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八識7:心の底の蔵―アーラヤ識①

2006年02月28日 | メンタル・ヘルス

 さて、唯識によるインフォームド・コンセントの手続きを続けましょう。


 私たちは、熟睡したり、泥酔したり、気絶したり、昏睡状態になったりすると、意識がなくなります。

 もちろん五感もほとんど働かなくなります。

 思わず知らず自分にこだわってしまうというマナ識でさえ働きません。

 (眠りが浅かったりすると、目が覚めてから、どうもマナ識的欲望から生まれたにちがいないという気のする変な夢を見たりすることはありますが……。)

 8つの心の領域・八識のうちの7つまでは休止してしまいます。

 しかし、目が覚めたり、酔いが醒めたり……すると、意識が戻ります。

 意識が戻ると、マナ識の働きも戻ります。

 さて、熟睡、泥酔、気絶、昏睡状態の時、意識はどこに行っていたのでしょうか?

 戻ってくる以上、完全に無くなっていたのではなく、どこかに行って、休んでいたと考えるほかありません。

 唯識学派の人々は、1つ、そういう日常的な事実に基づいて、そこから意識が出てきたり、そこに意識がこもったりするような、マナ識よりも深い心の底を想定するほかないと考えたのです。

 わかりやすく譬えれば、朝、仕事が始まる時に車を出し、夜、仕事が終わったらまた入れておく、車庫のような、心の倉庫・蔵があるというわけです。

 誰でも知っている「ヒマラヤ山脈」というのがありますが、これは「ヒマ=雪」の「アーラヤ=蔵」という意味です。

 その「アーラヤ」という言葉を使って、そういう心の奥の蔵は「アーラヤ」識と呼ばれました。

 それは、意識的な心ではありませんが、その元になっているのですから、より根源的な心・識といってもいいでしょう。

 そういう意味で、「識」を付けて、アーラヤ「識」といわれるわけです。

 こういうふうに説明されると、「アーラヤ識」が唯識学派とか仏教にだけ通用する特殊なコンセプトではなく、人間誰にでもある心の深層領域を指し示す普遍的な言葉であることが理解できるのではないでしょうか。

 (学んでみると、こういうふうに、仏教の核にある教えは、非常に哲学的・理性的で普遍・妥当性の高いものであることが納得できます。)


*写真は、松江風土記の丘の縄文住居の復元


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アンケート:どちらのタイプ

2006年02月24日 | メンタル・ヘルス

 アンケート:どちらのタイプの医者にかかりたいか

 あなたは、実は深刻な病気になっていて、自分でもある程度の自覚症状はあるが、それほど深刻だとは思っていない、思いたくないので、治療しようとしていなかったが、「もしかすると?」という気がして、ともかく医者に行って診断してもらおうという気になった、という場合、次のどちらのタイプのお医者さんにかかりたいですか?

 ①やさしい(というか気が弱い)ので、ショックを受けないようにあなたのあまりにも深刻な病気についてははっきり知らせないで、「まあ、大したことはありませんが、できれば、治療はしたほうがいいですね」といった感じに、やわらかくいってくれるお医者さん。

 ②治る病気は必ず治してあげたいと思っているので、「あなたの病気は、かくかくしかじかできわめて深刻ですね」と知らせ(インフォーム)、「しかし、粘り強く治療に取り組めば、時間はかかっても、おそらく治ると思います。やってみませんか?」と治療への同意(コンセント)を求める(ほんとうの意味でやさしい?)インフォームドコンセント型のお医者さん。

 唯識は、無明-煩悩という心の病に関する②タイプのお医者さんだといっていいでしょう。

 ①タイプのお医者さんにかかりたい方には、やや向かないかもしれません。

 でも、私は、②タイプのほうが、私にとってほんとうの意味で役に立ってくださるお医者さんだと思っています。

 あなたは、どちらのタイプのお医者さんにかかりたいですか? 選択するのはあなたです。


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八識6:マナ識に潜む根本煩悩④

2006年02月22日 | メンタル・ヘルス

 私たちの無意識にしつこいしこりのように存在しているのが、4つの根本煩悩です。

 宇宙と私のつながり-一体性にまったく無知であり(我癡)、それどころか他と分離した実体としての自分がいると思い込み(我見)、そういう自分を頼り・誇りにし(我慢)、そしてそういう錯視された自分に徹底的にこだわり、愛着・執着する(我愛)、という心の働きです。

 意味が初めてわかった時、私は、何と深く、何と正確な洞察だろうと感嘆したものです。

 ふつう「欲望」といった言葉で表現される人間のやっかいな心の働きは、非常に感情的・情念的なもので、理屈や意思でどうにかなるものではない、と考えられがちです。

 確かに愛着・執着したり頼り・誇りにするという心の働きは、分類でいうと「感情・情念」です。

 しかし、そういう感情・情念は実は思い込みや無知という深いところにしこっている思考・認識に基づいているというのです。

 あまりにも深いところにある思考・認識であるために、確かに表面的な意識の思考や認識によってダイレクトに変えることはできません。

 私の唯識の読みがまだここまで行っていなかった頃、4つの根本煩悩を並列的にお話していた時、ある聴講者の方が憤然として、「人間の煩悩ってもっと感情的でドロドロしていて、そんな認識でどうにかなるような簡単なものじゃありませんよ」と抗議されたことを覚えています。

 今だったら、「いろいろなものへの人間の強烈な愛着・執着や誇り・高ぶりといった煩悩は、確かにちょっとのことでどうにかなるような感情ではないですよね」と答えた後で、「でもそういう感情はさらに深い思考・認識の歪みから生まれていると考えられるんですよ。そして、そういう歪みを心のもっと深い底から変えることができる、というのが唯識の洞察なんですね。よかったら、もう少し先まで学んでみられませんか」とお話しすることができるでしょう。

 人間は、実にさまざまなものに愛着し、それはしばしば過剰な執着になり、病的なこだわりになって、自分をも人をも悩ませることになります。

 しかし、自他を悩ませる煩悩だとわかっていても、どうしようもなくそういう感情が湧いてきてコントロールできない、という体験は誰でもしたことがあるでしょうし、現に体験していて悩んでおられる方もいるでしょう。

 そういう煩悩について、よく「煩悩があるからこそ人間らしいんだ。煩悩がなくなったら、人生が退屈になる」という方がいます。

 (「だって人間だもの」というセリフもありましたね。)

 しかし、ここで、「大切にする」ことと「こだわる」ことは違う、「愛する」ことと「執着する」ことは違う、のではありませんか? といっておきたいと思います。

 「我愛」が浄化されてなくなっても、愛することはなくならない、どころかもっと純粋に美しく、感動的になる、と私は考えています(全体としての大乗仏教もそう主張していると思います)。

 心の奥・マナ識よりももっと深い底の底・アーラヤ識から無明・我癡と我見をただし、そのことによって我慢と我愛をも浄化する方法がある、というのが唯識のメッセージだ、と私は捉えています。

 ……そろそろ、希望のある話になってきました、よね?


*写真は、もうすぐ咲き始める春先の希望の象徴のようなイヌフグリの花、去年の写真です。


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菩薩はわざわざ浄らかでない国に生まれる

2006年02月05日 | メンタル・ヘルス

 旅先で文庫本の『維摩経』(中公文庫)を読んでいたら、とてもいいことばがありました。

 問う、「なぜ、太陽はジャンブ州(この世界)の上にのぼるのですか」

 答える、「それは、照らして闇を除くためです」

 言う、「…それと同じく菩薩も、衆生を浄め、知恵の光を照明し、大闇(だいあん)を除くためにわざわざ清浄(しょうじょう)でない仏国土に生まれるのです。しかし、煩悩といっしょにあるのではなく、あらゆる人々の煩悩の闇を除くのです」

 問題の多い、浄らかとは言えない社会になりつつある国に生きていることも、菩薩としてわざわざ選んだことと考えれば、ポジティブに捉えることができます。

 大乗の思想はほんとうに深いな、と改めて思いました。

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論理療法への感想

2006年01月12日 | メンタル・ヘルス

 もう一つの大学の授業も、今日が最終でした。

 ここでは、後期、仏教、特に唯識、そして論理療法の授業を行ないました。

 学生たちは、教えたこちらが感動するほどよく吸収してくれました。

 教師と○○○は3日やったらやめられない。

 論理療法の授業に対する感想を、また4つシェアしたいと思います。

 これは、単に自分の教育力を自慢したいのではありません(ちょっとはそういう気もあるかな〔笑〕)。

 若者たちは、ちゃんとしたものをちゃんと伝えてあげれば、ちゃんと受け止めてくれる、そういうちゃんとしたものを提供するのは大人の責任だ、ということを大人のみなさんに伝えたいのです。

 教師や父母のみなさん、ぜひ、こうしたことを学んで、伝えて、若者たちを元気にしてやっていただきたいのです。

 それから、まだ知らない若者の諸君に、みなさんの同世代がこういうふうに評価していますよ、よかったら学んでみませんか、とお誘いしたいのです。

 彼女ら、彼らの希望もあって、17日から論理療法の講座を行ないますので、その宣伝・広報という意味もありますが。

 なお、感想文が女子学生ばかりなのは、受講生自体9割以上女子であるためです。特に女子学生ばかり選んだのでありません。


 2年 女子

 今まで、仏教の唯識の内容などは、授業を受けていても、どこか実感がわかなかった。しかし、論理療法のABC理論は、聞いていて、自分の心の改善につながっていったと思う。今まで、私は、何か失敗してしまったとき、その失敗をしてしまったこと自体を悔やみ、さらに落ち込んでいった。また、再度同じ失敗をしないかどうか、不安に思っていると、また同じ失敗をしてしまうという悪循環に陥ってしまうということがよくあった。その悪循環を、なくすお手伝いをしてくれたのが、ABC理論であった。ABC理論の授業を受けたことで、本当は、失敗それ自体を悔やんでいるのではなく、失敗と思い込む信念が結果をもたらしていることがわかった。私はこれを聞いたときに、ハッとした。また、感情には健全な感情と不健全な感情があることを知った。すぐに改善できるかはわからないが、「失敗する→私はダメな人間だと落ち込む→また失敗をしてしまう」という今までの悪循環を、「失敗する→次は頑張ろう!→成功する」に変えられるように、健全な感情や信念を持とうと思う。


 2年 女子

 論理療法を学んだことによって、私は落ち込むことが意味のないことだとわかりました。私は今まで、どちらかというと落ち込むことが好きでした。いつまでも、あーしなきゃよかった、こうしておけばよかったと後悔したり、他の人と比べて落ち込んだりしていました。落ち込んで、ぐたぐたいうことで、その失敗などの傷の程度が軽くなると思っていたのです。
 しかし今は、落ち込んでも労力の無駄だと知り、くよくよ考えないで、しかたないと思うように心がけたら、不思議と以前よりもポジティブな気分でいられるようになりました。
 来年は仏教のゼミに入ります。この論理療法も今後、勉強して、幸せでいられる時間を増やせたらと思います。
 私に知恵となるような、たくさんのことを教えていただいてありがとうございました。


 2年 女子

 rB(合理的思考―筆者注)と irB(非合理的思考) の話がとてもわかりやすくて、納得できた。この話を聞いてから、何かめげるようなことがあっても、「ちょっと待てよ……これは不健全な感情ではないか?」と考え直すことができるようになった。そして、自分で自分を悪い感情の中に引き入れてしまうのではなく、心が健やかになるように意識を向けることがすごく大切なのだとわかった。自分を幸せにできるのは自分だということに気づくと、1日1日をもっと意識的に創意工夫をして楽しく過ごそうと思うようになった。それまでは結構なんとなく生きていてすぐ他人を恨んだりしていたけれど、今は自分自身が全身パワー全開で生きているので他者の目もそれほど気にならないし、そう生活し始めたことにやって、良い人、良い本、良い音楽に出会うことができた。論理療法にそれだけの説得力があったから、私がこのように考え行動できたのだと思う。とても感謝している。


 2年 女子

 論理療法とは本当に素晴らしいものだと心の底から感じます。前期の授業を受けた後も、私は前向きになれたと思いましたが、論理療法になってから、より人生を楽しめている気がします。私は「物事がどう見えるかはその人の心しだい」という言葉が、とても心に響いたので、以来いつも持ち歩いている手帳に書き留めておいて、落ち込んだときなどはその言葉を見て、合理的な考え方をするようにしています。また、自分の人生が前より楽しめていて、心にゆとりを持ったせいか、友人や他人に対しても優しく接することができるようになった気もします。
 また、must 化を相手にしなくなること、自分で must と思わないようにすることによって、気分がとても楽になりました。物事の捉え方がとても柔軟になったと思います。そして論理療法を知っていることで、友達が悩んでいたり落ち込んでいたりするときにはアドバイスもできるようになりました。完全に元気になってもらえなくても、論理療法という考え方もあるということを知っているだけで、その人の心も違うと思います。 
 この授業をとって、また、先生に出会えたことに心から感謝しています。ありがとうございました。


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大乗仏教の経典

2006年01月10日 | メンタル・ヘルス

 西暦紀元1世紀頃以降、空の思想を述べた『般若心経』他の般若経系統の経典が続々と誕生してきます。

 これらの経典は、日本仏教では、真言宗、天台宗、禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)など、広く用いられています。

 それから『維摩経(ゆいまぎょう)』も作られます。これを依りどころとする宗派はありませんが、特に禅宗では重視されてきました。

 これに対する注釈書を聖徳太子が書いています(否定する説もありますが)。

 さらに『法華経(ほけきょう)』で、これは日本の仏教では、天台宗と日蓮宗および法華系と呼ばれる新宗教が依りどころとしている経典です。

 これに対しても、聖徳太子は注釈書を書いています。

 それから『華厳経(けごんぎょう)』で、これは東大寺の華厳宗が依りどころとする経典です。

 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』(まとめて「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」といいます)は、浄土宗、浄土真宗、時宗など浄土系の宗派の経典です。

 これらは、学問的には「初期大乗仏典」と呼ばれています。

 大乗仏教は、一般の人間にはついていけなくなってしまった部派仏教の専門的な理論に対する批判として出てきた面がありますから、最初はあまり体系的に述べられたものではありませんでした。

 ところが、いったん小乗仏教対大乗仏教というふうに分かれ、対立関係が起こってくると、大乗の側でもやはり理論を整備しなければならなくなります。

 そこで大乗の主張を徹底的に理論的・体系的にまとめたのが、龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)です。

 説によって年代の前後がありますが、一説では150年から250年頃の人です。

 2,3世紀頃になると、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるお経が出来てきます。

 例えば『勝鬘経(しょうまんぎょう)』、『如来蔵経(にょらいぞうきょう)』、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』などです。

 これらは、特定の宗派の経典にはなっていませんが、『勝鬘経』に対して聖徳太子が注釈書を書いています。

 それからこの授業で一番重点をおいてお話ししていく「唯識(ゆいしき)」という学派の一番古い経典である『解深密経(げじんみっきょう)』などが作られていきます。

 日本では、法相宗の興福寺や薬師寺、北法相宗の清水寺などが依りどころとする経典です。

 それから今日ではもうサンスクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』もこの時代に書かれたようです。

 続いて、5世紀ころ、「中期大乗仏典(第2期)」として、『薬師如来本願経(やくしにょらいほんがんきょう)』、『地蔵菩薩本願経』など、特定の宗派に限らず日本人全体に広がった薬師信仰や地蔵信仰の元になったお経が作られます。

 そして7世紀ころ、大乗仏典としては後期にあたる密教の経典が出来ます。

 『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』などで、真言宗の依りどころとされ、天台宗でも密教の分野で重んじられる経典です。

 こうして見てくると、日本の伝統的な仏教がすべて大乗経典を依りどころにした「大乗仏教」であることがわかります。

 ということは逆にいうと、かたちだけに限れば日本の仏教はゴータマ・ブッダの教えた仏教そのままを受け継いでいるのではない、ということです。

 現代の日本人が「仏教」について考える場合、これはきちんと押さえておかなければならないポイントだと思います。



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大乗仏教

2006年01月09日 | メンタル・ヘルス

 西暦一世紀前後、「大乗」と自称した新しい仏教の流れが興ります。

 先にもいいましたが、それまでの流れを批判して、「自分だけが学んで、自分だけが瞑想して修行して、自分だけが覚るというのは、それはいわば、迷いのこちららの岸から覚り・救いの向こう岸に行くのに、自分一人しか乗れない小さな乗り物・小乗だ。それに対して自分たちは、自分だけではなくてみんなで一緒に迷いや苦しみや悩みのあるこの世界から、そういうことがすべてなくなった向こうの世界にみんなで渡って行こうとする。そういう大きな乗り物なのだ」と主張する流れです。

 こうして、「小乗仏教」と「大乗仏教」という違いが出来たのですが、「小乗仏教」という言い方は、あくまでも大乗の側から見たやや偏りがある批判といえないこともありません。

 かつて「小乗」と呼ばれた流れが、今日まで東南アジアに伝えられていて、上座部またはテーラヴァーダといいます。

 実際に行って修行した方たちから聞いた印象では、そのお坊さんたちの修行の深さや境地の深さ、行ないの清らかさに関しては、「大乗仏教」を自称している日本のお坊さんたちの多くよりも徹底しているようです。

 そういう意味で、必ずしも「小乗仏教はだめ」とか、「劣っている」といえないところがあるようです。

 それはもちろん平均的なレベルの話で、東南アジアにも堕落した僧はいるでしょうし、日本にも立派なお坊さんはおられます。

 しかし、私の知る範囲では、特に戒律をちゃんと守っているかどうかという基準で、全体として平均的なレベルを比べると、どうも日本のお坊さん方はかなわないという評が多いようです。

 けれども、少なくとも、救いの目標を自分自身の覚りや救いにとどめず、自分と人々、さらに生きとし生けるものすべて(衆生・しゅじょう)と一緒に救われる・覚ることを目標にしたという点では、大乗の主張にはある種の妥当性がある、と私は評価しています。

 大乗を主張する新しい経典として、紀元1世紀前後から、まず『般若経(はんにゃきょう)』のさまざまなタイプのものが生まれてきます。

 『般若経』の一番最初のものは、八千ほどの詩句でできている『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』だろうといわれています。

 それがだんだん広げられ大きくなっていって、『十万頌』のものまで作られていきます。

 やがて長くなりすぎた『般若経』のエッセンスを最小限にまとめたものが、日本人なら誰でも知っているといってもいいほど有名な『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。

 そうした『般若経』で語られている「空(くう)」の思想は、以下の定型句とその意味が示しているように、ブッダから部派仏教までの教えを含んで超えるものだといっていいでしょう。

 「縁起だから空である」=「縁によらないで起こっているものは何もない」

 「無自性(むじしょう)だから空である」=「変わることのないそれ自身の本性をもったものは何もない」

 「無常だから空である」=「いつまでもあるものは何もない」

 「無我だから空である」=「実体として存在しているものは何もない」

 「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」

 これらのコンセプトに共通している「何もない」というニュアンスを「空」という一言でまとめ、かつ深めて捉えたのだと考えられます。

 ですから、「空」は、ありのままのほんとうの世界は「すべてがつながりあっていて、けっきょくは一つ」という面からいえば、「一」「一如」「真如」と表現することもできる事実を示しているのです。

 この「空」という言葉とちょうど逆なのが、「実体」というコンセプトです。

 西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものとの関わりなしに、変わることのないそれ自身の本性をもっていて、いつまでも存在できる」ようなものを「実体」と呼びます。

 「空」はまさにその正反対ですから、「実体がない」「無実体」あるいは「非実体」と言い換えることもできます。

 この「空」という事実を覚ることが無明を克服することであり、すべての苦を超えることになるというのです。

 「空」を覚ることは、「空」という思想を知ることとは違うことですが、まず知らないことには覚りたいという気にもなりませんから、次回から、もうすこしくわしく、でもできるだけわかりやすく「空」思想についてお話していくことにしましょう。


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ヴィパッサナー瞑想に関するQ&A

2006年01月08日 | メンタル・ヘルス

 「部派仏教」の中の「上座部・テーラヴァーダ仏教」は、今でも東南アジアの諸国に伝わって残っています。

 最近、そうしたテーラヴァーダ仏教、特にその瞑想法の代表的なものであるヴィパッサナーを日本に紹介する方が何人もおられて、実践に参加する方も増えてきています。

 私の研究所の講座でも、坐禅とヴィパッサナーの違いなどについての質問が時々ありますので、ここで参考に、昨年3月18日の中級講座でのQ&Aを再録しておきたいと思います。

 質問者:

 禅定の重要性というか必要性というのは、今日あらためてああそうなんだな、と確認してよかったと思いました。

 それで、たしかに人にも薦められるようにはなってきたな、という感じがします。

 ただ、自分自身の体験では、ヴィパッサナー瞑想に参加したとき、ひじょうに、深いというかおもしろい体験をいろいろさせていただいて、その後、坐禅をやったりヴィパッサナー瞑想をやったりと、自分で使い分けてやったりはしているんですけれども、瞑想もいろいろあるので、どれがいいのかなという疑問があります。

 いろいろ探しているとたぶん一生終わっちゃうんだろうな、ということもあるので、そのへん、「いろいろある中で坐禅がおすすめ」という理由をちょっとお聞きしてみたいです。

 岡野:

 はい。とくに最近、サングラハの中でもその周辺の方でも、ヴィパッサナーに行かれる方が多くて、みんないい体験をしてきて、「坐禅ではなかなかうまくいかないので、ヴィパッサナーのほうがいいんじゃないですか」という方がよくいらっしゃいます。

 それからたとえばヨーガの瞑想もあったり、チベット密教の瞑想もあったり、日本ではその他いろいろ、探せばできるところがありますよね。

 で、くまなく見たわけではないんですが、なるべく臨床的に公平に、かつ理論的にも妥当に、という目で見るかぎり、人間の深層意識まで浄化するということが理論としても対象としてもはっきりおさえられているのは、やっぱり大乗仏教、なかでも唯識だ、と私は評価しています。

 しかし、残念ながら唯識は理論しか伝わっていません。

 そこで、臨済宗系の坐禅をしてみると、まさにこの理論とこの禅定の方法はぴったり対応している、と私は感じてきました。

 ヴィパッサナーとヴィパッサナーの理論は、やはり切り離しがたいものがあります。

 私があえてヴィパッサナーをやらないのは、率直にいうと私はあの理論では仏教理解が不十分だと思っているからです。

 ちょっと難しいことをいうと、『清浄道論(ヴィシュッディマッガー)』という、難しい、ひじょうに部厚い、テーラヴァーダ仏教の瞑想理論の本があります。

 私は、ぜんぶを細かく読んではいませんが、概説は読んでいます。

 その範囲で『摂大乗論』などと比べながら、「ヴィシュッディマッガーでは理論的整備が不十分なんじゃないか。やはりマナ識・アーラヤ識の問題点をちゃんと捉えていないとだめだな」と思うんです。

 繰り返しますが、理論と実践は切り離せないんです。

 ヴィパッサナーに行くと、指導者の方はそういう説明をするでしょう? 唯識的な深層心理の浄化の説明はありませんよね?

 質問者:たしかにそうですね。

 岡野:

 そういう説明をしないということは、そこから「大乗の菩薩になる」という方向性も出てこないということです。

 実践できているできていないは別にして、『摂大乗論』とか大乗仏教はどこを目指しているかというと、「慈悲が出てこなければ、それはほんとうの智慧じゃない」という、教学的な押さえがひじょうにしっかりとしているんです。

 だから、原点に帰れる。

 私は、たえず原点に帰れる理論的な準備ができているという意味で、やっぱり大乗仏教、とくに唯識と坐禅というセットのほうが、中長期で見たら人格をより深く形成するだろうと推測しています。

 でもまあ最近、みなさんがあんまりヴィパッサナーでいい体験ができたといわれるので、それなら、方法論として入り口のところでみなさんに使ってもらうようにしてもいいかなという気は、ちょっとしてきてはいます。

 でも、そのときに方向づけとしてはちゃんと、「でもここから慈悲が出てこなかったら意味ないですよ」という話をしながら、というかたちです。

 つまり、私にとっては論理療法を取り入れるのと同じアプローチで、方便の一つとして、「坐禅ではなかなか行けません」という人に、ヴィパッサナーのテクニックも使ってもいいかなとは思っていますけどね。

 でも、論理療法一つでも、ちゃんとみなさんに方便として使っていただけるようにご指導できるところまで勉強するのにも、なかなか手間がかかりましたからね。

 ヴィパッサナーも自分でちゃんと実践して、場合によってはリトリートにも行って……あんまり行きたくないですけどね。(笑)

 行くと指導者の方に反発して、「あなたには指導してほしくないですよ」ってマナ識反応をしそうですから。(笑)

 (*最近、武蔵野大学の「仏教と心理学の協力」というフォーラムで、井上ヴィマラさんと会って、いろいろ話しているうちに、ヴィパッサナーやテーラヴァーダ仏教について、少し評価を変えなければならないかな、と思うようになっていますが、まだちょっと勉強を始めたばかりで、まとまっていません。)

 それから加えて言えば、それもちょっと時間がかかるからすぐにできないし、私ができるかどうかわからないんだけど、方便としては、入りやすさでいえばむしろ気功、太極拳のほうが、もっといいかなという気がしています。

 気功、太極拳は、ちゃんとした人たちは、あれは動く禅・「動禅」というふうに捉えていますし、深くいけば坐禅同様の境地に行ける可能性は十分ある方法論だと思いますし、じっと坐っていて「脚がしびれた」というよりは、「身体を動かして気が流れて元気になりました」(笑)というほうが現代人には入りやすいかな、と思いますしね。

 だから、サングラハ青森の羽矢先生は気功をやっているわけです。

 中国にも何度も行って学んで、指導者としての資格を得て、授業の合間に学生を高原に連れていって気功をやらせるという授業をやったりしておられて、その成果を聞いてみて、「ああ、なかなかいいな」と思っています。

 でも、そういうことは今言ったとおり、人に指導できるところになるまでには習得に時間がかかるので、すぐにはできませんよね。

 私は、とにかく三十何年、四十年近く坐禅でやってきているから、他のものを取り入れてこれと同じだけの質にするのは、ちょっともう間に合わないなという気がするので、「私のところに来る人は、実践の方法としては坐禅でやってください」ということです。

 で、ご自分の向き不向きがあって、「いや、ヴィパッサナーのほうがいいです」とか、「太極拳のほうがいいです」とか、「ヨーガがいいです」とかという方は、それはそれでやっていただいて、「それでは理論が満足できない」という場合は、「理論はここで勉強して、実践はそっちでやりたいという人は、それでいいですよ」というのが、サングラハのポリシーなんです。

 だからMくんも、実践法としては「坐禅ではなかなか行かないから」といって他の方法論をやってもらっても、別に私は睨みませんよ。

 「Mくん、何よそ事やってるんだ」(笑)とかは思わないから、自分に向いたのでやってもらっていいと思います。

 それからもう一つ言わせてもらうと、やはり文献も含めて禅をちゃんと吸収しないと、せっかくの日本文化の伝統を見失ってしまいます。

 ヴィパッサナーは東南アジアが本家ですから、ヴィパッサナーをやるといつも東南アジア文化に引け目を持つことになるんじゃないでしょうか。

 禅をやると、もとは中国が本家だといっても、ちゃんと残っているのは日本ですから、引け目を持つ必要がないんです。

 とにかく禅というのは、鎌倉時代から営々と日本文化のかなり中核的なものとして伝わってきています。

 しかも、日本の伝統文化のひじょうに質の高いものは、たとえば茶道でも華道でも剣道でも、○○道といって、背後に禅があるものが多いんですね。

 だから、坐禅をやりながら、禅の文献を読みながら、そういうものが日本文化の源流だということを実感するという意味では、「坐禅をはずすと日本文化のアイデンティティをちゃんとつかめないぞ」という判断ももう一つあるんですよ。

 そういうわけで、私はどうしても坐禅にプラスの意味があってこだわっているわけです。

 質問者:

 感想なんですが、こちらにご縁があるから坐禅をやっていきたいなということはあったんですが、お話を聞いて、それだけじゃなくて、そういう意味で日本人としてのご縁もすごくあるんだな、と思いました。

 岡野:

 そうなんですね。

 鈴木大拙先生が『禅と日本文化』(岩波新書)という本を書いておられます。

 ちょっと禅文化が日本文化のすべてみたいにいっていて、いいすぎのところがあると思うんですが、でも読んでみて、確かにそうだと思います。

 鎌倉から室町期にかけてできた、いわゆる「和」・「和風」といわれる文化の原点を見ると、みんな背後に禅があります。

 茶道もそうだし、水墨画もそうだし、華道も、盆栽まで――盆栽も禅の精神が背後にあるようですよ――そういうふうなものがみんなそうなんです。

 だから、禅を見失うということは日本文化の原点を見失うことになるので、それは、方法論として入りやすいとか、感情のコントロール法として効果が出るのが早いとか、気持ちがいいとかということには代えられないという思いが強くある、ということです。

 あ、今日の話はわりに説得力がありましたね。(笑)



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部派仏教のコンセプト

2006年01月07日 | メンタル・ヘルス

 ブッダは、世界の構成要素を5つに分類して「五蘊(ごうん)」と呼びました。

 まず「色(しき)」ですが、これは色や形があって目に見える「物」あるいは「物質的現象」のことで、色気や性欲のことではありません。

 「受(じゅ)」は、色=物を感受・知覚する作用、

 「想(そう)」は、想念・イメージ作用、

 「行(ぎょう)」は、意思や行動決定の作用で、「諸行無常」の「行」とは意味が違います。

 「識(しき)」は、思考・意識作用です。

 現代的にまとめると、「色」が「物」、後の4つは「心」に当たりますが、仏教では心への洞察がくわしくなっているわけです。

 さらに、部派・アビダルマ仏教では、人間を考えるのに、「十二処(じゅうにしょ)」という分類をしました。

 まず、現代風にいうと感覚器官のことを「根(こん)」といい、眼(げん)・耳(に)鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん、身体)、意(い、意識)の器官をそれぞれ「眼根」「耳根」…といいます。

 それから、物の色や形、音、香り、味、身体感覚、外的な存在という「根」が感じる対象を「境(きょう)」といって、それぞれ「眼境」「耳境」…といいます。

 「処(しょ)」というのは、現代の言葉でいえば「認識が起こる場」という意味で、根と境それぞれ六つずつあり、あわせて「十二処」になります。

 この根=器官と境=対象が、お互いに入り込みあうことによって、心の具体的な働きが起こるので、「十二入(じゅうににゅう)」ということもあります。

 その心の具体的な働き・識別作用を「識(しき)」といって、「眼識」「耳識」……「意識」といいます。

 例えば、眼という器官・「眼根」と眼の対象・「眼境」が出会い、入り込みあって、眼で何かが見えるという「眼識」が起こる、というわけです。

 「識」も六つありますから、「十二処」と足して「十八界(じゅうはっかい)」といいます。
 
 「界(かい)」とは「構成要素」「領域」というふうな意味で、『般若心経』では、「眼識」ではなく「眼界」となっていますが、おなじことです。

 部派仏教では、こういうふうに、「六根+六境+六識(六界)=十八界」で、人間の身体的な感覚器官と、それが感じとる対象と、そこで起こる心の働き・識別作用の全体を、整理・分類しています。

 そして、それらの一つ一つが、無常、無我、苦……であることを、実にていねいに洞察・観察していくという思索的な瞑想(正思惟+正定)を行なったりするのです。

 そして、人間もそれ以外の物もすべて実体ではない・無我であること――「人無我(にんむが)」と「法無我(ほうむが)」といいます――を心からわかる・覚ることを目指すのです。

 アビダルマ仏教では分類・整理がもっともっとくわしくなっているのですが、くわしくやりすぎるとかえってわからなくなるので、本授業ではこのくらいにしておきます。

 しかしともかく、こうして見てくると、ゴータマ・ブッダから部派仏教に到る仏教は、非常に理性的・哲学的であり、さらにそれにとどまらず「覚り」という霊性を目指すものであったことがはっきりおわかりいただけるのではないでしょうか。

 そういう意味で本来の仏教は、古臭い迷信(呪術的・神話的宗教)ではなく、哲学的・霊性的宗教だったのです(「仏教の6つの側面」参照)。



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言葉を超えて

2006年01月05日 | メンタル・ヘルス

 リクエストがありましたので、『信心銘』の続きです。


 多言多慮、      (たごんたりょ)

 転た相応せず。    (うたたそうおうせず)

 絶言絶慮、      (ぜつごんぜつりょ)

 処として通ぜざるなし。 (ところとしてつうぜざるなし)

  意 訳

 ぺらぺらしゃべり、あれこれ考えてると

 どんどんピント外れになってしまうぞ。

 だまって、よぶんなことを考えないで、

 〔まっすぐ進めば〕どこにだって通用するんだ。


 これは、浅く読んでしまうと、「言葉じゃないよ、行動だよ」という話のようです。

 また、「不立文字(ふりゅうもんじ)」、言葉でいうことはできない、というのは禅のキャッチ・フレーズです。

 しかし、仏教の流れ全体でいえば、膨大な経典の言葉や詳細厳密な論書の言葉が積み重ねられた上で、最後の最後のところは「言葉を超えている」という話になるのであって、最初から言葉を軽視したり無視したりしたのではありません。

 学ぶべき言葉はしっかりたっぷり学んだ上で、言葉を超えたものをつかんだら、もう人生のどんなところでちゃんと生きていける、という話なのです。

 そう読むと、これは一見とても平易ですが、実はとても深い話です。

 言葉の世界から言葉を超えた世界へ、そして言葉を超えた世界からもう一度言葉の世界へ、という自由自在な往復ができる、しなやかな心を得たいものです。

 今年も、ご一緒に学びを深めて行きましょう。

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休みと仕事

2006年01月04日 | メンタル・ヘルス
 今年は、暦の具合でお正月の休みが短く、今日から仕事の方が多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、あーあと思っている方もいるかもしれません。

 そこで参考に、『信心銘』の言葉をもう一つ。


 迷えば寂乱を生じ、 (まよえばじゃくらんをしょうじ)

 悟れば好悪なし。    (さとればこうおなし)

 一切の二辺は、    (いっさいのりょうへんは)

 浪りに自ら斟酌す。  (みだりにみずからしんしゃくす)

  超 訳

 わけがわかってないと、ゆったりと静かなのがよくて、あわただしくてさわがしいのは嫌だと思う。

 人生ってものが本当にわかれば、そんな好き嫌いなんかなくなるのさ。

 あれだこれだと対立・葛藤するのは、

 みんな自分の勝手な都合で考えるからなんだよね。


 例えば、休み・遊びの時間が自分の時間、仕事・働く時間は本当の自分の時間ではない、と対立的に考えていると、人生の大半が自分の生きている時間ではなくなってしまいます。

 それでは、有限な人生の時間をとても無駄にしてしまうことになります。

 かといって、仕事がすべてというのも、無理があり、人間として偏っているのではないでしょうか。

 休むにしても働くにしても、すべてその時その時を自分の人生の時間としてしっかり生きるというのが、シンプルで賢い生き方のようです。

 仕事が始まったら、好きだ嫌いだといっていないで、しっかり働きたいですね。

 7、8、9日はまた3連休です。

 すべて同じ1つの人生の時間、でもその時によってすることの区別はちゃんとある。

 だとしたら、ポイントはバランスにある、というシンプルな話でした。

 以上、自戒の学びでした。


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見るなら大きな夢

2006年01月03日 | メンタル・ヘルス

  『信心銘』の超訳が、わりに評判がよかったので、つい調子に乗って、もう一つ。


 眼もし睡らずんば、  (まなこもしねむらずんば)

 諸夢 自ら除く。   (しょむおのずからのぞく)

 心もし異ならずんば、  (しんもしことならずんば)

 万法一如なり。    (まんぼういちにょなり)

  超 訳

 目が寝ぼけてなけりゃ、

 つまんない夢なんか自然に見なくなるんだよ。

 心があちこちうろうろしてなけりゃ、

 すべてはありのままぜんぶ一つのコスモスなのさ。


 夢を持つことはいいことだ、とふつう考えられていますが、夢には、わけのわからない夢もあれば、つまらない夢も、くだらない夢も、下品な夢も、悪夢もあります。

 私たちは、そういう夢を持つことによって、かえって人生をよけいに複雑にして混乱させ、自分も人も悩ませるという、愚かなことをしがちです。

 もちろんいい夢を持つことはいいことなのですが、その前に、ちゃんと目を覚ましたほうがいいのではないでしょうか。

 ちゃんと見れば、世界は私の勝手な夢のためにあるのではなく、世界そのものの理と方向性に従って動いています。

 そして、その世界・コスモスと私たちは、実は一体なのでした。

 夢を見るなら、ちっぽけな自分ひとりの勝手な夢ではなく、私たち=コスモスすべての大きな夢にしましょう。

 というのが、私の初夢の話でした。


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単純明快な生き方への招待

2006年01月02日 | メンタル・ヘルス

 正月二日の事始め・仕事始めは、中級講座の『信心銘』のテキスト作成でした。

 作成しながら読み直していると、改めて実にきっぱりさっぱりとした文章で、胸がすく思いでした。

 冒頭のところだけ、私の超訳で紹介しましょう。


 至道無難、     (しどうむなん)
 唯だ揀択を嫌う。  (ただけんじゃくをきろう)
 但だ憎愛莫くんば、 (ただぞうあいなくんば)
 洞然として明白なり。(とうねんとしてめいばくなり)

  超 訳

 究極の生き方は、むずかしくなんかないんだよ、

 ああだこうだと文句をいわないだけのことさ。

 好きだ嫌いだといいさえしなければ、

 人生はきれいさっぱり単純明快なんだからね。


 ちょっと乱暴な超訳ですが、雰囲気は伝わるのではないでしょうか?

 いいの悪いの、好きだ嫌いだ、損だ得だと、文句をいっていないで、できることをする、できるだけのことをする、という生き方をすれば、人生は単純明快、実に爽やか、というわけですね。

 こういうふうに、禅は、爽やかに楽しく生きるための道筋を教えてくれます。

 みなさんも、文章でああだこうだと知識として学んでいるだけでなく、今年は、一緒に坐禅もしてみませんか?

 私にできるかな?……とためらっていないで、

 やれば、できる! やりたければ、できる!


*詳しくはまたお知らせしますが、2月17日12時ころから5時ころまで、小田急線参宮橋駅近くの不二禅堂で、まったくの初心の方のための坐禅入門講座を開催します。ぜひ、お出かけください。


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はじめての太陽

2006年01月01日 | メンタル・ヘルス

 午後2時半を過ぎて、ようやく太陽が顔を見せはじめました。

 なんだか、お月さまのようですが、お日さまです。

 ちょっとさみしい感じもしますが、きれいなので、載せることにしました。


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ロジャーズ派の意味と限界

2005年12月14日 | メンタル・ヘルス

 サングラハ心理学研究所の昨日(13日)の講座は、「聴くこと――コスモス・セラピーの視点からカウンセリングの基本を学びなおす」の最終回でした。

 そこで話した内容のレジュメを公開しておきたいと思います。

 これは、批判のための批判や敵対的批判ではありません。

 もし認識不足、まちがいがあれば、当然のことながら訂正する用意があります。

 関係者の方の生産的なコメントをいただけるとうれしいと思っています。

 ロジャーズ派の意味と限界

 人間の潜在力・成長可能性への信頼は、人間性心理学全体が共有している。

 感情に焦点を当てた傾聴-共感的理解によってクライアントが体験するのは、マズローの階層構造理論でいうと、所属と愛の欲求、承認欲求のある程度までである。

 もっとも典型的・理想的に行なわれた場合、それらの欲求が適度に満たされることによって癒され、自己成長欲求に到りうる。

 しかし、所属と愛の欲求や承認欲求が実際の社会生活の中で十全に満たされるためには、それらを満たしうるような適切な行動が必要であり、適切な行動には適切な知識と考え方(思考)が必要である。

 ロジャーズ派では、無条件に感情を受容することに集中しすぎて、そうした学習過程を組み込んでいない。

 そのため、深い体験をすることなしにただ「親身になってグチを聞いてもらう」ことで一時的に気が楽にはなるが、問題解決はせず、カウンセリングが長引くだけという結果に終わることも多い。

 また、日本には自己決定-自己責任という文化的な風土がないので、深い体験をしたとしても、その結果、適切な思考、知識、行動の自己学習が自発的に行なわれるということが起りにくく、おなじくカウンセリングが長引きがちである。

 クライアントの自己改善・自己学習意欲を引き出し、かつセラピストのインストラクションを受け入れる気になってもらうには、「心の絆(ラポール)」を形成する必要があり、そのための導入部でのベースとして、傾聴-共感はできるだけあることが望ましい。

 しかし、知識・思考・行動が適切なものに変容するために不可欠なのは、適切な事柄の「学習」である。

 論理療法は、感情はそれ自体で独立して起こるのではなく、自明化・自動化した思考(belief)に大きく影響されて起こることを発見した。

 そこで、もちろん感情を大切にはするが、それに焦点を当てるのではなく、思考・思い込みに焦点を当て、働きかけ、変えることで、不健全な否定的な感情を健全なものに変えるという教育―学習的な技法を開発している。

 もちろん心理療法に万能薬があるとは思えないが、脳の病理がない・または少ない中程度までの心理的な不調の治癒の方法としては、比較的短期間でかなりの効果があがる有効な方法だと評価できる。

  自己肯定のための条件・4つの層

 個人レベル
 社会集団レベル(家庭、友人グループ、会社など)
 民族・国家レベル
 自然・宇宙レベル

 人間性心理学は、主に個人としての人間に焦点が当たっており、一部、集団における人間を重視するものもあるが(エンカウンター・グループ、グループ・ダイナミックス、アドラー心理学etc)、民族・国家、自然・宇宙レベルは十分視野に入っていない。

 その点を補うものが、サングラハにおける仏教の学びとコスモス・セラピーの組み合わせである。


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