達との、賑やかで穏やかな繋がりの輪を、まずは自分の周囲から広げていけばいいのです。

「兄弟は他人の始まり」とか「自業自得」とか「自己責任原則」とか「この世は地獄の沙汰も金次第」とかいった言葉を、その理由の明確な概念把握もないまま、ただ比較的よく耳にする言葉だからという、理由にならない理由で受け入れてしまっていて、周囲との愛や仁による、馴れ合いや利益誘導によるものとは全く異なった人間本来の繋がりを、自ら拒絶してしまった人波。人間本来の繋がりの欠けた、個性を殺した生活を、当然のものと思い込んだ人波。そのことによって自らを文明の名の下、知らないうちに自己家畜化してしまって久しい人波。苦しくても、面白くなくても、我慢して責任感を持って従事するのが仕事というもので、仕事に情熱や喜び、夢なんて必要ない。仕事仲間は飽くまでも仕事仲間に過ぎず、友人などではない。ましてや、ファミリーなどでもない。こんなふうに勘違いしてしまっている人波。

まさにこの人波に、困っている人を、たとえ血の繋がりがなくても、ましてや血の繋がりがあったらなおのこと、みんなでそれぞれの場所で親身にいたわり合う、そんな慈愛の大切さを再び、常識として取り戻してあげるのです。そうすれば、精神的で静かな、しかしながら大規模で容赦のない抜本的な革命になるはずです。

註:因みに私は、私の予備校の運営をまさにその意図の元で、ささやかながら行っているつもりでいます。

このように考えると、この世の中には「新羅系秦氏」というものが、いかにも「常識」外れに聞こえるかもしれないけれども、実際に存在する。この人たちのルーツはどこそこだ。・・・このように広く発信することの意味は、限りなく大きいと言わざるを得なくなる訳です。この者達の存在することを知っていなかったら、そして、中途半端な知性を中途半端なものと自覚しないまま「そんな非科学的でおとぎ話みたいなこと」などと言って思考停止していたら、この世は、理由もなく苦しまなければならない、どこまでも不合理な世界としか認知できずにいたはずです。知っていれば、苦しくても十分に耐えることができる上に、場合によっては解決の途も、開くことが可能になる。私は彼らが存在することを、はぐれメタルファラオさんから伝えられました。感謝です。

註:ただし、そんなこと全く何も知らないごく普通の人なのに、身に降り注ぐ苦しみに驚異的な忍耐力を示して、全く絶望することなく、自らの務めに黙々と打ち込み続ける、そんな極めて強い精神力を持つ人が何故か、常に大勢存在してきたこの日本という国の、そういった奥ゆかしい意味での真の偉大さについては、それをいくら強調してもし過ぎることはないと言っておかなければなりません。

引用以上。

アジアはひとつ!

2013-03-20 12:00:38 | 日本論と宗教論
はぐれメタルファラオさんのコメントへの回答を記事として上げておきます。


以下引用。

コメント、ありがとうございます。はぐれメタルファラオさんの記事に触発されて書き始める記事が、私の場合は多くなっています。いつもお世話になっております。

>家紋をみて見ないと分かりませんが、本多ということは多氏ですね。

現在「島根」と呼ばれ「出雲」とも呼ばれている地域は、スキタイサカ族との関連が指摘されている四隅突出型墳丘墓が吉備に次いで多く分布している地域ですが、この地域は比較的浅い時代には杵築(きつき)、かなり古い時代には「意宇(おう)」と呼ばれていたらしく、「出雲」という呼称はこの地域本来のものではない可能性が高いのだそうです。この「おう」は「おお」と通じますから、多氏あるいは大氏、太氏は、西日本の縄文晩期に、従って最近の研究における弥生時代の草創期に、沿海州から日本海経由で山陰に移入して一旦定着した後で、半島に反転して高句麗や新羅を創ったツングース系氏族のひとつだった可能性があります。

註:島「根」とは恐らく、国譲りの際にスサノオが閉じ込められたとされる根の国のことです。

註:四隅突出型墳丘墓は他には、北陸にも分布が認められています。

天武天皇=淵蓋蘇文が高句麗から列島に移って列島に覇権を広げた7~8世紀には、この「おお」氏は天武派として文献に現れたり、高句麗滅亡後に満州でツングース系諸族を束ねて渤海を建国したりしていますから、高句麗との関連は確実です。

註:文献に天武派として現れる「おお」氏とは例えば、『古事記』編さんに関わった太安万侶や、金や銅の採掘と関係が深く、東大寺の大仏建立にも大いに貢献した甲斐の国造金刺氏などです。壬申の乱の際には天武方の将軍として活躍したこともまた記述されています。

註:渤海を建国し王となったのは、元高句麗将軍の大祚榮でした。「大祚榮」は韓国語ではテジョヨンと発音しているようですが、これもまず間違いなく大氏の分派と考えられます。渤海と言えば、平安時代に日本国の天皇家との同族性を仄めかす国書を送ってきたことで有名です。

それに対して「ほんだ」は「誉田」や「本多」「本田」で、誉田別尊=応神天皇由来でしょう。

註:大津いじめ偽装殺人事件の犯人は在日や新羅系秦氏でしたが、被害者は、何とも象徴的なことに、本田でした。この事件はいろんな意味で現代日本の本質を象徴していました。

問題は、本多勝一の「本多」が恐らくは、上のどちらとも全く関係ないということです。この人の場合、戦前なのか戦後なのか不明ですが、日本に帰化した元朝鮮人との情報があります。そもそも朝日新聞政治部が、戦後は在日朝鮮人の巣窟になっているのだそうです。「創氏改名」の際、朝鮮名との関連を残した日本名(金→木村、朴→木下など)がある一方で、元の朝鮮名とは全く関係のない、日本古来の名家の呼称を姓として詐称した者も実は、かなり多かったようです。「創氏改名」が強制でなかったことが、国会をはじめとする多くの場所で盛んに取り上げられているし、恐らくはその通りなのですが、「創氏改名」にはそれだけではなく、人類一般にとってのトラブルの種を自らの血や肉としていることをその最も大きな特徴としている李氏朝鮮支配階級の日本社会中枢への潜入のきっかけとして機能したという、もっと重要な側面があったのです。

>共産国という時点で、中国はユダヤロビーと同族といえるでしょうね。

「偽ユダヤロビーと同族」ということでしょう。仰る通り、あまりにも明らかな理屈です。現在の「中国」は間違いなく、本来のいかなる意味での中国でもないはずです。反日を煽り、チベットを弾圧しているのを捉えて、それを大いに批判するのは当然ですが、それらの批判のどれを見回わしても、日本人の間に中国と中国人に対する嫌悪感を煽ろうとするものしかなくて、現在の「中国」の奥に潜む中国的ではない何者かの存在を、意図的かどうかは知りませんが、取り上げようとは全くしていないようです。恐らくは、「反日の機運やチベット弾圧にこちらも何らかの対抗措置を取ろう」というポーズを取りながら、本当はただ日本人の間に、反中国の機運を広げたいだけなのだと思います。反韓国キャンペーンも同じことです。こんな誘導に決して引っかかってはいけません。例えば、日本の不動産を「買い漁っている」中国人は実は本当の中国人で、そのことで日本と日本国民に何の害も与えないどころか、かえって益となろうとしている可能性があるとも考えられますから、誘導に簡単に乗って短絡的に嫌悪の対象としてしまうなどということは絶対に避けなければならないでしょう。少なくとも、その前によく考え、十分に検討してみるべきでしょう。

韓国や中国をはじめとするアジアの人々とは、日本人は、本来は自然に仲良くできるはずです。そうされては困る人達が邪魔しているだけなのです。このまやかしからはそろそろ、脱却する時です。そして何とも驚いたことに、アジアの人々は、実際、本能的にそれを大規模に行いつつあるようにも感じられます。アジアに連帯感をもたらす重要な役割が日本にあるとの認識が、最近急速にアジア諸国に広がっていることが感じられるのです。例えば、所謂 Perfumeブーム は、日本がアジアに出て行くことでアジアが一体となり、その本来の美しさや強さを発揮するようになるとアジア中の多くの人々が感じていることを、強烈に実感させてくれる現象のひとつだと思います。

>チベットをあそこまで攻撃するのは、ここには日本と同じ秘密があると思います。

チベットと日本は、我々凡人の想像が及ばない深いところでひとつなのだと思います。

引用以上。

「中国」を巡る多くの疑問

2013-03-18 10:12:04 | 政治
「華夏」がかつて、これほど力を持ったことは一度もありません。ほとんど常に、北方騎馬民族に支配されるか、圧迫されて南方に小さく固まっているか、どちらかでしかなかったのです。終戦時には、共産党軍も国民党軍も嫌われ者の弱い軍隊で、中国を統一する力も資格もなかったはずです(当時「中原に鹿を追う」資格があった唯一の勢力は、実は、ここではその詳細は伏せておきますが、ありとあらゆる意味で日本だったのです)。「中国」にも、ソ連やアメリカと同じく、欧米金融偽ユダヤの手が入ったのではないでしょうか?

南京大虐殺は捏造だと盛んに騒がれているし、まず間違いなくその通りなのですが、それを捏造したと言われる日本の朝日新聞政治部(本多勝一をはじめとする)と「中国」共産党の背後には、極めて明確に、アメリカの影が見えます。なのに、何故誰も、何も言わないのでしょう?

殷も周も、秦も漢も、越も斉も魯も、魏も呉も蜀漢も、唐や宋や明も、歴代の王朝が全て半島や列島に流れて来た時とは違って、本当の「夏華」は、清王朝や漢人結社が東南アジアや日本に密かに拠点を移してしまった時には、中原からは跡形もなく消えてしまったのではないでしょうか?現代「中国」なんて本質的に、中国なのでしょうか?

隋も唐も、元も、清も、北方遊牧騎馬民族由来の王朝だったからこそ、チベットやモンゴル、中央アジア諸族、満州と共同体を形成し、広大な「領土」を維持できた。これは、圧政や収奪など全くなかったからこそできたこと。従って、チベットやモンゴル、中央アジア諸族、満州に圧政を加えているにも拘らず清の時のように広大な「領土」を維持できている、そんな現代「中国」は、本当は中国ではない。近代的世界秩序の中で、何者かによって偽装されたものでしかない。こういうことなのではないでしょうか?

客家(ハッカ)とは何者でしょうか?青幇(チンパン)や紅幇(カオパン)の正体は?上のように考えたら、これらの疑問にも、朧げながら答えが透けて見えてくるのではないでしょうか?

チベットを弾圧している主体は、正確には何者なのでしょうか?それを見定めないことには、いくら騒いでも無駄でしょう。

「中国」が日本全国の不動産をあれこれと買い漁っているようですが、その場合の「中国」って、どこのどの「中国」なのでしょうか?その「中国」に、それで何ができるというのでしょう?何が目的でしょうか?日本と日本国民に、具体的にどんな不利益がありますか?

古来「中国」との結びつきで列島内での勢力を維持してきた、かつては例えば、関東巨大古墳群や海人諸族、平将門、平家、北条氏、南朝、細川氏として歴史上に姿を表していた、列島内の例のあの派閥は今、一体何処で、何をしているのでしょうか?

「中国」軍は「日本軍」と戦争しても、勝てないのではないでしょうか?

アメリカ建国そのものに「中国」の何れかの勢力がかなり深く関与していたというのは本当でしょうか?アメリカ、即ちフリーメーソンの中枢に、18世紀の段階でもう既に「中国」が深く関与していたというのは、何とも信憑性が高い話ではないですか?そう言えばザビエルは、日本滞在後、中国に渡って当地で亡くなったのではなかったですか?

「中国」は近い将来に幾つかの国家に分断されるというのは、本当でしょうか?現代「中国」は、恐らくは、チベットとモンゴル、満州、中央アジア諸族、朝鮮、日本、台湾、江南、それに漢の、連帯を伴った一斉蜂起によって一瞬で崩壊する。そんな時が近く、やってくるのではないのか?その時中国から大慌てでチョロチョロと逃げ出してくる連中の姿と正体と次の行き先には、大いに注目しておかなければならないでしょう。

チベットの窮状をあのモンゴルは何故、今このように放置しているのでしょうか?また、チベット亡命政府の存在の意味は何なのでしょう?チベットがかつて、ユーラシア世界で果たしていた役割とは、カトリックのヨーロッパにおけるそれとよく対比して語られますが、具体的にはどんなものだったのでしょうか?日本に誰が何故、密教や禅を取り入れたのでしょうか?

・・・調べなければならないことだらけです。

日本社会の癌の正体

2013-03-16 13:35:46 | 日本論と宗教論
日本の支配層に旧来の新羅系秦氏と結託しつつ紛れ込み、欧米金融偽ユダヤの強い影響下で日本社会を牛耳っているのが新来の新羅系秦氏です。

明治新政府は1910年に、やや躊躇いがちながらも、韓国と韓国人民の救済ために、韓国の「中人(チュンイン)」達の積極的な要請も受けつつ、韓国を併合して日本国の一部としました。その際、この列島に移り住んで日本の皇室や官僚層に紛れ込んだのが、新来の新羅系秦氏のルーツであると考えられます。

註:吉田松陰や伊藤博文など長州の志士は、自分達が元々、百済聖明王の王子に率いられて飛鳥時代に長門の萩に移住してきた百済系氏族の子孫であることを強く自覚しつつ、新羅系秦氏の危険性も熟知していたようです。そのためか、日韓併合のことを危惧し、最後まで反対していたと言われています。それが「躊躇いがちに」の意味です。

註:薩摩の志士の中心には、韓国の最下層被差別民である白丁(ペクチョン)との同族性を強く自覚する西郷のような人達がいました。この自覚の元で彼らは「韓国と韓国人民のために」韓国にも日本と同じような近代化をもたらそうとしたと言われていまlす。

註:「中人(チュンイン)」とは、韓国で、貴族でありながら庶子として差別の対象となっていた人達のことです。日本の明治維新が各藩の下級武士を中心に成し遂げられたことに大いに共鳴して、明治新政府に親近感を抱いていたと言われています。

日韓併合は、日本の明治新政府にとっては、日本と韓や高麗、満州が支配階級においては太古から一体であったとの認識があったが故の決断だったようです。しかしながら、黒龍の女真族を出自とする李氏朝鮮の王族や、李氏朝鮮建国以前には韓国内でも嫌悪の対象となっていた新羅系貴族を母体とする李氏朝鮮の両班(リャンバン)達が、中原の明や清への屈辱的な隷属関係を背景に500年もの間、韓国人民を、略奪や虐待としか表現できないような酷い遣り方で「統治」してきたこと。従って、彼らとの合同には、日本にとってある程度の危険が伴うこと。これらのことも、一部の人達には分かっていたようなのです。それにも拘らず、この危険性には、ある方向からの何らかの圧力によって曖昧な形で蓋がされた。

韓国併合に最後まで強い懸念を表明していたと言われる伊藤博文の、安重根(アンジュングン)による暗殺の黒幕の正体も、以上のように整理する中で朧げながら見えてくるようです。この黒幕が現代日本社会の癌のルーツになったのです。驚いたことに安重根は司法の場で、伊藤博文による孝明天皇暗殺を伊藤暗殺の犯行理由のひとつに挙げています。一介の韓国民に過ぎないはずの安重根が何故、日本国の明治維新の暗部中の暗部とも言うべき事件の真相を知っていたのでしょうか?彼の黒幕が、韓国だけではなく日本にも、古代から一貫して人脈を保持し続けてきたある特定の部族集団だったこと。これ以外の何物をもそれは意味していないのです。

註:李氏朝鮮王朝の統治に比べると、日本の江戸幕府の統治は遥かにマシでした。それでも、例えばかの宝永年間の大災害の際の、幕府による災害義援金のほぼ全額に及ぶ着服のエピソードなどを見ると、支配層の腐敗あるいは支配層への邪悪な氏族の潜入といったことを、ある程度は感じ取らなければならないようにも思われる訳です。災害復興に金を支給できない理由のひとつとして幕府が、丁度そのすぐ後に来訪が予定されていた朝鮮通信使の接待に金がかかるからという理由を挙げているのも、いかにも示唆的な感じがします。ただし、そのような悪条件の中でも驚異的な忍耐力を示し、被災した人民のために知恵を絞って尽力し続けたばかりか、最後には黙って自らの命まで捧げた下級の官吏や、その声を無視せずに幕府による支援を画策した高級官僚も間違いなくいたのです。自らの恵まれた能力や地位を、既存の秩序に対する忠誠心も最後まで失うことなく、飽くまでも弱者救済のために活かそうと苦心し続けること。彼らから恩恵を受けた弱者の方も、彼らに対する正当な敬意と感謝を決して失わないこと。これこそが人間に課せらるべき唯一の倫理であると私は考えていますが、上に例として上げた人達こそ、この倫理を身をもって体現していたと言えるのではないでしょうか?彼らのような人達の生き様こそ、日本にあって韓国にはない、韓国が日本から学ぶべき日本独自の財産なのだと言えそうです。

旧来の新羅系秦氏(源氏の一部や藤原氏の一部、山背賀茂氏の一部をはじめとする多くの隠れた氏族を含む)と新来の新羅系秦氏(戦前の在日帰化朝鮮支配階級)が同族として互いに協力し合いながら、欧米の金融偽ユダヤ人勢力の自派への引き入れという禁じ手すら敢えて打つことによって、日本社会のあらゆる分野での他派勢力の駆逐と自派勢力の拡大を進めてきた。このような暗黒面もまた、近代日本に隠された幾つかの局面の内のひとつだったのです。人類全体や国民全体の福祉など完全に無視して、自派の繁栄と他派の駆逐にのみ目的を特化した、驚く程に洗練された政治的な陰謀の知識体系を、彼ら固有の根源的な悪意に基づいて種族として何千年もの間、練りに練り上げ、継承し続けてきたのが彼らです。この日本社会が、韓国社会が遥か昔から陥ってしまっているのと同じような、悲惨な人間疎外の状況へと少しずつ追い詰められつつあるという認識を、色んな場所で多くの人が、それぞれの表現法を用いて様々に表明している訳ですが、それらの隠された元凶はまさに彼らだったという訳です。

切除すべき癌は、あるいは、正体を白日の下に晒して陰謀の手足を奪い、萎縮さすべき邪悪な氏族は、あまりにも複雑な形でこの日本社会や韓国社会に蟠踞してしまっているのです。素朴で単純な国家観にのみ依拠した短絡的な嫌韓など、国家間の紛争を常套手段として自らの財力を定期的に再生してきた、この邪悪な国際氏族連合によって我々の間に焚き付けられた、とんでもなく危険な罠に過ぎなかったのです。

愛国的嫌韓を強調する在日韓国人へ

2013-03-14 03:30:12 | 政治
YouTube で面白いビデオブログを見つけました。日本人に対して、韓国への愛国心に基づいて方法的に極端な嫌韓を強く勧める、そんな在日韓国人のブログです。『在日韓国人が語る犯罪国家韓国』という表題のビデオブログがそれです。以下はそのブログに対して私が入れたコメント。皆さんにもぜひ、読んでいただきたいと思います。


以下引用。

言動や態度の酷い人と関わってその人をよい方向に導こうとする時、その人がその過程で自分にどんな害を及ぼそうとも、こちらが怒りをコントロールできなくなってしまっては、当の目的そのものが損なわれることになります。それでは自己矛盾に陥ってしまいます。相手をよくするどころか、自分まで相手と同じような悪に陥ってしまうことになるからです。この目的は要するに相手の心を変えるということを意味する訳ですが、そんなことはそもそも、極めてハードルの高い厳しい目的なのです。ですから、このことについて自分の能力の限界を感じる時は、状況を具に観察しつつも、自分からは飽くまでも関与しないでおく方がいいだろうという判断にもなる訳です。逆に、この極めて高尚な目的の実現に思い切って身を投じようと決意した人は、たとえその努力の過程で当の相手に殺されることになったとしても、こちらとしては決して文句を言うことができないという具合に、覚悟を固めることになります。

「韓国人」に対して「日本人」は本能的に、以上の二つのうちのどちらかの構えを取るはずです。例えば、征韓論の時の西郷隆文の姿勢は、後者の典型例であったと言えるでしょう。これら二つ以外の、例えば激しい嫌韓を仰々しく表明することや、相手の非を激しく責めて罰を与え反省を促すことなどは、「日本人」のメンタリティの中にはないはずです。あるように見えるのは、そのような扇動に乗って喚き立てることで目立つこと以外の何もしていない、実際は全く無関係な複雑な裏事情を動機として背後に隠し持っている、しかも、ある特定の勢力の意志を受けて自ら偽装された極少数の職業的「愛国日本人」だけなのです。彼らが日本人でも大多数でもないのは、今となっては最早、常識中の常識でしょう。

上に述べたようなあるべき二つの構えに内包された価値については「韓国人」の中にも当然、十分に理解できている人が極小規模ながら存在しているはずです。韓流ドラマと言えば「洗脳」などと喚き立てる人がいますが、それは物語というものの深みを洞察する能力の欠落から来る誤解です。韓流ドラマの多くには、マキャベリズムや根源悪、政治的駆け引きへの深い理解から、今述べたような純粋で積極的な人間関係構築の努力に内包される大いなる価値の明確な把握まで、実に多くの見るべき内容が驚くほど巧みに込められているのです。このことは、例えば『善徳女王』や『朱蒙』などのドラマを観ていただけさえすれば、どんな人でも、大抵の場合は容易に理解していただけるのではないかと思います。これほど質の高いドラマが滅多にあるものではありません。これ程のドラマを創って見せられている限り、少なくともこの人達だけは、たとえ「韓国人」であっても、嫌悪の対象にならないどころかむしろ、大いなる尊敬の対象と見做すべきなのだと思います(ドラマ『善徳女王』で美室役を演じている女優さんの美しさ、女優としての質の高さには特に、驚愕するものがあります)。

悪徳は勿論「韓国人」に限らず「日本人」をも含む人間一般に普遍的に見られるものです。問題はそれが、ちゃんと統制されているかどうかなのです。そんな悪徳が「韓国人」の場合、他には類を見ないくらい極端に露骨に表現されやすいことが、多くの国で、多くの人によって盛んに糾弾されている現状がある訳です。そして、実際にそうなのだろうと私も、実体験から思うわけです。しかしながら「韓国人」がそうなりやすいのには、それなりのちゃんとした理由があるとも思うのです。それは、韓国社会内での階級差別が、韓国の支配者の統治技術の稚拙さから極限まで露骨に、むき出しになってしまっているせいだと思うのです。厳しい階級差別の元で虐げられていることを何世代にも渡って強く自覚し続けてきた時に人間が、人間を人間として素朴に信用できるはずがないのです。そんな自覚的被差別階級の規模が韓国では極端に大きくなっている。その人たちの振る舞いが「韓国人」一般の振る舞いの典型と受け取られてしまうくらいの大きな規模になっている。これこそが実情なのです。

厳しい階級差別は、実は日本でも根深く存在しています。被差別への階級差別は勿論、自らのことを「一億総中流」の一員と自覚している我々一般の「国民」に対しても、厳しい階級差別は紛れもなく存在しているのです。支配階級がただ、その厳しい現実を「国民」に対して極めて巧妙に隠蔽してあげられているにすぎません。西南戦争や終戦の時に貴族や武士が静かに忽然と消えたことになってはいますが、そんな非現実的なことを一般の庶民は、疑うことのできない「現実」として上手に刷り込まれているにすぎないのです。韓国の両班(リャンバン)にあたる貴族階級や武士階級が姿を変えて、この日本にも今だにちゃんと存続しているにも拘らずそうなのです。従って「日本人」には、一部の特殊な自覚的「被差別民」を除いて、自分たちが階級差別によって虐げられているという実感や観念そのものがありません。そのため、人間の本質の一部である悪徳を、他者に対して露骨に表現せざるを得なくなるところにまで心理的に追い込まれる機会が、それほど多くならずに済んでいるだけなのです。

それに対して韓国では、日本で特殊な例外と見做されている自覚的被差別民が、「国民」と言ってもいいような大きな広がりを持って存在している。日本の「国民」に対応する善良で温和な人達の規模が韓国では極端に小さくなってしまっている。この違いはひとえに、支配階級の統治技術の巧拙による社会構造上のものであり、決して「先天的な民族的特徴の差異」などではない。従って「韓国人」の国際的な評判の悪さも、やりようによってはいつでも全面的に改善できるような、そんな性格のものに過ぎない。こういうことなのです。

韓国の統治者も階級差別を、まず初めに「国民」の目から、上手に隠蔽してあげる必要があるでしょう。これは、階級差別を実際になくすよう務めるべきという話とは全く別次元の話です。もっと平たく言うと、「自分が上だ」と配下の人間に自慢して見せてしまいがちな自制心の弱さを階級全体で自覚し、克服すべきだということです(「韓国人」と直接会話した経験がある人なら納得していただけると思いますが、彼らの印象の内で最も一般的なものは高慢なのではないでしょうか?)。上にいる人は、常に姿を隠しておくか、あるいは、やむを得ず人前に出る時などは「私ごときがこのような分不相応な地位に立たせていただいております」などと、謙虚な姿勢を見せておくのが何よりも大切だということです。韓国の支配階級が現在のかなり高い知性を、今述べたようなより高次の、最高級のものにまで磨いて高める必要があるということです。

引用以上。