自分で言うのもおかしいですが、私が書いている文章には、私の心的傾向がよく表れているんじゃないかと思います。
一番典型的なものは、(...)というピリオドの三つ打ちと(!)という感嘆符を多用するところでしょうか?
(...)は、ちょっと精神的なことを話している時などでは、決まって言葉が一瞬途切れて、しばらく黙っている様子なんかを表しているのです。これは文章と文章の間に使うことが多いようです。
文末でもよく使いますが、余韻を持たしたりして、言葉で埋めるということはしたくないようなのです。(どうも他人行儀でヘンですが...そうそう、この括弧をつけるのも言葉を変節させたりしてるのですねえ...)だって、精神的なことというのは、特に言葉で言い表せないことばかりじゃありませんか?...だからそういう含みを持たせているのです。(三つ打ちには意味なんか無いですよ。幾つでもいいのです。ただ何となく、三つ入れないと何も始まらないような気がして...)
あと、もっと具体的に言えば、これは何かが降りて来て、言葉を切ってしまう...あるいは、そのように何かが降りて来るのを待つ、それにゆだねるような心持ちを表しているようなのです(又ヘン?)。
そうすると、(!)というのは、閃いた!、降りて来た!、ということを表しているのか?!...おおっ!、この(?)と(!)を並べるのもよく出て来ますねえ?...これはそのようではないか!...しかし、よお分からん!...と言葉で完結させてしまわないことを表しているのでしょう?
(!)というのは、“きりっ!“、とか“分かった!“と言い切りたい気持ちも表れているのですが、意味をボカして、(...)という意味を見えない世界に消し去ってしまう、というような意味を含んでいるようです(ヘン?)。
な~んて、そんなに難しい意味なんてホントは無いのかもしれません。
ただ、文章に余韻を持たしたりして、あるリズムを作ろうとしているのかもしれません。
平板な言葉だけがだらだらと続くような文章は、読んでいても面白くありません。切ってしまいたくならないですか?...まあ、人の好き好きですけど...
演奏なんかでも、ドラムが“ストトン、スタスタ“と打って、スティックだけ持って、無音を打つようなことをするでしょ?...あれは何か思いを超えたもの、そういう展開になるようなことが降りて来るのを待っているのではないだろうか?
聞こえる音というのは、それだけで成っているのではなく、そこには無音が隠されているのではないか?
同じように、書き表される言葉には言葉を超えたもの、思いを超えたものが隠れているのです!(きりっ!)
?...そうかな?
又、難しくなってきて、よお分からん!
要するに文章というのは、その人を表すものなんだ!...(面白いような、コワイような?!...)
だから、私という人間は、我ながら“よお分からん“...ってことなんでしょう?!...
一番典型的なものは、(...)というピリオドの三つ打ちと(!)という感嘆符を多用するところでしょうか?
(...)は、ちょっと精神的なことを話している時などでは、決まって言葉が一瞬途切れて、しばらく黙っている様子なんかを表しているのです。これは文章と文章の間に使うことが多いようです。
文末でもよく使いますが、余韻を持たしたりして、言葉で埋めるということはしたくないようなのです。(どうも他人行儀でヘンですが...そうそう、この括弧をつけるのも言葉を変節させたりしてるのですねえ...)だって、精神的なことというのは、特に言葉で言い表せないことばかりじゃありませんか?...だからそういう含みを持たせているのです。(三つ打ちには意味なんか無いですよ。幾つでもいいのです。ただ何となく、三つ入れないと何も始まらないような気がして...)
あと、もっと具体的に言えば、これは何かが降りて来て、言葉を切ってしまう...あるいは、そのように何かが降りて来るのを待つ、それにゆだねるような心持ちを表しているようなのです(又ヘン?)。
そうすると、(!)というのは、閃いた!、降りて来た!、ということを表しているのか?!...おおっ!、この(?)と(!)を並べるのもよく出て来ますねえ?...これはそのようではないか!...しかし、よお分からん!...と言葉で完結させてしまわないことを表しているのでしょう?
(!)というのは、“きりっ!“、とか“分かった!“と言い切りたい気持ちも表れているのですが、意味をボカして、(...)という意味を見えない世界に消し去ってしまう、というような意味を含んでいるようです(ヘン?)。
な~んて、そんなに難しい意味なんてホントは無いのかもしれません。
ただ、文章に余韻を持たしたりして、あるリズムを作ろうとしているのかもしれません。
平板な言葉だけがだらだらと続くような文章は、読んでいても面白くありません。切ってしまいたくならないですか?...まあ、人の好き好きですけど...
演奏なんかでも、ドラムが“ストトン、スタスタ“と打って、スティックだけ持って、無音を打つようなことをするでしょ?...あれは何か思いを超えたもの、そういう展開になるようなことが降りて来るのを待っているのではないだろうか?
聞こえる音というのは、それだけで成っているのではなく、そこには無音が隠されているのではないか?
同じように、書き表される言葉には言葉を超えたもの、思いを超えたものが隠れているのです!(きりっ!)
?...そうかな?
又、難しくなってきて、よお分からん!
要するに文章というのは、その人を表すものなんだ!...(面白いような、コワイような?!...)
だから、私という人間は、我ながら“よお分からん“...ってことなんでしょう?!...