飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

「ルーツはイスラエルではなく百済」と語る人へ

2017-12-29 09:40:41 | 日本論と宗教論
「イスラエル人である徐福が率いて来た人たちが日本のルーツのひとつになっている」

「縄文人が日本のルーツのひとつとなっている」

「百済が日本のルーツである」

「中国人が日本のルーツである」

これらは何れも、実は詳しく調べてみたら全て、互いに矛盾なく総合できる話です。

今ここで詳しい話はできませんが、直感的な話を少しだけすると、百済王族の「扶余」は中原では「余」ですが、これは徐福の「徐」と同じことなのです。百済の起源である扶余も高句麗も、列島の「縄文人」が中華帝国拡大時代(遊牧諸部族覇権闘争時代)に於ける列島防衛の為の緩衝国として、或いは極東全体の政治的コントロールの為の大陸拠点として創設し、維持、管理、支援し、済州的には計画的に消滅せしめた国家です。その活動に徐福の物部氏も大きく関与していた。百済王族の対婚部族は、ですから、物部氏なのです。序でに新羅も、高句麗や百済とほぼ同じことなのです。例えば葛城氏の浅からぬ関与が記録上で明確に確認できます。新羅王族として「葛文王」と称する人達が盛んに出て来るからです。あの行基も、出自は百済とされてはいますが実は、その関係なのです。『三国史記』の百済王である、近肖古王と近仇首王は、『日本書紀』や『古事記』では前者が仲哀天皇、後者が成務天皇=竹内宿禰として登場している。このように挙げていけばきりがないくらいの事例を挙げることができます。

「日本のルーツは百済。だから、イスラエルの徐福がルーツと言うのは間違い」との発言は従って、明らかに間違いです。

話がこういうことになってしまう理由としては先ず「縄文人」や「朝鮮人」の実態が詳細に把握されないまま語られていることをあげることができます。また「和人」と「倭人」の違いも考慮に入っていないからと言うことができます。

旧石器時代即ち氷河期に列島に分布していた極少数の人たちで、子孫を「佐伯」或いは「陳」と称する人達の許に、15000年くらい前に、東南アジアのスンダ陸棚を中枢とする文明勢力から調査隊が入り始めた。

当時は氷河期で、ユーラシアの北部は大半が、たしかに人類の本体組織が探索を継続して道を張り巡らせてはいたものの、集落や都市を造って女や子供を住まわせるには不向きな状態でした。列島も多くの人が集まって豊かに暮らせる環境ではとてもなかった。集落や都市を造って文明を運営するのに適した土地は現在の熱帯地方で、当時は常春と称してもいいような気象状況だった。それが現在は海中に没しているスンダ陸棚にあったのです。

この文明は所謂「超古代文明」のひとつになります。この超古代文明の運営主体の名称が「スメル」。王の称号は「スメラミコト」となります。

14000年前くらいから氷河期が徐々に終焉へと向かい、何千年かかけて海面がゆっくりと50メートル程上昇し続けます。そんな或る時、12000年前に、或ることがきっかけで、50メートルにも及ぶ急激な海面上昇が世界規模で起こりました。50メートルの急激な海面上昇とは、私の住んでいる関西でいうと、山科区までが海域となり、海域が琵琶湖まで山地を挟んで極々近い位置にまで迫るということを意味しています。スンダ陸棚のスメル文明はこの時、海中に沈み、一旦滅亡しました。「スメル」文明中枢はタイのバンチェンへと避難移動し、そこを拠点とした文明復興とその文明の東西への伝播が企図されました。

その過程で「メソポタミア」に所謂「シュメール文明」が興ります。そればかりではありません。列島を含む東シナ海一円にも「シュメール文明」が興ったのでした。当時は世界規模の気温上昇で、低緯度地帯が悉く熱帯雨林化し、それに代わって上に述べた辺りが文明運営に相応しい温帯地域となっていたのです。

この東洋の「シュメール文明」は7000年前の鬼界カルデラ大爆発の影響で周辺アジア諸地域に分散させられました。列島では彼らの一部が列島東北部に大量に移動し、日高見国を創りました。

列島西南部全域の荒廃が時間の経過とともに鎮まった頃、東西南北からこの地域への移住が再開されます。

例えば、日高見国の分国が琵琶湖周辺を入り口にして入ってきました。韓半島の「縄文人」も北九州や山陰を入り口にして列島西部に入ってきた。インドや東南アジアからは「ドラビタ」が商人組織として東シナ海一円に広がりつつ、和人(カリエン→コリアン)として列島西南部に入ってきました。更にはペルシャ人やイスラエル人も東南アジア経由で中原や韓半島、列島へ入ってきています。彼等の中のは商団や軍団を組んで陸路を通り、そうやって中原に入った者たちも当然いましたけど、中心は飽く迄もユーラシア南縁の海の道経由でした。

中原の殷や周も、春秋戦国諸国も、この人達が王国の中心でした。因みに「朝鮮」は殷が周の時代に半島に移動して建国。秦の時代に中原の趙も合流し、後には北に移動して扶余となり、それが後に再び南下して高句麗や百済となったのです。これら扶余も高句麗も列島の西日本の、江南起源の「カッシート」王朝や日高見国起源の出雲王朝の支援を受けて創出され、存続していました。

インド北西部から極浅い時代に、アレクサンダーの末裔たちに「ウバイド」やイスラエル、ユダヤが加わる形で倭人(ウワイド)も、台湾を中心とする一大ネットワークとして東洋に入ってきています。大陸に展開したのが北倭、海域に展開したのが南倭と、彼等によって自称されていました。秦の始皇帝や徐福、物部氏も実は、この人達の末裔なのです。このようにしてアジア諸国でそれぞれの王朝を経営していた人達が全て、後の「弥生」時代になって更に、次から次へと列島に入ってくる。...「縄文」と「弥生」の実態は、大まかに記述すると、こういうことになるのです。

一口に「縄文人と弥生人が混血して現代日本人ができた」と言われますが、実情は実際は遥かに複雑でした。そもそも少数部族のもとに遥かに多くの他部族が侵入してきた場合、少数部族の血が後から入ってきた遥かに多くの人たちの血に呑み込まれて、痕跡を殆どなくしてしまう。これが通常なのだそうです。それなのに「縄文人」の場合、それが現代日本の庶民レベルに12パーセントも残っている。12パーセントしかではなく12パーセントもとの評価が妥当であるらしい。支配階級に於いては、データはありませんが、恐らくはかなりの高水準になっているに違いありません。これは縄文人」の血が彼ら自身の極めて意識的な操作によって現在まで保存されてきたと考えない限り、辻褄が合わないことなのだそうです。これは彼らが、彼ら自身の意識において極めて「高貴な」人達であり、それに見合った組織力や資金力、情報力を持っていたことを表します。今の東京の天皇家は確かに百済からの「帰還」王族起源ではありますが、彼らを明治以降の時代の天皇家に据えて日本国の20世紀に於ける国体維持戦略を深いところで全方向に張り巡らし実行してきた裏の巨大組織の中枢は実は、この「縄文」起源の高貴な人達だったのです。

「百済」を現在の韓国人や朝鮮人は「くだら」とは読みません。「ペクチェ」と呼んでいます。「百済」を「くだら」と読むのは、我々「日本」人だけです。即ち、古代において韓半島は、中華思想に貫かれた中原の歴史書視点では確かに倭国や日本国とは違うそれぞれ別の国でしたが、氷河期以前の超古代文明以来ずっと存続してきた王朝を中枢に据えた、本当に重要で有力であるが故に隠された、列島中心の裏の世界秩序視点からすれば、紛れもなく倭国や日本国の一部だったのです。当時の百済人の遺伝子と現在の朝鮮人の遺伝子は大きく異なっていたはずです。百済も朝鮮も、更には国土と国民の結びつきも、固定的に捉え過ぎているから混乱が生じるのです。長州や日向、難波、信州などに住みつき続けてきたことが明確で、半島北部にいた時に「朝鮮」と呼称されていた百済人は、現在の朝鮮人とは全く血の繋がりがないものと思われます(因みに百済の当時の中枢は韓半島ではなく大阪の、今でも「百済」と呼ばれている地域でした)。百済人はアマテル(アマテラス/ミトラス)を始祖王及び祖先神として崇めていたことで知られる部族で、中東ではウラルトゥ(アララト)と呼ばれていた、そんな部族の末裔です。しかも中東にいた時も極東に移った後も、ある特定の部族を対婚部族としていました。その部族とは、ギリシアを含みこむ形でペルシャ人たちとともにササーン朝ペルシャを創設した「イスラエル人」や「東方のユダヤ人」のことです。徐福という名の末裔が東洋史に登場し、列島内では物部氏という名で知られている部族を対婚部族としていたのです。あの桓武天皇の父親は光仁天皇で、この光仁天皇の父親はあの弓削道鏡です。弓削道鏡は「弓削」の名でもわかる通り物部氏で、しかも、百済王教福の四人の息子一人でした。

日本人は「朝鮮」人の血を引いているという時の「朝鮮」人とは、後にモンゴルに蹂躙され、従属する明によってその国を「朝鮮」と名付けられ、旧百済の遺民に対しては彼らを「ペクチョン」と言って蔑み虐待した「朝鮮」人とは、言葉の上ではどちらも「朝鮮」なのでついつい混同してしまいがちですが、厳然とした歴史的事実として、全く違う人達です。

ところで、サーサーン朝ペルシャの近隣部族で中原の隋との激しい闘争を当時繰り広げていた鉄勒の王族に「タルドゥ」という人がいました。そのタルドゥが、自らのルーツである列島に亡命帰還し、この列島内で極めて重要な役割を果たすことになります。このことを受けて『日本書紀』が彼のことを聖徳太子と称して記録に残したのです。聖徳太子は列島に入る直前に一旦は百済に入り、ごく短期間百済王「法王」として活動したことが『三国史記』に記録されています。ですから日本の文献でも「上宮聖徳法王」との記述がされている訳です。ですから、彼のことを百済起源ということは、事情に通じていないとついついそう短絡してしまいがちですが、実は決してできないことなのです。因みに、聖徳太子が隋の煬帝に国書を送った時の自称が「日出づる国の天子」となっているのは有名な話です。ところが、中国側の記載では「アマタラシヒコ」或いは「アマタラシホコ」となっている。私は、これは実は「アマテラスヒコ」や「アマテラスホコ」のことで、このことにも大いに注目しなければならないと思います。何故なら、列島の隠れた中枢が「アマテル/ミトラス」信仰即ちミトラ教やゾロアスター教と関係が深いことを、この事実が端的に表しているからです。聖徳太子所縁の広隆寺や中宮寺の本尊も弥勒菩薩即ちミトラス神です。あそこは明らかに仏教寺院ではありません。更には、聖徳太子の出生説話にキリスト生誕説話が繁栄していることの意味にも注目すべきです。ミトラ教やゾロアスター教はイスラエルやユダヤ、更にはキリスト教とある特定の関係を一貫して撮り続けてきたに違いないのです。

百済は所謂「朝鮮」ではないし、聖徳太子にとっては単なる通り道のひとつ以上の何物でもなかった。そう言えば、百済は当時「韓」とは称されても「朝鮮」などとは全く言われていなかったはずです。ましてや現代日本人が「朝鮮」と称する時の朝鮮に至っては尚更です。

戦後朝鮮人が済州人を弾圧迫害して、済州人が日本に大量に入ってきました。彼等が日韓併合時代に列島に入ってきた多くの朝鮮人とともに「在日朝鮮人」と現在称されている訳です。彼等は彼等を弾圧した朝鮮人よりも遥かに日本人に近い人達で、だからこそ朝鮮人に弾圧迫害されたのですが、にも関わらずこの日本では「朝鮮人」と呼ばれてしまっている。これこそ典型的な歴史の歪みです。彼等のことは決して蔑んではいけません。ただし、彼等の中に、日本における自分達の過酷な現実を乗り越える手段としてアメリカの秘密工作機関の手先として活動することを安易に受け入れ、そうすることで日本社会の多くの分野の中枢に蟠踞し、日本人一般の幸福を大きく阻害するような活動を組織的に請け負ってきた人達がいるのも事実です。彼等こそ売国奴中の売国奴であり、人類の敵そのものとすら言っていい存在です。彼等の存在に気づいた人が彼等を批判しようと前に出た時にぶつかる壁こそまさに「朝鮮差別」というレッテル張りです。彼等をリクルートした秘密工作機関は、彼等をリクルートしようと決めた時からこのことを十分に計算に入れていた訳で、その意味で非常に厄介な敵でもあるのです。

私のごく親しい知人の中に、みずほ銀行に長年勤めた果てに、激務故に身体を壊し、それを理由に出世街道を放棄した人がいたのですが、その人が定年間際にほとんど嫌がらせのように、関連信用金庫支店の支店長に左遷されたのだそうです。その時、その支店の店員は、店頭では日本語を喋り日本人として振舞っていながら、実は全員が朝鮮人で、客のいない時間帯には互いに意図的に朝鮮語でのみ会話して支店長たるこの知人を疎外し、精神的な圧力を加えていたと、この知人が私に直接語ってくれたことがあります。

彼等をはじめとする人を、私は絶対に許しません。我々自身や、そのような非道に手を染めていない、我々とともにこの現代日本を庶民として支えてくれている善良な在日「朝鮮」人の為に。