★あづみ野コンサートホール開館12周年・ドビュッシー生誕150周年記念
高橋多佳子ピアノ・リサイタル
《前半》
1.ドビュッシー :「ベルガマスク組曲」より、“月の光”
2.ドビュッシー :「子供の領分」 全曲
3.シューベルト :即興曲 第3番 変ト長調 作品90-3
4.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4
《後半》
5.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 作品2-3
6.ショパン :ノクターン 第8番 変ニ長調 作品27-2
7.ショパン :スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
《アンコール》
※ ドビュッシー :「前奏曲集第1巻」より、“亜麻色の髪の乙女”
(2012年11月18日 あづみ野コンサートホールにて)
行けてよかった。
あづみ野のみなさんに会えてよかった。
そして、多佳子さんの演奏を聴けてよかった・・・心からそう思える1日でした。
ワイドビューしなのの車窓から木曽路の紅葉を楽しんだのち、少々余裕をもって穂高駅に到着。
穂高神社で七五三の黄色い歓声のなか、ひとり息子のために合格御守を求め天神社をお参りしました。
心だにまことの道に叶ひなば 祈らずとても神や守らん (道真公)
なぜに世間の親がこぞって【受験生を抱えたときにかぎって】天神社を訪れずにおれないかぐらいお見通しでありましょうに、菅公もお人が悪い・・・
いや、菅公のせいじゃないというなら、神社の縁起にそんな歌を紹介しないでほしいよね・・・
などと思いつつ、いつもの道をコンサートホールへ向かいます。
生憎の少雨で壮観な常念岳は拝めず残念・・・
でも、犀川の中州ではシギが羽を休め、頭上ではトンビがクルリと輪を描いて、名も知らぬ鳥が誰のためでもなく美しい声でさえずっているようすを五感で感じながら深呼吸すると、自分自身が風景に溶け込み自然の一部だと実感できるから不思議です。
自分と自分と対峙するなにか・・・
普段は・・・パソコンに向かっているときなどは特に・・・そんな風にしか物事を感じ取れないでいるけれど、本当はそうではない。。。
「自分」という言葉があるから「自分」があると思ってしまうけれど、世の中にあるものすべてから名前を取っ払ってしまえば自分も相手もない世界、言い換えれば「すべてが自分の世界」が安曇野(だけじゃないけど)では体感できる気がするのです。
そしてそれは・・・
何かに時間を忘れて入れ込んでしまったり、ステキな音楽に聴き入ってしまったりしたときにも体感できること。
そんな時間過ごすことを期待して訪れ、そして満たされて帰ることができる・・・ありがたいことです。
ありがたいといえば・・・
ひとつのコンサートの裏側でどれだけの献身があるのかはそれなりに知っているつもりでおりますが、コンサートホール、調律、運営スタッフのみなさんに心から感謝申し上げます。
調律・録音・オーディオなどに関する興味深いお話などというレベルではない貴重なご垂示や、油揚げを裏返しにしたおいしいお稲荷さん、私が驚嘆するセンスのギャグにいたるまで、いろんなものを土産に持ち帰ることができ大満足でありました。
就中、はじめてあづみ野コンサートホールを訪れて6年・・・
ベーゼンドルファーのピアノがますます素晴らしい音に育っていることを実感しているのですが、その調律に関して伺ったお話では、今回はシューベルトにフォーカスし、作曲家・作品ごとの音域はもちろんピアニストのテクニックまで考慮して行われている・・・とのこと。
お話を伺えば「なるほど」と思えることばかりではありながら、その実現のためには、実は生半可じゃない技術と経験の裏打ちが必要であることは容易に想像がつき、それを当たり前に仕上げてしまうプロの仕事に感銘を受けました。
自分の仕事においても、かくありたいものです。
さて、主役の高橋多佳子さんですが、今回も素晴らしい演奏を届けてくれました。
ロイヤルトランペットさん流に今回の名言をご紹介すれば【地で行くピアニスト】でありましょう。
まさに地でいくピアニスト全開!
得難い感銘を与える演奏とのギャップがこれまた信じがたいのですが、それはひとえに聴き手を惹きつけずにおかない演奏の魅力の証左に他なりません。
インティメートな会場だからこそ、いつもながらの客席の後ろからの登場。
『月の光』では、冒頭のピアニシモはピアノの響・会場の空気を確かめるかのようなやや様子見の感もありましたが、クレッシェンドにつれていつものの世界へすーっと誘われ、流麗なアルペジオに乗っての旋律線の表現には早くも我を忘れた陶酔がありました。
これはベーゼンドルファーの特徴的な芯のくっきりした音、スタインウエイやヤマハなどに感じる付帯音やもれなくついてくると言いたいほどの残響が少ない特徴によるところも大きい・・・かもしれません。
『子供の領分』が、先月岐阜県の関市で聴いたときとの聴きくらべになったため、いっそう確信的にそう思えるのです。
「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の冒頭など明らかに多佳子さんは聴かせ方を変えているように思えたのですが、これもピアノの性格によるもの、それを生かそうとした技かもしれません。
音の芯がはっきり聞こえるということは、ピアニストの一音一音に対する思い入れがはっきり聞こえるということでもありますが、響や雰囲気でごまかせないということでもあると思います。
どのフレーズをとっても流されない丁寧なタッチにすごいなと舌を巻くと同時に、ピアノそれぞれの持ち味を生かして弾かないといけないからピアニストはタイヘンだと思ったり。。。
で、あくまでも自分の感想としては、関市のピアノと安曇野のベーゼンと比べると、関市の方が残響というか倍音のせいというか音が滲んでいるように響いていたように思われます。
それがいいとか悪いとかに直結しないのがまた不思議なところですが、ベーゼンの方がピアニストのストレートな表現が楽しめると思いつつも、「人形へのセレナーデ」とか「雪は踊っている」の冒頭、「ゴリウォーグのケークウォーク」のトリスタン旋律と合いの手などでは多少滲んで聴こえるほうがむしろ存在感・雰囲気が出たりすると思ったものです。
前半、私にとっての白眉はシューベルト『即興曲第3番』でした。
私がもっともピアノのCDを多く所有している作曲家はシューベルトであり、即興曲集はD960の変ロ長調ソナタと並んで40種類余の演奏を楽しんできました。
しかし・・・
この日の多佳子さんのようにこの曲を弾いた人を知りません。
癒しの音楽として心地よく聴かせてくれる演奏はいくつもありますし、それぞれに得も言われぬ感興を催させられることは事実です。
シューベルトにフォーカスしてチューニングされたというこのピアノから溢れ出したのは、野太い祈り、静謐でありながらこのうえなく荘厳なコラールとでもいうべき地に足がついた天上の音楽でした。
あっという間にあちら側に連れ込まれて五感で受け止め・・・
後から思い直してあの体験をなんと表現しようかと考えたところ「魂のデトックス」という言葉が閃きましたが、要するに懺悔せずにはおれないみたいな気持ちにさせられたのです。
いや、参りました・・・
こんな演奏を「悪魔の悦楽城」のMCに続けて繰り出してくるとは・・・。
『即興曲第4番』はもう何度も聴いていますが、これもまたアッという間に終わってしまったと思えるほど入れ込んで聴いてしまって・・・。
でも、とにかくこの第3番には衝撃を受けて前半を終えました。
後半は多佳子さんをしていつも以上にナーヴァスにさせしめた新曲、ベートーヴェンの第3番のソナタから始まりました。
がんばりますから、とにかく聞いてくれという趣旨の解説がありましたが・・・
ミケランジェリやソコロフでも聴いていたこの曲から、「こんなベートーヴェンがあったか!?」という発見に満ちた興味深い弾きぶりで楽しく聴けました。
とりわけ第一楽章が目覚ましく、音の振幅ではかのハンマークラヴィーアもかくやと思わせるほどの曲だったかと思い至りました。
場面転換が巧みな多佳子さんのこと、ハイドンの疾風怒濤を思わせるようなところや、モーツァルトのチャーミングさを髣髴させるところなど、初期のベートーヴェンならではの初々しい側面をあえてコントラストを大きくとって演奏されていたのかな・・・と。
第二楽章もじっくりと、第三楽章も丁寧に、そして第四楽章は穏やかで自然に聴かせてくれて、この作品への想いがどんなものかを感じ取ることができました。
きっと思いっきり弾いてくれたんだと感じますが、これが寝てても弾けるほどに手の内に入って、件の大家のごとく自然と自分の歌としてあふれ出てくるまでになったとき、どんな高みの演奏が聴けるのか期待大です。
当方の予断をいつも超えてくれるアーティストには、予断のハードルを可能な限り上げて期待していないともったいないですからね。(^^;)
そして、しんがりのショパン2曲。
これを聴いてしまったがために、多佳子さんのベートーヴェンにはまだまだ高みがあると信じられる・・・それほどの演奏でした。
『ノクターン第8番』の出だしのアルペジオ、旋律が現れるまでにあたりの空気は一変して世界が変わります。
いつものことですが、それが高橋多佳子のショパン演奏では起こる・・・
全世界が「その世界」になっちゃうのです。
(トライエム時代の)CDの演奏からもいつとはなく感じられるものですが、生演奏のときにはその現れようが尋常ではない・・・「これが手の内に入るということか」と賛嘆させられる迫力があります。
それを「寝てても弾ける・・・」になったら、いったいどうなってしまうんだろうか、という感じです。
ちなみにオクタヴィアのCDではソリッドな音、CDならではの純度を高めたハイパーな音を志向されているように思えます。これは対象としての音楽を精緻に聴くには素晴らしいソースだと思います。
つまり、神懸かった技巧を針小棒大気味に再現して聴き手を驚嘆させることには効果的ですが、神懸かったアトモスフィアをスピーカーの前に現出させることには向かない音作り・・・と感じています。
現在の「優秀録音」のベクトルはこちら向きであることは否めないので、個人的にはいろいろ思うところはあれ、現代最高峰のトーンマイスターによる仕事であることを疑うものではありません。
話を戻して、『スケルツォ第3番』。
私は多佳子さんのこの曲の生演奏は2007年6月に池田町と八王子で続けて聴いています。
もちろん厳格にコントロールされてのことですが、八王子の演奏ではとどまるところを知らないかの如くの疾走感で聴衆の度肝を抜きました。
聴き終えたご婦人方が、あっけにとられたような顔で口々に「すごいすごい」と言っていたのを(自分の書いたブログ記事を見てですが)思い出したところです。
今回の演奏はずっと落ち着いたもの・・・でも、曲想はまさしく大家のそれとなっていました。
すこぶるつきの名演奏、恰幅もよく揺るぎない・・・それでいて高橋多佳子からでないと聴けないものがある。。。
いえ、ドヤ顔しようが謙遜しようが多佳子さんの場合関係ありません。
紡ぎだされる音のはたらきのめざましさは変わらない、彼女のショパンはそんな思いを抱かせます。
アンコールは『亜麻色の髪の乙女』。
カーテンコールで見せてくれる【地でいく】部分と、得も言われぬこの演奏・・・のギャップ。
気負いなく置く旋律の行きつく先の一音・・・がベーゼンの特性と相俟って、ハスキーに愁いを帯び、言葉にならないすべてを物語っている・・・
こんな瞬間を体験できるだけで、来てよかったなとつくづく思ったものです。
思えば、ショパン、ロシア物、リストにラヴェルにドビュッシーと多佳子さんの演奏を聴いてきましたが、シューマンを除いてはあまり独墺物を聴いてきていない・・・
でも実は、バッハを含めベートーヴェンにシューベルトと埋蔵金のごとくお宝が眠っているかもしれない、そんな思いを強くしました。
もちろんベートーヴェンへの期待が大きいことはいうまでもありませんが、多佳子流シューベルト演奏で、私のかなり確立しているかに見えるシューベルト観を打ちのめしてくれるに違いないと、またしても勝手な予断を楽しんでいます。
それは、今回の演奏中もっとも私が感銘を受けたのが『即興曲第3番』終盤の主旋律に添えられた微かだけれど、主旋律を際立たせるのに絶大な存在感を持つ音たちの献身であり、そのもっとも感動的な表現を聴いたから・・・です。
クラシック音楽の世界が豊饒であることに感謝するほかありません。
打ち上げの席で、ブラームスの作品118-2の話題が出ていましたが・・・これもたまりませんね、ぜひ聴きたい。
スクリャービンの幻想曲で旋律をあのように歌った多佳子さんですから、きっと萌えてしまうんじゃないかと・・・期待は膨らむばかりです。
終演後も暗譜の効用について伺ったり、興味深い話を聞かせていただきました。
リヒテルなどがコンサートにおける暗譜の習慣に一石を投じていますが、確かにそれで失われてしまう恐れがある「よんどころない緊張感」は演奏における生命線のような気がします。
心配なら楽譜を見て弾けばいいと建設的な提案をしているつもりではありましたが、「安心が気の緩みにつながりかねない」と言われれば、たいへんでしょうが頑張っていい緊張感の下、最高の演奏を聴かせてくださいというほかないのかな・・・と。(^^;)
そんな中で、「忘却曲線」の話なんかしちゃったりしたんで、まずかったなと思ってたりしますが・・・。
そうそう、スゴイ記憶力の持ち主・・・
ダニエル・バレンボイムによるベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲・ピアノ・ソナタのCD19枚におよぶ全集の話題を多佳子さんがしてくれました。
ロリン・マゼールも人間業とは思えないすごさ・・・だと。
私は、「バレンボイムはあれだけ多忙なのに手帳を持たないことで知られている人」と応じたのですが・・・
記憶力の加齢による低下に懸念を抱いていた多佳子さん・・・
あなただって、B型トリオの再来年1月の予定、同級生トリオの予定もそうですが、場所も日付もバレンボイムばりにしっかり頭にはいってたじゃないですか!
ですから暗譜もぜんぜん大丈夫ですよ・・・きっと。(^^;)
高橋多佳子ピアノ・リサイタル
《前半》
1.ドビュッシー :「ベルガマスク組曲」より、“月の光”
2.ドビュッシー :「子供の領分」 全曲
3.シューベルト :即興曲 第3番 変ト長調 作品90-3
4.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4
《後半》
5.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 作品2-3
6.ショパン :ノクターン 第8番 変ニ長調 作品27-2
7.ショパン :スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
《アンコール》
※ ドビュッシー :「前奏曲集第1巻」より、“亜麻色の髪の乙女”
(2012年11月18日 あづみ野コンサートホールにて)
行けてよかった。
あづみ野のみなさんに会えてよかった。
そして、多佳子さんの演奏を聴けてよかった・・・心からそう思える1日でした。
ワイドビューしなのの車窓から木曽路の紅葉を楽しんだのち、少々余裕をもって穂高駅に到着。
穂高神社で七五三の黄色い歓声のなか、ひとり息子のために合格御守を求め天神社をお参りしました。
心だにまことの道に叶ひなば 祈らずとても神や守らん (道真公)
なぜに世間の親がこぞって【受験生を抱えたときにかぎって】天神社を訪れずにおれないかぐらいお見通しでありましょうに、菅公もお人が悪い・・・
いや、菅公のせいじゃないというなら、神社の縁起にそんな歌を紹介しないでほしいよね・・・
などと思いつつ、いつもの道をコンサートホールへ向かいます。
生憎の少雨で壮観な常念岳は拝めず残念・・・
でも、犀川の中州ではシギが羽を休め、頭上ではトンビがクルリと輪を描いて、名も知らぬ鳥が誰のためでもなく美しい声でさえずっているようすを五感で感じながら深呼吸すると、自分自身が風景に溶け込み自然の一部だと実感できるから不思議です。
自分と自分と対峙するなにか・・・
普段は・・・パソコンに向かっているときなどは特に・・・そんな風にしか物事を感じ取れないでいるけれど、本当はそうではない。。。
「自分」という言葉があるから「自分」があると思ってしまうけれど、世の中にあるものすべてから名前を取っ払ってしまえば自分も相手もない世界、言い換えれば「すべてが自分の世界」が安曇野(だけじゃないけど)では体感できる気がするのです。
そしてそれは・・・
何かに時間を忘れて入れ込んでしまったり、ステキな音楽に聴き入ってしまったりしたときにも体感できること。
そんな時間過ごすことを期待して訪れ、そして満たされて帰ることができる・・・ありがたいことです。
ありがたいといえば・・・
ひとつのコンサートの裏側でどれだけの献身があるのかはそれなりに知っているつもりでおりますが、コンサートホール、調律、運営スタッフのみなさんに心から感謝申し上げます。
調律・録音・オーディオなどに関する興味深いお話などというレベルではない貴重なご垂示や、油揚げを裏返しにしたおいしいお稲荷さん、私が驚嘆するセンスのギャグにいたるまで、いろんなものを土産に持ち帰ることができ大満足でありました。
就中、はじめてあづみ野コンサートホールを訪れて6年・・・
ベーゼンドルファーのピアノがますます素晴らしい音に育っていることを実感しているのですが、その調律に関して伺ったお話では、今回はシューベルトにフォーカスし、作曲家・作品ごとの音域はもちろんピアニストのテクニックまで考慮して行われている・・・とのこと。
お話を伺えば「なるほど」と思えることばかりではありながら、その実現のためには、実は生半可じゃない技術と経験の裏打ちが必要であることは容易に想像がつき、それを当たり前に仕上げてしまうプロの仕事に感銘を受けました。
自分の仕事においても、かくありたいものです。
さて、主役の高橋多佳子さんですが、今回も素晴らしい演奏を届けてくれました。
ロイヤルトランペットさん流に今回の名言をご紹介すれば【地で行くピアニスト】でありましょう。
まさに地でいくピアニスト全開!
得難い感銘を与える演奏とのギャップがこれまた信じがたいのですが、それはひとえに聴き手を惹きつけずにおかない演奏の魅力の証左に他なりません。
インティメートな会場だからこそ、いつもながらの客席の後ろからの登場。
『月の光』では、冒頭のピアニシモはピアノの響・会場の空気を確かめるかのようなやや様子見の感もありましたが、クレッシェンドにつれていつものの世界へすーっと誘われ、流麗なアルペジオに乗っての旋律線の表現には早くも我を忘れた陶酔がありました。
これはベーゼンドルファーの特徴的な芯のくっきりした音、スタインウエイやヤマハなどに感じる付帯音やもれなくついてくると言いたいほどの残響が少ない特徴によるところも大きい・・・かもしれません。
『子供の領分』が、先月岐阜県の関市で聴いたときとの聴きくらべになったため、いっそう確信的にそう思えるのです。
「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の冒頭など明らかに多佳子さんは聴かせ方を変えているように思えたのですが、これもピアノの性格によるもの、それを生かそうとした技かもしれません。
音の芯がはっきり聞こえるということは、ピアニストの一音一音に対する思い入れがはっきり聞こえるということでもありますが、響や雰囲気でごまかせないということでもあると思います。
どのフレーズをとっても流されない丁寧なタッチにすごいなと舌を巻くと同時に、ピアノそれぞれの持ち味を生かして弾かないといけないからピアニストはタイヘンだと思ったり。。。
で、あくまでも自分の感想としては、関市のピアノと安曇野のベーゼンと比べると、関市の方が残響というか倍音のせいというか音が滲んでいるように響いていたように思われます。
それがいいとか悪いとかに直結しないのがまた不思議なところですが、ベーゼンの方がピアニストのストレートな表現が楽しめると思いつつも、「人形へのセレナーデ」とか「雪は踊っている」の冒頭、「ゴリウォーグのケークウォーク」のトリスタン旋律と合いの手などでは多少滲んで聴こえるほうがむしろ存在感・雰囲気が出たりすると思ったものです。
前半、私にとっての白眉はシューベルト『即興曲第3番』でした。
私がもっともピアノのCDを多く所有している作曲家はシューベルトであり、即興曲集はD960の変ロ長調ソナタと並んで40種類余の演奏を楽しんできました。
しかし・・・
この日の多佳子さんのようにこの曲を弾いた人を知りません。
癒しの音楽として心地よく聴かせてくれる演奏はいくつもありますし、それぞれに得も言われぬ感興を催させられることは事実です。
シューベルトにフォーカスしてチューニングされたというこのピアノから溢れ出したのは、野太い祈り、静謐でありながらこのうえなく荘厳なコラールとでもいうべき地に足がついた天上の音楽でした。
あっという間にあちら側に連れ込まれて五感で受け止め・・・
後から思い直してあの体験をなんと表現しようかと考えたところ「魂のデトックス」という言葉が閃きましたが、要するに懺悔せずにはおれないみたいな気持ちにさせられたのです。
いや、参りました・・・
こんな演奏を「悪魔の悦楽城」のMCに続けて繰り出してくるとは・・・。
『即興曲第4番』はもう何度も聴いていますが、これもまたアッという間に終わってしまったと思えるほど入れ込んで聴いてしまって・・・。
でも、とにかくこの第3番には衝撃を受けて前半を終えました。
後半は多佳子さんをしていつも以上にナーヴァスにさせしめた新曲、ベートーヴェンの第3番のソナタから始まりました。
がんばりますから、とにかく聞いてくれという趣旨の解説がありましたが・・・
ミケランジェリやソコロフでも聴いていたこの曲から、「こんなベートーヴェンがあったか!?」という発見に満ちた興味深い弾きぶりで楽しく聴けました。
とりわけ第一楽章が目覚ましく、音の振幅ではかのハンマークラヴィーアもかくやと思わせるほどの曲だったかと思い至りました。
場面転換が巧みな多佳子さんのこと、ハイドンの疾風怒濤を思わせるようなところや、モーツァルトのチャーミングさを髣髴させるところなど、初期のベートーヴェンならではの初々しい側面をあえてコントラストを大きくとって演奏されていたのかな・・・と。
第二楽章もじっくりと、第三楽章も丁寧に、そして第四楽章は穏やかで自然に聴かせてくれて、この作品への想いがどんなものかを感じ取ることができました。
きっと思いっきり弾いてくれたんだと感じますが、これが寝てても弾けるほどに手の内に入って、件の大家のごとく自然と自分の歌としてあふれ出てくるまでになったとき、どんな高みの演奏が聴けるのか期待大です。
当方の予断をいつも超えてくれるアーティストには、予断のハードルを可能な限り上げて期待していないともったいないですからね。(^^;)
そして、しんがりのショパン2曲。
これを聴いてしまったがために、多佳子さんのベートーヴェンにはまだまだ高みがあると信じられる・・・それほどの演奏でした。
『ノクターン第8番』の出だしのアルペジオ、旋律が現れるまでにあたりの空気は一変して世界が変わります。
いつものことですが、それが高橋多佳子のショパン演奏では起こる・・・
全世界が「その世界」になっちゃうのです。
(トライエム時代の)CDの演奏からもいつとはなく感じられるものですが、生演奏のときにはその現れようが尋常ではない・・・「これが手の内に入るということか」と賛嘆させられる迫力があります。
それを「寝てても弾ける・・・」になったら、いったいどうなってしまうんだろうか、という感じです。
ちなみにオクタヴィアのCDではソリッドな音、CDならではの純度を高めたハイパーな音を志向されているように思えます。これは対象としての音楽を精緻に聴くには素晴らしいソースだと思います。
つまり、神懸かった技巧を針小棒大気味に再現して聴き手を驚嘆させることには効果的ですが、神懸かったアトモスフィアをスピーカーの前に現出させることには向かない音作り・・・と感じています。
現在の「優秀録音」のベクトルはこちら向きであることは否めないので、個人的にはいろいろ思うところはあれ、現代最高峰のトーンマイスターによる仕事であることを疑うものではありません。
話を戻して、『スケルツォ第3番』。
私は多佳子さんのこの曲の生演奏は2007年6月に池田町と八王子で続けて聴いています。
もちろん厳格にコントロールされてのことですが、八王子の演奏ではとどまるところを知らないかの如くの疾走感で聴衆の度肝を抜きました。
聴き終えたご婦人方が、あっけにとられたような顔で口々に「すごいすごい」と言っていたのを(自分の書いたブログ記事を見てですが)思い出したところです。
今回の演奏はずっと落ち着いたもの・・・でも、曲想はまさしく大家のそれとなっていました。
すこぶるつきの名演奏、恰幅もよく揺るぎない・・・それでいて高橋多佳子からでないと聴けないものがある。。。
いえ、ドヤ顔しようが謙遜しようが多佳子さんの場合関係ありません。
紡ぎだされる音のはたらきのめざましさは変わらない、彼女のショパンはそんな思いを抱かせます。
アンコールは『亜麻色の髪の乙女』。
カーテンコールで見せてくれる【地でいく】部分と、得も言われぬこの演奏・・・のギャップ。
気負いなく置く旋律の行きつく先の一音・・・がベーゼンの特性と相俟って、ハスキーに愁いを帯び、言葉にならないすべてを物語っている・・・
こんな瞬間を体験できるだけで、来てよかったなとつくづく思ったものです。
思えば、ショパン、ロシア物、リストにラヴェルにドビュッシーと多佳子さんの演奏を聴いてきましたが、シューマンを除いてはあまり独墺物を聴いてきていない・・・
でも実は、バッハを含めベートーヴェンにシューベルトと埋蔵金のごとくお宝が眠っているかもしれない、そんな思いを強くしました。
もちろんベートーヴェンへの期待が大きいことはいうまでもありませんが、多佳子流シューベルト演奏で、私のかなり確立しているかに見えるシューベルト観を打ちのめしてくれるに違いないと、またしても勝手な予断を楽しんでいます。
それは、今回の演奏中もっとも私が感銘を受けたのが『即興曲第3番』終盤の主旋律に添えられた微かだけれど、主旋律を際立たせるのに絶大な存在感を持つ音たちの献身であり、そのもっとも感動的な表現を聴いたから・・・です。
クラシック音楽の世界が豊饒であることに感謝するほかありません。
打ち上げの席で、ブラームスの作品118-2の話題が出ていましたが・・・これもたまりませんね、ぜひ聴きたい。
スクリャービンの幻想曲で旋律をあのように歌った多佳子さんですから、きっと萌えてしまうんじゃないかと・・・期待は膨らむばかりです。
終演後も暗譜の効用について伺ったり、興味深い話を聞かせていただきました。
リヒテルなどがコンサートにおける暗譜の習慣に一石を投じていますが、確かにそれで失われてしまう恐れがある「よんどころない緊張感」は演奏における生命線のような気がします。
心配なら楽譜を見て弾けばいいと建設的な提案をしているつもりではありましたが、「安心が気の緩みにつながりかねない」と言われれば、たいへんでしょうが頑張っていい緊張感の下、最高の演奏を聴かせてくださいというほかないのかな・・・と。(^^;)
そんな中で、「忘却曲線」の話なんかしちゃったりしたんで、まずかったなと思ってたりしますが・・・。
そうそう、スゴイ記憶力の持ち主・・・
ダニエル・バレンボイムによるベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲・ピアノ・ソナタのCD19枚におよぶ全集の話題を多佳子さんがしてくれました。
ロリン・マゼールも人間業とは思えないすごさ・・・だと。
私は、「バレンボイムはあれだけ多忙なのに手帳を持たないことで知られている人」と応じたのですが・・・
記憶力の加齢による低下に懸念を抱いていた多佳子さん・・・
あなただって、B型トリオの再来年1月の予定、同級生トリオの予定もそうですが、場所も日付もバレンボイムばりにしっかり頭にはいってたじゃないですか!
ですから暗譜もぜんぜん大丈夫ですよ・・・きっと。(^^;)