飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「普通の子」の知能開発こそが教育 01

2013-02-11 19:36:20 | 教育
私が何故、所謂「普通の子」を東大や京大に入れようとするのか。それを基本理念に据えた予備校を運営しているのか。そうしなければならない理由は何なのか?説明が必要なようです。

東大や京大と言えば、そこには厳しい競争を勝ち抜いた人が入ってくる。東大や京大に入学できた人には、与えられた領域でという限定は付くものの概ね、困難に打ち勝つ能力と経験がある。だからこそ社会の中枢には、東大や京大を卒業した人を配置した方がいい。実際、このような慣例が歴然と存在している。そして、学科試験の競争には多くの場合、知能指数の高い人が勝つ。これもまた歴とした事実である。・・・一般的にはこう考えられています。

知能指数は小学校の入学時に、一連の入学行事の一環として全生徒のものが測定され、記録されることになっています。守秘義務を課せられてはいるものの、教師なら小学教諭から高校教諭まで誰もが、どの生徒のものもちゃんと把握した上でクラスを運営しているはずです。「知能指数と成績が毎年、綺麗に相関し合っているのを見て愕然とさせられる」という話は、教師をしている知人からよく聞く話でもあります。

しかしながら、この知能指数という概念にはトリックが含まれているのです。哲学者かつ宗教者としては、この危険性について指摘せざるを得ません。知能指数というものをよく分析しないまま知能指数と成績の歴然とした相関関係だけを確認してしまうと、知能指数を絶対化してしまうことにもなりかねないのです。明らかに有限で一面的なものでしかないのに、それを見抜くことができず、究極の原因、個人の本質のように誤解してしまう危険がある。こう思うのです。

宗教と言えば毛嫌いする人が本当に沢山いて、その言はんとすることも、そうなる歴史的背景も、理解できる面がないわけではありません。ですが、だからと言ってそれが、自らの存在の奥底から無限を見つめて生きる宗教性そのものの価値を否定することにまで繋がりがちである点には、大いに警鐘を鳴らさざるを得ません。無限を知っているのでない限り、有限でしかないものを無意識に絶対化してしまう。どうしてもそうなってしまう。これが人間なのです。そこに全ての悪の根源があります。

知能指数もこの例外ではありません。知能指数が一度低く測定されたからと言って教師や親が、子供の隠された本当の姿を遠望するという以前なら当たり前に行われていた自然な態度を喪い、この子に対して当初から決定論的に「普通の子」という見方を固めてしまうと、その子にはその見方の元でしか接し続けられないことになってしまいます。するとその見方がいつしかその子自身の中にも侵入して固定し、自分で自分を「普通の子」としか見ないようになってしまう。それが知能の実質的な発達の足枷になってしまう訳です。何故なら「自分は普通の子ではない。やればきっと伸びる」と本人が信じ切っていること、このことこそ知能発達の絶対条件になるからです。「普通の子」が自己意識においても「普通の子」となってしまい、自分に無限の可能性を見出さなくなってしまうと最早、いかなる意味での知能発達もなくなってしまう訳です。学校で勉強するということは、自分に無限の可能性を見て伸びて行こうとする意欲を本来なら根底に持っていなければならないはずです。にも拘らず実際は「普通の子」として日常を無難にやり過ごそうとするだけになってしまう。その証拠に、何でもすぐに「やばい」と口走るようになる。ここにあるのは間違いなく、現状から落ちることへの恐怖でしかありません。知能の発達(霊魂の世話)のことなど本当の意味で関心の枠内に入れられなくなってしまうのです。従って「日々努力しなさい」と指示された時に、一応は日々努力しているつもりになるものの、実質の伴わないものに終わってしまう。学校に行く理由もいつの間にか何処かで、勉強でないものが勉強に取って代わることになってしまう。しかしながら敢えて厳しい言い方をすると、成績が悪かろうと飽くまでも伸びようと意欲して懸命に努力する子の通うのが学校であり、「普通の子」に本来は学校での居場所などないはずなのです。

それに対する教師の知能も授業の品質も、せめて意欲のある子だけはと差別的になればまだ救いはあったもののそうなることが許されず、結局は上のような「普通」への風潮に冒されて全般的に劣化してしまった。これが学校の空洞化に繋がったのです。学校の先生が最早「普通の子」の知能の発達に強い関心を抱かなくなった。知能指数の呪縛を打ち破るような人間的迫力が、いつしか学校から完全に消えてしまった。その結果、知能指数の比較的高い子の中にまで知能の劣化を起こしてしまう子が出てくるようになった。業者作成のマーク式試験や学校教師作成の定期テストでの相対的な成績の良さで気づきにくくなってはいるものの、大学の教官が作る記述式の入試問題になって初めて明確に確認できる実際の学力はとなると驚くほど低いレベルに留まってしまっている。そんな子が、知能指数の高い子の中にも出てくるようになってきたのです。全ては、科学至上主義に基づいた知能指数に対する誤解から、長い年月をかけて熟成された「普通」志向の蔓延と上昇志向の減退によるものです。

そんな中で「普通の子」であれ「できる子」であれ、押し付けられた自己認識に何処かで違和感を感じて自力でそれを跳ね返そうともがく子も確かにいます。普通の教師や普通の授業に飽き足らない気持ちになって、本物の教師や本物の授業を潜在的にいつも求めている。そんな子もちゃんといるのです。こんな子なら例えば私と私の仲間達が教えれば、学校での成績がどれ程低いものであっても、教え始めてすぐに「できる」ようになる。また実際に「結果」が出る。これもまた事実です。業者の作る模擬テストで一貫してよくない点数になっても、この子達は決して慌てません。

「確かにまだ何かが足りないからこそのことだが、伸ばす努力の過程である以上そんなのは当たり前。このまま続けていけば、伸びる時が来る。やり方に何も変更する点はない。そもそも模試は、業者が大学入試に「似せている」つもりで作成するものでしかなく、大学の教官が作る入試とは本質的には違っているのだ。競争相手の存在を実感して、自分の中のある一部分を刺激すること。このこと以外に模試を受験する目的は何もない。模試の成績が悪いから志望校を下げるなんて、滑稽な発想であるばかりか、下げられる大学とそこでの自分の未来に侮辱的だ。何よりも後ろ向きの志向性を含み込んでいて、危険ですらある。確かに、このまま努力を続けても望んだ結果にならないこともあるかもしれないが、そんなことが努力の手を緩める理由になるはずがない。そんなケチな心は、私にはない。そもそも努力することそのものだけは決して裏切らないのだ。必ず何らかの形で報いてくれるはずだ」。

こう信じ切ることができるのです。慌てるのは自らの知能を高めることから遠ざかって久しいにも拘らず(或いはからこそ)教師に対する敬意や謙虚さの持てない一部の愚か極まりない親だけです。最近とみに増えてきた、こんなタイプの親からの無益な妨害をシャットアウトしながら無心で努力を続け、予定通り本番直前に急激に成長して難関私大にトップ合格とか、まだギリギリ未完成期だったセンター試験では気持ちの弱さから緊張して思わぬ大失敗を犯し、常識では合格などとても無理としか考えられない窮地に追い込まれているにも拘らず、日頃の絶え間ない努力の記憶に支えられているせいか、この大失敗が刺激になってかえって心が強くなり、自ら志望校変更を拒み、その後も努力の手を一切緩めず、私の猛烈なコーチングにもむしろ積極的に喰いついてくるようになって、本番の記述式の入試問題では、少なくとも英語や国語、小論文では、他の受験生のレベルを遥かに凌駕したほぼ完璧な答案を仕上げて、大逆転で難関国公立大に合格とか、こういった類のことが、受験生が在籍している限り私の予備校ではほぼ毎年例外なく起こっています(私の予備校でそんな「奇跡的な」ことが、奇跡的にではなく当たり前みたいに起こるのにはちゃんと、隠された合理的な仕組みがあります。それについては、後ほど詳述します)。

しかし、組織の根底から隅々にまで劣化の及んだ現状となっていて、少なくない数の生徒がもう既にその中で、自己認識を固く組み立ててしまっているのです。そのためか、この制度の中で「成績がいい」とされている生徒の内の何人かは勿論、それとは違う評価を与えられている生徒すら逆に激しく、本物を拒絶してしまうことが少なからずある。本物と自負し、本物であろうと努力し、実績でもってそれを証明している教師を私は「本物」と言っていますが、その提供する本物の授業に違和感を感じてしまい、最後までついてこられない生徒が少なからずいるのです。彼らの好むのは自分と同じように「普通」を求める緩いメンタリティと、そのメンタリティによって生み出される「分かり易さ」です。模試の結果に対して極端な心理的依存を見せるのも特徴です。商業主義が極端に進んだ予備校業界でも、そんな生徒達との親和性が学力的にも心理的にも必然的に高くなる、大学生になりたての元生徒を講師として起用することまでして、この「分かり易さ」を実現しようとします。こうして上昇志向つまり知能開発は、受験の世界ですら大きく後退してしまうことになるのです。「できる子」は元々、何らかの隠れた理由でこの上昇志向を持っているのですから、教師が苦労することはありません。賢明なことに社会も、学校を色分けしています。この子達を他の「普通の子」達から引き離して教育する措置だけは、躊躇わずに残しているようです。しかしながら、上昇志向を刺激してこれまでにない実質的な努力へと導き、その子本来の実力をまさに大学入試という現場で的確に発揮するところにまで調整し高めるという、本来のあるべき試みが必要なのはまさにかの「普通の子」なのです。「できる子」がこれはうかうかしていられないぞと思えるくらいの活発で流動的な状況を作り出すのが、受験における教師の本来の仕事なのです。これらの全てが、学校でも予備校でも既存の機関では概して、行われなくなってしまっています。

現在の日本の大学には

(1)東大(国立大学の供託される全予算の半分近くはこの大学一校に集まります)

(2)京大(関西では東大の下に位置させない意識も根強く存在している)

(3)阪大をはじめとする全国の旧帝国大学と全国の医科大学や医学部

(4-A)早稲田や慶応、上智など

(4-B)同志社や関西学院など

(5)地方の国公立大学と大都市圏の教育大学

(6)大都市圏の一般私立大学

(7)その他有象無象の私立大学

という厳然とした階層が形成されています。その差の激しさは、以前の比ではなく大きくなっていると言っていいのかもしれません。そもそも(6)より下だと「大学」と呼ばれながらも実質的には、大学扱いされないのが現状なのです。そんな中でまさにこの階層の大学が、今述べたような「普通の子」達の指定席となっている。(6)以下の大学を(5)以上の大学とひとまとめに「大学」と呼んでいるのは、これら「普通の子」達に対する、本当は限りなく残酷な「思い遣り」なのです。お金を頂いて受験生を預かる以上「普通の子」の知能をどれだけ(5)以上の大学に合格しても順当だと言えるようなレベルにまで引き上げられるかが問題にならなければならないはずです。しかし、例えば関西のある予備校で「阪大クラス」と銘打たれたクラスに入れられると、ほぼ確実に、阪大には入れないのです。「京大クラス」から京大と阪大の合格者が出るようになっている。そんな現状があるのです。京大の問題と阪大の問題のタイプが全く違うが故のクラス分けなのだろうとうっかり思い込んでしまいがちですが、そうではないのです。飽くまでも、京大や阪大に合格する確率の高い生徒達のクラスとそうではない人達のクラス、という分け方なのです。それに実態を隠すような名称を当てている。そもそも、「京大にとまではいかなくとも阪大くらいになら」と言って取り組む、そんな中途半端な勉強なんて本当はあり得ないのです。阪大にも失礼です。阪大は実際は、京大を近いうちにある意味で抜くのではと感じさせるくらいに勢いのある立派な大学です。そんな大学の価値を自分の意識の中で勝手に、京大の下の自分でも届きそうな位置に引き下げておきながら、志望するのは飽くまでも京大ではなく阪大とする。要するに、自分に何処までも甘く、所謂「程々の努力」しか課そうとしていない訳です。即ち、知能の開発が無心に強く意欲されている訳ではない。だから「阪大クラス」から阪大には合格できないのです。私などは「普通の子」の属するクラスも含めたすべてのクラスを、たとえどんな数のクラスになってもいいから「京大阪大クラス」と銘打つべきなのにと思いますが、どうでしょうか?

註:最近盛んに言われているのが(3)~(5)の大学の著しいレベル低下です。従来なら(6)までにしか入れないはずの「普通の子」の滑り込む隙間が、これらの階層の大学にも生じてしまっているということです。実は、京大や東大についても内部では、そのような類のことが密かに囁かれないわけではないのですが、話を分かりやすくするためにここでは飽くまでも、これら二つの大学は今でも相変わらず、日本最高峰の大学として聳え立っているものと見做しておきます。

あまり思い出したくないことですが、数年前に京都の予備校京進で殺人事件が起こりました。寄ってたかって揉み消されてしまいましたが、私も当時そこで、働き始めてから10年程になる講師として働いていましたので、実は真相をよく知っているのです。予備校では、「講師の分かり易さや人気を測り、顧客のニーズに応えるために」と称して授業アンケートなるものが実施されています。生徒が教師を評価する授業アンケートなど教育とは本質的に馴染まないことですから、通常はそれがエスカレートしないよう関わる人全員で暗黙のうちに抑制をかけるものです。しかし京進では、安い給料でこき使われ自殺者まで何人か出ている「あまり優秀ではない」社員の講師達が、外部の非常勤講師達に、必要から客人として招き入れていることも忘れて、屈折した感情を募らせてしまう仕組みができあがっていて、この社員の講師達による生徒達への露骨なにじり寄りが常習化していたのです。にじり寄って人気を得て、授業アンケートの結果を操作する。授業アンケートの結果を必要以上に重視する風潮を作った上で、自分達の立場を守るための道具として振りかざす。明らかに、教育上極めて危険な事態でした。威厳をもって指導すべき立場にある者が、指導を受けるべき未熟な生徒達の群れの前にまるでひれ伏すかのように隷従することで自分の地位を守ろうとしているのですから。こんなことになるのも、こんな異常な環境で授業アンケートが偏重されているせいです。教師として威厳を持って「普通の子」に接し、その本来の意欲を刺激して知能を伸ばすための実質的な努力の場へと導くことを自らの使命と自覚していたら決して起こらないことです。何度も警鐘を鳴らしたのですが、飽くまでも私が「外部の人間」に過ぎないためか、声が全く通らない。かと言って、人格の形成と成熟に問題のある人が多く集まっているような、そんな社員の講師達の内側から事態を的確に問題視する声の上がるはずもない。そうこうする内に、主に中学生の生徒達の中から、この授業アンケートを悪用して「講師イジメ」なるものが行われるようになってくる。生徒達が毎回事前に申し合わせて極端に酷い評価を特定の講師に与え、その講師と予備校全体の、大人に似つかわしくない狼狽ぶりを見て溜飲を下げ、楽しむといった行為が行われるようになってきたのです。それを問題視して早目に手を打ち鎮静化するなどということが、京進の無能な経営陣にはできない。事態が放置され、年毎にどんどんエスカレートしていく。この講師イジメを小学生の頃から常習的に行ってきた生徒が私の所属している高校部にも入ってくるようになってきて、雰囲気のどんどん悪くなって行くのが分かる。

そんな中、小学生の頃からその講師イジメを輪の中心になって常習的に行ってきた生徒が同志社大学に合格し、自分がかつて通っていた教室で小学生クラスの講師として採用される。生徒として長年その中で育ち、感覚で事情が把握できるせいか、年配のベテラン講師を尻目にあっという間に「人気講師」となる。予備校がチヤホヤする。「顧客の満足度が高い」と言って、それが教育においてどんなに危険なことか分からない経営陣に高く評価される(経営陣にはある時、他業種から経営の専門家と称する者まで引き入れられて、昔からの講師たちの顰蹙を買うような教育に反するような手を、次から次へと打ってきていました)。

肥大した自我をコントロールできなくなって露骨に尊大な態度すら取るようになる。ある時からクラスの女子生徒のひとりで、講師イジメをそのクラスで主導する立場にいた女子生徒と仲良くなり、恋愛感情を持つようになる。まだ大学生で自分をコントロールすることができないため、心理的バランスを大きく崩す。何がきっかけだったのか、ある時この女子生徒の不興を買って関係が拗れ、苦しい立場に追い込まれることになる。しかも恐ろしいことに、元生徒として事態が全て一瞬で感覚的に分かってしまう。この女子生徒が主導する、かつては自分も喜々として行い続けていた残酷な講師イジメの対象に、人気講師から一転して転落してしまうということが、一瞬で分かってしまう。自ら速やかに予備校を辞めて回避すればいいのにと、普通の頭でなら簡単に理解できるはずだが、肥大した自我をもう既にこの場所に全面的に依存させてしまっていてそれができない。心理的にどんどん追い込まれる。そして爆発。・・・こうやってあの殺人事件は起こったのでした。被害者はこの恋愛相手の女子生徒でした。

責任の大きな部分が京進経営陣にあるのは明らかでした。更には、教育界に商業主義を持ち込み蔓延させた社会にあるのも明らかでした。学校ではもうダメだ。このままでは子供の将来が危ない。成績が悪いと非常に都合の悪い事態を招いてしまうから、高いお金を支払ってでも子供を塾にやる。お金を支払っている以上、教師が子供や自分達にサービス業者として低姿勢で接して来ないことが赦せない。教師として威厳を示すか何だかよく知らないが、自分達を叱責してくるなどとんでもない。どんどんクレームをつけてやる。教師と生徒の関係や教育そのものに対する理解などあるはずもない。・・・こんな究極のモンスターペアレント達と、それを威厳をもって抑えることのできない教育界全体に問題の根元があるのは、火を見るよりも明らかでした。この殺人事件は逆に、予備校のあり方を根本から改革するチャンスです。にも拘らず、私の声は通りません。それどころか京進経営陣がやったのは何と、全講師に対する「精神鑑定」の実施でした。あの大学生講師を歪めて育てたのが紛れもなく自分達だったことを忘れ、事件の原因をこの講師の「個人的な人格異常」と決めつけ、それを世間に周知せしめるためにポーズとして、この全講師対象の「精神鑑定」を行ったのでした。彼等が考えているのは、事態を鎮静化して予備校を存続させることだけでした。高校部の非常勤講師としてではありましたが10年近くも深く関わってきた私は、待遇がどんどん悪くなっていったこともあって、この「精神鑑定」を拒否し、自ら辞職しました。対して、小学生の頃から京進の生徒として育ち、京都大学に入って、偶々私と同じ大学院で私よりもかなり遅い年代に学問をしていたという経歴の、予備校の経営陣にやたらとおべっかを使っては、地位の保全にみっともないくらい必死になっている若い非常勤講師がいたのですが、彼の場合は、周囲の講師達が苦虫を噛み潰す中で喜々として、その「精神鑑定」を受けていたものです。

私も個人として比較的近いところにいたこの殺人事件が、本当はこうして思い出すことさえ不愉快極まりないので伏せておきたいとことではあったのですが、一般的な現状の酷さを如実に表していると思うのです。私の目から見たら、知能指数の取り扱いの誤りを放置して何十年も経った日本の教育界の歪みは、このような悲惨な事件となって露骨に頻発してくる所にまできていると感ぜられます。

註:ついでに言うと、ある町の有力者の息子としてあちこちの高校との強い繋がりを持ち予備校に利益を誘導できるからというのもあって、一般の講師とは異なる高待遇で色んな予備校に採用されている講師で、私などにはやり込められるのを本能的に感じ取ってか比較的大人しい接し方をしてくるものの、女性講師などには横柄な態度で非常識な偏見と虚栄に満ちた発言を繰り返し、不審がられ、嫌われている講師がいたのですが、この講師はまた、この京進の講師でもありました。この講師の息子があの大津いじめ偽装殺人事件の主犯のひとりなのです。彼のことを知っている者が皆「あの親なら十分にあり得る」と発言していたものです。京進は実は、教育現場での殺人事件にこれでもう2度、関わることになっていたのです。この講師はその後、幾つかの教育機関から解雇されましたが、京進では今でも講師として高待遇を受けている可能性があります。あの京進でなら十分にあり得る話です。


世界

2013-02-03 10:24:36 | 日本論と宗教論
支配下の定着民に文字と神話や歴史を与え、それらを支配下の定着民の管理に大いに利用する。にも拘らず自分達の過去は記録に残さない。と言うよりむしろ、常に天を意識しながら今にのみ身を据え、企投(預言)された未来に向かってしか活動しない。従ってそもそも、歴史的自己意識がない。彼らにとって過去とは探り出し発掘するものではなく、巨大に膨張した現在の一部、事実の一部でしかないのです。狩猟や遊牧、戦闘と略奪、税の徴収、血脈の管理と地位の向上を強く意識した婚姻、鉱山開発と金属器加工、テクノロジー開発、金融、貿易、学問、祭祀。これらを生業とする者は全て、限定された土地内での定着ではなく、凡ゆる限定から自由な、拠点と拠点との間の絶え間ない移動こそが、その本質となっていきます。

「民族」という言葉は日本でしか通用しない偏狭な用語として有名です。私も「部族」とか「氏族」などの言い方に限定して「民族」という言い方は注意深く排除することにしています。限定されない開放空間を生活圏とする部族連合体は最早、この「民族」という偏狭な概念を遥かに凌駕した存在とみなすべきです。彼等は土地ではなくネットワークの中に生きる種族として、定着民とは全く異なっているのです。

各地の宮殿と港、寺社仏閣は、そのネットワークの拠点でしかありません。世界中の王族や貴族が彼等の親戚であるとともに配下であり、ネットワーク維持のための装置とみなされていることでしょう。ネットワーク維持のためには各国民の生活と、支配層の質や規模とのバランスが保たれなくてはならない。貨幣と経済システムはそのバランスの調整のためにある時に発明された便利な道具なのです。そのバランスが大きく崩れた国が発生した場合、或いはそういった国の数が増えて地域の安定が脅かされた場合、かのネットワークによる各国への特殊な介入が始まります。先ずは、善玉と悪玉の弁証法的な闘争を主なモチーフとし、隠された「歴史的真実」の暴露が局面として織り込まれた、そのような大きなシナリオが設定されます。そのシナリオのパターンを種として内包する噂や情報、流行歌、物語、学説などがその時代特有の媒体を通して一貫して流布させられ続けます。特に子供達を対象とするそういったものの流行はある時期、彼等こそが未来なのですから特に重視されることでしょう。それを敏感な人が感じ取って「時代」などと表現したりする訳です。政治家やオピニオンリーダーを筆頭とする様々なエージェントも各国に配置され、それぞれに決められた活動を決められた時に決められたように行い、決められた通りの人生を展開するように管理されます。これらエージェントの管理に当たる特殊なエージェントもいて、秘密結社を組織します。

未開拓地域が残っていた太古には、王族を中心とする各国の統治システムの移設や分割などが盛んに行われたことでしょう。その際目印として、狩猟民或いは遊牧民に相応しく動物のトーテムが各部族に定められたのでしょう。鷲をトーテムとする忌部氏について最近私が気づいたシュメールとの結びつきは、忌部氏がそのような移設の一環として列島にやってきた可能性を意味していると思われます。各国の宗教が幾つかの系統に分類され、幾つかの国家間で神話や歴史に類似点が見られるのも、まさに、そのためなのでしょう。

未開拓地域がなくなったある時期からはそのような移設や分割もなくなり、そうやって所謂「国民国家」の形成も次第に世界各地で始まっていったことでしょう。国民国家の中で生まれ育ち、その中で世界観を獲得してきた現代の個人が「遠くの国」という観念の中で、それらの国々の神話や歴史と自国の神話や歴史の類似に気づいた時に、ある程度の不審感を抱いてしまう。これが実態なのだと思います。私の意識の中では最早、ユーラシアは比較的小さな、ひとつの領域となってしまってはいますが。

「帝国」はその時代の国際関係のあり方として定められていた、その時代に固有のシステムだったのでしょう。今は何がそれとして設定されているのでしょうか?企業体でしょうか?これを知る必要があります。