先月の23日に東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の最終報告書が公開され、そして東電のTV会議の動画が編集の限りを尽くして流されたのがつい最近でした。4報告書の中で最も分かり易い、言い換えればメディア受けの良かったのは国会事故調の報告書で、事故の原因を「人災」と断定してしていたからです。でも私の捉え方は逆で、どこかの国の高速鉄道事故の収束のさせ方と似たものを感じてしまいます。
ある事故の裏には安全をないがしろにして私利私欲をむさぼる悪者がいて、彼らを粛清(党籍剥奪など)すれば問題が解決すると思わせてしまうという伝統は変わりそうにありません。あの事故から1年以上経過してしまいましたが「現物」は調査もされずに放置されたままようです。
最後の政府事故調の報告書は正義好きのメディアやネットイナゴには評判が良くない。「これで全員無罪放免かい」といった捨て台詞も投げかけられました。私もこの報告書には満足しているのではありませんが、肝心の「現地」と「現物」に近づけない現状では真の原因追求は今後の課題になるでしょう。
この報告書の中でメディアの関心を惹いて、評価されたのは「委員長所感」でした。
(2)見たくないものは見えない。見たいものが見える。
人間はものを見たり考えたりするとき、自分が好ましいと思うものや、自分がやろうと思う方向だけを見がちで、見たくないもの、都合の悪いことは見えないものである。
あの読売のコラムでも取り上げられました。この所感を報告書本文で見ると以下のような注釈が付けられたいました。
* ユリウス・カエサルは、部下の総督代理サビヌスがガリアのウェネティ族に仕掛けた計略が奏功したことを描写した『ガリア戦記』第3 巻18 において、fere libenter homines id quod volunt credunt(人間は自分たちが望んでいることを大抵勝手に信じてしまう)と記した。このフレーズが、「人は自分の見たいものしか見ない」又は「人は見たいと欲するものしか見ない」などと意訳され、カエサルの格言とされるようになった。
「ガリアのウェネティ族に仕掛けた計略」とは何かが分からないとカエサルの格言の意味も分かりません。振り返ると私の後のの書架に角川文庫版の『ガリア戦記』(國原吉之助訳)がありました。現在では國原吉之助訳が講談社学術文庫で読めます。第3巻はカエサルの3年目の戦争が記述されていますが、サビヌスがどこで戦ったのかを以下の地図で示します。クリックすると拡大します。
総督代理サビヌスがカエサルから受け取った軍を進め、ウネッリ族の地に宿営し、ここに堡塁を築きました。平定したばかりのガリア諸族は厭戦派の長老達を抹殺し、サビヌスの陣営に対峙しますが、サビヌスは預かった兵の安全も考えて直ぐには戦を始めません。この対応に味方の中からも「あいつは腰抜けだ」と非難の声も出る始末。この腰抜けという噂が広まった頃を見計らって、供のガリア人の中から抜け目の無い者を選んで、莫大な褒美を約束して敵陣に送り込みました。この男が「ローマ軍の指揮官は腰抜けで、食料も少ないので、カエサルに助けて求めて脱出するから、そこを叩け!」と吹いたのです。これが「自分たちが望んでいること」だったのです。
兵らは指導者らの譲歩をかちとると、まるで勝利が確実になったかのように、意気込み、薪や柴束を集めると、それでローマ側の壕を埋めようと、陣営に突進する。
敵が背負った荷物で自由にならず、疲れていたのを見てサビヌスは二つの門を開いてローマ兵を出撃させて敵を撃破することが出来ました。ウェネティ族が見えなかったのはサビヌスの計略でした。
2千年前のローマの格言の意味を探っていると、もっと昔の「ヘラクレイトスの言葉」を思い出します。
田中美知太郎訳『ヘラクレイトスの言葉』弘文堂(アテネ文庫 1950, 1)
予想しなければ、予想外のものは見出せないだろう。それは
そのままでは捉え難く、見出し難きものなのだから。
英訳とギリシャ語原文との対訳もあります。
老眼対応でクリックすると拡大します。アインシュタインが光をどう考えていたかも記してあって含蓄が深いですね。これを
想定しなければ、想定外のものは見出せないだろう。
とするとよりわかり易くなると思いますが、どうでしょうか?
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ある事故の裏には安全をないがしろにして私利私欲をむさぼる悪者がいて、彼らを粛清(党籍剥奪など)すれば問題が解決すると思わせてしまうという伝統は変わりそうにありません。あの事故から1年以上経過してしまいましたが「現物」は調査もされずに放置されたままようです。
最後の政府事故調の報告書は正義好きのメディアやネットイナゴには評判が良くない。「これで全員無罪放免かい」といった捨て台詞も投げかけられました。私もこの報告書には満足しているのではありませんが、肝心の「現地」と「現物」に近づけない現状では真の原因追求は今後の課題になるでしょう。
この報告書の中でメディアの関心を惹いて、評価されたのは「委員長所感」でした。
(2)見たくないものは見えない。見たいものが見える。
人間はものを見たり考えたりするとき、自分が好ましいと思うものや、自分がやろうと思う方向だけを見がちで、見たくないもの、都合の悪いことは見えないものである。
あの読売のコラムでも取り上げられました。この所感を報告書本文で見ると以下のような注釈が付けられたいました。
* ユリウス・カエサルは、部下の総督代理サビヌスがガリアのウェネティ族に仕掛けた計略が奏功したことを描写した『ガリア戦記』第3 巻18 において、fere libenter homines id quod volunt credunt(人間は自分たちが望んでいることを大抵勝手に信じてしまう)と記した。このフレーズが、「人は自分の見たいものしか見ない」又は「人は見たいと欲するものしか見ない」などと意訳され、カエサルの格言とされるようになった。
「ガリアのウェネティ族に仕掛けた計略」とは何かが分からないとカエサルの格言の意味も分かりません。振り返ると私の後のの書架に角川文庫版の『ガリア戦記』(國原吉之助訳)がありました。現在では國原吉之助訳が講談社学術文庫で読めます。第3巻はカエサルの3年目の戦争が記述されていますが、サビヌスがどこで戦ったのかを以下の地図で示します。クリックすると拡大します。
総督代理サビヌスがカエサルから受け取った軍を進め、ウネッリ族の地に宿営し、ここに堡塁を築きました。平定したばかりのガリア諸族は厭戦派の長老達を抹殺し、サビヌスの陣営に対峙しますが、サビヌスは預かった兵の安全も考えて直ぐには戦を始めません。この対応に味方の中からも「あいつは腰抜けだ」と非難の声も出る始末。この腰抜けという噂が広まった頃を見計らって、供のガリア人の中から抜け目の無い者を選んで、莫大な褒美を約束して敵陣に送り込みました。この男が「ローマ軍の指揮官は腰抜けで、食料も少ないので、カエサルに助けて求めて脱出するから、そこを叩け!」と吹いたのです。これが「自分たちが望んでいること」だったのです。
兵らは指導者らの譲歩をかちとると、まるで勝利が確実になったかのように、意気込み、薪や柴束を集めると、それでローマ側の壕を埋めようと、陣営に突進する。
敵が背負った荷物で自由にならず、疲れていたのを見てサビヌスは二つの門を開いてローマ兵を出撃させて敵を撃破することが出来ました。ウェネティ族が見えなかったのはサビヌスの計略でした。
2千年前のローマの格言の意味を探っていると、もっと昔の「ヘラクレイトスの言葉」を思い出します。
田中美知太郎訳『ヘラクレイトスの言葉』弘文堂(アテネ文庫 1950, 1)
予想しなければ、予想外のものは見出せないだろう。それは
そのままでは捉え難く、見出し難きものなのだから。
英訳とギリシャ語原文との対訳もあります。
老眼対応でクリックすると拡大します。アインシュタインが光をどう考えていたかも記してあって含蓄が深いですね。これを
想定しなければ、想定外のものは見出せないだろう。
とするとよりわかり易くなると思いますが、どうでしょうか?
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