飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 02

2013-01-26 13:04:27 | 邪馬臺国
一般的に今より海面が高かったとされる縄文前期から弥生の末までの期間でさえ瀬戸内は、大きな汽水湖を湛えてはいても、飽くまでも陸だった。現在のような海らしい海になったのは紀元後3世紀以降のことだった。このようなことを今ここで私が科学的に明確に立証することはできませんが、ただ、『魏志倭人伝』里程記事の最も整合的な解釈という観点からすれば、瀬戸内のこの地域が当時もまだ陸地でその後比較的新しい時代に海中に沈降した可能性が高いということだけは断言できると思うのです。


ここでは仮に、瀬戸内のその海域が紀元後3世紀の時点で陸地だったものと仮定して話を進めることにします。すると実は、現在の九州北西岸に当たる地域から大和盆地南東部に比定される邪馬臺国まで移動しようとする場合に当時最も能率がよかったのは、安芸まで10日水行し、安芸で上陸した後必ずしも十分に整備されているわけでもなかった山陽道を1月かけて陸行するコースなどではなかった筈なのです。

註:そもそも瀬戸内が当時も海だったのなら、瀬戸内を安芸以降もそのまま船に乗って浪速まで行き、大和川水系を遡ればいいはずです。なのに、魏志倭人伝の記述ではそうなっていない。このことの意味にも注目して欲しいと思います。

不弥国から船に乗って豊後水道を抜け、四国沿岸を南に辿り、阿波の近くで現在の紀伊水道に当たる地域を流れていた古大阪川に入る。その支流になる現在の紀ノ川を遡って橋本辺りに到り、そこから残りの僅か27kmをのみ陸行する。このような、できるだけ陸行を回避したコースこそ最も能率がよかったはずだし、最も頻繁に使われていたはずです。投馬国まで20日水行し、投馬国で上陸した後は残りの約160kmを陸行するコースも悪くはないのですが、便利さの点では四国沖廻りのコースの方が遥かに優れていた。【図7-特j拡大版】


魏の使節団が北九州奴国の豪族たちにエスコートされながら安芸経由で、1月の陸行を必要とする必ずしも最適とは言い切れないような不便なコースを取って邪馬臺国まで移動する際に、四国沖廻りのコースや投馬国から直接陸行するコースは何故か、別のより便利な選択肢として存在を知らされることがなかったのです。考えてみれば、魏からの使節はそもそも九州になど上陸せずに直接邪馬臺国まで行けばよかったはずです。なのに、九州への一旦の上陸と暫くの滞在を強要され、自分たちが乗ってきた船も末盧国で放棄させられ、その上で恐らくは九州勢力が用意した舟に乗せられて、九州勢力の役人に伴われて、不弥国から邪馬臺国まで行ったのです。或いは最早邪馬臺国までは行かず、不弥国以降の里程については、九州勢力の役人の説明以外の何物にも基づくことなく記述されたのかもしれません。その場合でもわざわざ、非能率的な行程だけを伝えられたことになる訳です。九州より南(現在の地形では東)の地域を、投馬国のある山陰は別にして魏の使節にあまり詳しく知られたくないという強い意志が存在していたのでしょうか?また、大和盆地の邪馬臺国を中心とする国家連合の中でも相変わらず九州が、大陸や半島からの単なる入口に留まらない特別な地位を維持していたということなのでしょうか?上記の事実からはまさに、これらのことが読み取れます。九州奴国と近畿の邪馬臺国、丹波出雲の投馬国、四国の阿波、それに瀬戸内の安芸や吉備、播磨。これら5つの地域の連合の仕組みが、今読み取った二つのことから仄かながらある程度は類推できるように感ぜられます。魏志倭人伝里程記事の上記のような解釈を通じて得られた現代のものとは随分異なる当時の列島地形の詳しい様子や、魏の使節団に対する倭国側の情報管理の大まかな様子。これらとの擦り合わせの元で、私がこれまでに探っては組み立て大きく詳しくしてきた列島や半島を中心とする古代の東アジア諸国の成り行きを、最後にここでもう一度まとめてみたいと思います。

紀元前16世紀以前の列島は、極少数の雑多な部族がまとまることなく散在し、ほとんど無人状態と言ってもいいような状態でした。しかも何故か、その小規模な人口のほとんど全てが東日本に集まっていたので、西日本の無垢さと言ったらこの上ないような程度のものだったことにもなります。しかし紀元前16世紀になると、タルシッシ船による中東からの海路の発達延長によって列島にもエブスやハッティの製鉄及び通商基地ができます。それが今の国東半島北東部の重藤遺跡であり、西側の平野にある宇佐でした。

註:中東や地中海世界では紀元前13世紀~12世紀頃に謎の「海の民」による大規模な破壊活動があり、そのせいで青銅器文明が滅びました。青銅器制作を中心に組み立てられた大規模な国家が消滅し、多くの小規模国家群がまとまることなく繁栄していくようになったのでした。青銅器時代に製鉄技術を独占的に保有していたヒッタイト王国もその際に滅び、それを契機として製鉄技術が各地に拡散していくことになりました。こうやって次第に、鉄器の時代が始まっていったのでした。鉄器を帝国運営と他国侵略に大規模かつ組織的に利用し栄えた最初の帝国がアッシリア帝国で、あの北イスラエル王国もこのアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリア帝国の繁栄には、フェニキア商人連合体とアッシリア王家との密接な協力関係も重要な役割を果たしたと言います。紀元前17世紀の列島への製鉄文明の伝来は、この滅びる以前のヒッタイト(ハッティ)の植民活動の結果によるものでした。

エブスというのは、古来から日本では恵比寿とか蛭子と言われる部族のことで、聖書ではノアの三人息子セム、ハム、ヤペテの内、ハムの子孫とされています。ヘブルやイスラエル、ユダヤはセムの一族が段階的に選別されていくことで生まれた部族ですが、そのイスラエルやユダヤに巧みに侵入してバール崇拝(牛崇拝)の悪い影響を与えたなどと聖書で盛んに罵られているあのカナン人や、バビロニア帝国の王でバベルの塔のエピソードで有名なニムロド王も、このハムの末裔であるとされます。更には、エジプトに侵入してある時期エジプトを支配していたヒクソス=アマレクや後世ヨーロッパの黒い貴族など、世界中で悪の支配者として暗躍してきたとされる者たちの起源をここに求める人もいます。

註:イスラエルたるヤコブの兄エソウの一族エドムがその起源だという人もいます。何れにしろ、神によって部族の聖別が行われるたびにその聖別から漏れた者たち、或いはその際に神の呪いをかけられた者たちの秘教的部族組織が、現代にまで通じる悪の元凶となっているという説です。悪意の実体化した宗教的秘密結社のことです。これにはある意味大いに信憑性を感じ取る必要があるだろうと私は考えています。

対してハッティとは、英語ではヒッタイトと称される製鉄部族のことです。彼らは、別の文献上で後にフェニキアとも呼ばれることになるエブスと、アナトリア(現在のトルコ)南部にあった地中海岸の町タルシッシを拠点に大いに商取引を行い、世界中の想像以上に広い範囲を航海して回る所謂「タルシッシ船」を共同で運営していました。当時彼らの基地だった地域は現在、世界中どこでも、マカンとかバカンという名称で呼ばれているようです。例えば、古代インドのマガダ王国は彼等がガンジス川流域に進出して創った国だと言われています。列島の大分・福岡と山口の間の海峡の名称もまた馬関海峡となっています。当時はまだ島だった韓半島西南部にもそれができ、馬韓と呼ばれるようになりました。マカンやバカン以外には、マトゥラやマドウラ、マドラス、マルーワ、マトウラ、末盧、松輪もまた、彼等が各地に植民して作ったもうひとつの系統の国々なのだそうです。

註:シュメールは東南アジアからインドを経てメソポタミア南部に入り込み、東南アジアで既に獲得して持っていた青銅器制作技術を中心とする高度な文明を中東に初めてもたらしました。シュメールは中東の北部に位置していたミタンニ=フッリ=アッリ=アーリアとの交流を通じて地中海沿岸のアナトリアにいたハッティ=ヒッタイトとも一体化していきました。シュメール諸族はバビロニアやアッシリアによってメソポタミアから駆逐された後で中央アジアに移り、サカ=サカイ=スキタイ(シャカ=サンガ[僧侶]=昔=嵯峨=相模)の一部となりました。そしてその後で、様々な時代に様々な経路を辿って半島や列島にまでやって来たのです。このシュメール諸族も、列島最古の王族ハッティ=「蘇我」も、どちらも同族でした。「蘇我」とはサカや昔の意味も含み、シュメールの流れを汲むからこそ北部アジアで、更には列島でも、最も権威ある王統と重んじられたのかもしれません。ハム系の海人龍蛇族ナーガ=エブス=中臣とのパートナーシップは、インドからメソポタミアに入った頃、既に始まっていたようです。所謂王権と商人連合体との連携のことです。

当時はまだ西日本島が台湾島や沖縄諸島と共に江南の近くに位置していました。しかも、九州が南で近畿が北となっていたのです。紀元後57年とかなり時代は下りますが『後漢書東夷伝』の中で倭からの使者についての記事に「奴国は倭の極南界に位置する」という内容の記述が入っているのはそのためなのだと思います。東日本や北海道などはフィリピン諸島やパプアニューギニア島の近くにありました。パプアニューギニアから縄文土器が出土するそうですが、この時代に両島の間に密接な文化的交流があったからだとのことです。【図X】

江南地域で稲作を営んでいたミャオ族も、エブスやハッティの基地ができて開発され始めた西日本島の各地に入り込み、筑紫平野や福岡平野、日向、肥後、山陰、山陽、四国、近畿、尾張といった地域のあちこちに小規模の弥生集落を創っていきました。この中には犬戎という犬をトーテムとする、元々は遊牧民だった西方チュルク系の諸部族もいて「狗」の文字の入った名称の国の起源ともなりました。息長や葛城はその内のひとつではないかということです。息長が半島北部から満州に創った高句麗が牛や猪、馬だけではなく狛犬のトーテムとも深く関わるのはこのためです(牛加、猪加、馬加、狗加の諸加)。今述べた息長や葛城をも含むこれらの部族が全て、かつては江南にいたのであり、そこで一旦は南方化、稲作農耕化されていたのでした。彼らの支配者は勿論、九州を中心として、エブスやハッティだったはずです。

エブスは列島や半島では後に中臣とか金と呼ばれるようになった氏族で、福岡平野の奴国をはじめ「奴」の文字を含む国名を持ったその他多くの国々の、或いは半島の伽耶或いは加羅、狗邪の、後には新羅の王族として存続しました(「かや」や「から」の「や」や「ら」は「な」や「り」と共に、国を意味する言葉だったようです。「な」と「ら」は言語学的にも近接関係にある音声です。韓国語の「なら」はまさに「国」のことです)。伽耶の初代王金首露(キムスロ)=エブス王クルタシロスの妻は許黄玉(ホファンオク)と言い、インドのアユタ王国の姫でした。インドから東南アジア、江南、台湾、琉球から半島や列島へと到る、想像以上に活発な海の道によるネットワークの厳然たる存在を改めて示唆する事実です。この許は江南に拠点を置いた呪術集団の首領の姓として中国では伝わっていて、一説によると、呉の将軍で後に燕の王族となった公孫と同じように、卑弥呼一族の出自との関連を取り出すことができるようです。

ハッティは、現在ではその本当の氏族名(恐らくは昔)が隠蔽されてしまっているために平安時代にある人物によって象徴的に命名された「蘇我」という偽称しか伝わっていません。しかし、宇佐の京都(みやこ)を中心に東表国=豊国を運営し、中臣氏=金氏の弁韓諸国連合にも関わりました。安芸や伊予、周防によって囲まれた海域が地殻変動で形成された後は、この海域全体が彼らのホームとなっていきます。宇佐や宇部などといったこの海域内の地名の類似にも注目すべきです。「豊」や「宇」がこの氏族を表す文字だった可能性もあります。臺与と壹与、邪馬臺と邪馬壹が混同されることと、この海域に豊国と伊予国が共存していることとは、何らかの関係があるのかもしれません。

註:臺与=壹与とは、卑弥呼の死後暫くしてから卑弥呼の後継者として邪馬臺国の女王となったと史書に記されている人物のことです。

紀元前16世紀に山東半島辺りから中原に侵入して夏王朝を滅ぼし、インドから持ち込んだ甲骨文字(この文字が記された甲羅の亀はインドから東南アジアの海域にしか棲息していない)と、鉄器や青銅器を持って殷王朝或いは商王朝を運営したのもこの「蘇我」だったと言われています。殷王朝が周王朝によって滅ぼされた後は、中原の東部や半島に退いて東夷とか朝鮮(箕子朝鮮)と呼ばれることになります。朝鮮とはですから本当は、我々が直ぐに想起するあの朝鮮ではなく、我々が暮らすこの列島の最も古い王族に繋がる人達の呼称のひとつだったのです。箕子朝鮮が燕の衛満に滅ぼされた後は、この箕子朝鮮の王族はより北部の濊族の土地に退き、その土地で扶余を建国することになりました。この扶余が列島ではニギハヤヒ=大物主や百済王の扶余にも繋がっていきます。漢や蜀漢の王朝もこの殷王朝の流れであり、漢や蜀漢が滅びた後この流れは漢氏や高向氏、阿部氏として列島にも逆輸入されたようです。列島では東表国の王族としての地位を保ち続け、その上で中原から入ってきた殷王朝や漢王朝の流れも取り入れて、列島全体の王位の継承権を担う貴重な存在であり続けます。中央アジアの遊牧氏族であるエフタル系の「継体天皇」が列島に侵入して来て定着した際には、暫くの間は列島から駆逐され、半島の各国でのみ活動しました。その際に新羅に定着したインドのクシャトリア起源の「蘇我」氏が、新羅系秦氏と共に後の列島では、源氏と呼ばれるようにもなっていきます。源氏は新羅系であると同時に「蘇我」の一派でもあったのです。列島からエフタル系の「継体天皇」の勢力が駆逐された後暫くすると、当時の東西ユーラシア世界で有名な突厥王族であった「聖徳太子」ことタリシヒコが高句麗や百済経由で列島に入って新しい王朝を打ち立てます。その際には「蘇我」氏も共に列島に入り込み、列島での経済基盤を各地に新しく取り戻しつつ「聖徳太子」の一族とも婚姻関係を結び、「聖徳太子」の子である山背王の頃には列島で絶大な権勢を振るうようにまでなっていました。漢氏も「蘇我」の系統で、「蘇我」氏と漢氏やその子孫の高向氏、阿部氏との密接な関係が頻繁に指摘されるのは、そのせいでしょう。恐らくはこの劇的な列島復活もあって、後世「蘇我」と命名されたのではないでしょうか?「蘇我」や源氏のことを渡来系であると言う人がいると同時に、原住系だと言う人もいるのは、このような複雑な理由があったからでした。この「蘇我」という呼称について、秦氏と婚姻関係を結んで秦氏のいずれかの家系からイエス=メシア或いはイエス=キリストの血脈も受け継ぎ(応神天皇の頃の出来事と思われる)、その蘇りの奇跡に因んだから「蘇我」なのだと主張する人もいます。イエス=メシアではなく景教のイエス=キリストなら、突厥の王族として中央アジアで活躍した経験のあるタリシヒコこと「聖徳太子」や、その列島における経済基盤となった山城の秦氏との関連を想起すべきでしょう。

以上ふたつが魏志倭人伝に九州勢力として登場してくる人達の内の半分の正体です。