飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について 02

2013-01-12 16:08:29 | 邪馬臺国
>対馬西岸のA港から瀚海(カンカイ)という名前の海を南(実際は南東に)に1000余里移動すると一大国(一支国=壹岐国)のB港に着く。一大は、300里×300里(短里:26.4km×26.4km)の範囲にすっぽりと収まる大きさの島である。【図4】

>一大国のB港から海路を1000余里移動すると末盧国(松浦国)に着く。末盧国から陸路を東南に(実際は北東に)500里行くと伊都国(糸島)に着く。【図5】



魏志倭人伝は方向と距離に、何らかの理由で異常があるというのは有名な話ですが、私の知る限り、不弥国から投馬国や、不弥国から邪馬臺国への道程に話を絞り込む人が多いようです。その上で、邪馬臺国に実際に行って調査して報告した人や、それを受けて記録した人、或いは原本や書写本の書写を重ねてきた人々、更には東洋の地理観を継承していた当時の中原の知識層全体など、魏志倭人伝の編集に関わった人達の如何にも人間的なミスにその原因を仮託する人が大半になっているようです。

人間的なミスについては、それを認める場合、そのミスの仕組みを統一的に認識できない限り魏志倭人伝の解釈に手を染めることそのものが矛盾した行為になってしまいます。信用できないものに拘り信用するということになるからです。私の見るところ、距離と方位の異常はこの対馬国から一大国、一大国から末盧国への道程記事から始まっています。その後の各国の道程記事における方向異常が全て統一的に対馬海峡内のある点を中心にして反時計回りに約70度回転していると規定した上で、その点を修正しながら魏志倭人伝を解釈すると、他のポイントでは異常などほとんど見られなくなります。このことを踏まえて地図上で、一大国と末盧国の位置を記事に合わせて修正してみると、列島を対馬海峡内のある点を中心に現在の位置から時計回りに70度回転させた時に対馬と九州の間の海域が拡大するのですが、その海域内の丁度いい位置に、この修正後の一大国がまるで申し合わせたかのように収まるのです。末盧国の位置も記事の内容にぴったりです。【図5-a#】【図5-a】



ここで列島移動説について説明しなければなりません。西日本島はかなりの距離を移動した後、同じように長距離を移動してきた東日本島と接合してフォッサマグナを形成しつつ、観音扉を閉じるかのように現在の位置に収まった。衝突以前、西日本島は、台湾島や琉球諸島と共に江南から分離し、江南や台湾、琉球諸島から次第に遠ざかって現在の位置まで移動した。これが列島移動説ですが、この説は一般にはあまり知られていません。しかしながら実は、プレートテクトニクス理論に依拠した古地磁気学で既に正式に解明されたことなのだそうです。【図X】


この一連の移動が何百万年ものタイムスパンで起こったとされる訳です。ここで、そのタイムスパン設定の科学的根拠が脆弱であることを踏まえながら、魏志倭人伝解釈にこの列島移動説を導入した際のほぼ完璧な整合性をも考慮に入れてみるのです。こうした時に、この移動が紀元前4世紀頃から紀元後3世紀という、比較的短いタイムスパンで起こったのではないかという疑念が湧いてくる訳です。この疑念については、たとえそれがどれ程常識から遠くても、簡単に無視できる話ではないと私には思われるのです。逆に魏志倭人伝そのものが、この一見「常識はずれ」の説を裏付ける貴重な史料なのかも知れないのです。

今ここで私が「ほぼ完璧な整合性」と述べたことの具体的な内容については、この記事のこれ以降の論述で明らかになります。