スケルトンハウス‐きまぐれCafe

生活とビジネス

そのときの思いや状況で、いろいろなことを話し合ってきた喫茶店。きまぐれに、思いつくままに・・・

すずめのお宿=神戸・禅昌寺

2018-11-03 08:26:30 | 日記・エッセイ・コラム

 宇治拾遺物語(四十八「雀報恩の事」巻三の十六)。「腰折雀」の「すずめのお宿」ではないかといわれているお寺に行きました。

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 神戸市須磨区禅昌寺町2丁目の臨済宗南禅寺派のお寺、神撫山 禅昌寺(じんぶさん ぜんしょうじ)です。

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 禅昌寺のご本尊は十一面観音です。後光厳天皇の勅令により延文年間(1356年 - 1361年)月菴宗光の開山により創建された西摂(せいせつ)有数の寺院です。天正3年(1580年)、豊臣秀吉の三木城・別所長治攻めで焼失したが、後に桃山御殿から豊国亭を移して方丈(一丈=3.03m四方の面積)として再興されました。
 しかし、これは明治12年(1879年)に焼失し、現在のものは大正4年(1915年)に再建されたものです。

 創建時の様相を最も残しているのが、山門です。

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≪西摂(せいせつ)とは≫

 摂津の国西部にあたり、兵庫県南東部に相当する。
 摂津国(せっつのくに)は、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。
 その摂津国の中心であった大坂からの方位に基いて、島上・島下・豊島・能勢の四郡が北摂、川辺・有馬・武庫・菟原・八部の五郡が西摂と呼ばれ、兵庫県南東部が西摂にあたる。

 禅昌寺は「紅葉寺」とも呼ばれ、「スズメのお宿」としても知られています。昭和の始めまでは、紅葉の季節には、境内に赤毛氈を敷いた茶屋ができたりして風流人で賑わっていたようです。この場所は現在では幼稚園になっているようです。
 「スズメのお宿」は開山堂にぶらさがっている立杭焼の瓢箪(ひょうたん)です。現在の本堂にはぶらさがってはいません。
 禅昌寺の「スズメのお宿」が立杭製の“瓢箪”とされているのは、宇治拾遺物語の「腰折雀」からきているのではないかと考えられています。

 現在の禅昌寺は、お堂(本堂)の拝観をしておられません。しかし、立杭製の瓢箪は、修行僧が行脚するための杖草鞋などと伴に三和土(たたき)に置かれており、(ご朱印を頂きに)本堂と繋がっている庫裏を訪問すれば、拝観することができます。大きさ、高さは19cm程度です。

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 禅昌寺は、福原西国三十三所の第十番の観音霊場です。福原西国三十三所観音霊場は、かつて平安時代に福原京がおかれた地域の観音霊場で、神戸市兵庫区を中心に長田区、中央区、須磨区に点在する(ご本尊を観音様とする)寺院です。

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 日本各地に、“雀のお宿”を名乗るところは多々あります。“雀のお宿”とはおとぎ話「舌切り雀」にでてくる、山奥の藪の中にある雀たちのねぐら(=御殿)を指しているようです。
 老人が、雀のお宿を探すために何人もの人に道を聞くが、非人道的な扱いを)受けることが多かった。
 明治時代以後、子供にふさわしい物語とするためこうした過激な非人道的な部分は削除され、おとぎ話としての形が整えられました。
 「舌切り雀」は、江戸時代の赤本や明治時代の巌谷小波によって広く知らしめられた昔話です。

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 江戸時代の赤本とは、寛文期(1661年~1673年)に始まり、元禄(1688年~1704年)・享保期(1716年~1736年)に盛り、寛延期(1748年~1751年)まで刊行された。朱や紅で染めた表紙に、題箋を貼った。5丁1冊の1-2冊(10-20ページ)で1編だった。「桃太郎」・「さるかに合戦」・「舌切り雀」、「花咲か爺」などの昔話など子供向けが主で、菱川師宣・近藤清春・鳥居清満・西村重長・奥村政信などの浮世絵師らが、本文も書いた。

 宇治拾遺物語の「腰折雀」は報恩譚ですが、「舌切り雀」は意趣返し譚です。
 老人が試練を経て異境を訪問し、お礼をされる一方、物まねをしていいとこ取りをしようとする、隣の意地悪な老人が仕返しされます。
 “雀の恩返し”あるいは“雀の意趣返し”という点で似ていますが、明らかに違う話ではないかと思われます。

≪宇治拾遺物語の「腰折雀」現代文意訳 ページ1  ページ2  ページ3



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