飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「安保法は戦争法ではない」を斬る

2016-02-24 09:45:22 | 政治
飽く迄も自然状態に於いてという限定付きではありますが、現代の国際社会は、国と国との戦争など起こりにくい構造になっています。各国の生産活動が、勿論兵器の製造も含めて、他国の健全な生産活動を前提して初めて成り立つといったような具合になってしまっているからです。国相互の底辺に於ける結び付きの深さが昔とは比較にならないくらい大きくなっている。その状況はまるで、国境など最早存在していないかのようでもあります。特に中国にとっての日本、アメリカにとっての日本、北朝鮮にとっての日本の意義は、余りにも大きなものになっている。このことからも、自然状態に於いてそれらの国が日本を、攻めてくることなどほぼないことが分かります。

ところで、次のような主張を最近、インターネット上のあるブログで見つけました。

「国連では、従って現在の国際法では、個別的自衛権と集団的自衛権、集団安全保障が認められている。五大国の合意があれば、国家が集団になってある国を、仮にその国がこちら側に対して武力行使に打って出てきていない段階に於いてさえ、攻め込むことができる。これが集団安全保障。それに対して、五大国の合意が成立しない中でも、ある国がこちら側に攻め込んできた場合に限って、自衛としてその国に対する武力行使が認められる。この自衛としての武力行使には個別に行う自衛だけではなく、関係の深い幾つかの国が協力し合って行う自衛も存在する。これが個別的自衛権と集団的自衛権である。現在の国際法では、要するに国家の武力行使は国連によって、以上のような厳しい統制を受けて管理されているのだ。」

「ところがである。更に、それとは別に、或る余計なものが付随してしまっている。それが敵国条項である。ドイツや日本などの旧枢軸国に対しては、以上のような国連による武力行使管理の埒外に置くという内容の取り決めのことである。これらの国に限っては、これらの国に対して仮にどこかの国が突然の軍事行動を仕掛けても、それを国連として問題にすることはない。五大国の合意がない場合でも、これらの国に対しては、必ずしも自衛権の行使とは言い切れないこちら側からの積極的な攻撃が、個別的にも集団的にも可能である。これが敵国条項なのである。」

「日本国はこの敵国条項の対象国であり、ということは即ち、この日本国にはどの国であろうとも、国際法による制約を一切受けることなく、比較的自由に攻め込むことができることになっている訳だ。これが正に現実なのだ。実は、今回の安保法制定の動きは、現在の国際法におけるこの敵国条項の対象から近い将来日本国を除外して貰う為の動きに過ぎず、それ以上の意味は特にないのだ。逆に、これが実現しないと近い将来、日本は必ず、窮地に置かれる筈だ。従って、今回の安保法制定は、その第一歩としては、極めて望ましいものと言うべきである。これを批判してはならない」

このような主張です。

この主張を聞いて皆さんはどう思われますか?成る程そうだったのか。それなら安保法も仕方がないだろう。このように感ぜられるのでしょうか?

しかしこの主張は、現在の国際情勢とはかなり異なる約70年前の第二次世界大戦直後の国際情勢をベースに整えられた国際法の枠内でしか表現されない、極めて限定された形での「現実」を伝えているに過ぎないのです。

既述の如く、現在の国際情勢は、日本の繁栄が他の多くの国の繁栄の基盤といった具合になってしまっているのです。そして、現状がそのようなものになっているのは実は、決して偶然ではない。というのも、平和憲法と自衛隊の存在の元で、日本国が国防上の、戦争行為以外の実質的で有効な措置を幾重にも、ありとあらゆる方面、局面で絶えず、施し続けてきたからに他ならないからです。何とも意外な話ですが、これは紛れもない事実です。

こんな状況でありながら、それでも戦争が起こると言われるのは一体どういうことなのでしょうか?安保法を巡る論議の際には多くの人が、いずれの立場の人も、戦争が近い将来起こり得るという想定を無意識の内に無批判に受け入れているようにすら見受けられます。ところがそれは違うのです。戦争が起こりそうだから、安倍を始めとする人々が何とも親切なことに、日本国の国防は非常に脆弱だとの分析を行ってくれた。その分析の元、予想される巨大な批判をものともせずに勇気を振り絞って安保法の制定に邁進してくれた。...ということでは、これは絶対にないのです。

それは実はこういうことです。戦争を起こしたいから戦争が起こりそうだという想念を先ず一般に普及させよう。その為には安保法制定の動きを見せて論議を沸騰させる。そうすれば戦争のことが少なくとも、国民一般の意識には上ってくる。こうなってしまえばもう大丈夫。国民一般の意識を戦争容認の方に傾ける手段など幾らでもある。何せ、マスコミを始めとする情報機関は全てこちらの側の完璧な管制下にあるのだから。これらの手段を用いて情報を制限し、国民一般の判断力を無意識レベルで鈍らせてしまった上で、表面上は親切と愛国心を装いながら巧妙に、戦争容認への雰囲気を煽動しよう。...これが正に実態なのです。

繰り返しますが、日本を取り巻く現在の国際状況は戦争など、自然状態では絶対起こらないようなものになっています。こんな状況の中でありながら戦争が起こるとしたら、それは最早、国際関係上の力学の変化に基づいて自然に発生したなどととは、決して言えない筈なのです。即ち、何か別の特別な力が働いたに違いない。

国家と国家と国家の背後には、実は、いかなる国家をも超越した超国家的支配勢力が幾つか存在しているのです。それら超国家的支配勢力の内、国際関係上の力学の変化とは全く無関係なところで今、戦争を起こさない限り苦境に陥ってしまうと自らのことを危惧する勢力があるのです。その勢力が、綿密な長期計画の元でその計画の実行に動き始めた。戦争が起こるとしたら、その結果以外の何物でもない。

そう言えば、現在の「戦争」はどれも最早、国家とは異なる集団のテロ以外のものとは殆ど言えなくなってしまっています。これについて異議のある人はいないことでしょう。その理由も実は今私が述べたことの内にあると言えないでしょうか?つまり、国と国がなかなか戦争できない状況にある。が、どうしても戦争を起こしたい。だから、国家とは無関係なグループにテロを続発させるしか方法がない。こういうことなのではないでしょうか?

戦争を起こそうとしているこの勢力がこの日本国で不正選挙を行い、安倍自民党に無理やり政権を担当させました。安倍はこの勢力の謂わばエージェントです。この勢力のエージェントは政界だけではなくマスコミにもインターネット上にも沢山配置され、目下のところ盛んに戦争気分を煽動して一般化しようと躍起になっている最中と指摘できます。

必然的な文脈が現状では全く見られないにも拘らず安倍政権が今になって何故か急に安保法制定の動きを始めたのも、その動きを支持するために青山やら桜井やらがあちこちで中国脅威論を吹聴して回っているのも、更には、インターネット上に嫌韓嫌中などといった、以前だったら「何と下品な」と言って誰にも見向きもされなかった筈の明らかな偏見をテーマにしたプロパガンダ活動を盛んに行う連中が雨後の筍の如くうじゃうじゃ出てきているのも、戦争を起こさないとまずい状況にあるかのいち支配勢力の思惑がそれらの背後でそれらを動かしているが故のことだったのです。

彼らがその煽動の際によく「敵国が攻めてきた時に現状では国防上、非常にまずい状況にある」と言います。この認識は一見整合的にできていて、妥当のように感ぜられます。が、実は飽くまでも情報不足の中での整合性、妥当性に過ぎないのです。そういった意味での典型的ながら非常に危険なプロパガンダなのです。その奥に隠された本当の意図は平たく言うと、我々庶民平民からのより効率的な短期収奪の合法化であり、我々庶民平民の間引きと数の削減であり、国民と国民と国民の横の繋がりの分断としてのナショナリズムの台頭なのです。これら以外の何物でもない。戦争とはそういうものなのです。それはただ、多くの普通の人々の目には見えにくくなっているだけです。

そんな意図を背景にした危険なプロパガンダに、整合的で妥当な感じがするからと安易に飛びつく人達の何と多いことか。これは、第二次世界大戦時に当時の日本国民が陥ったのと全く同じ過ちに、その子孫である私達が再びまんまと陥ってしまうことを意味しているのです。本当にこれでいいのでしょうか?

更に悪いことには、普通の庶民平民でしかないのに、そんなプロパガンダの見かけ上の整合性、妥当性に安易に乗っかって「安保法賛成」と叫びながら激昂して「護憲派はバカだ。左翼だ。非国民だ」などと敵意を剥き出しにする人々すらいます。この輩に至っては、ですから、ありとあらゆる角度から見てとんでもない愚か者と言わざるを得ません。

今こそ我々庶民平民が本当の知性を発揮すべき時なのです。抑も本当の知性とは、学校教育に限定されない領域に思索の範囲を大きく広げ、自分で情報を集めて、それらを自分の体験とも十分に照らし合わせながら分析し、総合できる能力のことです。それなのに、自分のことを高学歴と自惚れつつ、そのような意味での本来の知性のことには思いも寄らないでいる所謂「なんちゃって知識層」に、どうやら今述べたような類の輩が多いようです。通常ならそんな中途半端な輩には発言の場所など与えられない筈です。が、今はインターネットの時代になってしまっています。インターネットでは何故か、まるで当然であるかのように、そんな輩にも発言権が与えられている。我々庶民平民が今問題としなければいけないのは、何よりも先ず、このような輩の存在なのではないでしょうか?

抑も、私達日本の庶民平民は、明治維新以前はまだ所謂「国民」ではありませんでした。誰かの所有物である土地にそこで生産活動を担う労働力として暮らし、その誰かに所有される存在でしかありませんでした。所謂「村人」でしかなかった。その自己意識は常に村落の共同体との繋がりの中でしか成立し得ないものだった。

ある時そこに、世界規模の大きな変化の潮流がやってきた。土地とそこから生産される農産物とその商取引きをそれ迄、権力の基盤にしていた支配層が、その基盤を工業生産と金融に逐次切り替えていき、国家体制もひとつの日本国として纏めて近代化していかざるを得ないそんな時代の到来のことである。この潮流の中で「村人」達もそれ迄の共同体との紐帯を断ち切って個として独立し、国民かつ労働者、及び、兵士としての適性を得るための教育も施され、文字通り心身ともに根本から改造され始めるに至った。改造された上で大挙をなして村落を離れ、次から次へと都市に殺到し始めた。この流れは拡大生産、拡大消費を前提とするもので、生産と消費の拡大が止まるまで極限まで続いていった。

ある時、いつかは止まる運命にあったこの拡大が実際に止まる時が来た。その時、バラバラの個として極限まで孤立させられていた我々国民は必然的に、個としての本質を維持したまま、拡大期には状況が許していなかった共同体を、以前のムラ社会のものとは全く異なる形で形成していくことを志向し始めることになった。そんな我々国民の前に、そのような志向性の存在を見越したかのように、インターネットがもたらされた。

このインターネットには、この我々国民の現在の志向性に対して、陰陽両面の意義があるのではないでしょうか?ひとつには、我々国民のこの志向性が多様なムーブメントとなって無秩序な動きをし始めるのを仮想空間内に完全に閉じ込め、それらが現実世界にムーブメントの場を移すのを予め抑制し、現在の秩序に余りにも急激な変化が生じるのを防ぐこと。もうひとつは、この志向性そのものは容認し、国家全体の新しい発展の為に現実世界で積極的な役割を果たし得る幾つかの共同体を選択、観察、支援、育成、保護していくこと。これら二つの意義です。

戦争反対の立場なのに明らさまな詭弁に安易に引っかかってしまい結果として安保法賛成になっている人達にしろ、戦争反対だが容認止むを得ずとして安保法賛成になっている人達にしろ、嫌韓嫌中の扇動に乗ってミリタリー趣味や戦争気分が昂じた結果何にも考えずに何となく安保法賛成になっている人達にしろ、安保法に対してインターネット上で賛成の声を上げて「護憲派」を罵倒している人達は、自分達一人ひとりの声が集積してひとつのムーブメントとなりつつある今、それが上に述べたような「国家の新しい発展」に本当の意味で有益なものにはなり得ないことを考えなければなりません。そんなあなた達の姿には私達だけではなく、私達全員に明確な意図を持ってインターネットを与えた「彼等」からの冷徹な視線も注がれている。このことを重々覚悟しておかなければなりません。

さて、最後に、平和憲法と自衛隊の関係について若干のことを説明しておかなければならないと思います。

この論文の中で私は、平和憲法と自衛隊の存在がベースになって、日本を巻き込む国家同士の戦争が起こりにくい現在のような好ましい状況が形成されたのだと述べました。それを耳にした時に「平和憲法では武力も武力の行使も認められていないのに、平和憲法と自衛隊の存在がだなんて、極めて矛盾したことを述べているのでは?」と感ぜられた方も少なからずいるはずです。その方々には、日本国憲法第九条の、次のような最も一般的な日本語訳をもう一度読んでいただきたいと思います。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ここでは決して「武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」とか「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを保持しない」とは実は、書かれていないのです。このことに十分注意してください。それぞれ

「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

とか

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

といった具合に「国際紛争を解決する手段としては」とか「前項の目的を達するため」といった条件付きで書かれているのです。

これら条件が付くと付かないとでは、全く意味が違ってくるのです。このことがよく理解できない人の為に、以下に簡単な例を挙げてみます。例えば、好きで付き合いたいとずっと思い続けていた女の子に勇気を出してやっと「好きです。僕と付き合ってください」と告白した青年のことを考えてみて下さい。この青年にこの女の子が次のような返事をしたとします。つまり「あなたのことは友達として本当に心から愛しています」という返事です。「あなたのことは本当に心から愛しています」ではなく「あなたのことは友達として本当に心から愛しています」です。

この返事を聞いた若者は歓喜の表情を浮かべるでしょうか?それとも、落胆の表情を浮かべるのでしょうか?その答えは明らかでしょう。即ち、こうでしょう。「あなたのことは友達として本当に心から愛しています」と聞いた瞬間に、この若者は「けど、それはそれ以上の愛ではないし、男性として愛している訳ではないの。ごめんなさい」という内容を言外に読み取り、激しく落胆の表情を見せる。こうなるのが当然ではないでしょうか?「友達として」が付くのと付かないのとでは、このように、天と地程の違いが出てくるのです。このことは誰の目にも明らかです。

憲法第九条の場合も全く同じです。「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とか「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」となっているのです。この表現を読んだ時も直ちに、上に挙げた例と同じように、

「けど、国際紛争を解決するという目的以外の目的でなら、例えば、自衛のためとか、抑も国際紛争に巻き込まれることを予防するためとか、仮に国際紛争に巻き込まれても相手国が日本国に攻めてくる気など絶対に起こさないようにするためとか、こういった目的の為なら、武力による威嚇又は武力の行使といえども、それをいつでも行う。陸海空その他の戦力の保持も然り。また、交戦権の容認も然り」

という内容を言外に読み取り、それに沿った国造りに励むのがまともな精神を持った人間の行うべきことでしょう。そして、戦後の日本国は実際、紛れもなくそのようにしてきたのです。現在の日本の国際的地位の確立に平和憲法と自衛隊の存在がベースを与えたと私が述べるのも、以上のようなことを念頭に置いてのことです。

そう言えば、一部の人間から「敵国」として盛んに喧伝されている北朝鮮や中国の「反日勢力」ですら、もし彼らが本当に「反日勢力」なら「平和憲法と自衛隊は矛盾している」などと抗議の声を上げてきても良い筈なのに、それをこれまで全く上げてきていない。つまり、上に私が説明したようなことは「敵国」の「反日勢力」ですら日本国攻撃のネタに出来ないくらい、誰の目にも明らかなことだということなのです。

このような誰の目にも明らかなことが今、桜井やら青山やらによって捻じ曲げられ、マスコミでは彼らの発言が盛んに報道される。そして、このような誰の目にも明らかなことの捻じ曲げのことを、誰の目にも明らかなことの捻じ曲げだと、視聴者の殆ど全員が全く気付かずにいるのです。私の目にはこれは、本当に奇異に感ぜられて仕方がありません。

マスコミに於ける捻じ曲げや誤魔化しは、憲法第九条解釈に及ぶだけではありません。例えば、次のような主張が盛んになされ、視聴者の多くがその捻じ曲げや誤魔化しに気づいていない。即ち、

「自衛隊は本来、日本国が敵国に攻められた時にちゃんと防衛する目的で創設され、運営されてきた。ところが、これまでの法体系では、敵国に攻められた時に備えて創設され、運営されてきた筈のこの自衛隊が活動を、完全な非合理と言い切っていい程度に極端に制限されてきた、或いは、全く保障されていなかったので、日本国に敵国が実際に攻め込んできた時でも、その本来の役割を絶対に果たせないようになっていた。今回の安保法ではこの点が根本的に改善された。これで日本国は、敵国に攻められても大丈夫な国になった。従って、他国から攻められる危険性も劇的に減った」

という主張のことです。このどこが捻じ曲げや誤魔化しなのか?

第一に指摘できるのは、自衛隊創設の目的が意図的に限定されていることです。先ほども述べましたが、自衛隊創設の目的は敵国から攻められた時の自衛だけではありませんでした。その他にも、抑も国際紛争に巻き込まれることを予防するためとか、仮に国際紛争に巻き込まれても相手国が日本国に攻めてくる気など絶対に起こさないようにするためとか、もっと重要で、もっと高度な目的があったのです。それを先ず「敵が攻めてきたのに戦わないなんてバカがいるものか」などと極めて当たり前のことをわざわざ申し立てることによって、視聴者の頭の中で自衛隊の存在価値が、低次元に限定されるよう誘導している。結果、現実とは全く異なり、中国や北朝鮮が今にも日本国に攻めてくるかのような不安を、無意識に刷り込もうとしている訳です。

実際は、先ほどから何度も述べているように、それとは真逆で、単なる攻め込まれた時の自衛以上の遥かに高度な防衛策が長期に渡って継続的に実行され、その結果、自然状態ではこの日本国には攻めてくる敵国など全くない極めて理想的な状況が生まれていたのです。煽動を担当する者たちの中には、現状についての精確な言及を意図的に回避しながらこのような至極真っ当な現状分析を「日本人の言霊信仰に由来する単なる希望的観測」などと揶揄する者すらいます。が、現状を具に的確に分析すれば、そのような揶揄こそ単なるレッテル貼りに過ぎないことが分かる筈です。より高度な防衛に成功し、だからこそ経済的にもこの上なく繁栄している日本国の国防を何でわざわざ、単なる攻められた時の防衛に低く限定しようとするのか?不審極まるとは正にこのようなことを言うのです。

第二に指摘できるのは、攻めてきた時に困らないようにしておけばそれで恰も、抑も国際紛争に巻き込まれることを予防するためとか、仮に国際紛争に巻き込まれても相手国が日本国に攻めてくる気を絶対に起こさないようにするためとかいった、もっと重要でもっと高度な目的が、その現実性を増したかのように強弁している点です。これらもっと重要で、もっと高度な目的は、これこそ日本国憲法序文で表明された確固たる認識の内容のことですが、そんな低次元のことで成り立つのではありません。今ここで具に系統的に説明する訳にはいかないくらい多面的で長期的な努力を必要とするものなのです。そしてそれは、この戦後の日本ではこれ迄、平和憲法と自衛隊の存在の元、長期に渡って継続的に、我々国民ひとりひとりの日常生活に於ける無心の努力をもその不可欠の要素として含む形で、この上ないくらい完璧に実現されていたのです。上の強弁は、これらのことに国民が、気づいてしまわないようにとの意図で行われているとしか思えません。

マスコミに於ける捻じ曲げや誤魔化しとしては更に、次のような主張も挙げることができます。即ち、

「安保法では初めて、集団的自衛権が明記された。自衛或いは抑止が、日本単独のものではなく、他の幾つかの国との協同で行われるものとなった。これで日本国の国防はより効率的でより強力なものとなった。これ迄は自衛隊と米軍が協同で日本国の国防を担当しているかのように語られていたが、それは実は錯覚で、日米安全保障条約が存在してはいても、いざとなった時に本当に米軍が動いて日本国を助けてくれるか曖昧だった。今回はその曖昧さが完全に払拭された」

という主張のことです。

しかし、ある分数の分母に5を掛けながら分子にも5以上の数を掛けてしまうなら、その分数の大きさは、減るどころか増えてしまうのです。それと全く同じことが、上の主張に対しては先ず指摘できます。

確かに、日本一国にのみ関わる事件に対してなら、その数がどれ程増そうが、日本単独でことに当たるよりも米国と協同でことに当たった方が能率がいいのは確かです。しかし、協同する国の数が増えれば、日本がその安全に責任を持たなければならない国の数もその分増える訳で、単純計算ではそれがかの減少分を相殺してしまうことになります。要するに、何の増減もないのです。ただ、この協同態勢に入る日本以外の国、特に米国の性格を考慮に入れると、日本が関与しなければならない武力衝突の増え方たるや、尋常な増え方ではないであろうことは誰の目にも明らかです。

「その場合は、前線には出ず後方支援に回るのですから」と言っても無駄です。例えば、米国と中国の武力衝突に於いて、中国の敵国である米軍の重要な後方支援を行う日本は中国にとって正に、前線で戦う米国と全く同程度に敵なのです。従って、必ず攻撃してくるに違いありません。その上、自衛隊が活動を想定する範囲は、これまでは日本とその周辺だけだったのが、米国が集団的自衛のパートナーである限り、限りなく地球表面の全域に及んでしまうのです。こう考えると、日本国が国防に掛けるエネルギーは、これまでの限りなく理想に近い効率性をかなぐり捨てて、とんでもない混乱の中に押しやられたと言わざるを得ないでしょう。

青山や桜井や勝谷が、日頃どんなに良い人で信頼のある人でも、面白い人でも、非常に優秀で馴染みがあっても、彼等が口に出してくる詭弁に乗ってはいけないのです。いざという時に指令を出して詭弁を吐かせても、国民が簡単に騙されてその詭弁に乗ってしまうよう、青山や桜井や勝谷は、遥か以前から、良い人、信頼ある人、面白い人、非常に優秀で馴染みがある人として、用意周到に育てられてきた、ただのマスコミ上のキャラクターに過ぎません。私も彼等のことはある意味では好きです。ただ、それだからと言って、彼等の詭弁に乗る気など全くしない。詭弁は詭弁でしかないのです。