
4月6日(火)曇り。
午後に、犬塚博英先輩より電話が入り、四宮正貴先生の突然の死を知らされる。えっ!と言葉が続かなかった。最近は心臓を悪くなされて闘病中と聞いていたので、心臓の病かと思ったら脳虚血疾患とのこと。死亡時間は4日の午後、携帯の発信履歴の推測で午後1時から6時までの間。享年74歳。コロナ禍の中、斎場では、ご遺体との対面もならず、生花を受ける余地もないとのことです。
四宮先生と初めてお会いしたのは、間違いでなければ、昭和の49年頃で、場所は新宿の炉端焼き「勇舟」だったと思う。オーナーの高橋さんが民族派学生運動のOBであったため、お店は、若手活動家の梁山泊のようになっていた。連れていって頂いたのは、故阿部勉さん。以後、四宮先生とは、様々な会合や運動でご一緒させて頂いた。特に平成4年3月、野村先生と一緒にフィリピンを旅したことが忘れ難い。まだ私が大悲会の会長をしている時、周年の宴席で四宮先生が「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌った。それを聞いた野村先生が、非常に感激して、「四宮君、君はモンテンルパに行ったことがあるか」。「いいえありません」。「では、連れて行ってあげよう」。ということで、先生の写真集の撮影に便乗して、平成4年の3月にフィリピンへ渡った。激戦地のコレヒドールや日本の軍人が収容され、死刑の執行が行われたモンテンルパ刑務所を訪れた。慰霊碑の前で四宮先生が、「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌ったが、四宮先生も我々も皆、感極まって涙した。もう29年も前の事だ。忘れ難い旅だった。一緒に行った、野村先生、古谷喜久男さん、そして四宮先生までもが亡くなられてしまった。人も時も去って行く・・・。
いずれ「お別れ会」を催したいと犬塚先輩からのメールにあった。合掌。※写真は、モンテンルパ刑務所の刑場の慰霊碑の前で。左から、蜷川、古谷喜久男氏、新藤厚氏、四宮正貴先生、野村先生、ヒロ山口氏。