「宇宙人」とは、地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物の内、ある一定以上の知性と文明を持った存在者のことを言うのでしょう。ということはつまり、「太古において地球に侵入して地球人の誕生に関わり、現在に至るまで密かに地球人全体を支配し続ける宇宙人」なるものは、確かにストーリーとしては面白いし、ハリウッドの映画やドラマで長期に渡って入念な刷り込みを受けてきた我々現代人の立場としては、それを無批判に受け入れたくなる気持ちも分らないでもないが、しかし、そのような概念の裏には恐らく、何の実体もないものと予想されます。とは言え、「太古において我々地球人類の誕生に関わり、現在に至るまで密かに地球人類全体を支配し続ける」存在者なら、その信憑性は十分に高い。だからその実態を、「地球の生態系に適応している」と宇宙人説において言われることも考慮に入れて考察すると、そのような存在者は、何らかの理由で宇宙人説により強固に隠蔽されてはいるものの、恐らく、地球由来の生命体であるに他ならない筈なのです。何故なら、「太古において地球に侵入して地球人の誕生に関わり、現在に至るまで密かに地球人全体を支配し続ける」などということは、「地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物」という意味での宇宙人には、そもそもが不可能なことだと考えられるからです。我々地球人類のことを地球人Aとするなら、「太古において我々地球人類の誕生に関わり、現在に至るまで密かに地球人類全体を支配し続ける」存在者のことは、宇宙人でなく、地球人Bとでも呼んでおくべきでしょうか。
ここから次のような重要な結論も導き出されます。地球に生存して来た地球由来の知的高等生物種は我々地球人類だけではない。我々と何処かで枝分かれしたのか、それとも、そもそもが全く異なる生物種だったのかは定かでないにしろ、兎に角、地球由来の知的高等生物種は我々以外にもうひとつ(或いはふたつ以上)存在している。その存在のことを、我々庶民、平民がすっかり隠蔽されてしまい、知らないでいるだけなのだ。...このような結論です。
ところが、ある惑星由来の、即ち、その惑星の生態系にのみ適応して生存して来た、そんな生物種が、ある時、他の惑星に移動して、その新しい惑星の全く新しい生態系に、生物種としてのリスクを多少は背負いながらも適応するということが実際にあると考えた場合は、今私が述べたような結論は実は、導き出されないことになります。そして私は、そのような適応など恐らくはないのだろうと想定している訳です。そのような場合の適応が可能だと言うなら、どういう意味で可能なのか?ここをよく考えなくてはなりません。
註:ここで私は、地球外の知的高等生物と文明の現存在そのものを否定しているのではありません。地球外の知的高等生物と文明の、地球人類への関与そのものも、決して無下に否定している訳ではない。否定する確たる材料がない以上、誰にそんなことができるのか?それどころか、前者に関しては、信じているとすら言ってもいいくらいです。そうではなく、私は今ここで、地球外の知的高等生物と文明が現に存在し、彼等が既に地球人類と裏で密かに深い繋がりを持っていると主張する人達の、論としての脆弱さを指摘しているのです。彼等の論に私のような人間を説得する力はまだなく、論として必須の形式を整えたものすら少ないと指摘している。このような脆弱な論を、それと気づかずに無邪気に振り回す人が沢山出てきている現状を踏まえ、彼等に反省を促そうとしているに過ぎないのです。要するに、やるならもっとしっかりやれということ。この点を取り違えないよう、呉々もご注意願いたい。
そう言えば、人類の歴史を振り返っても確かに、人類は、この地球の生態系内に限定されたこととは言え、その最も活動的で代表的かつ主導的なグループに限っては、異なる生態系、未知の新世界への、従って、自らの本性としての支配性を誰にも阻害されることなく思う存分自由に振るうことのできる、そんな新天地への移動というものを重ね、その度に、生物種として多少のリスクを負いながらも見事に、その新世界への適応を果たしてきたということが分かります。異星人も、星と星の間のこととは言え、これと同じようなことを行ったのではないか?
この問題を考えるには、生物種が生物種として背負うことになるリスクと、生物種が生物種として本来持っている受容性或いは耐性との、平衡関係というものを考慮に入れる必要があります。この平衡関係が成立するからこそ生物は、異生態系への移住を行うことができる。こういうことになる筈だからです。
一個体に生物種としての特性をある程度以上集約するタイプの所謂「高等生物」の場合に限定して考察を進めてみましょう。その場合に先ず、彼等の母星において抑も、酸素のない大気に適応してきたとか、生命機構のベースが炭素ではなく珪素になっているとかいった次元の、極めて根本的な差異になってしまっていると考えてみます。するとこの場合、かの平衡関係が成立することが殆どあり得ないことになる訳です。ですから、異星への移住も殆ど不可能ということになります。
註:生物種としての特性を一個体にではなく社会集団全体の方に集約する所謂「下等生物」の場合は、このような極めて根本的な差異の元でも異星への移住が可能になる場合があるということは、何処かで聞いたことがあります。但し、飽くまでも注意すべきはこれが、所謂「下等生物」に限定されるということです。
では、所謂「高等生物」の場合、生態系の差異がそれ程に根本的でないとしたなら、どうなるのでしょうか?例えば、地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星からの場合は、差異が非常に根本的になっている場合に比べてかの平衡関係成立の確率が遥かに高まる筈です。ですからその場合、移住も十分に可能になると言ってもいいのではないか?
成る程、一見申し分なさそうです。しかし、ここで注意すべきは、「差異が根本的な差異になっていない場合はかの平衡関係成立の確率が遥かに高まる」と言ったところで、それは飽く迄も、差異が極めて根本的な差異になっている場合に比べたらに限られるということです。比較の対象を換えて、例えば、地球内の大陸から大陸への移住の際などの差異の程度と比べた場合は、「差異が根本的なものになっていない」と言ったところでその差異は、まだまだ遥かに大きなものになっていると言わざるを得ない。かの平衡関係成立の確率が著しく上昇するような領域にはまだまだ全然至っていない。このように考えられると思うのです。
註:「似ている」とか「異なる」とか言った比較表現そのものに実は、その遣い手を論理的誤謬に陥れ易い特性がある。これは、ある学問分野において盛んに指摘される、非常に有名な特性です。私が今ここで述べているのはまさに、この種の論理的誤謬のことです。
そもそも、かの平衡関係成立の確率上昇は、条件がひとつ満たされる毎に、それに沿うかのように緩やかに均一に上がっていくといったタイプの上昇ではなく、条件の例えば98%が満たされても今だ、殆ど兆ししか見えないが、もう1%分だけ満たされて99%になったら、その瞬間に初めて、まるで臨界点に達したかのように爆発的に上昇するといったタイプの上昇になっている、そんな可能性が高いと思うのです。
「地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星」とは言っても、その「似ている」もまた、他の無数の惑星一般に比べたらに限られるのであって、同じ「似ている」でも、例えば、地球内のふたつの異なる大陸の生態系が互いに「似ている」ということなどとは、次元が全く異なってくる話なのです。かの平衡関係成立の確率上昇の臨界点としての「似ている」とは「構成要素の内の殆ど全てが同じ」の次元であって、「八割くらいが同じ」といったレベルの「似ている」なら全く、お話しにもならないくらいだ。こういったことに実は、なっているのではないか?私にはどうも、この可能性が高いと感じられるのです。
例えば、高地に移動した時に人間は、大気圧や気温の変動だけで高山病にかかり、それらを上手に管理できなければ、高地の新環境に適応できず、死亡してしまうことすらあると言われます。このことを捉えて、「それは、そんな激変でもちゃんと管理しさえすれば、十分に適応できる、ということなのじゃないか。ということは...」などと主張する人がいることでしょう。しかしこの人は、大気圧と気温が生態系の適応条件の一体何%を占めているのか考えて見るべきです。恐らくは、1‰もないのではないか?つまり、999‰は適応条件が揃っている。にも拘らず、そんな中で、焦点を大気圧と気温に絞った上で、その「程度の激変」を「適応条件全体の激変」と無意識に摩り替え、その上でそのような主張を念頭に思い浮かべてしまっている。こういうことに実はなっているのです。高山病のことを考慮に入れる場合、取るべき態度は全く逆になる筈です。「こんな極限られた条件の変化でも程度の大きさ次第では適応できなくなってしまう。これが生物というものなのだ。これに比べて、幾らよく似ているとは言え遥かに大きな数の条件変更を一遍に強要されることになるのが異星への移住というもの。この場合は、一体どんなことになるやら分かったものではなかろう」というものでなければならない。
「地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星」と言えば、先ずは誰もが、火星のことを挙げます。この火星に生物が生息しているのかどうかはさて置き、この火星ですら、かの平衡関係成立の確率上昇という問題においては、以上のような大きな問題を抱えることになる筈です。ですから、周期3800年とも言う極端な楕円軌道を描いているが故に、火星に比べたら地球との生態系の類似性が遥かに劣るとも容易に想定できる所謂「二ビル星」の場合は、言わずもがなといったところです。こう考えた方が無理がない。
ところで、「同じ創造主によって創られたのだから類似性の元々からして極めて高い生態系の異星が、幾つかはきっとあると主張したところで、何もおかしいことはない」という言い方があります。この言い方はしかし、そのようなタイプの異星を事実として確認した上で感嘆の思いを込めて後追い的に述べる時の言い方にすべきであって、そういったタイプの異星が事実としてひとつも確認されていない現状では絶対に不可能な言い方になります。私はそう思います。
造物主の働きを感嘆すると言えばそれは、人間的で物理的な材料をのみ用いながらもそれが最終的に神的なものの発見に繋がったのを自覚した瞬間以降にのみ許されることであり、人間的で物理的なものに材料を限定しないまま、発見の過程で造物主の働きをもそれらの材料のひとつとして取り扱ってしまうなどということがあれば、それは、論理的に言って完全な誤りになってしまう。「同じ創造主によって創られたのだから類似性の元々からして極めて高い生態系の異星が、幾つかはきっとあると主張したところで、何もおかしいことはない」という言い方は、このような誤謬の典型例になっている。私はそう思うのです。
例えば、「神のみぞ知る」とは、論理的には「神が知っている」ということとは全く異なっていて「誰も知らない」ということを意味するものです。例えば「カントのみぞ知る」の場合は「カントは知っている」の意味をも含みますが、「神のみぞ知る」の場合は決して、そうはならないのです。ですから、「神のみぞ知る、つまり、神が知っている。だから」と言って、そこから何か積極的な帰結を導き出そうとすることなど、絶対にあってはならない。「神のみぞ知るのだから」は「誰も知らないのだから」と同義になり、飽くまでも否定文(他者の積極的主張の否定)に過ぎない。だから、そんなものから積極的な帰結など何も導き出せない。
「神」という言葉を人間的で物理的な材料を表す言葉と共に用いると、神という、如何なるものも超越した全一的な存在を、人間的で物理的な材料のひとつとして取り扱うことになってしまいます。つまり、そのような遣い方をされた「神」は最早、遣い手の意図に反して、神そのものは全く指示していないという、如何にも可笑しなことになってしまう。それどころか、おまけに、この世の何かを指示するということさえ絶対にない。こんな遣い方をされた「神」は、どんな存在者よりも尊い存在者を想定して発せられた言葉であるにも拘らず、また、それだからこそ、如何なる言葉よりも空虚で有害な罠になってしまう。この事実には誰もが、大いに驚くべきであり、注目すべきなのです。そう言えば、「神の名を妄に用いるべからず」とか「神は自ら助く者を助く」とかいった言葉があります。それらが太古において何者かによって発せられ、現在に至る迄大切に受け継がれてきたのはまさに、このような事実を念頭に置きながらのことだったのではないでしょうか?
「『神』という言葉は、人間的で物理的な材料を使い尽くして、その結果として神的なものを発見した瞬間以降にのみ、感嘆の言葉として用いるべし」。この主張の正しさは、以上の論証で十分に分かってもらえたのではないでしょうか?神は自然科学や歴史記述の対象ではなく、形而上学や神話の対象である。形而上学とは、英語では metaphysics と表記される語の邦訳ですが、meta(後に考察されること)+physics(自然学の)と分析できるのですから、この語も、上に私が述べたような事柄の本質を的確に伝えられているのだと、私は思います。
異星人が地球に移住するということについては、以上のような幾つかの検討から、可能性として極めて低くなっていると考えた方がいいようです。
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ところで先程「...ということが事実として確立した後でなら『神』という言葉を遣っても」という言い方をしました。こう言うと「レプティリアンのことについては最早、事実と言っていいくらいの証拠が十分に揃っている。例えば...」という反応を返す人も出てくることでしょう。
この手の「証拠」収集において圧倒的な規模でそれを行い、YouTubeでビデオ番組にして放送している、林浩司という人のことを私は、その典型例として思い出します。それこそ、誰もが驚き、誰もが圧倒される程の規模です。自意識過剰な面が強く、勉強不足から意図せざる内に他人の説を、最早伝統的と呼んでもいいレベルのものすら多々含めて、まるで自分が初めて発見したかのような傲慢な言い方をしていることが多い分、苦笑なども度々させられますが、それでも、「証拠」の収集の規模に関しては、素晴らしいと言わざるを得ない。
この人を代表とする人達が収集して見せている様々な「証拠」を見るなどしてでしょうか、「宇宙人」を巡るシッチンやアイクなどの主張を無批判に「事実」として受け入れ、熱狂している人の何と多いことか。テレビ東京の番組で有名な関なんとかという若者も「これはもう間違いないでしょう。これからは信じない方が馬鹿にされ無条件で排除される、そんな新時代です」などと興奮気味にまくし立ててすらいました。
しかしです。この手の情報には私自身、他の誰にも負けず劣らず積極的にアクセスしているつもりですが(アイクやシッチンは、手に入るものは殆ど全て読みました)、「決定的証拠」と彼等がのたまわっているところの殆ど全てが私には、決定的なものには全く見えてこないのです。この点を捉えて私のことを「認知的不協和(自分の間違いは認めたくないので、相手が間違っていると思う防衛心理)」などと指摘した人もいますが、そもそも私には「宇宙人」と呼称される者達を巡る確たる自説などないのです。ですから、自説の間違いを認めたくないといった心情に陥る筈がありません。そうではなく、これらの不可思議な遺物を巡っては、彼等の説と異なる、彼等の説よりもやや信憑性の高い説が別にもうひとつ組織できることを知っている。そうである以上、これらの遺物を「たったひとつの確定的な説を裏付ける決定的証拠」などと迄、言い切ることはできない。彼等がどんなに熱狂しようとも、仮説以上の価値をそれが帯びているとは言い難い。にも拘らず、これらを「決定的証拠」とか「唯一確定的な説」とか言って熱狂するのは、その数の大きさを考慮に入れて考えても、極めて危険としか言いようがない。こう考えている訳です。
註;例えば、ナスカに様々な地上絵と共に描かれた直線のひとつひとつが世界中のありとあらゆる「重要ポイント」をほぼ正確に方向指示しているという事実から、これは宇宙人が太古から地球に来ていた確定的証拠と見做すしかない筈だと言われた際に、私の場合は、全くそのようには感じられず、反論が幾つも念頭に浮かんで来てしまうのです。太古において空を飛べた者と言えば、我々の知っている限りでの我々地球人類ではないのは確かです。しかし、だからと言って彼等のことを、宇宙人と決定してしまうのは、如何にも素人臭い間違いである。私にはそう感じられてならない。第一、我々地球人類よりも遥かに高度なテクノロジーを太古から既に保持していて、我々地球人類を原始から一貫して支配しておきながら、その叡智と能力を持ってその事実を、我々地球人類の目から完全に隠蔽し続けて来られた、そんな地球人類が、我々地球人類以外にも存在し、太古において空を飛んでいたのかも知れない。第二に、地球外から地球に移動できるような高度な飛行機械を持った所謂「宇宙人」には、地球上で空を飛んで何処か別の地点を目指す時に、その地点を方向指示する巨大な直線など必要にはならない筈である。その証拠に、ある程度高度な飛行技術を持つ我々現代の地球人類ですら、その目的の為にそんな余計なものを一切造ってはいない。第三に、もし造るにしろ、大規模とは言え、土を盛り上げるだけの粗末な造りの地上絵や直線で満足できたのは奇妙だ。第四に、飛行機械などなくても上空を飛び回り、上空から地上を眺める何らかの能力が、我々地球人類にも、厳重に隠蔽された極一部の人達に限って備わっていたのかも知れない。...このような異論が、私の念頭に次から次へと浮かんできて、少なくとも、宇宙人説に安易に飛びつくことだけは強く制止し続けるといった次第なのです。
註:シッチンに関しては、最終的な感想を簡単に述べれば、「真偽の判定は、粘土版を全て自分で読んで見ない限り何とも言えないだろう。そのそもDNAとかレプティリアンとか、惑星とか宇宙人とか、シュメール語でどう表記してあるのか?どういう経緯でそれらの原語からそれら現代語への翻訳がなされているのか?それに、粘土版にシッチンが紹介しているような物語が書いてあったとして、それらを神話と捉えずに、単純に史実と捉える根拠は何なのだろう?」です。また、アイクについては、「そこ迄色んなことの真相を詳しく知っていながら何故、東洋と半島や列島の本当の歴史については何も言及できないでいるのか?また、この現象界ではなく、より次元の高いところに現実はあると言っているが、現象界だけではなく、それ以上により次元の高いところにもまたと言っているのか(添加なのか)、それとも、現象界は完全なバーチャルである。現実はそれ以上に高いところにしかないと言っているのか(限定なのか)、記述の箇所によってバラバラで、必ずしも明確になっているとは言えない(にも拘らず多くの人が限定と決めつけて読んでいる)。これはある意味、根本的ながら普遍的な誤謬の典型例である可能性が高く、大いに危険な罠だ」というものです。
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さてここで、論を更に深める為、大きく視点を変えてみましょう。
「地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物の内、ある一定以上の知性と文明を持った存在者」という本来の意味における宇宙人が仮に、太古に地球に来たものとしましょう。この前提の元で、多くの場合、次のように主張されている。「宇宙人が、十分には適応しきれない可能性の高い、従って、関わったところで殆ど何の利益の生まれる筈も無い、そんな異生態系としての地球を、彼等独自の極めて高度なテクノロジーを駆使することによって、一種の理想的な食料供給場に改造しようと考えた。そこで、そこに生息している動物の中から最も適当な動物をひとつ選び出して遺伝子操作を加え、食料としてより相応しいものに改造した。彼等にとって食料とは何より、食べられる瞬間に食べられる者から発せられる、恐怖を始めとする様々な負の情念となっていた。だからこそ、比較的優秀な感情の器官を元々備えた動物が選択された。そうやって創造されたのが人間だった」。
上述したような前提がある以上、異生態系でありながら地球の生物は、彼等の嗜好と生理にほぼ、合致していたと考える他ありません。でも、この場合ですら、地球人類を彼等が食料として創造するなど考えられないとは、果たして絶対に言えないものか?例えば人類には、他の動物とは違い、知性と感情が備わっています。こんな私達なら、知性があって心情も十分過ぎるくらい伝わってくる、そんな相手を、どんなに美味しくても端的に、食べる気などしなかったことでしょう。動物を殺して食べる時、我々人類はそもそも、その動物から伝わってくる心情が何の重みも持たないような状態に自己存在を自動的に変化させてから、その動物の肉体をのみ蛋白源として食するものです。ですから、自己存在をどのように変化させてもその重みが消えないような、ある程度は強い心情を発する動物の場合は、その心情の伝達を遮断するシステムを構築し、そのシステムの中にの現実感を閉じ込める、といった特別な工夫を凝らしてすらいる。我々人類にとって食べるとはまさに、このような意味を持っている訳です。そんな我々人類ですから、人間のような、ある程度優秀な感情の器官を備えた動物をわざわざ選び出しては遺伝子操作を加え、食料として創造するなどといったことはなかった筈です。
ところが、太古における地球外知的高等生物による人類の、食料としての創造を主張する人は、この地球外知的高等生物にとっての食べることには、我々人類にとってのそれとは全く異なり、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情を非物質的な次元において食べることもまた含まれる。そのような特性はこの地球上でも、ワニなど幾つかの爬虫類にその原型とも言えるものが見出される。だから、単なる想像の産物でない。従って、そんな彼等が、比較的高性能の感情の器官を持つという意味で彼等の食料とするのに比較的適性の高いある特定の動物を選び出しては、遺伝子操作を加え、人間を作り出したのだと言ったところで、何の問題もない筈だ。このように述べる訳です。
この見解はある意味、極めて正当なものです。しかし、その正当性は全て、「食べられる者の肉体だけではなく、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情迄も食べる、爬虫類とよく似た宇宙人の存在」を事実と認める場合に限られた話です。確かに、このような宇宙人の存在は、それを否定する確たる証拠はありません。かと言って、積極的に支持する確たる証拠もまたない。このような場合それは、「事実」とは決して言ってはならないのです。しかも、「食べられる者の肉体だけではなく、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情迄も食べる、爬虫類とよく似た地球人(地球由来の、我々地球人類とは異なるもうひとつ別の地球人類)」という仮説がそれとは別に、それと同様に確たる証拠はないにしろ、それよりも信憑性のやや高い仮説として組織できる訳です。ですから、「確たる証拠」と多くの人によって強弁されるものではなく確たる証拠そのものが明確な形で提示されない限り、やや旗色の悪い仮説として取り扱う必要がある。少なくとも、多くの人が現在そうなりつつあるように「確たる事実の把握」と熱狂的に強弁して騒ぐのだけは慎まなければならない。こういうことになることでしょう。
「地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物の内、ある一定以上の知性と文明を持った存在者」という本来の意味における宇宙人が太古に地球に来たという前提の元で主張されている、もうひとつ別の説についても考えてみましょう。
「宇宙人が、十分には適応しきれない可能性の高い、従って、関わったところで殆ど何の利益の生まれる筈も無い、そんな異生態系としての地球を、彼等独自の極めて高度なテクノロジーを駆使することによって、一種の理想的な鉱産資源供給場に改造しようと考えた。ある種の鉱産資源に関わる母星存亡の危機という止むを得ざる理由があったからだ。そこで、そこに生息している動物の中から最も適当な動物をひとつ選び出して遺伝子操作を加え、鉱産資源採掘者としてより相応しいものに改造した。彼等にとって鉱産資源の採掘は、環境変化からくる若干の不調を乗り越えながらも自分達で取り組んでいこうとするには、母星存亡の危機に際しての決死のチャレンジとは言え、余りにも過酷な労働に感じられた。だからこそ、地球由来の動物の内、比較的知的レベルの高そうな動物を選択し、その遺伝子に自分達の遺伝子の内の然るべき一部を融合させ、その動物を、自分達程ではないにしろ、鉱産資源採掘を十分効率的に行っていけるだけの知性を持った動物に改造した。そうやって創造されたのが人間だった」というのが、その説の内容になります。
この説も、一見筋が通っているように見えます。が、よく分析してみれば飽く迄も、ナンセンスと言わなければならない。何故なら先ず、抑も、誰かが誰か他の者の為に過酷な労働に従事し続けるという事態が生じる為には、その者に、過酷な労働に従事するに足る知性があるというだけでは不十分だからです。それ以上に、その労働を課す者への強固な忠誠心が、脅迫による外面的なものであれ、情報操作や心情操作による内面的なものであれ、何れにしても必要になる筈だから。知性は中ぐらいあるということはなく、あるかないかなのだから、知性があれば必ず自尊心が芽生え、心情がコントロールし難いものとなります。にも拘らず、採掘作業を遂行させるには知性を授けなければならない。ということは、わざわざそのような意味での人間を創造しなくても、母星から同種族の囚人や奴隷などを連れて来さえすればいい。でも、そうしなかった。どちらも同じということなら、わざわざ創造する方が選ばれた理由をここで改めて考え直さなければならない。そしてそれこそ、異星の生態系への適応の困難ということになるのではないか?するとここで、結局は、最初の前提を自ら崩さざるを得ないという由々しき事態が生じてしまうことになる。私などはこう考える訳です。しかも、今ここで私が指摘していることを仮に、何らかのやり方でかなり無理してクリアできたとして、その場合でもまた最初の問題、我々地球人類の創造主が宇宙人であって地球人では無いと主張する決定的な証拠はあるのか否かという問題が直ちに、降りかかってくる訳です。こんな情況が明確に確認できる。ですから、論者として自分の置かれた位置の自覚とメンテナンスに自然な関心を寄せ続けられるだけの高い知性のある者の場合、今この段階でこの宇宙人説に一方的に熱狂することなど絶対にあってはならない。このように私は考えるのです。
抑も、異星における鉱産資源の採掘には、わざわざ細心の注意を払って情報操作し、そうやってコントロールし続けなければいつ反抗してくるかも分からない、おまけに自分達がそもそもの目的としている地球の鉱産資源を自分達とは別個に大規模に消費してしまう運命の、そんな中途半端で面倒臭い知的生命体の創造など全く必要ない筈です。そんなことよりも、機械による無人の自動採掘システムなど、それ以外の手段を開発する方が遥かに手っ取り早い。我々地球人類だったらもうひとつ別の人類の創造などという方策は絶対に採らなかった筈です。
宇宙人が地球に初めてやって来た時に、彼等よりも遥かに劣ってはいるが知的生命体であることに違いはない、そんな地球人類が既に存在していたと考えるのはどうでしょう?そんな地球人が彼等の目的にとって邪魔になるくらいの知性と自尊心を持っている。その場合、目的実現の為には、そんな地球人のことは、積極的な関わり合いを持つことなく、ただ端的に駆除しようとしたに違いありません。逆に、そんな地球人が彼等の目的にとって邪魔になるくらいの知性と自尊心を持った種族ではない。その場合、そんな地球人など野生動物と同じですから、無視する以外は何もしないということになったことでしょう。ただ採掘作業に専念するのみ。余計なことはしない。何れにしろ、この場合も、宇宙人が地球人類と、巷間言われているようなタイプの密接な関係を持ち始めることなど、全く考えられないということになる訳です。
結局、「宇宙人、宇宙人」と世間で騒がれているのは、我々普通の地球人を何らかの目的で「創造」し、見えないところから組織的に支配してきた別種の地球人のことと考えた方が、現段階ではまだ信憑性がありそうです。彼等は、宇宙人ではなく地球人なのです。しかも我々地球人類は、地球の全体を常に range して回っている彼等の組織の中から社会的に脱落して何れかの土地に定着し、文明化(家畜化)して、そのことによって、そんな彼等が保持している地球人類の本来の特性の内の多くを喪い、退化した立場なのではないか?我々は彼等の末裔でありながら見えない牢獄に入れられて自由を奪われた、彼等から上手に収奪されて支配される、そんな家畜か奴隷の立場にある。こういうことなのではないか?
彼等は、彼等が特権的に持っている高度なテクノロジーを駆使して、極めて早い時期から密かに、月を初めとする太陽系の星々の開拓に成功し、太陽系全体で、生活そのものではなく特殊な辺境産業活動を行っている。だから結果として、「宇宙人」に見える。そして今、彼等も、自分達のことを我々に「宇宙人」と思わせる方向にシナリオを描き、動いている。こう考えるのが最も合理的なのではないか?
「宇宙人、宇宙人」と騒いでいる連中は、自分の根本的な矛盾に気づかないまま、大げさな妄想を膨らませているに過ぎない。私にはこう感ぜられて仕方がありません。
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最後に、簡単ではありますが、進化論の信憑性について考えてみましょう。
進化論は19世紀に、我々庶民、平民の一般的意識をある状態に拘束しておく目的で捏造された架空の理論である。これが多くの人の共通認識となりつつあり、私もシュタイナーに影響されてそのような認識を随分前から持っている。しかし、私の認識と一般の人の認識では、一見極些細に見えて実は本質的とならざるを得ない差異が歴然と存在していることに、私は実は気づいています。一般的な認識では、自分自身が実は盛んに進化論的なターミノロジーを用いながら、「そのような言い回しをするということはまだ、進化論の呪縛から逃れられていないようだ」などと他者を批判することが多い。それに対して、私の認識では、自分自身が盛んに進化論的なターミノロジーを用いざるを得ないことを自覚しつつ、その理由を実は明確に理解しているので、「そのような言い回しをするということはまだ、進化論の呪縛から逃れられていないようだ」などと言って他者を批判することはないのです。何故、そんな大きな差異が出てしまうのか?
これも実は、この人間世界では普遍的な、例のあの論理的誤謬に関係している事柄なのです。添加と限定の混同の問題です。
「進化論は間違えている」と言う時、「進化論的捉え方以外の多くの捉え方を全て排除しつつ進化論的捉え方をのみ前面に押し出すことが間違えている」と主張するのが実は、正しい。つまり、ある視点に立って物事を捉える場合に限れば、進化論は必ずしも間違いではないのです。このことを十分に認識しつつ、自分自身でも進化論的言い回しを、限定的ながら、厭うことなく自覚的に駆使する。これが正解なのです。
それに対して、今私が正確に説明したことが認識できない人達は、「進化論は如何なる視点からみても間違いである」と捉えてしまっている。そして、そのように発言しながら、自分自身、随所で進化論的言い回しをヌケヌケと行う。この人達には、何故そういうことになるのか、例えば、私の上のような解説などを参考に、自分の頭でよく考察しておく義務がある。皆さんにはそう思われないでしょうか?
ここから次のような重要な結論も導き出されます。地球に生存して来た地球由来の知的高等生物種は我々地球人類だけではない。我々と何処かで枝分かれしたのか、それとも、そもそもが全く異なる生物種だったのかは定かでないにしろ、兎に角、地球由来の知的高等生物種は我々以外にもうひとつ(或いはふたつ以上)存在している。その存在のことを、我々庶民、平民がすっかり隠蔽されてしまい、知らないでいるだけなのだ。...このような結論です。
ところが、ある惑星由来の、即ち、その惑星の生態系にのみ適応して生存して来た、そんな生物種が、ある時、他の惑星に移動して、その新しい惑星の全く新しい生態系に、生物種としてのリスクを多少は背負いながらも適応するということが実際にあると考えた場合は、今私が述べたような結論は実は、導き出されないことになります。そして私は、そのような適応など恐らくはないのだろうと想定している訳です。そのような場合の適応が可能だと言うなら、どういう意味で可能なのか?ここをよく考えなくてはなりません。
註:ここで私は、地球外の知的高等生物と文明の現存在そのものを否定しているのではありません。地球外の知的高等生物と文明の、地球人類への関与そのものも、決して無下に否定している訳ではない。否定する確たる材料がない以上、誰にそんなことができるのか?それどころか、前者に関しては、信じているとすら言ってもいいくらいです。そうではなく、私は今ここで、地球外の知的高等生物と文明が現に存在し、彼等が既に地球人類と裏で密かに深い繋がりを持っていると主張する人達の、論としての脆弱さを指摘しているのです。彼等の論に私のような人間を説得する力はまだなく、論として必須の形式を整えたものすら少ないと指摘している。このような脆弱な論を、それと気づかずに無邪気に振り回す人が沢山出てきている現状を踏まえ、彼等に反省を促そうとしているに過ぎないのです。要するに、やるならもっとしっかりやれということ。この点を取り違えないよう、呉々もご注意願いたい。
そう言えば、人類の歴史を振り返っても確かに、人類は、この地球の生態系内に限定されたこととは言え、その最も活動的で代表的かつ主導的なグループに限っては、異なる生態系、未知の新世界への、従って、自らの本性としての支配性を誰にも阻害されることなく思う存分自由に振るうことのできる、そんな新天地への移動というものを重ね、その度に、生物種として多少のリスクを負いながらも見事に、その新世界への適応を果たしてきたということが分かります。異星人も、星と星の間のこととは言え、これと同じようなことを行ったのではないか?
この問題を考えるには、生物種が生物種として背負うことになるリスクと、生物種が生物種として本来持っている受容性或いは耐性との、平衡関係というものを考慮に入れる必要があります。この平衡関係が成立するからこそ生物は、異生態系への移住を行うことができる。こういうことになる筈だからです。
一個体に生物種としての特性をある程度以上集約するタイプの所謂「高等生物」の場合に限定して考察を進めてみましょう。その場合に先ず、彼等の母星において抑も、酸素のない大気に適応してきたとか、生命機構のベースが炭素ではなく珪素になっているとかいった次元の、極めて根本的な差異になってしまっていると考えてみます。するとこの場合、かの平衡関係が成立することが殆どあり得ないことになる訳です。ですから、異星への移住も殆ど不可能ということになります。
註:生物種としての特性を一個体にではなく社会集団全体の方に集約する所謂「下等生物」の場合は、このような極めて根本的な差異の元でも異星への移住が可能になる場合があるということは、何処かで聞いたことがあります。但し、飽くまでも注意すべきはこれが、所謂「下等生物」に限定されるということです。
では、所謂「高等生物」の場合、生態系の差異がそれ程に根本的でないとしたなら、どうなるのでしょうか?例えば、地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星からの場合は、差異が非常に根本的になっている場合に比べてかの平衡関係成立の確率が遥かに高まる筈です。ですからその場合、移住も十分に可能になると言ってもいいのではないか?
成る程、一見申し分なさそうです。しかし、ここで注意すべきは、「差異が根本的な差異になっていない場合はかの平衡関係成立の確率が遥かに高まる」と言ったところで、それは飽く迄も、差異が極めて根本的な差異になっている場合に比べたらに限られるということです。比較の対象を換えて、例えば、地球内の大陸から大陸への移住の際などの差異の程度と比べた場合は、「差異が根本的なものになっていない」と言ったところでその差異は、まだまだ遥かに大きなものになっていると言わざるを得ない。かの平衡関係成立の確率が著しく上昇するような領域にはまだまだ全然至っていない。このように考えられると思うのです。
註:「似ている」とか「異なる」とか言った比較表現そのものに実は、その遣い手を論理的誤謬に陥れ易い特性がある。これは、ある学問分野において盛んに指摘される、非常に有名な特性です。私が今ここで述べているのはまさに、この種の論理的誤謬のことです。
そもそも、かの平衡関係成立の確率上昇は、条件がひとつ満たされる毎に、それに沿うかのように緩やかに均一に上がっていくといったタイプの上昇ではなく、条件の例えば98%が満たされても今だ、殆ど兆ししか見えないが、もう1%分だけ満たされて99%になったら、その瞬間に初めて、まるで臨界点に達したかのように爆発的に上昇するといったタイプの上昇になっている、そんな可能性が高いと思うのです。
「地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星」とは言っても、その「似ている」もまた、他の無数の惑星一般に比べたらに限られるのであって、同じ「似ている」でも、例えば、地球内のふたつの異なる大陸の生態系が互いに「似ている」ということなどとは、次元が全く異なってくる話なのです。かの平衡関係成立の確率上昇の臨界点としての「似ている」とは「構成要素の内の殆ど全てが同じ」の次元であって、「八割くらいが同じ」といったレベルの「似ている」なら全く、お話しにもならないくらいだ。こういったことに実は、なっているのではないか?私にはどうも、この可能性が高いと感じられるのです。
例えば、高地に移動した時に人間は、大気圧や気温の変動だけで高山病にかかり、それらを上手に管理できなければ、高地の新環境に適応できず、死亡してしまうことすらあると言われます。このことを捉えて、「それは、そんな激変でもちゃんと管理しさえすれば、十分に適応できる、ということなのじゃないか。ということは...」などと主張する人がいることでしょう。しかしこの人は、大気圧と気温が生態系の適応条件の一体何%を占めているのか考えて見るべきです。恐らくは、1‰もないのではないか?つまり、999‰は適応条件が揃っている。にも拘らず、そんな中で、焦点を大気圧と気温に絞った上で、その「程度の激変」を「適応条件全体の激変」と無意識に摩り替え、その上でそのような主張を念頭に思い浮かべてしまっている。こういうことに実はなっているのです。高山病のことを考慮に入れる場合、取るべき態度は全く逆になる筈です。「こんな極限られた条件の変化でも程度の大きさ次第では適応できなくなってしまう。これが生物というものなのだ。これに比べて、幾らよく似ているとは言え遥かに大きな数の条件変更を一遍に強要されることになるのが異星への移住というもの。この場合は、一体どんなことになるやら分かったものではなかろう」というものでなければならない。
「地球の比較的近くの星で、同じ太陽系内の、大きさも生態系も地球とよく似た星」と言えば、先ずは誰もが、火星のことを挙げます。この火星に生物が生息しているのかどうかはさて置き、この火星ですら、かの平衡関係成立の確率上昇という問題においては、以上のような大きな問題を抱えることになる筈です。ですから、周期3800年とも言う極端な楕円軌道を描いているが故に、火星に比べたら地球との生態系の類似性が遥かに劣るとも容易に想定できる所謂「二ビル星」の場合は、言わずもがなといったところです。こう考えた方が無理がない。
ところで、「同じ創造主によって創られたのだから類似性の元々からして極めて高い生態系の異星が、幾つかはきっとあると主張したところで、何もおかしいことはない」という言い方があります。この言い方はしかし、そのようなタイプの異星を事実として確認した上で感嘆の思いを込めて後追い的に述べる時の言い方にすべきであって、そういったタイプの異星が事実としてひとつも確認されていない現状では絶対に不可能な言い方になります。私はそう思います。
造物主の働きを感嘆すると言えばそれは、人間的で物理的な材料をのみ用いながらもそれが最終的に神的なものの発見に繋がったのを自覚した瞬間以降にのみ許されることであり、人間的で物理的なものに材料を限定しないまま、発見の過程で造物主の働きをもそれらの材料のひとつとして取り扱ってしまうなどということがあれば、それは、論理的に言って完全な誤りになってしまう。「同じ創造主によって創られたのだから類似性の元々からして極めて高い生態系の異星が、幾つかはきっとあると主張したところで、何もおかしいことはない」という言い方は、このような誤謬の典型例になっている。私はそう思うのです。
例えば、「神のみぞ知る」とは、論理的には「神が知っている」ということとは全く異なっていて「誰も知らない」ということを意味するものです。例えば「カントのみぞ知る」の場合は「カントは知っている」の意味をも含みますが、「神のみぞ知る」の場合は決して、そうはならないのです。ですから、「神のみぞ知る、つまり、神が知っている。だから」と言って、そこから何か積極的な帰結を導き出そうとすることなど、絶対にあってはならない。「神のみぞ知るのだから」は「誰も知らないのだから」と同義になり、飽くまでも否定文(他者の積極的主張の否定)に過ぎない。だから、そんなものから積極的な帰結など何も導き出せない。
「神」という言葉を人間的で物理的な材料を表す言葉と共に用いると、神という、如何なるものも超越した全一的な存在を、人間的で物理的な材料のひとつとして取り扱うことになってしまいます。つまり、そのような遣い方をされた「神」は最早、遣い手の意図に反して、神そのものは全く指示していないという、如何にも可笑しなことになってしまう。それどころか、おまけに、この世の何かを指示するということさえ絶対にない。こんな遣い方をされた「神」は、どんな存在者よりも尊い存在者を想定して発せられた言葉であるにも拘らず、また、それだからこそ、如何なる言葉よりも空虚で有害な罠になってしまう。この事実には誰もが、大いに驚くべきであり、注目すべきなのです。そう言えば、「神の名を妄に用いるべからず」とか「神は自ら助く者を助く」とかいった言葉があります。それらが太古において何者かによって発せられ、現在に至る迄大切に受け継がれてきたのはまさに、このような事実を念頭に置きながらのことだったのではないでしょうか?
「『神』という言葉は、人間的で物理的な材料を使い尽くして、その結果として神的なものを発見した瞬間以降にのみ、感嘆の言葉として用いるべし」。この主張の正しさは、以上の論証で十分に分かってもらえたのではないでしょうか?神は自然科学や歴史記述の対象ではなく、形而上学や神話の対象である。形而上学とは、英語では metaphysics と表記される語の邦訳ですが、meta(後に考察されること)+physics(自然学の)と分析できるのですから、この語も、上に私が述べたような事柄の本質を的確に伝えられているのだと、私は思います。
異星人が地球に移住するということについては、以上のような幾つかの検討から、可能性として極めて低くなっていると考えた方がいいようです。
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ところで先程「...ということが事実として確立した後でなら『神』という言葉を遣っても」という言い方をしました。こう言うと「レプティリアンのことについては最早、事実と言っていいくらいの証拠が十分に揃っている。例えば...」という反応を返す人も出てくることでしょう。
この手の「証拠」収集において圧倒的な規模でそれを行い、YouTubeでビデオ番組にして放送している、林浩司という人のことを私は、その典型例として思い出します。それこそ、誰もが驚き、誰もが圧倒される程の規模です。自意識過剰な面が強く、勉強不足から意図せざる内に他人の説を、最早伝統的と呼んでもいいレベルのものすら多々含めて、まるで自分が初めて発見したかのような傲慢な言い方をしていることが多い分、苦笑なども度々させられますが、それでも、「証拠」の収集の規模に関しては、素晴らしいと言わざるを得ない。
この人を代表とする人達が収集して見せている様々な「証拠」を見るなどしてでしょうか、「宇宙人」を巡るシッチンやアイクなどの主張を無批判に「事実」として受け入れ、熱狂している人の何と多いことか。テレビ東京の番組で有名な関なんとかという若者も「これはもう間違いないでしょう。これからは信じない方が馬鹿にされ無条件で排除される、そんな新時代です」などと興奮気味にまくし立ててすらいました。
しかしです。この手の情報には私自身、他の誰にも負けず劣らず積極的にアクセスしているつもりですが(アイクやシッチンは、手に入るものは殆ど全て読みました)、「決定的証拠」と彼等がのたまわっているところの殆ど全てが私には、決定的なものには全く見えてこないのです。この点を捉えて私のことを「認知的不協和(自分の間違いは認めたくないので、相手が間違っていると思う防衛心理)」などと指摘した人もいますが、そもそも私には「宇宙人」と呼称される者達を巡る確たる自説などないのです。ですから、自説の間違いを認めたくないといった心情に陥る筈がありません。そうではなく、これらの不可思議な遺物を巡っては、彼等の説と異なる、彼等の説よりもやや信憑性の高い説が別にもうひとつ組織できることを知っている。そうである以上、これらの遺物を「たったひとつの確定的な説を裏付ける決定的証拠」などと迄、言い切ることはできない。彼等がどんなに熱狂しようとも、仮説以上の価値をそれが帯びているとは言い難い。にも拘らず、これらを「決定的証拠」とか「唯一確定的な説」とか言って熱狂するのは、その数の大きさを考慮に入れて考えても、極めて危険としか言いようがない。こう考えている訳です。
註;例えば、ナスカに様々な地上絵と共に描かれた直線のひとつひとつが世界中のありとあらゆる「重要ポイント」をほぼ正確に方向指示しているという事実から、これは宇宙人が太古から地球に来ていた確定的証拠と見做すしかない筈だと言われた際に、私の場合は、全くそのようには感じられず、反論が幾つも念頭に浮かんで来てしまうのです。太古において空を飛べた者と言えば、我々の知っている限りでの我々地球人類ではないのは確かです。しかし、だからと言って彼等のことを、宇宙人と決定してしまうのは、如何にも素人臭い間違いである。私にはそう感じられてならない。第一、我々地球人類よりも遥かに高度なテクノロジーを太古から既に保持していて、我々地球人類を原始から一貫して支配しておきながら、その叡智と能力を持ってその事実を、我々地球人類の目から完全に隠蔽し続けて来られた、そんな地球人類が、我々地球人類以外にも存在し、太古において空を飛んでいたのかも知れない。第二に、地球外から地球に移動できるような高度な飛行機械を持った所謂「宇宙人」には、地球上で空を飛んで何処か別の地点を目指す時に、その地点を方向指示する巨大な直線など必要にはならない筈である。その証拠に、ある程度高度な飛行技術を持つ我々現代の地球人類ですら、その目的の為にそんな余計なものを一切造ってはいない。第三に、もし造るにしろ、大規模とは言え、土を盛り上げるだけの粗末な造りの地上絵や直線で満足できたのは奇妙だ。第四に、飛行機械などなくても上空を飛び回り、上空から地上を眺める何らかの能力が、我々地球人類にも、厳重に隠蔽された極一部の人達に限って備わっていたのかも知れない。...このような異論が、私の念頭に次から次へと浮かんできて、少なくとも、宇宙人説に安易に飛びつくことだけは強く制止し続けるといった次第なのです。
註:シッチンに関しては、最終的な感想を簡単に述べれば、「真偽の判定は、粘土版を全て自分で読んで見ない限り何とも言えないだろう。そのそもDNAとかレプティリアンとか、惑星とか宇宙人とか、シュメール語でどう表記してあるのか?どういう経緯でそれらの原語からそれら現代語への翻訳がなされているのか?それに、粘土版にシッチンが紹介しているような物語が書いてあったとして、それらを神話と捉えずに、単純に史実と捉える根拠は何なのだろう?」です。また、アイクについては、「そこ迄色んなことの真相を詳しく知っていながら何故、東洋と半島や列島の本当の歴史については何も言及できないでいるのか?また、この現象界ではなく、より次元の高いところに現実はあると言っているが、現象界だけではなく、それ以上により次元の高いところにもまたと言っているのか(添加なのか)、それとも、現象界は完全なバーチャルである。現実はそれ以上に高いところにしかないと言っているのか(限定なのか)、記述の箇所によってバラバラで、必ずしも明確になっているとは言えない(にも拘らず多くの人が限定と決めつけて読んでいる)。これはある意味、根本的ながら普遍的な誤謬の典型例である可能性が高く、大いに危険な罠だ」というものです。
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さてここで、論を更に深める為、大きく視点を変えてみましょう。
「地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物の内、ある一定以上の知性と文明を持った存在者」という本来の意味における宇宙人が仮に、太古に地球に来たものとしましょう。この前提の元で、多くの場合、次のように主張されている。「宇宙人が、十分には適応しきれない可能性の高い、従って、関わったところで殆ど何の利益の生まれる筈も無い、そんな異生態系としての地球を、彼等独自の極めて高度なテクノロジーを駆使することによって、一種の理想的な食料供給場に改造しようと考えた。そこで、そこに生息している動物の中から最も適当な動物をひとつ選び出して遺伝子操作を加え、食料としてより相応しいものに改造した。彼等にとって食料とは何より、食べられる瞬間に食べられる者から発せられる、恐怖を始めとする様々な負の情念となっていた。だからこそ、比較的優秀な感情の器官を元々備えた動物が選択された。そうやって創造されたのが人間だった」。
上述したような前提がある以上、異生態系でありながら地球の生物は、彼等の嗜好と生理にほぼ、合致していたと考える他ありません。でも、この場合ですら、地球人類を彼等が食料として創造するなど考えられないとは、果たして絶対に言えないものか?例えば人類には、他の動物とは違い、知性と感情が備わっています。こんな私達なら、知性があって心情も十分過ぎるくらい伝わってくる、そんな相手を、どんなに美味しくても端的に、食べる気などしなかったことでしょう。動物を殺して食べる時、我々人類はそもそも、その動物から伝わってくる心情が何の重みも持たないような状態に自己存在を自動的に変化させてから、その動物の肉体をのみ蛋白源として食するものです。ですから、自己存在をどのように変化させてもその重みが消えないような、ある程度は強い心情を発する動物の場合は、その心情の伝達を遮断するシステムを構築し、そのシステムの中にの現実感を閉じ込める、といった特別な工夫を凝らしてすらいる。我々人類にとって食べるとはまさに、このような意味を持っている訳です。そんな我々人類ですから、人間のような、ある程度優秀な感情の器官を備えた動物をわざわざ選び出しては遺伝子操作を加え、食料として創造するなどといったことはなかった筈です。
ところが、太古における地球外知的高等生物による人類の、食料としての創造を主張する人は、この地球外知的高等生物にとっての食べることには、我々人類にとってのそれとは全く異なり、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情を非物質的な次元において食べることもまた含まれる。そのような特性はこの地球上でも、ワニなど幾つかの爬虫類にその原型とも言えるものが見出される。だから、単なる想像の産物でない。従って、そんな彼等が、比較的高性能の感情の器官を持つという意味で彼等の食料とするのに比較的適性の高いある特定の動物を選び出しては、遺伝子操作を加え、人間を作り出したのだと言ったところで、何の問題もない筈だ。このように述べる訳です。
この見解はある意味、極めて正当なものです。しかし、その正当性は全て、「食べられる者の肉体だけではなく、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情迄も食べる、爬虫類とよく似た宇宙人の存在」を事実と認める場合に限られた話です。確かに、このような宇宙人の存在は、それを否定する確たる証拠はありません。かと言って、積極的に支持する確たる証拠もまたない。このような場合それは、「事実」とは決して言ってはならないのです。しかも、「食べられる者の肉体だけではなく、食べられる者が食べられる瞬間に発する負の感情迄も食べる、爬虫類とよく似た地球人(地球由来の、我々地球人類とは異なるもうひとつ別の地球人類)」という仮説がそれとは別に、それと同様に確たる証拠はないにしろ、それよりも信憑性のやや高い仮説として組織できる訳です。ですから、「確たる証拠」と多くの人によって強弁されるものではなく確たる証拠そのものが明確な形で提示されない限り、やや旗色の悪い仮説として取り扱う必要がある。少なくとも、多くの人が現在そうなりつつあるように「確たる事実の把握」と熱狂的に強弁して騒ぐのだけは慎まなければならない。こういうことになることでしょう。
「地球外の惑星由来の生物で、その独自の生態系に適応して生存してきた生物の内、ある一定以上の知性と文明を持った存在者」という本来の意味における宇宙人が太古に地球に来たという前提の元で主張されている、もうひとつ別の説についても考えてみましょう。
「宇宙人が、十分には適応しきれない可能性の高い、従って、関わったところで殆ど何の利益の生まれる筈も無い、そんな異生態系としての地球を、彼等独自の極めて高度なテクノロジーを駆使することによって、一種の理想的な鉱産資源供給場に改造しようと考えた。ある種の鉱産資源に関わる母星存亡の危機という止むを得ざる理由があったからだ。そこで、そこに生息している動物の中から最も適当な動物をひとつ選び出して遺伝子操作を加え、鉱産資源採掘者としてより相応しいものに改造した。彼等にとって鉱産資源の採掘は、環境変化からくる若干の不調を乗り越えながらも自分達で取り組んでいこうとするには、母星存亡の危機に際しての決死のチャレンジとは言え、余りにも過酷な労働に感じられた。だからこそ、地球由来の動物の内、比較的知的レベルの高そうな動物を選択し、その遺伝子に自分達の遺伝子の内の然るべき一部を融合させ、その動物を、自分達程ではないにしろ、鉱産資源採掘を十分効率的に行っていけるだけの知性を持った動物に改造した。そうやって創造されたのが人間だった」というのが、その説の内容になります。
この説も、一見筋が通っているように見えます。が、よく分析してみれば飽く迄も、ナンセンスと言わなければならない。何故なら先ず、抑も、誰かが誰か他の者の為に過酷な労働に従事し続けるという事態が生じる為には、その者に、過酷な労働に従事するに足る知性があるというだけでは不十分だからです。それ以上に、その労働を課す者への強固な忠誠心が、脅迫による外面的なものであれ、情報操作や心情操作による内面的なものであれ、何れにしても必要になる筈だから。知性は中ぐらいあるということはなく、あるかないかなのだから、知性があれば必ず自尊心が芽生え、心情がコントロールし難いものとなります。にも拘らず、採掘作業を遂行させるには知性を授けなければならない。ということは、わざわざそのような意味での人間を創造しなくても、母星から同種族の囚人や奴隷などを連れて来さえすればいい。でも、そうしなかった。どちらも同じということなら、わざわざ創造する方が選ばれた理由をここで改めて考え直さなければならない。そしてそれこそ、異星の生態系への適応の困難ということになるのではないか?するとここで、結局は、最初の前提を自ら崩さざるを得ないという由々しき事態が生じてしまうことになる。私などはこう考える訳です。しかも、今ここで私が指摘していることを仮に、何らかのやり方でかなり無理してクリアできたとして、その場合でもまた最初の問題、我々地球人類の創造主が宇宙人であって地球人では無いと主張する決定的な証拠はあるのか否かという問題が直ちに、降りかかってくる訳です。こんな情況が明確に確認できる。ですから、論者として自分の置かれた位置の自覚とメンテナンスに自然な関心を寄せ続けられるだけの高い知性のある者の場合、今この段階でこの宇宙人説に一方的に熱狂することなど絶対にあってはならない。このように私は考えるのです。
抑も、異星における鉱産資源の採掘には、わざわざ細心の注意を払って情報操作し、そうやってコントロールし続けなければいつ反抗してくるかも分からない、おまけに自分達がそもそもの目的としている地球の鉱産資源を自分達とは別個に大規模に消費してしまう運命の、そんな中途半端で面倒臭い知的生命体の創造など全く必要ない筈です。そんなことよりも、機械による無人の自動採掘システムなど、それ以外の手段を開発する方が遥かに手っ取り早い。我々地球人類だったらもうひとつ別の人類の創造などという方策は絶対に採らなかった筈です。
宇宙人が地球に初めてやって来た時に、彼等よりも遥かに劣ってはいるが知的生命体であることに違いはない、そんな地球人類が既に存在していたと考えるのはどうでしょう?そんな地球人が彼等の目的にとって邪魔になるくらいの知性と自尊心を持っている。その場合、目的実現の為には、そんな地球人のことは、積極的な関わり合いを持つことなく、ただ端的に駆除しようとしたに違いありません。逆に、そんな地球人が彼等の目的にとって邪魔になるくらいの知性と自尊心を持った種族ではない。その場合、そんな地球人など野生動物と同じですから、無視する以外は何もしないということになったことでしょう。ただ採掘作業に専念するのみ。余計なことはしない。何れにしろ、この場合も、宇宙人が地球人類と、巷間言われているようなタイプの密接な関係を持ち始めることなど、全く考えられないということになる訳です。
結局、「宇宙人、宇宙人」と世間で騒がれているのは、我々普通の地球人を何らかの目的で「創造」し、見えないところから組織的に支配してきた別種の地球人のことと考えた方が、現段階ではまだ信憑性がありそうです。彼等は、宇宙人ではなく地球人なのです。しかも我々地球人類は、地球の全体を常に range して回っている彼等の組織の中から社会的に脱落して何れかの土地に定着し、文明化(家畜化)して、そのことによって、そんな彼等が保持している地球人類の本来の特性の内の多くを喪い、退化した立場なのではないか?我々は彼等の末裔でありながら見えない牢獄に入れられて自由を奪われた、彼等から上手に収奪されて支配される、そんな家畜か奴隷の立場にある。こういうことなのではないか?
彼等は、彼等が特権的に持っている高度なテクノロジーを駆使して、極めて早い時期から密かに、月を初めとする太陽系の星々の開拓に成功し、太陽系全体で、生活そのものではなく特殊な辺境産業活動を行っている。だから結果として、「宇宙人」に見える。そして今、彼等も、自分達のことを我々に「宇宙人」と思わせる方向にシナリオを描き、動いている。こう考えるのが最も合理的なのではないか?
「宇宙人、宇宙人」と騒いでいる連中は、自分の根本的な矛盾に気づかないまま、大げさな妄想を膨らませているに過ぎない。私にはこう感ぜられて仕方がありません。
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最後に、簡単ではありますが、進化論の信憑性について考えてみましょう。
進化論は19世紀に、我々庶民、平民の一般的意識をある状態に拘束しておく目的で捏造された架空の理論である。これが多くの人の共通認識となりつつあり、私もシュタイナーに影響されてそのような認識を随分前から持っている。しかし、私の認識と一般の人の認識では、一見極些細に見えて実は本質的とならざるを得ない差異が歴然と存在していることに、私は実は気づいています。一般的な認識では、自分自身が実は盛んに進化論的なターミノロジーを用いながら、「そのような言い回しをするということはまだ、進化論の呪縛から逃れられていないようだ」などと他者を批判することが多い。それに対して、私の認識では、自分自身が盛んに進化論的なターミノロジーを用いざるを得ないことを自覚しつつ、その理由を実は明確に理解しているので、「そのような言い回しをするということはまだ、進化論の呪縛から逃れられていないようだ」などと言って他者を批判することはないのです。何故、そんな大きな差異が出てしまうのか?
これも実は、この人間世界では普遍的な、例のあの論理的誤謬に関係している事柄なのです。添加と限定の混同の問題です。
「進化論は間違えている」と言う時、「進化論的捉え方以外の多くの捉え方を全て排除しつつ進化論的捉え方をのみ前面に押し出すことが間違えている」と主張するのが実は、正しい。つまり、ある視点に立って物事を捉える場合に限れば、進化論は必ずしも間違いではないのです。このことを十分に認識しつつ、自分自身でも進化論的言い回しを、限定的ながら、厭うことなく自覚的に駆使する。これが正解なのです。
それに対して、今私が正確に説明したことが認識できない人達は、「進化論は如何なる視点からみても間違いである」と捉えてしまっている。そして、そのように発言しながら、自分自身、随所で進化論的言い回しをヌケヌケと行う。この人達には、何故そういうことになるのか、例えば、私の上のような解説などを参考に、自分の頭でよく考察しておく義務がある。皆さんにはそう思われないでしょうか?