飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について 03

2013-01-13 05:20:51 | 邪馬臺国
従来の説を広く見渡しても、大半が、列島移動説など思いも寄らないでいるようです。もし仮に思い至ったとしても「そもそも荒唐無稽だ」と考えるに違いありません。或いはそのように酷評されることを恐れて口をつぐむでしょう。こうなる気持ちは、私にもよく分かります。しかしこの列島移動説は、振り払おうとしても、そのために他のどの説を検討しても、その度に「やはり列島移動説の方が信憑性がある。常識はずれの筈なのに、何でだろう?」と思わせられる不思議な魅力を持った説なのです。他の説とは違って、いい加減さや誤魔化し、強弁が見られない。

例えば先ず、一般に九州説と言われる沢山の説についてですが、それらは全て共通して「方角は正しい。方角を正しいと見做した場合は一見、距離の記述に矛盾が生じるように感じるが、あるやり方で距離の換算法を正せば、ちゃんと合理的に説明できるのだ。そのやり方とは・・・」という形式を持っています。ここで、それぞれの距離の換算法の正し方をひとつひとつ検討することもできます。しかしその前に、それらがどれも方角の厳格さを大前提に置いて強調しているにも拘らず、一大国を壱岐とは認めない極一部の極めてユニークな説を除いて必ず、対馬国から一大国(壱岐)への方角が「南」と書かれていること。それなのに実際は東南になっていること。これらの点を不問に伏してしまっていることは、どうしても指摘しない訳にはいきません。「方角には厳格でないといけない」と強い口調でまくし立てる人がその舌の根も乾かない内に「南と東南は大体一緒だよ」などと言ったりしたら、どんな人でも思わず苦笑いしてしまうはずです。一般に九州説と言われる説を唱える人は、先ずこの壱岐方角問題に明確に答えない限り、どんなに多弁を弄しても無駄だと認めるべきです。そして誰も答えられないのです。地面が動いたと言わない限り。【図4-a】


かと言って、近畿説はどうでしょうか?近畿説の場合は共通して「距離が正しいのだ。方向は何かの都合で狂ってしまっているだけだ。その証拠に、狂い方が70度と一定になっている。その都合というのは・・・」という形式を持っています。ここで、それらの理由をひとつひとつ検討することもできます。しかしその前に、それらがどれも距離の厳格さを大前提において強調しているにも拘らず、一大国を壱岐とは認めない極一部の極めてユニークな説を除いて必ず、対馬国から一大国(壱岐)までの距離が「1000余里」と書かれていること。それなのに実際は約500里と半分しかないこと。これらの点を不問に伏してしまっていることはどうしても、指摘しない訳にはいきません。「距離には厳格でないといけない」と強い口調でまくし立てる人がその舌の根も乾かない内に「1000余里と約500里は同じですか?どう見ても酷く差があるようですけど」と問われて途端に黙り込んだりしたら、どんな人も思わず苦笑いしてしまうはずです。一般に近畿説と言われる説を唱える人は、先ずこの壱岐距離問題に明確に答えない限り、どんなに多弁を弄しても無駄だと認めるべきです。そして誰も答えられないのです。短里にしようが長里にしようが、対馬西岸から壱岐までの距離と壱岐から末盧国内のいずれかの港までの距離がどちらも「1000余里」と同じ書き方をされつつ、実際はどう計測しても倍近く異なっているという矛盾に答えられる筈がないからです。地面が動いたと認めない限り。【図4-b】


この一大国を巡る距離と方角の問題は、通常は無視されていますが、従来の論説ならどんな論説も、それが細かい議論に入ってしまう前に黙らせられる、極めてラジカルな、便利な道具になるのです。この試練に耐えられるのは、私の知っている限りはただひとつ、飛鳥昭雄氏による列島移動説だけです。こう考えると、そのあまりの非常識さに今でも思わず頭を抱えたくなってしまう、列島移動説などというかの「珍奇な」説も、その珍奇さは全く薄くならないにしろ、その信憑性を勢いよく漲らせてくるのが感じられるはずです。【図5-a#】【図5-a】



「太陽が西から上り、地面が大きく動くのでない限り、僕は君を愛し続ける」とは「どんなことがあっても必ず」の意味ですが、地面が大きく動くことなど、人間にとっては文字通り自らの全てが寄って立つ「基盤の変動」を意味する訳で、ほとんど生理的と言ってもいい程に受け入れ難いことの代表例とみなされます。魏志倭人伝の里程記事の解釈では、それに一番信憑性がある。この特異な事態をどう捉えればいいのか?

とは言え、特に九州説が出してくる実に多様なアイデアも、人間が行き詰まった時にどんな誤りを犯してしまうかの類型がよく分かって、その意味ではなかなか面白い。

>伊都国(吉武)の東南に(現在の地形では東北東に)向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。奴国の東に(現在の地形では北北東に)向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里。【図6】


例えば、この部分を巡る次のような説があります。この私の現代語訳で「奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)の東に向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里」を、「伊都国(吉武)の東に向かい不弥国に至る時の移動距離も100里」と解釈すべきだとする説です。【図6-特1】


その理由は、伊都国までの記述が全て

「Xに向かってY里移動するとZに着く」

という表現形式になっているのに、伊都国以降になると突然

「Xに向かってZまで行くのに必要な移動距離はY里である」

と表現形式が変化しているからとされています。

要するに、

(1)▽東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)▽東北東に向かって100里移動するとBに着く
(3)▽東に向かって100里移動するとCに着く(「▽」とはそこに語句省略が行われていることを示す記号です)

となっていたら、省略語句を復元しようとする場合に、直前の移動の到着地を当該移動の出発点として復元して、

(1)(Xから)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)(Aから)東北東に向かって100里移動するとBに着く
(3)(Bから)東に向かって100里移動するとCに着く

などと解釈していいが、【図6-特2】


(1)▽東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)▽東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)▽東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

などと、(2)から(3)の表現形式が(1)までの表現形式から変化している場合は、

(1)(Xから)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)(Aから)東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)(Aから)東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

などと、全く異なった解釈が要求されているのだと言うのです。【図6-特3】


しかし、同一構文の変形が省略語句の復元のやり方に影響を与えるなどというのは、聞いたことのない話です。同一構文の変形は、変形しても同一構文だと理解できるレベルの読者に知的な刺激を与えるために行われる、論理とは無関係の単なる修辞というのが文献学上の一般的なルールです。出発点を直前の移動の到着地ではなく、直前の移動と同じ出発点として読者に伝えるためには、論理的には、同一構文の変形などの単なる修辞とは無関係に、語句省略などせずにきちんと、次のように記述し、誤解を回避しなければならないのです。

(1)東北東に向かって500里移動するとAに着く
(2)東北東に向かってBまで行くのに必要な移動距離は100里である
(3)Aから東に向かってCまで行くのに必要な移動距離も100里である

註:ただし、誤解して欲しくないのは、これは飽くまでも項目が三つ以上ある時の話で、項目が二つになっている例えば、

(4)▽南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)▽南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

のような表現の場合は、

(4)(Cから)南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)(Cから)南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

と解釈するのであって、

(4)(Cから)南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)(Dから)南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

ということを伝えたい時は、逆に、語句省略などしないで、ちゃんと次のように記述する必要があります。

(4)▽南に向かってDまで行くのに必要な移動時間は水行20日である
(5)Dから南に向かってEまで行くのに必要な移動時間は水行10日と陸行1月である

古代中国の官吏と言えば、上に述べたような文章作成の論理や修辞の使い分けに他のどこの国のいつの時代の官吏よりも拘り習熟していた、文章作法の謂わば「専門家中の専門家」だったはずです。彼等を甘く見るのは禁物です。修辞は飽くまでも修辞であり、論理と混用してはならない。論理は、修辞を全て注意深く解除して初めて働かせることができる。これが鉄則なのです。私もこれは受験生相手にいつも、口を酸っぱくして言っています。

それはさておき、ここで言われているような解釈を、即ち「伊都国(吉武)の東北東に向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。伊都国(吉武)の北北東に向かい不弥国に至る時の移動距離も100里」という内容の解釈を一旦受け入れたとしても、それを地図上で確認すると、この場合不弥国の位置が今にも玄界灘の海中に入ってしまいそうなあり得ない位置に来ることになってしまいます。古代の海岸線がもっと内陸まで食い込んでいたことを考慮に入れると、この異常さは救い難いものです。実際この地域に古代の遺跡は発掘されていません。周囲に散在するかつては干潟内の小島だったであろう小高い岡の上に神社がひとつずつ配置されているに過ぎません(因みに、更に東に2km進み、城南区の丘陵地帯の北端の海沿いまで移動したところ、現在の大濠公園の辺りには平安時代に、鴻臚館という、外国使節を滞在させる施設があったようです。これは不弥国の東辺ではなく、飽くまでも筑紫丘一帯に広がっていた奴国の北西辺と捉えるべきです)。末盧国中の拠点と伊都国中の拠点の組み合わせを、私が私の解釈の中で採用した波多津と吉武の組み合わせ以外のありとあらゆる組み合わせ方に変えて試しても、どの場合もこれと同じ事態になります。この点を見ても、伊都国をふたつの異なる移動の共通の出発点と考えることはできないことが分かるのです。【図6-特1】