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飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

受験英語は間違いだらけ その1

2025-03-29 17:25:45 | 教育
本当の英文法とは何か

「文法書や辞書の解説はある意味ほとんどすべて間違えている。が、文法書や辞書に収録されている例文そのものには間違いはなく、十分に価値のあるものとなっている。勉強のコツは、例文理解にのみ意識を集中することだ。辞書や文法書の解説部分はすべて無視したほうがいい」とは、受験生だった遠い昔に、ある大学教授が言ってくれた言葉です。

今私は、プロの英語教師として、この言葉こそ英語力飛躍のカギと理解しています。その上で、間違いのない本当に正しい解説も詳細に提供できるようになりました。文法書や辞書の解説が相変わらず受験生の足を引っ張り続ける中、全く異なる正しい解説を提供することで、多くの生徒を難関大学上位合格レベルに引き上げてきました。全く異なる正しい英文法、暗記に頼らない考える英文法、大学入試の秘密が見える英文法は、本当に存在しているのです。

例えば、ほんの一例をあげましょう。to不定詞の名詞用法。「She wants to go there.」の「to go there」は全体として名詞的で「wants」の目的語になっている。to不定詞は名詞として機能することがある。と、学校文法ではまことしやかに解説されます。ではなぜ、同じ意味をあらわす英文「She is to go there.」が存在しているのか。「is」は自動詞であり目的語を取る動詞ではないので「to go there」を目的語に取っているとは絶対に言えない。従って「wants」も「to go there」を目的語にとってはいるなどとは絶対に言えないのです。

すると、「is」は補語を取る動詞だから「to go there」は補語だ。だから名詞用法だ。などと「説明」して、知った顔をしている輩が数多く出てくる。この人たちは、そう言い張ることで受験生と社会全体が被る悪影響を、気にすることが全くないのではないのでしょうか。

残念ながら補語とは、be動詞の後ろに来れば全部補語になるというような安易なものではありません。例えば、「She is a fool.」(不定冠詞付き名詞) や 「She is fool.」(無冠詞名詞) 、「She is foolish.」(接尾辞付き名詞=形容詞)などという具合に、きわめて限定して語るべきものなのです。この人たちの上記のようなアドホックな態度は、この補語の基本原則の理解にすら悪影響を及ぼしてしまう。こうなるともう、初学者の頭の中は大混乱でしょう。

文法軽視の風潮が広がり、「スラッシュ読み」などという、学術の英文読解で絶対にやってはいけない類の読解法が学校教育に蔓延して久しいけれど、それもこれもすべてこのアドホックな「文法解説」をばらまいてきた輩達のせいなのです。

皆さんはきっと驚かれると思いますが、実はto不定詞などというものをそもそも、存在していると考えるのがすべての元凶なのです。文法書にも、注意深いものにはちゃんと、「to付きの不定詞」と慎重な言い方をしています。すなわちここでは、「不定詞とはひとえに原形不定詞のことで、to原形はひとまとまりとみる場合は常に前置詞句で副詞ととらえるべきである。to不定詞の名詞用法という言い方は二重三重の間違い」ということが示唆されているのです。toと原形との結びつきも世間で考えられているよりはるかに弱い。このことが分かっていない場合、例えば「to thoroughly examine」などと出てくると、どうしていいのかわからなくなってしまうわけです。

ではどう考えるのが合理的なのか?実は、「S V to 原形 ……」は、次の三つのうちのいずれかで捉えるのが最も合理的です。

① 「[S V] [to 原形……]」:副詞用法(「ために」或いは「を見て」)
② 「S (V to) 原形 ……」=「S (助動詞) 原形 ……」
③ 「S (V to) 原形 ……」=「S (V and) V2 ……」:結果

これは「V」と「to」の間に「……」が入って「S V …… to 原形 ……」となっても、全く同様に捉えることができるので便利です。なぜなら、「……」の部分に何が来ようと「V to」の時と全く同じように取り扱い、「……」の部分は無視してよいことになるからです。すなわち、いわゆる「熟語」をただ丸暗記するのではなく系統的に理解し、正しく使いこなせるようになるということの一例となっているのです。

① 「[S V……] [to 原形……]」:副詞用法(「ために」或いは「を見て」)
② 「S (V…… to) 原形 ……」=「S (助動詞) 原形 ……」
③ 「S (V…… to) 原形 ……」=「S (V…… and) V2 ……」:結果

初めに例示した「She wants to go there.」の場合、「She (wants to) go there.」=「She (will) go there.」と捉えるのが正解です。「to」は「go」に付いているのではなく、「wants」の方に付き、意志・願望表現を構成すると考えるべきだったのです。「She is to go there.」も「She (is to) go there.」=「She (will) go there.」と捉えるのが正解です。「to」は「go」に付いているのではなく、「is」の方に付き、意志・願望表現を構成すると考えるべきです。「to go there」を目的語と考え、to不定詞に名詞用法があると考えるのも、「to go there」を補語と考えるのも、どれだけいい加減で有害な考え方だったか、皆さんにはこれで十分に伝わったはずです。

「to 原形」を上記のように新しくとらえるようになるとどんないいことが起こるのでしょうか?例えば「remember」の場合、「to不定詞も動名詞もどちらも目的語に取る他動詞」のひとつと覚えて済ますのでは、なぜダメなのでしょうか?「I remember playing with him when I was a child.」(子供の時に彼と遊んだことを今でも覚えている)や「Remember to go there.」(そこに行くことを覚えていなさい)でダメな理由は何なのでしょうか?

それは「Remember to go there.」を「必ずそこに行きなさい」と正しく訳す人が現れた時に、「きれいな訳だけど飽くまでも意訳でしかない。覚えておいたらいいだろうけど、文法的には間違えている」などという、間違った整理の仕方をしてしまうからです。そうなると、同じ調子で他の多くの表現も整理していく中で、他の多くの表現と同様にその暗記を、暗記であるがゆえに維持できなくなる。奇跡的に辛うじて覚えていてもいざ使おうとした時に正しく使いこなすことができない。ましてや知識を発展させて学習そのものを楽しむということにもなるはずがない。その結果苦しくなって、英語学習そのものに絶望してしまう。実際、こんな感じで英語学習に挫折してしまっている学生を私はこれまで数多く目撃してきました。彼らはアドホックな解説でお茶を濁す英語教育の紛れもない犠牲者なのです。

実は、「Remember to go there.」は、上記の原則の内の③に従って

「Remember to go there.」=「(Remember to) go there.」=「(Don’t forget to) go there.」=「(Never fail to) go there.」=「(Don’t fail and) go there.」=「Go there (without fail).」

と分析し、「忘れずにそこに行きなさい」「必ずそこに行きなさい」と訳すのが、文法上正しいのです。これは決して意訳などではありません。そもそも意訳などというものはあり得ないのです。意訳という言葉を用いる時、それだけで、その人の持っている文法が実は間違えた文法であることを端的に表しているのです。それに対して、上記のような正しい理解なら、自分で使用しようとするときに間違った使い方になることなど絶対にありえません。その上、他の類似表現との連携を認識することにもなり、ひとつ覚えることで同時に複数の表現まで発展的に覚えることになります。更には、何か全く見たことのない表現が出てきたときにも、形が似ているし、類似表現だろう。文脈上もそれで意味が通じると、正しく判断して訳すことすらできるようになるのです。更には、何よりも、考えながら連想しながら覚えていくことで、大いに楽しく勉強できる。記憶が劣化することもほとんどない。これはいいことづくめではないでしょうか?

ここで上げた例は、本当に一例でしかありません。今ここで皆さんにすべてを伝えることは物理的に不可能ですし、皆さんが信じてくれるか分かりませんが、英文法のほぼすべての項目で、上記の改善と同じような改善が可能であり、必要なのは事実です。改善することで一見それぞれが複雑になり全体として大変になりそうと考える人もいるでしょうが、実際は全く逆で、ひとつひとつを改善し深めていくことで、すべての項目が互いに有機的に結びつきあって連携しあい、全体としては比較的コンパクトになるのです。更には、大学入試問題も、ここで一端を述べた本当の文法に基づいて作成されているので、根底から理解して、出題者の意図も的確にとらえて、まるで出題者と対話するかのように解答していくことができるようになります。


英単語帳は使ってはいけない~必須動詞とは~

単語帳って何だろう。単語帳をつくろうとするとき、全国の大学の入試問題を過去10年分解析して一般的に繰り返しよく出てくるものをまずは選びだすことから始めるでしょう。それを出題頻度順に並べたうえで動詞、名詞、形容詞、副詞といった具合に分類する。更には、それぞれを必須動詞と上級動詞、必須名詞と上級名詞、必須形容詞と上級形容詞、必須副詞と上級副詞といった具合により細かく分類する。それに予備校講師や出版社の担当者が日本語訳をつけていく。とまあ、大体こういうことでしょう。

私の目から見ると、この過程には三つの大きな問題点があります。これらの問題点故に単語帳で「英語を勉強」してはいけないと私は言っているのです。

(1) 例えば早稲田大学を志望している人の場合、全国の大学の入試問題に一般的に取り上げられている単語を勉強しても、出題される単語を端的に勉強していることにはならないでしょう。一般的に勉強するのではなく、的を絞って勉強すべきです。志望校の入試問題を10年分直接自分の目で確かめておく方がはるかに合理的です。

(2) 予備校講師や出版社の単語帳制作担当者は問題をつくっている大学の先生のような英語力を持っていません。例えば京都大学の場合、受験業界で「優秀」といわれている腕に覚えのある受験生が競い合うわけですが、その入試で受験生のではなく合格者の平均点が8割9割ではなく5割前後に毎年なっている。このことを見さえすれば、予備校の先生の実力などどの程度なのか容易に推察されるでしょう。実際、各予備校から毎年発表される「模範」解答例を私が採点すると大体6割でしかない。これは、上の認識を明確に裏付けています。彼らの英語力は正直言って、私が教えている受験生の英語力よりも劣っています。そんな人たちが訳例をつけた単語帳で勉強しても、もちろんほぼ全員が単語帳で英語を勉強するという現状がある限りは相対的合格ということもあるにはあるのだけど、その人に大学入試の本質が見えているはずがありません。そうなると受験勉強の際に必要以上の苦労を強要されることになる。現状は、そのような無駄な苦痛に耐え抜いた比較的忍耐力のある人が京大に合格しているだけなのです。彼らは決して英語が精確に読めているわけではありません。

(3) 単語帳には動詞と名詞、形容詞、副詞が横一線に同等に扱われているきらいがあります。ところが実際は以下のような偏りを認識する必要があるのです。すなわち、名詞は、抽象名詞以外は英語そのままで読むべきであり、日本語訳をつける必要がありません。またある意味、日本語訳をつけてはいけないのです。抽象名詞は、「もともと文」ということですから、動詞や形容詞を中心に必ず元の文に戻して理解すべきですから、これも名詞としての訳をつけるべきではありません。副詞は多くが形容詞の変化したものですから、それ自体の訳例を覚える必要がありません。形容詞さえ覚えていたら大丈夫なのですから。更にはこの形容詞も、もともとは名詞や動詞ですから、この名詞や動詞から加工されて出てくる単語生成の過程の認識こそが重要です。形容詞としての訳例を覚えるだけで満足する人がいるけど、それは大変危険なのです。…このように考えると、結局、覚えなければならないのは、また覚えさえすればいいのはまさに、動詞だけということになるのです。このような動詞、名詞、形容詞、副詞の間の序列が全く意識されていないのが単語帳ですから、単語帳を使ってはいけないと言われるのです。

私は、必須動詞300を、一般的に出回っている訳例を捨てて、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解しさえすれば、上級動詞を中心に出してくる早稲田大学など一部の大学を除いて、東大や京大、阪大、同志社大学など、大方の大学の入試問題に十分に対応できることを確認しています。また、これらの大学入試問題では、必須動詞300を、一般的に出回っている訳例を捨てて、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解するのでない限り決してその問題の本質は見抜けないと断言しているのです。

単語帳の訳例はどれくらい間違えているのでしょうか。それこそほとんどすべての単語に関して逐一詳しくそれを指摘できますが、今は一つだけ代表的な例を以下に示します。

「engage」は、受験生の中には「従事する」と覚えて済ましている人がいます。その間違いを受けて単語帳では「従事させる」と提示しています。ところが、受験生の間違いを訂正するつもりで提示されたこの訳例が二重三重に間違えているのです。例えば、「She is engaged in apparel business.」(彼女はアパレル業に従事している)において、「従事している」と訳しているのは実は「is engaged」ではないのです。それは「in」なのです。前置詞なのに他動詞の訳をするのと多くの人が考えることでしょうが、これは事実です。これは辞書にも一般的に「従事のin」として記載されています。前置詞は主に他動詞として機能するのであり、前置詞句を構成して副詞句をつくるのは全体の5パーセントもありません。時、所、程度をあらわすときに限定されるとちゃんとした文法書にも明記されています。よく、

「She is engaged 〈in apparel business〉.」
S   V     M

などと書く教師がいますが、これは完全に間違えています。私はこの間違いを始めた人の固有名詞すら知っていますし、その人に直接英語を習っていました。でも、間違いは間違いなのです。正しくは、

「She (is engaged) in apparel business.」
  S Vt O

と考えるべきなのです。この「in」は「apparel business」についているのではなく、「is engaged」についているのです。そして「is engaged in」において中核は「is engaged」ではなく「in」なのです。「is engaged」は副詞化して他動詞的前置詞「in」を修飾しているのです。通常は無視して訳さないのですが、あえて訳すなら「もっぱら」とか「他をなげうって」となります。

ところが、入試ではこの「is engaged in」が「従事する」の意味で出ることがありません。例えば、「She is engaged in learning English.」(彼女は今ちょうど英語の習得に専念しているところだ)という形で出題されるのです。「in」が「従事する」と訳されるのは後ろに業種が来る時です。今は動名詞句「learning English」が来ている。これはいったい何なのでしょうか。

実は、中学の時に皆習って知っている現在進行形は「She is learning English.」だけではないのです。「She is in learning English.」もまた現在進行形のもうひとつの形なのです。現在進行形を「している最中」と訳すことがあることを念頭に置くとこの「in」は十分に納得できるはずです。更には、「She is …… learning English.」や「She is …… in learning English.」と「……」が入っても基本の意味に変更はありません。これも現在進行形なのです。ですから例えば、「She is busy in learning English.」を「彼女は英語習得に忙しい」と訳すのは完全な誤訳なのです。正しくは「彼女は今(忙しそうに)英語習得に専念している最中です」です。これは現在進行形なのです。ですから、これは問題としてもよく取り上げられる話なのですが、「She is busy in learning English.」=「She is busy learning English.」なのです。「in」は入っていても入っていなくても同じ意味になるのです。なぜだろうと不思議に思ってはいませんでしたか?その明確な理由が今ここで解明されました。

「She is engaged in learning English.」もですから、実は、現在進行形だったのです。ただ、だからと言って「She is engaged learning English.」はさすがの私も目撃したことがないので使用することはありません。ですが、ここである重要な法則が抽出されていることにはちゃんと気づく必要があります。すなわち「She is …… in ~ing ……」となっていたら「……」の部分に何が入っていてもすべて、「もっぱら~している最中です」と訳せる同義文になるという法則です。すなわち、

「She is busy in learning English.」
「She is engaged in learning English.」
「She is committed in learning English.」
「She is involved in learning English.」

これらはすべて同義なのです。そしていずれも最近10年間の大学入試に頻出しているのです。この認識が何よりも大切なのです。そして単語帳で勉強しているとこの認識を妨害されてしまうのです。この「専念する」は、大学入試の実態に合わせて次のように拡大表記することもできます。

「She is busy in learning English.」
「She is engaged in learning English.」
「She is committed in learning English.」
「She is involved in learning English.」
「She is devoted to learning English.」
「She is dedicated to learning English.」

このように「engage」は正しく詳しく深く理解しておく必要があるのです。この話を聞いて、「engage」だけでこれだけの厚みがあるなら、それが300になったら、たとえ300と比較的少数に限定されていても、それでもものすごい時間と労力になるのでは、と考える人もいるでしょう。ところがよく見てください。「engage」を正しく詳しく深く理解する場合、「commit」や「involve」、「devote」、「dedicate」まで正しく詳しく深く理解することになっていませんか?例文によって正しく詳しく深く理解しているので、これらの動詞と共に用いられる名詞や形容詞、副詞とのコロケーションまで習得できています。つまり、絶対に間違った使用法に陥ることがない上に、いったんは捨てたはずの名詞や形容詞、副詞の正しく詳しく深い習得までできています。これは時間と労力の大きな節約になるのではないでしょうか。

必須動詞300とは言いますが、動詞は動詞型で分類すると実際は29種類しかないことが分かっています。動詞型は提示された文の形を見れば分かる。ということは、この29動詞型を習得すれば、初めて見る単語も、文の形を読み取りさえすれできればその意味が分かるということになるのです。単語には実は意味などなく、文の形に意味があるということです。ですから、必須動詞300の意味を覚えるのではなく、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解すると私は表現するのです。単語帳で意味を覚えていくことがいかに危険なことか、これで皆さんも十分に理解していただけるのではないでしょうか。

ところで、このような単語帳にも唯一取り上げるべき利点があります。すなわち、入試に出てくる単語が頻度順にリストアップされている点です。これだけは大いに利用価値があります。

単語帳は必動300をリストアップしてくれています。このリストアップが有効であることは私が実際に入試問題を詳しく見て確認済みです。この必動300を先ずは、上記のように勧めておきながらいかにも逆説的に聞こえるかもしれませんが、発音アクセントと綴りに焦点を絞ってマスターしてください。これなしで正しく詳しく深く理解しようとしても本当は意味がないからです。逆にこれを先にやってから正しく詳しく深い認識の獲得に向かうと、能率が何十倍にも上がります。また短期間で発音アクセントと綴りをマスターした必須動詞は、必須動詞ですから英語の授業で取り扱われる教材に毎回登場してきます。登場してくるたびに発音アクセントと綴りが一瞬で想起される単語は登場してきたその場で、その瞬間に即してある程度は習得できます。必動300の発音アクセントと綴りをマスターしておくことで英語の勉強がすべて自動的に必動300習得の側面を帯びてくることになるのです。

どうですか?単語帳を英語学習に使用してはいけないということや、必須動詞300に焦点を絞って正しく詳しく深く習得する必要があるということが、十分に分かっていただけましたか?



受験英語は間違いだらけ その2

2025-03-29 17:24:48 | 教育
受験英語は間違いだらけ: 本当の英文法とは

自動詞も他動詞の仲間である

最近では動詞を自動詞(Vi)と他動詞(Vt)に分けて考えることそのものを公然と排除する教師が多いそうです。しかし、英語が伸びずに悩んでいる受験生の現状を日々目撃している立場からすると、そのような排除の姿勢は逆効果になっていると言わざるを得ません。自動詞と他動詞の区別は必須事項なのです。

とはいえ、自動詞と他動詞の従来からの区別に問題がないわけではありません。問題があるからこそ排除の風潮が出てきたのです。

従来、他動詞は目的語を取る動詞、自動詞は目的語を取らない動詞と説明されていました。この説明には次のような問題点があります。

⑴ 目的語が

「に」と訳す目的語(専門的には与格とか3格と言われる。OⅠと表記する)
「を」と訳す目的語(専門的には対格とか4格と言われる。OⅡと表記する)

と分類されることが十分に説明されていません。

⑵ 従って他動詞には

「S Vt OⅠ.」(SはOⅠに~する)
「S Vt OⅡ.」(SはOⅡを~する)
「S Vt OⅠ OⅡ.」(SはOⅠにOⅡをあげる/与える/~してあげる)

という3種類の構文が存在することが十分に整理されていません。

ちなみに、「S Vt OⅠ OⅡ.」(SはOⅠにOⅡをあげる/与える/~してあげる)はすべて「give」の意味を内包します。この構文はある条件によって

「S Vt OⅠ.」(SはOⅠに~する)
「S Vt OⅡ.」(SはOⅡを~する)
「S Vt OⅠ OⅡ.」(SはOⅠにOⅡをあげる/与える)=「S Vt OⅡ to OⅠ.」
「S Vt OⅠ OⅡ.」(SはOⅠにOⅡを~してあげる)=「S Vt OⅡ for OⅠ.」

と細分化できます。この条件に付いては今は保留します。

⑶ 自動詞を「目的語を取らない動詞」と規定することにはそもそも、「物事は否定文で規定してはならない」という大原則の違反が含まれています。そもそも最初から、学問の水準に至っていないのです。

⑷ 自動詞は実は、「前置詞の助けを借りて目的語を取る」のです。これが正しい規定です。自動詞は他動詞の仲間なのです。自動詞と他動詞を区別するのは大きな間違いなのです。

「S Vi 前 O.」=「S Vt O.」

他動詞「Vt」と同じ内容を「Vi 前」で示すものを群動詞とか動詞句と呼んでいます。これはアングロサクソン系の表現法です。

「Vi 前」の中核は「Vi」ではなく「前」の部分です。これを他動詞的前置詞と言います。

前置詞は他動詞と同じで目的語を取りますが、これは前置詞がもともと他動詞だったことを示しているのです。

「Vi 前」の「前」を接頭辞として「Vi」の前に付けて「前-Vi」とひとつの動詞にするのはラテン系の表現法です。群動詞や動詞句はすべて同義の他動詞が存在しています。具体例をごく一部だけ下に示します。

「She takes after her mother.」=「She resembles her mother.」(似ている)
「She is searching for the room.」=「She is seeking the room.」(探している)
(「She is searching the room.」は「探している」ではない!「調べている」である。)

⑸ 「S Vi 前 O.」を常に

「S Vi〈前 O〉.」

と分析する教師がいますが、それは間違いです。正しくは、

「S Vi 〈前 O〉.」 前置詞句(副詞句) 時、所、程度を表す時に限定 5%
「S 〈Vi 前〉 O.」=「S Vt O.」 動詞句(群動詞) 95%

となります。前置詞は前置詞句を構成する用法以上に動詞句を構成する用法が重要なのです。学校文法ではこの辺がすっぽりと抜け落ちています。このことを知らないでいると、例えば以下のような書き換えが理解できなくなります。

She looked at me. = I was looked at by her.
(「at」は「me」ではなく「looked」に付いて他動詞句を構成しているから、他動詞として受け身にできるのです)


「think」は自動詞か他動詞か

「I think him to be my teacher.」(私は彼のことをわが師と考えている)

この表現を見て「think」を他動詞と考える教師がいます。そうして、「I think that he is my teacher.」の「think」も他動詞である。「that he is my teacher」は「think」の目的語。だから名詞句。「彼はわが師であると」と訳すのは意訳。「彼がわが師であるということを」と訳すのが直訳などと、間違いの上に間違いを上塗りしていきます。これが間違いなのは「I think so.」という表現があっても「I think it.」とは決して言わないことがそれを端的に示しています。

実は「think」は自動詞でも他動詞でもありません。人間の心の作用を表していて、人間の體の行為を表していないからです。人間の體の行為を表すのが他動詞で、「transitive Verb」の「transitive」とは「この感性界の時空を移動する性質をもった」の意味なのです。「目的語」と訳す「Object」とは「人間が身體を使ってかかわるこの感性界内の物体」という意味です。こう考えると「think」が他動詞でないのは明らかでしょう。that節は名詞節でもなく、目的語でもありません。目を閉じたときに広がるイメージの世界(叡智界)をthatでひと括りにして漫画の吹き抜けのようにその内容を示しているだけで、決して「Object」などと称することはできないのです。

「think」と同じようにthat節を取る動詞は、人間の言語表現にとってより重要なのが心であることを反映して、他動詞や自動詞より数も使用頻度も大きくなっています。つまり、他動詞や自動詞よりもはるかに重要なのです。それにも拘わらずこれを不当にも他動詞、that節を名詞節などと称して放っておく訳です。こんな調子でいる限り本当の英文法が理解できるはずありません。英文法が理解できないのは現在のいい加減な間違えた学校文法のせいであって、決して皆さんのせいではないのです。

「think」のように「that節を取る動詞」のことを私は心理作用動詞と名付けます。心理作用動詞の文は以下のように変形されます。この変形法の理解も英文法の最重要テーマのひとつになります。

① 「I think that she is a teacher.」

② 「I think she is a teacher.」
(thatの省略。直後に主語がある語彙はthatでも関係詞でも省略可)

③ 「I think her to be a teacher.」
(that節の短縮。「her」は見かけ上目的格になっていますが実際は主格として機能しています。見かけ上の格と実際の格の二重構造になっているのです)

④ 「I think her a teacher.」
(「to be」の省略)

⑤ 「It is thought to me that she is a teacher.」
(心理作用動詞の受け身はbyではなくtoを用います。他動詞の受け身がbyを用いるのは主語と目的語がこの感性界で空間的に隣接しない限り他動詞が成立しないことをよく表しています。イメージの世界に空間的な隣接などないから心理作用動詞の受け身はtoを使用するのです)

⑥ 「She is thought to me to be a teacher.」
(「She」を主語としてとる動詞は「is thought」ではありません。「be」です。「is thought」の主語は見えなくなっている「it …… that」の「it」です。「It is thought that」を「it …… that」の部分を消去して「she is」の「is」の部分に移動し「is thought to be」と助動詞化しているのです。)
=「She may be a teacher.」
(「is thought to me to」=「may」!)

⑦ 「It is thought to me that she is a teacher.」=「It seems to me that she is a teacher.」=「It appears to me that she is a teacher.」=「It looks to me that she is a teacher.」
cf.「It occurred to me that she was a teacher.」=「It hit me that she was a teacher.」=「It struck me that she was a teacher.」

⑧ 「She is thought to me to be a teacher.」=「She seems to me to be a teacher.」=「She appears to me to be a teacher.」=「She looks to me to be a teacher.」

⑨ 「She is seemingly to me a teacher.」=「She is apparently to me a teacher.」
(文修飾の副詞。「見かけ上」と訳しても通用しません)

②から⑨はどの表現を見ても常に①に戻して理解するのが正しい理解の第一歩となります。

心理作用動詞の中にはごく一部、that節ではなく疑問節を取るものがあります。

I know that it is an animal.
I know what it is. (疑問節ではなく先行詞を含む関係代名詞節。「それの本質が分かる」)
I don’t know what it is. (疑問節。「それが何であるか分からない」)
I wonder what it is. = I don’t know what it is.(「か分からない」と訳します。「かしら」は誤訳)
I wonder what it is. --- It’s my favorite CD.(疑問文扱い。これは「かしら」と訳します)
= What is it.? --- It’s my favorite CD.
She asked what it was. = She said, ”What is it?”
It is certain that she loves you.
It is not certain whether she loves you.(疑問節)
It is uncertain whether she loves you.(疑問節)
etc.


「S V O C.」など存在していない

「I think that she is a teacger.」は「S V that S’ is C’.」と分析できます。とすると、「I think that she is a teacger.」のthat節短縮である「I think her to be a teacher.」は「S V O(S’) to be C’」と分析すべきです。「her」は見かけ上はthinkの目的語で実際は「be」の主語と、二重構造になっていることを理解すべきです。これを

「I think her to be a teacher.」
S V O C

と説明する教師が非常に多くいます。これは完全に間違いです。この文の「to be」省略文を

「I think her a teacher.」
S V O C

と説明する教師も多い。これも間違いです。これは正しくは、

「I think her a teacher.」
S V O(S’) C’

なのです。

そもそも「to 原形 ……」は補語にはなりません。補語とは、純粋に動詞とは言えず他の一般動詞とは明確に区別されるbe動詞の後ろに来るもので、以下の3種類しか存在していません。

① 「He is a fool.」=「He is a fool of the fools who …….」
(a+名詞。who以下の特徴を持った馬鹿者は何人かいるが、彼もまたそのうちのひとりである。「a」は不定表現で集合表現「of the 複数名詞」の存在を前提とします。「of the 複数名詞」の「the」は確定表現で何らかの内容を持った関係文の存在を前提とします。従って「a 名詞」を見たら必ず「of the 複数名詞 {関係文}」を復元して理解しなければならないのです)

② 「He is fool.」
(無冠詞名詞。彼は馬鹿だ)

③ 「He is foolish.」=「He is like a fool.」
(名詞+接尾辞=形容詞。彼は馬鹿っぽい)

この前提が理解できていないから、be動詞の後ろに来るから補語と考えて何でも補語と言ってしまう風潮が広がるのです。それが明らかに受験生の足を引っ張っています。

例えば「To see is to believe.」は、「S is C.」ではありません。これは無生物主語構文の一種で「[To see] is [to believe].」と分析し、「実際に自分の目で見たらいいよ。そうすれば君もちゃんと信じられるよ」と訳すのが正解です。「見ることは信じることだ」は完全な間違いです。どんな動詞も主語が人以外になっていれば擬人法を除いてすべて、時には見かけ上人が主語になっているように見える時でも、無生物主語構文として取り扱うべきです。詳しくは無生物主語構文の解説の時に。因みに、「Seeing is believing.」は似た意味でも微妙に違っています。この微妙な違いをちゃんと理解すべきです。これは「実際に自分の目で見れば必ず信念が付いてくるものだ」と訳します。どちらも同じと説明するのは完全な間違いです。


基本動詞型をまとめると

① S is C. 第2文型

② S 自 前 O.

③ S 他 OⅠ. 第3文型
④ S 他 OⅡ. 第3文型
⑤ S 他 OⅠ OⅡ. 第4文型

⑥ S 心 that S’ V’ ………. → S 心 O(S’) to 原形 …….
⑦ S 心 that S’ is C’. → /S 心 O(S’) to be C’.→ S 心 O(S’) C’.  第5文型(の一部)
⑧ S 心 wh- ……….


この基本動詞型が発展して最終的には29動詞型になります。この基本動詞型のことは、29動詞型を理解するための出発点と考えればいいでしょう。

学校で習う5文型という考え方は、明らかに実態に合いません。できるだけ早く捨て去るべきです。世界ではもう100年も前に放棄されています。ガラパゴス化しているのは携帯電話だけではないのです。

上のまとめには「S V.」(第1文型)を敢えて入れていません。これは無生物主語構文の一種として理解すべき構文です。詳しくは無生物主語構文の解説の時に。

英単語帳使ってはいけない

2025-03-23 17:12:00 | 教育
英語の勉強というと、とりあえず単語や熟語の意味を結構な数単語帳や熟語で覚えながら文法もおさらいし、読解演習もするというのが相場でしょう。私も遠い昔受験生だった時にそこから始めました。

なかなか覚えられなくてイライラしたり、覚えたのに、言われたように訳しているのに、内容が全然頭に入ってこない。当然点数も低迷している。

或いは学校の定期テストでは何とか対応できるけど模試や過去問になると全然対応できない。

なぜでしょう?

それはネイティブが言語習得する際に自然にやっている最も大切なことが全くやれていない上に、ネイティブが言語習得する際に絶対にやらない無駄なこと或いは有害なことをやってはいけないことを勘違いしてやってしまっているからなのです。

また、単語帳や熟語帳、文法書に本質的な致命的な欠陥があるからです。

その秘訣とは何か?

はるか昔若い時に、私も或る優秀な先生に教わる機会を得て、それまでの悩みが嘘みたいに一気に解消し、語学力が爆上がりした経験があります。

低迷は自分のせいではなかったんだとはっきり自覚できました。

長い年月を経て、今は私が先生として縁のある生徒たちに同じような体験を味わってもらうようになりました。

皆さんもこの秘密に触れてみませんか?






必須動詞300を覚えさえすればよく、覚えない限り何もできない



単語帳って何だろう。単語帳をつくろうとするとき、全国の大学の入試問題を過去10年分解析して一般的に繰り返しよく出てくるものをまずは選びだすことから始めるでしょう。それを出題頻度順に並べたうえで動詞、名詞、形容詞、副詞といった具合に分類する。更には、それぞれを必須動詞と上級動詞、必須名詞と上級名詞、必須形容詞と上級形容詞、必須副詞と上級副詞といった具合により細かく分類する。それに予備校講師や出版社の担当者が日本語訳をつけていく。とまあ、大体こういうことでしょう。



私の目から見ると、この過程には三つの大きな問題点があります。これらの問題点故に単語帳で「英語を勉強」してはいけないと私は言っているのです。



(1)   例えば早稲田大学を志望している人の場合、全国の大学の入試問題に一般的に取り上げられている単語を勉強しても、出題される単語を端的に勉強していることにはならないでしょう。一般的に勉強するのではなく、的を絞って勉強すべきです。志望校の入試問題を10年分直接自分の目で確かめておく方がはるかに合理的です。



(2)   予備校講師や出版社の単語帳制作担当者は問題をつくっている大学の先生のような英語力を持っていません。例えば京都大学の場合、受験業界で「優秀」といわれている腕に覚えのある受験生が競い合うわけですが、その入試で受験生のではなく合格者の平均点が8割9割ではなく5割前後に毎年なっている。このことを見さえすれば、予備校の先生の実力などどの程度なのか容易に推察されるでしょう。実際、各予備校から毎年発表される「模範」解答例を私が採点すると大体6割でしかない。これは、上の認識を明確に裏付けています。彼らの英語力は正直言って、私が教えている受験生の英語力よりも劣っています。そんな人たちが訳例をつけた単語帳で勉強しても、もちろんほぼ全員が単語帳で英語を勉強するという現状がある限りは相対的合格ということもあるにはあるのだけど、その人に大学入試の本質が見えているはずがありません。そうなると受験勉強の際に必要以上の苦労を強要されることになる。現状は、そのような無駄な苦痛に耐え抜いた比較的忍耐力のある人が京大に合格しているだけなのです。彼らは決して英語が精確に読めているわけではありません。



(3)   単語帳には動詞と名詞、形容詞、副詞が横一線に同等に扱われているきらいがあります。ところが実際は以下のような偏りを認識する必要があるのです。すなわち、名詞は、抽象名詞以外は英語そのままで読むべきであり、日本語訳をつける必要がありません。またある意味、日本語訳をつけてはいけないのです。抽象名詞は、「もともと文」ということですから、動詞や形容詞を中心に必ず元の文に戻して理解すべきですから、これも名詞としての訳をつけるべきではありません。副詞は多くが形容詞の変化したものですから、それ自体の訳例を覚える必要がありません。形容詞さえ覚えていたら大丈夫なのですから。更にはこの形容詞も、もともとは名詞や動詞ですから、この名詞や動詞から加工されて出てくる単語生成の過程の認識こそが重要です。形容詞としての訳例を覚えるだけで満足する人がいるけど、それは大変危険なのです。…このように考えると、結局、覚えなければならないのは、また覚えさえすればいいのはまさに、動詞だけということになるのです。このような動詞、名詞、形容詞、副詞の間の序列が全く意識されていないのが単語帳ですから、単語帳を使ってはいけないと言われるのです。



私は、必須動詞300を、一般的に出回っている訳例を捨てて、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解しさえすれば、上級動詞を中心に出してくる早稲田大学など一部の大学を除いて、東大や京大、阪大、同志社大学など、大方の大学の入試問題に十分に対応できることを確認しています。また、これらの大学入試問題では、必須動詞300を、一般的に出回っている訳例を捨てて、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解するのでない限り決してその問題の本質は見抜けないと断言しているのです。



単語帳の訳例はどれくらい間違えているのでしょうか。それこそほとんどすべての単語に関して逐一詳しくそれを指摘できますが、今は一つだけ代表的な例を以下に示します。



「engage」は、受験生の中には「従事する」と覚えて済ましている人がいます。その間違いを受けて単語帳では「従事させる」と提示しています。ところが、受験生の間違いを訂正するつもりで提示されたこの訳例が二重三重に間違えているのです。例えば、「She is engaged in apparel business.」(彼女はアパレル業に従事している)において、「従事している」と訳しているのは実は「is engaged」ではないのです。それは「in」なのです。前置詞なのに他動詞の訳をするのと多くの人が考えることでしょうが、これは事実です。これは辞書にも一般的に「従事のin」として記載されています。前置詞は主に他動詞として機能するのであり、前置詞句を構成して副詞句をつくるのは全体の5パーセントもありません。時、所、程度をあらわすときに限定されるとちゃんとした文法書にも明記されています。よく、



「She is engaged 〈in apparel business〉.」

   S   V     M



などと書く教師がいますが、これは完全に間違えています。私はこの間違いを始めた人の固有名詞すら知っていますし、その人に直接英語を習っていました。でも、間違いは間違いなのです。正しくは、



「She (is engaged) in apparel business.」

  S             Vt           O



と考えるべきなのです。この「in」は「apparel business」についているのではなく、「is engaged」についているのです。そして「is engaged in」において中核は「is engaged」ではなく「in」なのです。「is engaged」は副詞化して他動詞的前置詞「in」を修飾しているのです。通常は無視して訳さないのですが、あえて訳すなら「もっぱら」とか「他をなげうって」となります。



ところが、入試ではこの「is engaged in」が「従事する」の意味で出ることがありません。例えば、「She is engaged in learning English.」(彼女は今ちょうど英語の習得に専念しているところだ)という形で出題されるのです。「in」が「従事する」と訳されるのは後ろに業種が来る時です。今は動名詞句「learning English」が来ている。これはいったい何なのでしょうか。



実は、中学の時に皆習って知っている現在進行形は「She is learning English.」だけではないのです。「She is in learning English.」もまた現在進行形のもうひとつの形なのです。現在進行形を「している最中」と訳すことがあることを念頭に置くとこの「in」は十分に納得できるはずです。更には、「She is …… learning English.」や「She is …… in learning English.」と「……」が入っても基本の意味に変更はありません。これも現在進行形なのです。ですから例えば、「She is busy in learning English.」を「彼女は英語習得に忙しい」と訳すのは完全な誤訳なのです。正しくは「彼女は今(忙しそうに)英語習得に専念している最中です」です。これは現在進行形なのです。ですから、これは問題としてもよく取り上げられる話なのですが、「She is busy in learning English.」=「She is busy learning English.」なのです。「in」は入っていても入っていなくても同じ意味になるのです。なぜだろうと不思議に思ってはいませんでしたか?その明確な理由が今ここで解明されました。



「She is engaged in learning English.」もですから、実は、現在進行形だったのです。ただ、だからと言って「She is engaged learning English.」はさすがの私も目撃したことがないので使用することはありません。ですが、ここである重要な法則が抽出されていることにはちゃんと気づく必要があります。すなわち「She is …… in ~ing ……」となっていたら「……」の部分に何が入っていてもすべて、「もっぱら~している最中です」と訳せる同義文になるという法則です。すなわち、



「She is busy in learning English.」

「She is engaged in learning English.」

「She is committed in learning English.」

「She is involved in learning English.」



これらはすべて同義なのです。そしていずれも最近10年間の大学入試に頻出しているのです。この認識が何よりも大切なのです。そして単語帳で勉強しているとこの認識を妨害されてしまうのです。この「専念する」は、大学入試の実態に合わせて次のように拡大表記することもできます。



「She is busy in learning English.」

「She is engaged in learning English.」

「She is committed in learning English.」

「She is involved in learning English.」

「She is devoted to learning English.」

「She is dedicated to learning English.」



このように「engage」は正しく詳しく深く理解しておく必要があるのです。この話を聞いて、「engage」だけでこれだけの厚みがあるなら、それが300になったら、たとえ300と比較的少数に限定されていても、それでもものすごい時間と労力になるのでは、と考える人もいるでしょう。ところがよく見てください。「engage」を正しく詳しく深く理解する場合、「commit」や「involve」、「devote」、「dedicate」まで正しく詳しく深く理解することになっていませんか?例文によって正しく詳しく深く理解しているので、これらの動詞と共に用いられる名詞や形容詞、副詞とのコロケーションまで習得できています。つまり、絶対に間違った使用法に陥ることがない上に、いったんは捨てたはずの名詞や形容詞、副詞の正しく詳しく深い習得までできています。これは時間と労力の大きな節約になるのではないでしょうか。



必須動詞300とは言いますが、動詞は動詞型で分類すると実際は29種類しかないことが分かっています。動詞型は提示された文の形を見れば分かる。ということは、この29動詞型を習得すれば、初めて見る単語も、文の形を読み取りさえすれできればその意味が分かるということになるのです。単語には実は意味などなく、文の形に意味があるということです。ですから、必須動詞300の意味を覚えるのではなく、大学入試問題で用いられている把握法と同じ形で正しく詳しく深く理解すると私は表現するのです。単語帳で意味を覚えていくことがいかに危険なことか、これで皆さんも十分に理解していただけるのではないでしょうか。



ところで、このような単語帳にも唯一取り上げるべき利点があります。すなわち、入試に出てくる単語が頻度順にリストアップされている点です。これだけは大いに利用価値があります。



単語帳は必動300をリストアップしてくれています。このリストアップが有効であることは私が実際に入試問題を詳しく見て確認済みです。この必動300を先ずは、上記のように勧めておきながらいかにも逆説的に聞こえるかもしれませんが、発音アクセントと綴りに焦点を絞ってマスターしてください。これなしで正しく詳しく深く理解しようとしても本当は意味がないからです。逆にこれを先にやってから正しく詳しく深い認識の獲得に向かうと、能率が何十倍にも上がります。また短期間で発音アクセントと綴りをマスターした必須動詞は、必須動詞ですから英語の授業で取り扱われる教材に毎回登場してきます。登場してくるたびに発音アクセントと綴りが一瞬で想起される単語は登場してきたその場で、その瞬間に即してある程度は習得できます。必動300の発音アクセントと綴りをマスターしておくことで英語の勉強がすべて自動的に必動300習得の側面を帯びてくることになるのです。



どうですか?単語帳を英語学習に使用してはいけないということや、必須動詞300に焦点を絞って正しく詳しく深く習得する必要があるということが、十分に分かっていただけましたか?



興味がわいてきたら、是非私の門をたたいてください。


古典文法なんで習得できないの

2025-03-22 12:47:52 | 教育
古典文法がなかなか覚えきれないという生徒が本当にたくさんいます。覚えきれないというのは実際は違っていて、本当はこれまで一度も本腰を入れて取り組んだことがないということなのですが、いずれにせよほぼ全員と言っていいと思います。自信がありますという生徒もごくまれにいますが、よく調べてみると使えるレベルになっていない。

理由は妥当性のない文法用語、文法認識の提示と、その丸暗記の強要です。「英文法」なるものがあると知った日本人が約150年前に慌てて即席でつくったものである上に、これまでほとんど何の改善も施されてこなかったから、そうなってしまっているのです。高1の春に初めて出会う「動詞」の深い理解が、全古典文法の基礎中の基礎なのに、そのことが教師にも生徒にもほとんど全く自覚されず、次テーマとして現れる「最も大事」と誤解された「助動詞」に早く入らないとなどと妙に焦ってしまうために、流されてしまうのが原因なのです。「動詞」を徹底的に理解しさえすれば自ずと助動詞も助詞も、文章読解のために実践的にコンパクトに再編成された形で素早く正しく習得できるのに、上記のような制約が慣習として定着してしまっているせいで、この秘訣に誰も気づけなくなっているのです。それに対して大学入試問題制作者は、どこの大学の制作者も、そのような制約からはとっくに抜け出ています。取り残されているのは高校の教科書と受験業界だけなのです。

私は哲学者として大学入試古典文法の詳細な分析を行い、知識の正しい系統を発見しました。この系統に沿って理解していけば、比較的楽に習得することが可能であるばかりか、入試問題の成り立ちそのものを直接反映しているので、受験生が入試問題に対する深い洞察力もって効率よく解答していくことができるようになります。私はこの方法論を使って、これまで36年間いろんな場面で多くの受験生を指導し、心がちゃんと受験に向かい合えている受験生ならほぼ一人の例外もなく、比較的短期間に古典文法をマスターさせてきました。意外と簡単で面白いというのが生徒たちが抱く共通の印象になっているようです。目からウロコと皆、口をそろえます。哲学というとなんだか暗くて難しそうなどと誤解されていますが、それは過去数十年に少なからず存在してきた偽物の哲学者たちのせいです。本当の哲学は物事をわかりやすく、あかるくするものです。世にはびこる偽物には哲学だけではなく十分注意しなければなりません。

授業では質疑応答を通して生徒の学力を一緒に少しずつ構築していきます。生徒の学力が今この瞬間にどのような状況にあるのかを的確に見抜く目があると自負しています。授業そのものも結構盛り上がることが多いです。居眠りする生徒などこれまで一人もいませんでした。勉強は本当は面白いものなのです。

宿題は前回の授業内容の徹底的な見直しです。授業そのものが自ずと前回の授業内容の理解度を調べる確認テストの側面も帯びてきます。文法の習得が目的だから文法問題集を使うなどという愚かなことはしません。あれらはほとんどすべてがインチキです。私の授業では入試問題に実際に取り上げられた文章を教材にして動詞の理解を徹底的に深めていきます。すると動詞そのものや助動詞、助詞の深い理解はもちろん、古文読解とはそもそも何なのかの理解も自然と身についてきます。現代語に訳しながら読むのは、かえって古文の理解から離れてしまうし、そもそもが時間の無駄。あるやり方を守りさえすれば誰もが古文をそのまま理解することができる。大学入試問題もまさにそのような理解をこそ求めているということが無理なく実感できるようになります。

授業に関して生徒にチャットを通じて知らせたことはすべて、保護者にもお知らせします。適宜、詳しい状況報告もします。ご質問があればご自由にアクセスしてください。

お問い合わせの際には、直近の模試の成績を予め整理してお見せください。

本当の英文法とは何か

2025-03-22 12:45:54 | 教育
「文法書や辞書の解説はある意味ほとんどすべて間違えている。が、文法書や辞書に収録されている例文そのものには間違いはなく、十分に価値のあるものとなっている。勉強のコツは、例文理解にのみ意識を集中することだ。辞書や文法書の解説部分はすべて無視したほうがいい」とは、受験生だった遠い昔に、ある大学教授が言ってくれた言葉です。

今私は、プロの英語教師として、この言葉こそ英語力飛躍のカギと理解しています。その上で、間違いのない本当に正しい解説も詳細に提供できるようになりました。文法書や辞書の解説が相変わらず受験生の足を引っ張り続ける中、全く異なる正しい解説を提供することで、多くの生徒を難関大学上位合格レベルに引き上げてきました。全く異なる正しい英文法、暗記に頼らない考える英文法、大学入試の秘密が見える英文法は、本当に存在しているのです。

例えば、ほんの一例をあげましょう。to不定詞の名詞用法。「She wants to go there.」の「to go there」は全体として名詞的で「wants」の目的語になっている。to不定詞は名詞として機能することがある。と、学校文法ではまことしやかに解説されます。ではなぜ、同じ意味をあらわす英文「She is to go there.」が存在しているのか。「is」は自動詞であり目的語を取る動詞ではないので「to go there」を目的語に取っているとは絶対に言えない。従って「wants」も「to go there」を目的語にとってはいるなどとは絶対に言えないのです。

すると、「is」は補語を取る動詞だから「to go there」は補語だ。だから名詞用法だ。などと「説明」して、知った顔をしている輩が数多く出てくる。この人たちは、そう言い張ることで受験生と社会全体が被る悪影響を、気にすることが全くないのではないのでしょうか。

残念ながら補語とは、be動詞の後ろに来れば全部補語になるというような安易なものではありません。例えば、「She is a fool.」(不定冠詞付き名詞) や 「She is fool.」(無冠詞名詞) 、「She is foolish.」(接尾辞付き名詞=形容詞)などという具合に、きわめて限定して語るべきものなのです。この人たちの上記のようなアドホックな態度は、この補語の基本原則の理解にすら悪影響を及ぼしてしまう。こうなるともう、初学者の頭の中は大混乱でしょう。

文法軽視の風潮が広がり、「スラッシュ読み」などという、学術の英文読解で絶対にやってはいけない類の読解法が学校教育に蔓延して久しいけれど、それもこれもすべてこのアドホックな「文法解説」をばらまいてきた輩達のせいなのです。

皆さんはきっと驚かれると思いますが、実はto不定詞などというものをそもそも、存在していると考えるのがすべての元凶なのです。文法書にも、注意深いものにはちゃんと、「to付きの不定詞」と慎重な言い方をしています。すなわちここでは、「不定詞とはひとえに原形不定詞のことで、to原形はひとまとまりとみる場合は常に前置詞句で副詞ととらえるべきである。to不定詞の名詞用法という言い方は二重三重の間違い」ということが示唆されているのです。toと原形との結びつきも世間で考えられているよりはるかに弱い。このことが分かっていない場合、例えば「to thoroughly examine」などと出てくると、どうしていいのかわからなくなってしまうわけです。

ではどう考えるのが合理的なのか?実は、「S V to 原形 ……」は、次の三つのうちのいずれかで捉えるのが最も合理的です。

① 「[S V] [to 原形……]」:副詞用法(「ために」或いは「を見て」)
② 「S (V to) 原形 ……」=「S (助動詞) 原形 ……」
③ 「S (V to) 原形 ……」=「S (V and) V2 ……」:結果

これは「V」と「to」の間に「……」が入って「S V …… to 原形 ……」となっても、全く同様に捉えることができるので便利です。なぜなら、「……」の部分に何が来ようと「V to」の時と全く同じように取り扱い、「……」の部分は無視してよいことになるからです。すなわち、いわゆる「熟語」をただ丸暗記するのではなく系統的に理解し、正しく使いこなせるようになるということの一例となっているのです。

① 「[S V……] [to 原形……]」:副詞用法(「ために」或いは「を見て」)
② 「S (V…… to) 原形 ……」=「S (助動詞) 原形 ……」
③ 「S (V…… to) 原形 ……」=「S (V…… and) V2 ……」:結果

初めに例示した「She wants to go there.」の場合、「She (wants to) go there.」=「She (will) go there.」と捉えるのが正解です。「to」は「go」に付いているのではなく、「wants」の方に付き、意志・願望表現を構成すると考えるべきだったのです。「She is to go there.」も「She (is to) go there.」=「She (will) go there.」と捉えるのが正解です。「to」は「go」に付いているのではなく、「is」の方に付き、意志・願望表現を構成すると考えるべきです。「to go there」を目的語と考え、to不定詞に名詞用法があると考えるのも、「to go there」を補語と考えるのも、どれだけいい加減で有害な考え方だったか、皆さんにはこれで十分に伝わったはずです。

「to 原形」を上記のように新しくとらえるようになるとどんないいことが起こるのでしょうか?例えば「remember」の場合、「to不定詞も動名詞もどちらも目的語に取る他動詞」のひとつと覚えて済ますのでは、なぜダメなのでしょうか?「I remember playing with him when I was a child.」(子供の時に彼と遊んだことを今でも覚えている)や「Remember to go there.」(そこに行くことを覚えていなさい)でダメな理由は何なのでしょうか?

それは「Remember to go there.」を「必ずそこに行きなさい」と正しく訳す人が現れた時に、「きれいな訳だけど飽くまでも意訳でしかない。覚えておいたらいいだろうけど、文法的には間違えている」などという、間違った整理の仕方をしてしまうからです。そうなると、同じ調子で他の多くの表現も整理していく中で、他の多くの表現と同様にその暗記を、暗記であるがゆえに維持できなくなる。奇跡的に辛うじて覚えていてもいざ使おうとした時に正しく使いこなすことができない。ましてや知識を発展させて学習そのものを楽しむということにもなるはずがない。その結果苦しくなって、英語学習そのものに絶望してしまう。実際、こんな感じで英語学習に挫折してしまっている学生を私はこれまで数多く目撃してきました。彼らはアドホックな解説でお茶を濁す英語教育の紛れもない犠牲者なのです。

実は、「Remember to go there.」は、上記の原則の内の③に従って

「Remember to go there.」=「(Remember to) go there.」=「(Don’t forget to) go there.」=「(Never fail to) go there.」=「(Don’t fail and) go there.」=「Go there (without fail).」

と分析し、「忘れずにそこに行きなさい」「必ずそこに行きなさい」と訳すのが、文法上正しいのです。これは決して意訳などではありません。そもそも意訳などというものはあり得ないのです。意訳という言葉を用いる時、それだけで、その人の持っている文法が実は間違えた文法であることを端的に表しているのです。それに対して、上記のような正しい理解なら、自分で使用しようとするときに間違った使い方になることなど絶対にありえません。その上、他の類似表現との連携を認識することにもなり、ひとつ覚えることで同時に複数の表現まで発展的に覚えることになります。更には、何か全く見たことのない表現が出てきたときにも、形が似ているし、類似表現だろう。文脈上もそれで意味が通じると、正しく判断して訳すことすらできるようになるのです。更には、何よりも、考えながら連想しながら覚えていくことで、大いに楽しく勉強できる。記憶が劣化することもほとんどない。これはいいことづくめではないでしょうか?

ここで上げた例は、本当に一例でしかありません。今ここで皆さんにすべてを伝えることは物理的に不可能ですし、皆さんが信じてくれるか分かりませんが、英文法のほぼすべての項目で、上記の改善と同じような改善が可能であり、必要なのは事実です。改善することで一見それぞれが複雑になり全体として大変になりそうと考える人もいるでしょうが、実際は全く逆で、ひとつひとつを改善し深めていくことで、すべての項目が互いに有機的に結びつきあって連携しあい、全体としては比較的コンパクトになるのです。更には、大学入試問題も、ここで一端を述べた本当の文法に基づいて作成されているので、根底から理解して、出題者の意図も的確にとらえて、まるで出題者と対話するかのように解答していくことができるようになります。

そんな本当の英文法を習得してみたくはありませんか?

日本語能力を磨きロゴスを体現するための英語教育

2018-09-21 10:08:43 | 教育
例えば京都大学の「英語」の入試問題は、本当に英語の問題でしょうか?英文を日本語に訳すことも、日本語を英語に訳すことも、半分以上は日本語能力の試験になっているのではないでしょうか?

提示された英文の構造を私は完全に把握することができるし、実際に日々受験生にそれを解説して見せてもいますが、本当は、そんなものは所詮、形式的な儀式です。私の持っているのと同じようなスキルを完全に身につけるなんて、私が中学生の頃から長い時間をかけて育て上げた生徒達か、時々現れる特別に優れた生徒以外には、そもそもが無理な話なのです。

その形式的な儀式の奥の方で私が本当に意図しているのは、何らかの理由で抑圧されていることの多い日本の若者の日本語能力をその抑圧から解放して自由に成長させることです。彼らは a native Japanese であり、a native Japanese とは要するに日本語の天才のことです。その天才を解放してあげることで、たとえ英文の構造が完全に把握できていなくても、受験生がかなりいい訳を仕上げられるようになる。私の主催する予備校の授業は、英語も国語も、解法解説は勿論のこと、それ以上に、演習と即時採点、添削が重視されていて、そのような授業に毎日出席してたっぷりと訓練できるように工夫しているのですが、それも全て今述べたことのためなのです。

母国語の能力を高いレベルに高める以外に人間がロゴスを体現することはできません。ロゴスを体現した人間は、完全なる人間の理想像を常に感じ取りながら生活することができ、人間社会のあちこちで日々発生している問題の本質を即座に見抜き解決へと導くことができます。これが文系の力というものなのです。伝説の中で語られる空海さんや、釣りバカ日誌の浜ちゃんのイメージを思い浮かべるのが最も分かりやすい。文系の力とはまさにあれなのです。

この母国語能力の鍛錬に、現状では、英文和訳や和文英訳が最も有効な手段となっているというわけです。母国語能力の十全な発揮とは、母国語能力がロゴスそのものに統制されて動くということですが、母国語とは異なる外国語を母国語に翻訳しようとする現場に立ち続けない限り、母国語も人間言語そのものが派生してできたものに過ぎないこと、人間言語そのものとの結びつきがないと浅く歪んだものになること、が実感できない。母国語を相対化して、そうして自分の母国語能力を健全に育てるということがなかなかできない。このようになっているのです。外国語の勉強は母国語能力の鍛錬に不可欠なのです。

私には古文の教師として平安時代の貴族の文章や和歌を分析する機会も多いのですが、彼らの文章力が物凄いレベルになっている。外国との関係を絶って国風文化が栄えたとされ、その国風文化の一例が彼らの文章力である筈です。ところが実際に、彼らの文章を具に研究すると、彼らの外国語の知識がかなりの高みにあることが分かるのです。例えば「帝......とのたまひけり」という大和言葉の構文は「......」の部分にごく短い文しか入れられず、ユーラシア語の「S V that ......」という構文は「......」の部分の終わりの地点が明示しにくい訳ですが、彼らはこのことを踏まえて、その両者の弱点を補うかのように「帝のたまひけることには、.........とのたまひけり」という表現をしてあるのです。こうすれば「......」の部分に幾らでも長い文章を入れることができる。これは彼らが外国語の知識に基づいて意図的に開発した表現であること明らかです。国風文化と言いながら、彼らの外国との深い繋がりは水面下で途絶えることなくあったに違いないと私が考えるのは、このような事実を知っているからです。

英語力こそ学力である

2018-09-08 03:26:18 | 教育
外国語習得や文学、哲学、歴史をはじめとする文科系の学問の意義が見えないと「英語力は学力ではない」などという見解が出てきます。この発言の「英語力」は実際は英語力ではないし、「学力」も本当の学力ではないでしょう。

昔から受験界では「人気の関東。実力の関西」という言い方がありました。一般の人にとっては何のことかと思うでしょうが、英語や国語の入試問題を日々分析する立場からすれば、実は、この言い方は非常に正しいと言わざるを得ません。京大や阪大、同志社の英国の問題は、東大や慶応、早稲田の問題より明らかに高度です。東大の英文和訳問題は非常に優れていて、毎年どの予備校の模範解答例も零点になっているくらいですが、何せ配点が少な過ぎる。「東大は英語のできない奴が行くところ」という言い方がそう言えば一橋大学では昔からあったそうですが、その一橋の英語の問題も最近は幼稚なものになってきている。筑波大学の国語など笑えるくらいの程度の低さです。中央大学法学部の英語の問題は今でも優秀ですから、一部の例外はありますが、関東の大学は英国に関しては明らかに学力不足でしょう。私の大学時代の教官も「早稲田や慶応の人達は本当に勉強していないな」と明言していましたよ。「英語力は学力ではない」は関東の大学環境の中で育った人の発言ではないでしょうか?安倍の「文科系学部廃止」論もありましたね。

外国語力や文章読解力の究極目的は一言で言うと、ロゴスの体現です。効用は人と人、集団と集団の間に日々生じるトラブルの解決。序でに女性にも凄くもてるようになるし、喧嘩もかなり強くなという側面もありますが、これは完全に余談。世界の物理的側面の仕組みを詳しく分析した上で、試行錯誤を重ねながら人の力でそれを再現できるようにすること、これを本質とする理系も勿論大いに価値がありますが、文科系学部の価値はそれ以上でしょう。

文章読解の際に起こっているのは明らかに霊的な現象です。何千年も前の遠い外国のある偉大な人物の思想に触れるというレベルではなく、明らかにその人自身が今ここに現れて来るのです。このような意味での読書体験のある人から「英語力は学力ではない」などといった発言は決して出てこない。

因みに、このような文章読解も、確かに非常に高度ではありますが、ある事柄には遠く及ばない。このこともここで付け加えておく必要があるでしょう。それは、イエスや釈尊などといった偉大な霊魂との生前に於ける直接対話です。そのような体験ができる幸運な人は非常に非常に非常に限られている。ですから、読書の価値はその分だけさらに大きくなる。演劇や音楽もまた、上のような意味での読書に含まれる価値と同様の価値が、読書よりもっと分かりやすい形で含まれている。

使える英語とは(コメントへの返信を兼ねて)

2018-09-06 07:26:55 | 教育
英文を正しく理解できているか確かめる唯一の方法は、我々日本人の場合、英文中に込められた情報を洩れなく全て正確に取り出せていながらも、日本語として読んでいて抵抗の全くない美しい日本語になっているかどうかです。日本語として読んでいて変な感じがしたり、読んでいて何を言っているのか頭にすっと入ってこない英文和訳は、必ず、英文の構造把握に問題があるのです。

世間に出回っている翻訳本を読んでいて内容が何だかすっと入ってこない感じがする。こんな体験のある人は多いのではないでしょうか?その場合、哲学書などの場合は特に、その原因は自分の知的レベルの低さにあるものとの把握で済ませることが多いでしょう。が、実は問題は翻訳の質の方にあるのです。日本にはインチキ教養人がはびこっていて、それらの劣悪翻訳本を延々と生産し続けている。これが紛れもない実態です。

私は若い頃にカント研究をしていましたが、その過程で自然と、翻訳に頼る際には提示された誤訳に満ちた和文から、誤訳の一般的なパターンを考慮に入れつつ元の独文を復元し、その独文を更に正しい日本文に翻訳し直して理解するという技術が身につきました。

上に述べたような事情は実は、哲学書に限定されません。むしろ、小説の翻訳の方が、哲学書以上の酷い状況になってしまっています。現状の翻訳本を読んで「感動した」などと言って、原書に宿るその作品の精神を把握しきったつもりになり、全く苦悩しないで済ましてしまう人が多い。これこそ問題として把握されるべきなのです。

英文和訳は、ほぼ日本語だけが世界中の他の多くの言語と基本構造が全く異なるということもあって、例えば英文独訳や英文仏訳などとは比べ物にならないくらいに複雑な思考を必要とする、そんな高度な知的作業なのです。つまり、人間が本物の教養を培うのに最適な場所のひとつにも偶然なり得ている。この意味でも、英語教育の中心には英文和訳が来べきなのです。例えば京大入試から英文和訳が消えない理由はそこにあります。

使える英語と言えば、流暢な英会話のことを連想しがちですが、会話だけがコミュニケーションではないし、コミュニケーションの価値がコミュニケーションを行う双方の精神レベルの高さと内容の深さによって決まる面があること。更には、偉大な精神との邂逅の確率が古典読解による「コミュニケーション」の場合に遥かに高くなること。これらのことを考慮に入れると、使える英語とは巧みな英文和訳の能力のことと捉えることにも、十分な意義が認められるべきなのです。

本当の英文法

2018-09-05 06:09:49 | 教育
あるブログに英語教育についてコメントしたところ「本当の英文法を教えてほしい」と要望されました。以下はそれに対する私の返信です。

以下引用。

search を「探す」と覚えてはいけません。「調べる」です。search for と表記して表記して「探す」と訳せるから search は「探す」と訳すのだと無意識に簡略化してしまっているのです。search for が「探す」と訳されるのは実はsearch 故ではなく、他動詞的前置詞の for の故です。ですから、....for となっていたら、周囲の状況が許す限りにおいて「探す」と訳してよい。look for、investigate for 、explore for、.... これらは全部「探す」です。これらは英語の起源の一つであるアングロサクソン語(古いドイツ語)由来の捉え方です。この場合「動詞」は実は動詞として機能せず、程度の副詞或いは様態の副詞として機能している。探す気持ちの強さや探し方を表しているのです。他動詞で「探す」の意味を持つのはseek だけです。

for の基本的な機能は to 他動詞 の代用です。他動詞的前置詞の for を見たら常に、to 他動詞 に変換して理解する。他動詞は文脈とコロケーションによって容易に復元できるようになっている。for = to find と理解した時、「探す」の意味が出てきます。

全ての動詞について、上と似たような話を、私は展開することができます。私の英文法ではイディオムは覚えるものではなく、覚える必要がない、類推すべきものとなります。300の動詞を29の動詞型に関連させながら、コロケーションにも注目して勉強することで、中学生でも容易に東大京大レベルの英文和訳の世界に導き入れることができます。

他にも衝撃的な事実がいくつもあります。学校英文法のほとんど全てが嘘だと断言できます。

関係文は形容詞節ではないし、that 節は名詞節ではない。

「関係代名詞」that は実は関係詞ではない。

that dog は実は「あの犬」と訳せる場面はほとんどない。例えば「そんな汚い犬」と訳すことが必要な場合が多い。such a 形容詞 の代用物がその基本。

the concept は「その概念」と訳せるが、conception は絶対に「概念」とは訳せない。

and は全ての接続詞の意味を内包し、「しかし」と訳すべきことすら多い。and をbut の反意語と捉えるのは完全な間違い。

関係文の先行詞には必ず the をつけなければいけない。それが the の基本的な機能だから。a man who loves you は常に a man of the men who love you の略として理解すべき。the man who loves you とは意味が全く異なる。

He is a fool. と He is fool. とHe is foolish. の違いが学校文法では全く理解できていない。He is a fool. = He is a fool of the fools. や He is foolish. = He is like a fool. と理解すべきことが全く見えていない。

文章は全てargument と story に分類できる。それぞれに厳密な型が決まっている。argument pattern と story pattern を念頭において読めば、例えば助動詞 may の正確な意味把握が容易にできるようになる。これは全英文法の基本中の基本である。これの正確に説明された書籍は一冊もない。

some に「いくつか」という意味はない。

a man、the man、men、the men の訳し分けも学校文法は全く把握できていない。岩波文庫の一冊にもなっている東大での講演で「英語の冠詞が全く理解できない」と嘆いた夏目漱石から100年経ってもその悩みを解消できていないばかりか、夏目漱石が抱いた真面目な悩みすら抱かなくなっている。森鴎外が嘆き、京大の入試問題にその文章を採用することで京大教授が間接的に嘆いてみせたように、日本人の外国語習得は幕末から明治初期がピークで後は停滞の一途となってしまっている。

以上本当の英文法の一端を書いてみました。雰囲気は十分伝わるのではないでしょうか?この詳細を著作にまとめたことはありますが、書物としてはあまりにも面白くない。やはり授業の中で若者一人一人に教授するのが本質的と考えて封印しました。日本古典文法も学校文法はほとんど全部が偽物と見抜いてしまっていて、本当の日本古典文法としてまとめ上げたものを、生徒達には教えています。私は、英文法も日本古典文法も、中学生に、大学受験レベルのものを、一人の例外もなく、ごく短い時間で完全マスターさせることができます。

皆さんには、学校英文法がほとんど全て嘘で、日本人の大半が、学校英文法のせいで日本語の読み書きの能力すら低いものに留められている事実があり、それが「知識人」達の思想の浅さに繋がっていることが伝わればいいと思います。

ただし、深みのある本物の知識人がゼロとは言いません。例えば、鷲田清一さんの文章は、まるでイギリス人の学者の書く英文のように緻密な日本文になっていて、その内容の深みがよく伝わってきます。本物の哲学者は一般の人が気づかない深みを持っていますよ。その理由の一つが本物の文法ということになります。

引用以上。

京大合格のための英語学習法

2014-06-01 06:18:02 | 教育
京大英語では英文和訳二題、和文英訳一題が出題される。英文和訳二題の内の一題は、時々多少の変動はあるものの概ね、比較的短めの下線部訳三題から成り、もう一題は比較的長めの下線部訳二題から成る。

比較的短めの下線部訳三題の方は、その読み取りに苦労する人など実際は殆どいないと思う。が、その読み取りに基づいて和訳を書く段になると、人によって出来上がり具合に大きな差が出るようになっている。この三題では、内容を一旦読み取り、具体的なイメージを掴んでしまった後には、英文の見かけ上の構造の方は完全に無視して、その具体的なイメージの方を比較的短時間で、精確で綺麗な和文として表現し切るというスタイルが身に付いていないといけない。そうでない限り、求められるレベルの合格答案を仕上げられるようにはならない。精確で綺麗な和文というものを日常学習の凡ゆる局面で強く意識し、自分なりの完成された文体を育て上げることこそ、合格答案の大前提となるという訳だ。

英文の構造を完全に無視する?いや、ここで私は決してそのようなことを言ってはいない。英文の見掛け上の構造をある段階に限定して無視すべきだと言っているのである。

抑も文というものは、英文であれ和文であれ、それぞれの基本構造の違いからくるそれぞれに異なった規則に従って、それぞれに異なる遣り方の省略が施されているものである。英文で省略されている語句を適宜復元して和文に訳すこと。英文で省略されずに表記されている語句も和訳では、場合によっては意外なほど大量に訳さないでおくこと。更に場合によっては、英文の見掛け上の全体をレトリック表現(修辞表現)として全て剥ぎ取り、その奥の方に丸々隠されている本体を表に引き出した上で、そちらの方を和訳する場合すらあること。...熟練した英文和訳では常にこれらの内の何かが実行される訳だが、その理由もここにある訳だ。

この過程とその根拠を説明することだったら、優れた一部の教師でないと、明瞭に余すところなくというところまではなかなかいけないものだ。しかし、a native Japanese として日本人なら誰もが持っている天才を英文和訳の際に自覚的に使いこなす技能さえ身に付けられれば、ただそれだけで、たとえ一介の学生でしかなくても、専門家に勝るとも劣らないレベルの秀訳が出てくるようになる。京大英文和訳二題の内、比較的短めの下線部訳三題から成る方ではまさに、このレベルの秀訳が求められている。

比較的長めの下線部訳二題から成る方は、これとは事情が異なる。一般的な学校英文法の呪縛から抜け出せていなくても、a native Japanese としての天才を使いこなす技能さえあれば合格答案が出てくる、という具合には、なかなかいかないようになっているのである。一般的な学校英文法の呪縛から今だに抜け出せていないレベルの一般的な受験生には六割すら得点することの難しい、基本構造すら正確には把握できず、往々にして虚しく彷徨してしまいがちな、そんな「難問」になっていることが多いのだ。

註:しかも、何とも皮肉なことに下線部⑵は、下線部⑴を本物の英文法で分析した結果発掘される下線部⑴の書き換え文となっていて、下線部⑴の一般的な分析とは異なる、本物の英文法によるより高い次元の分析に成功した人でないと読み込めないようになっていることが多い。従って、できる人はどこまでも多くを得るが、できない人はどこまでも何も手に入らないという事態が起こることにもなる。要するに、合格者と不合格者を分ける最後の重大な関門の機能がこの問題に託されているという訳だ。このように考えて、先ず、差し支えないだろう。

一般的な学校英文法とは根本から異なり、一部の階層の間での口承しかされていない、英文の本質が十分に把握されている本物の英文法や本物の英文和訳法。...比較的長めの下線部訳二題から成る方の京大英文和訳問題で鍵を握るのはまさに、これなのだ。

この習得は、期間が限られている以上、完璧なレベルまでとは、受験生の場合はなかなかいかないものだ。しかし、京大に入って曲がりなりにも学問というものに携わろうと心に決めている者として、たとえ習得のきっかけしか得られなくても、そのような本物がある以上は習得を目指して修練してみたいと考え、不完全ながらも高みを倦まず弛まず目指す。すると、そうこうしている内に、気付いたらそれほど見晴らしの悪くない、七合目くらいまで来ていた、などということなら、受験生にも割と頻繁に起こっている。そしてこれが、京大合格のための強力な橋頭堡、或いは、京大入学後の学力の飛躍的な深まりの原動力にも繋がっていくものなのだ。麓にある馴染みの居住地(学校文法)を捨て去る勇気が持てないでいたら、これが得られることなど絶対にない。

ところで、本物の英文法や本物の英文和訳法とはどんなものだろうか?幾つか例を示しておきたい。

例文1
The computer has enabled scientists and engineers to make in only a moment the complicated calculations which used to take several days.

一般的な訳例
昔は数日かかっていた複雑な計算を科学者やエンジニアは今、コンピュータのお蔭で、ほんの一瞬の内に行うことができるようになっている。

より正しい訳例
昔なら優に数日はかかり、科学者やエンジニアを酷く手こずらせていた複雑な計算も今では最早、そのコンピュータが開発されたお蔭で、悉く、極短時間しかかからないで済むようになっている。

ここで用いられている技法
①数字表現の厳密な意味規定
②省略された so ... that 構文の復元
③the 名詞s = all the 名詞s

例文2
Science can create nothing out of nothing. But scientific advances have made it possible for us to discover and invent things we have never dreamed of discovering or inventing.

一般的な訳例
科学は無からは何も生み出すことができない。しかしながら、科学的な進歩のお蔭で人類は、発見も発明も夢見ることがなかったものを発見したり発明したりすることができるようになった。

より正しい訳例
科学とは言っても、無から有を生み出せる訳ではない。しかし、発見も発明も夢にも思い描けないでいたものが、様々な分野の科学的進歩を総合することで発見できた、発明できたということなら、これまでも普通に見られてきたのである。

ここで用いられている技法
①事物主語の副文としての復元
②文否定と語否定の区別
③全称否定と部分否定の区別
④他動詞的前置詞 of
⑤無冠詞複数形事物主語構文の正確な訳出
⑥省略された〈時〉の副詞句或いは副詞節の復元と訳出による、現在完了形の厳密な意味規定
⑦for us の省略

例文3
The old conception of national character based on biological differences has long been exploded. But differences in national character arising out of different social and educational backgrounds are difficult to deny.

一般的な訳例
生物学的相違に基づく国の性格の古い概念は、随分前に廃れてしまった。しかし、様々な社会的・教育的な背景から生ずる国の性格における相違は、否定することが難しい。

より正しい訳例
性格が国によって異なる理由を諸国民の生物学的多様性に基づけて説明しようとする試みは、今となってはもう、廃れてしまって久しく、古臭い遣り方になっている。それに対して、同じ現象の理由を社会的教育によって培われる背景の多様性に基づけて説明しようとする試みの場合は、否定しようとしてもなかなかできるものでないと、私は考えている。

ここで用いられている技法
①対比の but と「第一法則」に従った省略語句の大量復元や、語句の大幅な変形
②抽象名詞 the conception と、「概念」と訳されることの多い名詞 the concept の区別
③「相違点」と「多様性」の区別
④名詞-al and 名詞-al 名詞s のより厳密な訳
⑤ I think that の復元
⑥語句の大量省略

...以上は、ある予備校で東大や京大を志望する中3生のために教材として用意されたものからの引用で、「京大英語」としては比較的易しいものが選ばれた。従って、本物の英文法や英文和訳法を導入しない一般的な答案でも、どこに穴があるのか自覚し難い、それほど悪くないのではと感じさせかねない、そんな問題の引用となっている。限られた時間的・空間的スペースで本物の英文法や英文和訳法の概要を伝えるためには致し方がないと考えてこのような選択を行ったが、聞く耳のある人には、私の伝えようとしていることが朧げながらも十分に伝わったのではないだろうか?ましてや、一般的なスタイルでは自覚的な答案など絶対に仕上げられるはずのない、比較的長めの下線部訳二題から成る京大英文和訳に取り組んで行こうとする場合に、本物の英文法や英文和訳法が帯びることになる重みについては、尚更そうなるということが理解できるのではないだろうか?この比較的長めの下線部訳二題から成る京大英文和訳の場合は、たとえ完璧ではなくても、この本物の英文法や英文和訳法の自覚的な鍛錬がないことには、取り組みが、盲目的で単に粘り強いだけの、従って「才能」任せの、或いは「運」任せのものに留まってしまうのである。この本物の英文法や英文和訳法のマスターを強く意識しながら学習を進めていけば、一般の受験生がせいぜい六割しか得点できない所で少なくとも七割は確実に得点できるようになる(これは大学側から得点公表が行われている中、何人かの学生の指導を通して私が直接確認している、紛れもない事実である)。また何よりも、日々の鍛錬が闇雲な苦行ではなくなることから、学習の能率や手応え、充実感、知的好奇心の向上も期待できる。更には、所謂「単なる合格」だけではなく、京大での学究生活の、展望の大規模な拡大すら期待できる。

本物の英文法や英文和訳法とは謂はば、書き手である natives の頭の中で執筆中に普遍的に機能していたロゴスそのものの客観化のことに他ならない。英文解釈とは、書き手である the native と、時空を超えてそのロゴスを共有することなのである。本物の英文法や英文和訳法のマスターを志向しながら英文和訳の鍛錬を行うということは即ち、その最奥ではまさに、このようなロゴスのレベルでの一流の natives との交流の実績をなし、その技能を身につけていくことに他ならなかったのである。

このことを考慮に入れると、本物の英文法や英文和訳法を志向した学習には、もうひとつ別の副産物が期待できることにもなる。即ち、和文英訳の基礎力養成のことである。

京大に限らず、国公立二次和文英訳の実態は、和文添削英訳である。提示された和文そのものを省略も誤記もない「精確」な和文に復元した上で英訳すると、本物の英文法が概要だけでも身に付いている者に限り、御し難き所の全くない、いかにも扱いやすい、素直な和文英訳問題が目の前に立ち現れてくるようになっているという訳だ。逆に、提示された和文を無頓着にそのまま英訳しようとした場合、幾つかの理由から必ず失敗してしまうようになっていて、京大和文英訳問題が、一般の受験生の実感の通りに、かなりの難問に見えてきてしまう。

この実態を念頭に置きつつ過去問を具に研究しておくこと。これがその最も能率のいい学習の指針となる。但し、その際に大前提として、本物の英文法や英文和訳法の習得を志向した、上述したような英文和訳の、息の長い自覚的な鍛錬が必要となってくる。





京大合格のための国語学習法

2014-06-01 06:07:26 | 教育
京大国語には周知の如く、現代日本語や「古代」日本語の読解問題だけではなく、明治大正期の日本語の読解問題が含まれている。現代語に近くても、飽く迄も「古代」日本語の枠内からは逸脱していない、そんな日本語の読解問題も含まれているということだ。これが京大国語の大きな特徴なのである。即ち、現代語よりも寧ろ「古代」語の方が正当な、習得すべき本来の日本語である、との主張が、京大には伝統的に維持されているということなのだろう。つまり、英語やら数学やらで只でさえ忙し過ぎる中での国語学習であるが故に能率的な、更にはまた同時に根本的な、そんな古典文法の習得というものが、京大国語の克服には大きな比重をもって不可欠になってくるのである。

端的に言って、学校で習う古典文法には不十分な点が多い。学校で習う古典文法には、完璧であるなどと勘違いして実際の古文に当たると、全く何も読み込めないことになりかねない面が多々あるのである。

例をひとつだけ挙げて説明しよう。例えば、助動詞「らむ」について。

「らむ」は一般には「けむ」との対比から、現在推量の助動詞として「~しているだろう」と訳す。このように説明されている。推量の助動詞「む」との対比では、それと殆ど違いはない、などと解説される場合すらある。そして、これ以上の説明がどこにもないのである。

このような表面的な説明で満足してしまい、もっと深い根底からの理解の追求を疎かにしてしまっていると、例えば、

「『ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん』には

『日の光がのどかに射しているこんな春の日に、桜の花が何故、落ち着かなげに散っているのだろうか』

などのような訳が付く。そして、『らん』は『らむ』の連体形『らむ』の撥音便形なのである」

などと誰かに教示されても、その本当の意味が理解できない。和歌中に一言も対応語のない「何故」がどうして、この解釈において訳出されているのか?この和歌がどうして、疑問文として解釈されるのか?「らん」がどうして、連体形と理解できるのか?...などの疑問について、その本当の理由が分からないまま遣り過すことになる。自力でこの和歌を根底から理解したいという自然な欲求を抑圧してしまうのである。学問を志して最高学府の門を叩こうとする以上、そのような欲求の躍動こそ必須になると直感すべきであるにも拘らず、それを理不尽に抑圧して「取り敢えず」などと呟きながら、盲目的に前進することしかできなくなってしまう。こんな調子で学習を続けている限り丸暗記事項がどんどん増えてしまうことになるというのは、赤ん坊でも分かるほどの明らかな理屈であろう。そうなると、数学やら英語やらと只でさえ時間の足りない中でも古典文法に驚異的な勤勉さをもって大量の時間を注ぎこめる人か、丸暗記に何の苦痛も感じないほどの特別に優れた暗記力を持った幸運な人にしか、古典文法の十分な習得は不可能ということにもなりかねない。そして実際に、そう言って悩む人が多いのである。

では、「らむ」をどう理解するのが正当だと言うのか?根底からの理解とは、どのような理解のことか?

抑も文法とは、ここでその詳細を詳述する余裕はないが、兎に角、省略語句の合理的な復元法のことに他ならない。この考え方を古典文法の理解にも導入すべきである。そうすれば、丸暗記だけが不可欠の手段に感じられた古典文法も只の暗記ではなくなる。文法という語の本来の意味の如く、極めて合理的な a perspective の元でマスターすることが可能になる。私はこのように考えている。

そこで「らむ」の場合である。「らむ」は、その属性を全て考慮に入れて判断すると実は、「といふことになりてあらむ」の「というふことになりてあ」の部分が省略されて「らむ」だけが取り残された表現であることが分かる。「らむ」は、本質的には謂はば「現在の推定(或いは伝聞)推量」なのである。そして、

「(ちゃんと確かめた訳ではないが、ちゃんと調べれば、)…するということになっている筈だ(かも知れない/に違いない/だろう)」

と訳すことこそ、最も正確な訳になるのである(「あり」などの所謂存在構文に用いられた場合、推量の助動詞「む」は「筈である」とか「かも知れない」と訳す必要が出てくる)。

このことから、

①「らむ」に終止形が接続すること

(引用の「と」の前には、従って「というふことになりてあらむ」の前には、終止形がくるから)

②「らむ」に「現在の原因推量」の意味があり、「からであろう」と訳せる場合があること

(「といふことになりてあらむ」→「(といふ)ことになりてあらむ」→「ことになりてあらむ」→「ものになりてあらむ」→「から(柄:理由の意)になりてあらむ」の変形が施せるから)

などの、通常の文法では理解不能な、にも拘らず文法書に、まるで暗記を要求するかのように書き込まれている事柄も、合理的に理解することが可能になる。

上に例として挙げた有名な和歌も、次のような精確な訳で理解することができる。

「光のどかな春の日なのに桜が、まるで狂ったように散っている。光のどかな春の日だから狂ったように散るということになるだろうか?いや、決してそんなことにはならない筈だ。きっと何か他の理由があってそうなっているに違いない。それは...」

どうだろうか?一般に流布している訳よりも遥かに納得のいく訳になっているのではないだろうか?

ここでは、

①「ひさかたの光のどけき春の日に(なりてあればや)しず心なく花の散るらむ」という、上の句と下の句の接合部分の復元

②反語をレトリック表現(修辞表現)と捉えた上での、その裏に隠されている本体の全面的な訳出

など、一般にはあまり知られていない技法も駆使されている。それらをここで詳しく説明する訳にはいかないが、何れにせよ、通常の生半可な理解を脱ぎ捨てて「らむ」を本質的に理解した時にこそ、この和歌が、根本的に理解できるようになるということについては、聞く耳のある人には十分に伝わっているのではないかと思う。

中には、「それでは、訳として詳し過ぎる。もっとシンプルなものにした方がいい」などと考える人がいるかも知れない。しかしそれでは抑も、「古文の逐語訳」と言われるものの、その本来の趣旨が崩壊してしまうことになる。

非常に複雑な内容を持った事柄を、その表現に関しては極限まで削り取る。その内容を全く損なうことなく、できるだけシンプルなものにする。そこに詠み手の腕の見せ所がある。受け取り手も、そのような表現から、隠蔽された内容の全てを読み取れるか否かに、その力量の有無がかかっている。...「古代」の文章表現では(と言うより寧ろ貴族社会特有の文章表現では)、このような内容のことが明確に意識されていた(いる)に違いない。そのような「古代」の文章表現の内容を現代語で具体的に説明するのが「古文の逐語訳」なのだ。そのような「古文の逐語訳」の時に「訳はもっとシンプルなものに」などと考えていたら、当然、「古文の逐語訳」が持つ趣旨そのもの崩壊を招いてしまうことになるだろう。従って、上記のような批判は、ここでは何の意味もないということになる。ましてや、「傍線部を具体的に説明せよ」などと明確に指示された入試問題の正解というものには、絶対に辿り着けないだろう。

今ここで挙げた例は、私のもっている沢山の裏情報の内の、ほんの一部に過ぎない。京大国語克服のためには学校文法の大半を、この例の如く全面的に分析し直した、本当の文法というものを習得する必要がある。そうした上で「古代の」文章を、正しく速く読み解くことに熟練しなければならない。

京大合格のための国語学習法として先ず第一に指摘しなければならないポイントは、以上である。

ここで、話を次に移そう。京大合格のための学習法として指摘しなければならない第二のポイントがある。

国語の論説文読解問題には、古文であれ現代文であれ(実際は英語でも)、記述タイプの問題に限定して言えば、大きく分けて、次の三つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②傍線部の理由説明
③傍線部のような認識或いは主張の理由説明

小説や物語の読解問題では、次の五つのタイプの問題が設定される。

①傍線部の説明或いは訳出
②登場人物の言動の理由説明
③登場人物の願望の理由説明
④登場人物の心情の理由説明
⑤登場人物の認識の理由説明

論説文であれ物語文であれ、先ずは、これらそれぞれのタイプを厳密に区別できていなければならない。その上で、当該設問に相応しい解答形式を予め設定し、その形式に沿って本文中の記述を精査できなければならない。そうやって必要な素材を集め、それらを上の解答形式とも照らし合わせながら総合し、解答として仕上げる。

ここで述べていることは、こうして改めて言われて見れば、至極当たり前のことに感じるかも知れない。しかし、受験生の答案から赤本や黒本の「プロ」による答案まで、実に多くの答案をチェックしてきた経験から言うと、殆どの答案が、その至極当たり前のことが遵守できていないための誤答になっていると言わざるを得ないのである。この経験からも、京大国語の、受験者ではなく合格者の平均点が、多くの場合五割にも至らないという紛れもない事実の裏付けの一部が取れるのではないかと思う。

ほんの一例を挙げて説明しよう。

例えば、

「傍線部①『そうしないと狂言の本質に迫ることはできない』とあるが、それはどういう意味か。本文中の語句を用いて具体的に説明せよ」

という設問があったとする。

このような設問に当たった時、多く人が、この傍線部の周辺部に具体例を探してしまっている。「具体的に説明せよ」を「具体例を用いて説明せよ」と混同している訳である。両者は、不注意な人にはよく似たものに見えるかも知れないが、全く異なるものである。「傍線部を具体的に説明せよ」とは、「傍線部に省略されている語句を文脈から全て正確に復元し、その上で傍線部そのものを逐語訳しなさい」の意味で、具体例とは全く関係ないのである。

抑も答案に、特別な場合を除いて絶対に、具体例を入れてはいけない。具体例とは、文章の趣旨を読者の頭で納得し易くするための機能を果たすものでしかなく、飽く迄も文章の趣旨そのものには含められない。「文脈」に具体例は入らないのである。従って、具体例が設問の対象になることは殆どない。...このような鉄則も入試には、厳然として存在している。

具体例を引用しようとしてはいなくても、傍線部を説明しなければならない時に、傍線部以外の箇所を引用しようとするだけで、傍線部そのものを傍線部そのものの説明に入れてはいけないと思い込んでしまっている人も多く見受けられる。これも、上に述べたことを見て分かるように、明らかな間違いである。傍線部の説明は、特別な操作が補足的に施されてはいても、飽く迄も、傍線部の逐語訳でしかないのである。

実は、実際に見てもらったら誰にでも直ぐに分かると思うが、京大国語では、現代文でも古文でも、その設問のかなりの部分が、この傍線部の説明或いは訳出の問題となっているのだ。従って、誤答の多くが、このタイプの設問での、今説明したような仕組みの誤答になってしまっているだろうとの予想が付く。そして実際、私がこれまでにチェックしてきた誤答の多くがそうだった。ということは、この例示を通して説明した解答作成上の注意点ひとつが修正されるだけで、もう既に、得点率の大幅な上昇が見込めるということにもなる。ただ、その修正のためには、この注意点について熟知している指導者に自分の答案を、一定期間チェックして貰う必要があるだろうが。

解答作成上の注意点は、上記以外にも数多く、存在している。私はそれらを全て明確に分類し、合理的に説明することができる。ただ、それらをここで、これ以上詳しく説明する訳にはいかない。実際に私の授業を受講して貰って、その中でひとつひとつ具体的に説明するしかないからだ。しかし、上記の例示ひとつだけで、私が今ここでその存在を伝えようとしている解答作成上の秘訣というものの重要性だけは、聞く耳のある人にはもう既に、十分に伝わったものと考えたい。

最後に、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくことに含まれる効用で、設問の趣旨にそぐわない頓珍漢な答案の回避という本来的な効用以外の、副次的な効用についても、言及しておかなければならない。

頓珍漢な答案を捻り出そうとする時、その多くの場合が、その設問に予め想定されている制限時間を大幅に超えることになっている筈である。ということは、私が今説明しているような解答作成上の作法が未だに身につかず、答案の作成が頓珍漢な答案の作成の段階に留まっている人の場合、京大国語の全設問に制限時間内で解答することそのものすら不可能になっていると言って良い筈だ。かと言って、このように他の多くの設問に対する解答を放棄してまでも「丁寧に」纏め上げた答案が、その分だけ完璧になっているかと言うと、実際は全くその逆で、その殆どが、ほんの少しの得点にも繋がっていないというのが実情なのである。模試を受験する度に空欄を大量に作ってしまっている人は、このような仕組みの停滞状態に陥っている危険大である。

しかしながら、設問のタイプを明確に区別した上で予め解答形式を整えておくという、上述したような解法に熟練しておけば自ずから、そのような事態が避けられるようになる。即ち、正確性とともに十分な程度の能率性が、解答に宿ってくるのである。しかも、日々の演習と講義の中で、盲目的ではない確実な認識を着実に積み重ねていくことにもなる訳だから、大きな知的快感も得られ、勉強そのものが楽しくなる筈である。これは、いいことだらけなのだ。

君はどう思うだろうか?

子供の学力をどうやって伸ばすのか?

2013-09-05 01:38:32 | 教育
子供の学力をどうやって伸ばすのか?

そのためには何よりも先ず、目の前の子供の状態を深く正確に把握する必要があります。一言で子供とは言っても、本当にいろんな状態の子供がいるものなのです。高校時代に散々勉強してきたが成績が思うように伸びず浪人してしまった生徒で、学力伸長のきっかけとして発想と勉強法の大転換が必要と目される生徒。多忙な高校生活をこなしながら大学受験にもしっかり視点を定め、現役合格を目指している生徒。「大きな予備校で医学部を目指して頑張っているが9月になっても英語が偏差値40台に留まり続け、困っている。短期間で集中的な特訓をして欲しい」と言って駆け込んで来る生徒。「国公立を目指しているがセンターで悲惨な成績を取ってしまい、深刻な立場にある。ただ後期日程の小論文入試で何とか合格できないか」と言って1月末に駆け込んでくる生徒。「これまで塾などには一切行っていないし、いじめに遭ってきたせいか何事にも消極的で成績も当然低迷している。が、今年は入試の学年だから」などと言って3年になって慌てて入塾してきた生徒で、ただ、学力伸長以前にどうしようもなく「壊れた心」の組み立て直しから入らざるを得ず、なかなか本来の授業に入らせてくれない、そんな厄介な生徒。真面目でいい子なのに、単純に学習障害のある生徒。…… 本当にいろんな生徒に逢ってきました。ここでは、この中でも特に、受験学年以前の子供たちを対象としてみたい。余計な苦しみのない充実した受験学年を送るためにはそれ以前にどのような準備をしておくべきか?これに焦点を絞って論じてみたい。

お金が十分にあるなら勿論、できるだけ早い時期からどの科目にも家庭教師をつけて十分な余裕をもって準備しておくのがいいに決まっています。教育とは、最も端的に言えば、優れた大人の精神的影響下に子供を入れて育てること以外の何物でもないからです。かの偉大なるユリウス=カエサルにも子供の時ガリア人の優秀な家庭教師がつけられていたというのは有名な話です。

ただ、そのような恵まれた子供は極稀です。多くの子供が十分な学資のない子供達なのです。受験学年以前の時期にはその多くが、お金がないことを理由に放置される。受験学年になってやっと、慌てて我々の元に駆け込んでくる。そしてその内の少なからぬ数の子供達が、何をどうやってもどうにもならない状態、あるいは何もやらせてくれない状態に陥ってしまっているという訳です。

お金がなくても今の時代、小6や中1といった比較的早い時期から塾に行かないことには高校受験や大学受験の際、子供に過剰なストレスがかかってしまいます。それまで塾に行っていなかったからこそ学習に対して多くの場合心があまりにも脆弱になってしまっている訳ですが、だからこそ当然そこには逆に、過剰なストレスがかかりやすくなってしまう。そうなると、普通の生徒が受講するような比較的安価な標準的プロセスだけでは(大人数のクラス授業を週1回受講するだけでは)、過剰なストレスに必死で耐えているにも拘らず(教師の指示通りちゃんと頑張っているつもりでいるにも拘らず)、またそのように過剰に必死になっているからこそ(物事の本質を見抜く心の余裕がなくなっているからこそ)、思うように学力が上がらないということにもなってしまう。

「元よりは遥かにましになったのだから」と親子で慰め合ってはみても、高度に洗練された今の受験界ではとてもとても、太刀打ちできるはずがない。したがって結局は特別な個別授業を受講せざるを得なくなり、小6や中1から塾に通っている生徒よりかえってお金がかかってしまう。しかも、さらに悪いことには、それでも結果はさっぱりということになりかねない。こんな「地獄」のような状況が間違いなく、実際にあるのです。

この事実を踏まえて考えると、塾に通うならできるだけ早い時期から塾に通うというのが、絶対に崩してはならない大前提となっていると分かります。勉強を自分自身の喜びや生活の一部としている、そんな特別な大人からのいい影響を、できるだけ早い時期から心の余裕をもってたっぷりと受けておくのでないといけないということです。

でもお金がない。どうしたらいいの?

そんな時はまず、小3や中1のうちは費用を抑えるため数学(算数)と英語あるいは国語だけを、それも無理な場合はせめて数学(算数)だけでも、受講しておけばいいのです。これだけでも、受験生になった時のストレスは随分軽減されるはずだし、何よりも、よい教師からの精神的な影響もちゃんと受け続けることができる。ごく限られた科目でも、勉強するとはどういうことなのか実感をきちんと育て上げることができる。従って、受験期になって短期間で他の科目を挽回することも十分に可能になる。少なくとも先述したような「地獄」に陥ることはない。

単科受講という特別な受講方法を利用してでも子供はできるだけ早い時期から塾に入れる。

私は、このようなアドバイスを広く世の親に提唱する必要があると考えています。



付録

Define your target!

Would you suppose that a young man preparing for college entrance examinations is begging you, a teacher, to teach to him by the very close and too bothering deadlines a certain ability to pass any college entrance examination of English? What will you advise him to take at first? Will you advise that he must study harder in any way? Or will you talk him into rereading his or your English reference books thoroughly at first?

I am sure that he should abandon seeking such ability at fist. It is impossible for him, who has no time and is too irritated, to get an ability to pass any college entrance examination of English. But it is not so difficult even for him to define his only aim clearly, concentrate on surveying and searching every theme of past English examinations by the only college, and get just enough ability to pass the next entrance examination by the only college. Only if you do so, he can develop his future at the college. If you take into consideration all the elements concerned, you can see that when he were eager to get an ability to pass any college entrance examination of English, he would not get enough ability to pass the English entrance examination by any college which he wants to enter. You should not force him to make undefined efforts.

This is not fiction. I have ever experienced such things. Involving a boy who I had told to take the highest ranked college as his only aim and decided to trust me, made purposeful efforts under my strict conduct and unambiguous explanation, and finally passed the examination by the only college alone, that is, failed in all the examinations by the other colleges though each of them was lower ranked, which is a most representative example proving my rightness.

「普通の子」の知能開発こそが教育 02

2013-03-30 10:28:47 | 教育
話を元に戻しましょう。

知能指数検査が誰によって何のために行われてきたのかについても機会があればちゃんと調べてみる必要がある。まともな教師ならこう考えるはずです。しかし、知能指数検査が既に連綿と行われ続けてきている事実は、組織人としてはどうしても受け入れざるを得ないことなのでしょう。組織人である限り、そんなところで一々争っている余裕などないはずです。それでも教師としては、知能指数をデータとして突きつけられた時、知能指数検査の意味を正確に深く理解して、そのデータの取り扱いの際には飽くまでも、細心の注意を払おうとするのでなければならないはずです。知能指数が一旦は低く計測された子供でも、知能指数のそのような低さの原因を個別に探った上でそれを取り除き、知能指数を本来の位置に上げようとするのが教育だ。この子の場合どうやったら知能指数を上げられるのか?そもそも知能指数とは何なのか?まともな教育者たらんとする者なら誰もがこう問いかけては、自分なりに色々なことを試み、自分の個性と結びついた誰の猿真似でもない独自の方法論を組み立てるはずです。この意味でも教育者は、人間のことを正確に深く知っておく必要がある訳です。教育者は個人として、人間存在の奥行きにあらゆる面から通暁していなければならない。人間のことを決して一面的にパターン化してのみ捉えてはならず、絶えず個別の対象として、自分の存在のありとあらゆる次元を総動員して理解し、取り扱おうとするのでないといけない。知能指数と学校の成績に厳然とした相関関係が見られるのは実は、他でもない教師の怠慢や無能、或いは敗北の現れ以外の何ものでもないことを、ちゃんと理解しなければならない。

知能指数という現実を突きつけられた時に教師の心の中で知能指数が安易に絶対化されてしまうのは、科学至上主義に冒されて人間の本質を忘れ去ってしまっているからです。こうなると、本当の教師たらんとする今述べたような意欲が教師から奪われ、本当の意味での教育がそこから消えてしまうことになります。教育者とは名ばかりで、「教師として働いて生計を立てる者」以外の何物でもないものに堕してしまうのです。例えば「知能指数が高いのだからこの子は競争に勝ち抜き社会の中枢に入って活躍するだろう。しかし、競争だけが人生の全てではない。知能指数の低い子が大半なのだ。この子等のために普通の人生を平和に過ごして行く途を示し、その意味を教えてあげるのも教師の大切な役目だ。競争競争と煽り立てるのはやめた方がいい。そもそも教師そのものが知能指数が高いわけではないのだ」。このような論を組み立てる教師がいるはずです。所謂「人間味のある暖かい心の教師」です。

しかし、一見正しそうに見えるこの人達も、残念ながら、頽廃した教師の典型例にすぎません。この人達の上のような発言には、世の中で起こりがちな多くの誤謬の例に漏れず、同時的添加表現と継時的添加表現のすり替えの誤謬も見られます。

「教師はある時期に競争への意欲を促すだけではなく、競争の結果が十分に出た時、勝った者と負けた者の双方に対して、人生を送る上で競争よりも何よりも大切なこともまた、改めて説いて聞かせる必要がある」。

このように継時的添加表現で論じるべき時に、まさに競争の最中に、競争の結果がまだ十分には出ていない時に、一部の子が苦しそうな顔をしているからと言って安易な哀れみを抱いてしまい、その子達には本当は競争に勝ち抜く力があるかもしれないのだから諦めずに何とか工夫するよう導こうと考えるべきなのに、或いは、競争で負けることの深い意義を人間として今まさに実感して身につけようとしている大切な局面なのだから様子だけは見守りながらもそっとしておいてあげようと考えるべきなのに、

「競争なんて本当は無意味であり、そこからすぐに離脱しても、生きる上で何も困りはしないのだよ。競争なんて馬鹿なことを何でやるのか知らないが、やらなくてはいけないことになっているから兎に角やっているだけなのだ。気にするなよ」

と発言したり、挙句の果ては、

「競争なんてやめてしまおう。一番なんてならなくていい。誰もが特別なオンリーワンなのだから」

などと奇妙奇天烈な主張を出したりしてしまう訳です。

註:そもそも「特別な」は、論理的には最上級「最も重要な」の同義語で、これ自体が「一番」の意味なのです。また「オンリーワン」は「他のいかなるものでもない独自の」を意味し、まさに「社会からの孤立」のことを意味する場合もあるのです。多くの人がオンリーワンとして社会に加わることができたらより一層社会のためになる。そのために如何に基本となる共通の規範や能力を身につけさせるか。これが教育の意味なのであって、教育の場で安易にオンリーワンを強調することなどできないのです。そんなことは、教育とは関係のないところで SMAP や、麻薬常習の罪で逮捕された経験のあるあのシンガーソングライターに任せておくべきなのです。

知能指数が高いから競争に勝てるのではなく、競争への意欲があり、実際に競争し続けてきたから知能が高まるのです。小学入学時の知能指数の高さは、小学入学以前の幼児期に競争への意欲を育てることができていたかどうかを示す以上の何の意味もなかったのです。教育者としては、ある局面では厳然として、諦めずに最後まで競争し続けることを教えなければならないのです。

教師である以上、知能指数を巡る上のような誤謬に、やすやすと嵌ってはいけません。嵌っているのが理解できたら、今すぐ改めるべきです。そもそも、この程度の誤謬に嵌るような知能の低い人物が教師になるべきではありません。教師こそ意欲と知能の塊でなければならない。そうでないと教師である意味がない。思い遣りのある教師だと多くの人から思われるのには確かに、高い知能は必要ありません。しかし、教師として生徒に本当の深い思い遣りをかけてあげるには、最高級の知能が必要なのです。

知能指数とは何なのでしょうか?

知能指数の奥底には実は、問題に直面した時の問題解決への意欲の強さが潜んでいます。この意欲の強さが、たとえ解き方が分からない時でも「何となくこれが正解っぽい」という一種の閃きに繋がっていきます。たとえ間違えた時でもこの意欲がある場合は、その間違いの意味が新たに問題として立てられ、その後同じようなミスに陥らないような備えの設置へと繋げることもできます。これこそまさに知能指数の高さの正体なのです。知能指数の低い子には、検査の時点でその意欲がなかっただけだったのです。

解き方が分からない時に「何となく」が出てくるところまで粘ることができず、外的要求にのみ押されて「兎に角」と心の中で言いながら闇雲に発作的に回答してしまう。従って、結果として失敗を突きつけられても、その失敗から失敗のパタンを具体的に取り出すことができない。そもそも、次から次へと即座に忘却する習慣が身についているためか、反省や復習の方向に動きだす衝動すらない。そして更に闇雲な反応の繰り返しに終始してしまう。挙句の果ては、問題となったら全て回避しようとする以外に道がなくなってしまう。このようなことを日頃からずっと繰り返している。これが知能指数の低い子だったのです。

では、この競争への意欲の強さは何処から来るのか?

それは、自分の運命に対する存在の奥底から湧き上がってくる信頼感からです。問題のない日常に満足することなく、常に問題を探しては見つけ、それを解決していく。すぐには解決できないような大きな問題に出くわしても、時間を置けば必ず解決できるものと信じ、取り敢えずは他の小さな問題を解決していきながらそれを、心の何処かに平然と明確に置いておける。解決の機が熟するのを待っていられる。待つ間にやっておくべきことを精確に把握し、手間を惜しまずにやっておくことができる。すぐには解決できない問題を解決すべく抱えこんでいる時に目の前に立ち現れてくるその他の小さな問題の処理が全て、その大きな問題を解決するための準備を意味していることを、心の底から理解している。存在の本質は実際は外面的な規定を受けることがなく、主体的で内的な行動の連続こそが存在の本質なのだと、本能的に熟知している。このような何処までも未来志向の、オプティミスティックで素朴な心、清明心こそ、上に述べたような問題解決への意欲の強さを生み出す根源となっているのです。

直面する問題は全て有限で、どんな場合でも必ず解決できると信じていられるのは、存在の何処かで本当の無限と繋がり続け、使命感に溢れているからこそです。無限との繋がりは、無限との繋がりに基づく生活を実践し始めて久しい年長者と接触することによって、初めて獲得できます。そうでないとなかなか得られるものではない。ここに教育の意味が出てくる訳です。生徒のため、本当の教育のために教師が最初にやらなくてはならないこと。それは自らも師を持ち、師の元で自らの心を見つめ続け、師との関わりの中で霊魂の世話をして自らを磨き、知能を上げていくことだったのです。自らも師匠を戴く弟子でない限り、教師としては信用できないということだったのです。何よりも重要だったのは教師を教え導く教師の存在だった。こうまとめることができます。