goo blog サービス終了のお知らせ 

ご先祖さまの大冒険――動物の上陸

2005年11月08日 | メンタル・ヘルス

 12月21日(4億800万年前)頃、デボン紀が始まり、最初の昆虫、先に上陸した植物を追って、動物が上陸作戦を開始します。

 豊富な太陽エネルギーを摂取して豊かに繁った食糧である植物を放っておく手はないわけですね。

 最初に陸に上がっていったのは、昆虫類です。

 続いて、エサとなる植物や昆虫を追って、魚が上陸していきます。

 といっても、話は簡単ではありません。

 魚類は生きるための息つまり酸素の吸収を海水からエラによってしています。

 水のないところで大気からじかに酸素を取り入れるには肺が必要です。

 「必要は発明の母」ということなのでしょう、肺が創発します。

 古生代の魚類の中に肺をもつものが現われるのです。

 その一部は肺をさらに「うきぶくろ」へと進化させて、現在まで生き延びている魚類の大部分の先祖となります。

 しかし、胸びれを前足に腹びれを後足に進化させ、上陸した動物がいます。

 海から陸へと生活形態を変えるために体の形態も根本的に変革したのです。

 魚は魚でなくなることによって、陸というまったく新しい生活圏を獲得したわけです。

 いのちがけの大変容・大冒険ですね。

 ご先祖さまのこの大変容・大冒険なしには、陸上生物である私たちの今の生活もありません。

 そのことを思うと、ちょっとじーんと来るものがあります。

 といっても、最初はまだ完全に水を離れるのではなく、水と陸の間を行き来しながら生きています。

 つまり両生類の登場ですね。

 カエルやサンショウウオのなかまだと思えばいいでしょう。

 私たち人類との関係でいえば、ただくねるだけの蠕虫的運動から、魚のように腹びれ、胸びれ、尾による複雑な運動へ、やがてカエルなどのように前足と後足によるより随意的な運動へと進化した、その流れがやがて直立二足歩行につながってくるわけです。

 こうして無数の「進化の積み重ね」が、やがて私のいのちに届けられるのです。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 教育ブログへ



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大地が緑に染まり始める――植物の陸地への移動

2005年11月07日 | メンタル・ヘルス

 宇宙カレンダーの12月20日(4億3900万年前)、シルル紀が始まった頃、まず植物が陸地への移動を始めます。

(オルドビス紀まで遡るという説もありますし、動物が先という説もあるようですが、ここでは植物が先という説を採用しておきます)。

 先祖の光合成微生物、光合成植物たちが長い時間かけて形成してくれたオゾン層のお陰で、陸上でも太陽の紫外線によって細胞膜が壊されることがなくなります。

 生命の危険は少なくなってきたのです。

 しかも、太陽光のエネルギーを利用するのは陸上のほうが有利です。

 この有利な新しい場所を放っておく手はありません。

 すると実際、新しい生活の場を開拓するための冒険を始める生命が出てきます。

 しかし、考えてみると海の中と陸上ではまったくといっていいほど生きるための条件が違っています。

 新しい環境に合うように自分を変えなければ、生命は陸地で生きることはできません。

 ところが、そういう自己変革・革命を遂げ、大冒険に挑む生命がいたのです。

 細胞つまり生命のいちばん基本になっている物質は水です。

 ところが、陸上には肝腎の水がありません。

 しかし、豊かな光エネルギーは欲しい。

 そこで、植物たちは「工夫した」のではないでしょうか。

 私は、擬人化だといわれても、そう思わざるをえません。

 これを、単なる「偶然の突然変異が自然選択された結果」とは考えにくいのです。

 重要なので何度も繰り返しますが、たとえある種の偶然だとしても、そこには宇宙の自己組織化という一貫した方向性があることだけは確実です

 植物は、枝葉を陸上-空中に伸ばし、根で土中の水を吸い上げて葉先まで送るというそれまでになかったより複雑なシステム・組織を発明したのです。

 それだけでなく、根から葉先まで水を揚げることのできる管(維管束、いかんそく)も発明しています。

 私たちが今見ることのできる見上げるような大木も、そうした構造で、根から高い枝先、葉先にまで水を送っています。

 まったく意外なことですが、この「維管束」がどういうメカニズムで何十メートルもの高さまで水を揚げることができるのか、いまだにわかっていないのだそうです。

 いわゆる「毛細管現象」で水が上がるのはほんの少しの高さで、とても大木の梢までは上がりません。

 もちろん、ポンプのようなものがついているわけではありませんね。

 どうやって植物は水を高いところまで揚げているのでしょう?

 それがわかったらノーベル賞ものだ、という話を読んだことがあります。

 理系の学生諸君、挑戦してみませんか?

 (もしかして私の勉強不足で、すでにわかっているようでしたら、ご存知の方、ぜひ教えてください。)

 さて元に戻ると、そうはいっても最初の植物は水際に生えていました。

 磯の潮溜まりに行くと、潮が引くと陸になり潮が満ちるとまた海中になるような場所でちゃんと生きている海草を見ることができます。

 最初はたぶんあんな風だったのでしょう。

 それから、水辺の植物、例えばトクサのようにずっと水の上に体を伸ばすようになり、アシやマングローブのように繁るようになったのでしょうか。

 ともかくこうして、それまで何の生命も存在しなかった殺風景な陸地が、海辺・水辺から次第に緑に染まりはじめます。

 想像するだけで、心が弾んでくるような気がしませんか?

 今私たちが享受している、青い海、青い空、そして緑の大地という美しい地球が、ゆっくりと形成されつつあるのです。

 最初に上陸した植物たちの冒険がなかったら、私たち陸上動物が生きることのできる豊かな緑の大地は存在しなかったのですね。

*写真は宮崎県青島の海岸、通称「鬼の洗濯板」

人気blogランキングへ

にほんブログ村 教育ブログへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独を感じている人に

2005年11月04日 | メンタル・ヘルス

 社会学では、近代は、人が血縁と地縁という共同体から切り離されて、自由になったと同時に孤独になった時代だといわれます。

 確かに今の日本にも、さみしさを感じながら暮らしている人がたくさんいるようです。

 私は、それにはもう一つ、近代人が自然から切り離された意識を持ってしまったということも大きな要因になっていると考えています。

 しかしこれまでお話してきたように、よく考えてみると、私たちは自然と切り離されていないどころか、まったく一体です。

 例えば、大地は私たちを生まれてから今まで、朝から晩まで24時間体制、年中無休、しかも無償、無条件で支えてくれています。

 これは事実だと思いますが、どう思われますか?

 これは誰にとっても事実ですよね。

 だとしたら、この世には、誰にも何にも支えてもらえていない孤立した人は一人もいない…ということになります。

 私は、独り暮らしで「さみしくてたまらない」という人には、まず「さみしいでしょうね」と共感してから、2つのことをお話しします。

 一つは、ごく常識的ですが、勇気を出して自分から進んで友達をつくることです。

 もう一つは、環境のいいところへ行って、足の裏で大地をよく感じながら、「大地はいつでも私を支えていてくれる。私は独りぼっちではない」と心の中で言ってみることです。

 よかったら、やってみてください。

 この世には、孤独だと思っている人はたくさんいますが、事実として孤独な人は一人もいない、と私は思うのです。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 教育ブログへ
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分で自分を生んだ人はだれもいない

2005年10月05日 | メンタル・ヘルス

 現代科学から見えてくるコスモロジーについてお話しすると予告しました。

 でも、その前に出発点として、近代科学や現代科学がどういう仮説を述べているかということと関わりなく確実なことを確認しておきたいと思います。

 さて、私たちは今生きているわけですが、これはかつて生まれたからですね。

 そこで考えていただいたいのですが、みなさんの中に、自分で自分を生んだ方がおられるでしょうか?

 「え? 何をバカなことを聞くんだ?」といわないで、ごく単純に事実を確認していただきたいのです。

 自分で自分を生んだ人は、この世界には1人もいないんじゃないでしょうか?

 みんな「生まれた」のであって、「生んだ」んじゃないんですね。

 現代の日本人の多くがふだんほとんど意識していないようですが、私たちのいのちは自分で生んだり作ったりしたものではなく、生まれたもの・与えられたものです。

 これは、特定の思想や主義ではなく、私の主観でもなく、さらに科学で証明される必要もない単純明快な、だれでもいわれれば認めざるをえない「事実」だと思うのですが、いかがでしょう?

 思春期に親と口ゲンカして、「頼んで生んでもらった憶えはない」といったことのある方も少なくないでしょう。

 実際、私たちのいのちは頼んで生んでもらったものではありません。

 「命」という漢字がそのことをよく現わしているようです。

 確かにいのちには、頼んだのではなく、「命令」された・強制されたという面があるといっていいでしょう。

 けれども大切なことは、「頼んで生んでもらった憶えはない」というのは子どもだけではないということです。

 親もその親に頼んだのではないし、あらゆる人が例外なく頼んだわけではないのです。

 さらに大切なことは、いのちは頼んでいないというだけでなく、自分は何の努力も貢献も支払いもした憶えがないのに、無条件かつ無償で与えられたということです。

 つまり、いのちにはもう一つ、「無条件・無償で与えられた贈り物」という面があるといっていいでしょう。

 私たちがいのちの出発点、つまり生まれたという事実を、ただ当たり前と思うか、あるいは「頼んだものではない=強制されたもの」と取るか、または「贈り物」と受け止めるかによって、人生観が決定的に変わってくる、と私は考えています。

 「強制」と取れば、「生んだ以上、~のことはしてくれて当たり前だ」といったふうな権利意識を持ちがちになります。

 そして自分の要求が満たされないと、不平不満でいっぱいになるでしょう。

 しかし、自分のいのちを無条件・無償の贈り物と受け取ると、人生は基本的にいつも感謝すべきものと感じられてきます。

 人生の基本が不平不満であるのと感謝であるのとでは、どちらが気持ちいいでしょう? どちらが、人生の質(クォリティ・オヴ・ライフ)が高いでしょう?

 といってもここで、「だから、感謝しなさい」というお説教をしようとは思っていません。人生の基本的な「事実」を確認したいだけなのです。

 さて、自分で自分を生んだのではなく生まれたものだということは、出発点において人生は私の勝手でないことはもちろん、自由でもないということです。

 そういう意味で、「人生の原点は自由ではない」と私は考えていますが、みなさんはいかがでしょう?

 この「いのちの出発点・原点は自由ではない」という事実が、コスモロジーに関して決定的に重要だと思われます。

 さて、私たちは「生まれた」わけですが、誰から生まれたのでしょう。

 「つまらない、当たり前のことを聞くな」といわないで、1つ1つ一緒に確認してください。

 シンプルな事実の確認の積み重ねが、たぶん、やがてあなたのコスモロジーを根本的に、肯定的なものへと大転換させることになると思います。

 それは、実際の授業の進行についてきてくれた学生の90%が体験することです。

 元にもどりましょう。

 私たちは、いうまでもなく両親に生んでもらった……「もらった」というのが嫌なら、「両親から生まれた」と言い換えてもかまいません。

 どんなに嫌いな親であっても、どんなに恨んでいる親であっても、まちがいなく親から生まれたのです。

 感情的に受け容れられない方は無理をする必要はありません。

 ただ、単純に事実を確認していただくだけでかまいません。

 では、両親はだれから生まれたのでしょう。

 両親は、そのまた両親から生まれたんですよね?

 そして、そのそれぞれの両親は、そのまた両親から……と果てしなく続いていきます。

 このいのちの連続性の数を、電卓でも使って計算してみてください。

 これは2×2……つまり2の累乗で計算できます。

 そうですね、10代遡ると1千24人、20代遡ると104万8千576人の先祖がいるということになります。

 そして、当たり前といえば当たり前、不思議といえば不思議なことに、この中の誰一人欠けても、今日ここに私はいなかったんですね。

 さらに、これは20代で終わりではありません。さらに続いていくのです。

 30代遡ると10億7千374万1千824人……すなわち10億以上、40代遡ると10兆以上になるようです。

 そしてさらに……いのちのつながりは40代で終わるわけではありません。

 とすると、今日ここに私1人が存在することに不可欠だったご先祖さまは、いったい何人なのでしょうか?

 もう、「無数」とでもいうほかなさそうです。

 これは、気がついてみると、ほんとうに驚くべきことではありませんか。

(といっても、例えばいとこ同士で結婚した場合は祖父母は重なっているので、これはあくまでも延べ数で実数ではありませんが。)

人気blogランキングへ

にほんブログ村 教育ブログへ


コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いのちのつながりと温もり

2005年10月03日 | メンタル・ヘルス

今日はちょっと+αのほうの話です。

 2泊3日で、やや離れたところに住んでいる娘夫婦の家に孫娘に会いに行きました。

 高速のバス停まで迎えにきたときは、久しぶりだったせいか、恥ずかしそうにしてすぐにはきませんでしたが、ほんのすこしで慣れてきて、抱っこされるようになりました。

 1歳3ヶ月とは思えないほどよく動き回る、可愛いいたずらっ子で、前回まではすぐに下りたがってじっと抱っこされていなかったのが、今回はすこし抱っこの味も覚えたらしく、かなりの間、おとなしく抱っこされていました。

 もう、時々「ジージ」といってくれます。「バーバ」のほうは、「パパ」とまぜこぜになるらしく、あまりはっきりいってくれないので、かみさんはちょっと残念そうです。

 私は、「歳を取ることは自然なこと」と考えているので、孫が生まれて、まわりからも「ジージ」と呼ばれるようになっても全然抵抗がありません。

 それどころか、孫娘に「ジージ」と呼ばれるのは、とてもうれしいものです。

 孫娘はもう、不思議なくらい私たちがジージとバーバであることがわかっていて、今回は、坐っていると近寄ってきて、くるりと後ろ向きになって当たり前のような顔をして膝に座わるようになりました。

 まだ自分でいえる言葉はすこしですが、こちらのいうことはとてもよくわかり、「○○(愛称)、こっちへおいで」と呼ぶと、遠くから走ってきて飛びついたりします。

 こういうふうにして育っていく感覚がエリクソンのいう「基本的信頼感(basic trust)」ということなんだな、と改めて思いました。

 抱き上げると、しばらくは抱っこしているのですが、すぐに走り回りたくなるのでまた下ろし、また来ると抱き上げ……の繰り返しで、すっかり腰に来ます。

 土曜日、出がけに、ブログの記事を書いてから出発しようとしたら、一刻も早く孫の顔を見たいかみさんから「向こうに行ってから、パソコンを借りて書けばいいじゃない」と急かされ、「それでもいいな」と午前中から出かけました。

 向こうについてから夜までずっと、エネルギッシュな孫娘についてまわってへとへとになっていましたが、彼女が寝付いてから、それでも頑張って娘のパソコンを借りて記事を書きました。

 しかし、日曜日も1日しっかり付き合ったら、夜になると、「今夜はいいか」という気分になって、お休みしてしまったというわけです。

 3日目、月曜日、朝起きると、意外に元気で、かみさんと二人、目が覚めて機嫌よく起きてきた孫娘とお昼前までずっと遊んでいました。

 帰りの高速バスの中でかみさんと、「毎日一緒にいたら、けっこう体が慣れてきて、平気になるかもしれないね。そのほうが、嫌でも運動するし、いつも危なくないように気を張っているから、ボケないかもしれないし、いいかもしれないね」と話したことでした。

 娘の彼が転勤族なので、3世代同居が実現することはなさそうですが……。

 物書きや大学教師のはしくれであることなどほとんど忘れてしまって、ただのジージになって、私たちから娘へ、そして孫娘へと、確かにつながっているいのちの温もりをゆっくり楽しませてもらえた3日間でした。

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の中の口癖を直す 2

2005年10月01日 | メンタル・ヘルス
 ネガティヴなセルフ・トークをポジティヴなものに取り替えるワークの続きです。

 「私には、いいところなんて1つもない」と「私は、何もできない」というセルフ・トークの消去-変換はもう簡単ですね。

 すでに能力や長所を6つ以上書き出すワークをしていますから(まだの方は過去の記事を見て、ぜひやってください)、事実としてご自分には6つ以上の能力や長所があることは確認済みのはずです。

 ところが、何かのきっかけで落ち込むと、ふとこういう心の中の口癖が出てきたりします。

 そういう時には、自分に向かって「私にはいいところなんて1つもない……という気分になってるんだよね。気持ちはよくわかるけど、でも、それは事実じゃない。事実としては、私には、好奇心、直感力、判断力、決断力、行動力、理解力、持続力、真面目さ、向上心などなど、いいところがある。できることもいろいろある……私って、悪くないじゃない……どころか、けっこういいじゃない……私は、ステキだ!」と、言い換えをしていきましょう。

 もし、こう言い換えていく途中で抵抗感がある場合、軽いものなら、少し努力をして次のところまで進んでください。

 強い抵抗感があったら、無理をする必要はありません。

 落ち込んでいる自分を自分で受け容れてあげて、「そうか、今は心のエネルギーがないんだよね。じゃあ、しばらく休もう」といってあげるといいかもしれません。

 他の、「まるでバカ」、「何をやってもできるわけない」、「何もいわないでいたほうがいい」、「全然カッコ悪い」、「だれにも愛されてない」といったセルフ・トークもポイントは同じです。

 こうしたネガティヴなセルフ・トークによくある特徴は、「まるで」、「何をやっても」、「何も」、「全然」、「だれにも」というふうに、非常に「誇大視」されていることです。

 ですから、ちょっと心を静めて、「本当に『まるで』なんだろうか?」、「本当に『何をやっても』なんだろうか?」……と、事実を確認していくと、「バカな部分が多い」(しかも、というような気がしている)、「うまくできないことが多い」(ような気がしている)ということにすぎないことに気づくはずです。

 そこに気づきさえすれば、あとは同じ要領で、セルフ・トークを取り替えていけばいいわけです。

 「私はまるでバカ……じゃない」→「バカじゃないところもある」→「ちょっとは賢いところもある」→「賢いところがある」→「私は、すでにある賢いところを伸ばして、バカなところをなくしていくことができる! きっと、そうして見せるぞ!」というふうに。

 「だれにも愛されてない」、「死んだほうがいい」、「~さえあれば、あとはどうでもいい」、「○○が悪い」なども、基本的ポイントは同じなのですが、少し取り替えがむずかしいかもしれません。

 これらについては、この後の授業で、さらに徹底的な取替え作業に取り組んでいくことになります。ご期待ください。

人気blogランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の中の口癖を直す 1

2005年09月30日 | メンタル・ヘルス

 心の中のネガティヴな口癖を直すことを、「セルフ・トークの取替え」といいます。

 どうすればセルフ・トークを取替えられるのか、前回の典型的な例からいくつか取り上げてやってみましょう。

 まず、「私ってダメなヤツ(最低、最悪etc)」からいきます。

 自分の中にこういうセルフ・トークがあることに気づいたら、「本当に私はダメなヤツなんだろうか?」と自問します。

 「私はダメなヤツ」というのは、いいかえると「私=ダメなヤツ」ということですね。

 もし本当に「私=ダメなヤツ」だとしたら、私にはいいところはゼロでなければなりません。

 でも、「ダメなヤツ」といっていることの中には、自虐だけではなく反省の気持ちも一部含まれていたりしませんか? そこには真面目さも含まれていませんか?

 それに、反省心や真面目さだけではなく、きっとほかにもたくさんのいいところがあるはずです。

 そうすると、事実をより正確に表現すると、「私にはダメなところもあるけれども、反省できるような心や真面目さといういいところもある」ということになるはずですね。

 「私にはダメなところがある」という事実を「私=ダメなヤツ」と思ってしまうのを「誇大視」といいます。

 ここで「十円玉のワーク」を思い出してください。

 それは、マイナスの十円玉を目にくっつけて、視界が十円玉でいっぱいになっているだけなのに、世界が十円玉でいっぱいだと錯覚しているのではありませんか?

 マイナスの十円玉を遠ざければ、十円玉は視界の一部、そしてさらに世界のもっと小さな一部にすぎません。

 そして、大事なことは、自分の悪いところといいところと、どちらに心を集中するのが元気になれるだろう? ということです。

 元気なのと元気がないのと、どちらが自己改善の意欲が出てくるでしょう?

 意欲があるのとないのとどちらが実際に改善できるでしょう?

 もう、いうまでもありませんね。

 ではまず、「確かに私にはダメなところもあるかもしれないけれど、私には反省心や真面目さや……いろいろいいところもある」といいかえてみましょう。

 心の目の180度回転のワークです。

 さらに、「確かに」や「私にはダメなところもあるかもしれないけれど」をとって、「私には反省心や真面目さや……いろいろいいところがある」といいかえてみましょう。

 心が少し元気になってきませんか?

 これは見る方向を変えて見るものを変えているわけです。

 嫌でなかったら、自分の中の元気がなくなる面ではなく、元気が出てくるような面を見ませんか?

 そして、心の元気が回復してきたら、「でも、ダメなところもあるから、改善しよう! 私ならきっとできる!」と自分に言い聞かせてください。

 自己改善意欲、向上心のあるあなたなら、きっと自己改善・向上ができます!

 ちょっとおまけで、「最低」と「最悪」も取り上げておきましょう。

 「私って最低!」とセルフ・トークをする癖のある方、よかったら一緒に考えてみてください。

 「最低」とか「最悪」というのは、厳密にいうと「世界一悪い」という意味ですね。

 でも、ほんとうに、あなたは「世界一悪い」人なのですか?

 そんなこと、ありえませんよね?

 ヒトラーやアル・カポネよりひどい人なんて、そこらへんにはなかなかいませんからね。

 それよりなにより、そういうひどい、世界一悪い人がこんな自己改善のためのブログを読むなんてことはありえない……でしょうから、読んでいるあなたは「世界一悪い」はずがない、「最低」「最悪」ではありえません。

 世界の人口は今63億人あまりだったと思いますが、あなたは「最低」つまり上から数えて63億番目なのですか? 悪いほうのランキングでは63億人中の1番なのですか?

 もちろん、そうではありませんね? あなたの上にも下にもかなりの数の人がいるはずです。

 ならば、「誇大視」して誇張された表現を使って、自己虐待するのはやめましょう。

 まず、「私には、あまりレベルが高いとはいえないところがある」と言い換えましょう。

 続いて、「でも、少しはいいところもある」と。

 さらに、「私には、いいところもある」と。

 そして、「私には、いいところがある!」と。

 前にもいいましたが、能力や長所は認めると伸びる、という法則があります。

 ダメなところに目を向け注目して落ち込むのより、いいところに目を向け注目して元気になって、もっといいところを伸ばすほうが、誰にとってもはるかにいい選択だと思いませんか?

 もし気に入ったら、「私はまだまだだけど、でもいいところもある。それを伸ばすこともできる。よっし、もっと向上しよう!」というセルフ・トークをやってみてください。

人気blogランキングへ

↑ご協力のおかげで、元気づけのメッセージが広がっています。さらに1クリックのご協力をお願いします。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の中の口癖を直そう

2005年09月29日 | メンタル・ヘルス

 人間の心には、いろいろな癖があります。

 なかでも「落ち込み癖」というのが、とても困る、しかしよくあるものです。

 自分で自分を認めるワークをし、お互いに認め合うワークをして、いったん元気になっても、また日常生活に戻ると、落ち込み癖も戻ってくる、というケースがしばしばあります。

 しばしばというより、ごくふつうにあるといってもいいくらいです。

 ですから、これまで熱心にネット授業に参加し、ワークもやってみたけれど、効果は一時的だったという方、どうぞがっかりしないでください。

 長いことかかってつけた癖はすぐには直りませんが、続けて実践していけば、ゆっくり直っていきます。

 そのための方法を、もう1つ、ご紹介しましょう。

 それは、「セルフ・トークの取り替え」と呼んでいるものです。

 私たち人間は、いつも心の中で言葉をめぐらせることによって考えています。

 その言葉のパターンが落ち込むようなものだと、当然ながら考えが暗くなり、そして気分も暗くなるわけです。

 そこで、どうするかというと、まず自分のなかでほとんど自動的にめぐっている否定的なセルフ・トークを見つけて、ちゃんと自覚し、それからそれを肯定的なセルフ・トークと取り替える練習を繰り返せばいいのです。

 今回はまず、自分の中の否定的なセルフ・トークに気づくというワークをやってみましょう。

 これは、それほどむずかしいものではありません。

 1人で静かに落ち着けるところで、「落ち込んでいる時に、よく心の中でめぐっている言葉のパターンは、どんなものだろう?」と自問してみるのです。

 そうすると、何かというと自分で自分にいって落ち込ませている言葉のパターンが見つかるはずです。

 典型的な例を1ダースほどあげてみましょう。

 1 私ってダメなヤツ(最低、最悪etc)
 2 私には、いいところなんて1つもない。
 3 私は、何もできない。
 4 私って、まるでバカ(頭が悪い)。
 5 私って、まぬけ(ドジ、のろまetc)だから、どうせ何をやってもうまくできるわけない。
 6 バカみたいに思われるから、私は何もいわないでいたほうがいいんだ。
 7 私って、全然カッコ悪い。
 8 自分なんて、嫌いだ。
 9 私はだれにも愛されていない。私ってかわいそう。
 10 私なんか、生きててもしょうがない。死んだほうがいいんだ。
 11 私には、酒(あるいはタバコetc)さえあればいいんだ。あとは、どうでもいい。
 12 すべて○○(例えばアイツ)が悪いんだ。いつか仕返ししてやる。

 こういうセルフ・トークやそれに似たものが、毎日、心をめぐっていませんか?
 
 もし、そうだったら、落ち込まないほうが不思議くらいです。

 特に1から10は、自分で自分に意地悪をいっている。自分で自分をいじめている。自己虐待をしているのです。

 私はみなさんによくいうのですが、「自己虐待も虐待です。虐待は人権侵害です。たとえ自分のであっても、人権侵害はしてはいけないんです。人権を侵害するのは、やめましょう!」と。

 私たちは、基本的人権として、人からも自分からも虐待されない権利をもっているのではないでしょうか。

 だとしたら、自分の人権を尊重して、自分で自分にやさしくしなければならないのではありませんか?

 ネガティヴなセルフ・トークを見つけて、はっきりそれは自分への人権侵害であることに気づいて、自分にやさしいポジティヴなセルフ・トークと取り替えて、自分の人間としての健やかに生きる権利を尊重してあげることにしませんか。

 次回、取り替え方をお伝えしますが、その前に、自分でちょっとトライしてみてください。

 例えば、「私には、いいところなんて1つもない」に対しては、事実に基づいて徹底的に反論して、「そんなことはない! 私には、~といういいところもあるじゃないか。~といういいところもあるじゃなか……」と、ポジティヴなセルフ・トークをしてみると、きっと元気が出てくると思います。

人気blogランキングへ

↑ご協力の賜物で、ついに3位です。とてもうれしく、とても感謝です。
 たくさんの人を元気づけるメッセージが広がっています。さらに1クリックのご協力をお願いします。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認め合えば自信は深まる

2005年09月28日 | メンタル・ヘルス

 前までのところで、「自分で自分を認め、人を認め、そして人からも認められる」というのが、本当の自信を獲得するための、有効で確実な方法であることをお伝えしました。

 もう少し、定義風にいうと、「自信とは、自己承認と他者承認がバランスよくある状態である」(『生きる自信の心理学』39頁)ということになります。

 しかし自信喪失・落ち込み状態にあると、なかなか能動的に人を認めるということはできません。

 そこで、まず自分で自分を認めることから始めるのですが、さらにワークショップでは、次のようなワークを行なっていきます。

 参加者が2人ずつでペアになってもらい、お互いに自分で確認した自分の長所を相手に話します。

 これは、最初は恥ずかしがる人が多いのですが、何度もいうように技(わざ)ですから、わざとらしくてもいいから、わざわざやってくださいといって、やっていただきます。

 聞く側になった人は、相手が自分の長所・いいところはこういうところだと自己申告するのを、よく聞き、共感し、そしてそれを表現している言葉をしっかり覚えるように努力してもらいます。

 当然、6つ以上あがりますから、覚え切れないようなら、メモを取ってもらって、しっかり把握してもらうのです。

 これを相互に行なったら、次に、相手が自己申告したことと自分が発見したことを合わせて、その人をいいところをあげながら、徹底的にほめます。

 その人がうれしくて、恥ずかしくて、もう舞い上がりそうになるくらい、賞賛・絶賛のシャワーを浴びせてあげるのです。

 それからさらに、相手に自分の長所の中でも「特にこれが自分のいいところ、人から認めてほしいところ」と思っていることを聞き、そこをほめてあげます。

 私たちは誰でも、「ここをほめてほしい」と思っている、いわば「賞賛のツボ」があります。 

 そのツボを押されると、何とも快感なのです。

 ワークショップで、このワークをすると、みんな満面の笑み、大笑いになって、とても楽しい雰囲気になります。

 そして、ペア同士、参加者同士、みんな「認め合う」仲間になっていきます。

 このワークは、日常生活ではちょっと恥ずかしくてやりにくいかもしれませんが、親しい友達同士や恋人同士、家族同士で、あえてゲームとして、あるいは元気づけ合うためのわざとして、わざわざ、わざとらしくやれば、やってできないことはないでしょう。

 よかったら、ぜひ、やってみてください。

 それから、やはり、ワークショップに来て、ぜひ、グループの中で体験していただきたいと思います。

 これは、参加者の多くが「1度体験すると癖になる」というくらい人気のあるワークの1つです。

人気blogランキングへ

↑ご協力のおかげで、ついに4位になりました。昨日アクセスしてくださった方の数は2700を越しました。ほんとうにうれしいことです。
 よかったら、また、ぜひ1クリックして、たくさんの人を元気にするお手伝いをしてください。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変わるか変わらないかはあなたの自由です。

2005年09月26日 | メンタル・ヘルス

 自信のない状態から自信のある状態へ、元気のない状態から元気な状態へ変わるというのは、パーソナリティ(一般的な心理学用語)あるいはアイデンティティ(エリクソンの用語)あるいはライフスタイル(アドラーの用語)の大きな変化です。

 自信・元気がないのよりあるほうがいいと思うのですが、自信を獲得する方法をお伝えすると、かなり多くの方が、「できない、やりたくない」、「変われない、変わりたくない」という反応をされます。

 そういう反応をしたくなる気持ちは、とてもよくわかります。

 これまでの自分のスタイル-アイデンティティを変えるというのは、とても大変なことですからね。

 ですから、方法を学んだ上で、やらない・変わらないという結論を出すとしても、当然ながらそれはご本人の自由だと思います。

 私は、みなさんによくいうのですが、「強くお勧めはしますが、決して強制はしません」。もちろん、したくてもできませんしね。

 私は、心のあり方しだいで、ほとんどの人が今よりは幸福、かなり気が楽、いくらかでも耐えやすくなると考えていて、できるだけたくさんの人にそうなって欲しいという、頼まれもしない余計なお世話の心がありますので、とても残念でならないのですが、人間には心のあり方を変えないまま・不幸なままでいる権利もあるようです。それは、認めざるをえません。

 しかし、でも、けれど……です。そういう方に会った時、ちゃんとお気持ちをうかがった後で、いつもこんなふうに質問させていただきます。

 「お気持ちは、ご本人ほどわかるとはいいませんが、私なりによくわかる気がしますが……あえて聞きますけど、ずっと不幸なままでいたいですか?」

 「そんなわけないでしょう!」と怒りで反応される方も含め、私が接したかぎりではすべての方が、「いたくありません」、「なれるものなら、幸福になりたいです」といわれます。

 「では、変わるための方法をやってみませんか?」とお勧めすると、「それをやると自分が自分じゃなくなってしまう」といった答えが返ってきたりします。

 「それは、今までのような自分じゃなくなる、という意味ですよね? でも今までのような不幸な自分はいつまでも変わらない、変われない、本当の自分なんでしょうか? 自分って、小さい時から今までいろいろ変わってきたし、これからも変わっていくものなんじゃないでしょうか? それから、自分で変えることのできるものなんじゃないでしょうか?」と、問いながら、一緒に考えていきます。

 「不幸な自分が自分だからといって、不幸なままでいたいですか? それとも、幸せな自分に変わりたいですか? 〈自分〉の中には、不幸という感情を感じている部分だけではなく、不幸な自分を幸福な自分に変えようとする意思や力を持った部分、自分の核のような部分があるんじゃありませんか?」

 気がつくと不思議なことのようでもあり、当たり前のようでもあることですが、ある年齢になると人間には意思的な〈自己〉が出来てきます。

 その意思的な自己は、それまでの自分の状態を冷静に観察し、それを変えようとし、実行する力を持っているのです。

 「自分で自分を変える」というのは、そういうことです。

 私は、みなさんが「自分で自分を変える」ためのお手伝いをすることはできますが、「私があなたを変える」なんてことはできませんし、するつもりもありません。それでは、「洗脳」になりかねませんからね。

 それでも、「変わりたくないんです!」といわれる方がいます。

 「本当に変わりたくない場合は、変わらなくてもいいんです。でも、本当に変わりたくないのなら、なぜ、私の本を読んだり、ここに来られたりしたのでしょう?……もしかするとそれは、変わりたいという気持ちと変わりたくない気持ちがどちらもある、ということなんじゃありませんか?」と、私はお答えします。

 もしそうなら、ご自分の中で、「自分は本当には変わりたい=幸福になりたいのだろうか? それとも変わりたくない=不幸なままでいたいのだろうか?」と、どちらの気持ちがより重いのか、本当にはどうしたいのか、よく自問して、自分の本当の気持ちをはっきりさせて、それに素直になってください。

 「素直になりたくない、なれない!」というのも、もちろん自由です。

 それからもう1つ、こういう疑問もよくあります。

 「そんな簡単なことで変われるんですか?(そんなことでは変わらないんじゃないかと思うので、やりたくない)」。

 お答えは、「やってみてください。飲まない薬は効きませんからね」、「これまで、ちゃんと繰り返しやってくださった方の大多数――アンケート調査では約90%――が、多かれ少なかれ、いい方向に変わった、といってくださってます」。

 その場合、順番が大切です。

 すぐに人を認めよう・愛そうとしなくていいんです。そうしないほうがいいんです。

 それは、ガス欠で走ろうとするようなものです。

 まず、自分で自分をしっかり認めてあげましょう。

 心のエネルギー補給をしっかりやってください。

 「私ってダメなヤツ」とか「私ってイヤなヤツ」といったセルフ・トークを中止して、「私にもそれなりにできることやいいところがある」→「私にはできることやいいところがある」→「私っていいんじゃない?」というふうに、セルフ・トークを変えてみてください。

 それから、これは自分1人ではできないことで、相手が必要ですが、次回、「認め合いのワーク」というのもご紹介します。

 これは、体験した方はみんな口をそろえていうことですが、「とても効きます」、「元気になれます」。ご期待ください。

人気blogランキングへ

↑お陰さまで、5位になりました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強力な協力に感謝!

2005年09月25日 | メンタル・ヘルス

 ここのところ、人気ブログランキングで7位の壁を超えられない状態が続いていましたが、寝る前にのぞいたら、ついに6位になっていました。

 広く伝えたいというのが第1の願いで、順位はそれほどどうでもいいのですが、やはり1位になると、注目度が上がって広がるだろうということと、それからもちろんまだマナ識――深層の自我にこだわる心――が浄化されきっていませんから、つい競争心が働いて、なるべく上へという願望もあるので、ちょっとじりじりしていないこともありませんでした(←微妙な表現ですね)。

 よっし! 1段階ブレイク! 生きる自信のメッセージ、日本中に広がれっ!

 みなさんの強力な協力・支持、心から感謝しています。今後ともいっそうよろしくお願いします(なんだか、選挙演説風ですが)。

人気blogランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認められたかったら認めよう

2005年09月25日 | メンタル・ヘルス

 「比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです」といいました。

 これがしっかり実行できたら、かなりの程度「本当の自信」が身についてきたはずです。

 しかしこれは、原理はシンプルでも実際にはそれほどやさしくないと感じる方もかなりの割合でいるようです。

 それには主に2つの理由があるのではないでしょうか。

 まず第1は、競争社会に生まれ育ってまわりからあまりにも比較ばかりされてきたため、頑固な癖になっていて、なかなか比較をやめられない人が少なくないということです。

 しかしある程度の年齢になると、人間はだんだん自律性が高まってきますので、比較されることによってつけられた比較する癖に気づいたら、自分の意思で直す、あるいは別のよりよい癖をつけ直すことができるのです。

 よりよいものの見方が癖になるには、かなり意識的な繰り返しが必要です。

 意識的な繰り返しの努力が必要です。

 努力しないで癖が直せるといいのですが、そういう安易で便利な方法は残念ながら私は知りません。

 しかし努力すれば直せるというだけでも有り難いことだ、と私は思うのですが、いかがでしょうか?

 次に第2は、人間は生まれる時から父母との関係の中で生まれるのであって、自分で自分を生むことはできませんし、かなりの年齢になるまでは自分で自分を育てることもできないので、他者と関係なく自分の心を形成することはできないということです。

 父母などまわりの人から、ありのままの自分を認めてもらうことができず、親から見ていい子であるとか、能力があるとかいう条件づきでしか認められたことがないという人がたくさんいます。

 そしてさらに、まわりの要求する条件がなかったので、ほとんど認められなかったという残念な幼少期を過ごした人も少なくありません。

 他者からありのままの自分を認めてもらうという体験なしに、自分だけでありのままの自分を認めるというのは、幼い時にはほとんど誰にもできません。

 したがって、まわりに認めてもらえなかったので、自分を認められないまま・自信のないまま大人になったという人もかなり多いようです。

 しかし、非常に幸いなことに人間はある程度の年齢になると、自分だけでありのままの自分を認めようという意識的な決断をし、努力をすることもできるのです。

 「誰が認めなくても、私は私自身を認めるんだ!」と。

 そうはいっても自信を持って生きていくには、他者からの承認もできるだけあったほうがいいに決まっています。

 ここが決定的なポイントですが、ある程度の年齢になりちゃんと方法を学んだら、私たちは他者からの承認を勝ち取ることも十分に可能なのです。

 ただし、それには考え方の大転換が必要です。

 私たちは、子どもの頃はまず人から認められる・愛されることを求めますし、それは自然なことです。

 しかし、大人になったら、まず人を認める・愛することを先にすることもできるのです。

 私は、若者たちに、「これは、大人の鉄則です。人から認められたいのなら、まず人を認めなさい。愛されたかったら、まず愛しなさい」と伝えます。

 「人を認める」というと、「どうすればいいんだろう」と思う人もいるようです。

 それは、まず簡単なことから始まると思います。

 人に会った時、相手を認めていれば、当然、挨拶をするでしょう?

 それから、おそらく笑顔を向けるでしょう?

 時には話しかけるでしょうし、相手の話を聞くでしょう。

 好意や関心を示す言葉をかけたり、相手が話したがっていることをちゃんと聞くでしょう。

 相手が何を望んでいるかに気を配り、できるだけ希望に沿うよう努力するでしょう。

 こうしたことを自分の方から先にするように心がけると、私の経験では7、8割の人がちゃんと応えてくれます。

 挨拶には挨拶、笑顔には笑顔、言葉には言葉、行為には行為……。

 話をよく聞いてあげた相手は、こちらの話も聞いてくれます――ただし、これはちょっと割合が減りますけどね……。一方的に話すばかりの人もいますので。

 そして、それは覚悟しておいたほうがいいのは、してあげても、して返さない人も、一定の割合ではいるということです。

 しかし、幸いにしてちゃんと返す人の割合のほうが多いようです。

 だとしたら、大人になったら、人が認めてくれるのを待っていないで、こちらから人を認める言動を能動的にしていくことです。

 そうすると、かなりの頻度と程度で、相手もこちらを認める言動をしてくれるものです。

 こういう、認めることによって認められるという体験を重ねていると、だんだん「私は人から認められている」という感じを得ることができます。

 そして、自分で自分を認めることと人から認められることが繰り返されていくうちに、次第にゆるぎなき本当の自信が育っていくのです。

 さあ、ここで判断と決断をしましょう。

 子どものように、すねたり、ふてくされたり、落ち込んだりしながら、人が認めてくれて自信をつけてくれるのを待っているのと、大人になって、意識的・能動的に自分で自分を認め、人を認め、そして人からも認められるように行動していくのと、どちらが「本当の自信」への近道でしょうか?

 そして、あなたは、どちらの道を選択しますか?

 判断し、決断するのは、あなたです。


人気blogランキングへ

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナルシシズムは自信ではない

2005年09月24日 | メンタル・ヘルス

 さて、もう1つ、「本当の自信」ではないと私が考えているのは、「ナルシシズム」です。

 ご存知のとおり、「ナルシシズム」とは古代ギリシャの神話に出てくる美少年ナルキッソスの話にちなんで作られた心理学的な用語です。

 ナルキッソスは、実際に美しい少年で、ある日散歩していて、泉に映る姿があまりに美しいので自分に恋をしてしまい、他の少女に恋をすることができなくなったというのです。

 この、ナルキッソスの「ナルシシズム」の場合、「うぬぼれ」と違って、事実、彼は美しいのです。

 (これも言葉の使い方の問題ですが、私は事実の裏づけが薄弱なのを「うぬぼれ」、裏づけはあるのを「ナルシシズム」というふうに区別しています)。

 ですから、これは「自信」といってもいいかもしれません。

 しかし、人間の意識は自分だけでは成り立たないようにできています。

 かつて60年代から70年代にかけて、アメリカの心理学の世界で「感覚遮断実験」というのが行なわれたことがあります。

 ボランティアの学生や社会人に、光も音も匂いもなく暑くも寒くもない温度の部屋に入ってもらい、中にいる時間が長くなったら味のない飲み物・食べ物だけを摂ってもらう、というものでした。

 その結果、早い人ではもう数時間後には意識が朦朧として混濁しはじめ、何日も入っていた人は、大きなダメージを受け、正常な意識状態に戻るまでにそうとう時間がかかるということが明らかになったのです。

 つまり、意識はそれ自体で成り立っているのではなく、いつも外からの刺激があることによって維持されているということです。

 そして、「自信」というのはいうまでもなく意識の1つの状態ですから、他からの承認・評価という刺激が一切ない状況では、獲得-確立-維持することはとても難しいのです。

 なんだか、今までいってきたことと矛盾したことをいっているように思われるかもしれませんが、そうではありません。

 戦後日本では、人から今の社会のものさしだけで比較して量られて、自信を失うということになりがちなので、自信を回復あるいは獲得するための技術的な手順として、いったん比較をやめて、事実そのものに目を向け集中することをお勧めしただけで、他からの承認・評価をまったく無視しようとか、無視できるとかいったわけではありません。

 それどころか、「本当の自信」つまりゆらぐことのない自信を得るには、できれば、できるだけ、他者からの承認・評価も得たほうがいいのです。

 ところが、「ナルシシズム」状態の人=ナルシストの場合、自分で自分を認めているのはいいのですが、他の人の能力や価値にはほとんど関心を示しません。

 その人がすごい美人や美男であるとか、すごい才能があるとかだと、最初は多くの人がその人を評価し、誉めそやしたりします。

 しかし、自分だけ認めてこちらは認めてくれない人と長く付き合うと、ほとんど法則的に嫌になってくるのではありませんか?

 ナルシストと長くつきあうと、たいていの人がうんざりしてくるようです。

 つまり、最初はその人のすばらしいところを認めていたのですが、だんだんその人そのものは好きじゃなくなる、つまり認めたくなくなるのです。

 つまり、ナルシストは他者からの持続的な評価を受けることがとても難しいので、自分だけで自分を認める努力を続けなければならないことになり、とても疲れるのではないでしょうか。

 さらに、人からの評価を受けられなくなることに対する不安をいつも心の奥に抱えることになると思われます。

 さらに加えて、例えば美しさや才能は、事実今はあったとしても、人間は変化し老いていきますから、ナルシストはナルシシズムであるためのネタをいずれ失うかもしれないという意味でも、どこかに不安を抱えているようです。

 そして、傲慢な人とおなじく、不安を抑圧するために力まなくてはならなくなるのです。

 心の奥に不安を抱え、力まなくてはならないような自信・ナルシシズムも、ふつうの意味でいえば自信の一種でしょうが、私の定義する「本当の自信」ではありません。

 さて、ここまでで、優越感、傲慢、うぬぼれ、ナルシシズムと本当の自信との違いがどこにあるかがはっきりしたと思います。

 しかし、実際の人間の心は、こんなにすっぱりと分析・整理できるものではなく、それぞれの要素が入り混じったりしています。

 ただ、こういうふうに整理して考えておくと、「本当の自信」を自分のものにしていく上で、よぶんな混乱を避けることができると思うので、あえて整理してお話ししたわけです。

 自分のことを振り返るためのヒントだと思ってください。

人気blogランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うぬぼれは自信ではない

2005年09月23日 | メンタル・ヘルス

 さて、もう1つ自信と混同されがちなのが「うぬぼれ」です。「ひとりよがり」と言い換えてもいいでしょう。

 「うぬぼれ」は漢字で書くと「自惚れ」で、自分で自分に惚れ込んでうっとりしている状態です。

 「ひとりよがり」とは、まさに言葉のとおり、自分ひとりで勝手にいい気になっている状態のことです。

 うぬぼれ・ひとりよがりは、人から見ても確かにそうだなと思える事実に基づいていないのが特徴です。

 いちばんよくわかる例は、けっこうよくあるケースですが、カラオケで歌がちっともうまくないのにマイクを独り占めして独りよがりで歌い続けている人がいます。

 もちろん自分ではうまいと「うぬぼれ」ているんですね。

 でも、事実はうまくない。

 もちろん、誰もその人が歌がうまいとは認めていませんし、そういううぬぼれ状態を心よく思ってはいません。

 これは、とてもはた迷惑で、かつとてもみっともなく恥ずかしい状態だと思うのですが、本人は気づいていないのです。

 こういう状態も、本人はいいと思っているのだから「自信」の1種だといえないこともありませんが、私は、「本当の自信」とはいえないと思うのですが、いかがでしょうか?

 「本当の自信」は、ゆるぎない事実に基づいている必要がありますし、かつできるだけ人から見てもそのとおりであることが望ましい、と思います。

 実は、そういう「本当の自信」があれば、優越感に浸ったり、傲慢になったり、うぬぼれ・ひとりよがりをする必要がなくなるのです。

 *さて、ここでネット学生のみなさんにお断りですが、昨日から実際の大学の後期授業が始まりました。それにしても、長い長い夏休みでした。
 これから、かなり忙しくなるので、これまでのような頻度で記事を更新するのが少しむずかしいかもしれません。
 たくさんの方に元気が出るメッセージを伝えたいので、できるだけの努力は続けるつもりですが、そこのところを予めご理解いただけると幸いです。

人気blogランキングへ

↑できるだけたくさんの人に知っていただきたくて、ランキングに登録しています。よかったら、1クリックして協力してください。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傲慢は自信ではない

2005年09月22日 | メンタル・ヘルス
人気blogランキングへ

 「本当の自信」は、他人と比較して上か下かという相対的な「自分」ではなく、比較することのできない絶対的な「自分そのもの」を認めた時に確立する、と私は考えています。

 授業でそういう話をしていたら、「それは、ナンバー・ワンじゃなくてもいい、オンリー・ワンになろう、ということですね」といった学生がいましたが、そう、そういうことです。

 ある学生はこういう感想文を書いてくれました、「僕は僕であることについては誰にも負けない」と。

 「負けない」と表現するところに、まだ比較癖が残っているけれども、かなりいいところまで来たなと喜んだことです。

 しかし、世の中にはそういうのではない自信を持っている人がたくさんいるようです。

 「自信たっぷり」、「自信満々」、「自信過剰」、「傲慢」……。

 しかし、「傲慢」は「本当の自信」ではありません。

 「傲慢」とは、自分がある特定のことについて一定の優越性を持っていることだけに心が集中し、さらに固着・硬直して、優れているのは特定のことについてだけであることや、一定程度にすぎないことを無視して、ひたすら自分の優越感を感じ、優越性を人に誇示するような態度のことですね。
 
 そういう硬直しひずみのある優越感が性格として固定してしまっているのを「傲慢な人」といいます。

 しかし私の見てきたかぎり、そういう傲慢な人も、心のどこか――意識と無意識の境のあたり――で、自分の優越性が本当は相対的なものにすぎないことを知っています。

 そして、だから、それが時と場合では劣等感に転落してしまいかねないことも知っているようです。

 そのために、傲慢な人は心の奥のほうで不安を抱えていると思われます。

 しかし、不安を意識化すると、それこそゆらいでしまいますから、意識しないように、心の中で抑圧しているのです。

 感情は必ずエネルギーを伴っているので、抑圧するには力が必要です。

 そしてまた、不安な自分を人に知られるのは、自分の弱みを見せることで、劣等性に陥ると思っています。

 だから、傲慢な人は、自分の中でも、人に対しても、力まなければならなくなります。

 事実ありのままに・自然にゆるぐことのない自信があるのではなく、必死に力みながら自信があるつもり、自信がある風を装っているのです。

 しかも、自信というのは、事実として自分に与えられているものを自覚するのがポイントですが、やはり他から認めてもらえたほうが確立しやすいことも確かです。

 ところが、傲慢な人は、ほとんど法則的に人に嫌われます。……「傲慢な人が好き」という方はいませんよね?

 もちろん、その人にお金や地位や権力があるために、ゴマをする人はいるでしょう。

 しかし、それが本当にその人を尊敬したり愛したりしているのではなく、お世辞や追従にすぎないことは、本人も心のどこかで知っています。

 本当は嫌われている(のかもしれない)と思いながら、「オレに力があるかぎり、人はおれにお愛想をふりまいて、ついてくる。嫌でも認めざるをえないんだ」と一所懸命力んでいるというパーソナリティの状態は、哀れでもあり、また人迷惑でもある、と思いませんか?

 そういう心の奥に不安を抱えて力んでいる、哀れで人迷惑な状態・傲慢さを、私は「本当の自信」とは定義しないのです。

 私たちが、「自信過剰」だなと感じるのは、自信がほんものでなく、そういう「傲慢さ」に陥りつつある途中の状態のことなのではないでしょうか。

  「本当の自信」は、事実にぴったり合った心の状態ですから、「不足」にも「過剰」にもなることなく、いつも「適切」なのだと思うのです。
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする