飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

民主主義を絶対に信じてはいけない

2012-07-23 04:15:56 | 日本論と宗教論
「皆が選挙に行かないと世の中はよくならない。行きさえすればよくなる。なのに、ほとんどの人が政治に無関心で、投票率が低い。あなた(飛鷹)がこのブログで述べているような事実が皆に伝われば投票率も上がるはず。まずは伝える努力をするべきだ。そのためにどういう方策が立つのか?」

このような質問を承りました。

歴史を正確に理解した場合、民主主義を標榜してなされた革命はひとつの例外もなく、王を中心とする各国の古来からの支配体制を弱体化させ、その上でその国を乗っ取るために、金融偽ユダヤ人が、周到な計画の元に演出していたことが明確となってきます。民衆が政治意識を高め民主主義を声高に唱えるようになる場合、そこには必ず外部の邪悪な秘密結社の陰険な企みが潜んでいるし、民衆には結局は悲惨な運命しか降りかかって来ないと考えておいた方がいいということです。

「何をバカなことを。そんなはずがないじゃないか」というのが、多くの人の反応でしょう。しかし、この人たちは皆、戦後の学校教育やマスコミの報道によって洗脳されてしまっているのです(学校教育もマスコミも、どちらも間違いなく、周到な陰謀によってコントロールされているものです)。今私が述べていることは、歴史が証明している紛れもない真実です。民衆はかくも容易に扇動できるのです。その方法論が何千年も前に既に、民衆を家畜化するための方法論として書物になり(『タルムード』というヘブル語で書かれた書物です)、ある特定の人たちによって密かに徹底的に研究し尽くされてすらいることなのです。

例えばあのヒットラーは、実際は金融偽ユダヤ人のロスチャイルド家の血筋で、ある隠された邪悪な目的実現のために選ばれて育成された後、巧妙な手法で作り上げられた権力者でした。その彼の政権は結果的に、当時のドイツ民衆の約90%(投票率はほぼ100%)という極めて高率の支持を集めて、まさに「民主的」に成立したのでした。その時、その後20年間のあの世界の悪夢が軌道に乗ったのです。おまけに、ヒトラーが死んだと思われていたのは間違いで、1990年代まで生きていたばかりか、彼の娘が現在のドイツ首相になり金融偽ユダヤ人の意向に沿ったドイツ支配を今でも担当しているというのです。さらにはアンネの日記も、ゴーストライターの名前まで正確に暴露されているほど明確なでっち上げでした。ヒットラーだけではありません。アメリカ独立革命も、フランス革命も、南北戦争も、ロシア革命も、戦後日本の学生運動も、最近のアラブ諸国における市民革命も、ついでに今盛んに報道されている反原発市民運動も、例を上げていったらキリがないくらい文字通り全てが、陰謀だったのです。

私たち自身も、似たようなことをつい最近、実際に経験したばかりです。2005年の郵政選挙の時に、何も知らない私たちは、金融偽ユダヤ人の飼い犬であるマスコミや評論家達の口車に載せられて大いに政治的関心を募らせ、「非常な確信」を持って投票所に足を運び、競い合うかのように投票しました(投票率は約70%)。しかし、今となってはあれも、日本国民の貴重な資産である345兆円にも上る郵便貯金と簡易保険の蓄積金を奪い取る目的で金融偽ユダヤ人がシナリオを描き、そのエージェントである小泉純一郎と竹中平蔵に命じて実行させた陰謀だったことが明らかになっています(亀井さんや平沼さん、綿貫さん、小林さんなどの志の高い議員達が、マスコミの誘導に乗って私たちが罵倒せんばかりの厳しい目を彼らに向ける中でも怯むことなく立ち向かってくれなかったら、とっくの昔に金融偽ユダヤ人達の思惑通りのことが起こっていたことでしょう。民主党政権ができて小沢さんや鳩山さんが中心になって動いている時には民営化見直しの動きが進むかに見えましたが、今度は小沢さんに対するマスコミや検察による露骨なまでのイメージ破壊工作が始まり、それに多くの一般国民がまたしても乗せられたせいで、さらには小沢さんが立候補した民主党代表選挙の際に時機を同じくして初めて導入された開票マシーンによる開票結果の不正操作や世論調査の捏造などもあったせいで、民主政権が金融偽ユダヤ人に飼いならされた菅や前原、枝野、野田などのスパイ議員達に完全に乗っ取られてしまい、現時点ではこのせっかくの郵政民営化見直しの努力も、台無しにされようとしています。詳しくはリチャードコシミズ氏のYouTube動画を観て下さい)。

ですからある意味、投票率は低くなっているのでなければならないのだし、民主主義に庶民が期待をかけるのは極めて危険なことだと言わなければならないのです。

よく考えてみるとこれは、あまりにも当たり前のことです。庶民には自分に課せられた仕事を十分にこなし、それによって家族を養うことに専念する義務があります。政治に責任を持って関わる時間的余裕も金銭的余裕もないのです。庶民とは力がないからこそ庶民なのであり、政治は力のあるものが専門的に請け負うものでしかないのです。デモクラシーとは「民衆の力」とか「民衆による支配」とかいった意味ですが、「力のないものの力あるいは支配」なんて、それ自体完全な矛盾でしょう。言葉自体がトリックであるに違いありません。

「ひとりひとりは力がなくても、大勢が集まって協力し合えば大きな力になるじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、0はいくら加算されても0のままというのは、あまりにも明らかな論理的帰結です。

百歩譲って全員がそれぞれ1くらいは力を持っているとしても、それを民主的な手法で迅速に、ひとつの場所でひとつの正しい方向に同時に、しかも継続的に統合し続けること自体、物理的に不可能です。「そんな時はお金を少しずつ持ち寄ればいいではないか」と仰るかもしれませんが、お金を集める立場の人はその立場についた瞬間、当人がいくらそうだと言い張ったところで、本当の意味での庶民とは言えなくなってしまいます。したがって、100パーセント純粋に権力との癒着に免疫があるとは言い切れないでしょう。またそのような市民団体には間違いなく、権力側のスパイが侵入し、主導権を握るようになっているのです。例えば辻元清美は、そうやって政治家になった在日朝鮮人のようです(在日の方々一般を在日であるが故に蔑んでいるのではなく、在日の中に悪魔に魂を売ってのし上がって行こうとする、人間性一般への裏切り者が大勢いると言っているにすぎません)。また、学生運動が終焉した時に運動の指導者だった人が行方不明になり、何十年後かにふとしたきっかけで連絡が取れて話を聞いてみると、ろくに働いてもいないのにアメリカやヨーロッパで大金持ちになり、悠々自適のセレブ生活を満喫していたなんて話、よく聞く話です。要するに、CIAに雇われて学生運動を扇動していた売国奴だったのです。泣くに泣けないのは、彼らを信じて貴重な青春を棒に振った多くの一般運動家達の方でしょう。

「選挙の時なら民衆の力を民主的な手法で迅速に、ひとつの場所でひとつの正しい方向に、継続的ではないにしろ同時に、統合することが可能ではないか」と指摘する人がいるでしょうが、マスコミや教育が金融偽ユダヤ人の蛇のような悪意によって完全に牛耳られている中では、インターネットがいかに普及しようとあの郵政選挙の時のように、意図的なプロパガンダに乗せられてしまうのが関の山です。「正しい方向に」など、とてもあり得ないことなのです。そのような仕組みに徹頭徹尾、仕上げられてしまっているのです。しかも最近では、最新開票マシーンの導入によって、開票結果の不正操作まで加わってしまいました。もし仮に、正義の候補者集団が全選挙区に立候補する中で多くの国民がマスコミの誘導にも拘らず彼らを支持し、彼らを大量に当選させたとしても(民主党によるあの政権交代の時のように?)、既得権益を持った人たちとの闘争の第一歩がごく限られた領域内で、見た目上はまるで全ての領域においてであるかのように装いながら始まるに過ぎずないのです。しかもこのささやかな第一歩すら、新政権への事前あるいは事後におけるスパイの潜入や政治家の買収、脅迫、暗殺(石井紘基さんの暗殺を思い出して下さい)、イメージ破壊工作、兵糧攻めなどの、あちら側の人達によるありとあらゆる手練手管によってあっという間にひっくり返されてしまうのです(彼らはこのような陰険な陰謀の何千年来のスペシャリストです。ひょっとしたらあの政権交代すらかなりの確率で、彼らの想定内の出来事だったのかもしれません)。

断言します。民主主義はトリックであり、危険な幻想です。民主主義への幻想があるからこそ、民衆は幸せになれないのです。議論の余地なく、絶対にそうです。

日本には未だに、王もいれば、王族や貴族もいて、それぞれが各公的団体や大企業などを現代版の「荘園」として所有し、極めて高度な武力や諜報機関すら保持しています。それによって維持される権力を行使して影の政府を運営し、日本国を支配しているのです。既得権益は我々に見えないところで社会の隅々にびっちりと根を張っています。と言うより、有史以来一度もそうでなかったことはないはずです。「民主国家日本」は完全な幻想なのです。したがって小沢さんがどんなに頑張っても、絶対に何も起こりません(何も起こらないことが分かっていても国民のためには頑張らないといけないと信じ、頑張っていてくれる小沢さんの姿から、ある種の隠れた高潔なメッセージを読み取るべきではあるかもしれません)。あるいはひょっとしたら、頑張って見せるのがあちら側から小沢さんに与えられた最後の指令であるとすら、考えておいた方がいいかもしれないのです(最近のベンジャミン=フルフォード氏の発言によれば、そういうことになってしまいます)。

私がこのブログで述べていることが世の多くの人に伝わるということは、今述べたような事実が世の多くの人に伝わり、投票率が下がることを意味するのです。もっと言うと、投票率を限りなくゼロにして我々の静かな抗議の意思表示とした方がいいとすら言えるかもしれません。このことだけはちゃんと、踏まえておいていただきたいと思います。

「それでは希望も何もないのではないか?ブログの記事を読むと何か前向きなことが書かれているようだが、それは間違いなのか?こんな悲惨な状況の中で何ができると考えているのか?」。このような疑問が湧いてくることでしょう。その通りです。民主主義とは全く異なるあるひとつの方策によって(本当の「民主主義」と言っていいかもしれません)、権力打倒などとは全く異なるある根本的な解決がもたらされると、私は考えています。詳しくは上に書いたことを踏まえた上でこのブログ内の各記事をもう一度よく読んでいただきたいと思いますが、ここでも簡単にまとめてみると、次のようになります。

1)ひとりひとりがそれぞれ「神」(呼び名は何でもいい。この現存在は、絶望しているのでない限り必ず、誰もがもう既に知っているはずである)と結びつくことで「一票」とは全く異なる極めて大きな力を、それぞれの持ち場を全く離れることなく獲得できる。人間には本来、それだけの能力がある。

2)その力は、外的には天皇を中心に統合され、現実に反映される。

3)強い者が弱い者を慈しみ、弱い者は慈しみ深い強者に敬意と忠誠を尽くす。これが、人間に唯一課せられた倫理である。

4)庶民ひとりひとりがそれぞれの時に行う小さな不正の数々が集積して大きな問題を生み出し、それが結果として支配層に大きな影響を与え、その振る舞いを「邪悪」なものに変える場合があるという恐ろしい真実を踏まえた上で、我々ひとりひとりがそれぞれの場所で常に極めて高い道徳性を発揮しなければならない(道徳性とは「神」との内的な結びつきの中で正しいと感じたことを、外的な事情に負けて曲げてしまうことが絶対にないようにする心の強さのことである)。どんなに「邪悪」な支配者も、全てを明確に認識した上で道徳性を完全に維持し続ける多くの庶民に対して、非道な陰謀を仕掛ける気にはなれない。あるいは仕掛ける気があっても、彼らの陰謀の仕組みの本質上悉く挫折してしまわざるを得ない(彼らの陰謀の基盤が、疑心暗鬼と恐怖心の蔓延による多くの庶民の道徳的腐敗となっているから)。彼らの邪気を抜き去ることが、このやり方なら十分に可能である。「庶民の力」とは、こういうものであるにちがいないと信じるべきである。

5)以上の全てを可能にするため、現実についての詳細で正確な知識を獲得し、できるだけ広く拡散しなければならない。真実を精確に知ることにはそれだけの大きな意義が秘められている。

6)「敵」を滅ぼし排除しようとするのではなく、日々の生活の中で、まさに自分の場所で弛まず辛抱強く善を積み重ねつつ、その善なる波紋を大きく広げることで最終的に「敵」に善なる影響を与えて、「敵」の邪悪な性格をのみ滅ぼし排除しようとするのでなければ、本当の問題解決にはならない。「敵」を滅ぼし排除しようとする人のメンタリティは、「敵」の陥っている魔境と同じ魔境に嵌まってしまったメンタリティに過ぎないからである。

7)お金を廃止し生産物を無料で分け合うコミュニティの可能性(スーパーに行けば好きな商品を必要なだけ無料で手に入れられる社会の可能性)と、お金のためではない純粋な社会奉仕としての職業の社会通念化の可能性を、洗脳し尽くされた狭い心から無下に馬鹿にしてしまうのではなく、心を根本から正した曇りのない目で本気で検討すべきである(お金があると、お金を蓄積して架空の空間を創り上げ、実体から遊離した価値の操作を通して財を増やして行こうとする、他者への奉仕の喜びという労働の最も本質的な要素を欠いた、もはや労働とは言えなくなった「労働」を生業として、社会の本来のあるべき秩序を破壊する輩が出てくることになってしまいます。お金は、人間の不必要な苦悩の根源なのです。現在は、お金の影響がすべての人の魂を汚染し切っているため、こんな簡単な理屈すら誰にも見えなくなってしまっています。最近偶々『北の国から』というドラマを観ましたが、人と人の繋がりや大自然にのみ基盤を置きお金の介在しない、そんな生活への人々の深い愛着と、そんな古き良き生活が貨幣経済によって破壊されて行く悲哀を描いた、優れたドラマでした。このドラマを観れば皆さんも、私の言わんとしていることが無理なく分かっていただけるのではないかと思います)。

詳しくは、このブログのこれまでの記事をご参照下さい。

最後に、これまた最近偶々『THRIVE』という映画を観ましたが、その中で述べられていることの大半が、極一部ではあるが非常に重要ないくつかの点を除いて(機会があれば詳述する必要があるでしょう。私の見解によれば、これらいくつかの相違点の故に、この映画も新手のトリックとなるべく仕掛けられたものにちがいありません)、今私が述べたことと完全に一致していました。高度な映像技術で制作された映画で分かりやすく、大筋を理解する上では皆さんにも、大いに参考になるのではと思いました。ぜひ、ご覧になって下さい。

http://m.thrivemovement.com/#watch


秦氏の「善」と「悪」を前にして

2012-07-17 17:17:37 | 日本論と宗教論
「『八咫烏』という名前の漢波羅(かんばら=カッバーラ)の秘密組織が、1世紀のエルサレム陥落後2~5世紀の400年間に渡って中央アジアや華北、半島を経由し、中東から列島まで密かに移動した後、下鴨神社の隠された奥の奥に日本国建国当初から現在に至るまでずっと潜伏している。陰陽道も中東からこのようにして伝わった秘術であった。この組織は、3人の「大鴉」からなる「裏天皇」を中心としてその周囲に9人、さらにまたその周囲に70人、合計82人の構成員からなる組織だが、聖書でもペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を中心とする12使徒と、それを取り囲む70人、合計82人のイエスの弟子達の組織として、この全く同じ組織のことが記録されている。イエスを重大な結節点とした太古からの聖なる秘教の流れを直接受け継いだ、極めて根源的な霊性を帯びた秘教組織なのである。日本建国時にこの列島で「国仕掛け」を行い、天皇をその表に据えつつその後もずっと天皇と共に、この日本国の霊的な礎を守り続けて来たのである」。このような説があります。飛鳥昭雄という研究者が唱えた説です。私は何年か前に彼の著作を通してこれを知り、大いに信憑性を感じました(因みに飛鳥昭雄氏は「秦氏」所縁の文化財が全て百済様式ではなく新羅様式となっている点を踏まえて、秦氏百済渡来伝承を、秦氏自身による情報操作の結果と断定していますが、「秦氏」と呼ばれているからと言って全てが単一の氏族なのではなく、新羅系秦氏を初めとするいくつかの氏族の合流の結果出来上がった複合的な特殊巨大氏族という考え方を採用している事情から、私は、この点については飛鳥氏に同意せず、伝承を真実としてそのまま採用しています)。

その一方で、そんな彼らを中核としているはずの日本の隠れた支配層について、次のような主張も聞こえてきます。「(彼らによる)『日本国民』への、私利私欲に駆られ悪意の籠った無残な仕打ちの数々が事実として確認できる。明治以降の日本での欧米系悪魔崇拝秘教組織による暗躍が最近盛んに喧伝される中、その陰に日本古来の、ある意味でその欧米系のものにも全く劣らぬ悪魔性を持った悪魔崇拝秘教組織の、必ずしも明治以降にのみ限定されない非道の数々が日本と日本人を不幸に陥れてきたということが、事実として厳然と確認できるのだ。この事実やその組織のルーツの謎にもきちんと目を向けるべきなのだ」。

このような主張を聞くと私はいつもその主張に、上の飛鳥説と同じくらいの信憑性を感じるのです。「下鴨神社が安土桃山時代に、火薬の入手に拘るあまり何万人もの日本人女性を、ヨーロッパ人の性奴隷としてイエズス会に売り渡していた」という未確認情報もあり、何とか確認しようと気を張っている最中でもあります。

秦氏を巡る二つの非常に意味合いの異なった、しかし同じように信憑性のある情報。これは紛れもない矛盾です。ここに至って私は、この矛盾をどう考えたらいいかという問題に直面することになりました。その際に瞬間的に閃いたのは、この矛盾を見かけ上の矛盾と捉え、この見かけ上の矛盾を解消してくれる隠れた構造体を探る必要がある。そうすることで飛鳥説をより精密かつ包括的に発展させる機会にもなるという展望でした。

例えばこれは、「よくない」教師に出会った時に学生が取らなくてはならない態度と共通していると言っていいかもしれません。こんな時多くは、陰でその教師への批判を撒き散らしながら、かと言ってその教師の元から立ち去ることもできずに、気持ちを鬱屈させ続けるようです。あるいは諦めて、その授業時間を何の感情も込めずに遣り過すようです。

しかしながら実際は、その教師に対するそのような評価が真実と確認できる以上は直ぐに、そこから静かに立ち去って他の教師を探しさえすればいいはずです。反対にそうでない場合には、教師に対するそのようなマイナス評価が自分の主観から出たものに過ぎないかもしれないという可能性をもちゃんと考慮に入れつつ、まず自分が、どこからも非難されないような最高の学生でいるよう心掛けなければなりません。そうすることで、何らかの理由で現象としての「無能」の背後に隠れているその教師本来の能力も、いつしか発揮されるようになるかもしれないわけです。このような学生としてのあるべき最高の態度を十分に続けても結局その教師の能力が発現して来ないということになったりしたら、それこそ無駄ではないかなどと考える向きがあるかとは思いますが、実際はそういうことにはなりません。その時は、一旦は現象と見なしていた教師の無能も実は、その教師の本質そのものでしかなかったのだと考えればいいからです。隠していた無能が自ずから露呈することで、その教師の側が、教師としての虚飾を自ら剥ぎ取られてその本来の相応しい場所に戻されるだけなのです。こちらには存在のどのレベルにおいても傷が付くことがありません。ましてや私の経験上、どんなに「酷い」教師も、学生の側が今述べたような積極的な態度を示す際には、不思議なことに、教師としての能力を生き生きと発揮し始めることが多いようです。教師の良し悪しは、大抵は、学生の良し悪しによるということのようなのです。

日本の古来からの隠された支配層を巡る上記のような矛盾に対してもこれと同じ手法でしか対処できないというのが、私の基本スタンスです。なぜなら、日本を創ったのは彼らであり、我々はまさにそこから生まれてきたのですから。彼らと我々では存在の次元が大きく異なっています。彼らに対する批判は、私たちひとりひとりが神と直接結ばれた存在であるという、私も形而上学的な真実として敬っている信念からすると、たとえどれだけ厳しくなったとしても悪くはないとは思いますが、同時に、上記のような正しい自己認識を弁えて慎重に行うのでなければ結局は、自分の存在基盤を毀損してしまい、取り返しのつかない悲惨な事態を招く可能性が高いと考えるのです。

まずは我々ひとりひとりが真っ当な日本国民となった後で、隠れた裏社会の本質が自ずから悪魔性として現れてくるのか、それとも神聖性として現れてくるのか、泰然自若として眺めるというのも、取るべき方策のひとつと言っていいのではないかと考えます。

今後暫くはこのスタンスの下、『「三人の天皇」を検証する』を初めとする一連の著作を行っていくつもりでいます。

秦氏への新視角を紹介

2012-07-11 02:49:19 | 日本論と宗教論
私の思考パターンは、どのような対象であれ、部分否定と部分肯定あるいは現象の奥に隠れた本質への志向となっているようです。それは私の役割や強みであるとともに、何処かで弱点になってしまっているようでもあります。荒々しい破壊の力に欠けるところがあるということです。

ですから、はぐれメタルファラオさんが実体験に基づいた秦氏への「悪感情」を剥き出しにして見せながら、豊富な聖書の知識や高度なシンボル操作の技能、予言や霊感への躊躇なき信頼などを拠り所にして秦氏というテーマに、独自の視点から果敢に切り込んで行き、私にはとても気づくことのできないような側面を次から次へと掴み取っているのを拝見して(例えば、新羅系秦氏はアシュケナージともやや異なる、エソウ及びヘロデ系の偽ユダヤ背教徒である。日本においてもその本質としての悪魔性を臆することもなく発揮し続け、巧妙な陰謀を巡らし続けながらジワジワと、他系秦氏をはじめとする多くの善良な氏族の活力を奪い続け、利益独占の領域を広げ続けてきた。現在では官僚組織や企業を完全に牛耳ってしまっていて、これが現代日本の諸悪の根元となっているといった洞察など)、全部を鵜呑みするのでは勿論ないにしろ、とにかく自分の視野が大きく広がっていくのを実感するとともに、少なからぬ部分で成る程ごもっともと納得させられ、従来の自分の構想を振り返り訂正を施した上でより充実したものに発展させなければといった意欲が(例えば、ヒッタイトやチュルク、カナン、アマレク、エラム、エドム、エブス、フェニキアなどをもっと正確に整理しなくてはという問題意識や、現代日本の官僚に対する眼差しをもっと緻密なものにしなければという問題意識が)、大いに刺激されるのも感じました。また、安易な日愈同祖論への警告にも改めて、襟を正す思いでした。

はぐれメタルファラオさんの〈はぐれメタルファラオ節〉の効いた小気味良い文章を、今後も大いに参考させていただきます。

読者の皆さんに告知 02

2012-07-09 23:56:28 | 日本論と宗教論
『「三人の天皇」を検証する』の第二部を書いて行く過程で、どうしても新羅と倭の関係についてもう少し煮詰めてみたいと考え、ひたすら研究しております。完成次第アップいたしますので、乞うご期待!代わりにと言っては何ですが、研究の過程で非常に素晴らしいブログを見つけましたので、皆さんにも読んでいただきたいと思います。

http://s.ameblo.jp/haguremetalking/

アイデアが次から次へと言葉になってリズム良く飛び出してくる感じが非常に心地よい、内容も濃い、優れたブログと感じます。