飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事の現代語訳

2013-01-09 21:33:24 | 邪馬臺国
邪馬臺国の位置を規定するのに欠かすことができない箇所を抜粋した上で『魏志東夷伝』倭人之条を現代日本語に訳してみました(倭人之条以外の箇所も若干は含みます)。文章中の各所に散在する、これまでに多くの人々が指摘してきた問題点をひとつひとつ検討して、最も合理的になると判断したラインを採用して練り上げた現代語訳にしています。各部をそのように訳する根拠については、この訳の後でひとつひとつ詳説していきます。まずは、訳の全体をお読みください。

「韓と呼ばれる地域は、現在の京城(ケソン/ソウル)辺りを中心とした帯方郡の南に接し、4000里×4000里(短里:352km×352km)の範囲にすっぽりと収まるような地域となっている。【図1】



倭人は半島にも住んでいるが、半島だけではなく帯方郡から見て東南の海上に横たわる島にも住んでいる。帯方郡から倭の王都へ行くには先ず、半島の海岸沿いに海路を使い、韓の領域である4000里×4000里の正方形をなぞるような形で南あるいは東の方向に移動し、左手の北岸に狗邪韓国勢力圏内の対馬対岸港(忠武)が現れる所まで移動する必要がある。その際の移動距離は、韓の領域の縦横8000里の内ほぼ全部の7000余里(616km余)となる。【図2】



そこから初めて半島の海岸沿いを外れて海路を1000余里移動する。すると対馬南西岸のA港に着く。対馬は、400里×400里(35.2km×35.2km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図3】



対馬西岸のA港から瀚海(カンカイ)という名前の海を南に(実際は南東に)1000余里移動すると一大国(一支国=壹岐国)のB港に着く。一大は、300里×300里(26.4km×26.4km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図4】



一大国のB港から海路を1000余里(実際は半分の500里程)移動すると末盧国(松浦国)の波多津港に着く。波多津から陸路を東南に(現在の地形では東北東に)500里(44km)行くと伊都国(吉武)に着く。【図5】



伊都国(吉武)の東南に(現在の地形では東北東に)向かい奴国(福岡市南区筑紫丘辺り)に至る時の移動距離は100里(8.8km)。奴国の東に(現在の地形では北北東に)向かい不弥国(粕屋町)に至る時の移動距離も100里。【図6】



不弥国から南に(現在の地形では東に)向かい投馬国に至る時の移動時間は水行で20日。不弥国から南に(現在の地形では東に)向かって倭国の王都である邪馬壹国(邪馬臺国)に至る時の移動時間は水行10日と陸行1月の合計40日。【図7】



この女王が居する邪馬臺国の北方(現在の地形では西方)の国々のことについては詳細を手に入れることはできなかったが、南方(現在の地形では東方)の周囲には、

01. 斯馬(しま)国
02. 已百支(いほき/いわき)國、
03. 伊邪(いや or いざ)國
04. 都支(とき or たき)國
05. 彌奴(みな or みの)國
06. 好古都(ほこと or ほかた)國
07. 不呼(ふこ or ふほ)國
08. 姐奴(つな or つの)國
09. 對蘇(つさ or つそ)國
10. 蘇奴(そな or その)國
11. 呼邑(ほを)國
12. 華奴蘇奴(はなそな)國
13. 鬼(き)國
14. 爲吾(いが or いご)國
15. 鬼奴(きな or きの)國
16. 邪馬(やま or じゃま)國
17. 躬臣(こし or くじ)國
18. 巴利(はり)國
19. 支惟(きび or しゆい)國
20. 烏奴(あな or おの)國
21. 奴(な or の)國

があることが分かった。女王の支配領域はここまでである。この支配領域の南には(現在の地形では東には)狗奴(くな or この)國があり、女王国と覇を競い合っている。【図8】



帯方郡からこの邪馬臺国までの総距離ではなく、直線距離を計測すると、12000余里(1056km余)となった。【図9】



昔夏の后である少康の子が会稽に封ぜられた時に、ある行為を会稽の地元の人々にアドバイスしたという有名な話がある。その行為がその土地の風習として定着したという話である。邪馬臺国の人々の風習の中には、その風習と同じ風習が見られるようだ。帯方郡から12000余里だけ東南という先ほどの計測結果から判断して、邪馬臺国は会稽の真東の方向の洋上にあることになるから、会稽の地元の人間たちとの間で古来より船での交流があり、それ故そのような風習の一致が残っているのではないかと考えられる」