goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

臨死体験と光の存在

2018-08-11 12:24:13 | スピリチュアル
30数年前、私が始めて"裏側"に足を踏み入れてしまった頃は、巷では覚醒体験とか、ほとんどそうした事象は認知されておらず、宗教的世界の一部で"回心体験"として知られている程度だったと思います。
それから数年後、90年代始め頃だったか、盛んに"臨死体験"のことが取り沙汰されるようになりました。
ああいう事というのは死に目に会わなければ起きないものと思われていたようです。
私の場合、ずっと高熱が続いていて、立っているのもやっとという状態だったとはいえ、"今わの極"という訳ではありませんでしたが、肉体感覚、思考機能がマヒし始めることなど、共通点もいくつかあると見てもいいでしょう。
臨死体験の研究者ケネス.リングなど"臨死なき臨死体験"として、健常者の体験報告も取り上げていますが、これは近年そうした事例が増加してきたことを物語っているのでしょう。
私がいくつかそれらの本を読んだことで、非常に共感を覚える点、"どうかな?"と感じる点ともどものことに触れてみたいと思います。
まず、多くの臨死体験者は"光の存在"との出会いについて語っています。これは多分私がしばしば現臨と呼んでいるものとつながりがあると感じざるを得ません。
それはいわく言い難いことを、便宜的に表しているものであろうし、あまり深入りする必要もないでしょうが、非常に具体的に描写的に述べられる場合もあり、少しく異なる感じも抱いているのです。
私自身は実際に光を見た訳ではありません。それはホントは存在論的に言い表すことは出来ないのです。
ただ、すべてが見透されている、照らし出されているという感じが光というものを、描写させることは何となく分かります。
そして我々は疑うことの出来ない"実在性"を強調する場合、その"存在性"に訴えるということも...少なくとも科学的な意見を要求される場においては特にそうならざるを得ないでしょう。
この事と関連して、もう一つの定番と言える"三途の川"や"トンネル"を渡る、通過するという体験についてですが、これは意識の変容のプロセスを言い表しているのでしょう。
そしてある場合は光の存在、別の場合は亡くなった縁者から"こっちに来てはいけないi 戻りなさいi"と諭され、この世に甦ることが出来るというのもお馴染みのパターンです。
これも私はイメージを借りた表現としても、そういう情景は見たことがありません。
そうした時空間を想起する領域を辿らされる、というよりもただ、目の真ん前が突如開いた、という感じでした。
要するにそのようにイメージして語ることが出来ない、ということなのです。
それで、聞き手が"それじゃ、話にならないよ..."とか言い出すんなら、無理に脚色して語るまでです。世にも恐ろしい裁きの場には、眩しくて見えない裁判官が居て、"すべてはお見通しだ、観念しろi"と迫られ、観念したら、そこはすべて許しの場に変わったとか、その都度違うことを言ってもいいです。(私はその存在から"戻りなさいi"とは告げられたことはありません。どうやらそれを決めるのは私次第だったようです)
ただ、この事だけは強調したい...現臨にしろ、光の存在にしろ、その体験のすべてはそのものの中で、そのものと共にあったことを伝えているということです。
多くの臨死体験者は、光の存在から"もっとも大切なことは愛と真理を学ぶことである"と悟らされることを語っています。
これは私にはそのものと共にあることと同義なのです。愛、真理、平安と現臨そのものは、切り離すことの出来ない、一つのものなのです。
臨死体験の報告には私見では、多分に現世的な思考、感情の投影が感じられますが、それらを貫いた一者の息吹というものも充分伝わってきます。
それは人生の表側、裏側を貫いてハタライているものに違いないでしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする