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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

文章は人を表す

2025-09-04 05:03:41 | 雑感
自分で言うのもおかしいですが、私が書いている文章には、私の心的傾向がよく表れているんじゃないかと思います。
一番典型的なものは、(...)というピリオドの三つ打ちと(!)という感嘆符を多用するところでしょうか?
(...)は、ちょっと精神的なことを話している時などでは、決まって言葉が一瞬途切れて、しばらく黙っている様子なんかを表しているのです。これは文章と文章の間に使うことが多いようです。
文末でもよく使いますが、余韻を持たしたりして、言葉で埋めるということはしたくないようなのです。(どうも他人行儀でヘンですが...そうそう、この括弧をつけるのも言葉を変節させたりしてるのですねえ...)だって、精神的なことというのは、特に言葉で言い表せないことばかりじゃありませんか?...だからそういう含みを持たせているのです。(三つ打ちには意味なんか無いですよ。幾つでもいいのです。ただ何となく、三つ入れないと何も始まらないような気がして...)
あと、もっと具体的に言えば、これは何かが降りて来て、言葉を切ってしまう...あるいは、そのように何かが降りて来るのを待つ、それにゆだねるような心持ちを表しているようなのです(又ヘン?)。
そうすると、(!)というのは、閃いた!、降りて来た!、ということを表しているのか?!...おおっ!、この(?)と(!)を並べるのもよく出て来ますねえ?...これはそのようではないか!...しかし、よお分からん!...と言葉で完結させてしまわないことを表しているのでしょう?
(!)というのは、“きりっ!“、とか“分かった!“と言い切りたい気持ちも表れているのですが、意味をボカして、(...)という意味を見えない世界に消し去ってしまう、というような意味を含んでいるようです(ヘン?)。
な~んて、そんなに難しい意味なんてホントは無いのかもしれません。
ただ、文章に余韻を持たしたりして、あるリズムを作ろうとしているのかもしれません。
平板な言葉だけがだらだらと続くような文章は、読んでいても面白くありません。切ってしまいたくならないですか?...まあ、人の好き好きですけど...
演奏なんかでも、ドラムが“ストトン、スタスタ“と打って、スティックだけ持って、無音を打つようなことをするでしょ?...あれは何か思いを超えたもの、そういう展開になるようなことが降りて来るのを待っているのではないだろうか?
聞こえる音というのは、それだけで成っているのではなく、そこには無音が隠されているのではないか?
同じように、書き表される言葉には言葉を超えたもの、思いを超えたものが隠れているのです!(きりっ!)
?...そうかな?
又、難しくなってきて、よお分からん!
要するに文章というのは、その人を表すものなんだ!...(面白いような、コワイような?!...)
だから、私という人間は、我ながら“よお分からん“...ってことなんでしょう?!...



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このブログは私の思いを超えている!

2025-09-03 05:01:16 | 雑感
ブログ開設して今月で11年...
あっという間、いつの間にかというのが実感です。
人生でこんなに続けたものなんか無かったし、訪問者数が100万を超えているなんてこともずっと日陰で生きて来た私にしたらあり得ないこと...私の思いを超えたことですよ。
こんな何を書いているのか、捉えどころの無い内容ばかりにも関わらず...
しかし、私自身にとってはある時から、その中心となる、書いてゆく上での道標のようなものが与えられるようになりました。
それは、自分でこうしようとしたものでなく、正に私を超えたものから与えられたものだったのです。
そのことを私は何回ここで書いたことだろう!...そう、こうして書いているだけで、そくそくとその超えたものの現臨を感じるようになったということなのです。正にそれについて記していると、必ずといっていいほどそうなる!(正に今の現実!)...書くのを促すようにも!
最初はそんなことは...無かったですねえ!...これは多分、その11年前の暮れ、その現臨、神の手に捉えられ、思考機能、為そうとする意志想念も失い、至福のその時間が止まったような意識状態に導かれた辺りだったと思います。
何を書こうかというよりも、勿論そう意図して書くこともあるのですが、その根っこの方にはそういうものが息づいているのです。
それがこのブログの命なのです。いや書くことが命と言ってもいいのです!
誰にこの言葉に言い表せないことが伝わるかは知る由も無いですが!...
しかし、それもこのグーブログでの投稿期限は、あっという間に後一月を切るという事態に!(グーの運営者方には、こうした場を与えられたことに感謝するしかありません)
この先のことはまだ何も考えていないのですが...だから気がついたらそんなことが迫ってる訳なんだ!...
こうして長く続けてきて、書きたいことは大体書いてきたようにも思うのですが...そくそくと“これ“が私の実存に迫ったら、促しを受けたらどうするんだ!...それは何回あっても、毎回が新たなる命の恵み、気付きに与ることではないのか!
又、たとえ100万超の読者が居られても、たった一人でも共感、共鳴をして下さる方が居られたら、続けて行きたいという気持ちは今でもあります。
ただ...他社に移行するにしても、そういうことに全く疎い私には、ただただメンドクサイな、と感じる訳で!...ただでさえもメンドクサがり屋とキテます!
どうかこういう(ああいうのとは別にしても)私の思いを超えたものが、働くことを願いつつ、ぼちぼちそっちの方を進めたいと思っている次第なんであります。...
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感謝しなければなりませんか?

2025-08-28 04:34:10 | 雑感
幸福であることは、自然に感謝の思いが溢れてくるものです。
何に対しても有難~い気持ちになる。感謝の心から幸福に導かれるものでもあります。
ところが...宗教団体なんかに関わると、団体によっては“感謝しなければなりません!“とそれを強要するような教えに付き合わされたりするものです。
私が昔入っていた団体では、利他愛だとかと共に、これをしょっちゅう聞かされまして、それが本当にイヤでなりませんでした。
有難くもないのに何で感謝しなければならないのか?...内心はそういう思いが渦巻いていたのですが、でもそうしないと、その教えに従わなければ救われないのか?、という表層の思いとが交錯し、それが余計に精神的な負担となったのでした。
感謝することは、愛することと同じで、自然に、自発的に表れるものなのであって、作為的なものが入ると実に本来の人間精神を歪めることになるでしょう。
愛する人から、“あなたはもっと私を愛さなければならない!“、“好意に対して感謝しなければなりません!“、などと言われたら一辺にその愛は冷めるのは必定です。まず、あらゆる人間関係は、これでこじれると言っていいでしょう。
だから、宗教のそういう教えは、多く人間精神を分裂させ、偽善者を作り出すものなのです。“あー、イヤだ、イヤだ!“...それは感謝の心を殺すものでしかないではないか?
といって、我々は忙しくしていたり、利己的な思いに囚われたりしていると、感謝の心に気付かず、忘れ勝ちになるものです。それでも感謝を強要される理由など無いですよ。先の通り、感謝は自然な発露によらなければ生きないものです。
では、他からのそういう強要ごとからでなく、自発的に思えばいいのだな!、つったって、思おう、思おうというのは、もう作為的になってるじゃありませんか?
それに、“思っているだけじゃダメだから、行為に表さなければいけません!“、という誰かの声も聞こえて来るぞ!
出来ません!...もう、イヤだ!、こんな思いのがんじがらめ地獄!...幸福に与るものが何でこんな地獄的な思いに苛まれなければならないのか?
ですから、思わんでも、出来んでもいい!...
ただ、ちょいと意識していたらいいのです!
普段、有難い、愛していると思っているものなら、自然と意識が向けられるのです。ここから開かれる!
特別、そういう対象となるものが無くても、ちょいと意識すれば、生かされているだけでも有難く感じられないでしょうか?
私なんかは、ほら、その有難いものが現存、現臨して来るじゃありませんか?
そうなると...あ、外では秋の虫の声が!...明るくなって来たら小鳥のさえずりが!
そこから、あらゆるものに感謝の思いが向けられるようになる!
そういうものに、言葉だけの、内実の伴わない感謝など要らない!
あの感謝の圧が物言う世界は、私には遥か昔の封建社会にしか思えません。
これほど閉じた世界と開かれた世界の在り様の違いを、くっきりと映し出すものは無いでしょう!...




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絶望から開かれる

2025-08-11 06:47:28 | 雑感
確か私が高校二年の夏頃のことでした。
私はとても自意識過剰な性格で、劣等感が強いくせにやたらとプライドも高く、常に人からどう見られ、思われているかということに囚われているようなところがありました。
そうです。“ありのままの自分を受け入れる“、といつもここで書いていることとは程遠い人間だったのです。
そういう性格は今だってあるのですよ。ただ当時と違ってそのことを自覚しているつもりです。ですから、そうであるならばその自分を受け入れたらいいんだ、とまあ、こういうことを言っている訳なのです。
で、その時友人と話していて、何からそうなったのか忘れましたが(大したことでないのは確か)、口論となり、そいつからズケズケと言いたいことを言われ、メチャクチャ、プライドを傷つけられて、とても絶望感に襲われ、全心身がワナワナと震えてきて、立っていることが出来なくなり、路上にしゃがみ込んでしまったのでした。“う、う、うっ...僕の人生はもう終わった!“みたいなことをうめいて!
しかし、正にその時のことでした。私の身体に何か空洞のようなものが生まれ、そこに上から下から風が吹き抜けていったような感覚を覚えたのです。そして喩えようのない解放感、幸福感に与ったのです。“僕は、一体何に囚われ、何にと戦っていたのだろう?!“...
絶望に感じたことは、それで自分の何かが終わる訳では無かったのです。それは至福に導かれることと裏表のようなものだったのです。
このことは、私の小さな覚醒体験と言ってもいいでしょう。しかし、意識的になっていなかったので、それは深められることなく、一夏の体験として過ぎ去って行っただけなのでしたが...
人は、不如意な事態に見舞われると、苦悩を背負い込み、それがいよいよ高じて来ると、絶望感を抱くようになります。
“もう、絶望だ!、オシマイだ!“と。...しかし、そう思っているだけだったら本当に絶望し、終わりになる訳では無いのです。そうなるのはとても不幸なことかもしれませんが、本当に“思いを超えて“落ちるようになった時が、闇が光に変わり、幸福に与ることに開かれるかもしれないのです。
何が幸福で何が不幸であるかは分からないのです。自分のことですらそうなのですから、人の幸、不幸のことは尚更です。他人の人生は私には預かり知れない!
勿論、先のように災い転じて福となるように導かれるとは限りません。本当におしまいになって、死につながることにも陥ってしまうかも分かりません。
しかし又、死んだらそれで終わりになるかどうかも分からないのです。(そこで安易に“人間は肉体は滅んでも霊体として永遠に生き続けるのですよ“、という他人の教説を信じることで、分かったつもりになってしまったら、自分自身の実存的な問題として、直接経験として知る、与ることにはならないですよ!)
一つ言えることは、苦しみ、悩み、不幸を感じるということは、思いを通して感じているということ...思いが苦しんでいるということです。
その思いの頸木から解放されることが幸福に与ることにつながるということなのです。
その契機は、思い、為そうとする自分からは開かれません。得てして絶望の極みから開かれるものでしょう。
その瞬間、手を放させられ、自分を超えたものにゆだねざるを得なくなります。
そういうことでなくとも...人生のことも世界のことも、本当には考えている自分からは分からないのです。
分からないことは、超えたものにゆだねるしか無い!
絶やすく人生に絶望し、“もう、終わり!“と決めたがる世の人よ、人生にはかくも裏側の世界があなたの思いを超えて広がっているではないか?...


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私だけの幸福は無い

2025-08-09 05:06:57 | 雑感
つい最近読んだ本の中にこんな意味の言葉がありました。
「自分以外の人間がみな不幸である中で、自分だけが幸福であるような世界があれば、そこは地獄となるだろう」
実に心に刺さる言葉だと思うのですが、それが何の本だったか...“アラン(フランスの哲学者)の「幸福論」だったかなあ?“...思い出せないのです。その先人に対して相済まない気持ちなのです。
世界には、戦争や災害などで自由に生きられない人間が沢山居るのに、私だけ幸福に与っていていいのだろうか?、と思う人も居るだろうし、私もそう思ったこともあります。
しかし、少し現実的になって感じてみて下さい。自分だけ幸福であることなどあり得ることでしょうか?
自分が幸福である状態というのは、他者との(人間であるとは限らない)何らかのつながり、調和を感じていることなのではないでしょうか?
私はここで、自分だけ宝くじが当たった、というような話をしているのではありません。偶発的なことでなく、自然に自分の中から感じられる本来的な幸福のことを言っているのです。
自分がそれを追い求め、獲得してゆくようなものでなく、正に与るような幸福であれば、良いも悪いも無く受け入れるしか無いのではありませんか?
又、何が幸福で不幸であるかは、人によって感じ方は違います。他者の生のことは本当は分からないのです。身近な人間の幸、不幸のことでもそうなのに、まして情報を通じてしか知り得ない世界の人たちのことなどどうして分かり得るのでしょうか?
自分の感覚だけで人の幸、不幸を生そのものを判断してしまうのは、実に僭越なことと言わねばなりません。
そういう風に感じてしまう人は、自分自身、他者からの不幸な感情に影響されて、中々自分が幸福に感じることが出来ないようです。それでも人々の、世界人類の幸福、平和になることを祈るという人も居ます。
自分が幸福に感じられないのに、どうして他者の、世界人類の幸福のことが分かるのでしょうか?
それでいて、人々から、世界から不幸な事態を無くしたい、という気持ちが強いようです。
私は近所で飼い主が居なくなって、エサを求めて鳴いている猫一匹救うことは出来ません。(一匹だけかと思ったら、ゾロゾロと一族がワンサカ出て来た!、こりゃ私の手には負えない!)それは、私がどうこう出来ることでは無いのです。(自分が出来ることを何かやってみるのは、勿論いいでしょう)
「世界平和の祈り」のように祈ることは出来ますよ。その祈りに限らず、いつも言うように祈れば幸福に、平安に与ることが出来ます。悪いですか?
自分の幸福だけを祈っている訳ではありませんよ。先のように自分(“だけ“ではない)が幸福に感じられるということは、“自他のつながり“というものがそこに含まれていることなのです。
世界には不幸に見えるような事態が沢山ある。私は直接そういうことに直面していないので、いつも幸福に感じられるのかもしれない。いつそれが打ち壊されるとも限らないが...
それでも、私がそれに与れるのなら、良いも悪いも無く、受け入れるしかありません。
何故ならば、そう在らしめるものがあるからです。そのものが在る!
それをどう受けるか、受けないかは人それぞれです。しかし、そのものが我々の根底に息づいているのを感じられるのなら、自分の人生も世界も、見たまま、思われたままでないように感じられて来る...かもしれない。
私の祈りは常に、そのものがいよいよ顕わになることに向けられています。
そのもの無しには、私の幸福も、隣人の幸福も、世界人類の平和もあり得無いのではありませんか?


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