飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 01

2013-01-23 19:31:56 | 邪馬臺国
魏志倭人伝の里程記事を整合的に読もうとしたら、列島移動説を受け容れなければならない。列島移動説を受け容れない限り、近畿説も九州説も妥当性を欠いてしまうことになる。特に九州説は、九州に邪馬臺国があったという生々しい実感に溢れているものの、そして私もそれには反対しないものの、魏志倭人伝の地理観の中で邪馬臺国はどこにあったのか?魏志倭人伝の里程記事をどう読むのが整合的か?という目で見た場合に、ほとんどこじつけと誤魔化し、強弁しか見えない極めてお粗末な説になってしまっている。

列島移動説を導入しているが故に余りにも革新的になり過ぎてしまっている感はあるが、整合性という点で群を抜いているのが飛鳥説である。その飛鳥説ですら、不弥国から投馬国や邪馬壹国に至る道程に関しては、若干のミスを犯している。不弥国から投馬国や邪馬臺国に至る道程を整合的に理解するためには、紀伊国から安芸国に至る瀬戸内海が当時はまだ陸地になっていて、四国沖周りのコースや、投馬国から山城を抜けて大和に至るコースは、何らかの理由で、中原王朝の使節の目に触れないように隠蔽されたということを想定せざるを得ない。これが私のここまでの論旨でした。【図7-特j】


瀬戸内海が太古において大河が流れナウマン象の闊歩する広大な森林地帯であったことは、ほとんど常識的なこととして広く知られています。瀬戸内海の漁師たちが昔から時々引き上げては龍の骨として寺社に納めてきたものが実は、ナウマン象の牙や骨であることが判明したなどという話を聞いたことがあります。次のような地図すら一般に流布している話です。【図7-特k】


この話は通常、縄文海進と呼ばれる現象に結びつけて語られます。19000年前に海水量の増大による海面上昇が始まり、6000年前の縄文前期には海面が当初よりもおよそ 100m 以上も高い海面上昇のピークの時を迎えた。その後増えた海水の重量が地球全体の海底をゆっくりと押し下げ、現在に至るまで海岸線はゆっくり後退し続けているというのです。つまり、瀬戸内海が陸地だったのは大体10000年くらい前までのことだったとされているわけです。これが本当なら縄文の貝塚をはじめとする世界中の凡ゆる「同時代」遺跡がある一定の海抜以上からしか出土しないことになります。しかし、海面がピークにあったとされる縄文前期(約7000年前から5500年前)においても、更には、そこからは幾らか低くなったものの今よりは遥かに高くなっていた弥生時代においても、四国側の讃岐から伊予東部、中国側の吉備から安芸までの地域が陸地であった可能性はないなどと、どうやって証明されたのでしょうか?


海面がピークにあった時も陸地だったが、海面がどんどん下がって行く過程の何処かで、何らかの理由で地盤も沈下を起こした。海面低下の時でもあり通常なら海中に沈降するはずもないのに、その海面低下の速度を超えて急速に地盤が沈下した。だから、他がどんどん陸地化して行く中でここだけが今のような海になってしまった。このような可能性もあるのではないでしょうか?このようなことがなかったと、どうして言えるのでしょうか?インターネットで検索すると、縄文前期直前の縄文早期(約12000年前から7000年前)の地形として次のような地図もありました。7000年前か12000年前かで解釈も大きく変わってくる地図ですが、それでも何かを感じさせる面があると思います。【図7-特l】


高松や松山、岡山、広島のある一定の海抜から下の方では、或いは沖合の海中では縄文や弥生の遺跡がひとつも見つからない。このように確定しているなら、権威筋による上記のような説明にも裏付けが取れることになります。しかし、本当にそうなのでしょうか?高松や松山、岡山、広島のある一定の海抜から下の方や、沖合の海中で縄文や弥生の遺跡は見つからないのでしょうか?もし見つかったら、この海域が弥生時代まで陸地であり、海中に沈降したのは3世紀以降ということにもなると思うのですが、どうでしょうか?

このことに関しては今は、今後の発掘情報に期待するしかありません。ただ試みにインターネットで、各地に散在する縄文遺跡のことを詳しく調べてみることにしました。縄文時代には遺跡は何故か東日本に集中し、西日本にはほとんど見られないようなのですが、それでも幾つか貝塚があるのが分かりました。瀬戸内の播磨灘や備後灘沿岸にもちゃんと縄文時代の貝塚がある。貝塚があるということはやはり海だったのか。こう思って、貝塚から出てくる貝や魚の種類を調べると、淡水と塩水が混じり合う汽水域の貝や魚になっています。この二つの海域は塩水が入り込む大きな湖だった訳です。海面が最高になったとされる縄文前期ではなくそれ以前の縄文早期のものと銘打たれてはいますが、先に挙げた地図の内容は決して間違いではなかったのです。問題なのは、海面が最高になったとされる縄文前期にもこの海域が汽水域に過ぎず、現在のような海域らしい海域ではなかった可能性があるということなのです。

そこで、この播磨灘や備後灘地域の貝塚について、その標高を調べてみました。GoogleEarth では何と、カーソルのある位置の標高が明確に表示されるようになっているのです。すると、ひとつが 10m となっている以外は全て 2~5m となっています。ところが、東日本の貝塚は全て標高 20m 前後となっているのです。海でとった魚介類を河川を遡って河川流域の高台にある集落まで運び、大量に消費しては集落傍の定まった区画に遺棄し続ける。これが東日本の縄文人の生活パタンだったのです。西日本の縄文人にはそれとは違って、海岸縁に集落を作る習慣があったのか?こう思って調べてみると、さにあらず。高知県西岸や愛媛県西岸の豊後水道沿いの縄文貝塚は標高が 12.3m や 8m となっていて、東日本の縄文人と同じような生活様式が見て取れるのです。ということは、瀬戸内の播磨灘や備後灘沿岸の縄文人にのみ何故か、この生活習慣が読み取れないということになるのです。これは大いに怪しい。

そもそも海面は今よりどれくらい高かったと見積もられているのでしょうか?調べてみると、誰がどうやって計測したのかは不明ですが、2~10m という情報があるかと思えば、4~ 4.5m というのもある。縄文海進が常識になっている割には不確定でいい加減だなとは思いつつ、縄文海進と言うからには 2m では少ない感じがするので、概ね 5m だったとします。すると、瀬戸内の貝塚の現在の標高がほとんど全て 2~5m の範囲に収まっていることが念頭に浮かんでくるわけです。つまり単純に考えると、海中だったことになってしまうのです。ということは、これは次のこと以外何も示唆していないことになります。即ち、この地域は縄文時代には、海面が一般的に最も高かった縄文前期においてすら、今よりも 3~10m だけ地域全体の標高が高く、播磨灘や備後灘は今程に海の性格の強い水域になってはいなかったということです。もしそうでなかったら、縄文海進とは言っても海面は今よりせいぜい 1m くらいしか高くなかったことにするしかなくなり、これだと縄文海進を考慮に入れて考えること自体がナンセンスになってしまいます。そもそも地図を眺めているだけでも、元々ひとつの陸地だった中国地方と四国が引き裂かれて、間の海域は地盤沈下した結果できたと直感させるような、そんな地形になってはいるのです。因みに、かの有名な『混一疆理歴代国都之図』では、その中の列島の位置にも勿論注目すべきですが、そこに描かれた瀬戸内海の地形が、今ここで私が述べてきたものと酷似している点も見逃してはならないものと感じます。


何れにしてもこの問題については、専門家による詳しい調査の結果を待つしかないでしょう。何処かの研究機関で瀬戸内の海底遺跡調査など執り行ってもらいたいものです。

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2 コメント

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いよいよ最終章ですか (はぐれメタルファラオ)
2013-01-23 21:03:20
それにしても瀬戸内海は不思議な海ですね。
黒海や地中海と並んで、面白い形の海域です。
景色もそうですが、海の幸に恵まれた素晴らしい形状です。
それにしても、一番下の地図、朝鮮半島の巨大さに笑ってしまいます。
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はぐれメタルファラオさんへ (飛鷹満)
2013-01-23 21:15:41
記事には書きませんでしたが、大きな歪みの入っている地図ではあります。同じことを感じていました。その歪みの分だけ補正してもなお、古代の列島の姿を捉えるのに不可欠の貴重な情報が入っているものと考えていますよ。

それにしても、これまで当然のように思っていた知識も、こうしてひとつひとつ丁寧にチェックしてみると、まだまだ新しいことに気づけるものです。論をまとめる過程で沢山の副産物が出てくるのも驚きです。例えば、GoogleEarth に標高を読み取らせる機能があるとは、全然知りませんでした。また、貝塚の標高が瀬戸内だけこんなに違うとは、全然予想していませんでした。すっかり熱中してしまいました。
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