将来、一流大学に合格していく子は何が違うのか?
・できるようになると一番楽しい科目といえば
出来れば何でも楽しいだろ
数学・現代文・物理・世界史・倫理
数学 歴史もなかなか楽しいけど
俺は英語だな 数学はできないからなんともいえん
絶対数学 数学の問題解いてる時はゲームしてる感覚
受験終わった今も遊び感覚でやってるわ
苦手な科目で解けた時の方がうれしくない?
英国社はできて当たり前の成績だから間違ったら腹立つだけだわ
特に記述とかすらすら答案書けると気持ちい
英語も楽しいけどやっぱ数学かな
英語 余裕で長文が理解できた時の快感は異常
数学できると頭いいと思われて尊敬された
・勉強の「建前と本音」
本・書籍や論文にするときは、見栄えやカッコよさ優先で以下のように難しく書きます。
これが、建前というものです。人間誰しも頭よく見られたいですし世間体もありますから。
世の中には建前と本音があり建前が重宝されますが、本音(本質)を見失うと痛い目に遭います。
・これが建前というものです。
合同式における四則演算です。 a、b、c、d、n は整数とします。
足し算: a≡b、c≡d (mod n) ならば、a+c≡b+d (mod n)
引き算: a≡b、c≡d (mod n) ならば、a-c≡b-d (mod n)
かけ算: a≡b、c≡d (mod n) ならば、a×c≡b×d (mod n)
(見栄えはいいですが、最初は通り過ぎるのが良い)
・これが本音です。
36÷5を計算すると、余り1
(30+6)÷5を計算すると、余り0+余り1=0+1=余り1
(41-5)÷5を計算すると、余り1-余り0=1-0=余り1
(6×6)÷5を計算すると、余り1×余り1=1×1=余り1
つまり、どうやっても余り1(本当なの?)
・本音→建前で上手く行く
建前だけだと応用問題でつまづきます。
建前→本音は、理解に時間がかかるので挫折する人が多いです。
※大多数の学校・塾・予備校・参考書・問題集は、残念ながら建前の羅列が中心。
・それでは問題に
難しくて有名な「東大の数学」
去年の東京大学の問題(表記などを分かり易く変更)
9=3×(2+1)としたとき、
9を2で割った余りは、3×(2+1)を2で割った余りと等しいことを示せ。
9を2で割った余りは1
3×(2+1)を2で割った余りは、
1×(0+1)=1×1=1 1=1でお終い(おしまい)。
・それでは次の問題に
今年の九州大学の問題(表記などを分かり易く変更)
「4×4×4×4-1」は、3の倍数であることを示せ。
3の倍数である、とは、3でわったら余り0ということだから、
「4×4×4×4-1」を3でわったら余りは、
1×1×1×1-1=1-1=0 でお終い(おしまい)。
※実は「4×4×4×4×・・・×4-1」を3でわっても余り0だから3の倍数。
・それでは次の問題に
下のような5個の数があり、この中から2つの数を選びだす。
1,10,11,100,101
このとき次の問いに答えなさい。
2つの数の和が3の倍数になるのは何組ありますか。(中学入試問題)
0余る(割り切れちゃう)・・・なし
1余る・・・1,10,100
2余る・・・11,101
和が3の倍数になるのは、1余る数と2余る数の和であるから、
1余るのは3つで、2余るのは2つだから、3×2=6組となる。
・それでは次の問題に
今日は、待ちに待った日曜日です。
さて、100日後は何曜日か分かりますか?
教えてください。
7日後は、日曜日です。
8日後は、7+1で月曜日です。
14日後は、日曜日です。
15日後は、14+1で月曜日です。
100日後は、7×14+2なので、火曜日です。
・数、それは自然にそして必然的に生まれた。
数は人が自分をとらえる心的感覚、つまり、我々の体を表わす1本の線から始まる。
数はひとつ、もうひとつ、さらにもうひとつと大きくなっていくが、常にわれわれの体と密接に結びついている。
手や足が2本であること、指が10本であること、そして必要なら足の指が10本であることも。
われわれは互いに数えあい、ものや生き物、過ぎてきた日々を数える。
数のおかげで世の中のものが数えられるようになった。
頭上に輝く星を結んで星座を作り、その物語を伝え合った。
そしていたるところで人は数を学び、数えることを身につけた。
いつでも「いくつなのか」を知る必要があったから。
「1」は最初。唯一の出発点。それはビッグバンのときの宇宙。そして宇宙のそれのように「1」がどんどん集まると「無限」になる。が、全ての始まりは「1」からだ。「1」は今日、「1」は今、「1」は自我、「1」は私、「1」は最初なのだ。
「2」はペア。2は矛盾と調和――対立とペア――があふれている。「2」は反意語や同音異義語を生む。私と貴方。男と女。母と子。「1」が割れて「2」が出来る。空を見れば太陽と月があり、地上には昼と夜が、朝と夕が、日の出と日の入がある。「2」はペアで、「1」からの分離なのだ。
「3」は魔法の数。人は生まれ落ち、生き、死ぬ。別の言い方で幼少期、壮年期、老年期としてもいいが結局は同じことだ。好機はいつも3度ある。魔法のランプの精は3つの願い事を叶えてくれる(ただし願い事の数を増やして欲しいという願い事はだめ!)。王には必ず3人の息子がいるものと決まっていて、必ず末っ子が森で摩訶不思議なものと遭遇して3度のチャンスを与えられる。2度あることは3度あるとされ、万歳は3唱する。だが何はさておき、「3」は親密さや魔力やパワーが最も強い。それは「3」が子どもにあたる数だからだ。母親、父親、そして子どもがそろうと「3」になる。つまり「3」は未来のための数なのだ。
「1」はすべて。
「2」は鏡像のペア。
「3」は魔法の数。
そして「4」は堅実な数だ。
1、2、3を表わす最初の記号が作られたのは大昔で、どれも単純な形だった。それ自体が数のカウントとなる直線、つまり1本の線、2は2本の線、3は3本の線だったのだ。しかし「4」は違う。4本の線は書くのも理解するのも、複雑で面倒なのだ。
昔の人々は、「4」が公正や平等を表わすと信じていたほか、4が象徴する概念に秩序も加えた。世界のどこに自分がいるのかを決めるのに、4が必要だったからだ。世界は四方位―東西南北―に分けられるのである。
「4」は、方角だけでなく時間も区切る。季節は春夏秋冬の四つがあって、1年でひとめぐりする。暦月との関連でいえば、月には四つの相がある。新月、満ちていく月(上弦)、満月、欠けていく月(下弦)だ。4は1日の時間をかぞえるのにも使われ、1日は午前、正午、午後、晩という四つの時間帯に分けられる。
「5」を辞書で引くと、4よりひとつ多いとそっけなく書いてある。確かにそのとおりだ。また同じ理屈から、5は6よりひとつ少ない。だが、それでは話が始まらない。5の世界では、4以上のことができる。5は力。5は握りこぶしの指。5は鼻にくらわせるパンチだ。
昔の人々は「5」を結婚の数とも呼んだ。2は最初の偶数、3は最初の奇数で(1は数とは見なかったので・・・)、2と3―奇数と偶数、女性と男性―を足し合わせると5となるからだ。
さらに5は、結婚に次いで子どもとも結びつけられ、自然のあるがままの状態とも関連づけられた。自然は確かに、5つの頂点をもつ星や、5枚の花びらからなる花や、末端に5本の指がある四肢からできている。
ただ、5はまだ究極のゴールでないように思われる。5は10に到達したいんだ。
「6」は数学的に見て、ただ5にひとつ足しただけの数ではなく、非凡な数といえる。「6」は完全なのだ。
では何が6を完全たらしめているのかといえば、冷静に考えれば単純だ。数学で「完全数」とは、それ自身以外で割り切れる数を足し合わせると、その数に等しくなるような自然数を指す。いい換えれば、それ自身を除く約数の和に等しいということだ。6は1と2と3で割り切れ、これらを足し合わせると6になる。よって完全数なのである。