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優越感は自信ではない

2005年09月21日 | メンタル・ヘルス
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 さて、このあたりまで講義が進んでくると、必ずといっていいくらい出てくる疑問があります。

 ネット学生のみなさんも、たぶんおなじような疑問が湧いていると思いますので、それに答えていきましょう。

 まず①は、「能力や長所が少ししかないのに、自信なんか持てるんだろうか、持っていいんだろうか?」というものです。

 こういう疑問の裏には、「人と比べてものすごく優れていなければ、自信を持つことはできない」という考え方があると思われます。

 すでにお話ししてきたように、私たちは競争社会に生きていますから、どうしても人より優れていることが価値だと思いがちです。

 そして、自分が人より優れていると思っている状態、つまり「優越感」が「自信」だと思いちがい・混同しているのです。

 思いちがいといいましたが、言葉は定義しだいでいろいろな意味を持たせることができますから、「優越感=自信」と定義してもいけなくはありません。

 しかし、私は、「優越感」は「本当の自信」ではない、と定義しています。

 優越感というのは、他と自分を比較して自分が優越しているという気持ちですから、比較が前提になっています。

 したがって、もし比較して劣っていたら、劣等感を感じざるをえないということになります。

 つまり、優越感と劣等感は裏表なのです。

 そして、世界で一番でないかぎり、自分より下を見ると優越感を感じることができても、自分より上は必ずいますから、その人に対しては劣等感を感じざるをえません。

 「高校の時は成績が上位で自信があったのに、大学に来たら自分よりできるのがたくさんいて、自信を失った」という学生がよくいますが、私は、「それは、優越感が劣等感になったということだよね?」と問いかけ、優越感と自信のちがいの話をしていきます。

 さらに、あらゆる分野で世界一という人はありえませんから、自分にできることが評価される場面では優越感を感じられても、自分にできないことが評価される場面に行ったら、とたんに劣等感を感じなければならなくなります。

 例えば、頭はいいけれどスポーツは苦手という人は、頭のいいことが評価されるグループでは優越感を感じることができるのですが、スポーツができないとバカにされるようなグループに入ると、とたんに劣等感を感じさせられることになります。

 そういう、こちらでは優越感を感じても、あちらでは劣等感になるというふうに、ゆらいでしまう「自信」は、私の定義では「本当の自信」ではありません。

 「本当の自信」とはゆるぐことのない自信でなければならない、と思うのです。

 さてでは、そんな「自信」を得ることなんてできるのか? できる、というのが私の授業で伝えたいことです。

 まず、比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです。

 といっても、比較しておいては「オレってダメだな」とセルフ・トークする癖があまりに強くついていると、すぐに事実が見えなくなって、気持ちがゆらいでしましがちですから、いつも事実を見る癖をつけ直す必要があるわけですが……。

 だいじょうぶです、ついた癖なら、つけ直すことも可能です!
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5つの質問のコメント

2005年09月20日 | メンタル・ヘルス

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 5つの質問、してみましたか?

 する気にならなかった方と、あまりうまくいかなかった方のためにちょっとコメントをしておきましょう。

 ①は、まさにどんなにささやかなことでもいいんです。例えば、今朝はちゃんと起きて学校に間に合ったとか、レポートを期限どおりに出せたとか、アルバイト先でちゃんと仕事をこなせたとか……。

 ネガティヴなセルフ・トークによくあるのですが、「私は何をやってもダメだ。すべてうまくいかない」というのは、まったく事実に反しているし、自分を落ち込ませるだけで、とても損なセリフです。

 何かはうまくやれている、それどころかかなりのことがうまくやれているから生きているんです。

 「すべてうまくいかない」のが事実なら、もうとっくに死んでしまっています。

 誰も頼んでいないのに、自分で自分を落ち込ませるような事実に反したセルフ・トークをするのは、もそろそろおしまいにしましょう。

 特に②と③はすでに練習してありますから、楽勝!ですね。

 もし、楽勝でなかったら、もう1度練習してみてください。

 そして、手帳やカードに自分のできること・いいところをちゃんと書き出して、いつでも見直せるようにしておくのも、1つのいいテクニックです。

 落ち込んできた時、それを見て、「そうか、私にはこんなにもできること・いいところがあったんだ」と心の向きを変えましょう。

 ④について、「愛」ということばが照れくさかったり、大げさすぎると感じたりしたら、「心にかけていてくれる」とか「好意をもっていてくれる」と言い換えてもかまいません。

 もし万一、「誰にも愛されてない」というセルフ・トークがめぐっている人がいたら、ぜひ、自分に「ほんとうにそうか? 私は世界中の人から憎まれているのか? 挨拶しても誰も返事してくれないのか? 笑顔を向けても1度も笑顔が返ってきたことがないのか?」と自問してみてください。

 たぶん、ほんのちょっとかもしれないけれど、あなたに挨拶をしてくれたり、笑顔を向けてくれたりする人の1人は2人はいるはずです。

 そういうのを何と呼びますか? そう「好意」です。

 誰からもどんなにわずかの好意も示されない人は、世界には1人もいない、と私は思いますが、どうでしょう?

 ゴータマ・ブッダの言葉に、「この世に誰からも愛されない人は1人もいない。誰からも愛される人も1人もいない」というのがあります。本当にそうだと思います。

 最後の、感謝ということですが、いろいろ不満があったり、腹が立っていたりして、「何に感謝しろっていうんだ」という気分の方もあるかもしれません。

 その場合は、この段階では無理にお勧めしませんが、ちょっとだけ考えてみてください。

 自分の気もちの問題として、不満に思っていたり、腹を立てていたりすると、いい気持ちですか?

 まあ、不満や怒りを爆発させると、そのときだけはすっとしたような気持ちになるということはありますが、その結果はあまりいいことにならないと思いますし、まあ、ふつう不満や怒りを抱えていると、とても不愉快だと思うのですが、いかがですか?

 そうすると、よく考えると、不満や怒りは気持ちとしては不快であり、不快だということは、損をしているということになりませんか?

 無理やりさせられる場合を除き、感謝している時、自分の心は暖かになっていて、いい気持ちです。

 語呂合わせでよく言うのですが、「感情の損得を勘定すると、不満や恨みや怒りよりも、感謝のほうが明らかに得ではありませんか?」と。

 ならば、得なほうを選択しませんか?

 まあでも、特別感謝できることが思い浮かばない方は、①から④まででもかまいません。やってみてください。

 実行した方のほとんどがいいます。「こんなことで気分が変わるのかと思ったんですが、やってみるとけっこう変わりますね」と。

 毎度の決まり文句、「読むとするとでは大違い」。 
 
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心を明るくする5つの質問

2005年09月19日 | メンタル・ヘルス

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 おなじ事実でも、見方によってまるでちがって見える、ということをお話ししてきました。まとめてみましょう。

 ①まず、事実は「ある」にもかかわらず、目を閉ざしていると見えず、目を開ければ見えるということです。

 ②次に、事実はあり、目を開けていても、ある方向に向いていなければ見えず、その方向に向けば見えるということです。

 ③さらに、事実はあり、目を開けて、その方向を見ていても、遠ざけていれば小さく見え、近づければ大きく見えるということです。

 そこで、本当の自信を得るための技として、目を開け、そちらを向き、集中して見るためのワークをご紹介しました。

 もう1つ追加のワークをしてみましょう。

 これは女性にやっていただくと、あまりお行儀がよくないのですが、あくまでも技として、あまり目立たないところでそっとやってみてください。

 まず足を大きく開いて立ちます。

 そして目の前に見える景色や物を見ます。

 続いて、後ろ向きになり、体を前に倒して、開いた足の間から、さっきの景色や物を見てください。

 どう見えますか?

 「逆さまに見える」、「ひっくり返って見える」、そうですね。

 小さい頃遊びとしてやったことのある方は多いでしょう。

 でも、これには遊び以上の意味があると思います。

 さて、「ものが逆さまに見える」わけですが、それは「ものが逆さま」なのでしょうか、「見方が逆さま」なのでしょうか?

 もちろん、見方が逆さまなのであって、ものが逆さまになっているわけではありませんね(相対性理論でいうとちょっと別の話もできますが)。

 見えている世界=視界が逆さまであることは、事実として世界が逆さまであることではありません。

 この場合、正立した状態を見たかったらどうしたらいいんでしょう?

 そうです。逆さまになっている自分の頭を正立させればいいんですね。

 「自分には何もできない、いいところは1つもない」とか、「人生には意味がない」とか、「世の中は真っ暗だ」とか、とても悲観的・ネガティヴな見方になっている時、実は心の目が閉じているか、見る方向がちがっているか、あまりにも遠ざけているか、あるいは逆さまになっているか、そのどれか、そのぜんぶかもしれません。

 そして、とても幸いなことに、事実がネガティヴなのではなく見方がネガティヴになっているだけなら、練習すれば直すことができます。

 とはいっても、長く続いてきた癖になっている場合、直すのに手間暇は少しかかりますが。

 では、もう1つ、損な癖を得な癖を直して、新しい癖をつけるためのワークをご紹介しましょう。

 まず、深い呼吸をして、それから体を意識的にほぐしてリラックスしてください。

 それから、ゆっくりと、次の質問を自分にしてください。

 ①(比較はやめよう。どんなに小さくてもいい)最近私が成功したこと、うまくできたことは何だろう?

 ②(どんなに小さくてもいい)自分にはどんなことができるだろう、どんな能力があるだろう?

 ③(どんなに小さくてもいい)自分にはどんないいところ・長所があるだろう?

 ④(すごくかどうかはいい)私は誰を愛していて、誰に愛されているだろう?

 ⑤(どんなにわずかでもいい)私は何に感謝できるだろう?

 この問いをすると、自然に心が人生のポジティヴな面に向くのではないでしょうか?

 「こんなことで……」といわないで、やってみてください。

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見える大きさは見る距離で変わる

2005年09月16日 | メンタル・ヘルス

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 さて、ここまでで、自分に事実ある能力と長所・価値をちゃんと認めるというワークをやってきました。

 これで、かなり自己承認=自信がついてきたのではないかと思います。

しかし、それでもまだ「確かに少しくらいならできることやいいところはあるけど、大したことないし、そんなことで自信を持ったら、なんか独りよがりみたいでカッコ悪いじゃないか?」と思っている方もいるかもしれません。

 ここまで来たら、「独りよがりではいけない」とか「カッコ悪い」とかいうのは、「走らなきゃ車じゃない。スタンドで給油のために停まっていたり、修理のために工場に入ったりするのは許されない」といっているのに似ていると気づいていただけますね?

 それでもまだ、「少しくらいなら……あるけど、大したことない」という気分は残るかもしれません。

 もう一つ、そういう気分を解消する技をやってみましょう。これは、「わざ」です。

 「十円玉のワーク」といいますが、まず、手元に十円玉を用意してください。

 それを右手の親指を人差し指ではさんで、左目を閉じて、右目で見てください。

 まず、30センチくらいの距離で、その大きさをよく感じてみましょう。

 それからゆっくりとひじを伸ばして目から離していきます。

 さあ、見える大きさはどうなったでしょう? 当然、小さくなりましたね。

 でも、それは小さくなったんですか?

 そうではありませんね。見え方が小さくなっただけで、実際の大きさは変わっていないんですよね?

 でも、小さくなったように見えた。

 さあ、勘のいいみなさんは、もうわかってきたかもしれませんが、「考えるとするとでは大違い」なのです。

 続けてやってみましょう。

 今度は十円玉をゆっくりと目に近づけていきます。

 十円玉は、どんどん大きく見えてきますね。

 目のそばまで持ってくると、まるで世界が十円玉でいっぱいのような気がしてきます。

 つまり「視界」がいっぱいになると「世界」がそれでいっぱいのような気がする、というのが人間の視覚の法則です。

 そして、心にもその法則はほとんどそのまま当てはまるのです。

 さあ、直観力や洞察力のあるみなさん、このワークは何を目指しているのでしょう。

 そうです。自分の能力や長所を集中的に見て、自分にはものすごく大きな――まるで世界中(つまり視界)いっぱいになるくらいの能力と長所がある、という気持ちになることを目指しているのです。

 でも、たくさんの人がこの逆をやっています。

 自分のできないことやダメなところに目を集中して、その結果、当然ながら落ち込んでいるのです。

 とても損なことをしていますね。

 気持ちはよくわかります。私もかつてやっていましたから。

 でも、考えて見ましょう。

 いいところに目を向けているのと、悪いところに目を向けているのと、どちらが元気になりますか?

 いいところですよね。

 では、元気があるのと元気がないのと、どちらが悪いところを改善できる可能性が大きくなりますか?

 もちろん、元気があるほうですね。

 では、「視界」がいっぱいになると「世界」がそれでいっぱいのような気がする、というのが人間の視覚の法則です。

 では、まず自分の能力や長所を集中的に見て、自分を認め、ほめてあげて、元気になって、その後で、もし余力ができたら、悪いところも改善することにしませんか?

 フルスピードで走るのは、ガソリンを入れてからにしよう!

 これは、何千人もの若者や社会人を指導してきて、ほぼ90%以上の確率で、有効だと思う手順です。

 たまに、自分の悪いところを集中的に見て、「オレはダメだ、ダメだ」とネガティヴなセルフ・トークを連発して、それで自分を叱咤激励して奮起する人もいますが(このタイプも昔は割に多かったのですが)、時間と労力の点から見て、あまり効率的ではないようです。

 なので、よかったら、まず自分の能力や長所を発見して、評価して、自分に絶賛のセルフ・トークをしてあげてみませんか? 

 「すごい! おまえはすごくがんばってる! おまえの努力はすばらしいぞ!」といったふうに。

 もちろん、叱咤激励が効く方は、それでやっていただいてけっこうです。
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あなたには両手に余る長所がある!

2005年09月15日 | メンタル・ヘルス
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 たくさんの人に元気になっていただきたいと思って登録した人気ブログランキング、今朝、第9位になっていました。

 みなさんのご協力、改めて心から感謝します。

 実際の大学での授業でも、たくさんの落ち込んでいた学生が元気になってくれます。

 授業が始まって間もなく、「死にたい」と訴えてきた学生が、もう前期の終わり頃には、目が輝いて、生き生きと生きはじめてくれたりします。

 このネット授業も、たくさんの人に読んでいただき、たくさんの人を元気にできればと願っています。

 続けて、ご協力いただける方は、上のタグ(というのかな?)、クリックをお願いします。

                 *
  
 さて、お礼とサービスに、まちがいなくあるあなたの長所、いくつか追加しておきましょう。

 あなたがこのブログを見て、「これいいんじゃない?」と思ったとすると、それはすばらしい「直観力」。当たり、です!

 そして、「確かにこれは役に立つ」と判断した。的確な「判断力」があります。

 読み続けようと決めた。「決断力」があります。

 一所懸命、自己成長・自己改善の努力をしている。あなたは、「真面目」です。

 「人から、クソ真面目といわれるんです」とか「真面目すぎるといわれてます」とかいう人、「クソ」も「すぎる」も取りましょう。

 それは人の評価・社会的評価ですよ。ガソリン・スタンドで車を走らせるような危険なまねはやめてください!

 事実としていえば、クソだろうがすぎようが、「真面目は真面目」ではありませんか?

 「真面目」というのは、人生の大切な事に真直ぐに顔と目を向けているという意味です。それは、どう考えても長所です。

 70年代以降、日本の若者風俗的な世界では、ニヒリズムと快楽主義から派生した不真面目文化が氾濫し、まるで不真面目が価値で、真面目は価値ではないかのような錯覚が横行していますが、ちゃんと考えてみればわかりきったことで、真面目さはとても重要な人格的価値です。

 さあ、これで、あなたには両手いっぱいの長所があることがわかりました。

 自分で1つでも発見したら、両手に余るいいところがあることになるんです。

 能力のワークと併せて、もう、「私は何もできないんです、いいところは1つもありません」とか「私には何の能力も価値もない」とか、いわないでしょうね?

 ネット上ではそこまでいいにくいのですが、ワークショップに参加して直接接した方には、ユーモアを込めて、「このワークショップに参加した以上、今後、もうそんなウソ――つまり事実に反すること――はいわせないよ!」と宣言します。

 最後にセルフ・トーク。「私には、たくさんの能力や長所がある!」と、力強くいってみてください。
 
 人のいないところなら、声に出して、ちょっと恥ずかしかったら、心の中で、叫ぶくらいの強さで、自分に言い聞かせましょう。

 「きみには、両手に余るほどできること・いいところがある! 自信持っていいんだよ!」と。
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認めると伸びる

2005年09月14日 | メンタル・ヘルス

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 人間の能力や長所には、「あると認めると、ただあるだけではなく、さらに伸びてくる」という法則があります。

 逆にいうと、「ないと思っていると、あるものまでしぼんでいく」ということです。

 もしかすると落ち込み癖のあるあなたは、「少ない=ない」と思い違いをして、自分に事実としてある能力や長所を認めず、その結果しぼませてしまうという、とても損なことをやっていたのではないでしょうか。


 さらに、ここまで読んでこられた方、あなたには人生にとって大切な事柄を理解する力・「理解力」があります。

 「まるでわけわかんない」と思った方は、ここまで読み続けたりしていないでしょうからね。持続したことは、あなたに理解力がある証拠です。

 さて、持続する力のことは何というでしょう? そう、「持続力」です。ここまで、読み続けたあなたには、まちがいなく「持続力」があります。

 「え、オレはいつも飽きっぽい、根気がないと人からいわれているのに」という方、人がどういっているかということ、つまり社会的評価はいったん脇に置きませんか?

 あなたには、飽きっぽい面もあるかもしれません。しかし、事実、持続しているのですから、「持続力」もあるわけです。

 さあ、どちらの面を見るほうが元気になりそうですか? 元気になるのと元気をなくすのと、どちらが好きですか? 選ぶのはあなたです!

 ここでコメントを1つ。

 今やっていることは、心を改善するためのテクニック・技(わざ)です。

 自分を元気にするため、本当の自信を得るために、ふつうのこと=社会的な慣習の中で行われていることではなく、ちょっとちがうこと=わざをわざわざやっているわけです。

 なるべく、今は社会的評価のことは忘れましょう。

 それでも気になる方のために、コメントをもう1つ。

 自分に能力や長所があると思うのとないと思うのと、どちらが元気になりますか?

 当然、あると思うほうですね。

 では、元気があるのとないのと、どちらが社会の中に出た時、評価されるような言動ができやすいですか?

 そうです。元気なほうが社会に出ても元気に活動して、評価を受けることのできる可能性が高まります。

 喩えていうと、車のガソリンが切れている時に、いくら「走れ、ポンコツ車! 車のくせに走れないなんて、お前には何の価値もない!」とののしってみても、車は走らないようなものです。

 そういう場合、どうしますか?

 いったん走るのは止めて、ガソリン・スタンドへ行って、給油しますよね。

 「生きる自信の心理学」のワークは、給油のようなもの、つまり生きるエネルギーとしての「自信」を補給するために、いったん心理的に社会から少し離れるということなのです。

 ガソリン・スタンドにいる間は、車は走ることはできません、走らなくててもいい、それどころか走ったらすごく危険ですよね? 走ってはいけないのです。

 さて元に戻りましょう。

 あなたには、「好奇心」、「積極性」、「行動力」、「理解力」、「持続力」がありました。もうこれで5つです。

 あと1つは自分で発見していただくといいのですが、でも、「いいところは1つもない」と思っていた方のために、もう少しお手伝いします。

 さて、あなたは、そもそもなぜ、こんなブログなんか読んでいるでしょう?

 今日初めてという人は、単なる「好奇心」だけかもしれませんが、続けて読んでいる方は、自分をよりよくしたいという気持ちがあって、その参考になるかもしれないと思って読んでいるのではありませんか?

 だとしたら、あなたにはまぎれもなく「向上心」があります。

 「向上心」・自己改善意欲というのは、長所を伸ばていくことのできる長所で、長所の中でも最高といってもいいくらいの長所です。

 もう1度、あなたには「向上心」がある! ならば、きっと向上できる!

 さあ、これで、事実としてあなたには6つ長所があることを発見しました。

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あなたには6つ以上長所がある!

2005年09月13日 | メンタル・ヘルス
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 自分のいいところ・長所を6つ以上、見つけ出すことができましたか?

 できた方、おめでとう! できなかった方、残念ですね。

   これまで教えた学生のかなりの数(これはちゃんとした数値で把握していないのですが)が、6つ以上書けませんでした。

 それどころか、能力とおなじく1つも書けないという学生も相当数いました。

 それは、「自分には何のいいとこもない」と思っているということで、それでは自信喪失になって当然ですね。

 でも、落ち込み癖のある方、自信喪失状態の方、だいじょうぶです!

 自信喪失から立ち直る、落ち込み癖を直す方法はあります。

 これから引き続いて、その方法をお伝えしていきますが、これはあなたが実行するための方法であって、知っただけでは効果がありません。ぜひ、実行してください。

 私はよくいいます、「飲まない薬は効きません」と。

 方法があっても実行しなければ、効果は出てこないのです。

 では、あなたにまちがいなく「ある」いいところ・長所について、発見のお手伝いをしましょう。

 あなたは、事実、この記事を読んでいますね? それは、まず「好奇心」がある証拠です。

 「好奇心」とは、「奇妙なものを好む心」ともいえますが、「新奇なものを好む心」でもあります。

 新しいものは一見奇妙に見えることがありますが、だからといって避けていては新しいものをつかむことはできません。

 成長や進歩には、必ず好奇心が必要です。

 成長や進歩に必要な好奇心がある、それはまちがいなくあなたの長所です。

 さらに、あなたがこの新奇な授業のブログを見つけて読んでいることは、あなたの「積極性」の証拠です。

 「え、私に積極性が? いつも消極的・引っ込み思案だといわれるのに」という方、ここでも比較はやめましょう。

 何もしないで引っ込んでいるだけでは、探して、見つけることはできません。人と比べた程度はどうであれ、どんなにわずかでも、あったから、探したんですよね? 

 だったら、事実に基づいて「私には積極性がある」と認めてあげましょう。

 さらに、あなたには「行動力」があります。探して、見つけて、読んで……というのは、すべて「行動」です。それをやっている以上、あなたには行動力があるのです。

 人間は、「動物」つまり動く物です。行動することは、人間らしく生き生きと生きるための必須条件です。

 そういう人間にとってとても大切な「行動する力」が、あなたにはありました。

 もちろん、あなたより行動力のある人はたくさんいるでしょう。でも、それはあなたに行動力がないということではありません。比べると「少ない」だけで、「ない」んじゃありませんね。

 だったら、事実に基づいて「私には行動力がある」とセルフ・トークしてみてください。少し行動する元気が湧いてくるような気がしませんか?
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心の目の向きを変える 続

2005年09月12日 | メンタル・ヘルス
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 さて、私たちが今暗い面を見ているとして、明るい面を見たかったら、どうしたらいいんでしょう?

 「そちらを見る」、「そちらを向く」、そのとおりです!

 では、ぜひ、読むだけでなく、実際にやってみてください。(「読むとやるとでは大違い!」

 暗いほうをしっかり見ておいて、それからはっきり意識的に、明るいほうに向きましょう。

 できましたね?

 さあここで、セルフ・トークです。「私は、見る向きを変えて、明るいほうを見ることができる!」と。実際、できたんですからね。

 180度回転すると、「視界」にはまるで別のものが入ってきます。

 私たちはともすると「視界」=「世界」だと思いがちです。しばしば、今見えていることがすべてだという気がするのです。

 でも、それはちがうんでしたね?

 ではさらに続けましょう。

 あなたは、明るいものを見るのと暗いものを見るのと、どちらが明るい気分になりますか?

 もちろん、明るいものですよね?

 では、あなたは明るい気分と暗い気分とどちらが好きですか?

 たぶん、明るい気分でしょう(例外として、ひどく落ち込んでいて暗い気分でいたい、そのほうが好きという場合や期間はあるでしょうが)。

 では、どうすればいいでしょう?

 そうです、当たり! 明るいほう・明るいものを見ればいいんです。

 またまたここで、「そんなこといったって……」という声が上がりそうですね。「私のまわりは暗い話ばかり」、「いいこと何もない」、「私にはいいとこなんかない」……と。

 本当に、「ばかり」、「何もない」、「なんかない」んですか?

 そういう面がある、そういう面ばかり見えている、そういう面ばかり見ている、というのが事実なんじゃないでしょうか?

 もし、あなたが「今は暗い気分のままでいたい」のなら止めませんが、でも、よかったら、自分の、人生の、世界の明るい面に向いて、そちらを見てはいかがでしょうか?

 心の目は体の目とちがって、ふだん訓練していないので、それほど自由自在に向きを変えることができません。

 暗い面を見る癖がついていると、そちらばかり見て、「自分には、人生には、世界には明るい面などない」と思ってしまいがちです。

 私は、そういうものを見る方向の癖を「落ち込み癖」と呼んでいます。

 落ち込み癖があるなと思うみなさん、落ち込むのがお好きなのですか?

 たぶんそうじゃないですよね。だったら、癖を直しましょう。

 癖を直すのは、すごく楽にはできませんが、大丈夫、努力すればできます!

 では、そのためのワーク、「私の長所のリスト作り」というのをやってみましょう。

 あなたにはどんないいところがありますか? あなたの長所はどういうところですか?6つ以上、ノートに書き出してください。

*「なぜ、6つ以上なのか?」と疑問をもたれた方のためにコメントを。それは、「片手に余る」という意味です。自分には片手に余るほどの能力や長所があることに気づいたら、もう自信喪失してはいられなくなるでしょう?

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心の目の向きを変える

2005年09月11日 | メンタル・ヘルス
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 では続いて、「180度回転のワーク」というのをやってみましょう。

 できれば、一方は光と緑でいっぱいの明るい窓辺、もう一方はあまりぱっとしない暗い壁という部屋でやっていただくといいのですが……。

 そうでない場合は、ヴァーチャルで、添付した写真をコピーでもして、パソコン画面に置いてください。

 そして、まず窓(またはパソコンの写真)のほうを向きます。何が見えますか?

 明るい空や白い雲や緑の木々などなど、ですね?

 そこには、事実、確かに明るい世界が見えますね? 

そのことを意識的にしっかり確認しておいてください。「事実、明るい世界はある」と。

 では、壁(またはパソコン画面の反対)のほうを向いてください。何が見えますか?

 あまりさえているとはいえない暗い壁(または部屋の別の面)ですね。

 見えているのは暗い面で、明るい面は見えなくなりました。

 さて、ここがまたポイントです。

 「明るい面は見えない」、で、それは「ない」んでしょうか? 

 もちろん、「ある」んですね? 「ある」けれども「見えない」、「見えない」けれども「ある」わけです。

 「ある」のに「見えない」、それはなぜですか?

 「そんなつまらないことを聞かないでほしい」、「当たり前だろ」と思うかもしれませんが、こうしたことが重要です。

 私たちは、ごく当たり前のことに関して、あまりにも「当たり前だ」と思っているために、よく注意していない、だから本当にはわかっていないということが、しばしばあるのです。

 では、ごく単純に、小学生になったつもりで、答えてみてください。

 あるのに見えないのは、なぜでしょう?

 「壁のほうを見ているから」、「壁に向いているから」、「見てないから」、「そちらを見ていないから」……みんな正解です。

 時々、「後ろに目がついていないから」という、とても楽しい正解もあります。

 が、私がいちばんいってほしかった正解は、「そちらを向いていないから」というものです。

 人間の目は――体の目も心の目も――一時にすべての方向を見ることはできないようにできています。上下、天地、左右、360度を見ることはできません。

 一時に一方向しか見ることができないのです。

 別のことばでいうと、人間はある時ある面を見ることができるだけだ、ということです。

 一つの部屋に、明るい窓の面と暗い壁の面がある場合、どちらの面も「事実」なのですが、私たちの目は同時に両方を見ることはできません。

 でも、両方とも「ある」……んですよね?
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生きている価値のない人間などこの世にはいない

2005年09月10日 | メンタル・ヘルス

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 「自信」とは、「自分が自分の能力と価値を認めている状態」である、といいました。

 今回は、「価値」の面を考えてみましょう。

 「私にはいいところがいっぱいある」、「私には長所がたくさんある」、「自分は価値のある人間だ」、「私の生きていることには意味がある」と思っている状態を「自信」というわけですね。

 「オレにはいいとこは何にもない」とか「私は欠点だらけ」とか、「私は生きている値打ちもない人間だ」、「人生には意味もクソもない」と思っているのが「自信喪失」状態です。

 結論から先にいいましょう。

 事実として、「生きている価値や意味がない」人間など、この世には一人もいません!

 けれども、自分の生きている価値・意味に目を閉ざしている人は、残念ながら、非常にたくさんいます。

 能力とおなじく、価値・意味についてはなおさら、比較競争の社会では、見えにくくなっています。

 現代日本は、ちゃんと意識的に見なければ、自分が存在する価値・意味が見えなくなりがちな社会なのです。

 ですから、自分の価値や意味がわからなくなって、「自信喪失」に陥り、落ち込み、ひどくなると「うつ」状態になり、最悪の場合は自殺する人が増えているのも当然という面があります。

 しかし、ここで「社会が悪い」といっても、当面の問題解決にはつながりません。

 事実存在する自分のいのちの価値・意味をどうすれば発見あるいは再発見できるか、そのことを考えて見ましょう。

 ……ブログの性質からして、1つ1つの記事が長いと読むのがめんどうになるようですから、少しずつ区切っていくことにします。
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セルフ・イメージとセルフ・トーク

2005年09月09日 | メンタル・ヘルス

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 人間の心は、見る自分と見られる自分に分かれている、といいました。

 自分のことを振り返ってみてください。そうなっていませんか?

 そして、見る自分は見られる自分のことを例えば「私はかっこいい」とか「私はかっこ悪い」というふうに思っていませんか?

 見る自分が見られる自分について描くイメージのことを「セルフ・イメージ(自己像)」といいます。

 そして、人間の心は相当程度言葉によって形作られていて、自分で描いた自分のイメージに対して、心の中で言葉が語られます。

 「スタイルのいい私」というセルフ・イメージを描いていれば、当然「私ってスタイルいい!」というふうな言葉が心の中で語られるわけです。

 心の中で自分が自分に向って言っている言葉のことを「セルフ・トーク」といいます(「内語」とか「内なるおしゃべり」と訳されることもあります)。

 そして大切なポイントは、「セルフ・イメージ」と「セルフ・トーク」は循環するということです。

 いいセルフ・イメージを持っていれば、いいセルフ・トークをします。

 いいセルフ・トークをしていると、そういう気になってきて、セルフ・イメージがよくなっていきます。

 セルフ・イメージがよりよくなれば、当然、セルフ・トークもよりよくなります。

 ……というふうにして、いいセルフ・イメージとセルフ・トークは良循環・好循環するのです。

 問題は、悪いセルフ・イメージと悪いセルフ・トークの悪循環です。

 「能力のない自分」というセルフ・イメージを抱えていると、「私って能力がない、何もできない……」というふうなセルフ・トークが浮かんできます。

 そして、「私って何もできない」とセルフ・トークしている(=思っている)と、ますます自分は何もできないような気分になってきて、「無力・無能な私」というセルフ・イメージが固定化され、さらに悪い場合には増幅されていきます。

 自信を得るという実際的な目的のために話をシンプルにしてまとめます(心理学的あるいは哲学的に複雑に論じれば、果てしなく複雑になりますが、実際の役に立たなくなりがちですから)。

 「自信」とは、自分が自分に対していいセルフ・イメージを描いており、その結果いいセルフ・トークがなされ、イメージとトークが持続的に好循環している状態のことをいう、と。

 いうまでもありませんが、念のため。「自信がない・自己不信・自信喪失」とは、自分が自分に対して悪いセルフ・イメージを描いており、その結果悪いセルフ・トークがなされ、イメージとトークが持続的に悪循環している状態のことをいうわけです。

 したがって、「自信がない・自己不信・自信喪失」という状態を克服して「自信を確立する」にはどうすればいいか、原理は簡単です。

 いいセルフ・イメージを描き、いいセルフ・トークをして、それを好循環させること、です。

 ここで、「だって、私、何もできないんだもの」とか「そんなこといったって、オレ、いいとこ何もないし」(「だから、いいセルフ・イメージを描くことなんかできるわけないし……」)という反応が出てきそうですね。

 まず、前回の話を思い出してください。本当に、「何もできない」んですか? いろいろできることがいっぱいありましたよね。驚くほどたくさんの生きる能力を与えられているんでした。

 「いいところ・長所・価値」の話はこの後にしますが、まず、「できること・能力」について、再確認しておきましょう。

 「私にはできることがたくさんある」、「私には能力がいっぱいある」というのが、すべての人にとって「事実」でした。

 では、事実に基づいて、「私にはできることがたくさんある!」、「私には能力がいっぱいある!」と、セルフ・トークしてみてください。

 すると、多かれ少なかれ、そういう気がしてきて、元気が出てきて、セルフ・イメージがよくなってきませんか?

 どうすれば、セルフ・イメージとセルフ・トークを改善できるか、そもそも改善なんてできるのかということについて、さらに話は続いていきます。

 ネット学生のみなさん、途中で、いろいろ疑問や反論が心に浮かんできませんか? それに、「面白かった」とか、「ああそうか、そうなんだ、とうなづいた」とか、感想もいろいろあると思うのですが。

 教師は質問されるためにいる、と私は思っていますから、遠慮なく、質問をしてください。

 それから、いい感想を聞くとエネルギーをもらえますし、よくない感想は反省のきっかけになります。

 ぜひ、コメント欄に書き込んでください。
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無力感か自己能力感か、それはあなたの選択

2005年09月08日 | メンタル・ヘルス

 さて、今日は少し理論編です。

 私たちが何となく「自信がない」とか「自信がある」という表現をする場合、「自信」とはどういうことを意味しているのでしょう?

 「自信」とは「自己信頼」の略だと考えることができますが、自分が誰をまたは何を信じるのでしょう?

 ふだんあまり意識しないことですが、よく気づいてみると、私たちは自分で自分を信じられたり、信じられなかったりしているようです。

 人間の「意識」というのは、とても不思議というか当たり前というか、ある年齢以上になると、「自分が自分を見る」というかたちになっています。

 心の中が、「見る自分」と「見られる自分」に分化しています。それが、「意識」というものの本質であるようです。

 そのために、人間では、見る自分が見られる自分に対して信頼できる・肯定できる・承認できると思えるかどうかという意味での「自信」が問題になってくるのだと考えられます。

(他の動物では、こういう複雑な心の問題は起こらないようですね。)

 自分で自分を認められることが「自信」だとして、その内容をもう少し細かく見ていくと「自分の能力」を認められるということと、「自分の価値」を認められるということ、2つの面に分けて考えることができると思います。

 つまり、「自信」とは、「自分が自分の能力と価値を認めている状態」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 前回の宿題は、「能力と価値」のうち、自分が自分の能力を認めているかどうか、そういう意味で「自信があるかないか」の自己テストをしていただくということだったのです。

 では、みなさんは、6つ以上自分の能力を書き出すことができたでしょうか?

 これまでの授業やワークショップでは毎回、書き出せないという人がかなりの数いました。

 それどころか、1つも書けないという学生たちも少なくありません。

 それは、「自分には何の能力もない・何もできない」と思っているということでしょう。また、実際、聞いてみるとそういう若者がたくさんいるのです。

 精神医学・臨床心理学の世界で、「スチューデント・アパシー(学生の無力感)」という言葉で問題にされていることです。

 大学教育の現場にいると、これは、単に専門家にとっての特殊な問題ではなく、いまや若者一般に広がっている深刻な心の病というか病と健康の境界的な現象だと感じられます。

 私は、そういう状況の研究調査も必要ですが、それをどうするかが問題のポイントだと考えています。

 では、どうするか、に戻りましょう。

 自分の能力を6つ以上書き出せなかったみなさん、「私は見ることができる」と書いてありますか? 「聞くことができる」、「嗅ぐことができる」、「味わうことができる」、「温暖を感じることができる」、「知ることができる」、「考えることができる」、「決めることができる」、「歩くことができる」、「話すことができる」……はどうですか?

 これは、すべてあなたが「できること=能力」です。

 私たちには、こうした生きるための基本的な「能力」がたくさんあります。

 こうした「能力」が6つ以上ないなどという人には、私は会ったことがありません。

 さらに、考えましょう。私は、「食べることができる=摂食能力」、「消化することができる=消化能力」、「呼吸をすることができる=呼吸能力」……がある。

 どうですか? 私たちには数え切れないほどの「能力」が与えられているというのは「事実」ではありませんか?

(目や耳の不自由な方も、確かにそれについては「できない=能力がない」)のですが、それでも他に「できること=能力」がたくさんあるのではないでしょうか)。

 「何の能力もない」人なんか、この世には一人もいません!! 呼吸能力も消化能力も……何の能力もなかったら、とっくに死んでいます。

 ここで「でも……」という気のする方が多いことでしょう。「でも、そんなものは誰にでもあることで、能力というほどのものじゃないんじゃないですか?」と。

 ここが1つのポイントです!

 私たちは、ふつうの「能力」は「能力」と感じていないのです。

 でも、「能力」じゃないですか? よく考えてみると、まちがいなく「能力」ですよね。

 それなのに、「能力」とは思えないのは、なぜでしょう?

 それは、私たちが戦後の競争社会の中で、幼い頃から比較して優劣を決める「相対評価」にさらされ続けてきたせいなのではないでしょうか。

 「人と比べて優れているのが『能力』だ」と教え込まれてきたのです。「比べて優れていなければ、そんなものは『能力』とはいえない」と。

 「できる・できない」という言葉のもっとも典型的な使われ方を考えてみると、そのことがはっきりわかります。

 「できる」とは、まず子どもに関しては「成績が上位である」ということです。次に、社会人に関しては「仕事ができる=業績が上位である=人よりも稼いでいる)」という意味になります。

 しかし、比較して誰よりも優れているのは1番の人だけです。2番以下の人は、1番に比べると劣っているのです。

 ですから、成績や業績で人を量る社会は、驚くべき数の「無力感」を抱えた人、「自信喪失」の人を生み出していきます。

 あなたは、そうした社会の流れに、追随し、流され、埋没してしまいたいですか? 溺死させられるかもしれませんが、それでいいんですか?

 社会のものさしで自分を量って、優越感と劣等感のアップ・ダウンにさらされたいですか?

(しかもこの乱高下はどちらかというとダウンの方に傾きがちで、しばしば「死にたくなる」んですよね?)

 それとも、「事実」に基づいて、「自分には驚くほどたくさんの能力がある」と感じて元気になりたいですか?

 社会の現実には目を開けているが、自分のいのちの事実には目を閉ざしているという状態で、無力感、自信喪失、元気のないままで生きていきたいですか?

 これは、ある意味で、1つの選択です。自分を元気にするための、いわば人権としての選択です。

 「社会的な評価はいったん脇に置いて、私は私のいのちに与えられている驚くほどたくさんの能力に目を開いて、自分で自分を認める、自信を取り戻す!」と、決めてください。

 「そんなこといったって、やっぱり社会は社会だし……」という方のために、コメントをしておきます。

 社会の評価というのは確かにあります。

 しかし、学校や会社にいる時ではなく、自分の部屋に帰ってまで、社会の評価を気にしていなければならないという、校則や社則でもあるんですか?

 そういう法律やモラルや、あるいは宇宙法則でもあるんですか?

 まったく、どこにもそんなものはないんじゃありませんか?

 ならば、社会の評価はいったん忘れましょう(必要な時だけ、思い出せばいいんです。必要な時にまで忘れていては、ちょっとまずいですけどね)。

 社会的評価、比較を忘れて、事実そのものに目を開いてみましょう。

 すると、「私には実にたくさんの生きる能力がある」といえますね。

 心の中で、「私には何の能力もない」というのと、「私には(実にたくさんの生きる)能力がある」というのと、どちらが元気になりますか?

 元気になるのと、元気をなくすのと、あなたはどちらが好きですか?

 好きなほうを選択してください。それは、あなたの人間としての権利です

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目を開けると見える

2005年09月07日 | メンタル・ヘルス

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 さて、ようやく、自信を自分のものにするための理論と方法の話です。

 ここで、理論の話の前に、ワーク(実習)をしてみましょう。

 これは、ワークですから、ぜひ、読むだけにしないで、実際にやってみてください。私はよくいうのですが、「読むとするとでは大違い」です。

 目の前に、何か、いいもの、きれいなものを選んで、置いてください。

 適当なものがない人は、添付した写真のオレンジ・コスモスでも拡大して、パソコン画面の見えるところに置いてください。

 それから、それをしっかり見てみましょう。

 そこに、ありますね? まちがいなく「ある」と確認してください。

……ここで、「何のためにこんなことをわざわざやるんだろう? わざとらしくて嫌だな」と疑問を感じた方がいるかもしれません(よくいるのです)。

 そういう方のために、一つコメントを。

 これから学んでいくのは、心理学の理論と、方法つまり技法つまり「技(わざ)」です。

 新しい技は、まだ自分の身についていないから、「わざわざ」学ぶ必要があります。

 そして身についておらず慣れていないので、最初は何だか「わざとらしい」と感じがちなものです。

 しかし、新しい技を身につけたかったら、わざとらしくても、わざわざ練習する必要がある、というわけです。……

 では、元に戻りましょう。

 そこに、いいもの・きれいなものがまちがいなく「ある」と。これは、「事実」だ、と。

 では、目を閉じてください。どうなるでしょう?

 「見えなくなった」、そうですね。

 さて、この授業は音声ではなく文字なので、ちょっと不便なのですが……。

 目を閉じる前に、読んでおいて、目を閉じてから、考えてみてください。

 目を閉じると、そのいいものは見えなくなった。けれども、それは「なくなった」のでしょうか?

 そうではありませんね。事実、それは「ある」のですが、見え「ない」だけです。

 体の目も心の目もその点ではおなじで、どんなものが事実として「ある」としても、目を閉ざしていると「見えない」のです。

しかし、「見えない」は「ない」ではありません。

 ところが、心の目はしばしば「見えない」ものは「ない」と思ってしまいがちなのです。そこに問題のポイントがあります。

 私たちが自分に自信を持つことができる理由・根拠、もっと俗にいえば「ネタ」は、私にいわせれば、誰にでも山ほどあるのです。

 ただ、あっても見えていないだけです。

 「え、ほんとう?」と思われる方が多いでしょう。

大学で教えている学生も多数がそう思うようです。だから、自信がないと答えるんですね。

 「視界」という言葉があります。「見えている世界」という意味ですね。

 「見えている世界=視界」は、「世界」のすべてではありません。それどころか、「世界」のごく一部です。

 しかし、心の目は、「視界=見えている世界」が「世界のすべて」だと思い込みがちなのです。

 今、自分の視界には自分の能力やいいところが何も見えていないために、「自分(の世界)には能力もいいところも何もない」と思い込んで、落ち込んでいる人が、驚くほどたくさんいます。

 この思い込みを変えて、事実を見ていただくと、誰でも自信を獲得できます! 

本当かウソか、続けて聞いて、やってみて、試してください。

 では、体の目でちゃんともう一度考えて見ましょう。

 「見えないことは、ないことか?」。ノー、断然、「ノー」ですね。

 「見えなくても、あるものは事実ある」んですね。

 さて、目を閉じているために、美しいものが見えない場合、見たかったら、どうしたらいいんでしょう?

 ここで、「何てわかりきったことを聞くんだ。子ども扱いするな」と反発を感じる方もいるかもしれません。

 しかし、私の行なうワークは、そこがポイントなんです。

 わかりきっているつもりのことを、確かめなおしながら、やがて本当にはわかっていなかったことに気づき、それから本当にわかっていく、というプロセスをたどっていくのです。

 よかったら、続けましょう(悪かったら、この辺でリタイアという手もあります)。

 「目を開ければいい」、そのとおりです。大当たり!

目を開けると、今まで「あったのに、見えてなかった」、いいもの・きれいなものが見えます。

 目の前のものを使って、目を開けて見て、目を閉じると見えなくなることを確認し、それから目を開ければ見えるようになることをしっかりと確認して、心に留めてください。

 ただ、心の目は体の目とちがって、日ごろあまり訓練されていないので、自由に開けたり閉じたりすることがちょっと難しいのです。

 しかし、練習すれば、誰にでもできるようになります。

 話が、明るくなってきたでしょう?

(ちょっと意地悪でネガティヴな言い方に変えると、「練習しなければ、誰もできるようにはならない」んですけどね)。

 適切な技法を使って練習をすれば、あなたはまちがいなく「自信のある人間」に変われる! 

……という、私の言葉が多少でも信じられるようでしたら、さらに学びを続けてください。

 最後に、簡単なワークの宿題です(「え、宿題があるの?」とおっしゃる方、「そうです、この授業には宿題があるんです。でも、やってこなくても罰はありませんけどね」)。

 あなたはどんなことができますか? あるいは、あなたにはどんな能力がありますか? ノートを出して、自分のできること・能力を6つ以上書き出してください。「私には~ができる」とか「私には~という能力がある」というふうに。
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戦後教育の「相対評価」

2005年09月06日 | メンタル・ヘルス

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 さて、今日から『生きる自信の心理学』の内容に入っていきます。

(といっても、本の内容よりも簡略にする部分と、増補改訂する部分がありますので、予めご了承下さい。)

 戦後日本は、みごとなまでにプラス・マイナス含めて「近代化」されました。

 それは、社会のあり方でいうと、すっかり近代的な「自由主義-資本主義の社会」になったということです(それ以来、今に到るまでそうあることは、しっかり自覚しておく必要があると思います)。

 自由主義社会の基本原則は、人間は誰でもスタートのところの権利はまったく平等で、そこから「自由に競争」し、勝ったものは勝ち、負けたものは負けということになる、それはフェアなことでしかたない、ということです。

 つまり、自由主義社会の基本は「自由競争」です。

 しかも、「神はいない。人間とモノがあるだけ」の世界ですから、人間がどのくらいモノを獲得して、経済的に繁栄するかということが、人生の基本的目的あるいは価値の基準になります。

 「資本主義」にはもともと「拝金主義」になる圧倒的に強い傾向があるのです(絶対、必ずということではないかもしれませんが)。

 そこで、いわゆる「社会人」つまり大人は、経済的な「業績」がもっとも価値の中心であると見なされる経済社会で他者・他社と絶えず競争しながら生きていかなければならなくなりました。

 それと並行して、やがて「社会人」になるべく育てられる子どもも、経済的業績をあげること=成功することを目指して教育されることになりました。

 その場合、近代の産業の繁栄を促進したのは何よりも合理的な知識でしたから、経済的業績につながるそういう知識をどのくらい知っているかということ、それの客観的指標としての「成績」がもっとも重視されたのです。

 そういうわけで、戦後・近代化された社会では、大人は「業績」、子どもは「成績」というのが、価値の主な――場合によってはほとんど唯一の――基準になりました。

 そして、大人も子どもも、「自由競争」にさらされながら、日々を生きていくほかなくなったのです。

 競争とは別の言葉でいえば「比較」です。比較して、「優劣」を競うわけです。

 いつも成績というものさしで比較して優劣を競わされ、評価されてきたというのが、戦後の子どもたちの基本的な状況だったのではないでしょうか(私もその一人です)。

 そういう評価の仕方を「相対評価」といいます。

 「相対評価」で優・劣を競わされた場合、「優れている」と評価された子どもはまあいいでしょう(本質的にはよくないのですが、その話は後にします)。

 「自分は優れている=優等である」という「優越感」を持つことができます。

 しかし、「劣っている」と評価された子どもたちは、どうなるでしょう?

 当然のことながら、「自分は劣っている・劣等である」という「劣等感」を抱えざるをえなくなります。

 さて、クラスで考えみて、どのくらいが「優等」で、どのくらいが「劣等」ということになるでしょう。

 まあ、クラスの上位5分の1、できれば10分の1に入らないと、成績が優れているとはいわれにくいですね。

 とすると、どうなるでしょう?

 私たちの多数が経験してきたとおり、日本の子どもの多く――つまり5分の4から10分の9――が、成績でいうと「自分はできない・劣っている」という「劣等感」を抱えさせられているのです。

 これは、私のアンケート調査の結果ともぴったり一致しています。90%の学生たちが「自分に自信がない」といっています。

 もちろん、成績による優越感-劣等感が問題のすべてだなどとは思っていません。

 現代人、とりわけ若者が「自分に自信がない」というのにはより多様で複雑な理由もあるでしょう。

 しかし、成績による比較、つまり「相対評価」にさらされ続けてきたことが、主要かつ決定的な問題だったのではないか、と私は推測しています。

……あ、今日はまだ明るい話になりませんでしたね。失礼。でも、もうそろそろ明るい話になりますからね。待ってください。
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銀河の中心部

2005年09月05日 | メンタル・ヘルス

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私たちは、天の川銀河の中に住んでいます。

 ですから、私たちのもっとも詳しい住所は、宇宙内天の川内太陽系内地球上日本国○○県○○市……ということになります。

 ご存知のとおり、天の川銀河は直径約10万光年、私たちの太陽系は中心から約3万光年の位置にあるのだそうです。

 天の川の中から天の川を見ると、乳白色の煙るような星の流れに見えます。それで、日本では「天の川」と呼ばれてきました。英語では「Milky Way ミルクの道」といわれます。

 夏の夜、南の空、いて座の方向が天の川の中心部だそうです。

 詳しい話は天文学者の方におまかせするとして、私たちの世界観=コスモロジーにとって大切なことは、20世紀、人類は「自分が宇宙のどこにいるか」ということをかなり確実に知ることができるようになったということです。

*写真の著作権は野田司さんにあります。ASTRO PHOTO GALLERY http://www.nnet.ne.jp/~tsukasan/ には、素敵な天文写真がいっぱい。感動できます。
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